5・恋するテレポーテーション







 長椅子に掛け、壁に背中を預けると、アルミの窓桟の冷たさがため息が出るくらい心地よい。うなじにかかる髪を避けて、もっと密着させる。すぐに熱してしまうけれども、ひんやりとする首筋から血流が全身に巡っていくみたいだ。もっと冷えろ、冷たさを奪え。汚れなんかは気にもならず、ミソラはしばし魅了された。夏が来たな、とどこかで思った。――そして、あぁ、僕は夏というのを『覚えている』んだな、と少し微笑んで。
 ただ、このように夏も真っ盛りであるのに、ハギの酒場はびっくりするほど冷え冷えしている。アルミみたいな歓迎される冷たさならばよかったのだけれど残念ながらそうではなくて、それがどういうものかと言えば、ちょっと居た堪れないくらいであった。
 すべては、一匹の飼いポケモンに起因する。そのポケモンのせいで普段はお喋りなハギのおばさんもなんだか口数が少なかったし、普段から物を言わないトウヤなんかそれに拍車をかけていた。俗っぽい言い方をすれば『負のオーラを放っている』その人が、普段通り寝坊してればいいものを、珍しく早朝からきっちり目覚めてくる。だから尚更質が悪い。
 騒ごうにも騒げなくて、というか騒ぐ気分にもなれなくて、遊びに行く気も更々起きず。ミソラはいつも通り飄々としているニドリーナのリナを抱えて、店のなるべく隅の方を選んで、椅子に腰かけて大人しくしているより他にないのであった。
 トウヤの所有する個体であるノクタスのハリも、オニドリルのメグミも、あのやんちゃ者のガバイトのハヤテでさえ、今はしおらしくして朝ごはんをつついている。三つの視線は一様に控えめに、彼らの主人のしゅんとした背中と、その手の撫でている大きな茶色のポケモンを眺めて――ヴェル、と小さく零されるトウヤの声に、その名の持ち主が反応を返すことはない。鼻先に置かれたモモン果肉のすり潰しに口をつけることも、やはりない。目を瞑って伏せたままの丸々と太ったビーダルは、心なしか、前より小さくなったような気がした。
 ここ数日で聞き飽きた、彼の溜め息。その陰鬱な雰囲気が、遊び盛りのミソラには特に居た堪れなかった。
「……もう三日目ですよね、ヴェルが食べなくなって」
 問いかけに、振り向きもせずに男は頷く。
 夏の入りまではダメだと言っても何でもかんでも食していたヴェルの様子がおかしくなったのは、一週間前くらいのことだ。急激に上昇していく気温と反比例するように、ヴェルは朝餉を食べなくなって、夜も食べなくなって、そして昼まで食べなくなった。おやつをあげても喜ばない。真っ先に異常を察したトウヤは食い付きの良さそうな物を毎日揃えて帰ってきたが、半ば強引に摂食させたものをヴェルが吐き戻してからは、そういう事も積極的にできなくなったようだった。かくして三日前からは、ヴェルは水とジュース以外には何も口にしていない。これだけ暑い時期にそれほど食欲を落とされては、対象がどれほど脂肪を蓄えていたとしても、世話する側は気を病んでしまう。
 ポケモンは人間が思っているよりうんと強いから平気だよ、と昨晩言ったトウヤの、その時の顔色があまりにも悪くて、このままでは彼まで体を悪くするとミソラは密かに案じていた。
 夏バテかねぇ、と手で自分の頬をさすりながらハギが言うと、はーっと深く息を吐きながらトウヤは立ち上がって、カウンターの椅子にどかっと座り直した。
「僕のポケモンはこんなに体調を崩したことがないから、どうしていいものか……」
「この子も歳だからね」
 困り顔で腕を組むハギ、歳……かぁ、と虚空を見ながら呟くトウヤを見ていると、ミソラだってもう、どうしていいのか分からない。
 気まずさからなのか、視線は自然と健康なポケモンたちへ向かっていった。主の方をじっと眺めていたノクタスはふいと顔を戻すと、給餌ケースに盛られた不味そうな固形飼料に手を伸ばす。一足先に平らげたガバイトが満足気に(但し、やはり遠慮がちな様子で)のしのしと歩いて行ってしまうと、その奥に佇んでいたオニドリルがノクタスを見、ピ、ピ、と短く鳴いた。ノクタスの黄色い目玉がぎょろりと動き、その鳥の足元の給餌ケースの向きへ、またぎょろりと下がる。
 メグミは元気がないというよりは、食が細いんだな――合意の上で、と言った様子で自分の方へメグミのそれを手繰り寄せたハリを、ミソラはぼんやり眺めていた。そしてぼんやり思い出すのは、もうだいぶ昔の話になってしまったが、師匠と『死閃の中央』を見にいった時に聞いた話。そういえば、ハリはその不味そうな固形飼料が、子供の頃から好きなのだという……
 ひらめいた、とでも言うようにミソラは表情を明るくした。
「大好物をあげたら、喜んで食べるのではないでしょうか!」
 突然大声を上げたところで、やっぱりヴェルは動かなかった。好きなものはもうだいたいあげてみたのよ、と苦笑する叔母に、ミソラはがっくしと肩を落とす。けれどもトウヤの方は、ミソラの言葉を聞いた途端、別の世界へ心を吸い取られたかのように不意に動かなくなって――その後、あっという間に生気を得た彼の表情を、ハリたちだけがぽかんとして見つめていた。
 彼が急に椅子から飛び降りたので、それを視界の端にしか入れてなかったハギもミソラも、顔が強張るくらいには驚いた。
 再びヴェルの傍へ腰を下ろすと、ぐったりしている獣の後頭部を、トウヤはわしわしと強めに撫でた。閉じられた目元が、僅かに嫌そうにぴくぴくと動く。ヴェル、と呼びかける声は先程よりも随分高揚していて、
「『カイス』だったら、食いたいか?」
 とっておきの秘密兵器を持ち出すように、トウヤはヴェルにそう言った。
 ……なんとなく聞き覚えがありつつもミソラには意味が分からなかったが、ああっ、とハギが手を打ちあわせたところを見ると、『カイス』という食べ物は共通認識として彼らに存在するらしい。そして、その秘策は確かに急所を捉えた。その単語が出た途端、今まで聞かぬふりでも決め込んでいたようだったその大きな生き物は、鼻先をぴくぴくと揺らして、ぬるりと瞼を持ち上げたのだ。
 おぉっ、と言う顔を、遠巻きに見ていたハヤテが浮かべた。意外としっかりした視線でもの欲しそうに見上げてくるヴェルに、トウヤが面に示した喜色は無邪気な少年そのものであった。ぬうっとメグミが翼を広げて伸びをし、ハリが小さく鼻を鳴らす。どうやら事が動き始めたみたいだ、けれどミソラには何がなんだかさっぱり知れない。
 よしよし、じゃあすぐに買ってきてやるからな、と広い背中をぺんぺんと叩いて、トウヤは溌剌と立ち上がった。
「おばさん、僕『ハシリイ』に行ってきます」
「ええ。頼んだよ」
 どこかへ出かけるのか。ミソラは首を伸ばした。
「あっちに着き次第テレポート便で送るので」
「どのくらいかかるんだい?」
「道が例年通りならここから十日くらい……いやでも、ぶっ飛ばしていけば」
 三日で行けますよ、な? とポケモンたちに話を振ると、ハヤテだけが何度も何度も頷いて返す。ぶっ飛ばして、なんて言わせるくらいには師匠を興奮せしめる事の次第をミソラは見守るに徹していたが、なんとなく不安な気持ちが胸に増殖し始めていたのは言うまでもない。
「……けっこう遠いんですね」
 ミソラの呟きは小さすぎて、胸元の相棒の耳にしか届かなかった。つぶらな瞳をこちらに向けながら小首を傾げるリナを、ミソラはきゅうっと抱きしめる。そんな様子にはちっとも気付かず、男はてきぱきとポケモンたちをボールに戻すと、昼過ぎには出発します、とハギにだけ告げて店を出ていこうとした。それを何気ない話題で呼びとめたのも、やはりハギであった。
「そういえば、今年は行くつもりなかったんだね。ここ数年ずっと、一番暑い時期にはハシリイに行ってたじゃないの」
 行けない理由でもあったのか、と問うた叔母に、ああそれは、とトウヤは振り向いて返しかけた。しかし、そこで口を噤めど、欲していた視線がそのタイミングでようやくミソラを捉えたことで、ミソラはなんとなく察してしまう。その『理由』の正体は、他でもない、ミソラ自身なのだ。
 すぐに碧眼から目を逸らした男は、叔母に向けて小さく笑んだ。
「いや、忘れていただけです。……そう、今年はその、春先くらいからあまり外には出ていなくて、ココウにいる事が当たり前みたいになっていたので……」
 ――ミソラを『悲しませている』ことを感じ取ったのか、その人に向けて、リナが低く唸り始めた。
 それがどうして突然そんなことをするのかミソラには分からず、だめだよ、とただ抱え上げることしかできない。尻尾をじたばたと揺らすリナにトウヤは目を向け、ミソラは図らずも彼と視線をぶつけた。……この間のこともあって、迷惑をかけるのは、こちらからも『願い下げ』だ。そう自分に言って聞かすも、うまく笑うことができているか、あまり自信が持てずにいる。
「旅行、楽しんできてくださいね!」
 だから、努めて明るく、ミソラは自分と彼とに距離を持たせた。
 ……あ、あぁ、と、意図せず零れたような音が、彼の口からは落ちた。きゅっと口角を上げ、暴れるニドリーナを必死に抱えている子供を、トウヤは何故か、意表を突かれた顔つきで数秒見つめていた。そして、ふと我に返って、踵を返して、妙に覚束ない仕草で扉を押した。がらんがらんと呼び鈴が鳴った。
 鳴らして、戸を開けたまま、トウヤは固まっていた。
 吹き込む風は朝と言えども随分暑くて、向こうに見える舗道の石畳はからっと乾いて、弾く朝日が目に痛い。眩しくて、時の止まったように動かない背中の形が、瞼の裏に焼きつくくらいだ。何度か瞬きをした。彼を撫でながら吹き込んだ風が、続いてミソラの長髪も揺らした。
「……お師匠様?」
 呼ばれると、師匠は振り返って、もう一度その子をじっと見つめた。相変わらず唸り声を上げるリナにも気を遣いながら、戸を引き、店の中に戻って、また一考。何やら戸惑ったような顔をしているトウヤに、ミソラも随分戸惑った。
 何してるんだいという叔母の声がなければ、そのまま男はそこでそうして、ずっと考え込んでいたかもしれない。いや、あの、と釈明しながら移ろう視線は、最終的にやはりミソラを捉えた。右手がトレーナーベルトのモンスターボールたちの上をなぞる。意を決するためのまじないみたいだった。
「……ミソラ」
「は、はい?」
「え、っと……もし、お前がその方がよかったらだけど……」
 それで、けれども結局は、男の視線は気恥ずかしげに足元へ逃げていくのであった。
「行くか? 一緒に……」
 ……一緒に。
 何を言われたのか一瞬分からなくて、ミソラはぽかんとして、そしてすぐに、眩しい位の喜びがぱあぁっと顔中に広がっていった。
「――行きますっ!」





「――弱ったな、本当に弱った」
 そう言いながら頭を抱えている男を、女レンジャーは敢えて無視した。
 昼前。グラスの一つぽつねんと置かれたテーブルの上に落ちる日差しは、天井付近のチリーンの往来により時折形を崩しては戻る。透明なグラスの中に生けられている小さな花弁を房状に咲かせた可憐な花を、トウヤは今日何度目かというため息をつきながらなんとなしに見やった。この家に花があるなんて珍しい。女の私室である二階はともかく、殆んど応接用となっている一階のスペースに無駄な装飾品なんて、今まであっただろうか。
 恒例の愚痴タイムだ、とあまりにも適当にあしらわれたばかりなので、レンジャーが台所の方に下がっていくのにも構わず男は一人ぶつぶつと続ける。
「前に『死の閃光』の爆心を見にいった時とは訳が違うんだ。急ぎだからメグミで空を行くつもりだったが、あれは僕以外の人間は乗せようとしないし」
「子供とはいえ二人乗せて三日でハシリイ、っていうのも相当負荷がかかるしね」
 ティーカップを携えて戻ってきたレンジャーに、そもそも乗せないんだよ、とトウヤは繰り返した。
「荷物の問題もある。途中でキブツは経由できるにしても水も食い物も二人分……、僕と僕のポケモンだけなら、三日くらいは何も食わなくてもやっていけるけど……」
「可哀想なポケモン達」
「ミソラもリナも食い意地が張ってる」
 差し出されたカップを持ち上げ、褐色の液体をついと揺らすと、映り込んでいた己の顔が波紋に取られて掻き消された。……身勝手なやつだ、とトウヤは自分を少し笑う。大事なポケモンが今も調子を悪くしているというのに、外に出れる、あの町に行ける、というだけで、こんなにも楽しげに話せるのだから。
 二人旅ってしたことあるんだっけ、という問いに、トウヤは頷きつつ眉を顰めた。
「君ともした」
「あー、そういえばそっか……」
「そうだな、あの時もかなり大変だった」
 嫌味な声色を飛ばすように、座っている椅子の脚に蹴りが入る。
「……ええと、他には」
「はいはい、もう結構。ミッションもわざわざ確認しに来てくれてありがとう、でもハシリイの方で頼めそうなのは今はなんにもないわ」
 チェックし終えた大量の資料を元の場所――ごみ置き場のようにも見える――に戻して、お土産よろしくね、と送り出す際の常套句。適当な相槌を返し甘味のない紅茶を飲み干しながらトウヤが脳裏に浮かべるのは、いくつかの、連れのいた旅路の覚えであったが――あっ、と短く声を上げた男に、レンジャーは興味ありげに振り返った。
「何か妙案?」
「そうか、その手が……あぁ、いやでも」
 解決しかけ、また振出しに戻ったかのように一人大袈裟にため息をつくトウヤは、やはり何となく楽しげである。
「弱ったな」
「もう、なんで一緒に行こうなんて言ったのよ?」
 笑いながら机に手をつくと、花瓶グラスの中の水が小刻みに震え、ごく小さな花弁がひとつ舞って水面に落ちた。ふるふると揺れている爽やかなレモン色のひとひらを、触れられもしないのにガラス越しに指でなぞる。
「……何だろう。いつもしつこいくらいに食いついてくるのに、こう、急に引かれると……」
 思い返すは――砂漠の真ん中で、自分を町まで連れていけと頭を下げてきたときの顔、枯れ草原の真ん中で、死んでもここを動かないと喚いていたときの顔、死にかけたニドランを抱いて、どうしても助けたいのだと泣きじゃくっていたときの顔、スタジアムのフィールドの上で、あなたはずるいと叫んだ顔。
 ……はっきりとまではいかなくとも、心のどこかでは常に図々しい奴と認識していたはずのあの子供が、自分の居場所を守らなければと考えるくらいの不安を内包していたなんて、つい先日までは知ろうとさえもしていなかった。それは寂しい事だ。成す術もなくただ迷惑をかける身である辛さ、絶対的に寄りかかれる存在――血縁の親と言うのが傍にいない心細さは、自分だって、よく分かっているはずなのに。
 その結果としてあれが普段通りに遊べないくらいの捻挫を負ってしまった責任が、自分にはまるでないとまでは、トウヤもさすがに思えなかった。だからと言って、どんな声を掛ければいいのかは、ますます分からなくなるばかりだったが。それが、一人で楽しんできてくださいね、とあんなに危うい笑顔をして言うのは、……こんな言葉で表すのは勝手が過ぎると分かっているが、『卑怯』だ。
「……なんとなく……」
 長考の末、己の当惑を『なんとなく』と評した男に、立ったまま机に体重を預けたレンジャーは、策に嵌った訳ね、とからかうような瞳で見下ろした。
「でも、いいチャンスだと思う。一人でぶらぶらするのがお好きなんでしょうけど、せっかく二人きりになるんだから、厄介者にせずにいろいろ話して、もっとミソラちゃんのこと分かってあげたらいいんじゃない?」
 ねぇ知ってる、と。どことなく冴えない様子のトウヤの顔を、女はひょいと覗き込む。
「あの子、目上の人と喋る時とそうでない時とで、一人称変えるのよ」
「え?」
「私、僕、って。普通、あのくらいの歳の男の子が、自分の事『私』なんて言う?」
 ……トウヤは真っ直ぐレンジャーを見据えた。大人っぽい目つきをしていたその子の色は、今度はころりと悪戯に染まる。
「意外と『いいとこ』の育ちなのかもよ?」








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