ずっと前から、分かっていたはずなのに。







 その人は、あまり汗をかかない。
 汗をかかないどころか、息もそんなに切らさない。いや、歩くだけで息が切れてくるミソラの方が、もしかすると変なのかもしれない。
 ただ、今は、ミソラよりも彼の『変さ』に言及したい。汗をかいている。数日ぶりの見慣れたシャツに、見慣れない染みが灯っている。それから息を切らしている。美しく弓なりを描く稜線の上に立って、休憩とばかりに膝に手をついて。砂漠の切り裂くような日射でもいつもなら色を変えない頬に、今日は赤みが差している。表情は、名前を与えるならば……あ然、といったところ。
 それは全部、無駄に動いているからだ。そして、無駄に焦っているから。
 包帯を巻いていないのは、また別の理由なのだろう。変色した左手を眼前でひさしにして、遠方を仰ぐ。待ってろと言って砂の傾斜を駆けのぼっていった男のそういった姿を、ミソラとポケモン達は砂丘の日陰から見上げていた。
 強い風は短い髪も揺らすけれど、火照りを冷ましてはくれなさそうだ。高い位置から臨む視界に視線を何度も往復させて、気まずそうに、彼は振り返った。ミソラの隣でノクタスが小首を傾げる。
 従者の問いかけへ――認めたくないという感情をいくらか滲ませながら――、主人は声を張り言い放った。
「……迷った!」







 砂上の楼より








「――自慢じゃないが方向感覚には結構自信がある。グレンと放浪してた時もお前がいれば地図要らずだなとか言われたこともあって、だからもう数年前から地図を持ち歩いていないし、それで迷ったこともなくて……ここだって毎年来てるんだ、だからいけると思ったんだ。砂丘は形状が変わるしどこも似てるからややこしくて、でもいけるはず……あの目印の三本ポプラが……」
 先程からだらだらと続いている師匠の言い訳を話半分に聞きながら、ミソラはおやつのビスケットを貪りはじめた。カナミ達と別れハシリイを発ってからもう数時間になるが、どうやら目的地はまだまだ遠いらしい。長期戦になるならおやつの補給は重要だ。リナに全部食べさせなくてよかった。
 変なお師匠様。歩き疲れている彼を見て、ミソラはくすりと笑う。『変だ』『いつもと違う』と感じることが多くなると、だんだんと、その人の普段の姿というのが疑わしく思えてくる。違和感を覚えるたびに、ミソラは少しずつ、トウヤの本質に近づいていくような気がしていた。スクラッチカードを削って、いろいろな表情を発掘する。そうして見覚えのない彼に巡り合うごと、頭にファイリングしていくのだ。その行為には喜びさえある。
 雄弁になった時の師匠は面白い。独り言なのか教えてくれているのか分からない調子で喋りつづけ、たまに口が思考速度を飛び越えていく。
「……よく考えたら去年まではふたつ見えていたかもしれない。その時は比べればどちらが目印だか分かったものが、片方が切られて、見分けられなかったのかな。ちゃんと集中していれば間違いに気付けたかもしれないが、」
 そんなこんなで、もう四か月以上も毎日顔を突き合わせてきた仲だ。そこでぎくりとして言葉を止めたって、お前がくだらない話ばかり振ってくるから気付けなかったんだ、と言いそうになったことくらい、ミソラにはもう分かる。分かるけれど、傷つかない。そのくらいなら軽く受け流せるようになってきたのだ。自分の成長を感じて、一人でにやりとした。
 トウヤは不味そうに額を擦る。それから、低くぼやいた。
「……どうしようかな。一旦ハシリイまで戻ろうか」
 仰げば、町は遥か、砂塵の彼方。
 リィンッ、と甲高い声が返った。向こうでガバイトとじゃれあっていたリグレーのテラが、くるくると宙返りでアピールする。『テレポート要員』としてメンバーに加わっているテラは、もうすっかり他のポケモン達と打ち解けてしまった。
 呑気な手持ちたちへ、トウヤは悩み顔で目をやる。手元には小包みが置かれていて、中には例の度のきつい酒が入っている。カナミたちの親戚がこのあたりに住んでいるらしくて、彼自身も昔お世話になったのだそうだ。毎年帰りに立ち寄っては土産を置いて帰るのだとか。包み紙の真っ白が、照り返しでいたく眩しい。
「いや、でも多分この辺りだと思うんだよ。ハシリイまで戻ったらまた相当歩かないといけなくなる」
 トウヤはまだうだうだしている。連続宙返りを決めているテラを見、ミソラはとりあえず機転を効かせて問うた。
「テラでそこまでワープできないんですか?」
「ああ、テレポートは一回行った場所じゃないとできないんだ。ハシリイにはグレンと来たことがあったらしいけど、あの家には行ってないだろう」
「じゃあ、ハリとかは、どう? 毎年のことなら道を覚えてるんじゃ……」
 隣で膝を抱えて座っていたハリがふるふると首を振った。と同時に、トウヤがフッと鼻で笑う。
「ハリは方向音痴だからダメだ」
「えっ!」
 方向音痴。意外な欠点だった。ギョロッ、と鋭い眼光が捉えるあたりハリは気にしているようだけど、主は意に介する様子もない。
 トウヤの背後で、オニドリルがぷるぷると震える。笑っているのだろうか。気難しいメグミがミソラの前でそういう行為をするのは珍しい。
「そうなんですか」
「路地で一人にでもしようものなら十中八九迷子になるんだ。かわいいだろ」
 一旦元に戻りかけた瞳が、またギョロッと動いた。翼がせわしく震えている。
「かわいい」
「そうだろ? これでかわいいところもあるんだよ」
「ハリかわいい!」
 身を乗り出して言うと、ノクタスはおもむろに立ち上がり、そのまま主人の後頭部を片手で殴った。
 いっづと悲鳴を上げる主人を仕返しとばかりに鼻で蔑み、のそのそと遠ざかっていく。トウヤはわざとらしい動作で従者を恨めしく一瞥して、それからいたずらに耳打ちした。「な、かわいいだろ」と。ミソラは声を殺して笑った。


 笑っていたって、目的地の方からやってきてくれるなんて事はない。
 目を痛めるくらいの快晴に、オニドリルのメグミがひらりと舞い上がっていく。偵察員を見送ってからトウヤは荷を再び纏め始めた。もう少し歩いてみる、それが長考の末下された結論。テレポート使いのテラのいる旅路なら、日が落ち次第ハリシイかココウに飛んで帰ればいいだけだ。
 追いかけっこと勘違いしているのだろうか、逃げまくるリナのリードを掴もうとミソラが走り回っているうちに、メグミはあっという間に降下してきた。そして有無を言わさない早業で、トウヤの肩をがっしりと掴んだ。
 うわ、という感想だけ残して、男はわしづかみにされたままメグミと共に飛び立っていく。それにリナが目をやる隙にやっとこさリードを捕まえた。そのまま引きずられ足を取られて前のめりに倒れこんで、飛び付いてきたリナとしばしのじゃれあい。仰向けに寝転がる。砂丘は柔らかい。背中が温かくて良い気持ちだ。
 ぎらぎらした太陽を擁する青空の中で、メグミはバタバタはばたいて目的の方角へとトウヤを向かせた。
「……ああっ!」
 師匠は珍しく(正直、ここ何日かで彼が大声を出す事を珍しいとは思わなくなったけれど)動揺をそのまま発して、しまったと言わんばかりにばっと両手で口を塞いだ。それから、降りろ降りろ、としきりに動作で促した。
 降り立つとすぐにリュックと手土産を担ぐ。近づいてきたハヤテとテラにシーッと人差し指で示すと、ひそめた声にそのままの興奮を宿して、
「行くぞ、ノクタスの群れだ」
 きょとんとして、ミソラはハリと目を合わせた。気合いまんまんにリナが砂を掻く。


「すごい、すごい」
 どっちが子供だかわかりゃしない――というのは、多分ミソラ自身が思う事にはあんまり意味がないのだろう。けど、傍から見たってきっとそうに違いない。
 草色の人型体躯に、鋭い棘に、とんがり帽子。笑顔を象るように口元に穴が開いている。そんな、とても見慣れたポケモンが大量に存在しているだけの光景を、一行は物珍しく眺めている。
「あんなにいるぞ。すごいな。三十はいるんじゃないか」
 無意味に声を弾ませる男と同等の興奮を示すのは、一番身を乗り出しているハヤテだ。ハヤテの後ろから遠巻きに様子を窺うトウヤの手は、ゆさゆさと体を揺らすハヤテのリズムと一緒にさっきからあたふたと動いている。ミソラはそっちにばかり気を取られた。
 メグミはちょっと首を伸ばしているけれど、肝心のハリは興味がなさそうだ。いつものようにミソラの背後に立ったまま、ぼーっと群れの方を眺めている。群れも完全に気付いていて、いくつもの無表情な瞳がじとりとこちらを見続けていた。そのどれもがぴたりと角度を揃えているから、ちょっと怖い。いや、とても怖い。
「三十一……三十二、三十三だ。すごいな。こんなに大きな群れは初めてだ……」
 トウヤはハヤテと共にしばらくきらきらした目で群れと見合っていたが、ぱっとハリへと振り返ると、
「ちょっと行って話してきたらどうだ」
 そんなことを言った。
 これは酷い。ミソラは思わず苦笑した。お師匠様、あなた偉い人に人間の集団を指さされて、「ちょっと話をしてこい」なんて言われたら、ちゃんと話ができるんですか。なんて考えるけれど、口にはせずに、動向を見守る。
 普段と比べれば引くくらいに情熱の籠った眼差しを受けて、ハリはけっこう長い事固まっていた。けれども、その熱すぎる期待を一身に浴びて、あなたがお望みならば仕方ない、といった感じで、渋々とあちらへ向かいはじめた。
 もはやテンションのやり場もなさそうな一人を含め、一行は息をつめてハリの挑戦を見守っている。……三十三体のノクタスは、のそのそと近づいてくる異邦のノクタスに困惑した様子ではあるが、逃げ出すことはなさそうだ。やがてハリが立ち止まり、一定の距離を保ったまま群れと無言(聞こえないだけで喋っているのかもしれないが)の対峙を迎える。どんな話をするのだろう。群れの中でもひときわ大きいノクタスが、のそ、のそ、と前に出てくる。
 いじめられないかな、と今更の心配をし始めたトウヤは、ハッとして突然リュックを漁り出した。
「何ですか?」
「カメラ、カメラ」
 安物の使い捨てカメラを何度も瞬かせてから、ハヤテの背に乗りかかるようにして観察を再開した。楽しげでなによりだ。半ば呆れて視線を移す。これだけ楽しそうにしてくれるなら、ハリも満足するだろう。
 砂漠の色と、カカシ色との動かぬコントラスト。野良と従者の両者は互いをしつこく見つめ合っている、ように見える。一度それをフィルムに収めてしまってからは、トウヤも大方平生の調子を取り戻したようだった。それどころか……じりじりと背からずり落ちてハヤテの隣に座り込む。ぴょこぴょこ跳ねてきたオニドリルを隣に招けば、わざとらしく息をついた。何にも興奮していないような顔をしたって、もう遅いのに。
「良かったですね、ノクタスがいっぱい見れて」
 ちょっとだけ茶化すような言い方だったのを後悔するくらい、真剣に彼は頷いた。
「ああ。運が良い、本当に」
 群れのノクタスの何体かは、小首を傾げた体勢で固まっている。ハリがよくやる動きとそっくりだ。紛れてしまえばきっとミソラには見分けがつかなくなるけれど、トウヤの目にすれば、どうなのだろうか。人間の顔みたいに、当たり前に見分けられるのかもしれない。
 トウヤはハリの顛末を静かな顔でじっと見据え、時折野良に動きがあると、思い出したように右腰の一番手前のボールに触れていた。そのうちに、背後に立っているミソラをはたと見上げた。それから、今はミソラの頭に貼り付いているテラ、その足元で興味を失くして耳を掻いているリナ。
 トウヤはまた前を向くと、取り繕うように手を組んだ。
「なんだか、あの時みたいだな」
 声はまだ少し浮ついている。同意するようにハヤテが喉を鳴らした。
「あの時、とは?」
 ただ会話をしたくて聞いても、回顧する双眸の焦点は、ハリの上に結ばれたままだけれど。
「お前を見つけた時だ」
 思わぬ言葉に、ミソラは継ぐ句を見失ってしまった。
 ごうごうと風が吹く。顔にかかる髪を払えば、彼の背中が見える。あのときも、風が強かった。まだうすら寒くて、マフラーをしていて、コートも着ていた。最初に見たのは、左手の包帯の余った端を、器用に結んでいる姿だった。
 ノクタスの群れの幾体かが、飛ばされないようにとんがり帽子に手をやった。ハリは毅然として立ったままだ。
「最初に見つけたのはメグミだったんだ。それで僕に教えてくれて、僕は最初、お前が一人で突っ立っているのを、遠くから見て……」
 勿体ぶっているのか、言いづらいのか。多分後者なのだろう、こちらには目を向けないまま、のそりとハヤテに身を預ける。
「……新種のポケモンかと思って」
「――え、ええっ!?」
「金髪なんて見たの初めてだったんだよ。だからこうやって遠くから、皆で観察したんだ。途中で人間だと気付いたときにはもっと驚いたけど。後ろにはハリがいて……」
 ミソラがケラケラ笑って聞かないので、トウヤは話を中断した。
 『新種のポケモンかと思って』――そんなのってありですか? ミソラはずっと、ドラマチックで運命的だと思っていたのに。襲われていたところを間一髪で見つけたでも、すぐに飛んできてくれたでもなくて、遠くからこっそり見ていたというのか。それも彼の専らの観察対象と勘違いされて、多分さっきみたいな、子供っぽいきらきらした目で。本当だとしたらおかしくてたまらない。だって彼は最初、ミソラの前で、あんなに素っ気なく振舞っていて……。
「私、あの時、お師匠様とこんなに喋れるようになるなんて、思わなかったです」
 お師匠様がこんな人だと思わなかったです、の間違いだ。上から覗きこむようにしてもトウヤはこちらを見なかったが、ハリへ送る眼差しの中に、少しだけミソラへのゆらめきがあった。
「僕も、……」
 口元が緩く笑う。
 その後に、ミソラが期待した続きはなかった。恥ずかしそうに鼻を掻いて、先の話の続きを始める。どうせ望んだ言葉なんか、滅多にくれないのだ。そういうところも理解して、それでもミソラはその人と、一緒にいたいと思っている。
「そのまましばらく様子を見てたんだ。すると、後ろから大きな鳥ポケモンが飛んできて、お前を」
 その時――不意に大きな影と、背後からの突風に飲み込まれた。
 吹き飛ばされそうになったミソラは、素早く立ち上がったトウヤの背中に額からぶつかった。彼が立ち上がったのは別にミソラを助ける為ではなかった。手は既にボールを取っていた。前のめりになって行方を探る。子供っぽさなど名残りもない鋭い目線の先。
 砂丘の波に乗る巨大な鳥影は、一斉に見上げたノクタスの群れを素通りして、彼方の空へと進んでいく。
 ほっとして目をやると、トウヤもほっとしたようにこちらを見下ろしてきた。向こうでは(動いていないなら、多分)ハリだと思われる個体が、もういいですか、みたいな顔で、こちらを凝視している。トウヤはそれを確認すると、ぽん、と手を打った。
「写真を撮ろう」
「さっき撮ってましたよ」
「お前たちも。せっかくノクタスがいっぱいいるんだから一緒に写りたいだろ」
 向こうに行け、と促されて、ポケモン達が砂丘を下っていく。彼らが従順なのがミソラにはまたおかしかった。お前たちも一緒に写りたいだろじゃなくて、自分が撮りたいだけでしょう――と危うく言いかけて、言いかけた対象が自分へ怪訝とした顔をしていることに気付いて、ミソラもふと気付いた。「お前たち」の中に、自分も含まれているらしい。
「……私も写っていいんですか?」
「嫌ならいいけど、自分の顔を見るのが楽しいんだろ、ミソラは」
 道中でのそんな会話を持ち出して、ちくちくと言う。ミソラはまた笑ってしまった。
 ハヤテが急かすように鳴いている。踵を下ろせばたちまち地崩れする砂の上を、ミソラは大胆に下っていった。――ミソラのそんな背中を、ミソラがやるのと同じように、彼もファイリングしているのだろうか。そうだったらいい。多くは望まないけれど、もしミソラが彼の中で、少しでも価値あるものになっていくなら。それだけで、どうしようもなく幸せだ。
 まだ強い風が吹いていた。足元の砂が、さらさらと薄く流れていく。こうして地形はゆっくりと移ろっていくのだろう。ミソラの足跡も、彼らの足跡も、全て舐めとって何事もなかったように、誰も通らなかったというように。
 脆い斜面を踏み崩して、足を取られて転びかけても、恐怖心を乗り越えて。 彼の思い出のフィルムの中へ。


 一つシャッターを切ると、カメラから目を外して、トウヤはもと来た道を振り返る。
 似たような砂色が広漠と続いている。点々と褪せた緑、それらと一線を分かつ、美しい空の青。
『僕も、こんなことになるなんて、思わなかったよ』
 こんなこととは、どんなことだ。また言えずに飲み込んだ言葉を反芻して、トウヤは一人、薄く笑んだ。
 背後からいくつもの声が聞こえる。随分賑やかな旅路になったものだ。じりじりとフィルムを巻きながら、目を細める。あてにしていたあのポプラは、もうどこにも見当たらない。
「――さて、」

「一体、どこで間違えたんだ?」








 それなのに。

 あのとき、どうして、手を離せなかったのだろう。







 

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