切って落としてしまいたくなる。己の鈍足が恨めしい。
 青褪めた主人が立ちあがり何かを言おうとする姿を見、すべてが理解できるほど、わたしは賢くもない。殆んど反射的に地面を蹴ったが間に合う保証もない。主人の声は続かなかった。だが少しだけ持ち堪えてくれた。彼が嘔吐し、よろめきながら二歩三歩、こちらへ歩みを進めたお陰で、わたしは間に合うことが出来た。崩れ落ちた主人の頭部が地面に叩きつけられる前に、辛うじて腕を差し込めた。
 一瞬だけ視線を交えた気がしたが、それも気のせいかもしれない。瞼を下したトウヤは、がくんと首を折り、わたしの腕の中で失神した。
 何が起きたのか、まるで分からなかった。
 先程、身体を抱いたときから、異様だった。ヒトの体はこんなに冷たかったろうかと思っていた。だがメグミが血はすぐに止まると、大丈夫だからと、言っていたから。彼女は傷を癒す力に長けていて、故に生命力のようなものにも敏感なはずで、だから。なのに。揺すってみると。ただぐらぐらと揺すられる。あまりに力無く、これ以上揺すれば、痣と血に紛れた左首の傷から裂け、首が千切れてしまうのではないかという、碌でもない想像が過ぎる。
 動かない。反応もない。
 揺することも出来なければ、人に聞こえる声を発せないこの喉では、名前を呼ぶことも叶わない。メグミのように癒す力もない、それどころか、まだ生きているかどうかすら、確認する術もない。
 死んでいるのだろうか。
 冷たいものが、喉の奥にひたひたと落ちて、全身の血の気が失せていく。
 ああ。
 まただ。
 また、わたしは、間に合わなかったのだ。







 長い夜の果て








「――アッハハ、あらやだぁ、ご主人死んじゃったのぅ? つまんなぁい」
 耳につく声が聞こえてきたのは、その時だった。
 首だけ見上げる夜空の中に、夜色の同胞が立っていた。隣家の屋根からこちらを俯瞰する、メスのゴチルゼル。昼間に闘技場の前で話をした個体だ。
「お昼のかわいいガバイトくんが必死に走っていくもんだから、何事かと思ったらぁ」
「……死んでしまったのだろうか」
「あらあら、そんなことも分かんないのぅ?」
 ひらひらとした下半身の装飾を翻しながら、ゴチルゼルはゆっくりと着地した。淑やかな動作で膝を折って、主人の顔を覗き込んだ。
「息、してるじゃなぁい」
「生きているのか」
「でも、もーすぐ死んじゃうかもね」
 彼女がけろりと言った。
 見下ろす、わたしの腕の中に、横たわる、段々白んでいくような顔、極めて細く呼吸をするものを、もう一度確認した。
 この重みさえ、もう幾許も無く消えてしまうと、言われたのだ。今。
 死んでしまう。いなくなってしまう。
 理解が出来ない。
 何故。
 こんなにも、あっけなく?
「ねえねえ、ノクタスのお姉さぁん、あたし、占いが得意なのよねぇ」
 星を見て占うの、と両手を広げ、ゴチルゼルが言う。発されたサイコパワーが瞬く間に広がり、あるはずのない星を降らせ、天との境が曖昧になる。星空に浮かんでいるかのような錯覚の中で、わたしは息を詰める。トウヤの白い頬にも、仮想の暗い空が映って、数えきれない星が瞬いている。あの夜みたいだ。あの夜、高い位置に嵌められた格子の向こうの夜空から、差し込む月明かりと星屑が、幼かった彼の頬に映っていた。べったりと濡れた頬が、きらきらと光っていた。座り込んでいた。きらきらと光を映しながら、途方もない顔をしていた。目の前に、いくつかの死体が折り重なるように伏していた。かすかに震える小さな右手が、力無くわたしの頭を撫でた。動かない左手は、いや、左手の形をしていたものは、熟れすぎて裂けた果実のようなグロテスクな色をして、二倍にも膨れ上がっていた。
『大丈夫だよ』
 ああ、雪ではないが、今日よりもまだ寒い夜だった。身体は冷えきって、しばらく震えが止まらなかった。主の目は茫然として、こちらには向かなかった。死体だけを映していた。何もかも諦めたような虚ろな口元が、ぎくしゃくと奇妙に、呟いた。
『僕の、せい、だから』
 そのあと、動かない目から、ぼろぼろと涙が零れはじめた。
 どんどん赤く腫れあがり、押し潰されていく気道から、懸命に振り絞るように、血を吐くような言葉を、何度も何度も繰り返した。
『お前のせいじゃないから』
『ハリは何も悪くないから』
『だから大丈夫』
『悪いのは僕だから』
『僕が悪いんだ』
『僕が』
『僕が』
 僕が悪いのだと。
 青白く固まった今のトウヤに、まだ言わせているような気がした。
 わたしは顔を上げる。
 待ちうけていた瞳が笑む。
「寿命とか、分かっちゃうのぅ。ご主人の余命、知りたぁい?」
 凍りつきそうな甘い声。吐息が触れそうなほどに迫ってくる。
 余命、なんて。
 いつだったろうか。あの夜に僕は一度死んだのだと、彼が言ったのは。だから残りの人生はおまけみたいなものなのだと、言いながら彼が笑っていたのは。
 わたしの腕の中にある、おまけみたいな人生は、急速に温度を失っていく。
 いいのだろうか。いいのだろうか、これで。
 これがお望みの結末か。
 ……そのあと、あなたがいなくなったあと、一体、わたしは、どうすればいい。
「……主人を、助けて欲しい」
 わたしがやっと零した言葉に、向かいはにんまりと笑みを浮かべた。
「あたしが? どうしてぇ?」
「わたしでは、何もできない」
「タダで助けてくれってことぉ?」
「何でも差し出そう、あなたが望むなら、この命でも」
「んっふふぅ、信心深いのね」
 いいのよぉ、昼間、あたしのご主人様もオトモダチも、皆楽しませてもらったから。そう言うと彼女は立ち上がり、念を纏って夜空高くを滑っていった。





 僕が悪い、僕が悪い、僕が悪いと、何度聞かされてきただろう。
 その度に、拒絶されたような気がして、互いの心が痩せていくことに、何故気付かなかったのだろうか。
 薄汚れた荷馬車に乗せられ、ホウガを出て、ココウへ向かう間。なにかを呪っているかのように、何度も何度も、こっちの耳が腐るほど、うんざりするほど、同じ言葉を吐き続けていた。最初は気を遣って話しかけてくれようとしていた大人たちが、気味悪がって、こちらへ見向きもしなくなった。それが狙いだったのだろうか、それとも『呪い』を掛け終わったのだろうか、それは多分、自分自身への呪いだったのだろうが。やがて口を閉ざしたトウヤは、持たされたたった二枚の写真を、朝から晩まで、何も見えない暗闇の中でも、延々と見つめ続けていた。
 わたしはずっと傍にいた。寒い日々だったのだが、彼の体温が移ってぽかぽかと温かかった感覚は、嫌にはっきりと覚えている。
 移動し始めて、五日目か、六日目だっただろうか。呟くのも飽きて、写真を見ながら泣くのも飽きて、右の親指を噛みながらじっと景色を見ていたトウヤが、ふとこちらへ顔を下して、こんなことを呟いた。
『ごめんな、ハリ』
 真昼間で、わたしが見上げる彼の背後に、冬にしてはくっきりとした日差しが降り注いで、逆光で影を落としていた。がたがたと荷台は揺れ続けていた。妙な色に枯れた唇が、見えない糸ですうと引かれて、ぱっくりと裂ける瞬間を、わたしは見た。みるからに偽物じみて微笑んで、彼はわたしから目を逸らした。
『僕のせいで、おねえちゃんから引き離されてさ』
 目を逸らして、白々と景色を眺めていれば、わたしが否定を示す術を持たないことを、彼はもう知っていたのだろう。
 ヒトと言うのは斯くも卑怯だ。
 あなたから受けた言葉の中なら、あの言葉が、わたしは一番悲しかった。





 ゴチルゼルがどこからか持ってきたモモンの実を噛み砕き、気を失ったままのトウヤに口移しで飲ませてくれた。
 傍に立ち尽くしながら、思う。自分の口では、こうは出来ない。顎を開くことも出来ないかもしれない。それどころか、主人が毒を食らっていることにさえ、まるで気付けなかった。三人の従者の中から唯一、傍にいることを選ばれた身として、何一つさえ、それらしいことは出来なかった。
 礼を言ってゴチルゼルと別れ、未だ意識を戻さないトウヤの体を横に抱えて、わたしは街の外を目指した。
 夜の荒野には、悪意を孕んだような冷たい風が吹き続けていた。ここ数日でも酷く寒い夜だった。わたしの半分ほどの太さしかないトウヤの腕が氷のように冷たくなると、岩の風下に座り込んで、ひたすら身体を擦り続けた。じきに温かくなったが、瞼は閉じたままだった。
 腕を擦りながら、わたしがもし、冷やかな植物態のポケモンでなければ、もっと温めることができたのにと、思わざるを得なかった。
 わたしが毛皮を持つ大きなポケモンだったなら、どこでも風を避けながらこれを包むことが出来たのに。わたしが炎を操るポケモンだったなら、火を焚いてやることが出来たのに。わたしがサボテンでさえなければ、せめて力ずく、抱きしめることが出来たのに。
 強い風が止んだ頃、もう一度主人を抱き上げて、わたしは歩き始めた。
 わたしがサボネアで、トウヤが子供だった頃、よく戯れに抱きついていた。けれどいつしか分別がつくようになって、わたしの棘が人間の皮膚を傷つけるのだと知って、わたしが抱き着くとトウヤは痛いのだと理解してから、そういうこともできなくなった。抱きつかなくたって、肌に触れなくたって、傍にあるなら、満足だった。手のかかる従者が増えて、わたしに向けられる時間は減って、掛けられる言葉も減って、それでもいつだって共にあれた。身に余るほどの信頼を感じられた。空も飛べない足も遅い、決して打たれ強くもなく派手な技も使えない、あなた好みの竜でもない、可愛げもまるでないろうに。可愛いと言って、愛してくれた。同じ時間を過ごし、同じ景色を見てきた。ずっと一番目の従者にしてくれていた。
 けれど、それが何故なのか、わたしには、さっぱり分からない。
 何故、愛してもらえたのだろう。わたしは。未だに。ざくざくと歩く世界は、少しずつ白みを帯びていく。夜が明けはじめる。身じろぎひとつしない主の、温かな寝息が、聞こえてくる。
 あの夜の。痛みを忘れたことなどない。走って、走って、走って、走って、月はどこまでも追いかけてきて、わたしの足では、とても間に合わなくて、何もかも遅くて、すべてが壊れて、あなたは一度死んでしまった。後悔なんて言葉で間に合う訳がないほどの、どす黒い感情に、わたしも埋め尽くされていた。それを溶かしてくれたのだって、あなただった。何でもすると誓った。あなたが本当に望むなら、何でも叶えてやりたかった。だから、あなたが死にたいと望むなら、止めることなど、できなかった。できないのだろうと思っていた。
 だが、あなたが消えてなくなる恐怖を、今、わたしは知ってしまった。
 声で。言葉で。伝えあえなくとも。主よ、分かってくれるだろうか。おまけだなんて言って、これでもまだおどけるか。怖かったのだから。あなたの首からどんどん血が流れ出していくことが、怖くて、怖くて、仕方なかったのだから。メグミが大丈夫だと言ったとき、あなたを抱きしめられたとき、心底ほっとしたのだから。あなたが崩れ落ちたとき、揺すっても動かなかったとき、彼女にすぐ死ぬと言われたとき、わたしは、もう、どうしていいのか、なにも分からなくなったのだから。
 あなたにとってはおまけでも、わたしは、この十二年間、本当に楽しかったのだから。
 もっと自分の生に執着してくれないか。
 せめて、せめてもう少しだけでいいから、真面目に生きようとしてくれないか。
 ……わたしが人間だったら、ちゃんと言葉で話せていたら、素直にそう、言えただろうか。そう考えて、息をつきかけたときだった。
「ハリ」
 風の音と聞き違いそうなかすかな声がする。
 顔をおろす。うすら開いた瞼の下、うすっぺらい瞳と、視線が交わる。
 ああ。
 生きている。本当に、主人は生きているじゃないか。
「気分はどうだ」
 問うたって聞こえやしないのだが、問わずにはいられなかった。半分も開いてない目の中で、瞳はわたしの歩くのに合わせて揺らめいて、まるで焦点も結べていない。意識があるのかどうかも怪しかった。けれど少しすると、彼はふと安心したように、頬を弛めた。
「温かいな」
 そんなうわ言を残して、また目を閉じてしまった。
 何がだ。こんなに寒いのに。まさか、わたしの体がか。植物態のこの体か。そんな訳があるか。しっかりしてくれ。……ああ、日差しか。遠く荒野の果ての果てから、真っ赤な火の玉が、じわじわとあがりはじめていく。
 温かいか。
 わたしは、あなたに触れているから、温かいよ。
 ……胸の奥から、喉を逆流するように、せりあがってきた苦しさを、溜め息に乗せて吐き出した。こんなに不器用な体なのに、一人前に涙腺だけは備わっている。衝動を噛み殺して、前を向く。広大な景色を覆っていた闇は、たったひとつの光の暴力に、尽く焼き払われていく。
 目を細める。
 許されるだろうか。
 こんな馬鹿げた運命に。
 あなたが望んだ結末に、抗うことを、わたしは許してもらえるだろうか。







 

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