12

 ぐっしょり濡れた髪を掻き上げながら、ミソラは顔を上げた。
 今や噴水の中は、祭りテンションのハシリイ住人たちでごった返している。崩落した櫓の残骸を水辺から引き上げる者、水中に顔を突っ込んで底を裸眼で見渡す者。丸太を上り下りしている子供さえいる。けれども皆一様に、師匠が落水させた(らしい)モンスターボールの捜索を買って出てくれた人たちだ。それも全て、ここの土地柄の気前良さのお陰である。――そして、頭上をテッカニンの大群が通過するときに上がる悲鳴の数々がまた、何はともあれ楽しそうだ。
 一足早く解放されたハリはまっすぐ空を仰ぎながら、飛びゆく黒い群れを首だけ振って追いかけている。一旦捜索活動を中断して息をつき、ミソラもそれに倣った。まぁちゃんは今どこだろう。無事でいるならいいのだけれど。
 その時、ぐいぐいと足を押される感覚に、ミソラは視線を下げた。
「リナ! どこ行ってたの」
 水を弾き飛ばすように太い尻尾を振っているのは、片耳のニドリーナ。褒めろ、という魂胆が見え見えの顔で咥えているのは、ちょっと前に吹き飛ばされたあのつばの広い帽子だった。
「拾ってきてくれたんだね」
 しゃがみ込んで問うと、目を輝かせて頷いた。主人たる自分のために動いてくれたという事実が、何とも心地よい。
 受け取って、イイ子イイ子と撫でながら、けれども気付いてしまった。この、嗅ぎ覚えのある甘い香りは……鼻先に付着していた欠片を指で掬って、ミソラは思う。間違いなく、いつものおやつのビスケット。そういえばココウから持ってきてたんだっけ、でも鞄の中に入ってるよな、と言うところまで考えて、ふと思い出した。二日前の昼間、あの部屋で、ミソラが余したあのビスケットを、荷に突っ込んだ人がいたことを。
 腰を上げ、さっきトウヤが弾き落とした鞄の方を見やる。その口が開いていて、中から残骸が飛び散っている。
 ……何より先にお菓子を漁ってきたらしい相棒をしかるべきか、その得意げな目と向き合いながら悩んでいる間に、またテッカニン達が頭上を通過していった。それに続くは一等大きな翼の影。オニドリルだ。
 風圧に帽子を押さえながら、ミソラはそれを視線で追った。緑色の粒子の尾を引いていたその鳥影が、今、不意に姿をくらませる。

「――『水鉄砲』!」
 どさくさの中なぜかトウヤに抱かれているマリルのマリーが、今しがた体を膨らませ、高圧流を噴射した。
 狙うはテッカニン、ではなく、それが連れ去り中のルリリ。テラのテレポートがかなり正確だったこともあり、至近距離からの一撃だ。マスカの垂れ下がった尻尾に水鉄砲が見事にヒットすると、衝撃に吹き飛ばされるテッカニン、その両爪がついにルリリを手放した――と思ったのも束の間、体勢を立て直したテッカニンの腋に、ルリリの『本体』と『尻尾』を繋ぐバネ状の器官が引っかかってしまった。
 あっ、と声が漏れる。まずい。テッカニンとルリリの奇声に近い悲鳴が混ざり合う。そりゃあ関節に二キロ近い物を提げて高速で飛べば痛いに違いない、案ずる間に飛び去る群れをトウヤは一旦見送った。テッカニンはルリリを外そうとしない。外せないのかもしれなかった。何せ、本体も尻尾も、同等に大きな球体だ。あのまま飛べば腕を壊してしまいかねない。
 もう一度水鉄砲を当てれば、上手く外れる可能性はある。けれども、テッカニンの腕が根元から持っていかれるという最悪のパターンもトウヤには色濃く過ぎった。そうなれば残すのは一生のハンデだ。野良では生き残れないかもしれない。――下手な妄想を振り払おうとした時、ルリリゥッ、と胸元から鳴き声が響く。きりっとした顔でマリーはしきりに何かを訴えていた。それから、きゅいんきゅいーぃん! と鼓舞するようなテラの響き。
 トウヤは少しだけ考えた。それからメグミと目を合わせ、ひとつ頷いた。

 影が翻る。真夏の斜陽の中を一対の翼が黒く滑る。ようよう公園にたどり着いたエトは、息を切らしながらそれを見上げた。
 白んだ蒼穹を駆け抜けるオニドリルがまた忽然と姿を消す。また別所へ姿を現す、速度を残したままテレポートしてきた迅速のオニドリルを、更に速いテッカニンが追従する形になった。群れの進行方向上へ移動したのだ。
 地上に虫ほど群れるマリルがこぞって水鉄砲を打ち上げる。テッカニンへ向けられた攻撃をオニドリルはひらひらと躱し、その後方、『水陣』の猛攻に進路変更を余儀なくされた『地陣』テッカニン達がやや失速する。それを追っててちてちと進攻してきた前方不注意なマリル軍にエトが足元を掬われている最中、飛び込んできた声にはっとした。
 頭上からだ。やや太めの鳴き声は、確かに聞き慣れた『うちの』マリル。あんな吠えるような声を出せるなんて知らなかった。それから、気を違えそうな機械音をうねらせるのは、例のリグレーか。そしてオニドリルの翼の影、見えないけれど乗っているはずのあの男は、――七年来の付き合いのエトが今年まで聞くことのなかった、素面の怒鳴り声をまた響かせて、
「――男だろ! 甘ったれんな!」
 一体誰に言っているのか――てんで分からなかったが、
 少年は目を見開いて、微か拳を握って、
「今変われなきゃ、一生、お前は、そのままだ!」
 ぎゅんと頭上を抜けていく。焼きついた一瞬の声、息が吸えず、汗がぞくりと背筋を這った。足元で押し合いへし合いしていたマリルの一匹が水を放つ。カンとした日差しを吸い込んできらりと光ったその砲が――、もっと大きな光に、呑まれた。

 鞄からビスケットを出して、リナにご褒美をあげようとしていた瞬間だった。
 きゃあっとハヅキが叫ぶ。同時に視界が眩く照った。光を水面が弾いたのだ。
 振り返り仰ぐ上空の、見覚えのある光の玉に、ミソラも思わず感嘆を上げた。
「まぁちゃん進化したんだ……!」

 あまりの眩しさにかざした手を退けた時、マリルになった『まぁちゃん』ことマスカは、丁度テッカニンの拘束から解放された所だった。
 釣り合っていた重みが本体側に急激に傾いたことで、尻尾側から一気に脇の間を抜けたのだ。くるくる墜落していく犠牲者のテッカニンも気になるがそれよりまぁちゃんだ、掴もうと伸ばした手のかなり先を、すっかり小さくなった緑色の水球がヒュンと過ぎた。
「メグミ頼む!」
 思わず叫ぶ。落下速度に乗ろうとしていたマスカの半泣き顔が――ぴたっ、と上空で動きを止めた。
 『サイコキネシス』だ。未知の力に動きを縛られてマスカはぎょっとしているが、落下は食い止めた。ピィッと声を上げる『オニドリルの』メグミの頭を、ほっとしてトウヤは撫でようとした――が。その手は素早く右腰へ滑った。
 羽音。驚いたメグミが急激に首をもたげた。攻撃を放とうと脈打つ刹那、赤い光が体を飲んだ。メグミを吸い込んだボールは、ベルトにひっついたままぱかんと蓋を閉じた。焼かせる訳にはいかないのだ。男は高を括った。本日二回目。
 足場を失ったトウヤと、抱いているマリーと首筋のテラ、一匹浮かんでいたマスカが、重力に倣って落下を始めた。そこに旋回してきた大群が物凄い速さで突っ込んだ。
 首のテラを引っぺがしマリーと一緒に抱え込む、トウヤに取れる防御策はそれだけだった。手の届かなかったマリルのまぁちゃんが、それでも十分軽いが故に追突されてぶっ飛ばされたのも、結局見ていることしかできなかった。

「行ってリナ!」
 言うとミソラは、渾身の力でビスケットを遠投した。
 高速回転するビスケットは美しい放物線を描きながら標的へ向かっていく。途端リナは目をぎらつかせ走り出した。ミソラも走り出した。リナの首と、ミソラの手首を繋いでいる鮮やかな青色のペットリードが、数歩でぴんと伸びきる。リナは止まらない。遠慮もしない。ミソラは無茶苦茶に引かれていった、速い速い、転ばないように地面を高く蹴飛ばした、かつてない速さで地面を駆る自らの脚に、並々ならぬ興奮を覚えて。すごいぞ、まるで風になったみたいだ!
 しかしそれでも足りなかった。空から落っこちてくる標的――緑色のマリルは、このままでは明らかに、ミソラが到達する前に地面に激突してしまう。
 全然間に合わない、ミソラが諦めかけたその瞬間。かなり向こうからまた駆け寄ってくるのは、あれ、エトか? 思わぬ伏兵の出現にミソラは目を丸め、エトは何となく吹っ切れた様子で、腹の底からこう叫んだ。
「『跳ねる』ッ!」
 ミソラはずっこけそうになった。けれど、足を止めないでよかった。
 跳ねるための足場などあるわけもない空中で、指示通り健気に跳ねようとしたマスカは、本当に、何もないように見える場所で、ぽよよーん、と一度だけ跳ね上がったのだ。
 思わず目を見開いた。奇跡でも起きたかと思った。けれど一瞬、『宙に浮かぶ光の板』という手品のタネが見えた気がしたから、心までは奪われずに済んだ。
 ビスケットのために進路をそれようとしたリナのリードを腕から抜く。リナに貰った速さのままミソラは必死に駆け抜けた。速い速い速い。ちょっと速すぎた。オーバーワークを起こした足が回りすぎてもつれた。あっと言う間に体が前へ。地面が近づく。もうちょっと。世界がスローモーションになった。切迫するマスカとばっちり目が合った。咄嗟に、被っていたつば付きの帽子を脱いで、前方へ突き出した。
 ――豪快に転倒しながら、落下してきたマスカを帽子でぎりぎりキャッチして、ミソラは顔から地面へ突っ込んだ。
 多くの人が、固唾を飲んで、その光景を見守っていた。
 一拍の静寂の後。……目を白黒させながらぴょこっとマスカが体を起こすと、ワァッという歓声と、拍手喝采が巻き起こった。

 一方では、尋常でない量の『わたほうし』が炸裂していた。
 落下物を受け止めて噴き上がる白綿。一瞬視界を覆い尽くしたその即席マットの上で、トウヤは大きく溜め息をついた。今更恐怖でぷるぷるしているマリーの背中を叩きながら、難しそうに起き上がって、微力ながらも『念力』で衝撃吸収に尽力してくれたテラの頭をぐりぐり撫でて。それから目をやる。当然のようにそこにいるハリは、なんでもないように頷いた。トウヤは苦笑だけ返した。
「……だせぇの」
 口ではそう言いつつ、エトは後ろから恐る恐ると近づいてくる。トウヤは首を回して何か言い返そうとした。けれどもすぐに取りやめて、ひょいと立ちあがった。
「なかなかいいな、お前のポケモン」
「え?」
「リフレクターか?」
 ……エトは唖然として押し黙る。鬱陶しそうに体の綿を払いながら、トウヤは彼を一瞥して、得意げな顔を見せた。
 降ろされたマリーが足元で鼻をむずむずさせている。だんだんと粉と化して風に滅していく綿の向こうで、ちゃっかり英雄になったミソラは大勢の人に囲まれていた。トウヤはテラを元の位置にひっつけながら、そっちに歩いていく。ハリとマリーもついていく。
 エトは暫く茫然としていたが、あ、あっ、と声を上げて、
「ね、姉ちゃんたちには、秘密な」
 一度振り返ったトウヤは、それには答えず、さっさと前を向いてしまった。
「大事にしろよ」
「……うん」





 すぽーん、と。
 また弾は、あらぬところへ飛んでゆく。……おもちゃの銃を構えながら、ミソラは情けない息を吐いた。ニヤつく射的屋に見守られつつ、新たな弾を詰め直す。そして構える。当たれ、当たれ。今度こそ。軽い音と共に飛び出したコルクは、またしても遥か右下へ逃げ込んでいった。十発あったはずなのに、あっという間に残り三発。
 ヘタクソ、とど直球の暴言を吐かれてううっと振り返った矢先、銃を取り上げられてしまった。どうせできっこないと内心毒づきながら、ノリノリで射撃体勢に入る師匠をミソラは見守った。外れちゃえとさえ、ほんのちょっとだけ思いつつ。
 コルク弾をぎゅうっと詰めると、トウヤは腰を落とした。低い位置から狙いを定める。
 ぽんっ! と放たれたコルクは、吸い込まれるようにルリリ人形の額に当たった。
「あ!」
 ミソラは思わず身を乗り出した。ニッコリ顔のルリリ人形はそのまま仰向けに倒れ、ころりと台の下へ落ちた。
 群がっていた数人のちびっこがきらきらした羨望を向ける。大の大人は得意になって、もう一つコルクを摘み上げた。詰めて、構える。狙いを定めて、トリガーを引く。軽い発砲音、ガラス製の小さなマリルリが右の耳に当てられて、片足立ちしながらくるりと回転した。それから、バランスを崩してころんと転げた。
 すげぇーっ! と跳ねるちびっこ、やや渋い顔の的屋の旦那。腹の内はどこへやら、恍惚とするミソラの手中へトウヤはコルク銃を返した。
「何を狙ってるのかさえ分からなかったが」
「キャラメルです、あの赤い箱の」
「いいよ。弾はしっかり押し込みなさい」
 残るは一発。言われたとおり、渾身の力でコルクを押し込んだ。きりっと構える。狙いを定めて……そこで上から頭を押しつけられ、
「なるべく下から」
 足を開いて中腰になると、転んで擦り剥いた膝がぴりっと痛んだ。トウヤもミソラの背後にしゃがみこむ。さぁ、狙いを定めて……
「もっと左」
「え」
「もっとだよ」
 結局手を伸ばして銃身の向きを修正しながら、トウヤは周りに聞かれぬように、耳元で囁いてきた。
「インチキ銃なんだ。全部右に曲がる」
 ミソラが反応する前に、脇をしめろ、と言葉を継がれた。もう全部言うとおりにした。期待のどきどきで狙いがぶれるのをこらえつつ、当たって、と念じながら、最後の一撃を放つ。
 ――すこーん、といい音を立てて、キャラメルが後ろへ倒れた。ちびっこたちがまた湧いた。


「はぁちゃんの誕生日プレゼントにしよう」
 てのひらサイズのルリリ人形を眼前にかざしながらトウヤはご機嫌だ。実は毎年通っているのだと言うあの射的屋を後にして、二人は『水陣祭探索』を再開した。
 ハヤテのボールを捜索し(結局噴水とはてんで離れた茂みの中から見つかった)、崩壊した櫓を総出で立て直し、そのあと開かれた宴会のことは、とてもじゃないが口にできない。ミソラも鼻とおでこに貼り付いた絆創膏が気になっていたりしたけれど、昨晩地獄を見た師匠の体調の方が今はよっぽど気になった。時折眉間に皺を寄せて額を擦っているのを何度となく気遣いながら、でも楽しまなきゃ損なので、色々な屋台を巡っていく。だって、せっかくのお祭りだ。つやつやとした大きな飴や、綿菓子、冷やしモモンに、オレンジュースに。カイスもやっぱり甘くてうまくて、水分補給にぴったりだ。遊びも交えつつ(型抜きと言うやつはミソラの天才的な不器用さが際立ってしまったから嫌いだ)賑やかな人波を巡っていくのは、リナも結構楽めているご様子。そして、それをふよふよ浮きながら追いかけるテラも。
「ああ、誕生日。お祭りの前日でしたっけ……あれ、昨日?」
「明日だ。水陣祭の日取りが毎年ちょっとずつ違うんだよ」
 そういえば、自分の誕生日はいつなのだろう。……危うく下降しかけた感情を取り戻して、じゃあこのキャラメルも一包みだけプレゼントに、なんてケチなことを考える。
「何をあげたら喜んでくれるでしょうか」
「どうだろう、去年は――」「わぁっ!」
 と両肩を叩かれて、平然と振り返るリアクションの薄さがミソラには逆に面白かった。子供か、と呆れられても、カナミはにししと笑っている。びっくりしてよと揺すられて、師匠の二日酔いが悪化しないか心配だ。
「もうすぐまぁちゃんの出番だよ、ホラ行こ」
 そう言ってミソラの背にも手を当てて、ぐいぐい二人は押されていく。……歩きながら、ミソラはトウヤの顔を見上げた。目が合った。何にやにやしてるんだ、と小声でぼやく彼が、やっぱりちょっと面白い。


 噴水の真ん中に設けられた『櫓』は、もはや『櫓』とは呼べない代物になっている。作業が間に合わなかったのだ。結局水上一メートル程度のただの舞台になっているけれど、これはこれで見やすいし、悪くはない。
 今、耳に派手な飾り物をつけた『色違いのマリル』が、ガチガチに緊張した顔で舞台の上に現れた。温かい拍手に包まれながら、摺り足でゆっくりと一周。ふと見上げると、カナミも、その向こうにいるトウヤも、我が子を見守る親のような顔をしていた。
 進化して体が変わってからの練習期間は、殆んどなかったに等しいだろう。けれどもマスカは懸命に、全身で動き、耳を揺らし、大きな尻尾はもうないから小さな両足で精一杯跳ねる。そうしているうちに、ルリリが数匹ぞろぞろと舞台に登場し、最後に仮面をつけた土色装束の少年が飛び上がった。ルリリたちが慄き、いっとう派手なマスカが一匹、勇敢に前へ出る。
 あの『地陣』の役、とカナミは仮面少年を指さした。
「トウヤもやったことあるんだよ」
「そうなんですか!」
 そういえば、ハシリイに来た日の宴会の時、そんなことを言っていたような。トウヤは二人には構わず、ハラハラとまぁちゃんの勇姿を見つめている。
「地陣役だった子が、本番直前に倒れて」
「うわあ」
「緊張のしすぎで。あれ十八歳の男の子がやるって決まってるんだけど、その時他にできる人がいなくて、トウヤが丁度十八で」
「どうしてそれがお師匠様にできたんですか」
 両手に爪のついた黒い棒を握り、ルリリ隊を威嚇するように舞台で勇ましく舞っている少年。あんなもの、突然やれと言われてもできまい。それがさぁ、とカナミは思い出し笑いだ。
「この人、ルリリのダンスが好きで、あれ見たさに練習場に通って見学してたんだよ。それで覚えて」
「覚えるほど通ったんですね……」
「凄いでしょ、替え玉なのはバレバレだったけど! 皆ハプニングとか大好きだからさ、あの時すっごい盛り上がったんだよ、ねっトウヤ」
「え? うん」
 舞台に顔を向けたまま生返事をしてから、エト出てくるぞ、と。話は後の方がよさそうだ。
 どこからか流れている音楽がだんだんテンポを上げていく。それに乗っかるように、仮面を被った少年がもう一人、派手な衣装を翻しひらりと舞台に躍り出た。仮面を剥ぎ取り、放る。強烈な陽光をキラキラ弾く水面の上、きりっと髪を結いあげている金糸の衣装の少年エトは、目がくらむほどの男前だ。黄色みを帯びた歓声が上がった。祭りの主役に相応しい存在感。
 期待のこもった幾多の視線に、痛いほど貫かれながら。あの宴会の時、震えてさえいた難解な台詞を、今エトは高らかに歌いあげた。地陣役の少年の迫力ある声にも押し負けていない。全く別人みたいだ。
 勢いよく跳ね回るルリリ、緑色のマリルと共に、戦うように舞い交わす演者たち。裾の長い衣装の煌びやかさが一層観衆を魅了した。
「エト、水陣の演者に自分から立候補したんだよ? 目立つこととか、面倒事なんか絶対やろうとしなかったのに」
 盛り上がる客席の中で、満足気な様子でカナミが呟く。今度はトウヤも顔を向けた。
「どうして」
「分かんないけど、多分、トウヤに負けたくなかったんだね」
 ……男は暫くきょとんとしてから、逃げるように、再び舞台へ視線を向けた。
 第一幕が終了すると、噴水脇に設置された幕の中へ演者たちが戻っていく。あそこでマスカを迎えながら、ハヅキも多分、兄に熱い眼差しを向けていることだろう。
 それじゃ私はそろそろ、とカナミは席を立とうとした。けれども、ふっとトウヤの方へ顔を戻して、
「結局いつまでいるんだっけ? 明日はいてくれるんでしょ、はぁちゃんの誕生日」
「そのつもりだけど」
「ずーっといてくれるの?」
 言葉の調子が、全く真剣じゃない。トウヤは首を振って苦笑いだ。
「明後日には出るよ。長居したら迷惑だろ」
「全然。はぁちゃんも喜ぶし」
「毎年言ってるけど、祭りの手伝いに来てるんだ。撤収が終わったら退散する」
 はーっと盛大に溜め息をついて、カナミは立ち上がった。
 この人にとって、トウヤというのは、どういう存在なんだろう。ちっとも可愛げのない男へ向ける彼女のむっとした表情を見て、ミソラは二人が『二人』だった、たったの三日間へと思いを馳せた。座ったままのトウヤへ、まずは怒ったフリをして、
「理由がなきゃ来れないの? 顔見せてくれるだけで、こんなにうれしいのに」
 それで、ふわっと、優しく笑う。そんな愛情に溢れた仕草。
 その言葉に、――目を見れなくなって、たまらずトウヤが顔を下げるのも。その顔色が隠しようもないくらい変わるのも、ミソラは横からじっと見ていた。
「さっさと彼氏のとこ行けよ」
「はいはい」
 ひと笑いして、またわしわしっとトウヤの頭を撫でまわすと、ミソラにも手を振ってカナミは行ってしまった。……気まずい沈黙。ミソラは目を外せなくて、軽く息を吐きつつ目を閉じるトウヤを変な気持ちで見つめていた。すぐに二幕が始まってくれて内心かなりほっとした。
 わちゃわちゃと集まってきたマリルが、秩序なく噴水の中へ入っていく。水音と、マリルの声と、観客のざわつき。そんな平和な喧騒の中で、次の言葉は、危うく聞き逃すくらいに弱かった。
「……プレゼント」
 言いながらトウヤは顔を上げた。
「用意してたんだ、実は」
「はぁちゃんの……?」
「ああ。今年はもう来るつもりはなかったんだけど、テレポート便で送ればいいと思って。カイスだって、本当は僕が来なくても、カナに電話してココウに送ってもらえば、それが一番速いんだ。……でも、だめな奴だな、僕は。こっちのことを、一旦考え出すと」
 どこかを見つめながら吐露する言葉に、ミソラはまた少し、満たされた気がした。こんな顔もする人なのだ。それを、ミソラの前で。
 噴水の中で、マリル達が二重の輪を形成する。民謡なのだろうか、独特なリズムを刻む音楽と共に、マリルたちがゆるゆると回り始めた。耳を跳ねさせ、隣と手を打ち、尻尾も器用にくねらせる。中央に寄っては離れるを繰り返す大量のマリルの踊りは、何か宗教的な儀式にも見えた。
「凄いだろ、マリル」
「ちょっと怖いです……」
「ハハ。そうだろ。気味が悪くて好きなんだ。……今年も来れてよかった」
 独り言のような声に、ミソラも頷いた。
「私も来てよかったです!」
 自分でもびっくりするほど大きな声に、それならよかった、とトウヤは笑う。そうだ。ついてきてよかった。色々なことを知って、見て考えて、色々なことが、変わった気がする。ハシリイでの出来事を回想していると、ふと彼との共通項に気付いて――それが『共通項』だという考え方ができている自分にも気付いて、ゆるりと頬が弛んだ。言えばどんな顔をするだろう。笑ってくれるだろうか。
「お師匠様」
「ん?」
「忘れられない人がいるって」
 ぼんやりしていたのに、凄い速さでぴっと振り向く。
「……い、いるんですよね?」
「……あいつ、本ッ当に余計な事を……」
「いるんですよね!」
「どうでもいいだろ、そんなこと」
 否定せずに話を終わらせようとするトウヤに、ミソラは前傾姿勢で畳み掛ける。
「私もいるんです、『忘れられない人』」
 は、とトウヤはちょっとばかし目を見開いた。
 けれど、るりぃーっ、るいっ、とマリルの不思議な合唱が、先に空間を制した。話を中断せざるを得なくて、しばらくその声を聞いた。るりぃーっ、るいっ。顔を見合わせて、それからミソラはもっと身を乗り出した。心の底からニカッと笑って。
「でも、今は、もういいかなって思えるんです!」
 言葉にすれば、本当に羽が生えたみたいに、心は軽くなっていった。
 トウヤは複雑そうな、何と言っていいのかという様子を素直に表に出したけれど、すぐにミソラの笑顔と――るりぃーっ、るいっ――マリルの間抜けさに根負けした。表情を崩す。息をつきながら立ち上がった。
「もっと近くで見よう」
「はい!」
 立ち上がると、はぐれるなよ、という声だけ寄越して、人の流れの中に進んでいく。大人しくしてくれていたリナのリードをしっかり握って後を追った。その視界の中を、ふよっと漂うリグレーのテラが横切っていく。
「お師匠様、そういえばテラが」
「ああ。くっつかなくなったな、こいつ」
 名前を呼ばれてすうっと浮かび上がってくるも、リリリンとご機嫌に鳴りながら、トウヤの眼前を浮遊するだけ。首筋の定位置はどうしてしまったのだろう。その額を人差し指でつつきながらトウヤは問うた。
「僕のこと嫌いになったのか?」
 きゅうぅいいぃん! と甲高く鳴いたかと思えば、アクロバティックな動きで定位置に飛びついて、ぎゅっと抱き着いた。けれどそれも束の間で、すぐに離れていってしまう。
「大人になったんですかね」
「どうだろう」
 ……『恋』が終わったのかも、だなんて考えて、ミソラは一人でふふと笑った。
 ココウに戻ったら、テラはどうなるのだろう。このまま手持ちになるのだろうか、グレンの元に帰るのだろうか。ココウに戻ったら。……タケヒロはどうしてるかな、ヴェルは元気を出しただろうか、おばさんは、レンジャーさんは。僕の帰ってゆく場所。それを思って、幸福に浸る。僕の、当たり前の日々。
 それでもまた、こうとも思うのだ。――また来年もここに来れたらいい。次は、きっと、もっと楽しい。もっと打ち解けて、それこそ遠慮しないくらいに、自分より小さな女の子になんか、嫉妬しなくても済むくらいに……いや、でも。今のままでもいいかもな。楽しそうにマリルだけ眺めて、どんどん行ってしまう背中。たまに振り向いて待っててくれる。そんな日常が好きだ。だから、そんなので、十分だ。
 どうか、このままで。こっそりと願う。あのときの声が、不意に頭をよぎれば、不安にだってなるけれど。ミソラがしっかりし始めた頃に、彼は忽然と消えてしまう。そんなのは想像したくもない。それならずーっと、このままで、いいや――



 けれど。
 そんなことを願えるのも、今のうちだけだったなんて。

 その時はまだ、ミソラには、思いつくこともできなかった。









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