11

「――よろしく、僕の『兄弟』」
 その瞬間、胸の中の『兄弟』も、笑った気がした。
 興味深そうな様子でこちらを見物している人は多かった。そのすべてを背景と化すような存在感で、彼らは、こちらに向かってきた。白い肌。明るい髪。身に纏う派手な色彩に。己と同じ、青い空の瞳。にやにやと笑っていた。取り巻く女達も厭らしく笑っている。気味が悪いと、素直に思った。反吐が出るほど醜い。自分とよく似た、肌の色や、周囲と異質な髪の色、ミソラがあの人に『美しい』と評された瞳の色さえ。あの人の、あの左の皮膚の異質さよりも、よっぽど醜いと思った。
 リナは今にも飛びかからんとしていたけれど、そのリードを短く、きつく握りしめていたから、伝わったのだろう。じきに大人しくなった。敵方を睨みながらも、ミソラの感情を読み取ろうとするように、片方しかない耳をそわそわと動かす。――それを下賤なものとして見下すような目つきで、外人の男は蔑んだ。それからミソラに目を向ける。顔の高さを合わせるように、屈んで、いかにも『我々は味方だ』という風な顔をした。偽物の顔。掴んで連行されかけたあの時の、恐怖心は少しあった。けれどそれ以上に卑しい、とつくづく感じる。同じ空気を吸いたくない。けがれが移りそうだった。
 男は人の良さそうな作り笑いを浮かべた。そして外国の言葉で何かを言った。勿論それは、ミソラには通じなかった。だから、この野蛮な人たちが何を言ってるか教えて、と、ミソラは心で問うた。
 ――やあ、また会えて光栄だよ、愛らしい金髪のお嬢ちゃん!
 子供とも、大人ともつかない不思議な声は、当然のようにそれに応えた。
 『声』が聞こえているのは、ミソラだけだった。背後でハヅキが泣きかけている。それに同調してマスカも怯えていた。対してリナは落ち着いていた。ミソラも至極冷静に、男の釈然としない発音を、『声』が明朗に翻訳するのへ、耳を傾けていられた。
 ――お嬢ちゃん、名前は何て言うの? どこから来たんだい?
 ――かっわいいねぇ、歳はいくつ?
 ――なぁ、この子、どうして昨日から何も言わないんだろう。
 ――私たちが怖いんじゃないのかしら?
 女が喋るのを演じる時には、高く声を裏返す。こんな状況なのにミソラは笑いそうになった。頑なに膠着させた思考が解れていく。即ち、冷たい感情がだんだんと波立ってくる。一言一言が、面白いほど、癪に触った。
 ――悪い人間じゃないぜ、俺たちは『探検家』なんだ。珍しいポケモンを探してこっちの地域まで来たのさ。
 ――それはそうと、君はどうして、こんな……醜い人種の住んでいる所に?
 その台詞を男が終えた途端、クスクスと、連中から失笑が漏れる。
 ミソラは拳を握る。
 僕が、眉間に皺を寄せているのに、どうして気付かないのだろう。
 ――怖かったろう。俺達が来たから大丈夫だ。
 ――親は? もしかして連れ去られてきたんじゃないのか? 心配していたんだよ、なぁ皆。蛮人の殺しや誘拐の事件は、後を絶たないだろ?
 そして、彼が、嘲笑うように言った。
 ――昨日の醜悪な男に、さらわれてきたのか?
 沸点に達したのはその言葉だった。
 自分の底の浅さも滑稽だったが。今だ。そのために来たのだから。どんな汚い言葉で罵ってやろうと思った。その面にどんな言葉を乗せて、唾を吐きかけてやろうと思った。でもそんなのは駄目だ。思い出すのは。彼の言うその醜悪な人の、午前中の声だった。
『昨日みたいな連中がまた来て、お前の本当の親だと言って、連れて帰ろうとしても、もしお前がうちに……おばさんのところに、いたいなら』
『僕が、追い返すから』
 ミソラにとれば、その言葉は、どんな言葉よりも美しかった。
 幸福なのだ。心底そう思った。何てくだらないことで、悩んで、地に落ちていこうとしていたのかと。いつの『時』を、生きている? 『僕』はそれで、どうしたい。考えてみればどうだってよかった。例えばその人がまた寝坊をして、おばさんに叱られているのを見たり、小さなことで笑いあったり、遠まわしな文句も言われて。気ままな相棒を連れて遊びに向かえば愉快な友人が待っていて、彼が恋をする姉のような彼女と、ちょっと背伸びした話もして。帰ればあったかいご飯があって、あったかいお風呂があって。たまにお酒を飲んでご機嫌になっている人と、遠慮がちに洗面台を譲り合ったり。布団に入って、電気を消して、おやすみも言うのに、ミソラの枕元から離れた場所に小さな明かりを灯して、まだ本を読んでる。そのページを捲る音を、数えながら、うとうとと先に眠りに落ちて、また朝が来るような……そんな。ミソラの当然の日常を。
 それを奪われるようなことがあるなら。
「僕は!」
 訳さなくていい、と胸に叫ぶ。伝わらなくたってよかった。
「僕は『ミソラ』だ!」
 だから、吸って。
 思い切り吐くだけ。
「お前たちなんか知らない!」
 踵を返した。走り出した。ハヅキが慌ててついてくる。手はぐっと握りあって、ついてこれる速度で。自制を掛けて。あいつらは追ってこまい。どうせ赤の他人だ。実際に追っては来なかった。
 体中が熱い。血が巡っている。光が走っている。凄まじい高揚感に襲われていた。どうしようもなかった。爆発しそうだ。叫び出したい。それくらい――嬉しくて、嬉しくて、下手したら弾け飛ぶくらいに。
 重石が吹っ切れたのだ。決定的な言葉を貰って。
 あなたと暮らしていけるなら、昔のことなんて、もうどうでもよかった。





「そうか。納得した。食われずに済んでよかったな」
 その人が、同じ声で言う。
 動揺や、恐怖や、当惑の後に、湧き上がってくる――嫌悪という名の感情を、どうしていいのか分からない。その背中と、自分より年下に見える少年の竦みきった顔を、エトはただただ見つめていた。洗いざらい吐かせると、トウヤは億劫そうに立ちあがった。少年に背を向け、エトを見下ろす。へらりと苦笑する。似合わない、と思った。
「誰にも言うなよ。ガキを刃物で脅してた、なんて」
 今しがた、それをしまった、彼の鞄に視線が落ちる。はいとは言えなかった。頷けもしなかった。怯えているのではなく、そういう彼に屈するのが、どうしようもなく嫌だった。
 口を結んでこちらを見ようとしないエトを、ちょっとだけ困った顔で、トウヤは眺めていた。仕方なしにと振り返る。目を合わせた瞬間に、少年が弾けるように震えた。それには大した興味を持たず、視線は上へ滑らせて、少年の背後に立っているままの従者の月色を見やって、問うた。
「腹、減ってるか?」
 ハリは口元に笑顔を象ったままで、無言で首を振り否定を示す。そうか、と笑うと、右手にモンスターボールを取って、それを中へと収めてしまった。
 その気はないのだ。傍から聞けばそうだと思えたし、そうだと思いたかった。それにしたって、そういう冗談を言える状況では。常識的に考えるならば。――奇襲を仕掛けた側なのに、憐れになる位に少年は怯えきっている。トウヤはそれに、向こうで未だに沈黙している灰色の塊を顎で示した。
「あんなままごとみたいな『泥棒』が成功すると思うなよ。使うならちゃんと鍛えてやりなさい。ポケモンが可哀想だ」
 吐き捨てて、踵を返す。黙ってエトの横を過ぎて、自分で黙らせながら可哀想と評したチラーミィの横も、視線もくれずに通り過ぎた。水兎が当然のように後を追っていく。拳を握る。やけくそに腿に打ち付けた。動け、と。盗人の少年から目を背けて、エトは駆け出した。
 隣に並んで。何と問おう。とりあえず睨み上げた。けれど怯えた顔をしているに違いなかった。「悪かったよ」と彼は呟く。あまり心は感じられなかった。
「あのチラーミィ」
「ん?」
「……死んだのか」
 飛び掛かってくる姿を見ても、まだ、愛くるしいとしか見えなかった容姿。奇襲が失敗に終わった後は怯えていた。追い打ちをかける必要性は、きっと無かった。
 トウヤは少し笑って首を振る。
「小型のポケモンでまだ子供だったとして、それでも人に蹴られたくらいでは早々死なない。見た目より頑丈だし、凶暴だ」
 考えを見透かされたようで、胸が粟立った。
 薄暗い一本道を。歩いていく。ハシリイにこんな気味の悪い場所があったのか、と思う程に日常と離れている。混じり合う二つの乾いた足音。あの騒々しいリグレーと、マリーがいれば。切実に戻ってきて欲しい。それでなんの話をしてたかな、などと彼は言う。とぼけているのか。からかっているのか。ならばどうして、そんなに真面目な顔をしているのか。――抱え込んでいた『秘密』を打ち明けた、それ以前に、彼がやってくる夏の刻までそれを一人抱えて待ち望んでいた、それくらいの信頼を寄せるに、足る人物だったのだろうか。
 結構昔から、この男の事を、エトは割と気に入っていた。陽気でいつも騒々しいハシリイにはない静けさも、それでいて意外とノリの良いところも、宴会も頼まれ事も断れない気の弱さも、エトの知らない外の世界をたくさん知っているところも。エトの大切な家族を、同じように大切と思ってくれるところも。けれど分からなくなった。それが本当だったのか、とことん怪しくなってきた。だから、確かめたかった。
 そっと見上げる。普段通りの、冴えない目を、涼しい顔を、している。
 悪夢のようだと思った。
「……ハシリイの外では、いつも、あんな感じなの?」
 こちらを見ると、歩きながら、トウヤは飄々と肩を竦めた。
「何が?」
 悲鳴が轟いてきたのはその時だった。
 女性物だ。揃って振り返る。薄暗い細径には既に少年と獣の姿はない。誰もいない、そう思った次の瞬間、その路地の突き当たりに窺える明るい大通りを――大量の黒い塊が、物凄いスピードで、右から左へと駆け抜けていった。
 暫し呆然。何だ。空を飛んでいた。……すぐにはっと思い当たって、エトはトウヤを見上げた。
「テッカニン!」
「どうなってるんだ、七年前も祭りの前日だっただろ」
 やや呆れたような調子でトウヤも返す。大量のテッカニンが大暴走したあの夏の珍事は、ハヅキが生まれた日の出来事でもある。お産を手伝っていたエトもカナミも、だから相当に割を食った。左手の方からまた悲鳴。二人は再度顔を合わせる。なんとなく普段の調子に戻ってきて、エトはこっそり安心した。
 心配だから公園に戻ろう、というトウヤの提案に賛同して、大通りの方へと踏み戻ろうとした時、けれど行く手を遮るポケモンがいた。先ほどまで後ろをついてくるだけだった、マリルリのメグミだ。
 メグミはちょっと怖くなるくらいに変化しない表情のままで、彼らに面と向かって立ち止まっていた。ぷるぷると長い兎耳を動かす。――それを見、あっ、と呟いて、トウヤは顔を上げた。
「音が戻ってきてる」
「音?」
 問うた瞬間に、エトの耳にも飛び込んできた。羽音だ!
 やや遠い大通りへ再度舞い出る黒光りする昆虫。その形が、なんだろう、急に大きくなって見えて、は? と呟く間にエトは、道の端へと突き飛ばされていた。
 「やめろ!」間近で怒鳴るのが聞こえるか聞こえないかくらいだった。切迫する低い高い翅の音。一瞬輝きを放ったように見えたメグミの体が先の一言で通常に戻った。見た目に似つかわしくない速度で向こうの際へメグミが逃げ跳んだ時には、エトの体は反対側の際へ尻もちをつくように倒れていた。エトを突き飛ばしたのはトウヤで、自分もそのまま道の端へ雪崩れ込もうとして――突然、エトの前から姿を消した。
 群れは角を曲がってきたのだ。鼓膜をつんざく猛烈な羽音と黒い弾丸が怒濤の勢いでやってきて倒れ込んだ鼻先を掠め、掠め、掠めて、百近くにも見えた超速怪虫の大群侵攻は目の前を過ぎるのも一瞬だった。右へ首を振る。彼らの進行方向。
 トウヤはそれと一緒に飛んでいた。
「と――ッ!?」
 最早声も出ない、夢か現かと目の前の景色に問う余裕さえ、エトの中には残っていない。
 急激に小さくなるその人と黒い大群、そして悲鳴。理解に苦しむ行動を散々見せられた後だったからエトも錯乱していたのだが、それが飛んでいるのは飛んでいるのではなく、数匹の爪に鞄を引っ掛けられて引き飛ばされているだけなのだと思い至るまでにはもう少し時間を要した。
 かくして鞄の拘束から解放された瞬間に、トウヤはテッカニンのスピードを殆ど保ったまま滑るように地面に落ちた。派手に舞い上がる砂埃。慣性に倣って勢いのまま二、三回見事な後転を披露して、最後にびたんと背を打ち付けて、止まった。動かない。
 いつものトウヤだ、とエトはなんとなく感じた。
 何もするなという類の指示を受け本当に何もしなかったメグミは、もたもたと体を揺らしながら主人に近づいていく。ほんの数秒の空中遊泳も、開いた距離は四、五十メートル。エトも小走りで寄って顔を覗きこんだ。目は開いていた。息もしていた。でも顔は死んでいる。
「何が起こった……?」
 消えそうな声で当人に問われて、さ、さぁ……と返す事しかできなかった。
 それが唐突に急激に身を起こすものだから、もうエトの思考がその人についていっているはずもない。慌てた様子で自分の『背中』を両手で確認しながら、テッカニン達の飛んでいった方向へと顔を向けた。後には道が続いているだけで、もう羽音の名残りもない。痣の男は舌打ちをした。それからまた叫んだ。
「行くぞ、メグミ!」
 何処へ。――それを疑問に感じた瞬間には、もうトウヤは鳥に変わったメグミに乗って、エトの上空から消え去っていた。


「はぁちゃん! ミソラちゃん!」
 切迫した叫び声に振り返ると、走ってくる人影が見えた。カナミだ。おねえちゃんと叫び返すハヅキを乱暴に引いてミソラはそちらに駆けた。リナが追ってくるが、マスカの姿はない。――突然低くうねりを上げる羽音が耳に飛び込んでくる。背後だ。伏せようとする間もなく、合流したカナミの腕にミソラはハヅキごと抱きすくめられた。
 膝をつく。同時にミソラの帽子が吹っ飛んだ。縮こまった三人の上を、射るような速さでテッカニンが通過していく。何匹だ。数えられなんてしなかった。
 外人共と決別した後、誰か年長に合流しようと公園にたどり着いた途端にこれだ。目にも止まらぬ速さで黄昏を駆け巡るテッカニンの大群。いつだかのココウの外の草原でのその虫に纏わるトラウマなんて、思い出している暇もなかった。虫が去ると、カナミにしがみついたままのハヅキが顔を上げる。午前中、転んでも泣かなかったことを誇っていた大きな瞳が、これでもかと言うほど歪んでいる。
「まぁちゃんがいないの!」
 へっ、とカナミは目を丸めて、顔を上げて――あっと空を指さした。
「あれじゃない!?」
 一時加速を緩めているのか、視認できる速度で飛ぶテッカニンの一匹が、両前肢で黄緑の球体を抱いている。
 あれは確かに色違いのマスカの色だ。けれど何故、あのテッカニンはルリリを抱えて飛んでいる? その答えを導く前に、ミソラの視界にまた高速で移動する物体が移り込む。水だ。水鉄砲だ。黒い粒子の集まりのようなテッカニンの群れの中にそれがいくつも突き刺さった。数匹のテッカニンが弾かれて宙を舞った。残りがまた移動を始める。マスカを抱えているやつも残っていた。
 水を吐いたのはマリルだ。どのマリルか、とかは定かではない。何せ、マリルが――もう、それこそ、テッカニンの匹数と比べてもちょっと引けを取らないくらいの数のマリルが、公園に集まってきているのだ。かわいいマリルも、集めすぎると気味が悪いとミソラは正直に思っていた。
 大丈夫だよ、とハヅキのついでに背中を撫でられながら、ミソラは何が起こっているのか、もう理解が及ばない。けれどふと思い出したのは、あれは最初の日に聞いたのだったろうか。この町のツチニンとマリルとには良からぬ因縁があるのだ、というまるで嘘っぽかったあの話。今、目の前で無数のマリル達が、顔に似合わない奇声じみた咆哮を上げながら空へ向かって水を吐く。無数のテッカニン達が物凄い速さでそれを回避している。つまり――一体、どういうことだ。
 ついにハヅキは火がついたように泣き出した。むくっと己の内に膨れた『ミソラ兄ちゃん』の感情に押されてミソラは立ち上がる。とにかく敵は、とテッカニンを指さして。マリル達に加勢だ。いや、けれど、技名を言うだけでは分かってもらえないんだった、とミソラはその手を引っ込めた。見下ろすリナは、興奮してはいるが楽しげでもある。尻尾をぶんぶんと振っていた。
「リナ聞いて、まぁちゃんを誘拐してるあのテッカニンを、リナの『冷凍ビーム』で」
「ダメ、ミソラちゃん」
 その声はカナミ。ダメとは、とミソラが急かすと、カナミは怖い顔で、けれども申し訳なさ半分という感じで言った。
「ハシリイではテッカニンを傷つけることが禁止されてるんだよ」
「え? ……あっ」ツチニンの作る豊かな大地、というトウヤの語りが蘇る。
「だから、マリルたちに任せるしかない」
 真剣めいたカナミの言葉も、けれどもミソラには理解できなかった。何故マリルには許されるのだろう。それが、しきたり、ってやつなのか。
 その時だ。呆気にとられて硬直しているミソラの上を、テッカニンよりも数倍大きな影が過ぎていった。それもまた速い。逆光に紛れるが翅でなく翼だ。オニドリル、と判別できた時、ミソラに歓喜と興奮が炸裂した。さすが僕のお師匠様だ、いざって時は頼りになる!

 結論から言うと、トウヤが何をしにメグミで飛んできたのか、ミソラは完全に思い違えた訳である。
 噴水中央に組み上がった櫓の舞台へ滑るように降り立つと、トウヤはメグミをボールへ収納、ベルトへ戻すと同時に一番手前へ持ち変える。閃光と共に繰り出されたのはノクタスのハリ。噴水周辺の人間たちが揃って彼らへと視線を向けた。
 上空十メートルの狭い空中舞台で、トンッと手摺りに飛び上がると、ハリは両手を構える。それと同じ方向にトウヤは指先を向けた。けれどその指の示す先に、あの黄緑を抱えたテッカニンの姿はない。別のテッカニン達はいるけれど、マスカはまるで違う方向だ。あれ、とミソラの胸に小さな疑問符が湧いた瞬間に、トウヤは吠えた。
「あの頃の僕らと一緒と思うなよッ!」
 その言葉の意味は、ミソラには知れることはない。
 細かな指示どころか技名の提示もないまま、怒り気味の主の声に弾かれるようにハリは技を放った。テッカニンの弾丸飛行にも引けを取らない速度で飛翔する黄土の針一筋。ハシリイのテッカニン事情を知っている町の人達がアッと声を上げるのも、誰もがテッカニンを撃ったと思ったのも無理はない。高速で移動する二つの物体のどこが衝突したかは、撃たれたテッカニンと、撃ち込んだハリの動体視力でしか捉えることはできなかった。
 『ミサイル針』が貫いたのは、そのテッカニンが腋に引っ掛けていたもの――先程細い路地裏でトウヤが彼らに強奪された、件のナイフが収まっているボディバッグ、その肩紐とを繋ぐ、結合部分の金具であった。
 ハリの狙い通り、高速移動の重圧に軋んでいた金具は、高速同士がぶつかった衝撃でいとも簡単に瓦解した。結合が外れると引っかかっていた鞄がするりと抜けた。鞄は力なく落下していく。幾多の視線が浴びせられる舞台の上で、全く柄でもなく、ヨッシと小さく叫びながらトウヤは一人跳ねた、が、その子供還りの歓喜がさぁっと青色に染まるのも、また一瞬。
 状況は目まぐるしく変化する。トウヤのバッグを引っかけていたテッカニンは、重石を失った弾みで一旦バランスを崩したが立ち直り、解き放たれた今とばかりに他を差し置いて加速する。先陣を切ったその個体を群れが追従、その向かう先をまっすぐ仰げば、噴水の中央、一日仕立ての櫓のそびえる、その上空の十メートル。
 目を見開く。どんな悪態をつく暇もなかった。咄嗟に振り切ったボールが赤い光を放ってハリを吸った瞬間に、目と鼻の先に、巨大昆虫の真っ赤な複眼が切迫した。そんな危機的な刹那に、ああテラがいれば良かったなぁ、という考えが穏やかに彼に過ぎったのは、最早奇跡にも近い。

 まず舞台からトウヤが弾き飛ばされ、続いて雪崩れるように櫓に殺到していくテッカニン達が木組みの構造物を押し倒すように崩壊させるのを、ミソラ達はやや遠巻きに眺めていた。
 ――どんがらがっしゃんとでも言いたくなる騒音と水飛沫を上げて、組み上げられていた丸太たちがバラバラになって噴水に刺さるように落下した。
 テッカニンは物凄い速さで去った。一瞬前まで櫓がそびえていた場所には丸太の山がある。周囲に伏せていた連中から、落胆とも、怒りとも……いや、まず一番に『ハプニングを歓迎する陽気さ』がない交ぜの、どこか嬉しげな声が上がる。それも次々と。なんか楽しそうだな、とミソラは考えて、それから思い出して慌てて駆けた。トウヤは無事なのだろうか。
 ミソラが噴水に群がる賑やかな人混みを分け入っていくと、ずぶ濡れのトウヤは噴水の中で丸太に腰かけてむせていた。その姿にふと初日の水没事件を思い返すと、ミソラの頭も混乱で崩れて、だんだんおかしさがこみあげてくる。手で口を覆って笑いを殺しながらミソラはその人に大声で問うた。
「平気ですか、お師匠様」
「ん、ああ」
 その返事が何事もなかったかのように平然としていたから、むしろ何故平気なのかと問いただしたくなる。安堵したミソラの横へやってくるのはカナミとハヅキだ。ハヅキはまだ泣いている。本来彼に望んだことが完璧に頭から外れていたことに、ミソラはようよう気付いた。
「とーやくん、まぁちゃんをたすけてッ!」
 ハヅキが叫ぶ。いくつかの視線がこちらに飛んだ。カナミが説明を付け加えて、きょとんとしつつもトウヤは空を仰ぐ。向こうの方を大挙して移動するテッカニン達、それをぽてぽて追いながら水鉄砲を乱射しているマリル達。その中、上空の方に、あの黄緑色を見たのだろう、ハッとトウヤは表情を変えた。それからそれを視界に入れたまま立ち上がり、トレーナーベルトの三番目のボールへと手を掛け――ようとして、
 すかっ、とその手が宙を切った。
「え?」
 トウヤとミソラが、揃って彼の右腰を見る。
 いつも三つ並んで引っ付いている紅白のボールが、ひとつも見当たらないではないか。
「え」
「あっ、もしかしてテッカニンに」
 明らかな動揺を見せたトウヤに即座にミソラが見立てを示すと、そうか、と呟いてトウヤは顔を上げた。
「――メグミ!」
 呼ぶ。テッカニンに取られたか、弾かれたか、どちらにしたって、その行動の意味がやはりミソラには分からない。ボールの中なら、返事なんてあるはずは。それなのに呼んだ後、即座に踵を返して、水を切りながら横たわっている丸太を二つ乗り越えて、一寸の迷いもなく水中に腕を突っ込んで――抜いた手がモンスターボールを一つ掴んでいる意味も、全く以て、分からない。
 開放する。現れたのは確かにメグミ、またオニドリルだ。飛び乗ると、ミソラに短く告げた。
「ハリとハヤテを探してくれ、頼む!」
 羽ばたきが小波を生む。風を巻き上げながらトウヤとメグミは飛んでいった。いくつかの視線が、茫然としてそれを見送る。……ミソラはぽかんと口を開けたまま目で追っていたが、慌てて姿勢を正した。頼まれたんだぞ、僕は!


 エトがトウヤと再会したのは、公園に戻るために大通りを走っている時だった。
 エトの前にオニドリルの翼が滑り降りてくる。目を合わせた男は何故か全身びしょ濡れだ。一体何をどうしたらそうなるのか。狂気さえ感じてエトは一歩引いた。
「……あっちどうなってた?」
「櫓が崩れた。お前テラ見なかったか」
「は、崩れた!? 何で」
 目を剥いたエトがこちらの問いに答えないので、トウヤは僅かに苛立ちを浮かべる。
「テラは?」
「え、あのリグレー? 見てないけど」
「じゃあマリーは」
「見てない」
 目の前で吐かれる溜め息。なんなんだよ、さっきから。その毒をエトが一人漏らす間に、トウヤはすうっと浮上するメグミの背から首を伸ばして、大通りを見渡した。テラや、それを追っていったはずのマリーらしき影はない。けれど、メグミの速度ではテッカニン達に追いつけそうにない以上、テッカニンを傷つけずにマスカを安全に奪還するにはテラが必要だ。ハリもハヤテも欠いているし、メグミに攻撃なんかさせようものならあの虫は全員炭になる。――テラと、共にいるだろうマリーを探し出す至極簡単な方法を思って、トウヤは顔を渋めた。
 けれど迷ったのはほんの一瞬だった。
「テラ! 僕だ! 聞いてるか!」
 上空数メートルに上がっていた男が、突然吠えた。エトはぎょっとして顔を上げる。
「聞いてくれ! 僕は――」
 聞こえるように、その男は息を継いで、
「――お前が好きだ! 愛してる!」
 そんなに声を張るのを聞くのも初めてだ……とか思った矢先に、エトは自分の耳を疑って、
「僕はもう、お前がいないと、駄目なんだ!」
 様子がヘンだとは思っていたけれどついに気が触れたかとか、もしかして凄く長くて異様にリアルな夢をみているのかもしれない、とも思って、足さえ動かなくなって、何度も何度も目を瞬かせた。
 周囲はざわついている。ざわつくというよりは軽く騒然としている。
 だから、と叫ぶ声。やけくそめいて聞こえた。けれど表情は真剣だった。マリルリの時はまるで能面だったあのオニドリルの顔が、やや面白がって見える。テッカニンの騒動中といえ無論通りは無人ではなくて、幾多の完全に異物を見る目が、あれを気狂いとばかりに刺している。だから、ともう一度言う。今、この景色の全てが、彼の行為を珍妙と見ている。それでも大きく息を吸った。
「だから、さっさと、僕のところに戻ってこい――――ッ!!」
 ――空が淡緑に輝いた。
 次元を裂くように現れた物質。人の赤子のようなフォルム。掌の三色の信号が瞬く。くるんと宙を舞い尻尾がくねる。ぱっちりと光を湛えるエメラルド。未知の新種生物は、言わば恋するテレポーテーション――『定位置』にすとんと着地したリグレーのテラは、へし折るくらいの圧力でトウヤの首を絞り、もとい抱きしめた。トウヤは甘んじて耐えた。ついでのようにテレポートで飛ばされてきていたマリルのマリーも腕に受け止めて、絡みついてくる緑の手を、宥めるようにぽんぽんと叩いた。
「頼むぞテラ、『テレポート』だ」
 リリリィーン! とご機嫌に鳴くと、再び緑の光を纏い、次の瞬間には、四つの生き物が忽然と視界から消えた。
 ……止まっていた人波が遠慮がちに動き出すまで、たっぷり十秒はかかった。エトはその後もまた十秒、動けなかった。何も考えられなかった。ただ、そんな『度胸』が必要なら家なんか出れなくてもいい、とだけは、こっそり思い始めた。
 その後、ふつふつと腹の底から湧き上がってきた感情は――もう、何が何だか本当にさっぱり分からなくて――ずがんと右足を強く踏んで。
 エトは一人咆哮した。
 衝動のまま、それがまた、周囲の視線を集めるとも気付かずに。
「――なんなんだよあいつはッ!」









 <月蝕 TOPへ>
<ノベルTOPへ>