−5 おまえだけ
 
 行きがけに見た、空を駆けてゆくセスナ。
 水路を舞う魚たち。エメラルドグリーンの黒猫の瞳。包まれる老婆の掌の、しみこむような温かさ。
 深緑のブレスレット。丘の上から見た、西日を返す鏡の湖。思い出したルナの顔。蹴り飛ばした灰色の小石。
(……崩落してく足場、持ち上げた剣の重み)
 犬になった友人を追って走りながら、全部、全部、朔は回想した。
(壁画、祭壇、こっちを見ていた喋る狼。転げ落ちた牧場、電気羊)
 そして。
 朔じゃないか――! と聞き覚えのある声が寄ってきて、でもやはり、それは見知った姿ではなくて。小さな民家の前から駆け寄ってきた二頭の四足の獣、どちらもコリーをずうっと大きくしたような顔にもさもさと毛の生えた姿で、長すぎるクリーム色の口髭と、重そうな藍色の毛皮を着込んでいる――を見、父ちゃん、母ちゃん、とコリーはそれらに駆け寄っていく。コリーの両親なのか。彼らもまた、朔によくしてくれた数少ない村人だった。
「朔、無事だったか! どこにいたんだ、心配してたんだぞ」
「なんで、なんでおまえさん、人の姿のままなんだい」
 矢継ぎ早に浴びせられる質問に、朔はたじろいだ。そうでなくても暗闇の中で表情はあまり窺えないのに、それが獣の顔だから、どのくらい怒っているのか、怒られているのか、いまいち掴みきれない。ただ、月明かりに映える二対の眼はらんらんと輝いていて、それが人の物より随分大きくて鋭くて、とにかく怖かった。
「あ、あの……あの、ぼく……」
「父ちゃん母ちゃん、おいら、朔をあの『怪物』のとこまで連れてくから」
 今にも駆け出しそうなくらい早口なコリーの声に、なんだって、という類いの声を上げたのは、三人分だった。――怪物? ぼくを? なんでまた!
「もとの人間のままなの朔だけじゃんか、そんなの絶対何かあるからに決まってる。それにこいつ、剣を持ってるんだ、ホラ」
 ただ運よく『謎の光』を浴びなかったからだってさっき結論付けたばかりなのにコリーは大袈裟にそう言って、朔の持つ剣を顎で示した。闇でほの青く光っている、子供の身に余る丈のいかにもといった剣を見せられれば、この状況なら誰だって『こいつは選ばれた子供だ』と思ってしまうかもしれないが、それだってたまたま――いろんな言い訳が口をつかずに胸のあたりを渦巻いている間に、大きな犬の両親は顔を見合わせて、それからこちらに向き直った。発せられる父親の声は、幾らか慎重さを増している。
「し、しかし……あの『怪物』は」
 ――カッ、と光が片頬を焼いて、その後爆音と風が突っ込んできた。
 朔と大犬とは踏ん張ったけれど、小犬のコリーはウワーッ! と叫んでなすすべもなく飛ばされた。キャンッとまるで犬みたいな(犬ではあるんだけど)悲鳴をあげて道路に落下したコリーの上を、向こうからすっ飛んできた黒い影がぴゅんと通過して、そしてそこの民家の壁に強かに打ち付けられた。体が竦むような鈍い音。大慌てで駆け寄っていく二頭の後を、朔も追いかけた。
 そして、そこに崩れ落ちて呻いているものを見て、朔は言葉を見失う――一瞬人かと思ったが、よく見るとまるで違う。人の子供と見紛うけれど、肌は木の幹みたいな茶色で堅そうだし、頭からにょっきと生えているのは緑の葉っぱで髪ではない。鼻もにゅっと伸びて尖っている、というかそもそも二等身くらいだ、人間では絶対にない。だども、獣でもない。そんな動物知らない、いくら記憶を検索しても、似てるっていうのが何も見つからないのだ。
 人ではなくて、獣でもなくて、だったら何だ、『木の精』か? もうだんだん意味が分からなくなってきて、ははは、と朔は力なく笑った。ただ、倒れている木の精は笑うどころではなくて、痛みにもがき苦しんでいる、体からプスプスと煙が出ている。大丈夫、どうなっちゃってんの、あんたどこの誰よ、とコリーの母親から混乱しかかった声が上がっている隙に、突っ立っている朔のズボンの裾を、くいくいと引っ張る者がいた。勿論、小犬のコリーだ。
「行くぞ、朔」
「行くって……」
「皆戦ってる。この村を救えるのは、朔、おまえだけだ!」
 コリーはきりっとしてそんなことを言う。
 また、『おまえだけ』――無責任だ。ただただ落ちて、剣を掴んで、それでいいように仕立てられて? 非日常も度が過ぎる。けれど、そうやって『おまえだけ』と言われることに、朔は慣れているはずだった。泳げないのは、おまえだけ。こんなバカなのも、おまえだけ。水の民でないのは、おまえだけ。この村にほんとはいちゃいけないのは、そう、おまえだけ――
 ……朔は拳を握った。
「うん」
 ――そんなこの村に、なんの未練があるだろう?
 大アリだ。そんなの決まってる。大切な長老さまだ。誰に何と言われようと、抱きしめて、優しく包み込んでくれた長老さま。居場所を与えらえた日々。その日常を、朔は取り返すべきだった。排他的だって、コリーもいた。ルナだっていた。人の少ない、広々とした自然たちは、いつだって受け入れてくれる。のんびりした田舎の景色が、朔は大好きだったのだから。
 それを、この手で取り返して。
 こんな非日常、早く終わりにしてしまえ。
「行こう――!」


 ――そして、たくさんの回想の末に辿りつくべきはずだったものが、今、目の前で燃えている。
 赤々と体を照らされながら、飛び交う怒号の中に、朔は立ちすくんでいた。視界の中を裂いていく青や緑の物体の軌跡、光る稲妻のジグザグ走行を、茫然と瞳に焼き付けていた。
 コリーはどこだ。騒動の中ではぐれてしまった。友らしきものの姿は見えず、見えるのはただ、『人のような何か』や『獣のような何か』、そして『人とも獣ともつかない何か』の多種多様な色彩であった。それらは体をぶつけ、またファンタジーもののお話に出てくるモンスターのように火を噴き、水を吐き、電撃を放って、彼らの囲い込む一頭の『何か』を苛めのように攻め続けている。そしてそれらの攻撃に、中央の一頭はびくともしないではないか。……古びて錆びた剣を握って、朔は唾を呑んだ。思っていた以上に、自分のやろうとしたことはスケールの大きいものらしい。
 そして、その中でいっとう巨大な動体――燃え盛る炎は、朔の一番大切な場所を飲みこんで、煌々と赤く揺らめいている。
「……長老さま」
 小さく呼べど、誰しも振り向くことはなかった。彼らの目も威圧的な炎の前の、一頭の『敵』を睨んでいるのだ。
 朔は唇を噛む。けれど、いるはずだ、この中に。
「長老さま――!」
 分からない訳がない。大好きな長老さまなのだから。叫び、朔は不可思議な生き物たちの間へ飛び込んでいく。
 取り囲まれて暴れているのは、丸っぽいフォルムの大きめの獣。いかにも炎の力を誇示するように目の上から長く伸びた眉のような毛は炎のようなカラーリングで、ハンマーのような大きな腕を振り回して攻め来る者を薙ぎ倒す。体と同じくぎょろりと大きな丸い目は何かを一瞬彷彿とさせて、それがダルマだと分かるまでに、朔はしばらく時間を要した。頭蓋骨も粉々にされそうながっちりした歯を剥き出しにする深く裂けた口は、あらん限りの狂気的な笑顔に見えて、恐ろしい。
「長老さま、どこにいるの! ぼくだよ、返事してよ!」
 今、その真っ赤なダルマに、てんとう虫をめちゃくちゃにでかくしたような姿の生き物が奇声を上げながら突進していく。真っ赤なダルマは貼り付けたような笑顔のまま、右の拳をすっと引く、そこに纏うは紅蓮の炎。まっすぐ突っ込んだ巨大てんとう虫は、振り抜かれた炎の拳に豪快に腹を打たれて、やって来た倍くらいの速さで元来た方向へ戻っていった。衝撃音と、ぐげぇッと聞きたくもない声が聞こえた。
「長老さまぁっ……どこだよォー!」
 次にダルマへ挑むのは、例えるなら――ちょっと無理があるが、今度はムツゴロウをめちゃくちゃにでかくしたような強面の生き物だ。昼間の空の色をしたかなり大きな四足の怪獣で、腹は白く、オレンジ色の目玉に、頬から同じ色の突起物。頭の二対と尻尾とで、計三つの扇状の黒い『ヒレ』が突き出している。何らかの魚を擬人化したような姿だ。男物の力強い咆哮を上げながら、ダルマへ飛びかかっていく。
 両手を組むと、飛び込んできた魚人の頭へ、ダルマは全体重を以てハンマーのように振り下した。魚人は右に滑りそれを俊敏にかわすと、左の体側から突進を仕掛ける。肉の打ち合う音がして、ダルマの体が浮いた。おおっと一部から歓声が立った、のも束の間、追撃とばかりに魚人の口から放たれた水流の一撃を炎の拳で相殺すると、ダルマはくっと体をかがめ、控えめなサイズの脚からは想像もつかないくらいの跳躍力で魚人に頭突きを浴びせたのだ。
 さながらロケットのようだった。有効打だ。不意の攻撃によろめいた魚人の鳩尾へダルマのアッパーが入ると、苦悶の声を残しながら巨体は高く上がった。観衆のどよめきと共に重力にならっていくその落下地点に、朔がいた。あっと声を上げた。――ドンッと地を揺るがせながら伏したそれを、朔は頭から飛び込んで、間一髪のところで避けた。
 夜闇に舞い上がる砂埃が、炎の赤に照らされる。
 しん、と誰もが、その時だけは黙った。敵わないのでは、と流れはじめる不穏な空気。転げたまま脱力した朔の前で、ひどくせき込みながらも、しかし魚人は起き上がりつつあった。釣り上がった眼は猛烈にダルマを睨んでいる、ように思えた。
 長老探しを続行しようと立ち上がりかけた朔を今一度そこに押さえつけたのは、その魚人の起きるのを支えようとする別の獣の、大丈夫ですかラグナさん――という言葉だった。
(ラグナ――ラグナ=ファウンテンヘッドか)
 そう、その名は、朔の村・ローベルジュの由緒正しき大地主、曲がったことが大嫌いな、屋敷の偏屈な旦那さま――あの恰幅の良い恐ろしい男が、この魚人だと言うのか? 尋ねる間もなく、その答えを示したのは、他でもない彼当人であった。
「貴様……」
 ダルマを睨んでいたはずの釣りあがった目は、今なぜか、朔を猛烈にねめつけている。
「朔=ローベルジュだなッ!」





   
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