声が残っている。
 目覚めて、白い天井をまた眺めながら、ミソラはぼうっとしていた。
 遠くに喧騒が聞こえる。この家にいるだけの人数ではない。多分、玄関の向こうだろう。ミソラのいる部屋はひっそりしていた。リナさえいない。昨日と同じく、隣で寝ていたはずの人は、そこには何もいませんでしたよ、とでも言うようにひとつの痕跡も残していない。
 気怠くて、起き上がる気にもなれなくて、暫く横たわっていようと決めた。目を瞑ると、不意に蘇ってくる。夢の中で見た景色。――本当は、どこにいて、どんな色をしていたのかも、いまいち分からないのだけれど。
 結構つらいな、と呟く。誰にともなく。目を開けた。自分の動きや感覚が、現実に引き戻してくれることを期待して、両腕を上に突き出して、手を握ったり、開いたり。
 ……さっきまで、この手は、何かを握っていなかったろうか。
 そんな考えが、頭をよぎった。
 奇妙な発想。けれど、夢の中での出来事を、それ以上思い出す努力なんてしたくもなかった。はーっとため息をつく。つらい。確認するようにもう一度口をついた。体も気分も重い。ヴェルと同じく、『夏バテ』だろうか。そうじゃない、と知っているのは、多分自分が一番だけれど。
 見ていたものも、触れていたものも、すぐに薄らいでしまったけれど、耳に貼り付いた短い響きは、まだまだ奥に残っていた。
「……『許さない』」
 五文字。夢の中の、あの人の声。それを、自分のもののように、小さく零す。
 でも、一体誰を? ――分からなくて、ミソラは伸ばした手を折って、顔を覆った。





「あっ、とーやくんのハリ、いたよ」
 そう言って突如駆け出すハヅキの奔放に、ミソラは引き摺られるばかりであった。
 賑やかだ。とにかくそう思う。ココウの中央街だって昼間は相当の人波が流れているけれど、それとは質が違う。高揚感とか、慌ただしさとかが、もう、全然、違う。それらは全て、明日に迫った『水陣祭』の準備の為の人だかりだろう。屋台の設営に追われる人々へ絶えず視線を奪われながら、一昨日は閑散としていたあの噴水の公園を、四つの影はちょろちょろと進行していった。小さいのと、その手を引く一際小さいの、そしてそれらに纏わりつくようにまた二つ。ルリリとニドリーナだ。
 一昨日と同じくなみなみと水の張られた噴水の際に、ノクタスのハリは一人で突っ立っていた。名前を呼ぶと、こちらを向いて、ぱちくりと瞬き。それから軽く頷くようにした途端に、その後ろから青の小竜が、わっと勢いよく飛び出してきた。
 ハリの目の前に行儀よくお座りしたリナへ顔を近づけながら、ガバイトは人混みにも構わずにぶんぶんと尻尾を振る。ハリが後頭部を殴ってたしなめた。
「ハリ、えっと」「とーやくんどこ?」
 そわそわと身を動かすハヅキの食い気味にもハリはのそりと頷くと、顎で指し示すように、噴水の真ん中へ顔を向けた。
 それから、顔を上げた。――櫓というのが、これなのだろうか。丸太を組んで作られた塔のような建造物が、噴水の中央からにょっきりと空へ生えている。足にはひたすら梯子が掛けられていて、天辺の三角屋根の直下にだけ、数人で満杯になりそうな狭い足場が存在した。
 高さ十メートルほどのその舞台に、トウヤは確かに立っていた。右手にやたらと縦に長い提灯のようなものをぶら下げたまま、一緒にいる派手な格好をした少年二人と話をしている。その片割れの、男にしてはやや長めの髪を後ろで結って、涼しげな印象の瞳は眼鏡の奥に隠さず、低い手すりに体重を委ねながら腕を組んでいる異常に格好良い少年が、すなわち――昨晩碁の打ち方を教えてくれたあの少年であることに気付いて、ミソラは相当驚いた。
 案山子草は視線を送り続けるのみなので、ハヤテがギャッギャッと鳴いて主人を呼んだ。お祭りの接近に浮足立つ喧騒の中では、そんな高いところに声は届きはしなかったけれど。すう、と息を吸う音が、ミソラとハヅキの両方から同時に聞こえた。
「おししょ」「とーやくううううぅぅぅーんっ!」
 殆んど絶叫に近いような幼子の声が、広い公園に轟いた。……一瞬しんと静まり、ところかしこから失笑の聞こえた真ん中で、振り向いたトウヤも恥ずかしげな苦笑を浮かべた。


 カナはどうした、という当然の問いに、ミソラは首を傾げるしかなかった。男二人はミソラが起きた時には既に不在で、姉妹と慌て目に朝食を取らされた後は、トウヤたち公園にいるからはぁちゃんと行っといで、と半ば無理矢理追い出されたのだ。そう説明すると、櫓の設営で早朝から駆り出されていたらしいトウヤもエトも何か解したようで、それ以上そこには触れなかった。
 設営は大方終了して、後は飾り付けみたいなことをやっていくらしい。会いに行ったって特別構ってもらえるとは思っていなかったのだが、一旦姿を消したトウヤは休憩を貰ったと言いながらすぐに戻ってきて、何かぶつくさ垂れているエトも一緒に引っ張って、人混みから外れた場所へと子供たちを誘導した。
 ベンチに座りながら、横目で窺う。――エトさんって、こんなに、かっこよかったっけ。軽く前髪を払いつつ左隣に腰かける彼が、家での気取った印象とはまた一味違っていた。都会的だがやぼったかった長髪も結い上げればむしろシャープで、色の白さも相まって彼の逸脱したクールさを際立たせている。青と黒を基調に金糸をあしらったお祭り装束、また華美な鉢巻さえも似合っているし、眼鏡を外したことによる『貴重』感もプラスされていると来たから、もう一段と光り輝いて見えた。ココウの知り合いにそういう類いの美男子が見当たらないことも、イメージを後押ししている要因なのだろう。とにかく、かっこいい。……別に、息をつきながら右隣に腰かける『ココウの知り合い』がかっこわるい、と言っているのではなくて。相変わらずリグレーのテラを首元にひっつけているトウヤは今日も見慣れないシャツを着ていて、急いでいたのか包帯は巻いていない。
 おにいちゃん今日かっこいいね、とミソラの思っていたそのままを口に出しているハヅキの前で、当然だろ、みたいな顔をエトはしている。対してトウヤは妙に冴えない顔つきで、重みを取り払うように額を擦っていた。ミソラが目を合わせると、寝不足かな、と首を捻る。
「昨日、あの後すぐに戻ってこられなかったんですか?」
「あの後……」
「テラに飛ばされた後」
 リリリィン、とテラが尻を跳ねさせながら答える。なぜ飛ばされたのかまできっちり回想したようで、肯定しながら男は肩を竦めた。
 カナの奴、あれ以上何も言わなかったろうな、という彼の潜めた尋問に、ミソラはアハハと笑うしかなかった。嘘がつけない。――『忘れられない人』ってどこの誰なんですか、と聞きたくて聞きたくてしょうがなかったけれど、そこに知人の兄妹がいる手前、聞いたって教えてはくれないだろう。そうでなくたって、教えてくれるとも思えないけど。
 忘れられない人、か。
 自分にとれば、夢の中のあの人が、そうなのだろう。……早朝に脱したはずの余韻に、またずぶずぶと埋まってゆく。ミソラは微笑んだ形のまま、男から目を逸らした。脳裏に響いた言葉。気が付いたら、繰り返している。そして繰り返すたびに、その言葉が、まるで最初から己の物であったかのように、己の中に染み込んでいく……。
(……許さない……)
「とーやくん、メグミと遊んでもいい?」
 ふ、と顔を上げる。――隣の人の前で問うきらきらとしたはしゃぎ声は、ミソラを底へと誘うものをぶつんと切り落としてくれた。
 色違いのルリリをようやっと抱えているハヅキに、トウヤは座ったまま、視線だけひょいとメグミへ寄越す。
「メグミに聞いてごらん」
「うん!」 
 大きく頷いて子供が振り返ると、ハリの横に立っていた通常色の『マリルリ』が、一歩、二歩と後ずさりして、ついに背を向けて走り出した。
 歓声を上げながら追いかける子供と、大人しく抱きかかえられているルリリ、地面を跳ね回りながら連れ立って行くその大きな尻尾、そして仮面を張り付けたような笑みのままぽてぽてと逃げ惑うマリルリ。あれも、『メグミ』。そういえば、メグミのことも、聞いてみようと思っていたけれど……ふと視線を上げると、何やらこちらを見下ろしていたトウヤとばっちり目が合った。慌ててハヅキ達の方へと顔を逸らしたトウヤは、しかし、少しするとまたこちらへと視線をくれる。
「メグミのこと」
「はい」
「何だと思う」
 ――まさか向こうからその話を振ってくるとは思わなくて、ミソラは暫し瞠目した。
「……え、えっと……」
「メタモンだと思うか?」
 どことなくいたずらするような顔で、にやりと笑う。その意図がちっとも読めない。
 メタモンは、全身の細胞を組み替えて他の物そっくりに『変身』してしまう、とてもユニークな技を持つ希少なポケモンだ。勿論ミソラだって、時折オニドリルとは全く別の姿をして現れるメグミのことを、メタモンなのだと思っていたこともある。メグミの方を見、一考して、まぁ正解でなくてもいいか、と顔を戻して。導き出した答えは、『ノー』だ。
「私、図鑑で見たんですけど、メタモンの『変身』って、目の前に変身する対象の物がないと完璧には変身できないんです」
 これは、メグミの正体を暴こうとする中で学んで、ずっと障壁となっていたことだ。マリルリや、スワンナだった時はともかくとして、メグミがバネブーになって現れた瞬間はミソラだって目撃しているし、そもそもメグミがオニドリルとしてボールから飛び出すすべての瞬間に、視界の中に別のオニドリルが紛れていたなんてことはあり得るはずがない。メタモンの『変身』した姿であるならば、お手本となる存在が必ずいなければならないはずなのだ……そう説明すると、トウヤはやや感心した様子で、よく勉強してるな、と取ってつけたように加えた。
「お前の言う通りだ。……けれど、もし僕が、メグミは『特別なメタモン』だから、と言ったら?」
「特別……?」
「例えば、普通のノクタスはハリみたいには正確な『ミサイル針』の狙撃はできないし、普通のガバイトはハヤテのような阿呆みたいな跳躍なんてできない。リナだって、普通ニドリーナはあんな風に格闘には長けていないし……」背後から首への締め付けと、エメラルドグリーンの貫くほどの眼光圧を感じて、トウヤはちょっと言葉を止めた。「……リグレーは人にこんなにべたべたできる生き物じゃなかった気もする」
 エトが向こうから、興味ありげにこちらに視線を流している。――ポケモンだけじゃなくて、とトウヤはまた笑んだ。
「ミソラは人より『ポケモンと友達になる才能』があるかもしれない」
 バグータ騒動の翌日に言われた奴だ。ちょっと気恥ずかしくて、曖昧に笑って返した。
「誰にでも、人より特化した部分、っていうのはあるだろ。メグミにも、『変身』に関してそういう所があって、その優れる度合いがもし、技の制約さえ意味を無くすようなものだったとしたら……」
 つまり、メグミが、目の前に対象物がいなくとも完璧にそれに成り変わることができる、特殊な変身能力を持っているとしたら? メグミがメタモンであるという可能性も捨てきれない、か。……それで、じゃあ、メグミはメタモンなんですか、と問うと、どう思う、と全く同じ質問が返ってきた。メグミたちの方へと視線を外して、唸る。今はハリを中心にして、ぐるぐると追いかけっこをしているメグミとハヅキ。マリルリの細長くて肉厚な耳が、ぷわんぷわんと弾んでいる。
「……違うと、思います」
 根拠はないけれど。――そう言うと、そうか、と返して、楽しそうにトウヤは笑った。
 楽しそうだな、とつられて笑う。こっちに来てからは大体そうだ、特に昨日の晩からは。その気楽さが、少し、羨ましい。そして、羨ましいなんて思っている自分の歪みように気づいて、嫌になって、視線を落として。今日も強い日差しによってくっきりと描き出された影の、その暗闇へと、自ら足を踏み入れていく。
 黒い靄が席巻する心の内へ、ふと光が差して、また閉じる。また闇が渦巻いて、呑みこんでいく。交互にやってくる明るさと暗さとに、だんだんとミソラの現実味が、そぎ落とされていくように思えた。
 ……再び笑顔の失せて、力なく地面を見下ろす子供の金の垂れかかる横顔を、また、トウヤは見つめていた。
「食べたいものあるか?」
 唐突に問われて、へ、とミソラは顔を上げた。
 その時どしゃっと音が聞こえて、二人は似たように顔を向ける。素っ頓狂な顔をして、黄緑のルリリがぽてんと転がっている。その手前に、どこだかに足を引っかけたらしいハヅキが、うつ伏せの状態で寝そべっていた。
 マリルリのメグミはハリの背後へ身を隠すようにしながら、もぞりと起き上がった子供を無表情に眺めている。……唇を震わせ、目に涙を堪えはじめたハヅキを見て、大袈裟な溜め息と同時に立ちあがったのはエトだった。祭り装束を棚引かせながら颯爽と妹の救護へ向かっていく背中を見届けてから、トウヤへと視線を戻す。
「なぜ?」
「え? ……あー、いや、満足に食えなかったろうと思って、昨日。僕が、その」
 途中で体調を崩したから、と言いたいのだろう。そうでなければ、あの屋台街で、あの外人の連中と遭遇することも、もしかしたらなかったのかもしれない――そう思いかけて、それは違うと、ミソラは慌てて首を振った。
「でも、お店は最後まで見たじゃないですか」
「ああいうことがなければ、どうせ帰り道でも行きと同じだけ食っていた」
「そんなに食い意地張ってないです!」
「張ってるよ、自覚ないのか」
 言葉はきついけれど、はぁちゃんと話をする時みたいな、柔らかい顔をしている。それを見た時、なぜ彼がメグミの話を持ち出したのか、それからこんなことを言い出すのかに気付いて、――ミソラはちょっとだけ、唇を噛んだ。
 僕は、羨ましいだなんて、思っているのに。
「なら、欲しいものは?」
「……突然言われましても」
「あったら、買える範囲で、検討する。……食べ物も、常識の範囲で」
 非常識なほど食べられません、と苦笑すると、どうだかと呟きながら、ベンチの背もたれに寄りかかった。
「今日は手伝いがあるから無理だけど、見たいものがあるなら、明日以降連れていってやるよ。ハシリイの砂漠にはココウにはいないポケモンもいるから、外に行くのも面白いかもな。運が良ければ、野生のノクタスも見ることができて」
「ノクタスですか!」
「ああ。サボネアなんかはもっとたくさんいる。家畜にされてるポケモンも結構いて、見せてもらってもいいし……明日は祭りがあるか。それも楽しみだな。毎年凄いんだ、特に、町中のマリルが……」
 言葉を止めて、ふと確かめるように、視線を向けてくる。どきりとする。町中のマリルがなんなんですか、と、声は明るめられても、顔は、きちんと笑えているか、怪しかった。
 ミソラのぎこちない笑い方を見て、幾許か目を閉じて、トウヤは前に向き直った。『空回る』のを諦めたのか、ミソラが楽しそうだと思ったあの顔はどこかへ消えてしまって、その雄弁には物を語らない瞳に宿るのは、真剣味と、隠れ切らない疲労と、苦悩。
「……リナは」
 けれど、そういう時の冷めた双眸や、静かに響く低い声に威圧感を覚えることは、最近はあまりなくなっていた。
「お前の機嫌を、凄く敏感に感じ取る子だ。お前がいつものようでないと、そのうちに調子を崩すだろう。あいつはすばしこくて、暴れ始めたら手が付けられない。だから、お前がしゃんとして、リナが安心していないと、困るんだ。……いや、そうじゃない、そうじゃなくて……」
 戸惑うように額を擦る。向こうでは、ぐっと泣き声を耐えきったハヅキが、どうだ、と得意げな顔を、年の離れた兄に見せつけていた。
 トウヤは途中から、すっかりこっちに目をやらなくなった。ハヅキとエトの様子をまっすぐ見ながら、普段より若干力の入った声で続けた。
「昨日みたいな連中がまた来て、お前の本当の親だと言って、連れて帰ろうとしても、もしお前がうちに……おばさんのところに、いたいなら」
 顔は見ずに、一息継いで。
「僕が、追い返すから。だから元気出しなさい……元気出せ」
 それから、ちらり、とこちらを窺った。ちょっとだけ不安そうに。――それがおかしくって、心の底からおかしくて、声を上げて笑った。トウヤはやっぱり目を丸めた。ばかみたいに、あんまり変な笑い方をするので、ポケモン達が振り向いて、エトとハヅキも、揃ってこっちを見た。
「なんで笑うんだよ」
「す、すいません……でも、あの……」
 笑いながら、目元を拭う。すいません、ともう一度繰り返して。それでも止まらなかった。涙の衝動の収まったらしいハヅキが、ミソラの顔を見て、不思議そうに首を傾げる。
「……どうしてミソラちゃん、泣いてるの?」
 続けてエトが、毎年毎年泣かせに来てんのかよ、と呟く。トウヤも困ったように笑った。はぁちゃんの代わりに泣いてるんじゃないのか、なんて言った。それがまた、おかしくって、笑いながら、涙がこぼれて、押し寄せる波のような雑多な感情に、どれほど身を揉まれたら……自分は、強く、なれるのだろう。



 昨晩まぁちゃんと何を話したのか、という問いがハヅキから出たのは、ミソラが落ち着いて暫くしてからだった。
 その頃にはトウヤは(気まずかったのか)ベンチから離れて、ハヤテの背中に腰かけていた。ハヅキの問いかけと同時にその手の中からルリリのマスカが抜け出して、尻尾の水球を使ってぽよんぽよんと跳ね、ぽよよんとトウヤの腹の方へ飛び込んでいく。それを受け止めて、持ち上げて視線を合わせて、
「男の秘密だもんな」
 言うと、マスカはキャッキャと笑いながら足をばたつかせた。まぁちゃん、オスだったのか。「あの人、たまにポケモンと喋ってるみたいにするんだよね」という、カナミの言葉を思い出す。ルリリという種族が外見で性別を判断できるのかどうかは分からないが、男の秘密を交わせるくらいなら、やっぱりそれなりに意志の疎通ができるのではないだろうか? ハヤテとリナの会話の内容が分かるか、と問うてみた時には、分からないと返されたけれど……
「えーっ、ひみつなの」
「でも、まぁちゃんちょっとは元気になっただろう?」
「ひみつはやだ!」
 むくれるハヅキに、トウヤはもう一度マスカと視線を交えてから、それを持ち上げて、差し出した。
「抱っこしてごらん」
 若干ぽかんとした後、かぶりを振って、幼子の腕に抱えるには少し大きすぎるその球体を受け取る。伸びきった尾の水球が地面に軽く弾んだ。いつものように、体に余りあるルリリをやや仰け反りながら抱いたハヅキに、トウヤは続いて問うた。
「重いか?」
「重くないよ!」
 反射的な発声は明らかな虚勢。小さな体には、本当は重かろうに。ミソラは笑ってしまったけれど、その瞬間、腕の中のマスカはなぜか安らぐような顔をした。
 ――おーいっ、と張りのある声が響いてきて、それぞれに振り返る。先陣を切って小さな足をくるくる回しながらやってくるマリルの後ろに、大きく手を振るカナミの姿が見えた。そしてその横に、誰だろう、がっしりとした体格の男の人が、連れ立って歩いている。
「おねえちゃん、はぁちゃんね、ころんだけど泣かなかったよ!」
 開口一言そう叫んでハヅキはそちらに駆け出した。マスカの尻尾がずるずると引き摺られていく。それを見、やれやれとハヤテの背から立ち上がる師匠を目に入れた途端に、昨日の晩知った『関係性』の事が蘇った。つまり、カナミさんの元カレ。しつこく脳裏をちらついて仕方ない。
 カナミの隣にいた男の人にトウヤが会釈をしたので、ミソラも挨拶をしておいた。体は大きいけれど雰囲気が朗らかで圧迫感のない、爽やかな好青年という印象。名をアキトというらしいその人に親睦の握手を求められて、どぎまぎしながらもミソラは応えた。トウヤの手も小さい方ではないと思うのだけれど、それよりもまた一段と大きい。
 二人と一匹の登場にも、ベンチに座っているエトは腕を組んだまま見向きもしない。いや、そうしていると姉に背後から顔を覗かれて、おっイケメンに仕上がってんねお祭り男、と茶々を入れられるところまで、想定済みだったのか。――うっせぇな、とぼやいたエトの肩が急にピンッと飛びあがった。髪を纏めて見えているうなじに、結露の水泡が滴るくらいに冷えた缶ジュースを引っ付けられたのが原因だ。
 ハヅキにさえ笑われながらベンチから跳ねたエトは、悪態をつきながらも差し出されたジュースを受け取った。顔がやや赤らんでいるのが面白い。それを配りに来たのだろうか、続いてミソラにもそれを渡してくれて、はぁちゃんの分はきちんとプルタブを上げてから、こぼさないようにね、と一言添えて。それを手渡されるときに師匠がどんな顔をするのか注意して見てやろうとミソラは期待したのだが、あろうことか最後の一缶を、カナミはトウヤに投げて寄越した。
「ナイスキャッチ!」
 それを片手で受け取った彼の得意顔も、別段特殊なものは感じられない。
 正確にはカナミの用事はそこではなくて、ミソラに対する方にあった。まだこの人(と言いながら、アキトを指す)の手伝いがあるから、ごめんだけどはぁちゃんともうちょっと一緒にいてあげてね、と。快諾すると感謝と、「はぁちゃんミソラ兄ちゃんの言う事聞いて良い子にしてるんだよ」と、まだ仕事のあるらしいトウヤとエトに適当な激励を飛ばして、じゃあねと手を上げて去っていく。……ミソラ兄ちゃん、か。ミソラ兄ちゃん。その響きを何度も反芻すると、身の引き締まる思いがした。
 ミソラ兄ちゃん、がちょっと革新的すぎて、カナミがアキトのことを親しげに「あっくん」と呼んだことには、暫く意識も回らなかったけれど。……おねえちゃんバイバーイ、とあらん限りの声を張り上げるハヅキに対して、嵐の如く過ぎ去っていった男女を見送りながら男二人は黙っていた。ミソラが振り返ってぎょっとしたのは、その二人の目つきが、険しいと言うよりはどちらかというと、厳しく見定めている、ような雰囲気を内包している、気がしたからである。
「……あの方は?」
 なんとなく『気付いて』、ミソラは確認のために問うた。
 トウヤだけがちらりとミソラへ視線を下して、手招きして、非常にわざとらしく口元に手を当てて、声を潜めてミソラに教えた。……やはり。もう一度、そのいかにも男らしい背中と、それに寄り添って歩く女を、ミソラは目に入れる。よく周囲を観察すれば、その背に視線の刃を突き立てながら気分を害しているのはエトだけではなくて、その足元にちょこんといる青い水鼠もそうらしかった。カナミのマリル。名はマリー。一緒に行かないのだろうか。
「アキトさん、いい人なんだよな」
 こちらは気分を害していると言うよりはなんとなく哀愁の漂う声で、トウヤが言う。負け惜しみか。笑いそうになるのをミソラは必死に堪えた。さすがに失礼すぎる。
「……つまり、お師匠様のライバル……」
 でも言いたすぎて言ってしまった。
 ぺしんと頭を叩かれた。叩かれたことはなくはなかったし、極めて軽い調子ではあったけれど、なんだかハヤテがいつもされているやつみたいで、ちょっと嬉しい。吐き捨てるように、楽しそうに、今はそんなんじゃないとトウヤは言った。むしろ、唾でも吐きそうな怖い顔をしているのは、彼女の実弟の方だ。









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