甘ったるいクリーム、果汁の染み出すモモンの歯触り。食べるのが下手で、手も口まわりも、あれよと言う間にべとべとになった。幾重かに包み込む生地までが甘い。頭の奥にまで粘っこくへばりつく糖分を感じながら、ミソラはそこで少し大人になった。つまり、なんでもかんでも甘ければいいというものでもない、そういうことなのだ。
 そんなことを考えているなんて思えない速度でビッグサイズのモモンクレープを蹴散らしながら、ミソラはテラと目線を合わせる。水のグラスを握りしめたままテーブルに突っ伏して動かない男の肩に座って、テラもまた目を細めて、時折船を漕ぐようになり始めていた。
 結局十分くらいしてから戻ってきたトウヤは、顔色こそ随分ましになってはいたものの口数に関しては半分以下に減少した。大丈夫かと問うても待たせたことを短く詫びてくるばかりで、手を取ることも忘れてしまったのか、虚ろな表情で一人ふらふらと歩いていく。どこかの店で休憩を、と提案したのはミソラの方だった。
 広々した座席スペースをたくさんの小規模店が取り囲む屋台街に入って、やつれた人を適当に座らせて、財布とハリを寄こされたミソラは一人と二匹で買い物に出かけた。背後からついてくる案山子草に見守られ、人混みでもなんだか大人しいリナを引いてクレープを二つ買って戻ってきた時には、男は少しは元気になっていたが、クレープに関してはいらないと言われた。確かにこの選択は失敗だった。師匠の空っぽの胃に入れればまた戻していたかもしれないと思ってしまうくらい甘々のモモンクレープは今、二人の間にちょこんと腰かけるハリの目前にくたっと倒れている。
 突っ伏したまま、喧騒の中聞き取れるか取れないかくらいの声量で、悪い、とトウヤは繰り返し謝った。はい、とかいいえ、とかの曖昧な応対しかミソラもできなくて、このクレープがそんなにおいしいと思えない理由に場の空気って関係しているのかも、などと考えてみる。そのうちに男がのそりと体を起こすと、完全に眠る体制だったテラが後ろに倒れかけた。それを危うく支えて自分にくっつけ直していると、ちょっと目の覚めたような顔をした。
 ハリがアイコンタクトで、クレープを主人に示す。トウヤはやや難しい顔で黙って首を振った。ハリもまた無言でそれを手に取ると、ミソラの足元でぎりぎり良い子にしていたリナの手前へと、中身だけぽとりと落とした。……「待て」も「よし」もなくがっついて顔面クリーム塗れになったリナをたしなめて、ミソラは笑った。トウヤも若干表情を緩めたようだった。
「あの、体調は」
「もう平気だよ。悪かったな」
 でもお前に買いたいものがないなら、しばらくしたら帰ろうか、という提案に、まっすぐ視点を据えながらミソラは頷いた。――一体どうしたのか、あの時何が起こったのか、と聞いてもいいのか、悪いのか。遠慮するなとは言われたけれど。前へ、手元へと視線を泳がせながら、落ち着きがなくなったのはリナだけでなく、ミソラだって同じだった。
 ……自分だって口数の減ってしまったミソラを暫し眺めて、トウヤは頬杖をつき、呆れ気味に微笑む。
「二日酔いかな」
 え、とミソラは、薄く口を開いたまま固まった。
「でも、二日酔いしなかったって、さっき」
「後から来ることもあるんだろ。僕も初めてだ」
 そんなことを言われると、不安を払拭するための選択肢として、納得のいかないままにミソラはそれを受け入れてしまった。けれどそうやって受け入れるだけで、そんなものか、と気が楽になる。
 ぺりぺりと包装を剥いて、憂さ晴らしみたいに大きな口でかぶりつく。足元のリナは早くもぺろりと平らげて、クリームひげのままで身繕いを始めてしまった。
「甘いもの好きだな、しかし」
「はい!」
「よくそんなのが食える」
「お師匠様、甘いもの嫌いでしたっけ」
 リナの体の上を旅して右耳の上までたどり着いたクリームの一塊を、ぬっと緑色の手が伸びて寄って、そっと撫で取った。トウヤに見つめられる中で、ハリもまた自分の手の先の食われはぐれたクリームを眺めて、眺めて、眺めてから、黙って自分の口元へ運ぶ。
「嫌いというか」
「苦手ですか」
「そんな感じかな。子供の頃は好きだった。僕の父さんが好きで……」
 父さん、なんて言葉をその流れで彼の中から引き出せたのが不思議で、ぼんやりしているトウヤとは対照的にミソラは少し背筋を伸ばした。――様子がおかしくなってからの間、彼が見つめていたのは、もしかすると。
「……母さんは少し厳しくて、虫歯になるから食べるなって、僕にも、父さんにも言うんだけれど。父さんは子供みたいな人で……怒られても、またこっそり買ってくる。それを二人でこっそり食べて、なぜか当たり前のように見つかって、また怒られて……」
 その視線がどこか彼方の方へ流れていくのが、少し怖い。完全に眠り始めたテラを首から剥がし、ハリの膝の上に乗っけると、トウヤは目線は伏せたまま背もたれに寄りかかった。
「こういう、ちょっとしたことを思い出すのが、前は、凄く辛かった。だから、思い出したくなくて、食べなくなって……気付いたら苦手になっていて……」
「……写真、」
 言い淀んで、視線が手元に落ちる。俯くと、帽子のつばが遮蔽して、師匠の様子は見えなくなって。向き合おうと思っていたのに、もう全然だめだった。知ってたのか、と返すトウヤの声は苦笑気味で優しかったけれど、その人がそう言いながらどんな顔をしているのか、見る事なんてできなかった。
 写真。お師匠様が写っているの、殆んどありませんでしたね、という言葉の裏に隠れていた本当の問いに、トウヤは気付いていたのだろうか。気付いて、敢えて、無視したのだろうか。自分は残酷だ、とミソラは唇を噛む。彼の両親が既に他界していることは、彼自身からだって、聞かされたことがあったのに。
 ぐちゃぐちゃに並ぶ写真立ての中に、ひとつだけ、いつ見ても伏せられているものがある。ありふれた青いフレームに収まっている、他よりうんと色褪せた一枚。映っているのは、きりっとした気の強そうな眉のきれいな女の人と、少し気が弱そうで、でも凄く温かい目をする男の人と。全く見知らぬその男が、見知った人にとてもよく似ていたから――二人に手を取られて無邪気に笑う男の子がトウヤなのだと、痣も包帯もなくたって、ミソラはすぐに気付くことができた。
 たったひとつ、彼を示す古い家族写真。知ってしまってから、問いたいことは、溢れるくらいに抱えていた。それは、普遍的な『親』という存在に対する純粋な好奇心もあったし、トウヤのことを理解する上では多分、避けてはゆけない部分だからというのもある。――なぜココウにいるのか。思い出に痛みを覚えるほど両親を好いていたのに、なぜその元を離れたのか。養育費を送ってもらってまで、なぜ叔母という立場の人の家で居候になったのか。眠れない日々を凌ぎながら、なぜ故郷に帰らなかったのか。
 あいつ、リューエルの生まれらしいんだよ、とタケヒロの言っていたことは、本当なのか。生まれ故郷のその組織を、どうして気にくわない風にしているの。あなたの親はどうして死んでしまったの。子供の頃には見えなかったその『痣』は何? その包帯はなんの為? ――遠慮するな、なんて無理だ。遠慮のない性分なら、とうに爆発して、全部ぶちまけてしまっただろう。けれど、これ以上自分の満足の為に、苦しい顔をさせたくない。つま先立ちで遠巻きに慎重に踏み込んでも、ちょっとしたことで、知らない間に地雷みたいに脆い部分を踏みつけて、こんな風に弱らせてしまうなら。気を遣うなという方が、最初から無理な話だった。
 落ちた視線が上がらない。妙に憂鬱になった。力なく口につけたクレープを、噛み切るのさえ億劫だ。
 少し前までミソラの手を握っていたトウヤの右手が、グラスを持ち上げるのが窺えた。それをトン、とまた置くと、トウヤは不意に軽く頭を振って、両手をテーブルにつき少し前傾姿勢になる。
「ミソラ」
 呼ばれて顔を上げると、対面するさっきまでぼんやりだった人が、急に真面目な表情に変わっていたので、ちょっと驚いた。
 ――後から聞いた話だと、『遠慮しない』ことをミソラが諦めたその瞬間にトウヤは、『もっとミソラちゃんのこと分かってあげたらいいんじゃない』というレンジャーに課せられた宿題を、全く諦めていなかったらしい。
「カナの事だけど……」
「カナミさん?」
 問い返すと頷いて、その後はこちらを待つように押し黙ってしまったので、ミソラは慌てて答えを探した。ああ、昨日の事か。自分が不安定に煮え切らなかった原因がそこにもあったことを思い出して、渋い果物を噛みしめるような心地がした。
 しかし、声にして説明してみれば、それが自分にとってどれだけ重要な案件であったかと言う事を、改めて認識せざるを得なくなった。――見覚えのないアップスタイルの黒い髪への、あまりにも強烈な『既視感』。その正体が、失ってしまっている『と思っていた』自分の記憶の中にあるのだとしたら。
 聞きながらトウヤは険しい顔で腕を組んだ。それから、ちらりとハリの月色の瞳を垣間見た。
「……最初、変だと思ったんだ。お前が覚えているかは分からないけれど」
 砂漠の真ん中で出会った時の話をトウヤは持ち出してきた。町まで連れていって欲しいと頼まれ、でもお前の連れが探しに来るだろう、と問うた時に、自分で何を言ったか覚えているか、と。ミソラが首を振ると、
「『そんなものはいない』と言ったんだ。断言したんだよ。……完璧に失ってしまった訳では多分、ない」
 打って変わって冴えた表情でトウヤは言う。……自分でさえ見えもしない心の中を覗かれたような気がして、ミソラは穏やかでない気分だった。
 でも、と狼狽えて零しながら、指を絡める己の手元に視線を落とす。その白い、周囲の人とは違う色。
「でも……あの時は、必死で……」
「……それから……『兄弟』、兄弟がいた気がする、と言っていたこともあって」
 はっとトウヤは顔を上げる。
「その長い黒髪、って、『兄弟』のことなんじゃないのか?」
「それは違います、私の兄弟はあの、男の子で――」
 ――自分の口から滑り出した言葉が信じられなくて、ミソラは瞠目する。
 トウヤは沈黙した。ミソラの気持ちの整理がつくのを、自ら喋り出すのをまた待っているようだった。ミソラもまた、知らぬ間に拳を握りしめていた。早鐘を打ちはじめた心臓が示すのは、――『完璧に失くした訳ではない』証拠は、過ごしてきた日常の中の非日常という形になって、時折ミソラの前に現れていたのだという事。危なくなると、ミソラを鼓舞するように己の内から響いてきた、あの不思議な声。バクーダの炎に包まれながら発動した、人に非ざる防御の技。そんなのは、そう、ミソラだって最初から知っていて――砂漠で目覚めた時、鳥獣に襲われた自分を『いっとう最初に』守ったのは、だって、トウヤではなかったのだ。
 汗が滲み出てくる。あまりにも一過的だった奇怪な出来事、奇怪とさえ大して思えてもいなかった事柄が自分の中に色濃く残っていた、それが恐ろしかった。そこにはきっと、自分とは別の働きかけがある。例えばそれは、潜在意識の中に確立していた『兄弟』だとか……記憶を失う前の、この体の『前任者』であるはずの、忘れてしまった自分だとか。
「……私」
 何を言えばいいのだろう。どこまで話せばいいのだろう。絞り出した、そのたった三つの音でさえ心許なく震えて、続かない。トウヤの表情が曇った。先の彼みたいに、自分は危うい顔をしているらしかった。何か飲み込んで、もういい、と言いたげに低く名前を呼ぶ――その双眸が。
 ふ、と動揺と、薄く光を帯びて。
 信じがたいというような目で、トウヤはミソラの、その奥を見ていた。ミソラは振り返れなかった。俄かに響いてくる、極めて騒がしい雑音。他を飛び抜けて耳に突っ込んでくる声。それが理解できなかった。――率直に、単純に、理解しようとも、出来なかった。
「ミソラ……」
 まさしく釘付けになったトウヤの視線は、次第に熱い緊張を帯びる。
 声が、こちらに向かっている。下品な程の音質の太さ。続く甲高いもの。その示す色は驚嘆。このままでいたい、と密やかに念じる。時限爆弾。いつか変わってしまうもの。いつか去ってしまうもの。失う恐怖は覚えていなくて、でも、必死で手に掴みかけた、掴みかけたばかりだというのに。
 振り向くと。――そこで空色の瞳と視線を合わせた瞳は、それもまた、青い空の色を湛えていた。









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