5(裏)

 おい。今なんつった。全力の『睨みつける』――なんてものは覚えちゃいないが、そんな気迫を以て敵を視線で射続ける。サボテン女は動かなかった。こちらを見つめたまま無表情に黙っていた。『ポケモン』同士と言ったってそれは人間に都合の良い区分でしかなかったと見えて、同士であっても種族が違えば、些細な表情の変化などはなかなか捉えづらくなるというものだ。特に、そのサボテンみたいなポーカーフェイスなんかは特に。
 ……見つめ合う事十数秒。ハッ、とサボテンは鼻でせせら笑った。
「メス」
「――ちっがあぁぁぁうぼくはマリオマリオだと言っておろうがオスだどう見てもオスだ歴とした男だっていうかどこをどうしたらぼくがメスに見えるのか説明してみろせつめ」
「一昨年までメスだった」
「だっはああぁぁぁ! 過去ッ! カ、コ、オッ! もう過去の話ではないか昔の話をむやみやたらに持ち出すんじゃないそういう女はな、嫌われるぞ、陰湿な女は嫌われるんだ」
「別にマリリンなんかに嫌われたところで」
「だあぁぁらマリリンって言うなあぁぁぁ――ッ」
 尻尾の水球が沸騰するくらいに興奮していたのがぎゅんと冷めて凍りつくほどの悪寒が走ったのは、足音が聞こえたからだ。耳の良さにかけては随一で、そんじょそこらのマリルになんか負ける気はしない。時に聞きたくもない音さえ拾って聞き分けてしまう。重心のかすかに傾いたその足音。靴が違ったって分かるのだ。
 ぱっと振り返る、その瞬間に向こうの角を曲がって出てきたのは、ほうらやっぱり。この憎たらしいサボテン女の飼い主である外見も中身も醜悪な図々しい男である。数十分前に我々に食事を持ってきた時に比べて若干疲弊した表情で、すとんと縁側に座り込んだ。その肩には今年ニューフェイスのマシンガントーカーなエスパータイプがひっついている。
「やぁやぁマリリンなんか楽しそうだね!」
「朝から元気だな、マリリン」
「まぁぁリリンマリリン言うなと言っておろうがこの分からず屋どもめがッくたばれ!」
 叫びながら反射的に噴出した水鉄砲は、エスパータイプの素早い念力によってにゅうっと軌道を逸らされ勢いは弱体化し、花壇の色とりどりのお花たちへの慈悲の施しの結末となった。そう、優しく気高いぼくは最初から水やりをしようと思ったのだ。このタイミングで。別に人間を狙ってなどいない。
 わぁいマスターだ、マスターごはん足りなかったよ、と言いながらのしのしあれに近寄っていくのは青のドラゴン、と付随する水色の獣。片一方の耳が欠けているリナというあの獣がまた今年のニューフェイスで、気は強そうだがおとなしめ、釣りがちの大きな瞳が愛らしい子供である。
 飯を出せ、とばかりに縁側に腰掛ける男の腹へ鼻先を押し付ける青竜、その行為をじぃっと見上げると、ぷいっと顔を逸らしてどこかへトコトコ行ってしまう獣。それに気づくと、竜は顔を上げ、主人と獣との間で視線を何度も往復させて、待ってよぉ、と情けない声を上げながらのたのた獣を追いかけていった。……その二匹を興味深げに眺める男の腹へ跳んでいくのは、今度はぼくの妹分であるマスカ。世にも珍しい毛色の変異個体であるのに気品のかけらもない。
「まんまのひと! まんま!」
「おいその人間に触れるな汚らわしい」
「昔メスだったお前ほど」
「だああぁぁれが汚らわしいて!? ああ! 何が悪いんだ昔メスだったことの何が悪いんだぼくだって好きでメスに生まれてた訳じゃないんだぞだいたい」
「お前が汚らわしいとは一言も言ってない」
 それだけ淡々とぼくに返して、主の元までてこてこ歩いていって、やはり無表情に、すっ、と顔を上げるサボテン。その焦点の結ばれたのは主人の顔でなく、その背後にあるエメラルドの双眸だ。
「何かあったか、テラ」
「んー? 何が?」
「少し様子がおかしい」
 だから何がだ。――ぼくがクエスチョンマークを浮かべている間にもエスパーはああ、と了解して、ぐっと体を前に出して、すぐ傍の男の顔を覗き込むようにした。
「仕事しろって言われてたよ、ねっダーリン」
「それだけか」
 竜たちの方からサボテンへと視線を移した男が、徐に手を伸ばす。サボテンの棘のある帽子の縁をちょいと持ち上げ、若干身を引いて真剣な表情をして、ちょいちょいとその傾きを修正する。
「んーあとは……」
 けっこん……というワードをエスパーが持ち出した途端、サボテンも、ぼくも、かちっと氷漬けになって動かなくなった。
 ……エスパーは対照的にめらめらと燃え上がる。嫉妬の炎。あれは嫉妬の炎か。
「あのちびっこいやつと結婚するとか言ってた……」
「……」「あ、ああ……ハヅキか……」
 氷が溶けても微塵も様子の変わらないサボテンの横で、ぼくがほっと胸を撫で下ろした理由についてはお察しいただきたい。
 あとは、ハシリイで仕事したらみたいに言われてたなぁ、というエスパーの爆弾発言に、とんでもないと僕は首を振る。あんなのに常時滞在されたら気が気でなさすぎて弱ってしまう。そうか、とサボテンは小さく返すだけだったが。……帽子の角度の微調整を続けながらもう少し体を引いて遠巻きに眺めて、よし、と言ってぽんと帽子を叩く。その叩きで角度が変わるのはいいのか。男はにやと笑うと、膝の上のマスカを脇に退けて立ち上がった。
「ハヤテ、メグミ、もう行くぞ。外でミソラが待ってる」
「ん、どこかへ行くのか?」
「知らん」
 ぼくを見もせず答えるサボテン。自分も行くのに、知らん、って。声に、はぁいと返事しながらのっしのっし帰ってきたのは青竜の一匹だけだった。それがボールにしゅっと吸い取られると、続いて向けられる別のボールは、庭の奥まった日向で我々に見向きもしていなかった鳥の方へ。それもしゅんと吸い取られると、次はサボテンの番だった。向き合い、差し向けたボールの開閉スイッチを無言で押し込もうとする男。その動作を引きとめたのは、とととと、という、急いた小さな足音。
 男の名を呼びながら慌てて駆けてきた人の子の方へ、マスカは嬉々として飛び込んだ。それをひっくり返りかけながらも受け止めたハヅキは、ぱっと男へ顔を上げて。
「とーやくんどっかいっちゃうの、はぁちゃんと遊んでくれないの?」
 男は一旦サボテンと視線を合わせ、それからハヅキへ視線を下した。後からやってくる足音に、ぼくは耳がぴいんと張った。カナだ!
「はぁちゃんがシュンくんともけっこんするって言ったから、はぁちゃんのこときらいになったの……?」
 もはや半泣きになっているハヅキに抱かれながら、殆んど地についた大きな水球の尻尾を、ずり、ずり、と動かすマスカ。曲がり角から現れたカナは、二人を見るなりにかっと笑顔だ。……気にくわぬ。気にくわぬ。むっと口を尖らせるぼくの顔に、誰も気付きはしないだろうか。
 目の光をぱちぱちさせるエスパー、そんな訳ないだろ、と苦笑する男を前に、追いついたカナがぽんぽんとハヅキの肩を叩く。
「遊ぶって言ったって、はぁちゃん今日はまぁちゃんのお稽古あるでしょ?」
「おやすみする!」
「だーめ、本番もう明後日だよ」
 ぶーっと頬を膨らませるハヅキの頭をわしわし撫でて、カナは口を開き笑う。ぼくは駆け寄った。サボテンの隣から、男へ吠えた。
「おい! これ以上ぼくの家族を悲しませたら容赦しないぞ!」
 しかしどうだ、誰もこちらには視線を向けない。ただサボテンだけがちょっとぼくを見下ろした。カナはハヅキの隣に屈んで、やはりぼくには目もくれず、ただいたずらに男を見上げた。
「ちゃんとお稽古してきたら、トウヤくんね、好きなことして遊んでくれるってさ」
「ほんと!?」
「えっあそぶの、いいなぁいいなぁ」
 ハヅキの顔がぱっと輝くのとボールの中の青竜の声が響いてくるのは同時だった。ぼくはたんたんと足を鳴らす。できない約束はするなよ、とその顔を指しながら釘を刺しても。全く聞かぬ様子で、おれとも遊んでよぉとじたじた動き始めたボールをぺんと叩いて、男は薄く笑んで頷いた。
「分かった」
「じゃあ、じゃあ……」
「たんけんごっこ、たんけんごっこがいい! おれ穴掘り係ね、それかおふろ! ブラシでじゃこじゃこするやつ!」
「――お、おままごとがしたい」
 言うと、ハヅキは俯いて、照れ隠しのようにぎゅうとマスカへ顔を押しつけてしまった。
 おままごと、なんてもうとっくの昔に卒業したと思っていた。久方ぶりに飛び出したその言葉にぼくもカナもきょとんとして、そんなのできるかなと男は笑い、おままごとってなになにと青竜が騒ぐ。お前はちょっと黙ってろ。
 じゃ玄関までお見送りしよっか、と立ち上がり、カナはハヅキの手を引いて廊下へ去っていく。マスカもぴょんぴょんついていった。男も行こうとして、ふっと立ち止まって、思い出したようにこちらを見る。手に握りっぱなしだったボールをサボテンに向け、スイッチひとつで、それをボールの中にあっさりと吸い込んだ。サボテンは言葉もなく吸い込まれていった。
 そして誰もいなくなる。さっきまでいつになく賑やかだった庭が、急に静まりかえってしまった。そこにぼくはひとりきり。縁側へ飛びあがり、足の裏をていていっと払って、風と日向と決別して人間たちを追いかけていく。
 窓もなく外界と遮断された、昼間でも薄暗い廊下。そこにも明るく響く声。玄関の方に見える自然光を目指して歩いていく三人分の足音。追いかけるぼくのことなど、誰も振り返ろうとしないで。
 カナ。カナ。
 いくら足音を立てて、鳴き声を上げれば、振り向いてくれるだろう。とっとっとっとっ、後れを取らないように、小さな足をめいいっぱい回したって、その視界に、どれだけの存在感を放てるだろう。
 唇を噛む。ぼくは、ぼくは、これだけ人を気にしているのに。
 ひょっこりやってきた人間の方が、ぼくの欲しい場所をむざむざ手に入れてしまおうなんて。そんなの、絶対不公平じゃないか。







 
 
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