10・嘘吐きだらけの街







 ヒガメからどうやって帰ってきたのか、いまいち思い出せない。歩いて戻ってきたのだろうか、ハヤテの背に乗ったのだろうか。どんな道を通ったか、どんな天気だったのか、どのくらい日数がかかったのか。何も覚えていない。ただ口を開いて、息を吸ったり吐いたりして、漫然と時に流されている間に、ここまで運ばれてきてしまった。
 途中にどこかの町へ寄って、それもどこだか思い出せないのだけれど、そこで血塗れの服を捨てた。何か買い物をした気もするし、何か食べたような気もする。そうでなかったかもしれない。湯に浸かったあとの倦怠感に未だに引き摺られているようで、引き摺られる間に、体に穴でも空いただろうか。思い出そうとするだけの気力とか、生きる活力みたいなものは、全部零れ落ちてしまったらしい。
 ひとつだけ、はっきりと思い出せるのは、太ったマリルを見たことだ。
 ボテボテと腹を揺らしながら歩いていくマリルを見て、ハシリイのことを考えた。『水陣祭』と呼ばれるマリルのお祭りを眺めながら、トウヤと『忘れられない人』の話をした。ミソラの胸には、記憶が消えても消えなかった長い黒髪の女性がいて、トウヤの胸には、忘れようとして忘れられなかった誰かがいる。忘れられない人、なんて不思議な共通項が二人の間を繋いだことが、ミソラはなんだか嬉しかった。運命的なものさえ感じていた。
 あれも、今思い返せば、なんと間抜けなのだろうか。
 トウヤが誰かを忘れたくてカナミと付き合うことにして、忘れられなくて、結局数日で別れてしまったのは、カナミがその人と似ていたからだったのだろう。そして、ミソラが黒髪の女性のことを思い出したのもまた、カナミを目にした瞬間で、それはカナミがその人に、つまり、――ミヅキに似ていたからなのだ。
 実は、あのとき、『全く同じ人』のことを、二人とも思い浮かべていたのだとしたら。
 確証はない。だが、――運命と呼ぶには、少し胡散臭すぎるのではないか?
 一体どこまでが偶然で、どこからが仕組まれていたのだろう。仕組まれていたとしたら、誰の仕業なのだろうか。太ったマリルが視界から消え去った頃、ミソラはその思いつきを話してみた。ヒガメを出てから殆んど口を利いておらず、声をかけると、トウヤはビクリと肩を跳ねさせた。久々に面と向かった彼はかなり憔悴して見えたが、話し掛けられてほっとしたのだろうか、一瞬だけ表情を弛めた。だが、ミソラが淡々とした口調で思いつきを説明すると、みるみるうちに顔を引き攣らせた。
 ミソラが言い切る前に、トウヤは背中を向けた。
 何日前のことだったろう。それから一言も声を交わしていない。だが別に、だからといってどうと言う事もないし、無視されたことに対しても、ミソラは何とも感じなかった。そんなものか、くらいにしか思わなかった。
 今、ミソラはココウ中央通りの、赤い屋根のハギ家の二階の、自分の部屋の、自分のベッドの上にいる。
 帰ってきたのは日が暮れてからだったと思う。晩飯も食わず、布団を被って蹲っているミソラを案じて、ハギとヴェルがかわるがわる上がってきた。トウヤは彼らに、帰路の途中で体調を崩したのだと、ただの風邪だろうから心配いらないと、平然とした声で誤魔化した。
 布団の下の暗闇で、ミソラは目を細める。
 こうやって、素知らぬ顔で、一体どれだけの嘘を吐かれてきたのだろうか。


 偽物だと、彼が言った光が、白々しく世界を包む。
 ヒガメで満月を見上げた夜は、もう遥か昔に感じられた。あれから何度か削ぎ落とされてやつれた月が、今も多分、どこかに浮かんでいるのだろう。ここからは見えないし興味もないが。千切り捨てられたはぐれ雲は怪しい光を帯びていて、窓からそっと目を動かすと、ポケモンの姿はどこにも見えない。連日の移動で出ずっぱりだった彼の優秀な従者たちは、ボールの中で休んでいる。
 迂闊だな、と思う。あるいは、諦めてしまったのだろうか。
 男は、床に敷かれた布団の上で、いつものように眠っている。
 ポケットで温め続けていたグリップの感触を確かめた。ミソラは静かに起き上がって、ベッドから降りて、男の枕元に膝をついた。
 軽い音を立て、果物ナイフの刃が弾ける。
 逆手に持ち替え、指を一本ずつ、確かめるように折り込んでいく。左手を添えて握り締める。肘を出す。腕を伸ばす。刃の上をきらりと滑る光を、しばらく眺めてから、ミソラはゆっくりと視線を下した。
 目の前に、朽ちかけた丸太のようなものがある。
 師匠と慕っていた男の喉元。
 突き刺してくださいと言わんばかりの、剥き出しにされた、細い首筋。
 異様な静寂があった。お膳立てでもされているかのようだった。鳥の声もない。大通りの喧騒もない。スタジアムのフィールド上で技がぶつかりあったあと、どちらのポケモンが立ち上がるか固唾を飲んで見守るときの、きりきりと張り詰めたような緊迫。穏やかな夜だが、一方で似ているとも思った。あの一瞬を引き延ばせば、こんな静けさになるのだろう。
 ココウスタジアムで、戦いを命じられ無意味に傷つけあうポケモンに、人々は歓声をあげる。どんなに平穏を望む善人の仮面を被っていても、その裏に存在する、戦いを煽り熱狂するあまりにも醜悪な顔にこそ、おそらく人間の真実がある。この枯れきった街の誰しもが、ナイフの切先みたいに、血を吸う瞬間を待ちわびて、ぬらぬらと艶めき続けている。今もきっと、この闇のどこかに身を潜めて、嬉々として、ミソラを見守っているのだろう。
 無言の観衆の肯定する中、これからミソラが挑むのは、まさに待ち望んだ瞬間である。
 ……息苦しさを感じていた。緊張しているとはとても言えない。ただ深く呼吸をしようとしても、うまく入らない。心臓はふた回りも大きくなって、やけに煩く拍動して、その分肺が押しやられるような錯覚がした。熱い。手のひらに汗が滲んでいる。内側から噴き出す熱に感覚が冒されていくようで、ミソラは一旦目を閉じた。
 冷静に、何度も何度も回想した、女の顔を蘇らせる。
 美しい黒髪。
 滑らかな頬。
 薄い唇、長い睫毛が。
 ……濡れていた。大粒の涙は次々と零れた。苦しかったろう。辛かったろう。あの光景に帰るたびに心はぐちゃぐちゃに踏み潰され、そしてそのたびに、また奮い立つような気がするのだ。
 あれからずっと、呪文のように、自分に言い聞かせ続けてきた。
 『あの人を笑顔にするために、僕は今日まで生きてきた』『あの人の恨みを晴らすことが、僕の使命だった』『唯一の存在意義だった』――自分の中に蘇ったものだけ、信じると決めた。それだけが、身を預けられるすべてになった。
 太陽のような笑顔を咲かせて、ぎゅうと抱かれて、柔らかく頭を撫でられる。事を成し遂げてミヅキと再会して、そうしてもらったら、どれほど幸せになれるだろうか。そこにはきっと、この胸を食い千切る辛さ悲しみ、それを補って、それでも余りある、死んじゃうくらいの幸せが、待っているに違いない。ミソラが思い出せたのはミヅキのあの言葉だけで、失った記憶の全てを取り戻した訳ではない。だから彼女がどんな言葉で自分を褒めてくれるのか、まるで想像もつかない。けれど、抱きしめられた苦しさや、胸いっぱいにひろがる匂い、髪の毛を通る指の温かさに事細かに思いを馳せると、それだけミソラは元気になれた。勇気が湧いてくるような気がした。もうすぐだ。道中飽きるほど念じた。もうすぐで、この両手が達成して、自由になって、あの胸の中へ飛んでいって。抱きしめてもらえて、褒めてもらえて。苦悩の日々は報われ、痛みは救われ、夢みたいな幸福が、やっと自分に訪れる。それがもう目前に待ち受けているのだと思うと、たまらなくなって、瞼を上げて、――けれど、そのとき、いつだってミソラは。
 フィールドの真ん中。
 あの、大雨の、ココウスタジアムに立っている。
 思い出した。そして、気付いてしまった。打ちのめされて、大泣きして、きつく抱きしめられた。雨は冷たくて、息苦しくて、あの胸は、どうしようもなく温かかった。自分が望んだ幸せは、あのとき与えられた『幸せ』の形をしていたものを、そっくりそのまま欲しているんだ。彼がそうしてくれたように、ミヅキに抱きしめてほしい。トウヤがミソラを、抱きしめたように。
 これから、彼を、僕は殺して、僕は、本当に、幸せになるのだろうか。
 ――それでも、そのたびに、隠し続けたナイフの柄を、ミソラは固く握り直した。
 もう、考えたって、どうしようもないことだった。ミヅキと笑顔で再会すれば、おそらく昔のことも全部思い出すだろう。そうすればたった半年程度の紛い物との思い出になんて、いくらでも唾を吐きかけられる。なかったことにできるはずだ。だから。なかったことにするしかないから。……だから。
 なのに。
 世界が滲んでいく。
 真ん中で、真実そうに冴えていた光が、じわりじわりとぼやけていく。
「ねえ」
 絶好の機会だった。顔も見ずに、振り下ろしてしまえばよかった。けれど、こっちはこんなに興奮して、上手に息も吸えずにいるのに、息をしてるのかしてないのかも分からないような静かな顔で、眠ったふりを決め込んでいる彼の卑劣な身勝手さが、癪で、癪で、たまらなかった。
「起きてくださいよ」
 ありったけの毒を込めて。ナイフを握りしめたまま、嘲るように、少年は吐く。
「起きてるんでしょ?」
 幾許の沈黙の後、諦めて、男は瞼を上げた。
 視線が交わる。やはり見なければよかったと、ミソラは少しだけ後悔した。茶褐色の彼の瞳は、いつも寡黙でしんとして、何を考えているのかよく分からなくて、けれど心の奥底まで見通されるような気がしていた。見られていると、たまに冷たくてたまに怖くて、でも、穏やかで優しいその目が、呆れたように自分を映すと、それだけで、その目に映っているだけで、何故か嬉しくて、仕方なかった。
 この目が好きで、その声が好きで、その顔が好きだと思っていたのに。
 好きだったのは、それらの向こうに、別の面影を見ていたからだったのだ。
「モモちゃん、どこにやったんですか」
 トウヤは返事をせず、刃先を垣間見もせず、ミソラの目を見つめていた。
「アチャモドールですよ。燃やしてなんかないんでしょ?」
 刃をちらつかせながら、口の端を吊り上げて子供が言う。
 対する男の、殺意を向けられて、死に瀕している人間の顔は、随分と落ち着き払っている。
 少し間を置いてから、遅々とした口調で、トウヤは説明した。おばさんの部屋の押し入れの、水色の衣装ケースの二段目。ヨシくんが着ていた服の中に埋めてある、と。叔母の息子の大切な遺品を、滅茶苦茶に掘り返して埋めたのか。思い描いて、子供は肩を揺らして失笑する。これが、師匠と慕っていた男の正体。
 とんだ『化け物』だ。ゆっくりと塗りたくるように、ミソラは呟く。
 トウヤの顔色は、ぴくりとも変わらなかった。
 何故だろう、強い言葉を吐けば吐くほど、追い詰められるような気がしていた。汗が背に滲むのを感じる。眉根を寄せて、ミソラは笑う。
「死者への冒涜ですか? 冷酷なんですね。さんざん優しい人ぶって、ずるい。すっかり騙されちゃった」
 挑んでも、煽っても。
 表情が動かない。
 悔しかった。カナミの話をした時みたいな動揺を、最後にもう一度見たかった。もっと醜く焦って、懇願して抵抗してくれさえすれば、幻想から解放されて、蔑んで殺してやれるはずだった。
 なのに、ミソラの悪意も、この凶刃さえ、まるで意に介してないような、大したことでもないような、何も感じていないようなその目を見ると、――本当に、本当に自分が彼にとって、取るに足らないちっぽけな存在だったのだと、突きつけられているような気分になる。
 この半年間、一生懸命に力いっぱいに生きて、たくさん楽しくて、たくさん喜んでたくさん笑って、たくさん苦しくてしんどくて泣いていたこの本物の半年間も、トウヤにとってはなんでもない、ただの茶番にすぎなかったのだ。
 どこかでカタカタと音がする。三つのボールはどこにしまわれているのだろう。彼らがどれだけ抵抗しても、開放スイッチを押さなければ飛び出すことも叶わない。抵抗する気のない主人の下で、彼らは無力だ。邪魔をするものは誰もいない。
 掌に力を込める。ぎちぎちと苦しげにグリップが鳴る。
「何かあります? 言いたいこと」
 最後の情けと共に、刃を下す。両手を添えたナイフを、彼の首筋に、ひたりと添える。息を整える。イメージした。血はどこまで噴き上がるのだろう。本当に、人間と同じ赤い血が、この首から流れるだろうか。どうにしろ、あとほんの少し力を加えれば。正義の光が突き裂いて。血管が弾けて。使命は果たされるのだろう。ミソラの殺したがった人は、まず間違いなく、死ぬだろう。
 悩んでいたのが嘘みたいな、呆気ない幕切れだった。
 自分より遥かに強いと思っていた人だったのに。
 長い沈黙が流れた。刃を押し当てても、トウヤはやはり、それほど顔色を変えたようには見えなかった。
 ただじっと、ミソラの目を見つめ続けて、抑揚のない声で、ぽつりと言った。
「後悔しないか」
 一拍の後。
 ミソラは噴き出した。
 刃を離して、身を仰け反らせて、火を噴くように笑った。
 暫く笑いが止まらなかった。ミソラが笑っている間、まだどこからかボールの揺れる音が、無情に響き続けていた。静かな夜だった。不気味な笑い声は闇を一層濃密にした。月明かりに映された四角い部屋の真ん中で、得物を握りしめたまま口を開き天を向き歯を剥き身を震わせ長い金糸を揺らめかせて笑い続ける子供の姿は、さながら異形のようだった。
 唾が飛んで光る。笑いながら目尻を擦る。後悔。彼の言葉を反芻する。後悔? 馬鹿だな、後悔なんて。
「今更命乞いですか。笑わせないでくださいよ」
 笑い混じりに吐き捨てる、するならもっと醜く、考え直せとか死にたくないとか、ちゃんと言ってくれればいいのに。最後の最後までこうだなんて、最早尊敬してしまう。はぁはぁと息をつきながら、やっと衝動を抑えて、ミソラはトウヤに向き直った。
 彼の顔を見たとき、笑って歪んだミソラの、美しい空色の目元から。
 つうと涙が流れ落ちた。
 後悔なんて。

「――するに決まってるじゃないですか」 

 小さく零すと。
 トウヤは、――驚いて、息を呑んだ。
 喉が上下に動いた。幾つも瞬きをして、夢から醒めたように、じわりと丸くなった目を見ると、堪らなくて、恍惚とした。美しき子供はうっそりと笑む。嬉しい。やっと動揺してくれた。なんだ、酷い言葉を投げつけなくても、こんなことでよかったのか。
「大好きでしたよ、あなたのこと」
 長いこと、言いたくて結局言えずにいた言葉が、胸の奥から自然に溢れた。
 つっかえていたものはもうないから。
 そうだ。
 あなたが思っている何倍も。
 ずっと、ずうっと、――私は、あなたが大好きだった。
 当てつけだ。でも、心の底からの声だ。張り詰めていたものが弾けて破れて、決壊した涙は止まらなくて次から次から流れ落ちて、けれどミソラは笑えていた。笑えていたと思う。綺麗に綺麗に微笑んで、ミソラが動かしたトウヤの表情を、しっかりとその目に焼き付けた。熱かった。身体中の細胞のひとつひとつに刻みつけられた感情が、発火して、黒く焼き切れていくようだった。
 泣き喚いてついていって、砂漠の真ん中で、バンギラスの死骸を見つけた。ボールや鞄を買ってくれた。いらぬ気遣いばかりされた。バクーダの黒煙から救われて、両肩を掴まれて怒鳴られて、訳も分からず怒鳴り返した。二人でテレポートして、空高くから畑の中に落っこちて、そうやって訪れた夏の街を、手を繋いで散策した。自慢げに的屋で銃を構えて、楽しげにお酒を飲んではしゃいで、アズサやタケヒロの前では全然格好がつかない彼が、ミソラにポケモンの稽古をつけているとき、グレンと試合をしているとき、うんと格好良く見えた。色々な事を教えられた。同じ家で、同じ部屋で、一緒に飯を食ったり寝たり起きたりして、おばさんに怒られるのを見て笑って、他愛もない話をして、二人で笑って、それで、それで――
 ――大好きだ。うんざりするほど大好きだ。あなたの毛の先まで愛していた。だって、『生まれた』ときからずっと傍にいてくれたんだもの、ずっと救われてきたんだもの。何度も冷たい言葉を浴びて、あたたかな愛情を食らったんだもの。そんなのずるい。あらゆるものを貰ってあらゆるものを奪われて、私は、あなたしかいなくて、ずっとあなたが欲しくて、あなたに、認めてほしかった。この感情は、ミヅキちゃんに向けるべき勘違いだったのかもしれない、でも勘違いだったって本当に、愛してしまったんだ、騙されてしまったんだ。あなたが、ミヅキちゃんじゃなくてあなただけが、『ミソラ』の、すべてだったんだ。
 楽しくて、しあわせで。
 ねえ、私は、あなたと、ずっと一緒にいるために、この部屋であなたと生きるために、がんばろうと思っていたのに。
「でも」
 ああ、きっと、不細工な顔をしているのだろう。最後に彼の網膜に残る顔なのに。だからせめて耳くらいには、美しい音を残したかった。涙と鼻水にまみれた、ぐしゃぐしゃの顔で、努めて綺麗に、か細い声を、ミソラはトウヤに聞かせてやった。
「……もう、終わりなんですね」
 この、夢のような、毎日は、本当に夢だったから、目覚めてからのすべての時間は、ぜんぶ、ぜんぶ、嘘だったから。
 ここで終わらせる。
 柄を、握り込む。トウヤが顔を歪める。ミソラは捧げるように両手を差し出す。同情するような顔をして、唇を噛みしめている。歯を食い縛る。嘘だ。そんなの。卑怯者。露程も思っていない癖に。そんな演技をしたって止まらない。大好きだったあなたを殺して、僕が癒えない傷を負うことが、本当は愉快で愉快で仕方なくて、今だって嘲笑っている癖に。
 騙されていたのだ。
 騙されてはいけない。
 月に雲が掛かったようだった、部屋がいっそう暗闇に沈んで、涙のヴェールの向こうで、刃の輪郭が曖昧になった。振り下ろそうとした手を、だから、一瞬、躊躇ってしまった。
 そのとき。
 白と、黒の手が伸びてきて、ミソラの小さな両手を、上から握り込んだ。
「え」
 大きな手だった。握り締められた。物凄い力だった。咄嗟のことで、腕を引くことも、振りほどくことも出来なかった、何も出来なかった、制御が効かなかった。また雲が切れて、ふわりと部屋が明るみを帯びたとき、切先が二重にぶれて見えた。ミソラじゃなくて、ミソラの手を上から掴んだ、トウヤの両手が、震えていた。
 あんなに巡っていた血が、時が止まっていた。
 愛した瞳の色が消えた。ぎゅうときつく、トウヤは目を瞑った。
 唇がひらいた。ずっと傍にあった声がした。

「許してくれ」

 一瞬だった。
 ひゅっと息を吸う音が、聞こえた。身体ごと引っ張られて、ミソラはトウヤの上に倒れ込んだ。
 視界の中央に、銀色の光が、
 皮膚に飛び込んで、ひとつになった。
 その瞬間をミソラは見ていた。

 思っていたとおりに噴き出した温かい液体が、頬にかかり、口の中にまで入った。

 苦くて甘い。人間の味がする。


 声にならない悲鳴が、砂漠の夜空を突き破った。






 
 
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