空が白みはじめていた。
 それに気付いたのは、部屋のベランダに続く大きな窓が、ガタリと揺れたときだった。
 ミソラは瞼をあげた。暗闇に溶けていたはずの景色が形を取り戻しつつあった。強く握りしめていた手は鬱血したように黒ずんでいて、ぎくしゃくと不自然な動きで開く。黒い柄の形にくっきりと、指に型がついている。手のひらを転がった果物ナイフの、鈍い銀色の刃が、目の前でしんと息づいている。
 眠っていたのか、そうでないのか、自分でもよく分からなかった。どのくらい時間が経ったのかも思い出せなかった。ただミソラが『ミソラ』として生き始めてからの半年とちょっとの間より、うんと長い間、ここに蹲っていたような気がした。
 何も考えずに、このまま閉じ籠っていたい。
 願う、というほど、強い感情でもない。黒く凪いだミソラの湖面にふと波紋を落としたのは、綿毛のような軽い思い付きだ。ミヅキの写真を見て、いますぐ駆けて行きたいと、爆発的に湧きあがったあの歓喜は、今や遠い過去だった。何故あんなことを思えたのだろうと、考えることさえできなかった。心は穴が空いてすべて流れ出ていってしまったすっからかんのようでもあって、たくさんの思い出の死体のようなものが、ぐちゃぐちゃと絡まり合って詰め込まれて腐乱臭を放っている、そんな風でもあった。
 内錠が、誰も捻っていないのに、ぐるりと回った。
 偽物の景色のようだった。そこに何の感動もなかった。
 窓が両側に勝手に開いて、風と光が、吹き込んだ。
 長い髪が煽られた。
 ふっと目を開けた。
 いくら立ち止まっていたくたって、その瞬間、蒼穹は、否応なしに、輝きを映した。
 重厚な足音だけが、部屋に侵入してくる。部屋の中央、何もない空間から、ぬるりと鼻先が突き出した。異空間から膜を突き破り歩み出てくるかの如く、全身がどこからか湧き上がってきた。テレポートとも違う。まるで最初からそこにあったものに、やっと色を塗ったみたいに。
 見知った姿だったが、声は出なかった。
 青い若竜、ガバイト、ハヤテの、身体には、べったりと、大量の血が、こびりついている。
 ……扉の横に、座り込んだまま、目を逸らすこともできなかった。死んだふりをしていた心がざあっと粟立って、一気に体中が震え出した。獰猛に鼻息を荒げるハヤテの目は、血走っていた。普段の温厚な色はまるでなかった。近づいてくる。太い尾が揺れ、座卓を揺らし、二つ並んだ湯呑が倒れた。すっかり冷めたお茶が机に畳に撒き散らされた。喉からやっと、声が漏れ出た。あ、あ。意味のない恐怖の声だった。ハヤテの、首筋、左胸、口まわり。濃厚な血の匂いがむせかえる。膝は震え足は立たず、ずりずりと部屋の隅まで退いた。殺気の竜が迫ってくる。ハヤテなのだろうか。顔など見分けがつかない。本当に、ハヤテなのだろうか。手からころりと落ちたものを、慌てて拾い上げた。前に構えたナイフの刃先は、大袈裟なほど戦慄いていた。こんなとき、相棒のリナの存在は、すっかり頭から消え失せていた。
 ミソラの、目の前で、ガバイトは立ち止まり。
 すぐに背を向け、屈みこんだ。
 『乗れ』と言われているなんて、理解できる訳もなかった。
 ……唸り声が聞こえる。混乱した頭が、無闇に狼狽する。ガバイトの向こうで景色が動いた。トウヤのボディバッグが浮き上がった。次いでコートとマフラー、彼の帽子がふわふわ宙に舞いあがって、ぐるぐる丸まって、リュックサックに詰め込まれていった。最後にジッパーがひとりでにしまり、荷物をまとめたリュックはガバイトの腕の中へと自ら浮かんで収まっていった。
 続いて、ミソラの土色の肩掛け鞄も『念』の力に浮かび上がって、乱暴にミソラの前に投げ出された。
 ドサリと重い音と共に、括りつけられた鈴が鳴る。リンと澄んだ軽やかな音色が、てんで場違いに部屋に響く。ミソラはそれを意味も分からず抱きしめる。
 夢、でも、見てるんじゃないだろうか。
『乗って』
 その証拠でも突きつけるように、誰とも知らない女の声が、頭の中に響き出した。
「ひっ……?!」
『ハヤテの、背中に』
 軽やかな少女めいた声。モモではない、対話など求められていない。こちらの思考を妨害して上塗りして、直接流し込んでくる。
「あ……、な、なんで」
『いいから、いそいで』
 振り返る竜の眼光が、怒っていた。狂猛な目が吊り上がっていた。口の端に、それを剥いて晒す牙に、黒く血痕が染みついていた。何か、生きているものを、食い千切ってきたならば、きっとこうだ、という感じに。
『はやく!!』
 その牙が、上下に開いて、咆哮した。
 凄まじかった。ミソラの知っている愛らしいハヤテの姿とは、あまりにも遠すぎた。腹の底まで震撼させる雄叫びは分かりあえるはずもない獣のそれだった。食い殺される、と思った。その時、己の意思にまったく反して、己の体が、動き出した。
 『サイコキネシス』によって浮遊させられた体はすぐにガバイトの背に乗せられ、その首筋に、見えない力で縛り付けられた。
 誰のものかも分からない、乾ききらない粘ついた血液が、頬に貼り付く。生々しい匂いが直接鼻腔を刺激する。離れたくとも動けない。身体はほとんど自由が利かない。まざまざと現実を思い知らされた気がした。泣きそうだったし、吐きそうだった。有無を言わさず、健脚の青竜は部屋の隅から助走をつけて、ベランダより高く飛びあがった。
 建物の向こうに一瞬見えたまっすぐな谷の稜線が、赤く輝いていた。
 夜闇が水に溶かされるように、東から順に、淡く優しい空色へ、段々と姿を変えていく。きんと冴え渡る空気が刺さる。髪が暴れ、息を詰め、気が遠のき、風圧に吹き飛ばされそうになっても、強大な念が、少年を竜の背に拘束する。
 いくらハヤテがスピードを上げて、指先が凍えて、人のもののように動かなくなっても、握りっぱなしの果物ナイフを、ミソラは離すことができなかった。





 髪を縛ると、どうやら気持ちが入るらしい。
 長い黒髪を片手に纏め、結んだ唇からゴムを受け取る。一度捩じり、高い位置で纏め上げる、それもかなり乱雑に。はらはらと落ちかかる前髪を払い、よし、と気合を一声。真剣な眼差しで、対峙する敵方を見つめ――パン、と音が響くほど、ミヅキは勢いよく合掌した。
「いただきまーす!」
 そして、もうもうと湯気の立つ脂の浮いたラーメンを、男顔負けの勢いで啜り始めた。
 ……生卵を掻き混ぜながら、ゼンは目の前の光景を、今日も見なかったことにする。さすがに趣味が悪すぎる。というか、こちらが胃もたれする。
 朝食だぞ、朝食。恒例行事にも律儀に突っ込んであげるのは、イチジョウ隊長なりの優しさなのだろうか。朝食バイキング付きのホテルに滞在した時には必ず見られる光景だ。大皿二枚に山ほど食材をてんこ盛り、追加料金を支払ってまで晩用のメニューをがめつく要求。ミヅキの底なしの食い意地には、呆れた以外の言葉も出ない。
「毎食毎食、カビゴンみたいに食いよって」
「キャンプ中は抑えてるし、食べられるときに食べないと」
「そのうち本物のカビゴンになるぞ」
「やだ、隊長、それ本気で言ってます? 十年以上ずーっとこの体型ですよ、私」
「……本当か、ゼン」
「ええ、まあね」
 さすがに笑いを禁じ得ない。
「ほらぁ! ていうか隊長、人間がカビゴンになるって発想、めっちゃチャーミングですよね、見かけによらず」
「それが上司に対する口の利き方か」
 第七部隊名物になりつつある隊長コンビの『糠に釘』漫才が始まりかけたところで、ぺたぺたとスリッパを鳴らしながら男が食堂に駆け込んでくる。まだ寝巻姿のアヤノは基本的に朝が弱く、髪も寝癖でボサボサだ。
「ビックニュース! ビックニュースだよ、皆の衆」
「せめて顔を洗ってこい」「おじちゃん、おはよーっすー」
 麺を口いっぱいに頬張ったミヅキの稚拙な挨拶に、おはようございます副隊長殿、とにこやかに返しながら、飯も取らずにアヤノは席へ腰掛けた。
「ヒガメ滞在中の第一部隊から、たった今! 緊急通信が入ってな」
「ねえおじちゃん、その『ふくたいちょーどの』、って、内心バカにしてるよね」
「バカなんだから仕方ないだろ」
「第一から通信って?」
 誰も聞いてやらないので仕方なくゼンが促すと、白髪交じりの中年男は赤子の如く目を輝かせた。聞いて驚け、と勿体ぶる。元研究職員らしいと言えばまだ聞こえはいいが、ポケモンマニアの気質が強すぎるこの男のビックニュースは、十中八九が要らぬ情報、もしくはお伽噺の世界だ。溶き卵に垂らす醤油の分量の方が、ゼンもよっぽど関心がある。慎重に、慎重に……。よし、今日の調合は完璧だ。待ちきれないとばかりに艶めく白米の中央に窪みを開け、とろりと黄金を注ぎ入れる。
「昨日の深夜の話なんだが、彼らが滞在中の宿で、なんと――」
 傾いた眼鏡の奥の瞳が、リアクションへの期待に膨らんでいる。対するゼンの胸の内は、好物の味への期待に膨らんでいる。米と卵をさっくりと混ぜる。ドロドロにしすぎないほうが好みだ。程よいところで箸を止め、茶碗ごと口に近づける。
「なんと?」
「ラティアスが、ラティアスが見つかったって!」
 ほとんど噛まずに流し込もうとした卵かけご飯を、ゼンは危うく噴きかけた。
 ……一人で激しく噎せているゼンに、何してんの、とミヅキは白い目を向けてくるし、へぇ、とイチジョウは気のない相槌を返すばかりだ。二人とも興味がないらしい。ラティアスだよ!? と大興奮で繰り返すアヤノに、ぽりぽり漬物を食みながらイチジョウはしけた面を向ける。
「あのポケモンだろ、前に科学部が捕獲したが、まるで役に立たなかったって言う」
「それはラティオス、こっちはラティアス! ああもうこれだから実務部は……じゃなくて、やっぱこの辺に所縁の無いレアポケは知名度低いよねえ、そうだよねえ」
「あ、別のポケモンなんだ? そういえば一匹取り逃したんだっけ。でも似たような性能なんでしょ?」
「似た性能かは調べてみないと分からないけどね。ラティオスとラティアスは、例えばバルビードとイルミーゼ、プラスルとマイナンのように、互いに対をなすポケモンだ。片方だけだと役に立たなくても、両方揃えれば、真価を発揮するかもしれない」
「んで、捕獲できたの?」
 半分涙目になりながら咳き込み続けているゼンが一刻も早く聞きたかったことを、やっとミヅキが聞いてくれた。皆が興奮しなかったことに少し冷静になったのか、普段の調子に戻り始めたアヤノが、それがねえと苦笑を浮かべる。
「残念ながら取り逃したようだ。……と言うよりは、既に捕獲されていた、という方が正しい」
「個人のトレーナーにか」
 ようやく興味をそそられたのか、イチジョウが微かに眉根を寄せた。
「あのクラスのポケモンを従えられる個人のトレーナーが、この田舎にもいるものだな」
「怪しい。ホントに個人? レンジャーとかじゃなくって?」
「レンジャーか、あり得るね。連中も研究機関だ、あんな希少な能力のポケモン、喉から手が出る程欲しいことだろう」
「どちらにしろ、トレーナーの保護下なら、盗賊でない我々は手を出せない」
「そこがね、面白いんだよね」
 腕を組んで、分かりやすい悪い顔で、アヤノが笑う。
 ミヅキに回された水でようやく落ち着きを取り戻したゼンは、その言葉に、もう一度血の気を引かせることとなった。
「盗賊なんだとさ、向こうもね。……まあ、宿に侵入されたってだけで、何も盗られなかったらしいけれど」


 ラティアスのステルス能力を用いて部屋に潜んでいた男性に、第一部隊員の手持ちポケモンが気付き勝手に強襲、怪我を負わせたものの犯人は逃亡。何も盗られておらず、物色された形跡もなく、侵入目的は不明。隊員が暫く捜索したものの、発見には至らず。金銭被害がなかったこと、翌朝から次の遠征先への移動を控えていたこともあり、深夜中に捜索は打ち切られたのだと言う。
 ただ、隊員たちが寝入った後に旅館内を警戒させていたクロバットが、明け方に何者かに襲撃され、瀕死の重傷を負っている。二件の関連性は不明であるが、目撃した別の旅館客の証言によると「暗闇から突然湧き出てきたガバイトが『逆鱗』でクロバットを攻撃した」とのことだそうだ。トレーナーは見当たらなかったが「ガバイトがトレーナーベルトを装着していた」という情報もあり、第一部隊としては「リューエルに恨みを持つ同一トレーナーの犯行ではないか」として、犯人の追跡を特別任務として組み込んでもらうよう、本部に願い出ているらしい。


「ねえ、ヒガメとココウって、近いの?」
 朝食後、ロビーに集合し待機しているところで、ミヅキが問いかけてきた。彼女の発想はいつだって突拍子もないが、ぞっとするような鋭さもある。近いっちゃ近い、と曖昧に返すと、何やら神妙な面持ちで少し悩んでから、こんな話をゼンに聞かせた。
「こないだの報告書。レンジャーユニオン、サダモリ教育長官のルカリオを倒した優秀なトレーナーが、ココウにいるって」
 朝食時よりきちんと結い上げられた、艶のある黒髪。今日はヒビでの害獣捕獲任務の決行日だ。リューエル、と金色の刺繍が縫い付けられた腕章を装着しながら、ゼンは努めて、真顔を作る。
「ああ、そうだった」
「そんなトレーナーだったら、ラティアスも扱えるのかなあ」
「どうだろうな」
「あれ、ちょっと気になって、あの後調べてみたんだけど……」
 横で靴紐を結んでいたイチジョウが、立ち上がり、二人に顔をやった。ミヅキは彼にも、珍しく真剣な眼差しを向けた。
「ココウってど田舎だから、駐在レンジャーいなかったんですよ。いたんだけど、駐在所自体が十年以上前に撤退してる。けど三年前になって、突然戻って来てる」
「三年前……件のバンギラスの事故の時期か」
「そうです、そして」イチジョウが出したポケモンの名前に、ミヅキはあからさまに渋面を浮かべた。けれど退かなかった。「ワタツミでラティアスを取り逃した時期とも重なってる」
「……。なるほど、豊かな想像力だ」
 一蹴しようとしたイチジョウに合わせて、ゼンも笑った。部隊全員集合したとの報告を受けて、イチジョウが歩き出した。ミヅキはむっとして、ゼンをひと睨みしてから、つかつかとイチジョウを追いかけた。
「『サダモリ アズサ』。現在のココウ駐在レンジャーの名前、なんと十八歳の女の子! しかもサダモリ教育長官の娘ですよ? レンジャー訓練学校をトップ成績で修了した金の卵を、本部やその周辺でなく、何故あんな田舎の駐在に? ねえ、これって変じゃない?」
「レンジャーと我々の間には、不干渉の了解があるんだ、副隊長にもなって知らんのか」
「干渉したいのはレンジャーじゃない」
 『バネブーじゃないバネブー』よ。ころりと、軽やかに紡がれた言葉に。
 ゼンは黙って息を呑んだ。
 冬に入ったのに、強い日差しだ。屋外に出ればかんと光が降り注ぎ、金の刺繍を煌かせる。女は隊長の横へつき、顔を見上げる。その双眸はいつになく、太陽のようにぎらついている。
「ああ、気になってきちゃった。隊長、これが終わったら、次の出動はキブツなんですよね? 帰りにココウにも寄りませんか?」
 きっと面白いわ。
 不敵に微笑む。女の唇には、いつだって魔力があった。





 ヒガメを抜け、周辺の荒野に辿り着いた頃には、朝日が昇り始めていた。
 ギャッ、と突然ハヤテが叫んだ。右往左往とした歩みが全速力に変わった。その時にはもうサイコキネシスの束縛もなく、急激な速度変化に対応できず、ミソラはハヤテの背中から転げ落ちてしまった。
 からからと、刃が出たままの果物ナイフが、目の前を転がった。その向こう、ハヤテが土煙を上げて走り込んだ灌木の根元に、褪せた緑が座り込んでいた。
 刃を畳んで、ナイフをポケットに隠した。ずっと背中に跨っていたし、その前は寒い部屋でずっと座り込んでいた。両足に冷たい疲労を覚えながら、不確かな足取りで、ミソラはそちらに向かい始めた。
 一歩ずつ、乾いた地面を踏みしめながら、様々な想像を巡らせていた。
 飲み物を買いに行くと言って、財布も持たずに出ていった。酔っていたトウヤは戻ってこなかった。血塗れのハヤテが、トレーナーベルトを携えて、部屋に戻ってきた。荷物を纏めてミソラを乗せて、逃げるように、宿から、町から、走り去った。
 あの血が、ハヤテ自身のものでないとすれば。誰の血なのかは、二つ推測することができた。
 ざり、ざり、と踏みしめる。重い足取りがけれど確かに、身体を、あちらへ、運んでいく。ハヤテが鳴いている。ハヤテらしい、甘えた鳴き声を上げている。ひっきりなしに、いつもだったら、うるさいと怒られてしまいそうなくらいに。透過していた翼が現れて、オニドリルのメグミが、首を伸ばして覗き込む。座り込んで、じっと見下ろすハリの腕にも、掠れた血痕が残っている。
 それらの隙間から、投げ出され動かない人の足が、二本伸びている。
 ……様々な、想像を、巡らせていた。けれど。
 なんだろう、疲れ切っていた。心も、身体も、擦り切れ摩耗し尽くしていた。考えることをやめたかった。何もかも分からなくなっていた。自分が、どこに立ち、誰の傍につけばいいのか、自分が何を信念として行動すればよかったのか、有耶無耶になってしまっていた。
 ハリの傍らに、シャツの左半分を真っ赤に染めて横たえられた、真っ白な顔のトウヤを見たとき。
 何を、思えばいいのか、分からなかった。分からなかった、ただ。
 ああ、僕は、こうやって、こういう風に、この人を殺そうとしていたのだと。そこで、ようやく、はっきりと、すべてを、理解した。
 珍しく、色濃く疲弊を浮かべたハリの目が、ミソラを見つける。一歩、一歩、近づいてくるミソラが、やっとそれなりに近くへ来た時、ふいと視線を下して、トウヤの額へ、ぽんぽんと大きな手を乗せた。トウヤは動かなかった。瞼はぴったりと閉じていた。真っ白な顔や、首筋へ、彼の呪われた痣の色と、黒く固まった血の色が、嫌にはっきりと浮かんでいた。少し前、触れて喜んでいた髪の毛が、すっかり水気を欠いて枯れ果てて、指を通すだけで砂みたいにさらさら朽ちていくのではないかと、そんな幻想さえ浮かんだ。
 唸り、喉の奥を鳴らしながら、ハヤテがぼすっと鼻先を、彼の腹に突っ込んだ。二度三度そうして、男の体は揺すられるままで、ますます喉を大きく鳴らした。四度目に結構容赦なく、ドスンと一撃を決めたとき。眉間にぴりっと、皺が寄った。う、と潰れた声が呻いた。
 じわり、開かれた瞳は、死んでなどいなかった。いつもの茶褐色だった。
 ゆらゆらと、所在なさげに揺れてから、やがてはっきりと、目の前の泣きっ面を真ん中に捉えた。
「……ハ、ヤテ……」
 掠れて、途切れ途切れの、けれど聞き慣れた声がした。
 透明な朝日が差し込んで、彼らの足元を照らす。ハリに体を起こさせたトウヤが、ついに鼻水を垂らし始めたハヤテを力無く笑って、偉かったな、と頭を撫でる。メグミも、と。まっすぐな光が影を落とす。隣の木の、長く伸びた木漏れ日が、柔らかな風に揺れる。彼らの上で踊っている。朝焼けに荒野は、ちりちりと儚く輝いている。
 ミソラはその外に、呆然と立ち尽くしている。
 ハリが促して、トウヤがミソラの方を向いた。突然悪かった、と言いかけた覇気のない声が、姿を見るなり、喉で詰まった。
「お前、怪我してるのか」
 向けられた、あまりにも思いがけない言葉に、子供の目はふわりと丸まる。
「……え?」
 吹き抜ける風は、木々も緑も、トウヤの髪も、ミソラの髪も、無論平等に、揺らしている。
 はたと気づいて、自分の服を見、そして頬を撫でた。かさかさとした違和感を拭い取れば、ハヤテの首筋からミソラに移った、誰かの血の跡が、黒く乾いて零れ落ちる。着ていた白い服も、擦り付けたような汚れが至る所に付着して、酷い身なりになっている。
「……あ、ああ、そうか……そうだな、違うよな」
 その血がどこから来たのか、自分の勘違いにトウヤは気付いたようだった。無事なんだな、と問われると、無意識に、ミソラは頷いていた。生気のない顔が、綻んだ。長い溜め息を吐くと、また死体に戻るように、目を閉じた。かくんと首が折れた。慌ててそれを支えたハリが、もう一度丁寧に彼を寝かせた。
「良かった……。帰ろう。ココウに、帰ろう」
 うわごとのような声は、風に攫われて消えていく。
 ハリだけが、頷いた。ミソラは何も言えなかった。
 
 見上げると、あんなに大きかった月は、空のどこにもいなくなっていた。





 
 
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