青い、空の、瞳の、色。
 ……鼓動。鼓動。速まるのに血の巡りは濁って止まり凍りついた。背が高かった。グレンよりもまだ高いかもしれない。彫りの深い顔。影の落ちた目元に双眸は爛々と輝いていた。長く散らかり気味に整えられた髪は金よりも明るい茶色に近い。数人の女性を引き連れていて、それもまた、白人種だった。見慣れぬ白い肌。自分がそうだから慣れぬと言っては嘘になるが、それでも視界に違和感しかない。やたらと派手な色の大きな荷物と、腰には幾つかモンスターボールを携えている。そこにだけ慣れた色合いが宿っていた。
 自分を指さし、親しげな笑顔で、大股に近づいてくる。聞かぬ言語を操りながら。知り合いか、と無意味な問いを投げかけるトウヤの声には僅かに焦りが窺えた。言ってる事が分かるのか、とも。どちらにも、首は横に振るしかなかった。
 覚えのない顔だった。覚えのない言葉だった。
 ――でも、もしかすると、『忘れた』だけで。
 大柄の、異人種の集団はやたらと目を引いた。屋台街の中のいくつもの視線が、その光景に集まっている。それを一遍も臆せず浴びながら、彼らはついにミソラの前で立ち止まった。リナが唸りを始めた。高く見上げる。光を遮られているようだった。座ったまま上半身だけ向けているミソラからは逆光で、びっくりするくらい大きな手で肩を叩いてくるその男は、陰になった満面の笑顔の中に、大ぶりの歯を覗かせていた。
 知らない人。……知らない人だ。
 静かに確信する。知らない人。なんの直感も働かないのだ。その人が何か言った。ミソラは凝然として動かないまま黙っていた。だって、返事のしようもない。その言う意味なんてミソラには知れなかった。矢継ぎ早に捲し立てられ、きょとんとされて、脇の女性に何か言われて不快な程大袈裟に笑われても、返す言葉なんてなかった。蛇の這うような不明瞭な発音はずるずると耳道を滑るだけで、笑い声だけがやたらと残った。
 目線の高さを合わされる。次々と言葉を投げられる。笑顔を見せつけられる。鼻を突く匂いがした。酒を飲んでいるらしい。気付けば自然と身を引いていた。彼に、彼らに対して覚えたのは、同族の親近感などでは勿論無くて、恐怖、訳の分からぬ恐怖という、ただそれだけにすぎなかった。
 背後から椅子を引く音。そこにいる人がいなくなる音、それがこんなに恐ろしい音であることは後にも先にもきっとない。慌てて振り返ろうとして、でもそれより早く目の前の異国人は屈んでいた姿勢を上げ、およそテーブルの向こうで立ち上がったらしい人を疑わしく目に入れた。――そして、それをどこか鼻で笑うようにして。まるで別の生き物を見ているような気持ちだったから、そういった仕草が共通しているのも、何か妙だった。
 背後で腕を組んでいた、ブロンドの長髪でスタイルの良い女がせせら笑うように何か言う。男は頷いた。それから、突然、椅子の背もたれにかけていたミソラの手首を、掴んで、ぐいっと引いた。
 悲鳴は声帯を震わさなかった。無理に引っ張り上げられて倒れないのが精一杯だった。バランスを崩した体が二歩三歩と前へ出た。リナの甲高い声。男は低く何か言いながら背を向けた。手首を握ったまま歩こうとする。引かれてまた足が出かける。全部が夢の中を泳いでいた。理解が全く追いつかなかった。何故、何が――起こっているかもまともに把握できないまま、無理に引かれる手を握る手、その相手の太い手首へ、殆んど叩き落とすような調子で白でない色が衝撃を加えた、その強い響きが自分の腕にも伝ってきたのが、ミソラが身の危険を感じることが出来たようやくの瞬間だった。
 仰け反るように手が離れた。離されたのに咄嗟には退けず、それでも後ろに下がることが出来たのは、下がれと言わんばかりにミソラの前へ腕が出されたからであった。乱雑な包帯の変色した腕。掴まれていただけのミソラにさえ痛みが走ったのだから叩かれた当人はもっと痛かっただろう、けれどそれにしても大仰すぎる悲鳴を異国人は上げ、驚きと怒りのないまぜな表情で振り返った。
 それからの静寂は、少し長かった。しがみついてもよかったし、ただ背後に隠れるだけでもよかったのかもしれないけれど、一歩下がった以上にミソラは動けなくて、ただ、黙って相手を見据えるトウヤの、落ち着き払った横顔を見上げることしかできなかった。
 不快を露わにした複数の鋭い視線が、一様に痣の男へと刺さる。トウヤはひとつも動じなかった。普段通りの、強いて言うならごみ溜めに群がる獣を見るような少しだけ険しい目で、対峙する男の青色を静かに捉え続けた。敵方の白い顔が、一気に酒を煽ったようにみるみるうちに赤らんだ。ぴんと張るゴムを断ち切るくらいの瞬発で、唾を吐きかける勢いで怒号を飛ばした。ぎゅっとミソラは怯んだが、彼はちっとも引かなかった。相手がこちらに寄り、何か吠えながら無抵抗な胸倉を掴みあげて、握った拳を大きく引いても、暗い茶色の双眸は微かに見開くことさえせず。
 ぴたっ、とその男の動きが、時を失ったように静止する。その時も、その冷静は揺らがなかった。
 周囲がざわめく。存外に観衆は多かった。……パントマイムか何かのように、殴りかかった姿勢のまま、男は像になり微動だにしない。その顔だけが急激に畏怖に染まっていくのはさながら演技の風であった。そして数秒も経たないうちに、彼を『縛って』いた力がぱっと姿を消して。胸倉を掴んでいた手を強めに引き剥がされると、生気を吸い取られたかのように、男はへなへなと腰を落とした。
 すう、と宙を舞うものが脇に滑り込んできて、トウヤも僅かに気を緩めた表情で視線を移す。さっきまで眠っていたはずのリグレーのテラは、リリンッと機嫌よく声を上げると、ふわっと念で飛んですかさず『定位置』に着陸した。
 それを見、唖然としていた男の顔に、再び血気が昇っていく。――男が手を掛けたモンスターボールに目を留めると、そう遠くない位置からこちらを取り巻く複数の見物人を一瞬見やって、トウヤは浅く息をついた。
「ハリ。いいよ」
 騒動の間に彼の発した声は、たったそれだけだった。臨戦態勢をとりかけていたハリが姿勢を直すのと同時に、一切の興味を失くしたみたいな頓着の無さでトウヤは彼らに背を向けると、当然のようにミソラの手首を掴みとって、断りもなしに歩き始めた。
 今までになく速い。小走りでないとついていけない歩調だった。震える膝をこらえてミソラは引かれていった。あの声はまだいくつか聞こえた。けれどその問う先はもう、二人の方ではなくなっていた。飛んでくる観覧の視線はさすがにかなり怪訝として、温度で言えばどちらかというと冷たい。でもそれも、早足に屋台街を抜け、商店の並ぶ通りの人波をずんずんかいくぐっていく間に、元のハシリイに戻っていった。
 顔を上げられなかった。空気もろくに喉を通らなかった。ちょこちょこと足を動かしながら不安げにこちらを見上げるリナへ、一言も発することなんてできない。声を出した途端に全部崩れてしまいそうだった。だから強く、唇を強く噛みしめながら歩いた。――泰然と構えているとばかり思えていたトウヤの手の握る力は前の三倍くらいきつくて、言えなかったけれどあの外国人に掴まれたのよりずっと痛くて、多分くっきり指の跡がついてしまうだろう、なのになんだか、ほっとした。
「ついてこないな。お前の知り合いじゃなかった」
 声も、笑っちゃうくらい空回ったトーンの高さ。首にひっついているテラが何度も何度も頷いて、トウヤの横をせかせか歩くハリもちょっとだけ振り向くと、一度こくりと頷いた。世界が狭まっていく気がした。喧騒の中で、石畳を鳴らす二人の足音だけが、リズミカルに耳についた。
「……ごめん」
 声。握る手は熱くて、ほんの少しだけ震えていて、どこに行ったかと思っていた異国人を見つけた時のトウヤの動揺は、結構色々な所に、そうやって見え隠れしていた。
 ほら、すぐに謝る。何故謝るのだろう。何故謝るのと今問うたら、何を謝ったと答えるのだろう。――いつかと似たようなことを思いながら、ミソラは黙って歩いていった。つばの長い帽子を借りてよかった。この角度からなら顔は見えまい。俯くと、張り詰めた状態からゆるゆると弛緩していく目元から、ぽたぽた液がこぼれていった。





「……弱すぎ」
 眩暈がしそうな白と黒の羅列。意味も分からず茫然と眺めているうちに対局は終了し、やれやれと胡坐を崩して立ち上がろうとするのは眼鏡の利発げな青年である。まだだもう一回、ともう三度目の台詞を放ってすがる方がミソラの師匠だった。自分から勝負を挑んだ割には弱い。
「姉ちゃん出てくるから部屋に戻る」
「出てきたところで関係ないだろ」
「あるよ、めんどくせぇし」
 首に引っ掛けたタオルでまだ半乾きの髪をぐしぐしと拭いて、エトは再び立ち上がろうとした。逃げるのか、とトウヤはちょっと凄んだ。ミソラは笑ってしまった。どっちの味方にもなれやしない。
「逃げるっていうか、戦うまでもないってか、去年から全く成長してねぇ……」
「――おーっ、やってるやってるぅ」
 そこへ上機嫌に戻ってくる、湯でのぼせた頬をしているカナミとハヅキ。小さく舌打ちしてエトは外の方へ目を背けた。縁側では、解放されたポケモンたちが月明かりを浴びながら、思い思いに食後の一時を楽しんでいる。
 帰宅してからハヅキの遊び相手をさせたり、夕飯の準備の手伝いをするよう仕向けてきたのは、トウヤなりのミソラへの気遣いだったのかもしれない。昼間の諸々のショックで胸からぽっかり抜け落ちた部分は、ばたばたと動き回っているうちに少しずつ埋められていくような気がした。それもしばらくはこうやって、遠巻きに眺めていたい。騒がしさは見つめるべき場所の格好の目隠しになってくれた。
 抜け落ちたのに、ずんと重くて、虚ろな心。急いで立ち上がる気には、ちょっとなれなかった。その日の午後、トウヤはいつになくからからとよく笑った。ミソラがしゃがみこんでいる分、代わりをしているみたいだった。
 トウヤー、晩酌すっぞー、と冷えたビール瓶を持ち出してくるカナミに、いりません、ときっぱり断りを入れて、碁盤の上の黒い石だけ集め始める。その肩の上に相変わらずな形で乗っかっているリグレーのテラは、嬉しげに手を振り回した。碁盤の向かい側は露骨にため息をついた。そこへぱたぱたと寄ってきて、すちゃっと正座したハヅキは、何か鮮やかな色合いのごろごろした小道具を抱えている。
「おとうさん、今から、おみそ汁をつくりますよ」
 そう言って、トウヤの隣にまな板を置き、ミソラの嫌いな野菜を模したおもちゃたちのビニールテープの接合部を、切れない包丁でせっせと刻んでいく。『おままごと』に精を出しているハヅキの内心は、その子が執拗にトウヤの事を『おとうさん』と呼びたがっていたから、なんとなく知れた。生返事を繰り返す彼自身が気付いているかどうかは分からないが。
「とーやくんお野菜たべれるよね?」
「夕飯はさっき食べたよ」
「はぁちゃんのごはんもたべるの!」
 そう言って小さなお鍋に野菜を放り込んでいくハヅキの向こうで、グラスへ黄金の液体を注意深く注ぎながら、ふと思い出したようにカナミは言う。
「はぁちゃん、トウヤくんにまぁちゃんのこと相談したの?」
 弾かれたようにぴーんと背中を伸ばすと、そうだったと呟いて幼子はどたどたと駆けていった。そして、黒の碁石を蓄えた碁笥がトウヤの膝の横へといかにも楽しげに設置される間に、またどたどたと戻ってきた。胸元に抱えきれなかった黄緑色のルリリの尻尾が床をずるずると引き摺られてくる。
 まぁちゃんのことを相談、とはなんだろう。覗き込んだミソラにも一瞬で異変を察せられるくらいに、暴れん坊なはずのマスカはひどくしょげた顔をしていた。
 あのね、まぁちゃんね、お稽古のあとから元気ないの、と説明を受けるのも待たず、トウヤは右手に弄んでいた小さな碁石を碁笥に戻すと、ひょいとルリリを取り上げた。目線の高さを合わせて、緑ブドウの種みたいな黒々した瞳をじっと覗く。ミソラが一人と一匹の顔色をそれぞれ眺める間にも、マスカはどこか不安げな、悲しげな表情を浮かべるばかりだ。
「やっぱり、きんちょうしてるのかなぁ? お祭りはもうあさってだし……」
 肩車の状態のまま身を乗り出してリリリィン、と何やら交信を図ったテラに、るる、るぃ、とマスカは一言二言告げた。テラはうんうんと頷いて、そういうことらしいよ、と言いたげな様子で主人の方へ顔を向けた。マスカを置き、テラを一瞥すると、よし、とトウヤは膝を叩く。
「話を聞こう」
 そう言って徐に立ち上がった男を、は、と眉根を寄せてエトは見上げた。
「やんねぇのかよ、囲碁」
「悪いな。ミソラとでも遊んでやってくれ」
「俺が?」
 なんでだよ、という問いに返す気のある素振りも見せず、ポケモンたちのいる縁側の方へ歩いていく男と、そそくさとそれについていくマスカ。……面倒さと気まずさと、加えて押し殺したい幾許の好奇心が見事に織り交ざった表情で、エトはミソラを見た。それと目を合わせて、ミソラは苦笑して小首を傾げた。
「ルール、教えていただけますか」
「……い、いいけど……」
 昨日と比べれば、随分静かな夜は、そんな風にゆっくりと更けていった。
 広い庭や、近隣の民家ともやや距離のある小高い丘の立地もあって、辺りからは虫や鳥獣の音色以外は何一つとして聞こえない。ただ、昨夜のひんやりした空気の上を、碁盤に石を弾く小気味の良い音が、ぱちん、と断続的に抜けていった。縁側の方で、こちらに背を向けているトウヤとポケモン達の囁きが、時折風に乗ってきた。ミソラの傍に座ってそれと戦局とを見守るハヅキは途中から眠たげに瞼を緩めていたし、ぽつりぽつりとこちらに問いを投げかけてきたエトも、ミソラが昔の記憶を失っていることを知ると――少しだけ残念がっているような様子で――、それ以上問い詰めてはこなかった。
 暫く向こうのテーブルで一人酒を煽っていたカナミは、不意に立ち上がって足早にこちらへ回ってくると、後ろからぎゅっとエトの肩を抱いた。
「エト、耳かきしてあげよっか」
 や、や、や、やめろっ! とかなりオーバーなリアクションで腕をすり抜けて逃げていったエトの顔が赤らんでいたのがおかしくて、ミソラはけらけら笑った。けれど、耳かき、という言葉に眠りかけていたハヅキまで即座に反応して、はぁちゃん歯磨きしてくる、と言ってぴゅんと逃げていったのには、じんわり嫌な予兆を得た。
 結局、ミソラは耳掃除のとばっちりを受けながら、餌食にされたのだ、と心底感じた。ハシリイの酒豪の土地柄、カナミも『ざる』らしくて全く酒気は帯びていないが、耳かきの動き方がとにかくおっかない、というか。いつ鼓膜から脳髄まで貫かれるか分からないというほどの天性なる手先の覚束なさ、それなのにやたらと自信満々な彼女の様子は、尚更犠牲者の恐怖を煽った。
 我慢ならずぎゃあぎゃあ叫んでのたくりながらも、その腿をミソラの枕代わりにする女の、上に纏めた黒い髪、すっきりとした首筋を目に入れる度に、知らない記憶を透かし見ているような心地がして妙だったし、またそれらを見上げる今の体勢に、思いがけなく切ない感情を覚えている自分のことが、僅かばかり恐ろしかった。
 これだけ騒々しく叫んでいるのに、縁側の師匠は弟子の窮地に見向きもしないし。歯を食いしばって震えつつ断罪の時をやり過ごしながら、ポケモン達に取り囲まれている彼の背中を、気を紛らわす思いでミソラは凝視した。遊ぼうよ、と言わんばかりに右往左往するガバイトや、向こうで身繕いするニドリーナ、その向こうで何やら恨めしげな眼を光らせているマリルの事も無視しながら、必死に訴えかけるように鳴いているルリリの声へ、トウヤは真剣に耳を傾けているようだった。それが一旦鳴き終えると、少し離れた場所にいたノクタスが頭を振り、引っ付いたままのリグレーがリンリンと笑い、すぐ脇に佇んでいるオニドリルがゆっくりと首をもたげる。――すると、少し遅れてトウヤも笑い出して、またひょいっとルリリを掲げ上げると、明るい声でそれに何かを語りかけた。
 ミソラがその光景に目を奪われていられたのは、カナミも同じようにそちらを見て耳掃除の手を止めていたからである。不思議だよね、と呟く声に、ミソラは寝かされたまま視線だけ寄越した。懐かしむような優しい目で、カナミも彼らを捉えていた。
「ああやってたまに、ポケモン達と本当に、喋ってるみたいにするんだよね。トウヤって」
 ……きょとんとして、ミソラはそちらに焦点を戻す。
 ねぇ、と悪戯げに声をひそめられて、もう一度視線を上げた。ちらちらと縁側を気にしつつ、愛嬌のあるにやつきを浮かべながら、カナミは一段と声のトーンを落とした。
「ミソラちゃん、私とトウヤがどういう関係なのか、気にならない?」
「――おい」
 突然声が飛んできてびくっと手元が動いたから、耳道に耳かきが突き刺さって、ミソラは本気で悲鳴を上げた。
 カナミが慌ててそれを抜かなければ突き飛ばしていたところかもしれない。激痛の走る左耳を抑えながらミソラは彼女の腿から転げ落ちた。
 叫んでいても振り向きもしなかったのに、ひそひそ話には即座に反応してくる。トウヤは一人悶絶するミソラへやや憐れんだ視線を向けたが、それからすぐカナミへと低い声で、
「余計な事を言うな」
 そう釘を刺すと、また庭の方へと向き直ってしまった。地獄耳、とカナミは笑ったが、地獄なのはこっちの耳だとミソラは思った。血こそ出ていないだろうが暫くトラウマになりそうな痛みを抱えながら体を起こして、もう耳掃除は結構です、という無言のアピールを差し向ける。ごめんごめんと彼女は笑うばかりだった。多分、よくあることなのだ。ここの兄弟の間では。
 けれど、ここで彼に制止をかけさせるくらいの二人の『関係性』とは、一体なんなのだろう。『ハシリイの泊まるあて』が女性の知り合いの家だった、という点に僅かに引っかかっただけで、特別考えてもいなかった。
「えっと、お友達……じゃないんですか?」
 発言の後、そうじゃない場合に考えうる可能性に思考を巡らせようとした瞬間に、カナミはあっはっはと高く笑った。トウヤは煩わしげにまた振り向いた、それも少し焦った顔色で。あの人ね、と彼女は至極楽しそうに、焦る男を指さした。トウヤのおいやめろの声がまた飛んだ。カナミはそんなものには構わない。
「あの人、私の『元カレ』」
 ――ミソラは瞬きして、一瞬、この話を聞いていたなら彼はどうなっていただろう、とココウの友人の顔を浮かべた。
 ばっかかお前は……、と弱々しく吐き捨てた彼の実に恥ずかしげな顔を、ミソラは暫く忘れられそうにもなかった。少し離れて座ったままのハリは微動だにしなかったが、メグミが一瞬笑うように体を震わせるのも、振り向いたハヤテが目を白黒させるのも面白かったし、奥の方で何故かカナミのマリルが耳を折り塞いで丸まっているのも妙に滑稽に映った。じんじんと熱い左耳の痛みを意識しながら、えっと、とミソラは言葉を探す。およそ自分は、ハヤテのように全く理解の追いつかない顔をしているのだろう。
「……元カレ、って……なん……ですか?」
 本来的な意味ではなくて。
 これは師匠に向けて問うた。もちろん彼は答えなかった。代わりにカナミが、また花の咲いたような満面の笑顔で答えた。
「付き合ってたんだよ私達、三年か、四年くらい前だっけ?」
 ――カッ、と緑色の光が視界の端から撒き散らされて、消えた。カナミに向けていた目をせわしく縁側の方に戻すと、トウヤと、それにひっついていたはずの緑色のポケモンが跡形もなく消えていた。
「あ、あれ?」
「大丈夫だと思います……テレポートしただけなので」
 正直、夜中にどこへ飛ばされたのだとかは、今はどうでもいい。師匠の消えている間に事の真相を探りたかったが、どういう言葉で詮索していいものか分からなくて、ミソラは狼狽えた。
「つ、付き合う……って……あの……本当に……」
「ほんとだよ」
 何故か一人で頬を染めながらどぎまぎするミソラに、呆れたようにカナミは笑う。
「そういう風には見えないか」
「……そ、その、えっと、……どちらから?」
「あっちから、あっちから」
「えっ、ええ? え、え」
「まぁやっぱりだめだって言われて三日で別れたんだけど」
「三日!」
「酷い男でしょー、あいつ。まぁ私も遊びのつもりだったから笑って済ませられたんだけどさ」
 ああ、大人って、大人って生き物は。興奮と脱力感がいっぺんに襲ってくる。ミソラが目を剥いて騒いでいるので、歯磨きを終えて戻ってきたハヅキも茫然として突っ立っていた。
「……あれ、とーやくんは?」
「――それで、え、な、なんで、お師匠様そんなことを……」
「いやぁ、なんか、それがね」
 ゆるやかに思い出し笑いを浮かべながらカナミは飲みかけのビールを干し、壁へともたれかかった。
「なんかね、『誰かと付き合ってみれば、忘れられるかもしれないと思った』とか言ってて」
「……え?」
 問い直すと、また声をひそめて、私が言ったの内緒だよ、とカナミは笑んだ。
「忘れられない人がいるんだってさ」









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