うんと小さい掌がトウヤを掴まえるのを、ミソラは遠巻きに眺めているしかなかった。高いところで二つくくりにされた髪の毛はふわっと軽くて、明るい色のスカートから伸びる脚も、よく日焼けした腕も、下手に触れば怪我させてしまいそうなくらい細い。そのくらいの年の子供と関わり合いになったことがなかった訳ではないが、緑色のルリリを抱えるトウヤの腹にその子がぎゅっと顔を埋めると、なんとなく困惑してミソラはハヤテを見た。小竜もうずうずと体を揺り動かしている。
 ぱっと顔を上げた女の子の目は異様にきらきらしていて、こっちが気圧されそうになるくらいだ。
「あ、あのね、あのね」
 逃がすまいと言うように服を握りしめたまま、女の子はぱたぱたと足を動かした。
「ブ、ブリッジができるようになった!」
「それは凄いな」
「みててっ」
 勢いよく地面に転がろうとした子供の腕を取って、今はいいよ、と引っ張り上げる。するとまたきゅっとくっついてくるそれに、困ったような笑みをトウヤは浮かべた。再び見上げる幼気な顔は、今度は少し、泣きそうな色で。頑なに男を掴まえたまま子供は問う。
「また、急にいなくなったりするの?」
 無垢で透明な声色。……トウヤは暫しきょとんとしてから、また息を抜くように笑った。自分の肩から身を乗り出して様子を窺っているリグレーの事を一瞥して、目下、黒髪の小さな頭を控えめに撫でる。
「約束できないけど、ちゃんと戻ってくるよ。……大きくなったな、『はぁちゃん』」
 えへへ、と安心したようにはにかんで、照れ隠しとばかりに抱き着く『はぁちゃん』と、若干リアクションに困っている風な師匠という絵面。……あの、と当惑した声を掛ければ、女の子は今初めてミソラの存在に気付いたかのような顔をして、さっとトウヤの後ろに隠れてしまった。金髪に人見知りしたのか、はたまた大きなドラゴンポケモンに怯えたのかは分からない。
「お師匠様、その子は」
 記憶を失ってこちらでは初めて、誰かの年長者であることを色濃く意識している。落ち着きを装いながらミソラは言葉を選ぼうとしたが、それもあえなく別から飛んできた声に遮られた。はぁちゃんどこいったー、と、はきはきと明るい印象の女の声だ。
 おねえちゃあーん! と突然叫んだ女の子の声が、いくらもしないうちに向こうの路地から自転車を一台引き寄せてきた。乗っているのは前かごにマリルが一匹と、トウヤより少しだけ年上と見える女の人間。ばたばた手を振り始めた女の子と全く同じ色の長い黒髪を、きゅっと後頭部にお団子にして纏めている――その時、不意にやってきた奇妙な『見覚え』に。
 ミソラはすうっと血の気を抜かれた。
(あれ)
 その人を。
(……あれ)
 『知っている』――?
 襲いくる大きな波に、ミソラは飲みこまれそうになる。その動揺は全身を駆け巡って一瞬だけ膝を震えさせた。知っている? 耳につく鼓動が速くなる。変だ。おかしい。自然と視点が切り替わった。その挙動のひとつひとつに、あるはずのない懐かしさを見出そうとする。妹と、その傍らの人物の姿に、目を丸めて、ぱあっと表情を明るくして。やっほーっ、と大袈裟に片手を挙げる、その仕草。目の前にきゅっと止まる車輪、サドルに跨ったまま、今年は来ないのかと思った、とニッと見せる歯の並びや、高く伸ばして、まるで子供にするように男の頭を掻き撫でる手の動き――違う、違うや、あるわけない、知らない人だ。知らない場所の、知らない町の。なのに、この、何故だろう。この不思議な『既視感』の、正体は……?
 ……突如、当たり前のように導き出されたその答えに、思考が止まった。やめろ、と気恥ずかしげにその手から逃げるトウヤも、大きく口を開けていかにも愉快そうに笑い声を立てるその人の顔も、背景のようにしか見えなくなる。異常を察したらしいハヤテの鼻息が頬にかかって、それでもミソラは動けなかった。
 『ミソラ』という人が立つ、ぽっかりと浮かぶ円形の陸地の、その外の。風も息吹も何もない海だと思っていた暗闇の、一点、それはきっと紛れもなく、得体の知れない『自分』と言う、陸続きの一部分だ。
「しっかし、なんていうか……また色々あったみたいだね」
 自転車のスタンドを立てると、女はトウヤにそう言って、それから金髪の子供へと視線を移す。ああ、色々あって……とトウヤも顔をやって、その様子を見、ふと目を丸くした。
「ミソラ?」
 ――ふっ、と時が動き出したみたいに、視界に色が帰っていく。よく知った声に名前を呼ばれて急に平常が戻ってきた。いや、戻りきってはいなかったけれど、今何が起こって自分がどうなったのか、ようやく理解することができた。一拍間を置き、はい……、とあまりにも威勢悪く返事をするから、トウヤも少なからず怪訝としている。
「どうかしたのか」
「い、いえ……あの……」
 移ろう視線は、名前も知らない女の方へ。……聞くことを一瞬躊躇したのがなぜなのか、その時はまだ、ミソラは分からないが。
「……どこかで私と会ったことがありますか?」
 子供の問うたその意味を、トウヤは素早く解したようだった。
 師匠が僅かに眉を顰めたのを、ミソラは横目に見た。そこからはじっと女を見つめた。微かな反応も見逃さまいとした。なのに、その反応に何故か怯えているような自分が、また何とも不思議だった。
 女は何度か瞬きを繰り返してから、にっこりと微笑んで、かぶりを振る。
「ごめんね、でも、ないと思う。あなたみたいな外国の人と話をするのは初めてだし」
「そうですか……」
 似てる人でもいた? と笑いかける女に、ミソラは小首を傾げながら笑顔を取り繕う。変な質問をした申し訳なさが胸に起こってくると、自分が本当にいつもの自分に戻っていくのが分かって、ミソラは少しほっとした。きっと勘違いだ。何かの間違い――けれども、その横に立っている人の方に目を向けた時に、またあの不思議な既視感を、ミソラは覚えることになるのである。
 ……自分に向けてまた険しい表情をしたミソラを見て、何か思い出したのだろうかと気を揉みながら、とりあえず「大丈夫か」と無難な言葉をトウヤは選んでその子に寄越した。他人の女の前で、ミソラは何か言いあぐねている風だった。一旦二人になった方がいいのだろうか。異人種を恐る恐ると覗いている幼子の頭に手を置いて離れるよう促して、トウヤは一歩金髪の方へ寄ろうとした。けれどそれを制止するように、口が開かれる。
「お師匠様……」
 切羽詰まった様子の声色に、トウヤにも俄かに緊張が走る。
「なんだ」
「あ、あの……変なことを聞きますけど……」
 張り詰めた表情で、ミソラは自分の師匠――の、この地方ではごく一般的な、黒色の短い髪型を見やった。
「髪が長かったことって……」
「髪?」
「ありましたっけ」
「……え、えと……?」
「このくらい……」
 自分の背中の真ん中あたりを指し示すミソラを真剣な面持ちで見やりながら、トウヤは暫く押し黙った。
 先程彼がダイブした噴水からぴゃっと水が上がって、傍で遊んでいた二、三人の子供たちのキャッキャッという歓声が抜けていく。女の子の方はそれに目を向け、トウヤに抱かれっぱなしのルリリも、もごもごと何か囁きながらゆらゆら尻尾の水球を揺らした。自転車のカゴに入れられっぱなしのマリルも、むすっとしてそちらを眺めている。リグレーだけは歪みなくトウヤの顔を覗き込んでいた。……自転車に乗ってきた方の女が俯いて、堪えきれず噴き出した辺りで、眉間に皺を寄せながらトウヤはようよう返事をした。
「ど、どうしてそんな気味の悪い事聞くんだ……?」





「記憶喪失かぁ、そういうことって本当にあるんだ」
 でもまさか男の子だったなんて、と女がしつこく笑ってくるので、初対面の相手と言えどミソラもさすがに唇を尖らせはじめる。
 姉の方はカナミ、妹の方はハヅキと言う。『まぁちゃん』ことマスカが色違いのルリリの名前で、ハヅキのポケモンなのだそうだ。リードが千切れてしまった今、歩く一行の行く手を阻むが如く縦横無尽に跳ね回っている。自転車のカゴに入っているマリルが名前をマリーと言って、ただしマリーと呼ぶと何故か物凄く怒る。一度マリリンと呼びかけたトウヤは水鉄砲をお見舞いされて、トウヤにお見舞いされたはずの水鉄砲は避けられた後ハヤテの顔面に直撃した。
 自転車を押すカナミと、それに並んで行くトウヤ、二人の間にハヅキ。ミソラはハヤテと一緒に彼らの後ろを歩いていた。
 黒い、長い髪。――すらりと背の高い彼女のすっきりとしたうなじと、その上に纏められたつやのある髪質を見て、一体自分は、何を思っていたのだろう。初見の興奮は喉元を過ぎればなんの変哲もないものに変わって、覚えたのは落胆と、少しの安堵。見慣れたトウヤの黒髪からさえ妙な妄想を抱くほどに、『気のせい』の所存で、自分はおかしくなっていたのか。
「大変だったねぇ、記憶喪失なんて」
「そんなに大変じゃないですよ、新しい事ばっかりで毎日楽しいです」
「おぉ、前向きだ」
「お師匠様も一緒にいてくださいますし……」
 そうなんですかお師匠様、とニヤニヤしながらカナミはトウヤへ顔を向けるが、そういう扱いも慣れたとばかりにトウヤは取り合う様子もない。
「カナ、お母さんの様子は?」
「相変わらず。うちと病院を行ったり来たり」
「他の皆は」
「やっぱり相変わらずだよ。じいちゃんもばあちゃんも元気だし、エトはぼんやりしてるし」
 そっちが色々ありすぎなんだよ、とカナミはけらけら笑う。よく笑う、笑顔の似合う人だ。それが連れているマリルは、主人が笑えば笑う程機嫌を損ねていくように見えるけれど。
「ハヤテは大きくなってるし、新しいポケモン連れてるし、しかも弟子まで取ってるし」
「好きで色々あってる訳じゃない」
「うそだー、楽しそうにしてるじゃん」
 でも大変だったねぇ、トウヤも、と再び無理矢理に頭を撫でられると、トウヤは嫌そうに首を縮めた。けれども合間に聞こえた、久しぶりに労(ねぎら)われた、というささやかな声に、ミソラは彼らの関係性をほんの少し覗いたような気分になる。
「けどさ、来るタイミングは丁度よかったね。お祭りは明々後日だし、今年は特に見物だし」
「見物って?」
「あのね、まぁちゃんね、『踊り子』やるんだよ!」
 張りきったハヅキの声に、ぽよんぽよんと踊り続けるマスカの『まぁちゃん』。トウヤの反応を見る限り凄い事のようで、気になりはしたが、三人の雰囲気の中に割って入ることがミソラには今は躊躇われた。
「そういえば、まだ櫓(やぐら)が立ってなかったな」
「あー、そう、今年はちょっとね……」
 わずかに苦い表情を浮かべたカナミの傍らで、ねぇねぇ、とハヅキが跳ねる。
「とーやくん、いつまでいるの?」
「しばらくとは思ってるけど」ちらりと振り返ってくるトウヤに、ミソラはにこりとして無言。
「しばらくって、どれくらい? 三時間くらい?」
 ぎゅっと右腕にまとわりついてきたハヅキを弱ってトウヤは見下ろし、それからカナミへと目を向ける。
「……どのくらい泊めてくれる?」
 ちょっと気弱な問いかけ。カナミはニヤッと笑みだけ返し、ハヅキへと目線を合わせた。
「あのねぇはぁちゃん、トウヤくんね、ずーっといてくれるって!」
「――ほんと!? やったあああぁーっ!」
 腕にぶら下がるくらいの勢いで大喜びするハヅキに、無茶言うなよ、と呆れるトウヤ、声を上げて笑うカナミ。……一緒に来てよかったのだろうか、という思いが一瞬頭をよぎり、慌てて払拭する。うきうきと上下する小さな掌を宥めるように、不慣れな動きでそっと包み込む、男の大きな右手。ちくりというくらいの些細な痛みが胸をついた。それ以上に、ジト目でそれを見下ろしているリグレーの存在が気になったが。
 案内された姉妹の家は広くて、狭きに雑然と入り乱れるココウの民家しか知らないミソラはその大きさにちょっと驚いた。裏口から通された土壁の屋内は思いの外に涼しい。食卓のような場所に荷物を降ろして、出してもらった冷えたお茶をごくごくと流し込むと、多少のもやもやは剥がれ落ちていく気がした。この家に『しばらく』泊めてもらうのか。「泊まるあてはある」と言っていたそのあてが女性の知り合いの家だったのは、ミソラには予想外の事であった。
 一方、お茶の代わりに差し出された褐色の小瓶を手に取って見つめて、トウヤはあからさまに顔をしかめる。
「悪い冗談だ」
「来るタイミングは丁度よかった、って言ったよね、私」
 今年もしっかり頼むよ、と肩を叩かれると、トウヤはまた溜め息をつきながら小瓶の蓋を開けた。
「それ、なんですか?」
「ん」
 内容物を一息に飲み干して、不味そうな顔を向けてくる。
「……薬?」
「また薬ですか……」
「予防薬かな」
 あっ、とミソラは声を上げた。
「持ってくるの忘れたっておっしゃってたやつ!」
「そう、それだ」
「あー、まだ一応自分で用意する気はあったんだ。毎年忘れてるけど」
 空瓶を受け取りながらカナミが茶化すと、無いと死ぬからな、とトウヤが低くぼやく。ミソラはごくりと唾を呑んだ。
「死……」
「それ無しであそこに行くとね、死にはしなくても酷い病気になるしね」
「あれは本当に酷い……」
「これからですか? 一体どこへ?」
 食い付いてきたミソラに、くつくつと笑いながらカナミは答える。
「戦場、戦場」
「せ、戦場……!」
「戦場と言うよりは地獄だな、ひたすら耐え忍ぶ感じが」
「ミソラちゃんもこれから行くんだからね、そこに」
 えぇっ! と背筋を張ったミソラは、もう既に『ミソラちゃん』と呼ばれ始めたことに気付きさえしない。でも子供は大丈夫、と言われて、更に訳が分からなくなった。突然物騒な展開に突入したのに、前のめりになるミソラの背後で、呑気な顔をしてハヅキはルリリと遊んでいるし。
「ど、どうしてそんな危険な所へ……それって一体、どんな病気なんですか?」
 どんな病気なの? とまた笑いながら話を振られると、トウヤは重々しい表情で、ミソラも普段から慣れ親しんでいるその病名を提示した。
「『二日酔い』だ」

 ――そして横に長いテーブルには目が飛び出るくらい多種多様な料理が並べられている。脇目もふらず箸を運ぶ先には肉。甘辛く煮つけられたやつが大層お気に召して、ミソラは一人でそれを殆んど空に近づけた。苦手な野菜も多いけれど、食べられるものも十分多い。ミソラは非常に満足だった。……ただ、これを食べる状況がもっと良ければ、もっとおいしく味わえただろうに。
 今、ミソラの視界には、右も左も知らない人間しか映っていない。トウヤと同じくらいの年齢層からもう先は長くないだろうと思われる年寄りまで種々様々な層の男女が、思い思いに騒がしく捲し立てながら酒を酌み交わしている。酒だ。酒、酒、そして酒。ミソラの前に置かれているのも最初に座った時にはオレンジジュースだったが、今は何かきつい匂いのする得体の知れないものに替わっている。必然的に酔っ払いとの絡みの多くなる所に住んではいるからそういう状況に慣れない訳ではないが、その匂いだけは、きっとまだまだ嫌いのままだ。
 その宴会場にトウヤと二人放り込まれたときから、どのくらい時間が経っただろう。ミソラたちがやってきた瞬間にはもう場は完全に出来上がっていて、浴びせかけられた歓迎の声も何の事だか全く分からず、ただそこでの一息目を吸うだけでミソラもたちまち気分が悪くなった。それでも、引きつった作り笑いを浮かべていたトウヤの前に差し出されたのがお人形遊びに使うようなちんみりとしたコップだったから、どうにかなるだろうとミソラは踏んでいたのだ。彼は断じて酒に強い方ではないけれど、そのくらい小さな小さなコップであれば、五十杯くらいは平気で呑める。……なのに、三杯目をクッと呑み終えた段階でまともに座っていられなくなったトウヤを見て、ミソラは大いに混乱した。お酒には『アルコール度数』という尺度で表される強い弱いがあるのだということを、そこで初めて教わった。後日トウヤに「あれは飲み物じゃなくて消毒液だ」と評される、その澄んだ液体。毒も同然だった。
 知らない人達に晴れやかな笑顔で引き摺っていかれた彼がその後どうなったのか、ミソラは知る由もない。最初の最初だけ酔っ払いから守ろうとしてくれていた人が酔っ払いと化して消えたので、長い金髪に碧眼という異様すぎる美少年はもう飽きるくらいの人数に絡まれることとなった。途中から対応するのも面倒になって、ミソラは常に物を食べながら時折頷くという雑な方法でそれらをかわしていった。暮れきった紺碧を仰ぎながら縁側の方でまったりとしているポケモンたちが、実に羨ましい。……そう思いながら見ていると、おもむろに腕を上げたハリが凄まじい速さのニードルアームでマリルを吹っ飛ばしたのが見えたので、ミソラは前を向きなおした。
「いやぁしかし、かわええのうミソラちゃんは、人形さんみたいじゃ、ココウみたいな汚い町に置いとくのは惜しいわ」
 しつこく話し掛けてくる酒臭い息の中年男を適当にあしらいながら、ミソラは次の料理へと手を伸ばす。ふわっとしただし巻き玉子だ。
「いっそ、おっちゃんちに来んか? ん?」
 箸で持つにはしゃんとしているのに、口の中に入れた瞬間ほろほろと崩れて、繊細な甘さが非常に美味。ミソラはほっこりと頬を緩める。おおそうか、そうか、と中年男は嬉しそうにした。
「いやぁでも、まぁ、ワカミヤも相当気に入ろうなぁ、こんなかわええ娘は……」
「娘じゃないれす」もぐもぐ。
「こんなべっぴんさんにはそうそう会えりゃあせんし」
 伸ばされた手が、顔さえ向けていないミソラの髪の毛に触れ、かけたところで、上から降ってきた手がそれを叩き落とすようにむんずと掴んだ。
 ミソラは口の中の玉子を飲みこんで、そちらを見やった。久々に遭遇したトウヤの目は、もう完全に据わっている。
「お触りは禁止ですよ、うちの子は」
「おおそうか、それはそれは!」
 内容はともかく喋り方はそこそこしっかりしているので、意外と上手く逃げていたのかもしれない……とミソラは思いかけたが、中年男との間に座ろうとして倒れたのでその考えを撤回した。男に笑顔で勧められて例の透明で強い奴を酌まれ、半分以上ぼたぼた零しながらちまっとした器を空にすると、悲鳴じみた声を上げながらトウヤは机に伏せる。伏せている間に器にはまた例の奴が盛られた。
「もうだめだ」
「だ、大丈夫ですか……」
「帰りたい」
「どこへ……?」
「ええ子だなぁミソラちゃんは、なぁワカミヤ、ええ弟子を取ったな、ハッハ」
 ワカミヤというのが彼の苗字であるという知識は、ミソラの中になんとなく存在している。がばっと身を起こすとわざとらしく器の中身を茶碗にひっくり返しながら、そうなんですよ、と普段からは想像もつかない陽気な色でトウヤは声を張った。
「良い子なんです、自慢の弟子です、僕なんかには勿体無い」
 急にぐいっと引き寄せられて、自慢の弟子などと言われながらわしわし頭を撫でられるという絶対に二度と在り得ないこの状況を、ミソラは少し錯乱さえしながら受け止めた。
 師匠から(というよりはその場全体からだが)つーんと酒の匂いが鼻に入って、ミソラもくらくらしてきた。ほほお自慢の弟子ときた、おうい皆、ワカミヤに弟子ができたぞぉ、と中年男が呼びかけると、あちこちからうおおおっと野太い声援が返ってくる。この応酬はここ一時間の間に少なくとも五回は繰り返されていた。そして、あれに弟子ができたのにお前はいつまでチンタラしてるんだ、と矛先は一人の若者に向けられる。このやり取りも五回目だ。
 先程から延々ぶすっとしている彼の名前はエト。カナミの弟、ハヅキの兄に当たる人物だ。勧められても一滴も飲もうとしない意地の強さには少し好感も湧くが、そんなにつまらなさそうな顔をして座られていると何となく飯も不味くなる。
「お前ももう四年もしたら、ワカミヤみたいに弟子を取れんとあかんのだぞ!」
 そしてああやって五回目の説教を始めるのは、カナミ達の祖父なのだそう。
 僕が十八の時はエトよりずっとフラフラしていた、とミソラの頭をしつこく撫でながら(撫でるというよりは毛繕いでもしているみたいだ)トウヤは呟いた。そうなんですかと努めて冷静に相槌を打ちながらエトの方に意識を集中しようとするミソラの前を、ヒュンと緑色の物体が掠め通る。どこからか跳ね飛んできたルリリのマスカが、高く鳴きながらトウヤの膝の上に収まった。その次の瞬間には、音もなく現れたリグレーのテラが、首筋に派手にタックルを決める。そうしているとトウヤの手慰み対象はミソラの頭からポケモンたちの方へ移っていった。
 わあわあと年長者にどやされているエト。男にしては長めの小洒落た髪型、クールを装っているような眼鏡の奥の眼差しは、けれども熱く火照って見えて子供っぽさをミソラは感じた。隣でルリリの肉厚の耳をむにむにと弄びながら一人笑い声を立て始めたその人が相対的に大人っぽく見えると言う事は、まるでなかったが。
「そんなんで、水陣の演者が務まると思っとるんか!? 特に今年は大変な時でッ」
 エトを激しく指さしながら叱責する老人を、世話人として立ち回っていたカナミが苦笑いで宥めようとしている。すいじんのえんじゃ、と夢の中みたいな口調で隣のトウヤが呟いた。そしてふいっと顔を上げた。
「……え? 今年はエトが?」
「そうなんだよ、びっくりだろ」
 中年男がカッカと笑いながら答える。トウヤは何度か目を瞬かせてから、へえぇーっと無駄に大きな感嘆を上げた。全然別の人間がやってきて例の器に例の奴を注ぎ始めたことにはまるで気が付かない。
「けど、どうしてまた?」
「エぇトがぁ情けないからじゃあ!」
 遠くから老人が吠える。立ち上がろうとしてよろけるその人を支えるカナミの顔に、うっすらと怒りの様相が見えた。
「じいちゃん、ちょっと落ち着いて」
「おま、お前がしっかり演者を務めるまではなァ、わしはぁ死んでも死にきれんぞ!」
 今からそこでやってみせろエト! ――突然の無茶ぶりに宴は大いに沸いた。脇にやってきた数人の若者たちが渦中の人物を無理矢理に立ち上がらせる。
「ちょ、いや、俺、こ、こんなところで」
「こんだけの人数の前でやれんもんが、本番務まる訳なかろうが」
「やれぃ、やれぃ!」
 どこからともなく巻き起こる拍手、そして始まる不揃いな手拍子。顔を火照らせて立ち尽くすエトの膝は震えている。可哀想に、と呟きながら雑にルリリを撫でまわすトウヤは、もう半分くらい眠っているようでじわじわと傾いている。その人に肩を貸す格好になりつつ、俯いて若干汗さえかき始めた眉目秀麗な青年の次第を、ミソラは内心わくわくしながら見守っていた。
 鳴り響く手拍子を一蹴する、エトの開口一番。
「……地陣の演者がいないとやりようがないよ」
 的を射ていたらしいその言葉に、場は少しばかり沈静化した。
 ざわつきはじめる場内。何が起こるのだろうとミソラがそわそわしている中で、誰か地陣が舞える奴がいたか、と囁き合う声が聞こえる。そして彼らの視線が、次第に――ミソラの隣でもう八割がた眠っている人に集まり始めたのは、なぜだろう。
 誰かの呼名を受けて、トウヤは徐に顔を上げた。そこに広がる、己へ向けられた幾多の、酔っ払いたちの、期待の眼差し。男はまた一瞬で事を解した。差し出された例の杯をぼんやりと受け取って、虚ろな手つきで流し込んで――これ以上飲んで大丈夫だろうか。ミソラの心配をよそに、その表情から急に眠気が吹き飛んだ。
 再び巻き起こる手拍子。背中側に並べてあった空の酒瓶を薙ぎ倒しながら、トウヤはふらりと立ち上がった。そして低くする姿勢、鋭さを増す眼差し、但し充血している。対峙するエトの眼鏡の奥の瞳が不意に恐怖と狼狽を帯びた。ぽかんとしたルリリを小脇に抱え、恍惚の表情で抱き着いているリグレーを首にひっつけたまま、トウヤは雑な包帯の左腕を、すっ、とエトに向けて伸ばす――酔拳、という言葉がミソラの脳裏に一瞬浮かんで、消えた。
 観衆に囃され、先に口を開いたのはエトで、
「飄々乎として、世を遺(わす)れて独り立ち……」
 冷静沈着、覇気はなく、細く震える歌い調子の声色に――トウヤは大きく息を吸うと、カッと目を開き、
「――羽化して登仙するが如しィッ!」
 叫んだ。そして跳んだ。
 ――誰だ。誰だこの人は。ミソラは茫然として座り込んだままであった。ルリリを空に放り投げながら食卓に足を掛けたトウヤは、酒瓶と料理をいくつもひっくり返しながらテーブルの向こう側へと跳躍した。そして向こうで着地損ねて崩れ落ちた。手拍子が笑いの喝采に変わった。それをもう一度起き上がらせたのは多分リグレーの念力であろう、明らかに人外モノの可視オーラを纏いながら再び臨戦態勢を取るトウヤに、エトもまた震えながら、もう少し大きな声で何か言う。それに普段の十倍くらいの声量で喚き返す呂律の回らない師匠を、目に焼き付けていいのか悪いのか、ミソラには判断がつかない。エトに何か煽られて、緑のルリリが躍りはじめた。りっ、りっ、るぃっ、るぃっ、と掛け声を鳴きながら真剣な表情で跳ね回るルリリは、勢い余ってテーブルの上へと落っこちた。ミソラの食べかけていただし巻き玉子がぐちゃぐちゃに潰れた。
 手拍子を打っていた人たちが立ち上がり意味不明なダンスを始めて、完全に混沌と化した宴会からミソラを救ってくれたのは、素面なのか単純に強いのか、全く酒気のないカナミであった。今までどこに隠されていたのだろう、眠そうに目を擦っているハヅキの手をミソラに握らせると、はぁちゃんと一緒にお風呂入っておいで、と苦笑する。家に上がってすぐ惨劇に巻き込まれたから、そういえば風呂もまだだった。ミソラは黙って頷いた。
 眠気で足元の覚束ないハヅキに手を引かれながら部屋を抜けても、やたらと楽しそうな師匠の声がしばらく耳から離れなかった。





「――それでね、はぁちゃんがね、見つけたタマゴをね、とーやくんがね、生まらせてくれたんだよ」
 それがとってもぴかぴかしててね、まぁちゃんだったの! と体を揺らすハヅキの頭を、ミソラは慎重に洗っていた。湯船から桶にお湯を掬って、もこもこの泡を丁寧に流すと、きゃあーっと楽しげにハヅキは悲鳴を上げる。体は自分で洗えると言うので、ミソラは自分の量の多い髪の毛の始末に取り掛かった。
「それが、去年の話?」
「うん!」
「じゃあ、まぁちゃんはまだ一歳くらいなんだ」
「うん、それでね、まぁちゃんが生まれてね、一緒に寝てたらね、起きた時にね、とーやくんいなくなっちゃった」
 それで、「また急にいなくなったりするの」なんて聞いていたのか。……別れが寂しくて早朝に一人発っていく師匠の姿を思い浮かべるのは容易で、ミソラは少し笑った。
 ゆるやかな蒸気に、あそこの空気で淀んだ体の内が浄化されていくような気がしていた。二人で湯船につかると、ハヅキは顔を半分湯の中につけて、ぶくぶくと気泡を立てる。ミソラも真似をして笑い合った。
「お師匠様は、この家の人ととっても仲がいいね」
「おししょうさまってなーに?」
「え? えっと……」
「あのね、とーやくんはね、ずーっと前からいるから、あのね」
 また、ぶくぶくを立てて。
「お父さんみたい」
「お、お父さん?」
「うん。はぁちゃんね、ほんとうのお父さんいないの」
 そうなのか。……僕もいないんだよ、とミソラは言わなかった。いないけれど、ミソラにいないのは間違いないのだけれど、本当はいるのかいないのかさえ、そもそも自分は知らないのだ。
「だから、ほんとうに、ずーっといてくれたらいいのになぁ……」
 浴槽のへりに顎を乗せて、彼方を見やりながら呟く、幼いのにどこか切実な声。ミソラは何も返さなかった。返せなかった。道すがら、ぎこちなく繋ぎあっていた大小の掌をふと思い出す。こうやって一緒にお風呂に入ったりも、もしかしたらしたのかもしれない。……でもね、お師匠様は。はぁちゃんだけのものじゃないんだよ――そんな思いは、ミソラのぶくぶくの中に紛れさせて、お湯にこっそり溶かしてしまった。
 ゆるゆると流れていく時間。宴はどうなったろう。ミソラの知らない人たちと、まだよろしくやっているのだろうか。……くわぁ、とハヅキが欠伸をしたので、そろそろ上がることにした。
 夏場でも夜になると薄ら寒いのはココウと同じで、湯気の揺れる脱衣所は少し冷えた。ぴっと横に手を伸ばして大人しくしているハヅキの体を拭いてあげながら、ふと思い立ったことをミソラは尋ねてみる。
「ずっと前から来てるって、どのくらい前なの?」
「とーやくん?」
「うん」
「えーっとね」
 ハヅキは少し考えてから、にぱっと笑って答えた。
「はぁちゃんが生まれたとき」
「……え?」
 生まれた時?
「はぁちゃんが生まれたときー!」





 用意してもらった寝間着を着て、用意してもらった客間の寝室で、ポケモンたちとそろそろ寝ようとしていたところに、トウヤは戻ってきた。
 完全に憔悴しきった赤ら顔で戸を開けると、着替えはしているけど多分風呂には入っていないだろう男は、無言でどさっと布団に倒れ込んだ。途切れ途切れにひく、と笑い声を立てる師匠の腕には、リグレーのテラがくっついたまま眠っている。それを引き剥がし、自分の隣に寝かせて、仰向けになると、そのまま目を閉じた。……奔放なリナ以外のメンバーが見守っている中で、面倒げな仏頂面をして、ハリがのそのそと近づいていく。動かなくなった主人の傍に膝をついて、そこに散らかっていた薄手の布団をそっと掛け――ようとして、突然がばっと抱きすくめられて、あえなくバランスを崩して、そのままぼすっと主人にのしかかった。
 棘は痛くないのだろうか。眠気でぼんやりしながら、ミソラはその光景を若干遠巻きに眺めていた。……ハリぃ、と極めて幸せそうな声を掛けられると、腕をつっぱって抵抗しようとしていたハリも諦めて、仕方なくされるがままに身を預ける。背中をぽんぽんと優しく叩くと、ふふふとささやかな笑い声を立てて、トウヤはまた動かなくなった。ハリを抱きしめたまま。じきに寝息が聞こえ始めた。
「……電気消した方がいい?」
 ミソラが声をかけると、ガバイトのハヤテがギャッと返事をして、オニドリルのメグミは体に首を埋めた。リナはまだ身繕いをしている。……そろりと主人から体を剥がして、こっちを見ようとしないまま、ハリはこくりと頷いた。
 カチン、と音を立てて、暗闇に沈む慣れない客間。騒々しい一日だったな、とミソラは密かに息をついた。ふかふかの布団だ。いつものじゃなくて、寝れるだろうか。いや、問題なく寝れるだろう。微睡を彷徨いながら、ミソラは思考を緩めていく。これだけ疲れていれば……なんだか、いつも考えないことを考えて、どうにも疲れた。
 目を閉じて、一日を殆んど終えようとした、その時だった。
「ミソラ」
 低い声。無防備になっていた心にふっと触れられたみたいで、どきっとして目を開けた。寝てしまったんじゃなかったのか。闇の中で、隣の方で横になっているトウヤはどんな顔をしているのだろう。ミソラには知れない。
「起きてるか」
「……はい」
「そうか」
 たったそれだけの応酬の後、また静けさが戻ってきた。
 あれだけの賑やかを終えてから、こんな静寂の中で暗闇に目を向けていると、そこには不思議な非日常の鱗片を見るような気がする。まさかそれだけの確認の為に、わざわざ名前を呼ばないだろう。それともやっぱり酔っているのかな、と思いもしたけれど、自分の名を呼んだ声が妙に誠実な調子だったから、なんだかそわそわする。
 でも、多分、トウヤもそわそわしている。……そんな気がして、ミソラは黙って微笑んだ。
「何ですか?」
「……明日」
「はい」
「ミソラが、それでもよかったら」
 こういう前置きを、彼は最近口にする。
「二人で遊びにいこうか」
「……はい」
 強い日差しに当たっても、湯船に浸かっても変わることのない冷めた部分が、ほろりと温まったように思えた。
 そうか、そうしような、と、ちょっとだけ嬉しそうな声。暗くて見えないからこそ、声の内包する感情はよく相手に伝わった。お酒に緩められている今の彼と、もう少しだけ話をしていたかった。でも、何から切り出そう。話したいことは、急には形にならなくて、けれど、たくさん、たくさんある。
 そう思っているうちに、「おやすみ」を差し出されて、少しもしないうちに、ミソラも夢の中へと落ちていった。









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