−3 夜が来た ――いつもは閉まりきっているファウンテンヘッド家の門が少し開いていて、そこからひょこっとルナが顔を出した時、驚くでも、どきっとするでもなく、ただただ朔は感動した。 「あ、あのね……朔ちゃん」 そう言って半身門に隠れながらこちらを見てくる大きな瞳は――灰。瞳孔は薄い桜色。そして、髪も、指先も、頬も睫毛も、白。漂泊して、それでも足りないからまた漂泊して、漂泊して、漂泊したくらいのまっしろのタオルでも、敵わないんじゃないかと思うくらいの、つやつやした汚れのない白。 正直、最初朔には、それが人の形をした別の生き物にさえ見えた。 「……び、びっくりした? よね?」 いつになくおどおどしながら――いや、塀に隠れて見えていなかっただけで、本当はおどおどしていたのかもしれない――、それでもルナは朔をじっと見つめていた。期待のこもっているのが見え見えの、きらきらした無垢な瞳で。どぎまぎしながら、コクコクと朔は頷いた。 「う、うん……」 「……やっぱり?」 ちょっと唇を尖らせて視線を落としたルナに、でもっ、と朔は矢継ぎ早に言う。 「それ以上に、きれいだと思った。すごくきれいだ。ぼく、こんなにきれいなもの、初めて見たっていうくらい」 勢い余ってなんてことを言っているんだ、言いながら朔の頭にじわじわ熱が昇っていく。気が付くと、ルナの真っ白い頬にもさっと赤みがさしていて、二人は黙って俯いてしまった。けれど――あぁ、幸せだ。なんて幸せなんだろう。 夜にしか会えないことも、なかなか姿を見せてくれなかったことも、何かを予感させるには十分すぎる謎だった。だから、いろんな妄想を巡らせてはいたけれど……ルナがこんな姿の女の子だったなんて、予想の外の外すぎて、なんだか、逆に可笑しい。 「え、えーと……あのね、そうなんだ。わたし、生まれた時から、こういう病気で」 顔を下げ、はーっと息をかけながら、ルナは両手の指をそろそろと絡めた。 「太陽に当たっちゃいけなくて、あんまり外に出たこともないし……だから、太陽の出てるお昼は遊べないけど、夜だったら、いつでも遊べるから……あの、あのね。これからも……」 すっと瞳が上を向いて、二人の目線が直線になる。 「……遊びに、来て、くれる? ……」 * はっ、と朔は目を開けた。 真っ暗だった。頭上には星が見える。あれ、と瞬きをすれども。見間違いではない。頭を打ったから、とかではなく、本物の夜空の星が、ちらちらと小さく輝いている。 一瞬の出来事だったと思ったけれど、夜になるまで気を失っていたのだろうか? ……よっこらと上半身を上げると、ぱらぱらと体から砂礫が落ちた。ムーンレイクとローベルジュを隔てる小高い丘を下っていたはずなのだが、足場が崩れてどこかへ転がり落ちてしまったらしい。 朔が(というよりも地面が)落っこちたことで立った砂煙は、もうもうと朔の目の前を流れては、左手を伸ばしきったあたりで、すっ、と闇の中へ消える。いや、見えなくなる、か。埃の動きは、朔の座り込んでいる回りだけ切り取ったように見えている。つまり、朔の頭上の一部分からだけ、ここに月明かりが差し込んでいるのだ。 「ぼくの立ってたとこだけ、うまいこと抜けちゃったんだ……」 そんな独り言は、辺りをふわんと反響した。何かしらの空間が広がっているようだ。 こんな所に地下道なんてあっただろうか。それとも、ただの空洞が地下にはあった? 懐中電灯を持っていたことを思い出して探ってみれど、背負っていたリュックサックは衝撃でボタンが外れていて、中身は転がってしまったらしい。手近を漁っても、空の水筒や、警官に貰ったムーンレイクの地図なんかの今はいらないものしか見つからなかった。 弱ったな。心の中で呟いて、四つん這いで手探りしながら朔はそろそろと動き始める。ぺたぺた地面を触りながら見上げると、埃の柱の向こうに見える丸い切り抜きの夜空の東に、月がちょろっと顔を出していた。 (……埃が、立っている……) ――ということは、朔の足元が崩落してから、やっぱりそんなに時間は経っていないはずだ。少なくとも、こんなにとっぷり日が暮れる位には…… 何かが手に触れて、金属的な物音が立ったのが、丁度そう考えた瞬間だった。 懐中電灯かもしれない、という考えは、しかし一瞬で捨て去らざるを得なかった。朔が手で弾いた反動で、細長い板状のそれはくるっと地面で回転して、月明かりの下にその先端を晒したのだ。 「え」 それがなんなのか分かった途端に、朔はぴたっと動きを止めた。あまりにも得体が知れなくて、何か、よからぬものを見つけてしまったかもしれない、という嫌な予感が、すうっと背筋を冷たくさせる。でも、見つけてしまったのだから、拾わない訳にもいかなかった。恐る恐る朔は『柄』を握って、その重みを、えいっと両手で持ち上げた。 ――月明かりの下で持ち上げられた古い『剣』は、砂埃の中で、鈍い輝きを放っている。 驚くべきことは、次々朔を襲ってきた。明かりの元に差し出した瞬間、その剣の刃の部分が、ポウッと青白く輝きはじめたのだ。ひっとたじろいでも、その握っているものの物騒さからおちおち手を離すこともできず、朔はただずっしりした重量感に腕をフルフル震わすばかり。それだけじゃない。剣の発する薄ら明かりに朔のいる闇が照らし出されて、その照らし出されたものを見て、ワァッと今度こそ声を上げた。 「な、なに……これ……」 そう、そこは、ただの地下道じゃない、ましてやただの空洞なんかじゃない――壁画だ。朔の立ち尽くす長い通路の壁、天井、そして足元にも、びっしりと、なにかの画が描かれているのだ。 どくどくと鼓動が早まる。なんだこれ。なんなんだこれ。そういうことに詳しくなんてなかったけれども、素人目にも、これが歴史的に相当価値の高いものと分かるような圧倒される雰囲気。こんなのがローベルジュにあるだなんて、長老さまは教えてくれなかった。それとも、長老さまも知らないもの、遥か昔に作られて、ずっと封印されていたもの? 頭が真っ白になって、そこに描かれているものがなんなのか、朔にはちっとも理解できない。自分の足が人らしきものの顔の絵をふんずけていたことに気付いて、慌てて足をどけたけれども、ああ、よく見ると、人じゃない。人にしては、手が長すぎるし、胴が細すぎる、下半身も太すぎる。それに、何かに振おうとしている拳に、真っ赤な炎のようなものが宿っているように見える……。 振り向き、奥も見ようとして、ぞぞっと鳥肌が立った。 (祭壇……だ) 剣の放つ青い光に、ぼうっと浮かび上がっているもの……石積みの壇には朔には理解できない入念な彫刻が施してあって、その周りに、何やら土偶のようなものがいくつも転げている。慎重に近づいてみる。倒れた土偶の顔部分の、一対の虚ろな窪みが、朔を見ている……きしっ、ぱきっ、と何かを踏んで、足を上げて、 「――ぁぁぁああッ!?」 飛び上がって、ついでに悲鳴も上げた。それは見るからに、何かの『白骨』だ。それもこれも、皆『供物』というやつ? もう、その二メートルほどの石壇の中に、ミイラが入っているんじゃなかろうかと朔には思えてきた。誰か、偉い人のお墓であったに違いない。そして、その上に積み上げてある何らかの装飾部は、崩れて瓦礫と成り果てている。はっとして、朔は手元の『ソレ』を見た。……あの部分に、もしや、この剣が飾ってあったのでは。それを、ぼくが握っている。もしこの石壇が棺として、棺の主がこの剣の持ち主だとしたら、これ、恨みを買いかねない……! 「か、帰ろう……帰ります、あの、ごめんなさい、ぼくもう帰ります」 ぶつぶつ言って、無駄に抜き足差し足と後ずさったところで、 「――おい! 人がいるぞ!」 背後から掛けられた声には、やっぱり飛び上がるくらいの驚きと、そして急激な安堵感を朔は覚えた。 誰かいる。そう叫びたいのは朔も同じだ。緊張の糸がぷっつん切れて膝から崩れ落ちそうなくらいの心地で朔は振り返った。朔が落下した抜け穴から、誰かがこちらを覗いている。 そんな意味の分からないもの手放したかったけれど、緊張で筋肉が強張りでもしたのだろうか、剣は吸いついたように朔の掌から離れない。ともかく月明かりの差し込んでいるところまで駆け戻って、朔は顔を上げた。知らない声だったし、知らない顔かもしれないが、その顔は月明かりの逆光のせいで全く見えない。と、もう一つ影が、ひとつめの向かい側からにゅっと出てきた。 「おぉ、本当に、『人間』だ……」 感慨深げな言葉の意味を、理解する間もなかった――そのふたつの影の頭から、ちょこん、ととんがった『耳』が生えていることに、朔は気付いてしまったのだ。 「……へ……?」 思考停止。意味が分からなかった。老婆の家の黒猫の件を、朔はちょびっと思い起こした。大丈夫か、と『獣の耳の生えた何か』が、朔に向かって口を利いた。開く口は、人らしくなくざっくり深く裂けていて、歯茎には、ぬらっと光る牙が並んでいる。 「……お、お、お、」 ぶるぶると震えはじめた朔に対して、二人……いや、二匹の『獣』は、赤い双眸をきょとんとさせた。 「――オオカミいいぃぃぃぃぃッ!?」 上着も、つっかけも、いらなかった。小さなポシェットだけ引っ提げればいい。ただひたすらおろおろしている使用人の目をうまくかいくぐると、ぱっと縁側を蹴って、ルナは庭へと飛び出した。 辺りは真っ暗だった。開きかけの白い夕顔を横目に、いつもよりうんと広く感じる庭を門の方へ駆けていく。全く、いつもの夜ではなかった。闇に浮かぶ雲が赤い。煙が見える。村の方で、炎が上がっているのだ。 「……朔ちゃん」 呼ぶ声に、答える声はそこにはいない。 誰か慌てて出ていったのか、門は開けっ放しになっている。ためらいなど、もうなかった。ルナはそこも一目散に走り抜け、集落の方へと駆けていった。 ――何かに足を取られて、朔は前のめりにバランスを崩した。 転ぶだけならよかったが、それでは終わらなかった。慌てて手をつこうと伸ばした場所には地面がなかった。スカッと両手が空振りしている間にもどんどん体は倒れていく。何かに頭を打った、前転した、と思う間に、朔はゴロゴロと斜面を転がり落ちていった。 もはや悲鳴も上がらなかった。それほど長くなかった崖を滑り落ちると、草原だった。うつ伏せに倒れたまま、あまりの脱力感に、呼吸することさえままならない。全身痛んでも涙も出なかった。意味が分からない。ただただ、意味が分からない。いっそ、今の落下の衝撃で、夢から醒めてくれればよかった。だども、顎を上げると、転がり落ちた時に離したらしいあの『剣』が、草むらの中に物々しい顔つきをして落ちている。 二匹のオオカミと目を合わせて、謎の地下道を脱兎のごとく逃げ出してから、どれくらい経ったか分からない。しかし、なんとか外まで出てきたようだ。崖の向こうは鬱蒼と茂る木々に覆われていて、夜闇の中では、どのあたりがあの地下道と繋がっていたのか皆目見当もつかなかった。一体、ここはどこだろう。首を回して向こうを見て、ふっと朔は、目を丸めた。 ――村に火が上がっている。しかも、ぼくの家の方だ……! 「長老さま……?」 呼んでも無意味だと知っていても、ずんと胸を突くショックから、大切な人の名は口からこぼれ落ちていた。朔を育てたあの家が燃えていると、勿論決まった訳ではない。けれども先程からもう、嫌な予感は絶えなかった。一日中歩き続け、かつ全力疾走した後の疲弊しきった両足は、そのためだけでなくガクガク震える。急いで家に戻らなくては。ああ、そうだ。急がないと。誰の家であれ、消火の手助けをしなくては。……暗闇の中を素早く戻ろうと思うと、明かりがいる。仕方ないので、嫌々ながら、朔はそこに転がっている剣の柄をもう一度取った。力を失ったように沈黙していた錆びた刃は、朔が柄に触れた瞬間に、青白い光を取り戻した。 よいしょっと持ち上げ、歩き出そうとした所で、目の前にいたものの存在に、朔はようやく気付いた。 そして、ここがどこであるのかも、ようやく察しがついた。牧場だ。羊の。ローベルジュの畜産農家ではサフォークという肉用品種の羊が広く扱われていて、薄茶けた白の毛並の中から、黒い頭と四肢とがにゅっと生えているのが、朔はかわいくて好きだった。今、朔の行く手を阻むようにしてぼうっと立っているのは、剣の青い光を受けて、黒い顔を青く光らせている…… (……あ) 一歩、後ずさりした。 (違う) メェ、と一声鳴いて、羊は朔に近寄ってくる。その声を聞いたのか、はたまた光に引かれたのか、草むらの中にこんもりしていた塊がいくつも立ち上がって、闇にぼんやりと青白く浮かびあがりながら、こちらにやってくる。ああ。目の前に見えているもののすべてが、今や信じられなかった。違う。だって、サフォークに、そんな角は生えない。肉用種だから、そんなにもっこりと毛並は膨れない。そんな縞の、黄色く光る球をぶら提げたような、おかしな尻尾なんてない。 みるみるうちに数十頭の『羊のような何か』が、朔を取り囲んで、メェメェと鳴き始めた。震えが止まらかった。抱きしめる剣が、例のブレスレットに当たってかちかちと震える。きっと、悪い夢を見ている。だって、おかしいじゃないか……羊が、羊がそんな、羊毛を淡く光らせて、バチバチと弾けるような音を立てて…… 「……――ッ!」 黄色い稲妻をこちらに放ってくるなんて、どう考えたっておかしいじゃないか――! 横っ飛びに避けたつもりが、バァン! と銃声のような音、左肩の衝撃と共に朔は吹っ飛んだ。羊の群れの中にドッと落ちると、カーン、と目の前に剣も転がった。痛みで世界が白黒する。朔が突っ込んできたのに羊がたじろいだのも一瞬で、またメェメェと鳴きながら寄ってきた。ガタガタと体が震えた。恐怖なのか、訳の分からぬ怒りなのか、もう朔には分からなかった。 「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁー!」 叫ぶと剣を掴み、朔はがむしゃらに振り回した。手ごたえは全くなかったが、驚いた羊の群れが割れた。いくつもの羊の間を、血を吐くような悲鳴を上げながら、朔は猛然と走り抜けた。 夜空は黒かった。黒塗りの中に大きな月と、ちらちら光る星とが、いつもとおんなじ顔をして、浮かんで、そこに瞬いている。そんな平常を塗りつぶすように広がっていく、もうもうと立ちのぼる煙は、依然として鮮烈な火の手の赤に、不気味に照らしだされていた。 |