1st day [長い夜のはじまり]






−1 怪しい老婆
 
 黒々としたセスナの翼が、頭上から、ムーンレイクの方へとすっ飛んでいく。
 ふいにイメージとして浮かんできたのは、地球と太陽の模式図だった。太陽が昇り、沈み、また昇るというようにくるくる回って見えるのは、見えるだけで、本当は地球の自転によるものである。ならば、太陽から見て地球の裏側……つまり夜が来たときに、自転と同じ速度で、自転の向きとは反対側に走り続ければ、ずっと夜のままでいられるのではないだろうか。
 考えながら、他の事をするのは苦手だ。朔(サク)は無意識に足を止める。
 ぱっと現れたメジャーが、青い星へくるっと巻き付いた。赤道上で言えば、地球一周は約四万キロメートル。仮に地球を球体とし、二十四時間で一回転するとすれば、自転速度は周長を時間で割ればよいから、計算して、時速約千七百キロメートルとなる。ちなみに音速は海面上で時速千二百二十五メートルだ。ジェット機なんかをチャーターして超音速で飛び続ければ、なるほど、決して不可能ではない。
 ……いくらか飛び続けたジェット機が、燃料を使い果たし海へ突き刺さっていくところまで想像して、朔ははーっとため息をついた。
 空のほくろみたいになったセスナへ手を振っても、当たり前だが応答はない。仕方ないので、朔はもう一度歩き出した。


 不思議な力を持った老婆がいるという噂は、ムーンレイクから十キロほど離れた場所にあるローベルジュにも、風の便りで届くくらいには有名なものであった。
 草原の中を伸びる石畳の歩道を下っていくと、きらきらと光る湖岸の中都市、ムーンレイクに辿りつく。その名の通り、ムーンレイクという美しい湖を擁するこの都市には、クモの巣の透明な網目のように、澄んだ水路が張り巡らされて複雑な模様を描いている。そこをおもちゃみたいな櫂(かい)を漕ぎながらすいすいと行く小舟を見れば、誰だって胸を弾ませるものだ。朔だけは、それを見てうっと顔を曇らせたけれど。ちっさい頃に長老さまと一緒にあの木船に乗せられた、それがものの見事にひっくり返って沈んだことは、十歳になった今だって、朔はきっちり覚えている。頭が悪いのでローベルジュでは有名な朔も、溺れて死にかけたことなんてのは、なかなか忘れられたりはしないものだ。
 それにあの沈没事件は、朔の運命の分かれ道だったと言ってもいい。転覆した船と一緒に朔がぶくぶく沈んでいったという噂は、小さなムラの中をあっという間にかけめぐってしまったのだ。
 水の民というのは、運動は苦手だけど、泳ぎだけは大得意だ。本当に朔が水の民なら、赤ん坊でもない限り、あんなゆるやかな流れの水路でむざむざ溺れて死にかけたりはしない――そういう風にして、長老さまがひた隠しにしてきてくれた『朔が混血』だという事実は、なんとも間抜けな形で日の目を見ることになってしまった。
 水面を叩く櫂の間を、すうっと魚の影が泳いでいく。それに乗っかるようなのびやかな気分で、朔も水路に沿って駆けだした。

 色とりどりの果実を満載した小舟が、右手から足元の下に消えて、左手からぬうっと出てくる。水路の街だから至る所に小さなアーチ橋があって、ぽこぽこと道路が盛り上がっている。コンカンコン、と足音を立てながら、そこを渡るのが朔は好きだった。
 街なかは、朔の住んでるとことは訳が違う。だから街を歩いていると、色々と気付くことがある。例えば、若い人も、お年寄りも、朔とおんなじくらいの子供まで、皆似たような深緑のブレスレットを手首にはめているのだ。街であんなものが流行っているなんて、長老さまも、学校の皆も言ってなかった。やっぱり、ローベルジュは大田舎だな。……あの広々とした村を思って、朔はちょっとニッとする。故郷のことは好きだ。一時間でも離れると、すごく恋しくなる。
 ばかみたいに幅のある道、のんびり流れる牧童の歌、逃げ出して、目の前を横切る羊。どこに立ってても見渡せる大空。もぎたてのおいしいトマト……。ローベルジュには、ないものがたくさんあるけれど、その分、あそこにしかないものもたくさんあるのだ。
 交番の前でぼうっとしていた若い警官に例の老婆のことを聞くと、ちょっと変な顔をされたけれども、親切に道を教えてくれて、ご丁寧に地図までくれた。ご存命ではあるようだけれど、体調を崩したのかついに気がふれたのか、ここしばらくは家から出てきていないらしいよ、と噂話まで教えてくれた。体調を崩しているなら、お見舞いの品を持っていかねばなるまい。そうは言ってもお金はないので、ちょっとだけ寄り道をすることにしよう。

 ちょっと市街地を離れて、歩いていると汗が出た。なんとも良い天気で、それがどれくらいかというと、見上げると、空の青さに吸い込まれそうな錯覚を覚えるくらいだ。宇宙は真っ暗だのに、空が青く見えるのは、ざっくり言うと、地球をうっすらと空気の膜、即ち大気圏が覆っているからなんだそうだ。それが青く見えるのだとか。その証拠に、大気圏の外側から見たならば、地球はうっすら青く輝いている。ということは、朔が手を伸ばして、あの空気の層を手のひらでごそっと取っ払えば、青空の中にぽっかりと、朔の手の形に、暗闇の星空が浮かぶのだろう。……気が付くと、また立ち止まっていた。歩くのにも考えるのにも疲れて、朔はへとっと座り込んだ。
 街の建物は、すっかり背中側に行ってしまった。視線を下げると草原で、ふうっと嗅ぐと、豊かな草の匂いがした。目の前には、どこまでもどこまでも雄大な、群青の湖が広がっている。
 大きく息を吸い込んで、わーっと叫びたくなるくらい、ムーンレイクのほとりは静かな場所だった。
 どちらかと言えば、なんてもったいぶらなくとも、朔は運動オンチな子供である。それが十キロも歩いてきたのだから、両足はもう棒切れみたいだ。湖岸まで行って、腰かけて、あの湖に足を浸せば、きっと天にも昇る気持ちがするだろう。けれど、それはしなかった。膝を抱えて、朔は、じーっと湖面に目を向けた。
 ゆるく傾いた太陽は、今日も昨日と同じように、ムーンレイクのさざなみをきらきらと映し出している。多分、明日も、そして明後日も。その中を遊ぶ水鳥が、光を浴びて、水を散らして、一羽、二羽……。綿雲みたいな白い翼と、きゅっと日光を寄せたみたいな水しぶきは、見つめると眩しいくらいだ。ごろっと仰向けになって、腹いっぱいに空気を吸った。ひとりきりの湖畔の深呼吸は、実に甘くて、うまかった。
 ……ぴっと起き上がって、選りすぐりのとびきりきれいなものを選んで、ささやかだけど花束を作る。それから朔は、軽い足取りで市街の方へと戻っていった。





 地図に書き込んでもらった赤マルを頼りに着いた家は、それはもう本当に見事なくらい、おんぼろで怪しげな家だった。
 凄い力を持っているらしいのに、街でとかく変人扱いされている所以が、朔にも知れた気がした。老婆の家は市街地とはかなり外れたところにあって、もうもうと群生する背の高い雑草は、誰彼の来訪をかたくなに拒んでいるようにも見える。雨跡で黒ずんだ外壁を蔦がぴっちり固めていて、三角屋根からにゅっと突き出た煙突にまでぬるぬると先が絡まっていた。怪しげだ。ここに人が住んでるとなれば、誰でも怪しいと思うだろう。自分だって、毎日こんなとこに寝起きしていれば、摩訶不思議な力の方から寄って来たって変ではない。そうとさえ思えた。
 呼び鈴はどこだろう。それ以前に、どれがドアなのかもひと目には全く分からない。意味もなく地図と照らし合わせて、やっぱりここが老婆の家だ、と確信を得ると、意を決して朔はすうっと息を吸った。
「ごめんくださぁーいっ!」
 その時だ。ぬるぬるっと蔦が動いた。それと同時、ザザザァッと音と共に、長い草叢がひとりでに蠢いて、かと思うと風に薙ぎ払われるように、ぱかっと二手に倒れたではないか――!
「……」
 やっぱり、どこからどう見たって怪しい……声も出せずに固まっている朔の目の前に現れたのは、そこにひっそりと隠されていた、古めかしい扉であった。


「……ご、ごめんください……」
 随分威勢を弱めながら戸を開けると、中は薄暗かった。
 返事はない。誰もいない。そろそろと家の中へ入ると、背中の方でドスンッと強引な音がした。足元の明るさが消えた。ひっと声を上げて朔は振り返る。開けっ放しにしていたはずの戸が、ものの見事に、閉まっていた。
「……、……。」
 いい加減に膝が震えはじめる。よく見ると、誰もいないと思っていたけど、そうじゃない。ぬらっと闇が動いた。真っ黒な猫が一匹、エメラルドグリーンの目をらんらんと光らせて、朔の黒い目を覗き込んでいる。
「こ、こんにちは、猫ちゃん」
 猫は口を開けた。
「はい、こんにちは」
「――!?」
 しわがれた声だった。ふわぁぁああッ!? と叫びながら朔は勢いよく飛び下がった。がつんと頭を何かにぶつけた。本棚だ。どさどさっと分厚い本が降りかかった。また奇声を上げる。喋った猫は、呆れ顔して、ふいっとこちらに背を向けた。
 ばくばくばくばく心臓が鳴って、酸素を求めて吸い込んだのは、埃だ、もう全部埃だ。げほんげほんっと今度はせき込み始めた朔に、うるさいねぇ、とどこからか声がかかる。それはさっきと同じ猫の声。けれど、その辺でようやく、自分の勘違いに朔は気付いた。しつこくせき込んでいる朔の背中をさすっているのと、涙目になった顔の前に小汚いハンカチを差し出したのは、しわくちゃの、濃い肌色の人間の手だ――いつの間にか隣に座っていた小さな老婆に、三度目の悲鳴を朔は上げた。


「……体調を、崩していると、聞いたんです」
 そう言って、もう握り締めすぎて半ばくたっとなってしまった花束を差し出すと、老婆は目を輝かせた。
「おお、お、おおお」
 しわしわの手が寄ってくる。長老さまのそれとよく似た手ではあったけれど、そんなに勢いよく伸ばされるとなんとなく恐くて、朔は思わず体を引いた。むんずとそれを掴みとると、老婆は思い切り顔を近づけて、超高級料理の匂いでも嗅ぐような満たされた表情で、木のコブみたいな鼻から息を吸い込んでいる。そして、ばくっ、とそれに豪快にかぶりついた。
 ……もう完全に呆気にとられて、むしゃむしゃと花を飲みこんでいく老婆の顔を、朔はぼうっと見つめるしかない。
 そういう風に唖然とすることが、たったひと月前にもあった。ふわっと風に乗せた紙飛行機が、その夕方に限って、どこまでもどこまでも流れていくのだ。必死になって追いかけていたら、入るな! とでも言わんばかりの高い石塀にコツンと当たって、ひらりと地面へ落ちかけた。けれど、その時、掬い上げるような突風が背中の方から吹き付けて、あっ、と思っている間に、舞い上がった紙飛行機は石塀を越えて向こう側へと飛んでいってしまった……
「うむ、これは良い。精気がつくね。良い物を食わせてもらった」
 舌なめずりをしながら、老婆はにやりと笑った。
「おばあさん、あの」
「『夜の帳の、降り立つ庭は、行けど、行けども、夜は夜……』」
 朔の言葉を遮るように、老婆は突然それだけ言った――なぜだろう、その時、節をつけて老婆が呟いたその言葉は、朔の中に、とても深い印象として刻み込まれていったのである。
 老婆は閉じていた目を開き、ふんと息をついた。よく見れば、はっとするほどに、濃い藍色の瞳だ。吸い込まれてはいけない、と朔はぎゅっと拳を握った。
「おばあさん、不思議な力を持ってるって、本当ですか?」
「さあ、どうだろうねぇ」
「おばあさんは」
 朔は少しだけ声を潜めた。
「太陽をなくすことが、できますか」

 ――それは彼女の、小さな、小さな願い事。





 長い沈黙があって、すると、老婆は、悲しい顔をした。
 ちくっ、と、些細な痛みが、朔の胸に生まれた。口にしてみて知ったのは、転んで擦った傷口に、風のしみるような切なさだった。『あの子』がそういう痛みを伴いながら自分にお願いをしたのだと、朔にはようやく知れた。あれは、朔と違って聡い子だから、拒絶されたときの苦しみも、きっと考えていたのだろう。朔だって、こんなこと、ばかなことだと、本当はどこかで分かっていた。……でも、
「……太陽は嫌いかい?」
 その風変わりな老婆のような人が、受け止めてくれることを、どこかで同じだけ期待していたのだ。
 どうにも心は正直で、諭すような問いかけは、ふっと琴線を揺さぶった。老婆の片頬を照らしている光の方を朔は見た。埃の被っている曇った窓の向こうには、家の内側を窺うように蔦が一本はみ出していて、その奥に、遠くに、燦々と陽光の降り注ぐ大きな湖が見えていた。湖面がきらめいている。水鳥たちが浮かんでいる。ムーンレイクだ。今は、昼の光の湖だった。
「嫌いじゃない、です」
 声は少なからず震えていた。
「ぼくは、お昼が好きです。赤く熟れた、お日様の子供のトマトも好きです。長老さまのお家のあったかい縁側で、昼寝をするのも大好きです。大好きだけど……、でも……」
 ……声を詰まらせた朔の前で、老婆は笑っていた。
 黒のローブを頭から降ろすと、後ろで結われた銀色の髪が現れた。つっと目をやると同時に、窓にかかっていた蔦が、しゅっと引っ込んで隠れてしまった。パンパン、と手を叩いた。俯いてた朔がふっと顔を上げ、見下げるくらいの老婆の肩に、ぴょこんと黒猫の飛び乗るのを見た。
「さぁ、貰ってしまったからには、教えてやろうかえ、あんたの企ての顛末を。のう、『朔』や」
「え?」
 怪しげに微笑む老婆の肩で、黒猫の瞳がしゅっと細まった。すぅっと背筋が冷えた。
「あ、あの……なんでぼくの名前……?」
「朔……ついたち、北の方角。なぁんにもない、満ちのはじまり。そして、終わり」
「え、え?」
「朔や。良い名だ。よく来たね。あんたの望みは、」
 顔を寄せ、しわくちゃの手で朔の掌を包み込み、老婆は静かに言った。
「きっと叶うよ。案ずるなかれ」
 朔は瞬きをする。
 その手がよけられた時、朔の手の中に残っていたのは、ムーンレイクの街でたくさんの人がつけていた、あの『深緑のブレスレット』だった。





   
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