誰だろう。
 向かい合って座っている。顔が見えなかった。奇妙な靄。目を凝らすと、少しずつ、その鱗片が見え隠れする。目を凝らす。もう少し。
 ……鼓動が早まる。だんだんと見えてくる。黒い髪。艶のある。長いのを、上に纏めている。そして首筋。すっきりとした顎の形。
 ――いいのか?
 不意に、声が聞こえて。
 ――見ちまっていいのか?
 息を呑んだ。
 顔は見えなかった。
 けれどその人は、泣いていた。


「……ただの夢だ」
 言い聞かせるように、ミソラは一人呟く。
 白い天井。通されたのはこんな部屋だったろうか、と一瞬迷ったけれど、多分間違いない。日差しが入ると随分趣も違って見えた。起き上がり、辺りを見回していると、悪い気分も落ち着いて、霞のかかった見知らぬ泣き顔は、だんだんと薄らいで消えていった。
 トウヤがいない。彼のポケモン達もだ。ポケモンも放り投げたまま泥酔して横たわっていたはずの人は、もうそこに寝ていた痕跡さえなくなっている。ココウの家ではいつも寝坊するのに……そこまで考えて、はっとミソラは覚醒した。まさか、自分は寝坊したのではあるまいか。しかも人の家で。
 渡されていた服へ物凄い速さで着替えて、寝ぼけ眼でうろついていたリナを抱え上げると、ミソラは慌ててその部屋を飛び出した。
 そして激突した。――ぼすんと激突して跳ね返りざま、すいませんおはようございます! とミソラは声を上げたが、改めて相手の顔を見れば、誰だっけ。ああそうだ、エトだ。この家の三人兄弟の真ん中で、変わらずの眼鏡に、朝からきっちりセットされた長めの髪。……なんとなく恥ずかしさで赤くなったミソラを見下ろし、トウヤより幾分小柄な青年は、挨拶も無しに、こっち、と子供を案内する。ミソラを起こしに来てくれたのだろうか。
 通されたのは、昨日最初に入った台所だった。ダイニングも兼ねていたらしいその空間で、椅子にちょこんと腰かけていた女の子と、ミソラは目を合わせる。三兄弟の三番目、ハヅキのはぁちゃんだ。
「ミソラちゃんおはよっ」
 ぱっと笑顔になって挨拶した末っ子に、向こうの長女と、もう一人が振り返る――なぜかコンロの前でフライパンを握っていたトウヤは、ミソラを見つけると、よく寝てたな、と苦笑を浮かべた。

 どうして起こしてくれなかったんですか、と問うのは後にしよう。ここにいる間の彼の仕事になるのだという完璧な朝食を眺めながら、ミソラは暫し口を閉ざした。
 庭に放したポケモンたちにトウヤが餌をやってくるまで、誰も食事に手出しをしない。いただきます、と皆で声を合わせて食事を始める習慣なんてものはハギとトウヤとの暮らしの中にはなくて、少しだけ困惑する。そして更なる混乱を誘う、甘い玉子焼き。ココウでは食べ慣れないそれにミソラが目を丸くしてトウヤを見ると、やっぱり苦笑いで見返してきた。あまいたまごすきー、とハヅキが足をばたばたさせる。
「それで、櫓も舞台の設営も明日になるのか」
「そうそう。一気にばーっとやっちゃうんだって。急ごしらえだけど、そういう年だからさ」
「……そういう年って?」
 ミソラの質問に、カナミはちょっと真剣な顔をする。
「テッカニンの当たり年なんだよ、今年」
「当たり年、と言うと……」
「異常発生」
 トウヤが短く答える。例年より多いってことか。ミソラはげんなりした。スピアーといいテッカニンといい、自分はとことん虫タイプと縁があるみたいだ。
「お祭りのある公園はテッカニンの森の近くだし、長く時間をかけて刺激すると危ないから、ってことでね」
「当たり年って、はぁちゃんが生まれた年以来……七年ぶりか」
 頷く。話が理解できないのか、名前を呼ばれてもハヅキはきょとんとしていた。昨晩の風呂でのその子との会話を、ミソラはふと思い出す。
「お師匠様がハシリイに初めて来たのって、はぁちゃんが生まれた時なんですよね」
「そう! この時期って観光シーズンだから宿がどこも一杯でさ、泊めてくれって来たのよ。でもその時にはもう母さんが陣痛来てて大変だったから、事情を説明して一旦は断ったんだけど……」
「あのね、はぁちゃんのおうちがおそわれてねっ」
 口の端にケチャップをつけたまま興奮気味にハヅキが言う。――襲われて? 一体誰に?
「とーやくんとハリがね、こう、ぶんって、たたかって、助けてくれたっ」
「はぁちゃん、生まれた時のこと覚えてるの……?」
「うん! かっこよかった!」
 目を輝かせるハヅキに、覚えてるわけないじゃん、と笑うカナミ。一人黙々と食べ続けていたエトが早々に立ち上がり、食器を片づけ始めた。
「覚えてるもん!」
「うそだー」
「覚えてるよ、だからはぁちゃん、とーやくんのこと好きなんだもん」
 そして唐突な告白。ミソラはちょっとしょっぱい風味のお茶に口をつけながら、ちらりと師匠の顔を窺った。照れ隠しでむすっとしているのかと思えば、存外にトウヤは嬉しそうにして、ハヅキの方へ身を乗り出す。
「はぁちゃん、僕と結婚してくれるんだよな」
 お茶を噴きそうになった。
「うん、はぁちゃん、とーやくんとけっこんするー!」
 嬉々として大声でハヅキが宣言すると、どこからともなく緑色の物体が現れて、どすんとトウヤの頭に乗っかった。リグレーのテラだ。その顔から感情はいまいち取りづらいが、手はぶるぶると震えている。
「まだ言ってたの、それ」
「だって約束したからな」
「うん! ……あっ、でも……」
 急にしおらしくハヅキの顔が曇った。
「はぁちゃんシュンくんともけっこんするって約束しちゃった……どうしよう」
 その時のトウヤの表情の変わりよう、そして主人と対照的なテラの変貌があまりにも面白くて、ミソラは思わず顔を背けた。大声で笑い始めたカナミと、誰だシュンくんって、と本気交じりの声色で問うトウヤ、向こうからはエトが食器を洗い始めた水音が聞こえる。ミソラも笑った。こういう賑やかさにちょっと慣れてきた、と少しだけ思えた。
 一人で喋り尽くしてようやく食事を取りながら、カナミが言う。
「……でも、そろそろ、トウヤもちゃんと考えないといけないよね、自分の身の置き方っていうか」
「身の置き方?」
「別に結婚だけの話じゃなくてさ」
 ごちそうさまでした、と両手を合わせて、エトに習ってミソラも食器を運ぼうとする。
「まだ親戚の家にお世話になってるんでしょ?」
 ゆったりした中にも少し、真剣みを帯びる話。背を向けながらミソラは耳を澄ませた。
「……ああ」
「仕事ちゃんと探してる? ポケモン出来たって、遊んでるだけじゃだめだよ」
「余計なお世話だ」
「余計じゃないよ。私けっこう心配してるんだよ?」
 姉か、母親みたいだな。……黙したトウヤの、困り顔で弱々しく苦笑する、その内心を想像して。
「いつまでもこのままじゃいられないでしょ。……ね、トウヤ。ハシリイだったら、仕事はたくさんある。私、結構、本気だよ」
 ちょっとだけ胸が痛んだ。
 シンクに皿を出すと、丁度自分の分を洗い終えたエトが、無言でスポンジを差し出してきた。それをやんわりと握りしめる。泡と、汚れた汁が滲み出た。
 エトは向こうに行かなかった。何故かむっと唇を尖らせて、ミソラの隣に立っていた。
 ……トウヤは何と答えるだろう。色々想像して、その想像とてんで離れた言葉を彼が口にしたから、自分はどんな顔をしたのだろう。どんな顔を、エトに見られてしまったのだろう。
 ミソラがちゃんと家の手伝いができるようになるまでは、少なくともココウに居ると。静かな声で彼は言った。





 と言う事は。
 ……なんて煮え切らない感情を抱えながらしゃがみこんで、撫でまわす手つきが不躾だ。あっ、と思った時には、機嫌を損ねたリナがぴょこっと手の中を抜け出してしまった。追いかけようとするも、片耳の行く手はすぐに誰かに阻まれてしまう。しっしっ、とその足に払われると、リナはすぐさま威嚇を開始しようとした。胴を抱いて慌てて引き止める。
「ご、ごめんなさい……エト、さん」
 かんと冴えわたった青空を背景に、少し侮蔑を含むとも取れる冷めた眼差しを、年の割に幼く見える少年はミソラにくれる。それから右手に引っ提げていたものを、ぽんっ、とこちらの頭に被せた。深く被されすぎてかなり視界を狭めたそれに、ミソラは困惑する。強い日差しを遮ってくれるやたらとつばの広い帽子は、色の白いミソラの為か、目立つ物を隠したがるトウヤの為か。
 姉貴がお前にって、とぶっきらぼうに伝えてきて、エトはなぜかしげしげとミソラを見下ろし続ける。ミソラも目を瞬かせながら見上げ続けた。押さえつける腕の中で、リナが低く唸り蠢く。家の方から人の会話が聞こえた。ハヅキの不満げな声。
 眼鏡の奥の涼やかな瞳をそちらに一度向けてから、エトはミソラへと顔を寄せ、何やら声を潜めた。
「……お前さ」
「は、はい」
「どこから――」
 ――いってらっしゃーい、の元気な声が発言を制して、代わりに軽い舌打ち。ミソラと同じく誰かからの借物なのであろう見慣れない服装、ココウの町の中にいる時より更に雑な巻目の包帯で玄関を出てきたトウヤは、エトを見て僅かに驚いた。
「何だ、ミソラに用か」
「いや。そっちこそ、今日ハヅキの面倒見てくれるんじゃないの」
「子供の相手をしに来てる訳じゃない」
 言いながら二人の前をさっさと素通りして、行くぞ、と背中越しに声を寄こしてくる師匠を、エトを気にしつつもミソラは追いかけていく。エトは黙って見送っているようだった。この人とはそんなに仲良くないんだろうか――とミソラが思いかけた瞬間、前を行くトウヤがくるっと振り返り、
「おい、エト、帰ったら」
 問いかけるのでミソラも振り向いた。エトは見送ってなどいなかった。家へと戻ろうとしかけていた人は面倒そうに振り返って、その面倒そうな顔の人を、後ろ向きに歩きながらトウヤはぴしっと指さした。
「一局打つぞ」
「……いいよ。ボコボコにしてやる」
 宣戦布告に、余裕綽々の回答。一局ってなんだろうとミソラが思う間に、トウヤはにやりと笑うだけ返して前へと向き直した。

 昨日姉妹と自転車を押して上がったゆるやかな坂を下っていく。ミソラは先程言われたことが頭をぐるぐると巡りすぎて何を言っていいものか分からず黙っていたが、トウヤの足取りはなかなかに軽快であった。とことこと小股を回転させながらついてくるニドリーナのリナと、相も変わらずトウヤにひっついているリグレーのテラ。歩調に合わせてリズミカルに頭を揺らしているご機嫌な緑の後姿を見ていると、少しだけ心持ちも穏やかになった。
 自分が先に行きすぎていることにふと気づいて、昨日と似たようにトウヤは歩みを緩めた。
「疲れたろう、ミソラ」
「え? いえ、まだ朝ですし」
「そうか。僕は疲れた」
 小首を傾げるミソラに、男は軽く苦笑する。
「聞き疲れるんだ、あの家にいると。皆騒々しくて」
「それ、疲れるんですか」
「表情筋が疲れる」
 なるほど、とミソラが笑うと、ちゃんと寝れないから疲れも取れないし、と付け加えられる。ミソラはちょっとむくれるふりをした。
「早起きするなら明日からちゃんと起こしてくださいね、私も朝ごはん手伝いますから」
「お前の手伝いなんかいらないよ」
「お箸とか並べられます!」
「そういうのはカナがやってくれる」
 ぎゅっとテラが身を乗り出して首を絞めようとする。トウヤは何の反応も示さずに、ただ黙ってトレーナーベルトのボールの二個目を取ると、開閉ボタンを押し込んだ。
 何故か今日のお供に選出されたガバイトのハヤテは、いつになくきりっとした表情でトウヤに一声鳴くと、のしのしと背後に回ってリナの隣を歩き始める。
「子供はゆっくり寝てなさい」
「でも……」
「宴会続きで夜も遅いから」
 若干うんざりした顔をトウヤは浮かべるが、ミソラは食い下がった。
「あの、あんまり子供扱いされるの」
「子供だよ」
「嫌……なんです」
 とんとんと足音を立てながら下りていく、太陽光に鮮烈な白い石畳。自分の影の形が妙で、帽子を被っていたことをふと思い出す。くっきりと差すその影と見つめ合ってしまいそうになったが、やめた。まっすぐトウヤを見上げた。そういう人だと分かっている、それに誘ってくれたのだから、厄介がられているとは限らない。色々な話をしてみようと決めたではないか。……暫し影と見つめ合っていたトウヤもミソラの視線に気が付くと、一瞬目を合わせたがすぐに離して、自嘲気味に微笑んだ。
「羨ましい」
 背後から聞こえる、怪獣たちの囁き声。それにも少し耳を貸している様子の、のんびりした表情で、トウヤは軽く空を仰いだ。
「外だとうまく寝付けないんだ。起きようと思って早起きしてる訳じゃない。……実は、うちでも数年前までそんな感じで」
「寝れなかったんですか」
「ああ。変に気を遣っていたんだ。自分の家になったのにな。開き直って夜はずっと起きていて、おばさんが起きてくる頃に目の覚めたふりをして手伝いもして、昼になったらスタジアムに行って、そこで仮眠を取って……でも心配をかけるといけないから、夕飯前にはきちんと家に戻って」
 いつも昼過ぎまで寝ていて朝を抜かし、用意された昼飯もろくに食べない今の彼とは様子が違う。意外と神経質なんですね、とミソラが問うとトウヤは首を捻ったが、ふと思い付いたような顔で子供を見下ろして、
「その神経質な僕が」
「はい」
「お前と同じ部屋に寝てて問題なく寝坊してる。お前が僕に色々遠慮する子だったら、多分僕はまた寝れなくなってただろう。だから好きなだけ寝てればいい」
 そう言って何故か得意げな顔をする。滅茶苦茶だ。その強引な言いくるめ方こそが『変に気を遣っている』証拠なのではないかとミソラは少し思って、けれど胸にしまっておくことにした。遠慮するなと言うのであれば、それがいい。自分が望んでいるのは、多分、そういう関係なのだから。


 賑やかな所に辿りつくと、子供扱いしてほしくないミソラに小遣いをくれてやる、と男は突然言い出した。昨日の水没事故でしわしわになった紙幣を何枚か握らされて、ミソラの心は端から一つである。トウヤはそれの購入に少なからず渋面を見せたが、遠慮するなと言うのだもの、折れる理由はどこにもない。結局、立ち寄ったトレーナー向けの洒落たショップで、鮮やかな青色のリードを一本購入した。
 どこかに行っていた師匠と店の外で合流すると、早速取り付けようとしたリードをひょいと取り上げられて、男がボディバッグから取り出したのは小型の折り畳みナイフである。
「ナイフなんか持ち歩いてるんですか……」
「いざって時にないと困るだろ」
 想像してひやりとしたが、皮の堅い果物しか食べるものがない時とか、と補足されてなんとなく安心する。それでぷちんとタグを切り離すと、ミソラの見守る中でリナにそれをつけようとして、大いに暴れられて、結局ミソラが取り付けた。違和感を前足で確かめようとするリナの首元から伸びたリードの、先端の輪っかに手を通して。すくっと立つと、自分の体と友人の体が間接的に繋がった感覚がなんだかとても嬉しくて、笑みを隠し切れなくなった。
「こんなのが欲しかったのか」
「こんなのが欲しかったんです」
「変な奴だな」
 そう言われても、見渡す限りのこの町では、リードをつけずにポケモンを連れ歩いている人の方が少ない位だ。
 リードに何か意味があるのかと聞かれれば別にそうでもなくて、リナは相変わらずミソラの後ろ側を歩いて、ハヤテと話をするばかり。他には欲しいものあるか、と問うてきた師匠に、ミソラは全く違う質問を突き返した。二匹が話していることが分かるか、と。トウヤは若干押し黙った後、ちょっと肩をすくめて、二匹を気にするように声のトーンを落とした。
「分からないけど、ハヤテに関しては」
 不意に笑いをこらえるような顔をする。
「リナの事を相当気に入ってるんじゃないかと思っていて……」
 えぇっと声を出してしまって、慌てて口を塞いだ。それって、つまり、好きってことか。くんっとリードが引っ張られたことでリナがひょいと顔を上げ、つられてハヤテも顔を上げ、そこにミソラが分かりやすく振り向いたのでばっちり目が合ってしまう。急いで顔を戻した。トウヤはまた笑った。
「どうしてそんなこと分かるんですか」
「リナといるときは、いつもよりそわそわしてる」
 もう一度振り返ってじっくり観察したくて、ミソラもそわそわした。
「でも問題があるだろ。分かるか」
「なんですか」
「メスのニドランって言うのは、ニドリーナまで進化すると繁殖能力を失ってしまうんだ。本当にハヤテがリナのことを好きなんだしても無謀がすぎる。ハリはこういう事全然なかったしどうしていいのか分からなくて、こういう場合はトレーナーとして止めてやるべきなのか、どうなのか……」
 ……どうしてこんな話ミソラにしてるんだ、とひとりごちて、トウヤは話を止めた。ミソラは思考モードに切り替わる。ニドランの繁殖に関しては確かに図鑑で見たような気がする、でも、それがどうして無謀なのだろう。現に……と視線を上げた先では、テラが見ているこっちまで幸せになりそうな表情で、トウヤの首を抱きしめている。
 通りかかったカラフルな外装の売店でカイスのジュースを目に止めて、物欲しげにしていたら買い与えてくれた。少しざらりとした舌ざわり、甘くて、けれど何かを混ぜてあるのか、ほのかな酸味が味を程よく引き締めている。
 若干険しい顔つきで財布と睨みあっている人の横で半分くらい一気に飲み干して、そういえば、と声を上げる。
「さっき何か買ったんですか? 私がリードを見ていた時」
 頷き、財布をしまう替わりに取り出したのは、ココウではあまり見慣れない使い捨てカメラの類いであった。
「写真撮るの、結構好きで」
「棚に飾ってありますよね」
 アルバムもいっぱいあるし、と言うと、気恥ずかしげにまた頷いた。ぐちゃぐちゃに並べてある写真立てや、ただファイリングされただけの少し埃っぽいアルバムたちを眺めているのは、怪我をして家に籠らざるを得なかった時のミソラのちょっとした趣味だった。映り込む景色の多様さにも、彼の出会ってきたポケモンの数の多さにも驚かされたし、小さな頃のハリやハヤテを見つけるのもなかなかに面白い。けれど、見終わってから一番気になったのは、
「お師匠様が写ってるの、殆んどありませんでしたね」
 かりかりとフィルムを巻きながら、トウヤは横目にミソラを見た。
「自分の顔なんか見て何が楽しいんだ」
「楽しいですよ!」
「僕は楽しくない」
「楽しいかもしれません」
 私が撮ります、と不意を突きカメラを奪い取って、レンズを覗き込む。あからさまに戸惑っている痣の男と、その肩からひょこっとこちらへ顔を向けるリグレーが見えた。ちょっと近いか。片目を閉じながら一歩下がると、ハヤテらしきものにとすっとぶつかった。
「いいよ、僕は」
「笑って!」
「笑えって言われて笑えるか」
「じゃあ、じゃあ……」
 一旦カメラから顔を離して、さっきの話ですけど、とこちらも笑顔を心がけて。
「子供が作れるかどうかは、私は関係ないと思います」
「は? あ、あぁ」
「ハヤテがリナのこと好きなら、それだけで十分じゃないでしょうか!」
 大きめの声で言い放つ。――ギギャアアッと悲鳴じみた声が響いて、ミソラの背後で何かがずどんずどんと地団駄を踏んだ。きょとんとして目玉をくりくりさせるリナ。道行く人の温かくはない視線を集めた吠える小竜を、うるさいぞ、とたしなめながらトウヤは苦笑した。やっぱりポケモンのことになるとちょっと笑ってくれる。
 それに、と言いながらミソラは再びカメラを構えた。
「テラだって」
「テラ?」
「お師匠様のことが」
 ぱっと緑の光が散った。あっ――と思った時にはもう口が滑り出していて、
「好きですよ、ね……?」
 店舗の無地の白壁に、フラッシュが瞬いた。
 あれ。――ミソラはレンズから目を離す。誰もいない。いなくなった。……次はどこだろう。


 リナは協力的でないし、人間より良いとはいえ、竜であるハヤテはそれほど鼻が利く方でもない。右も左もわからぬ雑踏の中、テラの暴走でどこかに飛んでいった人との再会はそれから二十分の時間を要した。その間、紆余曲折あって、三回高いところから落下したとトウヤは報告をくれた。昼ご飯もまだなのに早速疲弊しきっているその声色に、ミソラはついつい笑ってしまった。
 一旦首元から引き剥がして、ハヤテの肩に座らせて離れても、念力で浮き上がってちゃっかり定位置に戻ってくる。次のテレポートも時間の問題か。小遣いの使い道どころの話ではない。
「……テラの裁量なのかもしれないけど、荷物とか、体に触れてるものは一緒にテレポートしてくれる。ココウからこっちに飛んできたときも……」
 別れるのが面倒だから共に害を被れというのか。
「そうだとしたら、ミソラもリードで繋いでおけばいいかもな」
 その声色が微妙に冗談とも取れなくて、ミソラは愛想笑いだけ返した。
 (多分ミソラのせいで)口数の減った怪獣たちに対し、テラは相変わらず他人事みたいな顔をしてトウヤの首筋に引っ付いている。でもちょっとでも興奮して、力を溜め始めたら早い。爆弾みたいだな、と考えてみた。いつ破裂するかも知れない静かな時限爆弾だ。その時、朝食中の言葉が不意に目の前に蘇って、思考に霧がかかる。時限爆弾みたいなものか、この時間も。自分がココウでしっかりしはじめた頃、急に出て行ってしまうかもしれないトウヤ。いつまで続くか分からないこんな綿菓子みたいな平穏……
 ……ハヤテにリードをつけて、と男は急に口にした。テレポートの問題をまだ考えていたらしかった。
「リードをつけて、僕が握っておく。リナのリードはミソラが持っているから、ミソラがハヤテに乗っていれば……いざという時も……」
「そんなことしなくても、触れていればいいのなら、手を繋いでおけばいいじゃないですか」
 ココウから飛んできた時みたいに。あの時は手首を掴まれていただけだったけど……でも、二人で手を繋いでいる図を想像すると実に滑稽で、ふふと笑いが零れた。とりあえず、服の裾でも掴んでいればいい。ミソラがそう提案する前に――ああ、なるほど、みたいな顔をトウヤはして、それから自分の、甲にだけ乱雑に包帯の巻かれた変色した左手を見た。
 一拍の間があった。自分の右手側を歩いていた人の雰囲気が少し変わったことに、ミソラはなんとなく気が付いた。
 男は無言でミソラの前を横切って左手側に回ると、ちょっと姿勢を下げて、リードの輪っかを通しているミソラの左手を、右手に、ぱっと取った。
 きゅっと軽く握られると、その手の大きさと、自分の小ささを、否が応にも実感した。
 ……どうしよう。思ったところでどうにもできなかった。結局ミソラは息を呑んで、また変に緊張して、顔が強張って、そこで結局、自分の影と見つめ合ってしまった。左手。ただでさえ真夏で暑いのに、そこから全身に火照りが駆け巡る。どっどっと自分の心音が聞こえた。その脈動が皮膚越しに伝わってしまうかと思った。神経質であるらしい男の、それにしては奇妙すぎる無頓着さが怖かった。
 よし、と彼は言う。びっくりするほどなんの気もない声だった。何がよしなのか分からない。
「行こう」
 有無を言わさぬ音色。ああ、なんの気もないということは、もしかしたらないのかもしれない。そう考えるとこの状況が我慢ならないくらいおかしくて、服の裾を、という提案をするのは、少し見送ることにした。









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