10

 波立つ水辺に、青空と、それに我が身を突き立てる櫓の影が浮かんでいる。
 噴水の人だかりをやや遠巻きに眺めながら、トウヤは火を点ける前に、その小さな白い筒をテラの前にちらちらと翳した。いいか、と問うと、コクコクと首肯。愛煙家のグレンの手持ちなら、上手く付き合えなければやっていけまい。それから、足元のマリー――何故だか自分にくっついてきたカナミの手持ちのマリルにも確認する。マリーはぶすっとしながらも体全体で頷いた。
 咥えた煙草に、決してスムーズとは言えない動きで着火する。一昨日のテラ絡みの水没事故後、水浸しになった荷物を片付けていた時に出てきた物だ。多分グレンに貰ったのだろうが全く記憶にない。フィルムさえ未開封だったから浸水を免れはしたけれど、いつのだかさえ分からない物をずっと鞄の底に持ち歩いていたかもしれないと思うと、情けなささえ少し覚えた。
 発掘したと言え、郷愁さえ胸に滲んでいなければ、多分そのまま屑入れに捨てていただろう。大人になってからハリが煙を嫌いだしたというのも大きいが、好んで吸う事なんて滅多にない。けれど、――その息苦しさを肺に入れると、蘇る。記憶の中の、心から愛した父親は、いつも煙草の匂いを纏っていた。

 今年は櫓(やぐら)を噴水の中に建てるのだと聞いた時には何をとち狂ったかと思ったが、考えてみれば最初にハシリイに来た時、あのテッカニン大豊作の年も、櫓は噴水の中だったような気もする。水の祭だから、地の陣が強まっている年には、シンボルはより水に寄せて建てるのだ。その噴水の脇、これでもかと言う程提灯をぶら提げたテントから出てきた知り合いへトウヤは手を上げた。衣装を脱いだ眼鏡姿のエトは、かなり疲れた顔をしている。
 予行練習を終えたら話がある、なんて勿体ぶった別れ方をされて、あの櫓の上で彼が大人たちにこっぴどく叱られているのを聞きながらこっちの仕事を終えた頃には、もう日差しは夕の色合いを灯し始めていた。金だけ渡して野放しにしたミソラは、ちゃんとハヅキに昼食を食わせただろうか。そんなことを思うと、自分はなぜ飯を食べた記憶がないのだろうというところまで行き当たったが、そういえば配られた弁当は全部ポケモンの餌にしてしまった。……その、昼食であったはずの弁当を携えて、エトはトウヤの隣に腰を下ろした。すぐに食欲がないと呟いた。肉体疲労というよりは、精神摩耗の方が近いのかもしれない。
「よくやろうと思ったな、演者なんて」
 その年十八になる男児がやるということが決まっているだけで、普通はエトのような性分の大人しい者が請け負う役ではない。だって、と何か言いたげにエトはトウヤを見上げたが、それから特に継ぐでもなく視線を下して、またふと口を開いた。
「今年はずっとしてんだ」
「ん?」
「それ」
 エトが示した自分の左腕――朝方はしていなかった包帯へ目をやって、ああ、とトウヤは呟く。一息紫煙を吸い込むと、マリーに距離を取らせてから、火の残る白筒を踵で揉み消した。
「行けると思ったんだけどな。今年は何か、駄目だ」
「あの子がいるから?」
「ミソラは関係ない。ココウではいつもしてるんだ。……エトには何て説明してたかな」
 弁当をちょっと開け、中身の揚げ物に眉根を寄せながら、エトはぼそっと吐く。
「『おまじない』だって聞いたけど」
「そうか、じゃあそうなんだろ」
 そんな適当な躱し方をしても、興味があるのかないのか、深く追及しようとはしない。ふーんとだけ返しながら、訝しげに眼を細めるだけだった。
 黙々と弁当を食べ始めたエトを、肩の上ではしゃぐテラを宥めながら、トウヤは何も問わずに待っていた。結局半分くらい残した弁当を鞄の中にしまって、エトは徐に立ち上がると、また黙って歩き出した。トウヤもそれについていく。マリーもちょこちょこついてくる。
 人の多い公園を早足に抜け、普段より人気の少ない街へ入っていくと、歩調が弱まる。後ろから見計らってトウヤは声を掛けた。
「話って?」
 エトは立ち止まった。
 一拍置いて、振り返る。結んでいたせいで普段より乱れ気味の髪の印象もあるのだろうか、なんとなく、いつものつれなさよりも弱って見える。……大した話じゃないんだけど、と彼は少し頭を掻いた。
「俺、家を出ようと思う」
 トウヤは頷いた。歩きながら話そう、と言って、隣に並んだ。
 ミソラと来た昨日よりも、本当に人が少ない。暮れの雰囲気の流れ始めた少し寂しい街並みを、ぶらぶらと、当てもなく二人と二匹は放浪した。空はまだ青いが、やや淡い。焼け付くような暑さは若干陰り始めている。
 大学に行きたいのだ、とエトは語った。
「勉強がしたいんだ。でも、家はうるさいし、学校の連中も……何っつーか……」
「レベルが低いと」
「そうなんだよ。……タマムシの大学を狙っててさ。金は、言えば、多分ジジイが出してくれる」
 海の向こうだ。随分遠いな、とトウヤは独りごちた。
「誰にも言ってないのか、まだ」
「……父さんが死んでから、俺、大黒柱になれって、ずっと言われてきた」
 エトが、十二、三歳の頃だ。重圧は大きかったろう。彼らの父親の人の良い笑顔も、その人が不運な事故で死んだ年のことも、トウヤはよく覚えている。
「ハヅキもまだ小さいし、ジジイ達もずっと今みたいにピンピンしてんならいいけど、そうもいかないだろうし。姉ちゃんに全部押し付けるのってあんまりだろ、だから言えねぇよ……でも」
 腕は下ろしたまま、彼がひっそりと拳を握る。トウヤはそれを横目に見ていた。
「そしたら、俺、ずっとこの街から出られねぇ。……こんなとこでずっと生きてくなんて、嫌だ」
 聞いているのだろうけれど、マリーは前を見据えて口を一文字に結んだまま、一定の速さで歩いていくだけだった。
 大学に行くことどう思う、とエトは顔を上げて問うた。いつも冷淡な眼差しが、普段はひた隠しにする熱気を露わに覗かせている。それを見てトウヤは笑った。するとエトがあからさまに機嫌を損ねかけたので、エトを笑ったんじゃない、と訂正を入れる。
「お前、だっておかしいだろ。僕は初等課程も出てないんだぞ」
「そりゃまぁ、知ってるけど」
「学のない僕にそんな相談をしたところで……」
「この街の人間に話したって、どうせ反対されると思った」
 遮るように言う。斜陽にちらつく眼鏡のレンズの奥が、強い光を宿している。本気なのだ。茶化せないな、と内心苦笑を浮かべる。
「どうなんだよ、トウヤは」
「……反対はしないな。僕も大学には行ってみたかった。けど、勉強がしたいだけなら、それ以外にも方法はある。何の勉強をしたいのか知らないが」
「方法って、例えば?」
 一つ、可能性が頭に浮かんではいたけれど、その名前を易々と口にするのは憚られた。
「……何の勉強がしたいんだ」
「秘密」
 秘密を口に出せた喜びか、或いは練習が終わった解放感なのかもしれないが、エトはいつになく軽やかな足取りで歩みを進める。リードに繋がれたマリルたちの横を過ぎる。マリーが小さな手を掲げて挨拶を交わした。その向こうに珍しく水鼠の一族ではない影が見えて、なんとなくトウヤは顔をやった。灰色の毛並と大きな耳。チラーミィだ。黒い瞳と目が合った。
「あと、トウヤって子供の頃に実家から出てるだろ?」
 知らないのか。ひっそり意外に思ってから、彼の姉に、少しの感謝を覚えた。ミソラに暴露したような『ああいうこと』は酒の勢いで話す癖して、こういうことはきっちり隠し通してくれているのだ。
 多分、勇敢な少年が十の歳に旅に出るみたいに、エトは思っているのだろう。けれど、それは、全く違う。
 チラーミィは、じっとトウヤを見つめていた。それからようよう目を逸らして、トウヤは小さく頷く。
「それは、そうだな」
「親とか、どうやって説得した?」
 エトの双眸はまだ、子供のようにきらきらとした輝きを交えている。遠くでミィッとあのチラーミィらしき鳴き声が聞こえた。――トウヤは少し笑んで、
「……説得はしてないよ」
 一、二、三、と順番に、右腰のモンスターボールを軽く叩いた。
「エトはポケモンを持ってなかったな。トレーナーになる気はないのか、カナもはぁちゃんもポケモンを連れてるのに」
 今までどおりに歩きながら、三つ目のボールを手に取って、それをこつんと額に当てた。暫くそのままでいるトウヤにエトは気付かず、うーん、と煮え切らない生返事。こつこつと通りを歩いていく。昨日より少ないとはいえ、人波の絶える気配はない。
「ポケモン、な」
 足元を見ながら、意味ありげに呟くエト。トウヤは言葉を返さなかった。三つ目のボールを額にやったまま何かを睨むように数拍真顔になったが、すぐに気を抜くと、手にしていたボールを乱雑に前方へ放る。飛び出したのは、マリルリの姿をしたメグミ。
「何?」
「自慢しようかと思って」
 マリルとルリリばかりだから、とぶらぶら歩きながらトウヤは言う。メグミは例の仮面の笑顔で一瞬こちらを振り返って、マリーと並んで歩きはじめた。メタモンの癖に。エトは鼻で笑った。
「でも、戦う力があるのとないのでは、随分違うよ。ハシリイみたいな所に住んでると分からないだろうが、一歩外は、ポケモンを持っていないと迂闊に出歩けないような世界だ」
 それから、一番手前のボールを手に取って、右掌で暫く遊ばせる。
「それに、ポケモンの心得があれば、どこに行っても大概の事はどうにかなる」
「説得力あるな、それ」
「そうだろ。それ以外なんの才もない浮浪人がそう言うんだから、間違いない」
 そう得意げに自虐しながら、右手のそれをまた雑に放る。現れたノクタスのハリは、トウヤとエトの並んで歩く後ろを、のそのそと歩きはじめた。
「……? さっきから何だよ?」
 トウヤは前を向いたままにやりと笑うだけで答えなかった。顔を覗きこんでくるリグレーの頭を、下手にテレポートするなよ、と言いながらとんとんと叩く。
「マリルだけだと、護身用にはちょっと厳しいかもな。マリルリになれば強い子もいるけど、ハシリイのマリルには土地柄『勝手さ』が染みついている感じがして、初心者向けとはあまり思えない。そういえばポケモンを売ってる店があっただろう、育てれば結構戦力になりそうなのもいた。ああいうとこから選んでもいいな」
「……やっぱそうだよな」
「なんだ、もう目星つけてたのか?」
「秘密」
 また秘密か、とトウヤは穏やかに笑う。散歩するマリルや闊歩する人々の間を抜けていく足は、対して、少しずつ、少しずつ速まっていく。
 何やら嬉しげにしているエトを、けれど、とトウヤは見下ろした。
「演者もろくに務まらないような度胸のない奴に、家を出れるとは思えないけどな」
 先程まで散々大人にいびられていた声が蘇ったのだろう、うっせぇな、と結構本気で切れながら、エトは僅かに顔を赤らめた。
「口説き落とした途端に逃げ出すような度胸ない奴が言うな」
「ああ、それもそうだ」
 ――ふっと肩が軽くなる。身構えていたような速さで振り向いたトウヤが目にしたのは、けれど、後ろを歩いていたノクタスに、リグレーが甲高く鳴き喚いているだけの光景だった。
 ……トウヤの方はかなりの脱力感を覚えつつ、二人黙ってそれを見守っていた。行き交う人々が不審な視線を浴びせてくるくらいにはぎゃんぎゃんと騒ぎ立てながら、仏頂面のハリの目の前で、テラは物凄い速さで両腕を回転させていた。それから念力を使って目にも止まらぬ速さで宙返りを始める。その後、ハリが、極めて普段通りの調子でぼんやりと二回瞬きをすると、ぴたっとテラは動きを止めた。こちらへ振り返る。エメラルドグリーンのその両目には、大粒の涙が溜まっていた。
 制止も虚しく――いや、トウヤは「あっ」と言いながらちょっと手を伸ばしただけだったが、テラは泣きながらぎゅんっと二人の横を通り過ぎると、並んで待っていたメグミとマリーの上をも飛び越えて、結局物凄い速さで喧騒の向こうへと消えてしまった。ルルゥッ、ルルゥルイ! と言いながら、マリーがそれを追いかけて、また見えなくなる。保護者の人間達は、そちらを見つめながら暫し茫然と突っ立っていた。
「……子供相手に何喧嘩なんかしてるんだ……」
 呆れた様子で振り返れど、ハリはいつもの微笑んだ形のまま、黙って小首を傾げるばかり。
 追いかけるのか、とエトは問うたが、どうせすぐに戻ってくると踏んでそのまま目的のない散歩を再開する。なんの話をしていたか思い出すのは諦めて、トウヤは話題を切り替えた。
「お前、ハシリイを出るって」
「うん」
「彼女どうするんだ」
 エトとカナミの対照的な部分は、ある異性との付き合いの長さ、という点に如実に表れる。カナミに関しては、知り合ってからトウヤが把握しているだけでもう五人は取っ替え引っ替えしているが、エトの方には、十八歳にしてもう六年の付き合いになる幼馴染の彼女がいた。
 じとっとトウヤを見上げてから、エトは気取って腕を組む。
「別れるだろ、そりゃ。そんな頻繁に戻ってくる気はねぇし」
「……しつこいな」
「え?」
 トウヤの唐突な呟きを拾ってエトはまた顔を上げた。トウヤは少し険しい表情で同じように歩いていたが、軽くため息をつくと、また一番目のボールを手に取り、先程出したばかりのハリを中に戻してしまった。
「……だから何してんの……?」
「悪い。なんでもないよ。でも作戦変更だ」
 ハリのボールを元の位置へ。メグミ、と呼びかけると、マリルリはぱっと振り返って、二人へ向けて、ぱっと両手を上げた。
「……?」
 それから、ぱっと前へ向き直り、ずんずん歩いていく。
「別れるのか。勿体ない……」
 トウヤもトウヤで、当然のように会話を続行するし。エトはやや混乱している様子で再三顔を上げた。前を行くメグミが細い路地へ折れ、侵入していく。トウヤもそれについていった。エトもとりあえず従うしかない。
「……な、何なんだよ……」
「合わせておけ。僕の左にいればいい」
 トウヤは小声に、早口に言った。それから、
「実に勿体ないな」
 元の声量で続行しようとする。何が勿体ないのか、思い出すのにエトはやや時間が要った。
「……べ、べ、別に勿体なくは……ッ」
 ――どこからか響いてくる歌声。滑らかで抑揚の薄い、気持ちの和むような愛らしい声。ただ状況が状況すぎる。人気のない細径に入った途端だ。思わず肩が強張る。振り返りそうになるのをなんとか我慢した。とにかく左にいればいい。ぎこちなく歩きながら、目を見開いて、視線だけ動かしてエトはトウヤを見た。トウヤは平然と見返した。
「勿体ないだろ」
 三度目。
「……、……なんで勿体ないんだよ」
「だって、まず……幼馴染っていう状況が羨ましい」
 ふと歌声が止まった。少し心を落ち着けてその薄暗い細道を見ても、歌い手らしき人影はどこにも見えない。気味が悪い、と抱いた感想が、その歌声に対するものか、トウヤの発言に対するものか、正直もう自分でも分からなかった。
「あんな良い子なかなかいないよ」
「会った事ないだろ……」
「そうだったかな。カナからよく話を聞くから、サワちゃんだったか」
 また歌声が始まった。歌詞があるのか、発音はあるけれど言葉は理解できない。ポケモンの声かもしれない、と思い始めた。建物に反響しているが背後からだ。幾分冷静な心地でちらりと窺う。トウヤはこちらへ目配せもしない。
「お菓子作りが得意だそうで」
「……姉ちゃんベラベラ喋りやがって」
「献身的なんだろ?」
「羨ましいだろ」
「正直な」
 また歌が止まる。カラン、と何かが落ちる音。遠く感じるが――トウヤの表情が少し動いた。それから、視線はやらずに、口先だけ動かしているくらいの殆んど声にならない声で、エトに伝えた。
 五メートル。
 ……ぞっとして、足が止まりそうになる。何がいるというのか。メタモンにしたって、人より耳がいいはずのマリルリが振り返らないのも奇妙だ。
「そもそもお前みたいな性悪と付き合ってくれる子なんて、他にいるのか?」
「……」
「なあ」
 返さなければ。――いつもの調子で、努めていつもの調子で、これくらいの『度胸』がなくてどうする、と自分を鼓舞すると、エトは表情を作り変えた。
「いくらでもいるよ、トウヤには悪いけど」
 眼鏡の縁をクイッと直して、長めの頭髪に涼しげな眼を持つ眉目秀麗な少年は言う。
「俺、イケメンだから」
「ハッハッハ、お前」
 ――適当に包帯を巻きつけた左手を自然な動きで体の『前に隠す』ようにしてから、その指が示す。
 三。
 エトは唾を飲んだ。
「お前って、本当に」
 二。
 そこまで来るとエトにも聞こえた。何かが強く地を蹴った。体が凍る。トウヤは一は示さなかった。咄嗟に右足を引きエトを庇うように半身になって、その右腰の元あった位置の少し向こうへ――飛びかかってきた、灰色の獣へ、
「鬱陶しいな――ッ!」
 僅か気合を発しながら素早く拳を振るった。
 それが後頭部を捉えた。芯に入りはしなかったが己の勢いも余って、獣――チラーミィはメグミの手前の地面へと顔から激突した。メグミは動じなかった。先程までと全く同じ冷めた目で、その小さな襲撃者を見下ろした。
 裏路地の埃に薄汚れたチラーミィがもぞりと動こうとする。エトの茫然と眺める中で男はそれに近づいていった。少し顔を浮かせた獣の横顔が一瞬エトに見えた。その開ききらない目は単純な恐怖に塗れていた。トウヤも凡そその目を見ただろうが、無言でそれに狙いを定めて。大きく右足を引いた。
 慈悲はなかった。強かに側頭を一蹴されたチラーミィは、ひとつの悲鳴を上げることもなく建物の石壁に後頭部を打った。惨たらしい音がした。エトは刹那思わず目を瞑った。どさりと地に落ちる。そのまま動かない。瞼は下りて愛らしい口元は薄く開いたままぴくりとも、動かなかった。
 暫く見下ろしながら、靴の汚れを払うように、トウヤは右足で地面を小突く。それから、すっと振り返った。その顔が、普段自分の家で自分の姉にからかわれている彼の顔と、幼い自分の妹と遊んでやっている彼の顔と殆んど、相違ないことが、寧ろ、――トウヤは何も言わず元来た道を歩み始める。はっとして、エトは彼の残したチラーミィを見た。
「捨てておけ。そいつはもう動かない」
 声だって、不自然なほどの感情のなさを除けば、殆んどいつもと同じ響きだ。
 チラーミィの主なのだろうか、トウヤの視線の先に立っているのは、エトよりもう少し幼く見えるくらいの少年だった。膝が震えている。トウヤが近づいていくと、はっと我に返ったように、踵を返して逃げようとした。――けれど、その進行方向に放られたボールから飛び出したハリに阻まれて、腰を抜かしてへたり込んでしまった。
 それに向けて、トウヤが遠ざかっていく。メグミも自分の脇を抜けてそちらへ歩いて行こうとする。近づくのも怖かったが、離れられるのも怖い、動かないチラーミィを一瞥して、エトもやっとの思いで歩みを出した。
 がたがたと怯える少年の前に立ち、見下ろして、抑揚のない静かな声で、トウヤは喋りはじめる。
「『歌う』が効かなくて焦ったろう、『神秘の守り』と言う技だ。見えないように掛けたから分からなかっただろうが」
 そんな技、誰が、いつの間に。見下ろすと足元には、何事もなかったかのような顔でそれを眺めるマリルリが、長い耳をふよふよと揺らしている。
「何が目的だ? ボール泥棒にしても妙だった。ポケモンを後ろに解放した時点で標的を変えたってよかったはずだ。旅の観光客の多い時期に、執拗に僕を追いかけた意味は。……知らない顔、だよな」
 そこまで迫られた瞬間、少年のポケットから差し出された小瓶を見て、トウヤは僅かに顔色を変えた。小指ほどの大きさの、玩具のようなガラス瓶の中に、乳白色の液体が収まっている。
「ホラ、やるから見逃してくれよ。売人だよ、お前らの仲間だ。強いポケモンが欲しくて、お前らみたいな連中が持ってる奴なら絶対強いし、ちょっと魔が差し――ッ!」
 少年の顔がさあっと青ざめる。けれど、エトだって、同じだった。――その手から小瓶をもぎ取ったトウヤは、自分のボディバッグにそれを収める代わりに、黒い小さな板のようなものを手にしていた。
 パチン、と軽い音を立てて、折り畳みナイフの刃が飛び出した。
「……トウヤ?」
 エトの声が、笑える位に、上擦っている。――ミソラの前で、果物の皮を剥くのに使う、だとか言ったナイフだ。手慰みのように刃を収めてはカチンと飛び出させる動きを繰り返しながら、ゆっくりと、トウヤは少年の前に屈み込んだ。
「今の、ドーピング薬か?」
「……、あ、は、はい……」
「売人と言ったな。売るように頼まれたのか」
「い、い、委託……その……されて……」
 そんなに怖がらなくてもいいよ、と、残光を微かに弾く細身の刃を他人事に眺めながら、低く問う。
「その委託元と、僕が仲間だって、今、言ったのか?」
「……え?」
 少年の目が、狼狽えるように白黒する。
「え、あ、あれ? 『リューエル』の団員じゃないの?」
 多分、彼と同じくらい、エトにも訳が分からなくて、しゃがみ込んでいるトウヤの背中を半ば錯乱しながら見やった。リューエル。その組織の名前は、エトだってよく知っている。裏で色々やばいことをやっていると噂の、ポケモン関係の慈善団体……トウヤは息をつきながら、そこに完全に座り込んだ。ナイフは右手にちらつかせたまま。
「残念だけど僕はリューエルの人間じゃない」
「ええ? でも」
「どうして僕の事を、そうだって勘違いしたんだ?」
「それはだって、あいつが――あっ」
 しまったという風に手で口を覆う。向こうで伏したままのチラーミィを、トウヤもエトも一瞥した。
「あいつが?」
「……」
「話せないのか? 秘密にしろって言われてるのか」
「……や、約束……なんだ」
「リューエルの薬売りとの?」
「ッ、……」
「そうか」
 エト、と名前を呼ばれて、それが心臓に氷柱を突き立てられるような硬直を生んだ。返事のできないエトを座ったままゆらりと見上げて、トウヤは静かに微笑む。それが、ついさっきまで話をしていた彼の顔と、もう、全く変わらなくて――それが、尚更、恐怖を煽った。
「巻き込んで悪いな。全部秘密にしてくれるか」
「……うん」
「助かる」
 それだけ言って、トウヤは少年と向き直った。
「もう一度聞くよ。どうして僕を、リューエルの人間だと思ったんだ?」
「……」
「……なぁ、お前、知ってるか。お前の後ろに立ってるノクタス、一番の好物は何だって言われてるか」
 答える訳もない質問に、また刃をしまって、パチンと出すだけの猶予を与えてから、トウヤは薄く笑んだ。
「人間の死体だ」





 その少し前、ミソラは決意を固めていた。
 今日も借りていたつばの広い帽子を、被り直す。前がよく見えるように。はぁちゃんの手を取って、ずんずん進んでいく。お師匠様に貰ったお金でお昼ご飯のピザを食べて、アイスクリームを食べて、昨日おいしかったお饅頭をまた食べて、冷やしモモンを食べた。ハヅキの胃がミソラと同じく意外と無尽蔵だったから助かる。ちょこまかと逃げていきそうになるニドリーナのリナ、ちょこまかと逃げていきそうになるルリリのマスカをやっとこさ引っ張りながら、トウヤと廻った所を踏み直すように遊び回っているうちに、決意はどんどん強まっていった。
「ねぇ、ミソラちゃん」
「ミソラちゃんじゃなくて、ミソラ兄ちゃん」
「ミソラちゃんは、どうして髪が長いの?」
 道中ではそんなことを聞かれて、ミソラはきょとんと固まってしまった。
「……どうして、って? カナミさんも、髪は長いよ?」
「でも、ミソラちゃん、男の子なのに、女の子みたいに髪が長いよ。変なの」
 道端に立って、お饅頭を食べている時だった。しっとりした餡子の上品な甘さを堪能しながら、変なのか、とミソラは考える。変だろうか。確かに、言われてみれば、ミソラの知り合いの男性でミソラみたいに髪の長い人はいないような気もする。ミソラ自身だって、男はそれなりに髪の短いもの、と考えている節さえあるような。事実、エトに最初に出会ったとき、その肩にかかる程度の髪のことを『男にしては長い』と感じたのだ。
「うーん、どうしてだろう」
 どうしてだろう。何故だろう。何を思って、記憶を失う以前の自分は、髪を伸ばしていたのだろう。……考えても分かりそうにはないけれど、分かることが、一つある。思い出せないけれど、これくらい髪が伸びるくらいに、自分は、長く生きてきたのだ、ということだ。
 その長く生きてきた思い出せない時間と、それに比べればきっとほんの少しの、けれどもこれからも続いていく時間。その二つの大切さの重みを、ミソラは天秤にかけた。今まで生きてきた消えてしまった自分にとって、これから生きていく、今の『ミソラ』にとって。結果は、正直秤になんか掛けなくたって、持ち上げた時点で、分かりきっていた。
 手を引いて歩いていく。どこいくの、と問うはぁちゃんを、連れて行っていいものか、どうか。けれど面倒を見ない訳にもいかないし、今、と決めたら、今しかないのだ。行かなければ。行って、そこに必ずいる確証なんて何一つないのだけれど、何故だろう。直感みたいなものが働いていた。
 昨日、手を引かれて立ち去ったあの時の屋台街へ、ミソラは自分より小さな手を引いて、ずんずんと進行していく。
 不味いモモンクレープの店。髪色の違った自分の事を覚えているのだろう、興味津々とこちらを眺めている。そのお店の人だけではない。昨日より人は少ないけれど、食事や休憩を取っているハシリイの人や観光の人が、ちらちらとこちらを見る。それから、それぞれが一様に、ある方向へと顔を向ける。――いた。無意識に手に力が籠ったらしい、ハヅキがふっと不安げに顔を上げた。
 大きな声で談笑していた相手方も、すぐに気付いた。会話が止まる。怪訝として、或いは不快げな顔つきで、二人の子供を見やる。遠巻きな空気の変化を察したハヅキがミソラにしがみつくように背後に隠れた。それを安心させられるほど、自分の背中は大きくない。けれども睨みを効かせられるくらいには、今度のミソラは落ち着いていた。
 連中は、暫くミソラの事を窺っていたけれど――その周囲に、『昨日の男』がいないことをしっかりと確認すると、しめた、とばかりに互いに顔を見合わせた。
 派手な身なりの、白い肌に碧眼の外人たちが、また親しげな、怪しげなにやつきを浮かべてこちらを目指してくる。
 ミソラちゃん、とハヅキはか細く囁いた。大丈夫、と、ささやかに言い聞かせる。マスカが頼りなく鳴いた。リードの先でリナが唸る。ミソラの口元は、なぜだか、笑っていた。
「――よろしく、僕の『兄弟』」









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