8(裏)

 消えたか。
 ……そっと手を離す、ぼくの愛らしいお耳がぷにゅんっと元の形を戻すにつけて、庭へと足を投げ出すように腰掛けるサボテン女がこちらを向く。消えたか、と問うと、こくりと頷いた。それから顔を戻しつつ、人には聞こえない小さな声で、言う。
「素直だ、お前は」
「何が」
「二人が付き合っていた話になると必ず耳を塞ぐ」
 「二人が付」のあたりでまた素早く耳を塞いだのだが、ぼくの聴力が良すぎるばかりに、塞いだくらいですべての音をシャットアウトすることはできない、というか殆んど意味を成さない。ふっとサボテンは嘲笑った。感じが悪い。この感じの悪さが年々悪化している気がする、だんだん飼い主に似てきているのではないか。
「素直」
「悪い事ではない」
「素直リン」
「マァァァァァリオだっつってんだろうがッ!」
 突如、縁側の縁を蹴ってサボテン女は跳躍した。ぼくの怒れるまま発した水鉄砲をそうやって軽々避けて、空中で軽く身を捻り庭へと華麗に着地。鼻を鳴らしながらぼくを見る。ぐぬぬ。戦闘経験の差というのはぼくとこいつとの立ち位置を定める非常に厄介なウィークポイントだ。
 風が唸る。庭の植込みが騒いでいる。目の前で相談していた男が消え去ってきょとんとしていたマスカへ、例の青竜が、もー元気でたの、と鳴く。元気出たならおれとあそぼ、と。……その向こうで繰り広げられる三年前の珍事に関する話が耳について仕方ない、仕方ないが、敢えて無視だ。三日で云々。あの時の怒りがよみがえ、いや無視だ無視。思い出して怒り狂ったところで何の生産性もないというのは、ここ数年で嫌と言う程学んだ。
「素直と言うか、真実だ。あれは悪夢のような間違いだ。ぼくとカナとは、お似合いなんだ」
 月が明るい。電灯の照らす背後の明るさにも押し負けない程度の月光に、ゆっくりと戦闘態勢を解くサボテンの姿が浮かび上がる。その月色の瞳が見据える。或いはからかい挑発するような、或いは詮索するような、鋭い眼差しで。
「カナを幸せにする、それこそがぼくの生まれ持った使命だ。そしてカナは、ぼくと一緒にいる事で最も幸せになることができる。それを確信しているから、ぼくは常にストレートでいられるんだ」
「愚直だ」
「うるさい陰湿歪曲女」
「いや、愚かだ。お前はあの女を最も幸せにできる生物では在り得ない。種族の違いが大きすぎる。子孫さえ残せない、満足に意思の疎通もできない者が、最大の幸福など与えられるものか」
 顔色一つ変えず、平坦な口調が、淡々と言う。ぼくは足を踏み鳴らす。
「それがなんだ、言葉が通じないから、子孫が残せないから、それが弊害だって言うのか? お前が子孫を残すことが人生における最大幸福だと考えているならば、非常に古代的な生物だ」
 タンタンと、踏み鳴らしながら。青竜と、マスカと、片耳のない水色の獣が、きょとんとぼくを見つめている。……フッと笑うと、サボテン女は力を抜いた。元の縁側にひょいと腰掛け、月の席巻故に銀砂の疎らな夜空を見上げる。
「よくも飽きずに、毎年同じことを言う」
「毎年同じ事を言わせているのはどいつだ……」
 呆れた顔をして、そろそろと近づきながら、ぼくはそいつの隣に腰かけた。
 見上げる。ぽっかりと月の佇む夜。ハヅキが戻ってきて、マスカがぽよぽよとそっちに近づいていく。眠たげにふらつく言葉に、カナの明るくて、でも優しい、柔らかな毛布のような声。もう寝ちゃおうね、と。夜用のあの声を聞かされると、いつも、ひどく安心する。そのたびに、自分の声で、この人を、安心させられたら――と、強く、願い、強く、誓う。
「ぼくはカナを守るためにここにいる」
 ギョロリと黄色の目玉だけ、サボテン女はこちらに寄越した。
「そしてぼくが傍にいることで、カナを最大限に幸せにできる……それを証明するために、ぼくは傍にいるんだ」
「馬鹿だな、お前」
「馬鹿なもんか」
「それでお前は幸せか」
「カナが幸せなら幸せだ」
「それはめでたい脳みそだな。わたしは、そこまで、めでたくはなれない」
 溜め息をつくようだった。少し離れた場所に留まっている鳥が、ふふ、と声を零す。
「……お前も、十分めでたいぞ。サボテン女」
 言うと、またフッと笑った。ぼくも、ニヤリと笑う。
 ぼくは、多分、こいつが好きだ。
 ……いや、好きって言うか、違う、違くて、そうじゃなくて、いや待って違う、違うのだ。好きじゃなくて。気に入っていると言うか。気に入ってるっていうか気に入ってるんじゃなくて好きじゃなくてなんっていうか気が合うって言うか、友達って言うか、友達じゃないんだけど、友達じゃなくて理解者って全然理解してないけど、何というか。何というか。いやカナが好き、カナが一番好きなのだけどそれは勿論なのだけれど、カナが一番好きなのだけれど!
 ぼくは一番がカナすぎて、友達というのにほとほと関心がない。そもそもハシリイという町に溢れ返っているマリルという生き物は、どいつもこいつも子供じみた輩ばかりだ。高尚なマリルは町中探してもぼくだけである。話をするたびに本当にげんなりする。それに引き替え、このノクタスは――一年に一度、数日しか顔を合わせないし、会うたびに程度の低い煽り合いを繰り返す(一方的とは認めない)訳であるが――、そういう連中とは、少し違う。透き通った頑固な視線で、ヒトの見えない心の内を、常に見定め続けている。初めて会った時から、そういうのが、ぼくは、凄く気に入った。その視線が、ある種ぼくがカナを見るのと似た色を孕んでいるのだとは、正直、ちっとも思っていなかったが。何故なら、こいつは、三年前のあの時――
「リナ、もう寝るよ」
 背後から人の声が掛かる。あの男の連れなのだという金色の毛をした人間だ。甘ったれた発音で仕方ないわねと言いながらそれに近づいていく水色の獣をよしよし撫でて、顔を上げた。サボテン女と、水色にオヤスミと尾を振っている青竜と、外を見つめて動かない鳥を順に見て。
「ハリたちは、どうする? お師匠様が帰ってくるまで待ってる?」
 問われると、三者三様に頷いて返す。人間は満足そうな、けれどもやや寂しげな笑みを浮かべて、じゃあ先に寝てるね、と水色を連れて去っていった。青竜がしつこく尻尾を振り回す。……いつの間にハヅキも寝室に入ったのか、ぼくたちの背後にいる人間はカナだけとなった。また椅子に腰かけて、すっかり温くなっているはずのビールをグラスに注ぐ。それを無言に飲みながら、不意にぼくと目を合わせた。グラスから口を離して、にっこりと笑いかけてくれる。ぼくはそれににっこりを返して、それからサボテン女に向き直した。
「ぼくはカナを愛している」
 聞き飽きた、と言いたげに、外の景色だけ目に入れながら彼女は緩く頷く。
「ああ」
「ぼくはカナを幸せにしたい、ぼくがいることで幸せだと、カナにいつも感じて欲しい……」
 腕に力を込める。こういうことを語れるのは、このサボテン女だけなのだ。
「恋人と言うのは、非常に魅力的な地位だ。それに憧れることもある……けれど、もし、例えば、カナがその人と一緒になることによって、カナの幸福度数を上昇させうる魅力的な人間が……カナの前に現れたのなら」
 サボテン女が、青竜が、鳥が。高く宣するぼくを見やった。
「ぼくは、そいつとカナをよろしくくっつけてやるために、最大限の努力をしよう」
「……言い切れるか? 『嫉妬深く、わがままな』お前が」
「言い切れる。言い切れるさ。なぜなら、それが――」
 思わず漏れる笑み。背後にカナがいる、聞こえやしないのに、目の前で言えるのが、なんだか異常に堪らなかった。
「それが、ぼくの『愛するロマンチシズム』だ」







 
 
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