世界が回転した。
 その言葉のままであった。空は目下、天は一面の緑である。掴まれたはずの手首はいつのまにか自由になっていて、あれ、と思った次にはもう、ふうっと体が落ちはじめた。下から上に。そして急激に。急転直下、いや直上? 自分がさかさまになっていたと理解するのは、もうちょっと後の話である。
 きつく目を瞑り――突っ込むは見知らぬ植物の中。それの背が高いのは幸いであった。すぐに逆向きの力がかかる。人工的な施しで密集させられている植物たちがわっと茎葉を伸ばしていたからそこかしこに引っかかって、命を取り留めるくらいには衝撃吸収してくれた。だども痛みは容赦ない。あっああっと思うどころか口に出しながらずるずる落ちていくとずんと頭を殴られた。正確には地面に激突した。一瞬視界の色が変わった。
 頭を打ち、失敗した逆立ちみたいな恰好で背中からひっくり返ったミソラは、脳天の鈍痛に身を委ねて、しばらくぼうっとしていた。
 随分と涼しかった。しかしその涼しさが全てではなかろう。頭上にもうもうと茂る何かしらの作物の重なりあう葉の間からは、ココウと同様に厳しい日差しが覗いていた。地面は少し湿っていて、ミソラにはあまり嗅ぎ慣れない富んだ大地の香りがする。……右も左もないくらいに密集している緑の中に、そうでないものをようやく見つけた。ごそっとそれが動いた。リリリ、と聞き慣れない――いや、一、二分前から聞こえていた例の機械的な鳴き声も一緒だ。
「お師匠様?」
 ……ああ、無事か、と知った声が返ってくると、訳の分からない中にも少しの安堵感を得ることができた。数メートル先に落下したらしいトウヤは起き上がると、今日一大きい溜め息をつきながら後頭部をさすっている。
「酷い目に遭った……」
「今一体何が起こったんですか」
「『テレポート』だよ」
 こいつのな、とポンポン叩く首元には、ここからはよく窺えないが、先程見た得体の知れないポケモンがまだひっついているらしい。
「昔から滅茶苦茶なんだ。地面の傍に飛んでくれればいいのに、なぜか必ず高い所を狙って飛ばされる」
「テレポートっていうと……えっと、瞬間移動?」
 肯定の返事は曖昧だった。
 立ち上がれど視界は覆われたまま。随分背の高い作物だ。茎から腕のようににゅっと突き出た物体は偏った紡錘形で、長い葉に覆われてはいるが、この中身が食用となったりするのだろうか……人の物だからあまり傷つけないように、と今更過ぎる釘を刺されて、不可抗力でへし折ってしまった紡錘形が二、三虚しく落下しているのを見て、見なかったことにして、ミソラは歩き始めた。
 トウヤでもその植物たちと殆んど同じくらいの背丈だったから、下手すれば見失ってしまいそうだ。ざくざく歩きながら何か解説してくれる声は小さくて、ミソラは必死になって聞き取った。とりあえず、これはモコシという作物の畑であるらしい。渋みの強い青紫の果実がその紡錘形に閉じ込められていて、人間も、またポケモンの食用としても広く用いられたりするそうだ。
「ココウの周りはあまり水がないから、こういう大きい畑は作れない」
「はい……あ」随分遠くへ来ているのだということを、ミソラはやっと理解した。「もうココウじゃないんですね、今」
「ハシリイの近くだよ」
 多分、とやや自信なさ気に付け加えて。リリッと快活な返事も一緒に帰ってきた。
 歩みの速い師匠を必死に追いかけて畑を抜ける頃には、ミソラはもうかなり汗だくになっていた。それが出てくるのを一応待って、再びさっさと進んでいくのは、踏み固められた砂地の上。行く手には馬車らしき轍が畑に沿って続いている。
「こっちなんですか?」
「多分……」
 吹き抜けて熱を奪ってくれる風がココウと異なっているのかと言えば、それほど違いも感じられない。遠くへ来ている、という認識を改めたほうがいいのかどうか、ミソラは少し迷った。――見上げる空は、ココウと同じですかんと晴れて、砂で真っ白な地平線の彼方まで余すところなく澄み切っている。向こうには、砂色のなだらかな山地と、ぽつぽつと等間隔に立つ樹木。あれは砂丘なんだろうか。ココウの近くの岩石砂漠とはまた違ったポケモンが息づいているのかもしれない……
 ……気付けば黙り込んでいた自分に驚いて、ミソラはぱっと前を向き直した。これでは以前と変わらない。
「お師匠様、あの」
 代わりと言うように首元のポケモンがこちらを向いた。
「……私、あの、着替えとか準備できてないです……」
「あぁ、着替えは、まぁ、どうにでもなる」
 急で悪かったな、と言いながら歩調を緩めて、トウヤからミソラの横に並んだ。
 右手に若干威圧的にさえ渡る広漠なモコシ畑から、ぱっ、と二羽の鳥が閃いて飛んでいく。ポッポだ。タケヒロの連れるそれらより随分と肥えて見える。
「リナは連れてるか?」
「あっ、はい! 鞄の中に入れてます」
 あの時鞄を肩に掛けていたのは、完全に偶然であったけれど。
「ならいいよ、他には特に」
「餌とかいらなかったですか」
「僕が持ってるやつで足りる。すぐ町に着くだろうし……」
 あっ、と言って、神妙な面持ちでトウヤは喋るのをやめた。
 何を忘れたのだろう。ミソラはちょっと眉間に皺の寄ったその横顔を見ながら、大人しく黙って待っていた。さくさくと歩いていく砂道の白さは、照り返しの眩しさで目を傷めるのではと思える位。堅そうな葉をもつ草本が這っていたり、何らかのポケモンの糞だろうか、乾燥した黒い小さなものがぽつぽつと転がっている。モコシ畑を回り込むように進んでいくと、遠くにうっすらと、町並みらしき影が見え始めた。……その間、トウヤの首に引っ付いている(肩車されているというのが正しいか)薄緑色のポケモンは、エメラルドグリーンのつぶらな瞳をらんらんと輝かせながら穴が開くほどこちらを見つめてくるので、ミソラはなんとなく居心地が悪い。
「……あの」
「ん」
「何か忘れ物ですか?」
「あ、ああ」
 トウヤが口を開いた瞬間にパッと覗き込んでくるポケモンの顔を、トウヤもなんとなく居心地悪そうに肩越しに見やった。
「薬だよ」
「薬って、あの薬ですか」
「あの薬?」
「前、『死の閃光』の爆心を見に行った時に飲まれてた、『灰』の……」
「ああ、いや、あれじゃなくて」
 他にも薬を常備していたのか。体が丈夫なのが取り柄、と前ハギに言われていたけれど、やはりそんなに丈夫な方ではないんだな、とミソラが思い込んでいる間に、リリきゅいーぃんと問いかけるような調子の機械音を薄緑が発して、ぐぐぐっと前へ乗り出してトウヤと目を合わせようとしている。トウヤは前へ歩きながら、数秒じっとその目を見つめて、少し笑って、ふいっと前へ逸らした。
「いいよ。戻らなくていい。なくてもどうにかなる」
 リリンッ、とご機嫌な返事。最初は機械的にしか聞こえていなかったものがだんだん感情豊かに見えてきて、ミソラには面白い。
「そのポケモン、どうしたんですか?」
「借りたんだ。グレンのポケモンで、『リグレー』と言って」
 首に巻きつくリグレーの腕が、ぎりり、と締まっていく。
「……いや、本当は僕のポケモンで」
「そうなんですか!」
「グレンに長い事預けてたんだが」
「『リグレー』って、その子の名前ですか?」
「種族名。結構最近発見されたポケモンだから、ミソラにやった図鑑には載ってなかったかもしれないな」
「名前は?」
「グレンはポケモンに名前はつけない」
「でもお師匠様のポケモンなんですよね?」
「え? いやでも」
 ぎりり。
「っ、……」
「考えますか!」
 ミソラが嬉しそうに言うと、トウヤは若干戸惑った様子で押し黙り、それから「お前が考えていいよ」と責務を弟子に押し付けた。
 モコシ畑からまた一羽、ポッポが慌ただしく飛び立っていく。嘴に青紫が付着しているのが垣間見えた。農作物を漁っているから、野生のポッポでもあんなに丸々しているのか。……それを目で追い、また視線を戻してきたリグレーとミソラはじっと向き合う。名前か。名前。
「リグレーですよね」
「ああ」
「何ポケモンですか?」
「ブレインポケモン」
「メスでしょうか」
「どうだろう」リグレーは激しく頷いた。
 ミソラの唯一の手持ち、ニドリーナのリナの時は、何か舞い降りてきたというか、あまり悩まずに名付けたけれど。リグレーかぁ、と呟くミソラの横で、荷の軽そうな面持ちでトウヤは歩いている。自分の名前を決めてくれ、と頼んでから、日が落ちるまで延々と悩み続けていた時の彼の様子を思い起こすと、ミソラはやっぱりおかしかった。
「でも、お師匠様がつけたほうがいいんじゃないでしょうか。リグレーもお師匠様につけてもらった方が嬉しいでしょうし……」
 そうだそうだ、と言わんばかりにトントントンとリグレーの両手がトウヤの頭を叩きはじめる。鬱陶しそうに首元からそれを剥ぎ取ると、胸の前にそれを抱え直した。丸く砥がれた石碑のようなリグレーの石頭を、ついとトウヤは見下ろす。また、自分の時のように、二、三時間考え込むのだろうか……若干わくわくさえしながら一人と一匹の様子をミソラが見、次にトウヤが口を開いたのは、そのたったの三秒後であった。
「テレ……」
 その殆んど囁くような声に沈黙で返しながら、『僕はサボネアを見てハリと名付けたセンスの持ち主だ』と卑下していた彼の記憶を、ミソラは矢庭に呼び戻そうとしていた。
 ……リグレーは瞬きし、己を抱く男の顔を見上げる。トウヤはその緑の頭を、ミソラはその男の顔をしんとして見つめながら、対の轍の上をそれぞれすたすたと歩いた。
「……テレ」
「テレポートのテレですか……」
「……」
「……あ、メスの要素は?」
「じゃあ『テレコ』だ」
 今度は少し張った声で。その開き直り方にミソラはむしろ感銘を受けた。ゆっさゆっさと体を揺すって『テレコ』も嬉しそうにはしていて、テレコ、テレコ、とトウヤは何度か口に出してその名を呼ぶと、
「ちょっと呼びにくいな。『テコ』にしよう、テコで」
 早速改名した。





「――『テラ』、ちょっとミソラと一緒にいてくれるか」
 何度目かの改名を受けたリグレーの『テラ』は、再び首元から引き剥がされてミソラの手中に収まった。
「テラはボールないんですか」
「グレンから預かりそびれたんだ」
 何かあったのだろうか、恨めしげにそう言うと、トウヤはさっさと目の前の建物の中へと消えていった。
 ミソラは顔を上げる。ケーシィの集中の妨げとなる為、ポケモン同伴お断り。そんな注意書きがガラス扉の真ん中にでんと貼られているその店舗は、『テレポート便ハシリイ支店』という看板を軒先にぶら下げている。少々お高くはつくが、物凄い速さで目的地まで物資を輸送してくれるので、痛みやすいものや大きかったり重かったりする荷物を送り返す時には重宝するのだそうだ。ただ、受け付けているのは『物資』のみで人間の輸送サービスは存在せず、というのもポケモンの力加減と気分次第では、転送した物資が行方知れずとなったり、また転送先で原型を留めていない状態になっていたりすることがあるからだそうで……という話を思い出して、ミソラはまた真夏なのに身震いをする。人間輸送サービスを以て二人をハシリイまで送り届けてくれたリグレーは、そんな子供をきょとんとして見上げるばかりであった。
 変に緊張していたのに、一人にされると余計だ。店の前でリグレーを抱きしめながら、ミソラはぴしっと固まったまま、時折首だけ動かして周りの様子を窺っていた。
 綺麗だ。ハシリイという町に対してミソラがまず抱いたのは、そんな率直な感想だった。歓迎の文句が描かれた大きな門を抜けると、整然と石畳の敷かれた通りに、白い土壁の四角い建物がまっすぐ列をなして並んでいる。汚れた靴裏で踏んでもいいのか躊躇われるようなつるつるした石の広場を抜ければ、明るく開放的な雰囲気の商店が立ち並ぶメインストリートへ。行き交う人々はどれも、それこそ一人で歩く子供まで、そこそこ上等な服を着ている。昼間のココウのように飽和してはいない人波は、金髪碧眼の自分を見ても、こちらが不快感を催すほど大袈裟にぎょっとしてきたり、指をさしたりはしてこない……トウヤは少し安心していたようだったが、指をさされることに慣れたミソラはむしろ、奇妙なよそよそしさを感じて気を張ってしまった。
 砂漠の中の、水の町。トウヤはハシリイについて、そんなざっくりとした説明をする。特産物はカイスという直径三十センチはあろうかというような巨大な木の実で、砂漠で育つと特に甘みが強くなり旨い、らしい。桃色と黄緑のカラーリングで、お嬢ちゃん可愛いからサービス! と言って果物屋の主人が試供してくれた一切れの瑞々しさは、ここまで歩いてきた疲れを一気に吹き飛ばしながら喉を潤し流れていった。
 愛らしい色合いをしているのに随分重いようで、財布と相談しながら購入した二玉をトウヤは持て余して、トレーナーベルトの前から二つ目のボールを選んで放り投げた。やる気満々で飛び出したガバイトのハヤテが一玉担当して、早速立ち寄ったのがこのテレポート便の店。強張った顔をしているミソラの横では、ハヤテが興味津々と尻尾を振りながら、ガラス扉の前を右往左往している。
 そうこうしているとドアが開いて、ほっとしてミソラが振り向くと、そこで目を合わせたのが全く見知らぬ中年男だったから更にかちっと硬直した。男は店先を占拠していたハヤテの鼻先を、営業妨害、と臆すことなく押し込むと、続いてミソラの方を見やる。
「……君、……言葉通じるかな。この子の飼い主? お客さん?」
「あ、いいえ……えっと、あの」
 ミソラが店の方へと首を伸ばすので、男はああと了解した。
「あの人の連れね。おーい、兄ちゃん」
 店内に呼びかけるはすぐに諦めて、男はもう一度ミソラに向き直った。
「入って。その子抱いたままでいいから。そこに居られると邪魔」
「は、はい。ごめんなさい……」
 嬉々とするハヤテとテラをなんとか宥めながら入ると、客の姿は他に見えない。トウヤはなぜかレジカウンターの中にいた。そんなところで誰と話をしているのかと思えば、どうやら店の電話を借りているらしい。
 話の内容を聞かなくともその敬語の使い方で、相手はおばさんだろうな、とミソラはなんとなく察しが付いた。配達番号だろうか、長く数字を伝えると、何やら小言を言われたようで、すいません、と電話越しに小さく頭を下げている。ぶんぶんと楽しそうに尻尾を振り回すハヤテを、ぺしっとミソラは叩いた。リリッとテラが笑う。
 それでヴェルは、と早口に問うのを聞くと、ミソラもその小さな声にかじりついた。はい、はい、と、何度かの応酬。それから、トウヤの表情がふっと緩むのを見て、ミソラも今度こそ、ほっとした。
「よかった……」


 店を出ると、早くも日が傾きはじめていた。モコシ畑から存外に長時間歩いていたようだ。
 カイスという言葉を聞いただけで元気を取り戻したヴェルは、昼食は少しではあるが口にしたのだそう。ハギの語った様子を嬉しげに伝えてくるトウヤを見上げていると、ミソラもつい嬉しくなる。その足はおもむろにどこかを目指して進み出したので、ミソラもその横をついていった。
「ヴェルももう年だからな。こういう事があるのも、覚悟しとかないといけないけれど」
「年っていいますけど、そんなに年取ってるんですか?」
「孫がいるんだよ、ヴェルには」
 えっ! と声を上げたミソラに苦笑して、トウヤは溜め息――今までの中では一番幸せそうな溜め息をついて、軽く空を見上げる。
「僕は見たことないんだ。ヴェルもまだ会ってないらしい。……そのうち会わせてやりたいな」
 外を歩いているとき、またココウの通りを歩いているときよりも尚、トウヤの歩調はゆっくりとしていた。気まずさのない沈黙と穏やかな喧騒の間を泳ぎながら、ミソラは町を観察する。鮮麗に咲き誇る芸術品のような花屋。精彩を放つ果物の香。緩やかな雰囲気のカフェテラス。先端を行く家電の店、かと思えば古風な本屋……興味をそそられる数々の景色の中に、必ずと言っていいほど映り込む青くて丸い物体の存在に、ミソラはそのあたりで気付きはじめる。
 人々と寄り添うようにして、小さなあんよでてちてちと歩いていく、ぷにっとした丸耳の獣。体を覆う細やかな体毛は短く明るい青色で、腹の部分だけが眩しい位の白さ。特徴的なのはその尻から伸びる尻尾なのだが、ぎざぎざとくねる細い尾の先端に、用途不明の水球らしきものがひっついてぽよんぽよんと跳ねている。顔と体が一体となった真ん丸の顔面、きゅっと口角を上げて前を見据える黒々した瞳を見つめながら、ミソラはそのポケモンとすれ違った。そして顔を上げると、全く同じ種類のポケモンが、また向こうからやってくるではないか。あっちにも、そしてこっちにも。
「……あれってマリルでしたっけ」
「合ってる。それであっちが」
 ルリリ、と。示された方向にはマリルよりもっと小さな水色の獣がいて、体と殆んど同サイズにまで膨張している尻尾の水球に乗っかって、はしゃぐ子供の隣を一緒に跳ね回っている。
 そう言っている間にもまた一匹、マリルとすれ違った。じーっと見つめるミソラの事を、人間に連れ歩かれながら、ぽけっとした顔でマリルもじーっと見つめていた。……首だけ振り向いて後を追えば、そのマリル、胴体に何やら輪っかが取り付けられて、そこから伸びた紐を人間に掴まれているではないか。リードって言うんだ、とトウヤはそれを楽しそうに解説し始める。
「ポケモンが逃げていかないようにあれで捕まえているんだよ。言う事を聞かせられるか微妙なところの関係でも、傍を歩かせたいんだな。ハシリイみたいなちょっと発展した町になると、こうやってポケモンを愛玩用にする人が増えてくる」
「愛玩用……」
「ペットってやつだよ」
 都会になればなるほど町は安全になるから、ポケモンを護身用にしなくてよくなるんだ、とひとりごちると、肩車のテラが何やら愛おしげな顔をしてその首をぎゅうっと抱きしめる。のしのしと後ろを気ままについてくる、首輪などつけていないやんちゃなポケモンを眺めはじめたミソラにはお構いなしに、トウヤはいつになく機嫌の良さそうな調子で続けた。
「なぜ、ここでマリルか」
「……なぜ?」
「ハシリイは湧水の地だ。周囲の他の地域よりも恵まれている。その恵まれた地を巡って、昔から人間と共存してきたポケモンが特に二種類いた。ひとつはマリル、もうひとつはツチニン」
 ミソラは顔を強張らせた。ツチニンと言うと、ミソラの苦手なテッカニンに進化するポケモンである。
「人間とそれらは、よく助け合って暮らしていたはずだった。だけどある時、マリル達は急に人間に、ツチニンたちをこの町から追い出さなければ、湧き出る水を涸らしてやると言い出して――」
「ポケモンが喋ったのですか!」
「さあな。そういう伝説なんだ」
 そもそもが湧水の地であるからして、人間はマリル達の雨乞いに頼って生活していた訳でもなかったし、マリルに水を涸らす力など備わってはいないはずである。けれどもポケモンに神が与えたもうた『人に非ざる力』というのは、その昔、今より遥かに人間を恐れさせていた。マリル達がそう言ってツチニン達を追いやりはじめると、人間たちは、ツチニンの作る豊かな大地との離別を余儀なくされたのである。
「マリルから見れば、人間はツチニンを愛しすぎていたらしい。嫉妬深く、わがままな生き物――そういう意味で、ここの人間は、マリルのことを『悪魔』だと考えているんだ」
「あ、くま……」
 今まさに二人の横を通り過ぎた、ベビーカーを押す夫婦の笑顔と、その手が握るリードの先でぽてぽて歩いているマリルを見ながら。
「……本当ですか」
「今はもう笑い話らしいけど」
 よく悪魔と一緒に散歩できますね、とミソラが笑うと、あれがかわいいからなぁ、とトウヤは腕を組んだ。
「お師匠様もマリル好きなんですか?」
「けっこう好きだな。水タイプなのによたよた泳いでるところとかかわいくて」
「そうなんですか」
「今は無理だけど、余裕ができたら手持ちに入れてみてもいいかと」
 思って、の『て』が半分くらい聞こえた瞬間、ミソラの視界からトウヤが消えた。
 ……ミソラは立ち止まった。今思えば、視界の端に見えていたのかもしれない緑色の光が、残像として一瞬その場を漂って散る。一人になっても、今度は緊張や不安はなくて、面白さと少しの憐み、そして誰にともない呆れがないまぜになった微妙な感情を抱えていた。
 ハヤテがぱちくりと瞬きする。――その向こう、白い建物群の裏の方から、男の悲鳴が一瞬聞こえて、それからド派手な水音がした。





 よく晴れているし空気も乾燥していて、だから服はすぐに乾いた。けれど暫く立ち直れそうもない様子で、トウヤは今荷物と一緒に落下した噴水の縁のベンチに座り込んでぐったりしていた。その肩にはやはり、何が起こったのか全く意味が分からないというような他人事な顔をしているリグレーが乗っかっている。……遠巻きに指さされて人に笑われている師匠をどう庇う事もできず、ミソラは鞄の中からハンカチを取って差し出した。無言の慰めに、トウヤは首を振った。髪から水が滴って落ちた。
「……帰ったら……」
「帰ったら?」
「グレンを痛い目に遭わせよう……」
 酷いとばっちりを企てながら立ち上がったトウヤの後ろを、一旦ハヤテと目を合わせてから、ミソラは追いかけていった。
「帰るんですか?」
「いや、せっかく来たから数日いようかと思ってるけど……お前が帰りたいなら」
「そういう意味じゃないです、帰りたくないです」
「だったらよかった。一応、泊まるあてはあるんだ。……見たいものもあって、毎年ハシリイでは夏に『水陣祭(すいじんまつり)』って言う……」
 また疲労を漂わせつつあったトウヤは、ふいに顔を上げ、周囲に目をやった。
「……変だな」
 商店の立ち並ぶ通りに比べれば、比較的閑散として和やかなムードの漂う、だだっ広い公園を見渡しながら。
「櫓(やぐら)が立ってない」
「やぐら、とは?」
「こう、塔みたいな感じで」
 この時期ならもうあの辺に準備されてるはずだ……、と遠くを指さそうとした刹那、くっと体に力が掛かって、トウヤは右足を蹴り飛ばした。
 左を軸に急激なターン。目の前の人が唐突に動くからミソラは驚きすぎて動けなかった。同じく目を点にしているハヤテの顔の真横を、きらっと一光、そしてヒュンと球体が横切った。淡い緑色だ。カイスより少し小さいものが、続けざまに二つ。――それを右手で跳ねのけようとして、あっとトウヤは顔色を変えて、やっぱり動けなくなった。反応したのに結局どうにもできず、それが腹の前にぼすんと突進してくるのを、ただ身を引きながら受け止めるだけにとどめた。
 それほどの衝撃もなく、一個目がトウヤの腕の中に納まると、連れ立ってきた二つ目の球はその腕に当たってぽよよんと跳ねる。よく見なくとも二つの球は黒いゴムのようなもので繋がっていて、それが『ルリリの尻尾』であると、茫然としていたミソラもしばらくしてから気付いた。
 ルリリの尻尾。ただし――淡い緑色。何か果物の色にも見えた。……ぷらぷらしていた大きな尻尾の挙動がようよう収まってくると、トウヤの腹に完全に顔を埋めていたものが、ひょこっ、と顔を上げた。やはりルリリに見える。ただし、淡い緑色の。
「『まぁちゃん』か!」
 その色にも驚いたし、それを『ちゃん』付けで師匠が呼んだことに、ミソラは何より驚いた。
 りう、るりうっとご機嫌に尻尾を揺らしはじめた『まぁちゃん』の胴体には、真っ赤な細いベルトが回されていて、そこから赤いリードがぷらんと力なく垂れている。よく見ると、途中で千切れていた。なんとなく事情が察せられる。まぁちゃーん、と呼ぶ声が、どこからか聞こえてきたことも頷ける。
 あーっ、と背後から別の声がして、ミソラとハヤテとは振り返った。
 随分無邪気な声色も、致し方ないという感じだ。そこに立って、千切れたリードのもう片方をしっかりと握って、頬を紅潮させて満面の笑顔でこちらを指さしたのは、六、七歳に見える幼い女の子だった。
「――とーやくんだぁーっ!」









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