−2 朔とルナ
 
 朔とルナとが出会ったのは、ひと月前のことだった。
 例えばあの日、朔の投げた紙飛行機が、長老さまの薬袋で作ったとっておきの一機でなければ、また、例えばあの時、あの変な風が朔の紙飛行機を塀の向こうへ押しやらなければ、例えばあの夜、長老さまが村会議の用事で家を外していなければ、これから始まる二人の物語は、すべてないこととして終わっていただろう。でも、何かに導かれるように、それらは折り重なって朔の上に降ってきた。だから朔は、あの晩こっそり家を抜け出して、塀の向こうへ忍び込んでみることを決めたのだ。
 あのお屋敷が『ファウンテンヘッド家』の邸宅であるということは、さすがに知っている。なにせ、このローベルジュの由緒正しき大地主だ。ローベルジュの方策を決める村会議でも絶対的な発言権を持っているファウンテンヘッド家の旦那さまは、恰幅の良い威厳のある男で、ぎゅうっと真ん中にパーツを寄せ集めたみたいな顔をしている。そして、曲がったことが大嫌いというなかなかにとっつきにくい性格だ。他民族に閉鎖的なムラだってこともあって、だから『混血』の朔の事を旦那さまはあまり好ましく思っていなかったし、実際に嫌味を言われたこともよくあった。……それでもあの家に忍び込もうと思えたのは、やっぱりあの紙飛行機が、とっておきの一機だったというのがかなり大きい。
 長老さまは、朔にとって唯一無二の存在だ。身寄りのなかった朔をここまで育て、物わかりの悪い朔に根気よく世界のことを教えてくれて、他人の朔にたくさんの愛情を注いでくれた。だから長老さまは、朔の何よりも大切な人。その人の薬袋で丁寧に作った紙飛行機は、それはもう、びっくりするほどによく飛ぶのだ。『血』のせいでうまく友達もできなかった朔にとって、そんな紙飛行機を飛ばして追いかけている時間と言うのは、人で言う親友と遊んでいる時間に他ならない。色々な紙で作った様々な紙飛行機を持っていたけれど、その薬袋の紙飛行機は、二重の意味で格別に大切なものだったのだ。
 それを取り返しにいくのだ。夜でもちょっと温かくなったくらいの季節で、懐中電灯を持って、つっかけで夜中に出かけることくらいは、朔はそれほどの抵抗もなかった。
 紙飛行機奪還作戦は、存外にうまく行った。ただし、飛行機の所在を掴むところまでは。――と言うのも、その行為を幇助する人物が、塀の内側から現れたのだ。

「懐中電灯、消した方がいいよ」
 昼間に飛行機を見失ったところまで来て、にわかに掛けられた声に朔は肩を震わせた。
 あまりに突然の事で、声も出なかった。さっと振り返れど、見渡せる範囲に人影はない。……幽霊? まさか。誰に見つかったんだろう……言われたとおりにカチッとスイッチを切ると、すうっとあたりが闇に呑まれた。けれど、目が慣れてくると、月か、遠い外灯の明かりか、意外と視界は利いた。
「うん、それでよし。……塀の隙間から、君の明かり見えたから。こんな時間に子供が一人でいるの見たら、お父さんうるさそうだし」
 その言葉で、声の主が塀を隔てた向こう側にいるのだと朔はようやく理解した。涼やかでさっぱりとした、女の子の声だった。朔はちょっとどぎまぎとする。同年代の、しかも女の子と話すことなんて、『沈没事件』以降はあんまりなかった。
「……だ、誰?」
「わたし? わたしはルナ。ルナ=ファウンテンヘッド。この家の一人娘」
 ファウンテンヘッドの旦那さまには、娘がいたのか。それは初耳だ。
「君は? 君は、どこの誰なの?」
「えっと、ぼくは、朔。……朔=ローベルジュ」
「ローベルジュ? ってことは、長老さまの血族ね」
「いや、あの、ぼくは……長老さまの養子、っていうか」
「養子?」
 ちょっとめんどくさいことになりそうだ。ルナが次の言葉を発する前に、朔は急いで先手を打った。
「ルナ。ぼく、探しものをしてるんだけど」
 月の明かりはひんやりしていて、石の壁は、冷たかった。暗闇の中でなくたって、それを隔てた向こうとこっちでは、顔も何も見えやしない。
 紙飛行機の話を出した途端に、あっ、とルナは声を上げた。
「じゃあこの紙飛行機、朔ちゃんのなんだ」
「そこにあるの!?」
「うん、さっきそこで拾ったよ」
 これは幸運。ぱぁっと表情に光が射した。塀の向こうに忍び込めたら忍び込めたで、あのあきらかに広げなお庭の闇を、どのくらいコソコソ探し回らなければいけないのかというのは大きな問題の一つだったのだ。
「悪いんだけど、返してくれる? とっても大事なものなんだ」
 ちょっとの沈黙のあと、いいよっ、と明るい声が届いてきた。
 ざくざくと音がする。向こうは草むらにでもなっているんだろうか。距離を取ったのか、いくよー、というルナの声は少し遠くから聞こえてきた。返事をして、こいっと両手を上げる。そんなことしたところで、向こうには見えていないんだけど。
 えい! という掛け声――塀の上にすっ、と白い紙飛行機が躍り出た。
「来た!」
 叫んだところで終わりであった。紙飛行機と言うのは、力任せに投げればいいというものでは当然ない。ついっと垂直に上がったかと思うと、くるりと縦に一回転、そしてまた塀の向こうの方へと、ひゅーっと真っ直ぐ戻っていったではないか。
「あっ」「あー」
 朔の呟きと、とぼけた声が重なって響いた。
 白い主翼は月を横切って、すぐに朔から見えなくなった。そしてまた、しばしの静寂。背中の方から夜風が吹いて、さわさわと草のこすれる音がなんだかやけに心地よい。その風さえ収まればまたトライしてくれるものと思って、朔はこいっと手を上げた。けれども返ってきたのは、機影ではなくて……笑い声。
「……っ、ふふふ……」
「え? どうかした?」
「ううん、あのっ……くふ、くはははっ」
 なんだ、なんだ。急にけらけら笑い始めた女の子相手に、朔は突っ立っていることしかできない。
 静かだった。虫の声や夜鳥の声もほとんど耳には届かなくて、ファウンテンヘッド家のお屋敷は他の家とちょっと離れた斜面の上にあったから、人の声だってまったく聞こえない。でも、寂しくもちっともなかった。ルナの笑い声はきらきらしてて、そんなことが本当に楽しそうで、なぜだか朔の心の中まで、ほうっと温まるような心地がした。
 あぁ、友達と遊んでいるって、こういうことなのかも……?
「ねぇ、朔ちゃん」
 いつの間にか声は近づいていた。
「この紙飛行機、しばらく預かっててもいいかな?」
「え、でも」
 あ、紙飛行機が欲しいなら、別の作って持ってくるよ、と言いかけたところを遮って、ルナはハキハキした声で続けた。
「これわたしが持ってたら、朔ちゃん、また話しに来てくれるよねっ――」





 西日を照り返すムーンレイクは、さながら大鏡のようだった。
 行きにセスナを追いかけた小山の道の脇に、朔は座り込んでいた。膝を抱える手首には、例の深緑のブレスレット。今日の収穫はそれだけだ。大口を叩いて村を出てきて、成果がたったそれだけなんて、どの面を下げて報告すればいいんだろう。
 そのブレスレットが特別な何かであれば、良い事があるかもと言って、喜んでルナにプレゼントできた。でも、それがムーンレイクの街では普通に出回っているもので、それを朔はもう知ってしまっていたからたちが悪い。きっとあの老婆、何か相談されるにつけて、人々にコレを配って回っているに違いないのだ。不思議な力だなんていうのも、おそらくはデタラメだったのだろう。……確かにちょっと、変な風ではあったけれども。
 無責任な噂話にも、そんなのにまんまと釣られた不甲斐ない自分にもがっかりで、立ち上がる力も湧かなくなった。
 夕方と言うにはまだ早いけれど、太陽はもう結構な角度に傾いている。けれど、そんなに急がなくったって、懐中電灯があるなら夜道でも家には帰れるだろう。長老さまの待つ家まで、そんなに遠いと言う訳でもない。いたずらに風に撫でられながら、湖面と太陽が接して溶けるまで、ぼーっとそこに座っていてもよかった。……それでも、なんにも考えずぼーっと、というのは、朔くらいの歳になるともう大分難しい。
 ――どうしてルナは、ぼくのことを気に入ってくれたのか?
 それは今や、『どうして(顔も知らない)ぼくの母親は、のちの面倒を知っていて血の違う男と子をなしたのか』、また『どうして長老さまは、ぼくにこんなによくしてくれるのか』と並ぶ、朔の人生中の三大クエスチョンの一つになったと言ってもいい。確かに朔は、朔の血の事をルナにはまだ内緒にしている。けれど、別にそれを差し引かなくたって、朔は別段面白いヤツでもなんでもなかった。そのくらいは、自分でもよくわきまえているつもりだ。それがあの夜から度々、見ちゃいけないドラマの中の『夜這い』みたいに会いにいって、塀越しに話して、最初は凄くためらっていたのに、ついには顔を見せてくれて……
(……行かなくちゃ)
 その顔を思い浮かべるだけで、ゆるゆると力のみなぎってくるのを感じて、朔はくすっと自分を笑った。そんな自分が、今はそれほど嫌いでもない。
 立ち上がり、ムーンレイクに背を向けて、朔は疲労の見える足取りで下り坂を歩きはじめる。ローベルジュは山裾の窪地にある小さな村で、ルナの住んでいるファウンテンヘッドのお屋敷は今立っているところから村を挟んだ向かい側、山裾の、村はずれの傾斜のきつい辺りに位置する。それはもう大きなお屋敷だから、そびえ立っていた威厳のある館も、白い花畑のきれいな庭も、なんとなく見つけられた。けれども、今は、あの庭には、ルナは遊んではいないだろう。
『太陽を、なくしてきてよ』
(――無理だ)
 分かっている。そんなことは、最初から、あの子だって分かっていた。
 なのに、朔は、『分かった』と言った。太陽を、消し去ってくると。
 やっぱり無理だったと告げたら、あの子はどんな顔をするのだろう。泣くのだろうか。本気にしたの、と笑うのだろうか……虚栄を張って。それが朔にはとても辛い。無責任だったのかもしれない。いいや、そんなつもりはなかった。けれど、本当にその瀬戸際に立たされた時に、世界を壊す覚悟があるのかどうかと問われると、そうではなかったのだろう。老婆に『太陽は嫌いか』と問われた時、だから自分は、動揺したのだ。
(世界を壊す、か)
 そんな風に考える、自分の中に居る邪悪めいた存在に、朔は目を細める。太陽がなくなれば、多分、本当に世界は壊れる。そして、ルナの望む世界が、やってくる……
 つま先に当たった小石が、かろん、と音を立てて、坂道を転がっていく。
 そして、一瞬だった――ガガガガガガガッ、と亀裂が走って、その隙間に小石が呑まれて、また足元がぐらっと揺れて崩れてもなお、一体何が起こったのか、朔にはちっとも分からなかった。





   
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