不意に足元を侵したものを、驚いてバクーダは見下ろした。
 水だった。透明な水。灼熱に火照った通路を流れてきたからか、殆んど熱湯と化しているその液体は、さらさらと足元を撫でていく。バクーダの来た道、暗く狭い通路の延々と後方から流れ来ているのだ。小川にも満たないくらいの水深な為に炎と地面の属性であろうともダメージはなかったが、その出現の不可思議さは、一頭を動揺させるには十分だった。
 ふうっと気を込めると、背中のマグマがぐつぐつと煮え、伴って謎の『川』もがバクーダを中心に沸騰を始める。瞬時に蒸気が立ち込め、息苦しさにバクーダが目を細めた時――揺れる水面に身を隠していた小さな『何か』が、そっと足首に纏わりついた。
 モンスターボールの四半分にも満たない位の、ごく小さな物体だった。一拍遅れて後ろ脚に感じた痺れに、何事とバクーダは目をやる。そこに見たのは、足にひっついているのと同じ形状の微小な『何か』が、幾つも幾つも、ゆらゆらと流されてきては、己へとひたっと吸着していく様であった。
 突如、ひっついた『何か』がぞわっと動いて、何か細長い物を吐き出した。痛みが駆け巡った。目を見開き、バクーダは咆哮した。通路が一面赤く輝いた――


 ――地響きのような鳴き声が聞こえて、トウヤは暗い通路を覗き込み、かかったかな、と呟いた。
 ココウスタジアム、フィールドの中央壁面に存在する通用路口前。群がっているトレーナー達の中央で、時折翼を打ちながら通路へと水を送り続けていたスワンナに声をかけ、動きを制止する。それをボールに戻すと、間もなく、どこからか光の粒が点々とこちらに飛んできた。それらは迷いなく、そして次々と、トウヤの脇に立っていたノクタスのハリへと吸い込まれていく。バクーダから吸い取った、エネルギーの光であった。
「水に流させて『宿り木の種』当てるなんて、なんつーまどろっこしい真似を……」
 呆れたような誰かの声に、トウヤはかぶりを振った。
「こんな狭いところで炎タイプなんかに当てたら、さすがのハリでも窒息する」
 その前に煮えて死ぬ、とは言わなかった。ハリは小首を傾げる。
 微小な粒は、元を辿ればコンクリート壁を通り抜けているように見えた。その光の直線的な軌道はつまり、ハリの位置から見たバクーダの方角を示している。
 宿り木が発動したことによって、既に屋外へ出ているという可能性は殆んど消えた。『宿り木』の光の発信源を見るに、スタジアムのメインゲートからは逆の方へと逃げていったようだ。
 フィールドとの通用口からはかなり離れたところに留まっているようだが、通路はまだひとたび踏み入ればサウナのような熱気を感じることができる。バクーダのトレーナーはあれを静めるためのボールを買いに走っているが、手に入ったからと言って、直接投げつけにいくのは死ににいくようなものだろう……どうするよ、と一人が言うと、さっきのスワンナで『波乗り』したらどうだ、という声が上がった。
「波乗りで通路を全部押し流せば、そもそも宿り木で位置確認なんてまどろっこしいことしなくても……」
「阿呆、中にまだ誰かいたらどうすんだ。巻き添えだぞ」
 『誰か』とは、多分ミソラのことを指している。面倒なことになった申し訳なさを若干感じながら、トウヤは額をさすった。相変わらずな激痛に頭をやられていると、もう、下手な方法以外には何も閃かなくなってしまう。
「僕の……」
 ごく小さな声を拾い上げたのは、トレーナー達の中の数人である。
「ガバイトで壁を抜いて、もう一度バクーダをフィールドに」
「できるか、そんな事?」
 馬鹿にしたような声に、反論したのはハヤテ本人であった。ギャッギャッと喚きながら腕と尻尾とを振り回すと、まぁ大船に乗ったつもりでと言わんばかりに、バクーダのいるらしい方へとずんずん向かっていく。面白がってついていくトレーナー達を尻目に、トウヤはそこに座り込んだまま立ち上がれずにいた。ハリはぼんやりと見守っていたが、建築以来ずっと頑丈を保ち続けてきたコンクリート壁とハヤテが戦闘を開始すると、のそのそとそちらへ向かおうとする。
 が、しかし、ハリは突然足を止めた。だるそうに俯いていたトウヤもはっと顔を上げた。
「――お師匠様!」
 聞こえるはずのない声であった。それも頭上からだ。見上げれど、観客席には勿論誰の姿もない。どこだ、と言いかけたところで、ハリの右手が指し示した方を見て、声の主がどこにいるのか、トウヤも確認することができた――そして眉を寄せた。およそ頭痛だけのせいではない。
「何してるんだ、お前……」
「助けてください、暑いんです」
 目の前の『鉄柵』へ指をかけて、汗で髪の毛を顔に貼り付けた金髪碧眼の子供が泣きそうな目で見下ろしている。頭上三メートル程度の場所に位置している、横は四、五十センチ、縦は三十センチあるかないかくらいの『排気口』と思しきその穴の中に、コラッタならまだしも、なぜか人の子が潜んでいるのだ。排気口とフィールドとを隔てている錆びた鉄柵を掴みながら、これ外せますか、とミソラは問うた。トウヤがハリへその質問を受け流すと、ハリはふるふると首を振る。
「そんなぁ」
「なんでそんな所に……」
「廊下に出たら、バクーダが追いかけてきてそれで、換気扇……あ、あの、」一瞬後ろを振り返ったかと思うと、ミソラは少し声を潜めた。「レンジャーさんもいます、私の後ろに」
「はぁ?」
 ミソラが狭い空間を更に端へ寄ると、それを抱きかかえるような格好で、見知った女が暗がりから顔を覗かせた。
「ハーイ、痣のお兄さん」
「……」
「そんなに呆れなくたっていいでしょ。訳が分からない、って程ではないでしょうに」
 何か見透かしたかのようなレンジャーのその発言に、閉口していた男は少しむっとする。
「……どうしてまた、君までそうやって、黙ってそういうことをするんだ。君にとって、僕はまだ『部外者』か?」
 ハリはぱちぱちと瞬きを繰り返し、二人をじっと見上げている。怒鳴る気も、凄む気ももう更々なくて、男はぐちぐちとそう言った。
 レンジャーは悪戯っぽく微笑すると、その胸元に収まっている金髪の頭を撫でつける。
「私だけじゃないわよ。ミソラちゃんだって、『極秘ミッション』だったんだから。ねぇ?」
 促されて、狭い空間の中でミソラは少しだけ前へ出た。
「私……自分で生活費を稼がなきゃと思ったんです。迷惑かけてばっかりなのも嫌だし、このまま負担になってたら、いつか、本当に出て行かなくちゃいけなくなる気がして……お師匠様の昨日の賞金、黙って取っていったことは本当に反省しています。でも、私、ちゃんと返せると思って……あの」
 目にかかる髪を顔を振って避けてから、ミソラは再度トウヤと真摯に向き合った。
「……さっき、私、謝りませんでした。……ごめんなさい」
 その言葉を聞き届けて、ハリは顔を下げて――そこにへたったままのトウヤが、茫然としているのをじっと見つめた。
 三者の間に沈黙が流れて、その背景でガバイトが一匹、壁にタックルし続けているのを観衆たちが囃している。子供の目から目を離せないまま、男は何か言葉を選びとろうとして、言えずに口ごもるばかりであった。痺れを切らしたレンジャーは、前にはだかる鉄柵を掴み、揺らそうと試みるもまるでびくともしない。二度三度繰り返すと、諦めてフィールドを見下ろした。
「お兄さん、私、あの気狂いをキャプチャする」
 その瞬間だけ、レンジャーの声色は妙であった。男は少し目を瞬かせて、小さく息をつく。
「行けるのか。……相当暑いだろ」
「炎技を使われなければしばらくは平気。刺激しないようにこっそり忍び寄れたら、速攻で終わらせるわ。それまであのアホやってる連中を黙らせといて」
 彼女がハヤテ達の方へ目配せすると、トウヤはちょっと肩を竦めた。
「了解」
「でも、あのくらいの巨体を迅速にキャプチャしようと思ったら、ここの廊下じゃ足りないわ。それなりに広い空間に追い込みたい」
「トレーナー控室はどうでしょうか」
 ここぞとばかりに口を挟んだミソラへ、すぐさま声が被せられた。
「いや、今のバクーダの位置なら控室よりも、『医務室』の方が近い」
 昨日、トウヤが担ぎ込まれたあの部屋だ。場所が分かるか、と問われて、ミソラは首肯した。
「案内できます!」
「それでも、キャプチャするには少し狭いか。……あのポケモンは体の中にマグマを溜めてるんだ。体温を下げればマグマが固まって動きが鈍くなる。ドンメルなんかは、水をかけるだけで相当大人しくなるらしいが……」
 でも肝心の方法が、と言いかけたところで、レンジャーはパチンと指を鳴らした。
「ミソラちゃんのニドリーナ、『冷凍ビーム』が使えるわね」
「冷凍ビームだって?」「い、いえ、でも、リナは……」
 トウヤの疑問の声を、今度はミソラが制した。
「今はボールの中ですが、さっきからずっと暴れています。いえ、暴れ出す前からも、私の指示なんて一度も聞かなかったし……」
「――ですって。お弟子さんがお悩みよ、さて、どう対処します? 『お師匠様』」
 からかうレンジャーの言葉に、男は顔を渋める。――最初の一匹にバトルの得意すぎる個体を持つと、トレーナーは成長するのに苦労する、と言っていた父親の言葉を、唐突に思い返した。
 神妙に目をやれど、ハリはいつもの笑顔でこちらを見下ろすばかりだ。
「どうしてお前の指示を聞かないのか、よく考えろ」
 その声があんまり小さいので、ミソラは錆びくさい鉄柵に顔を寄せた。
「指示が遅いんだよ。慎重に作戦を練るのは悪くないが、ポケモンだって生き物なんだ。人の手を借りないと動けない機械やおもちゃじゃない。ミソラが考えてるように、リナだって自分で考えてる。しかも傷つくのは自分だ、トレーナーがぼやっとしてれば、そんな奴の指示に自分の身を任せようなんて絶対に思わないだろ」
 ミソラの指示した動きが、リナも一番良いと思えば、と男は額に手を当てながら、けれど淀みなく続ける。
「リナはちゃんと言う事を聞いてくれる。試合中にさっと頭が回らないなら、先に考えて、色んなパターンを対策して、事前に伝えておくことだ。今はただの戦略家でいい。バトルしてるポケモンの『目』になろうなんてのは、相当経験を積んでからの話だ」
 ボールを開くタイミングが戦況を変える時があるって話覚えてるか、と問うと、はいっ、と威勢の良い返事が戻った。
「手持ちと意思疎通することは、面倒だけど、案外簡単だったりもする。頭に入れておきなさい。……大丈夫だよ。もう疲れたからさっさと行け」
 最後の一言にレンジャーが声を上げて笑うと、トウヤも苦笑して見せた。
 じゃ、と片手を上げて暗い排気口の奥へレンジャーは消え、ミソラも四つん這いのまま後ろ向きに下がろうとした。けれど、一旦師匠の方へ目を戻すと、傍にしゃがみこんだノクタスへと視線を合わせていたトウヤは、気付いたのかふいとこちらへ顔をやった。それから何か言ったようだが、音が掠れて、ミソラの耳には届かなかった。
 けれど、その口の動きを見るに、おそらく「バカだ、お前は」、と。


「――えっ、あれ聞いていたんですか!」
 そのやり取りの少し前、給湯室から続く真っ暗なダクトの中を這いつくばって進みながら、ミソラは思わず聞き返した。
「聞いてたわよ。あのバクーダの様子見のつもりで、途中から覗いていたもの。ミソラちゃんとお兄さんのヘッタくそな喧嘩、もう笑い堪えるのに必死だった」
 方向だけこちらに指示して後をついてくるレンジャーの、殺し笑いが中に響く。たちこめる熱気のせいだけでなくミソラはかぁっと熱くなって、耳まで火照っていくのが分かった。
「面白いわね、あなた達」
「お、面白くなんかないです」
「面白いわよ。……なんで素直に言えないのかなぁ。心配した、って、たったそれだけでいいのに」
 とん、と心臓が鳴った。
「……心配」
「視界の利かないフィールドに上空から突っ込んでいくようなタイプじゃないわよ、あの人。体調が万全だったならまだしも……それに」
 その時、彼女の頭によぎったのは『三番目のボール』のことであったが、それを口にすることはなかった。
「包帯も巻いてなかった。ここにミソラちゃんがいるってどうやって知ったのか分からないけど、相当慌てて飛び出してきたんじゃない?」
 黙々と前へ進みながら、ミソラは何も言えなかった。……腹の底から熱く広がってきた感情を、噛み殺せ、今は噛み殺せと唱えても、少しだけ零れたものを汚い手の甲でミソラは拭った。真っ暗でよかった。これ以上みっともないところを、もう誰かに見られたくなんかない。
「ミソラちゃんだって、心配だったんでしょ?」
 そう言って、女はまたくつくつと笑った。
 いつだったか彼に握らされた鈴が、元のように鞄にひっついて、リン、リン、と鳴いている。道ではない道を手探りで左に折れると、そう遠くない場所に光が見えた。ほっと息が漏れる。同時に聞こえ始めたトレーナー達の喧騒の中に、ミソラは自然とあの声を探した。
(――そういえば)
 光の方へと進みながら、ミソラはふと思う。
(――ごめんなさいって、言わなかったな。助けてまでもらったのに)





 ――頭上から突然降り注いできた鉄塊と二つの獣の影に、バクーダは思わず萎縮した。
 『寄り木の種』を焼き切った所で、通路内は相当煮え返っている。外れかかっていた鉄柵を蹴り落とし通路へ合流した二匹のコジョフーは、鉄の甲高い騒音を皮切りに、身を翻し駆け出した。けれども、追ってくる鈍足のバクーダから距離を取りすぎないように、『見切り』を駆使しながら目的の方へと誘導していく。あまりに離れれば、『火炎放射』『オーバーヒート』なんかの炎の大技を使われかねないためだ。それもこれも、全てミソラの指示によるもの。
 バクーダが遠ざかったところで、ミソラとレンジャーもダクトから通路へ飛び降りた。右腕のキャプチャ・スタイラーを起動し、ディスクをカチッと装填するレンジャーの横で、ミソラはリナのボールを取り出した。
「いい、リナ。僕の言う事をよく聞いて」
 バァン、と何かを叩くような音が聞こえた。前方のコジョフーが『医務室』のドアを蹴り飛ばしたに違いない。
「あのポケモンは、寒さにとっても弱いんだ。だから、リナの『冷凍ビーム』で、動きを鈍らせることができる。その隙に、さっきリナがされたみたいに、レンジャーさんがあの子のことをキャプチャしてくれるよ。リナは今日はもう、倒さなくっていい。倒したいかもしれないけど我慢だ。興奮させて、火を噴かれたら、僕たちみんな死んじゃうんだからね。分かった?」
 ボール越しに語りかける声が届いているのかいないのか、いまいち自信はない。けれども今はなんとなく、強気に出てもいい気がした。
 さぁいくよ、と声を張って、駆け寄りながらボールを握った右手を引く。開け放たれた医務室の戸口から、コジョフーが勢いよく逃げ出してきた。中に入っているバクーダは、こちらへと方向転換しようとしている最中だ。
 ミソラはボールを、その戸口へと投げ込んだ。
「いけっリナ、『冷凍ビーム』!」
 薄暗闇にカーンと冴えわたるボール解放時の一閃が走って、白光から飛び出したリナは一旦地を踏み、迷いなくそこで口を開けた。
 青白い光が伸びた。よしっ、とミソラは拳を握った。『冷凍ビーム』のまっすぐな軌道は熱空間を切り裂いて、振り向いたバクーダの顔面へとクリーンヒットした。くぐもった悲鳴が聞こえた。すぐさま冷気が席巻して、しかし興奮のためか寒さはちっとも感じない。レンジャーが前へ出て、右腕をまっすぐ伸ばし、左手をそれに添える。音もなくディスクが発射されたのは、リナが光線を吐き終わるのと完全に同時であった。
 ディスクはバクーダの左脇を駆け抜け、軌道と摩擦音を残しながら裏手に回った。レンジャーが右手を引くと、見えない糸に引かれるようにこちらへと戻ってくる。一秒にも満たない間の出来事に、バクーダは全く反応せず、ミソラはただただ息を呑んでいたから――何を思ったかリナがそのディスクへ跳びかかっていくのを制止することなんて、とても不可能であった。
 はっとして、ボールを構え、開閉ボタンを押し込んだ。しかし、放たれた赤い光がリナを拘束する時には、もう、リナの前足はディスクを弾き飛ばした後だった。
 レンジャーの詰めるような声が聞こえた。バクーダの目の前を斜め上に横切ったディスクは壁を跳ねて、真っ直ぐにスタイラーの方へと戻ってくる。レンジャーはそれを左掌で受け止めて、すぐさま再装填した。しかし、腕を構えた時にはもう、あっという間に熱気を取り戻したバクーダの背の瘤が、赤い光を噴出し始めた。
「レンジャーさん!」
「――下がって!」
 高く凛とした声が叫んだ。
 スズちゃん、と彼女は『従者』の名を呼んだ。どこからかすっ飛んできたチリーンを見るまでもなく、ポケットから素早く取り出した茶褐色の裸の『錠剤』を、レンジャーは高く指で弾いた。それをぱくっとチリーンが食うと、途端、その非生物様生物の、『目の色が変わった』。
「神通力」
 チリーンはすっと面を上げた。
 ――ミソラは吹っ飛んだ。何に突かれたのか、飛ばされたのか分からなかった。コンクリートの通路に転げ落ちただけなのに体中に響く尋常でない痛みが、その攻撃の激しさを物語った。ミソラの転げた更に高くを、コジョフー達がなすすべもなく飛んでいく。
 何も聞こえなかった。見えなかった。何かしらの『歪み』の中で、黒いパーカーに身を包んだレンジャーのか細い背中だけが、やけに鮮明に捉えられた。攻撃を直に喰らっているはずの医務室の中がどうなっているのか、見えるはずなのに見えなかった。余波か、ぎぃんと耳鳴りがして、そうしたってどうにもならないのにミソラは慌てて耳を塞いだ。
 徐にレンジャーが姿勢を低くした。ミソラの位置からは窺い知れなかったが、その顔はひどく強張っていた。キャプチャ・オン、と囁く声は、突如として響き始めたチリーンの狂気的な笑い声によって、ものの見事に掻き消された。
 部屋の中へ吸い込まれていくキャプチャ・ディスクは、まさにその時、なんの役目も持たぬ非力な『子鼠』のようであった――





 スタジアム上空は夕方に差し掛かろうとしている。
 ミソラと、数人のトレーナー達とが、完全に威勢を失ったバクーダを導いてメインゲートをくぐった時、あたりにたむろしていた見物人たちは一斉にどよめきと歓声を上げた。
 遅れて建物から出てきたトウヤは、ハヤテの背中に横掛けに座っていて、その顔にはもう殆ど生気は窺えない。けれど、外気を吸って晴れやかな様子のミソラを眺めていると、僅かに血の色が戻るようにも見えた。
 人混みを割って出てきた大男は、遅くなったなと言いながら右手を上げて、真っ直ぐトウヤの元へとやってくる。
「相当暴れてたらしいじゃないか。さすがだな、一体どうやって手懐けた?」
 ご機嫌に白い歯を見せるグレンに、トウヤは首を振って、僕は何もやっていない、とだけ答えた。
 俄かにざわめきが大きくなったかと思えば、いつの間にやら帰ってきたらしい例の若いトレーナーが、バクーダを抱きしめ顔を摺り寄せている。その左の手には、新品と思しきモンスターボールがしっかり握られていた。後は、古いボールでポケモンを『逃がす』処理をして、新しい方にバクーダを入れてやれば、事は全て終了だ……脱力したようにハヤテの首筋に体重を預けたトウヤの前を、しかし、不穏な色をした人影がずかずかと通り過ぎた。
 少しだけ男は目を見開いたが、名前は呼ばなかった。呼べなかったに等しい。脇を通りかかるのを見て、グレンは、お、かわいいな、誰だありゃ? と嬉しそうに言った。答える者はいなかった。姿に気付いたミソラも、彼女の強い剣幕に、ただ行動を見守るに留めた――キャプチャ・スタイラーはどこかへ収めてしまったらしい一般人のなりのレンジャーは、バクーダのトレーナーの前に立ち、声をかけそいつを振り向かせると、突然その頬に、力いっぱい平手をかました。
 乾いた音がして、その多くが注目していた場は一気に静まり返った。
 ……何すんだよッ、と訳も分からぬ様子で男は叫んだ。その青い顔を、それより幾分幼い顔をしたレンジャーは、冷やかな眼差しで見つめ返した。けれども、その冷めた眼光の奥の方には、確かに、赤く激しい煌めきがあった。
「……あなた」
 決して張らずとも、誰もに聞こえる声量で。
「ドーピング薬を使ってるわね」
 ――トレーナーの時が止まった。トウヤは僅かに目を細め、グレンは一人顎を撫でる。じわじわと広がっていく、今度は悪寒のするような嫌なざわめきの中で、バクーダの後方に寄り添っていたミソラは、ぽつんと呟いた。
「……ドーピング……?」
「――なっ、なんでそんなことが分かるんだよ。言いがかりだ」
 苦しげに呻くトレーナーに、レンジャーは姿勢を崩さない。
「言いがかりかどうかは、あなたが一番よく分かっている事。これは忠告よ。まやかしの強さなんて手に入れたところで、その結果としてポケモンが『使えなく』なる、あなたそれでいいの? 出回ってる薬は無理に力を増強して、ポケモンの体も、心も蝕んでいく。依存性も確認されてるわ。一度術中に嵌れば、あなたがどう望んだところで、ポケモンはもう死のループから抜け出せなくなる、それでいいって言うの」
 すっ、と息を吸った。声は上擦っていた。
「法が、世間が目を逸らしたって、私は絶対に許さない。楽して勝ちたいなんて人間のエゴで、これ以上、ポケモンが苦しむなんて……、言いなさい。あなた、どこで薬を手に入れたの」
「だから、お、俺――」
「どこで、誰から買ったのかって、聞いてるのよッ!」
 詰め寄り、今にも掴みかからんとしていた一人の昂揚を抑えたのは――その時背後から聞こえてきた、ストップ、ストップ! という甲高い声であった。
 振り向こうとする前に、ぐいっと服を掴まれた不意打ちでバランスを崩した。ずるずると後ろに引かれ、トレーナーと自分とを引き剥がしたものを、レンジャーは苛立った顔で見下ろす。そこにむっとして立っていたのは、黒い、ボサボサ頭の少年であった。
「タケヒロ!」
「ピエロくん?」
 嬉しそうなミソラの声には反応せず、レンジャーが自分を見止めると、屈め、とタケヒロは彼女に言った。その意を誰も解せず、流れたのは沈黙。橙に染まり始めた夕陽の色が、女と、少年との少し長めの影を、砂埃の立つ乾いた地面に二つ並べて落としている。
「……何言ってんの、突然出てきて」
「いいから屈めって」
「あのね、今、私この人と話――」
「いいから!」
 ぐっと片腕を引き下ろすと、レンジャーはあっけなく崩された。
 ミソラも、トウヤも、遠巻きに眺めて固まっていた。思わず地面に腕をついて、何すんのッ、と先のトレーナーと同じようにレンジャーが叫んだ瞬間に、今はパーカーのフードも降ろしている彼女の柔らかい髪の中、耳の上のあたりに、問答無用でタケヒロは何かを差し込んだ。
 ひゃっ、と女の子みたいな悲鳴を上げている彼女らしからぬ彼女を見て、トウヤは顔を背けて笑った。なんだこの茶番は、とグレンは呟いた。
「な、な、なんなの――」
「……うん、やっぱり」ぺんぺんと両手を叩き、タケヒロはへたり込んでいる彼女を満足気に見下ろして、言う。「赤の方が似合うな、姉ちゃん」
 ……はぁ? 異星人でも眺めるかのような目つきでその少年を見やった後、そいつが左耳の上へ突っ込んできたものへ、若干怯えた様子さえ見せながら両手で触れて、それが、『五枚の花弁の大きな花』なのだと知ると――色々なことを理解して、いやでもやっぱり全然まったく意味分かんない、とでも言いたげな顔を、レンジャーは浮かべた。
 それをすぐに払いのける気力は、残念ながら今はなかった。気まずそうな、笑っていいのかいけないのか、微妙な面持ちで例のトレーナーは突っ立っている。あのなー、と、なんだか偉そうな声が彼女の頭に降り注いだ。
「何があったのか知らねぇけどな、姉ちゃん、ずーっとそんな顔してると、皺のカタがつくぞ、ここに」
 タケヒロは自分の眉間をつまんだ。
「怒ってるのって、疲れるだろ? せっかくかわいく生まれたのに、怒ってんなよ。笑ってる方が絶対かわいいんだから、もっとニコニコしとけって。特に、俺の傍では。なっ!」
 そう言って、ニカッ、と笑いかけてくるその小汚い少年を――眉間に皺を寄せながら、あまりにも複雑な表情で、レンジャーは一瞥した。
 きりきりと張り詰めていた糸がそよ風の煽りで千切れてしまって、両端がだらんと垂れて緩み切ってぶらついている、そんな何とも間抜けな静寂――の後、辺りに豪快な笑い声が響き始めた。これは傑作だ! と事情も呑み込めないままガハハと笑うグレンの横で、それに釣られたのかトウヤも俯いて肩を震わせている。ミソラでさえ何となく呆れた顔をしているのを見つけて、ようやく自分の場違いさに、少しずつタケヒロは気付き始めた。ただ、その時にはもう遅くて、ゆらっと立ちあがったレンジャーが、自分の脳天に例の赤い花を手向け、そしてその上から渾身の手刀打ちを綺麗に炸裂させることに、何の抵抗もできなかった。
 鈍く痛快な音がした。悲鳴が上がった。ふんっと息を吐くと、レンジャーはまたずかずかと歩いて、自然と割れた人波の間を大股で歩いて消えていった。見た目以上の衝撃に朦朧としたタケヒロが千鳥足を踏んでその場にひっくり返るのと、ウワーッとグレンが大袈裟に叫ぶのが一緒だったから、もう、ミソラは混乱して、どっちに向けばいいのか分からなくなった。
 場は一気に騒然と化した。グレンが叫んだのは、さっきまでけろりとしていたトウヤが急に頭を抱え、かと思えば失神してハヤテの背中から滑り落ちたからだったのだが、ミソラはひとまずタケヒロの方に駆け寄って、大丈夫? と肩を揺する。その時、頭上を何かが掠めたかと思うと、彼の顔の脇に落っこちていたあの赤い花を、長くて平たいものがするりと絡め取った。
 チリーンだった。ミソラが目を丸めるのにリンリンッといつもの鳴き声を響かせると、尻尾にあの花を携えたチリーンは、レンジャーの消えた方へと蛇行しながらすっ飛んでいく。それから、それを追うような二者の素早い影を見て、辺りの混沌を振り切るようにミソラは立ち上がった。
 コジョフー達は、一旦だけミソラへ顔を向け、ぱたぱた短い手を振った。そうすると、それだけで何事もなかったかのように、町の北方へと二匹並んで駆けていった。





 ――その翌朝。
 白い光に包まれて、ボールからニドリーナが飛び出した。左の耳が溶け落ちている異形の獣は、すとんと砂地に着陸すると、軽くターンして後方を振り向く。そこには、若干険しい顔をしたパートナーが立っていた。
 朝方でも日に当たるとじりじりと肌が焼ける気がするのは、本格的な夏到来の兆しなのであろう。ミソラがそんな顔でじっと眺めているので、リナも見返してきたが、唸りも、鳴きもしなかった。ただ、興味を失ったのかすぐにぷいっと目を背けると、一人身繕いを始めてしまった。
 ミソラはちょっと悲しそうにして、その相棒の前にしゃがみこむ。
「……リナ。あのね」
 きいっと背中の戸が鳴って、ミソラは話を中断した。
 トウヤだった。左腕にはいつものように包帯を巻いた彼は、寝癖がついたままの髪をわしわしと掻きながら、そこにミソラ達がいたことにちょっと驚いた様子で見下ろしてくる。
「おはよう」
「おはようございます! 体調はいかがですか」
「もう、すっかり」
 寝起きのぼんやりした声でそれだけ返すと、ミソラの隣に座り込んで、斜め下に視線を寄こした。
「……お前、どうしたんだそれ」
「はい?」
「足」
 あ、とミソラは、自分の右足首へ目を落とす。……フィールドが煙に巻かれた時から捻挫していたのにその後延々と駆けずり回っていたから、思い出した時にはちょっと酷いことになっていた。タケヒロもろともグレンに担がれて帰宅して、担がれたままハギのおばさんと一緒に医者にかかって、ぐるぐるとテーピングされて、暫く安静にしているように、と言われたものの、ベッドで一日大人しくしているなど正直無理な相談である。その一連の間、ハリとハヤテがなんとかして連れて戻ったらしい彼はまたずっと寝ていたから、今はまだおばさんからも話は聞いていないだろう。
「昨日ちょっと捻っただけです。平気ですよ」
「……日頃運動しないからそういう事になるんだ」
 ぶっきらぼうな声を、『心配してる』んだなと自己解釈して、ミソラはちょっと笑った。
 トウヤはリナの頭へ手を伸ばした。途端、ぴょんっとリナは後ろへ引いて、今度こそ唸り声を上げ始める。
「こらっ、リナ……」
「あのコジョフー達は?」
 なんの脈絡もなく話が変わるので、ミソラは理解するのに少し時間を要した。
「多分ですけど、棲み処に帰っちゃいました。スタジアムの中でチリーンの『神通力』にやられてから、ちょっと不機嫌になってたので」
「そうか」
「でも、二匹とも友達になったので、また会いにきてくれると思います」
 遊ばれたのかもしれないけど、とミソラが笑うと、その笑顔に釣られるようにリナはとことこと戻ってきて、足元に顔を摺り寄せた。
 相棒の突然の豹変っぷりに、子供ははーっとため息をついた。最近は、ミソラが怖い顔をしている時は、見向きもしない小さな獣だ。普段よりも幾分覇気のない様子ではあったが、そんなニドリーナの動きを見て、トウヤもふわりと頬を緩める。
「ミソラは、ポケモンと友達になる才能があるかもしれないな」
「え?」
「そういう付き合いも、大切なことだよ」
 ミソラはきょとんとして、トウヤを見、続けて喉を鳴らしているリナを見た。
 昨日言ったこと、本当か、と彼は問うた。やっぱり話が飛び飛びなのでミソラは返答に困ったが、トウヤはそれにちょっと呆れて、生活費を自分で稼ぐとか言ってただろ、と補足する。
「子供に経済力がないのは当たり前だ。僕もここに引き取ってもらったときはまだミソラくらいだったから、養育費は全部親が送ってくれていた。当然だったと今でも思う。それだって、お前以上に厄介事ばっかり起こしておばさんに迷惑かけまくっていたから、足りてたのかは知らない」
 こういう風に、落ち着いてお前と話したことって、そういえばあんまりなかったな、とトウヤは合間にちょっとぼやいた。
「……僕が十九のとき、親が死んだ。それまではずっと甘えていた。今はお金を入れているけど、僕くらいの年齢で家にお金を入れるのは、普通なんだ。別に居候だからじゃない。大人だからだよ」
 ミソラはしばらく黙っていたが、やがておずおずと顔を上げた。
「そういう普通の事を、私、知らないんです」
「そうだったな……」
 すっかり呆れて、男は頷いた。
 ぽんぽんと軽い開放音が響いて、トウヤのポケモン達も裏庭に飛び出した。『オニドリル』のメグミが空を高く舞い、ふわっと向かいの家の屋根に着地すると、その体毛をさらさらと風が撫でる。……その子について聞いてみようかとも思ったが、ひとまずはやめにする。いつか、今みたいに、自ずと聞かせてくれる日が、来るのを待つのもいい気がした。
 ノクタスのハリと、ガバイトのハヤテは、一度揃って主の顔を見てから、別段広くはない庭の中央へと歩いていく。……あの、とミソラは控えめに聞いた。
「ポケモンを育ててるのは、便利だからだ、って、前おっしゃってましたよね」
「だったら何だ」
 その不躾な問いかけに、ミソラは答えなかった。ただ、無垢な空色の双眸で、焦げ茶の瞳をじいっと捉えつづけた。……トウヤは何度か瞬きを繰り返すと、やがて顔を渋める。
「お前、まだ自分の事ポケモンだと思ってるのか」
「そういう訳ではないですけど……」
 ミソラから視線を外して、トウヤはひょいと立ち上がった。
「布団を出してくれた」
 一昨日の晩、と今度はきちんと付け加えて。今度はミソラが瞬きする番であった。少し離れた場所で、ハリとハヤテと、もっと遠くでメグミも、二人の様子を眺めている。きゅうっ、とリナが鳴くと、ミソラは無意識にその背を撫でた。
「今は、それくらいで十分だよ」
 それだけ言うと、トウヤは照れくさそうに苦笑いして、家の中へと戻っていた。






  
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