照りつける日差しは数週間前とは比較にならないくらい威力を増していて、体調を崩したって仕方ないよな、とミソラは息をつく。酒場から(上手い言葉で)かっぱらってきたソーダ水を流し込むと、喉から駆け抜ける冷たさと炭酸は得も言われぬ爽快感をもたらした。結露した瓶で頬を濡らすと、痺れるくらいの心地よさ。ゴクゴクと喉を鳴らして、ぷはぁーっと大人顔負けの音を鳴らしているタケヒロの横で、ミソラもため息を漏らした。
「いやーしかし、旅行かぁ」
「旅行だよぉ」
「いつから行くんだ?」
「昼過ぎくらいだって」
「お、おう。急だなそれは」
 口元は笑った形のまま若干表情を曇らせたタケヒロの横で、だよねっと肩を揺らすミソラはあまりにも無邪気な笑顔を浮かべる。現金な奴だな、と心の中でちょっと呆れながら、釣られてタケヒロもまた笑みが漏れた。白い顔を更に真っ白にさせてこの世の終わりみたいな目をしたり、固い決心がすぎて怖いくらいの顔をしていたりした先日のそいつとは凄い違いだ。あの男の挙動ひとつひとつに一喜一憂する友人は、見ていて面白くもあるが、もやっとした不安のようなものも時にタケヒロは感じたりする。けれど、レンジャーの姉ちゃんに対してなら、自分もこんな風にコロコロ顔色変えてんだろうなぁ……と思うと、それもまぁ、そんなものか。
「旅行かぁ……危険なんだろうな、外って」
「お師匠様がいるから大丈夫だよ」
「……お前、よく耐えられるよな。あいつと二人っきりで」
 友人のぼやき声に、決意に満ちた表情でミソラは強く頷く。
「良い機会だから、いろいろ聞いてみようと思う。やっぱり、話してみたいこともあるし……まだ話してくれてないことが多分たくさんあると思うし」
「聞いて後悔するような秘密とかな」
 タケヒロの茶々にも、なにそれ、とミソラは笑って返すばかりだ。楽しそうで何より。けれどもその笑顔が、なぜだろう、タケヒロには少し寂しい。
「子供の頃、どんな修行をされてたのかとか……」
「なんだ修行って」
「背を伸ばすためには何を食べたらいいかとか、足が速くなるためには何を食べたらいいかとか」
 ハリたちはどうやって捕まえたのかとか、どうしてトレーナーになろうと思ったのかとか。次々飛び出してくる質問の欠片に、ちくちくと胸を刺される気がするのは、一体なぜだろう? 友人はこんなにも楽しそうにしているのに、なぜその楽しげな様子に負の感情を抱いてしまうのだろう。嫉妬――という言葉が浮上しかけたのを無理矢理掻き消して、悪いことは全部あの『酒場の化け物』のせいなんだ理由なんかない絶対そうだ間違いない、ととりあえず決めつけて。腕を組む。やっぱり唇が尖る、そして嫌味が口をつく。
「大丈夫なのかよ」
「何が?」
「だってお前、外って、危険な所も歩くわけだろ、スピアーに襲われた時みたいにさ。まだリナだって全然操れてないし、捻挫だってこの間治ったばっかだろ、まさかずっと守ってもらおうなんて……」
 思ってんじゃねえだろうな、と振り向くと、ミソラはこれ以上ない位にきょとんとしてタケヒロの双眸を見つめていた。
 しばらく互いに顔を見合わせながら、二人は瞬きを繰り返していた。じりじりと熱が体力を蝕む中で、動かない子らの代わりに、ガラス瓶の水滴がつるりと滑面を流れて、瓶の内ではぷつりぷつりと細かな気泡が昇っていた。伝って落ちるのはガラスの水滴だけではない。何もしていなくとも、ひとたび水分を入れれば、どこからともなく汗が染みだしてくる。眉間を伝ってきたひとしずくが目の中に入ると、少し痛くて、ミソラは目の上をこすった。
「……べ、べ、べべ別に……」
 熱に火照ったのかそうでないのか、出会った頃に比べると随分と日焼けした浅黒い少年は、赤くなりながら顔を背けた。
「別に引き止めたくて言ってる訳じゃねえんだからな。ここんとこ毎日遊んでたからって、お前なんかいなくたって、ちっとも寂しくなんかねぇし……」
「……うん」
「俺にはツーもイズもいるし。お前が来るまではずっと一人だったんだからな、別に全然、寂しくなんてねぇんだからな」
「うん」
「俺は強いんだ。孤高のピエロだ。……姉ちゃんだっているし、お前なんかちょっとくらいいなくたって別に」
 別にどってことないけど気をつけろよ、言いたいことはちゃんと言えよ、あいつが気利かねぇからって一人で無茶すんなよ、安全第一で怪我なく帰ってこいよ、と言いながら、タケヒロも――汗が沁みるのだろうか――目頭をぐしぐし拭うものだから、ミソラも一抹の寂しさを覚えざるを得ないのであった。





 体高ゼロコンマ五メートル、重さ約九キロ、時速は体感で言えば軽く六十キロくらいか。とにかく高速ですっ飛んできたものをトウヤは避けきれなかった。丁度心臓の真上あたりにそれがダイレクトに突っ込むと人体からは聞き慣れない音がして、その刹那声も出せず、何の反攻も成し得ず、ただそれを抱え込みながらよろりと地面に蹲るのみ。スマンスマン暴走した、と豪快な笑いを響かせながらその家の中から登場したのはグレンで、彼はトウヤがレンジャーの家で『妙案』として思いついたエピソードの中に現れた旧来からの旅仲間だ。
 低く細く獣のような苦悶の呻きを途切れ途切れに零しているトウヤの下から、リリリッ、と涼やかな、しかしどことなく機械的な音色が鳴っている。機嫌いいなぁ、とグレンはその音の主に対して白い歯を見せる。
「いいかリグレー、これは大事なことだからよく覚えとけ。人間というのはポケモンより遥かに弱い。例えばこの辺りには『あばら骨』っていう骨があるんだが、ああ、骨って言っても分からないかもな」グレンは自分の胸を拳で叩きながらひとりでに笑う。「今の『頭突き』くらいで、その骨はポキッと折れたりする。それが肺という臓器に刺さったりする。すると、うーん、まぁ、『一撃必殺』だ。つまり、お前のへなちょこの頭突きくらいでもそいつを殺しかねないぞ。スキンシップ取る時は優しく、優しくだ」
 未だ呻いている痣の男の脇の下から、にゅっ、とグレンに対して顔を覗かせた生き物――随分と頭でっかちな薄緑色の人型の体躯に、エメラルドに発光するつぶらな瞳を輝かせている――、ブレインポケモンのリグレーは、承知承知、とコクコク頷くと、念力であろうか、羽もないのにふわりと浮き上がった。
 そうして、すとん、と首に抱き着くようにして肩に着地した生き物のつやつやした手の甲に、トウヤはぺたぺたと触れた。それからそれを刺激しないようにそろりと起き上がろうとして、う、と胸を抑える。
「おうどうした」
「あ、あばら」
「ハハハ、気のせいだ、『頭突き』なんかじゃ折れない折れない」
 つい先ほどと正反対の事を言いながら晴れやかな笑顔の友人に、トウヤは午前中にして随分疲弊した表情を向けた。
「……やっぱりやめておくかな」
「あ? 何?」
「テレポートなんか使わなくても、ゆっくりでもどうにか」
「いいのか? ビーダルの事」
「いい訳な――ッ」
 またしても深い溜め息をついて言いかけた男の首を、唐突に、強靭な圧力が襲う。変な声を立てながらトウヤは少し仰け反った。殺意を感じるくらいむぎゅうと首を締め上げ、もとい抱きしめるリグレーに、今しがたそれをボールから解放した当人はカッカと笑うばかりである。
「リグレーも本当の飼い主の元に帰れて嬉しいみたいだな」
 グレンの声に、パッと両手を高く上げ、掌の信号色をチカチカ点滅させるリグレー。その隙にトウヤは今度は息を深く吸い込んだ。
「誰が……誰が本当の飼い主だ……」
「そうだな。そんなに喜ぶなら丁度良い機会だ。そいつ、お前に返そう。俺としてはもんの凄く惜しいけどなァ」
 腕を組み、わざとらしい哀愁を漂わせた顔でグレンはそんなことを言う。リリリリィーッ、と甲高く鳴きながら両手を振り回し喜びを爆発させ始めたリグレーを肩車したまま、は、はぁ? とトウヤは彼についていけない様子だ。
「いや、いや待て」
「元はと言えばお前が拾ってきたんだしなぁ。ボールもお前が買ったボールだったろ、確か」
「でもそいつはお前に」
「リグレー自身の意志としても、トウヤの所に居たいみたいだし」
 軽く尻を跳ねさせながらリグレーは何度も頷いた。
「動くな、重い」
「まぁ俺としてもそっちに行ってくれると助かるな。ポケモン達の餌代も洒落にならん状態だし、テレポートやエスパーの要員は他にも育ててる、出所もなくずっとボールに閉じ込めてるのも可哀想だ」
「じゃあそっちのテレポート要員を貸してくれ!」
「それは断る」
 さぁリグレーよ、そいつをハシリイまで瞬間移動させてやれ! と両手を広げて煽ったグレンに、きゅいんきゅいんと妙な音で返事をした後、リグレーの周りをふわふわと緑色の光の靄が取り巻き始めた。バッカまだだよ、色々準備が……と宥めかけて、ハッとトウヤは目を見開いて、
「おい! ボール!」
「おおそうだった忘れてた」
 こりゃあうっかりうっかり、ちょっと待ってろと言いながらグレンはのんびりと家の中へ戻っていく。トウヤはようよう立ち上がって、未だに肩車しているリグレーの両手に自分の手を添え、おろおろしながら屋内を覗き込む。背後の光は刻々と強さを増した。
「グレン、グレン」
 おいまだか――その声は不自然に途切れた。まぁそう慌てるな、と間延びした返事をして、殆んど足の踏み場もないような部屋の中をうろうろして、大男はようやく紅白のボールを手に取った。これだこれだ、あったぞ、という嬉々とした呼びかけに返事はない。足元の雑多な物資を大股で避けながら白昼の下に戻って、ありゃ、とグレンは声を漏らした。
「遅かったか……」
 男の目の前、一人と一匹が一瞬前までいたはずの場所を、乾いた風が吹き抜けていった。





 タケヒロが寂しがるからと言って、やっぱり行かないなんていう選択肢はミソラの中で生じようもない。
 水筒、ハンカチに絆創膏。リナのボールは間違いなく内ポケットへ。師匠に貰った大事なトレーナー入門書やポケモン百科をどうしようか迷ったが、余計な荷物はきっと多くない方がいいので置いていくことにした。ただし、おやつのビスケットだけは確実に、鞄の下方へ忍ばせる。蓋のボタンをきちんと掛ければ、土色の鞄は完成だ。それを肩に提げてみて思う。この水筒に水を入れて、更に着替えの服なんかを別のサックに用意した時、果たして長距離歩けるだろうか。リナに鞄を持たせることはできないだろうし、だからと言って師匠のポケモンであるハヤテやハリに持ってもらうのは気が引ける。
 そもそも、着替えは何日分用意したらいいのだろう。途中で洗う事はできるのだろうか。どうにしろなるべく動きやすいものを選んだ方がいいだろう、自分の現在の格好を省みて、ミソラは頷く。おばさんがミソラ用に可愛らしい女の子みたいな服ばかり買ってくるから困るのだけれども、中でも今日の半袖半ズボンみたいな、できるだけ男らしいものを……ああでも、どうだろう。また草原を行くとなればズボンの丈は長い方がいいかもしれない。あの草は刃みたいで、人の皮膚くらいなら簡単に裂くのだ。
 やっぱりお師匠様が帰ってきたら聞いてみようっと、とひとりごちて、ふかっとベッドに座り込んで、ミソラは不意に微笑む。お師匠様。私のお師匠様。どれだけ突き放されようとも、理解し合えずとも、最初に救われた日からずっと、ミソラの一番はあの人なのだと言って違いない。ミソラを助けてくれた人。ミソラに名前をくれた人。思えば思うだけ温かい感情が滲んでいくのを、いつだって止められはしなかった。記憶を失って『最初に見た人』だからそう思うだけだよ、と言われたって、当人にそんな事は関係ないのだ。その人が、一緒に行こう、と言ってくれた。一人を好むその人が。これが果たして、にやにやせずにいられようか?
 ベッドの上で膝を抱えて、早く帰ってこないかなぁ、とまた独り言。どんな話ができるだろう、どんなものが見れるだろう? 期待は膨らむばかりだ。にししっと笑いの零れる口元をミソラは一人手で覆った。わくわく感で満たされた胸はもう張り裂けそうで、お腹がすいたのも忘れちゃうくらい――
 ――その張り詰めた胸が爆発するくらいの衝撃でミソラはベッドから飛び上がった。
 天井だった。ドンッ! と物凄い音がして、雷でも落ちたのかとミソラはまず思った。なればまさに青天の霹靂であるが、そんな事はあるはずもない。衝撃ではらはらと埃が舞う。冷静に考える間もなく立て続けに屋根の上から何らかの音。何かいる。それも悲鳴を上げるやつが。人間ならば男モノで、相当興奮しているやつが。
 そうなってくるとミソラが窓に目をやったのは必然に近いが、その澄み切った青空をバックに上から下に通り過ぎていったのが本当に人間だったので、ミソラはぴしっと硬直した。
 悲鳴が重なった。落ちていった人と、店先の通りの喧騒からだ。しかもそれに聞き覚えがあるから困る。どっと鈍い音がして、何やら涼やか且つ機械的な音もした。ざわめく大通りを覗き込む勇気がミソラになかった訳ではなく、ただただ動けなかったのだ。理解の範疇を越えすぎて、ばくばく鼓動が高鳴りすぎて、脳みそが機能停止しているというか。
 すぐさま音源は移ろって、次は家の廊下の方向。謎の機械音もそれについてきていた。おばさんの素っ頓狂な声が響いてきて、聞き慣れた男の上擦った声もここまで届いて。どたどたと階段を駆け上がる音。どうしよう。ミソラはへたりとベッドに戻ると、そこからやはり動けない。どうしよう。くつくつと笑いさえ零れてきた。先程のにやにやとはまるで毛色の違う笑みだ。
 ドアをぶち開けたのはトウヤで、服の色とかを見るに、まぁ朝も見ていたから分かっていたけれど、今しがた屋根から通りへ落下したのはやはり彼であるらしい。
「お前、お前なぁっ……!」
 は、はい――自分に言われたのかと思って一応返事をしたもののミソラに男は見向きもせず、ドアと対する壁際まで行くとそこに積み重なっている荷物の中から黒い大きなリュックサックを引き抜いた。旅するときに持っていくやつだ。崩れた他の積荷は無視し、ボールと財布と、と言いながらトレーナーベルトとポケットとを確認して、ええと待てよ、それから、ええと、と延々と無駄を述べながら室内をうろついている男の見えない首筋に、ミソラはようやく注目する。……何かいる。薄緑色で、丁度人間の赤ん坊くらいの大きさで、つぶらな両目をエメラルドに輝かせた何かは、トウヤの首元にしがみついたままこの上なく幸せそうな顔をしていた。
「あ、あの……お師匠様」
 ミソラが声を掛けた途端に、薄緑の生き物が、すうっ、と淡い光を纏った――ま、待て! だから待てって! 師匠が慌て叫ぶ。見慣れない様子の彼を見るのにもミソラは最近慣れてきていた。
「お前情けでうちを経由してくれたのか知らないがちょっとそこまで行くんじゃないんだからそんな簡単に準備、ええと待ってくれ本当に頼むから……」
 最後懇願するようにトウヤは言いながら、勢いよく襖を開け放ち奥にしまっていた携帯飼料の小分け袋をいくつか鷲掴みにしてリュックに放り、ミソラが机の上に出しっぱなしにしていたおやつビスケットの残りも半ば混乱しながらリュックに放り、そうしている間に薄緑の生き物はずんずんと纏う光を強めていく。力を溜めているみたいだった。そしてそうだとすれば、その力が解放されるときもほど近い。それを初めて見るミソラにだってそうだと分かるほど強靭な力が渦巻き始めたあたりで、だから、あとは、あとは何だ、と誰にともなく言いながらトウヤはいくつか足踏みした。そして顔をぱっと上げた。ミソラとようやく目が合った。
「あっ――」
 くっ、と薄緑の生き物が、力むように体を縮めた――茫然としているミソラへと、トウヤは殆んど飛びかかって、
「ミソラ!」
 ばしっ、と強引に手首を掴んだ、その瞬間。





 ――世界が回転した。









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