−4 牧童のコリー
 
 銀杏の木の影に座り込み、見上げる東の空には、煌々と月が輝いている。
 痛む左肩を庇いながら息を整えていると、訳も分からぬ悲しみが込み上げてきた。涙が滲みそうになるのは、今はぐっと堪える。べそっかきだった朔に、無闇に涙をこぼさないことを教えたのは、それもまた長老さまだった。
『涙には、限りがある。それを忘れてはいかん。本当に悲しい時と、本当に嬉しい時に流せるように、涙は取っておくんじゃよ』
「……長老さま……」
 膝を抱え、顔を埋めながら小さな声で呼んだって、迎えに来てくれるはずなんてない。
 無事でいればいい。無事でいるに、決まっている。一刻も早く、あの人のところへ帰って、今日見たことをたくさん話して、聞いて頷いてもらいたかった。不思議な体験をしたの、と笑って、抱きしめて欲しい。でも、なぜか足が動かないのは、集落の方に上がっている、あの火の手の下で……想像しうる最悪の事態が起こっているような予感が、朔の中に渦巻いているからだ。
 暗闇に呑まれるように、心は黒く沈んでいった。目の前に置かれている、錆びついた一本の剣が、不意に憎らしく見えた。あの時、自分の立っていた場所だけ地面がすっぽり抜けて、あの空間に落っこちたのが、必然であったなどとは、朔は思いたくない。この剣が何らかの意思を持って、朔を呼び寄せて、そしてこんな奇怪な夜を招いただなんてことは、考えたくもなかった。もし、あの丘の上で休憩なんかせずまっすぐ家に戻っていれば、こういう風にはならなかったのだろうか。普通に長老さまのところへ帰って、いつものように二人で温かいごはんを食べながら、変なおばあさんの話をして……
(……『いつものように』を、返してよ)
 念じても、剣はぴくりとも動かない。
 ザザザッと草むらを薙いで、夜風が駆け抜けていく。夜が来たな、と不意に朔は思った。ルナは、今日もあの庭へ出ているのだろう。そして、空に渦巻く煙と炎の赤を見て、ぎょっとしているに違いない……
「朔か?」
 ――急に声がかかったのは、そう考えた瞬間であった。
 はっ、と朔は顔を上げた。草むらを鳴らしたのは、そう、夜風なんかではない。目の前に、それも手の届く距離に、体高四十センチくらいの見慣れぬ獣が立っている。
「うわっ!?」
 咄嗟に剣の柄を掴み、それを振りかざした朔に対して、奇声を上げながら獣は素早く身を引いた。
「ひぇッ、バッカ急になにすんだ! 『おいら』だよ、朔」
 甲高い怒鳴り声を上げた、人語を喋る獣(人語を喋ったこと自体には、もはや朔は驚きもしなかったが)の、その喋った内容と声をはっきりと聞いて、朔は目を見開いた。
「へ?」
「へ、じゃねぇよお前おかしくなっちったのか? あ、おかしくなったのはおいらの方か。まー確かにこれで初見で分かれって方が無理だわなぁそりゃそうだ、ウンウン」
「ま、まさか……」
 剣の放つ青白い光にぼうっと浮かび上がっているのは、ぴょこっと立った大きな耳と、顔にだけ奇妙にもさもさと生えているクリーム色の毛、そして大きな黒い瞳が印象的な、やはり『犬のような何か』にしか見えなかったが……きゃんきゃんと捲し立てているその獣を、震える左手で、朔は指した。
「……コリー、なの?」
「それ以外の何かに見えるかぁ? あーまぁ、犬っころにしか見えないかもな、今はな」
 耳をぴっぴっと動かしながら、朔の友人である『牧童のコリー』なのだと、『犬のような何か』はそう名乗った。


 真っ暗な部屋の中で、『何か』が、すうっと目を開けた。
「……来てしまった」
 部屋の奥にはエメラルドグリーンの小さな光が二つ、爛々と輝いていて、その声にきゅうっと三日月形に細まった。そうネ、と若い声が返る。窓の外には、月と、星と、そして切れ長の赤く冴えた瞳が、静かに中の様子を窺っていた。
「ついに、この夜が……」
 バタンッと大きな音が鳴って扉が開き、部屋の中に二つの影が飛び込んでくる。それもまた、どちらも獣であった。太陽を象徴するような赤い輝きを額に持つ者と、月を象徴するような光る輪の文様を体に持つ者。
「おいババァ、どうなってんだ!」「お婆様、これは一体……」
 緊迫する二者の声に、『何か』は、ゆっくりと振り返る。
「……我々に出来ることは、もはや何もない。あの子がうまくやることを、ただ祈るのみ」
 そう言って、『何か』は、目を閉じると、静かに『翼を広げた』――





「いやぁしかし、大変なことになったな。羊の様子を見に行ったけどありゃあもうおいらの飼ってた羊じゃなかった。バケモンだなありゃ、バケモンだ」
「ぼ、ぼくも見たんだ。あの羊、電気を……」
「そうそう、それそれ。おいらが吠えたらビビッて逃げ出しはしたけどな、あれが羊なら、まさにおいらは牧羊犬ってこった、ハッハ」
 『犬のような何か』は、本当に『牧童のコリー』その人であるらしかった。コリーと言えば、快活で、『混血』の朔にも気兼ねなく(というより、血というものがそもそも何なのかいまいち理解していない節がある)接してくれるイイ奴で、こう、朔と同じ、ちゃんと人間の形をした生き物であったはずだけれど……という話をすると、コリーの方が、ふさふさの毛の中にとってつけたような大きな目を、きょとんとさせた。
「何言ってんだ、朔」
「う、うん……ぼくも自分が何を言っているのか……」
「人間の姿でいるの、この村じゃ多分おまえだけだぞ」
 コリーが言い出したことに、朔は固まることしかできない。
「……はい?」
「だから、人間の姿のままでいるん、おまえだけ」
「……え、っと……」
「だからぁ、人間の姿をしてるのは」
「それは分かった」
「分かったか」
「い、いや、意味分かんないけど……」
 さっと傍に寄ると、コリーは突然、かぷっと朔の腕に牙を立てた。
「っ!?」
「痛いか?」
「痛いよ、何すんの」
「痛かったら、夢じゃない。よく聞け。も一回だけ言うぞ」
 コリーは、まっすぐに見上げて朔に告げた。……普段なら、同じ年代の中でも群を抜いて背の高いコリーは、朔を見上げたりすることはない。
「朔。人間の姿でいるのは、もうおまえだけだ」
 飄々と、ストレートに突きつけられた現実は、朔を黙らせるのには十分すぎる破壊力だった。
 見つめあったまま、二人はしばらく黙りこくった。しん、とすると、眼下の集落の騒動が、遠く聞こえてくるような気がした。二人がそうしている間にも、生き物ような煙はむくむくとかさを増していく。そして、あの煙の下に、少なくとも、朔の知っている『長老さま』の形をしたものは、もう、いないと言うのだ。
「……そんな……どうして」
 ぽつりと呟く朔の脇で、くるっとコリーは体を回した。
「おまえ、何が起こったのか、ちっとも分かってないなぁ」
 小さい足をせかせか動かし、コリーは集落の方へ歩き始めた。朔も立ち上がり、少しだけ迷って、仕方なく剣を手に取った。ほのかな青い光は、少しだけ朔を冷静にさせた。
「分からないよ、なんで人間じゃなくなっちゃうのさ」
「なんでお前が人間のままでいるのか、おいらはそっちのが知りたいってもんよ。一体今までどこにいたんだ?」
「昼はムーンレイクに行ってたんだ。その帰り道に、地震みたいなのがあって、地面に穴が開いて、ぼくは落ちて……気が付くと夜になってて、剣が落ちてて、えっと、それから」
「地震の後は? あの光を、じゃあ朔は見てないのか」
 光? 朔が聞き返すと、前を向いたまま、コリーはこくっと頷いた。
「地響きがして、そのあと、パッ! と世界が真っ白になって、何も見えなくなったんだ。そして、次に目を開けた時には、もうこういう状態になってたってワケ」
「……こういう状態、って」
「おいらは犬になってたってこと」
 ごくっと唾を呑んで、それから朔ははっとした。
「そうか、ぼく、その光を浴びていない。洞窟の中に落ちていたんだ、だから……!」
「じゃあやっぱり、あの光がこれの原因なのかもな。おいらはもう、床が近いし、なんか鼻が利いて匂いもきついし、手も犬っころになってるからびっくらこいて、鏡見て、もうっ仰天さ。そんで、それだけじゃない、夕方だったんが、どんどん暗くなっていく。まるで、夕暮れを早送りしてるみたいにさ。何事かと思って家を出てみたら、更に驚いたよ。太陽がさ――信じられないぞ。太陽が、しぼんでいくんだ」
 朔は顔をこわばらせた。興奮気味にコリーは続ける。
「太陽が穴の開いた風船みたいに、しゅるしゅるしゅるって小さくなっていって、最後には見えなくなっちまった。そんで、もう、その後は、夜だ。つい何分前まで明るかったのがだぜ、一面真ぁっ暗! まわり見たら、みんな呆気にとられてたよ。それはちょっと面白かったな。だって、それも、みんな変な動物みたいな格好をしたやつらがさ、揃いも揃って、ポカーンと口開けてるんだからさ」
 その後はもうみんなパニックよ、と、カッカと笑うコリーの後ろで、朔は――青い光のせいではなく、みるみるうちに、真っ青な顔になっていった。
「……」
「おい、聞いてんのかぁ?」
「……太陽が」
 あん? とコリーは振り返って、朔のただならぬ様子に、ちょっとだけ眉を顰めた。
「……太陽が、なくなっちゃった、ってこと……?」
「うーん、ま、そういうことになるんじゃねーかな」
 けろりとした顔でそう返し、また歩みを進めるコリーに対して、朔は信じられない思いで昼間の会話を思い起こしていた。
『太陽をなくすことが、できますか』
『……太陽は嫌いかい?』
(――あのおばあさん、まさか、本当に)
 朔の思考を遮るように、そういえばさぁ、と甲高い声が割って入った。
「おまえ、そのカッコイイ剣なんだ? いいなぁそれ。なんか光ってるし」
「え、あー、これは……拾った、っていうか」
「ふーん」
 ぴんっ、と尻尾を立てて止まったかと思えば、くるりと再びコリーは振り返った。
「もしかしたら、おまえなら、『アレ』をどうにかできるかもしれねぇな……」
「『アレ』って?」
「百聞は一見に如かず、だ。とにかく村まで急ぐぞ。もうそんなに持たないはずだ」
「えっ、え?」
 速度を上げたコリーを追って、朔も走り出したが――この時まだ、『想像しうる最悪の事態』の上を飛び越えていくような出来事が起こるとまでは、朔は思いつきもしないのだった。





   
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