僕は、あの人に騙されていた。

 タケヒロは僕の殺しに煩いけれど、あの人のことは大嫌いだ。酒場の化け物と呼んでいるし、顔も見たくない声も聞きたくないと言うし、話題を出すだけで不機嫌になる。いない方が良いに決まっている。

 アズサだって、特別仲が良い訳でもない。四人で彼女の家にいるとき、あの人とアズサは、よく言い合いをする。この間だってスタジアムで喧嘩をして、理由は知らないがチリーンを投げつけて本気で激怒していた。いなくなったらいっそ清々するはずだ。

 スタジアムの人達だって、嫌われてはいないけれど、深い仲の人がいるようではない。グレンとも、友達のように見せかけて、距離がある。互いを信用していない節がある。グレンは特に付き合いも広そうだから、友達でもなんでもない人が一人いなくなったところで、そこまで気にはしないだろう。

 ハリには、僕の手持ちじゃないなんて、酷いことを平気で言う。メグミはあまりボールからさえ出てこないし、まるで興味がなさそうだ。ハヤテだって、……厳しいあの人のところにいるより、僕の手持ちになった方が、幸せなはずだ。好きなリナとも一緒に居られる。

 カナミは、もう人の物だ。ハヅキもエトも、一年に何日という希薄すぎる付き合いだ。ハシリイの家の人たちも、あの人が来なくなれば、じきに忘れてしまうだろう。

 ハギと、ヴェルは。付き合いが長い。少しは悲しむかもしれない。けれど、あの家の人たちは、過去にヨシくんという子供を一度失っている。喪失することには、多少慣れている。それに、あの人は、ハギに未だに敬語を使っているくらい、つれない態度を取っている。心の距離が遠い、他人の範疇を出ていない。僕がきちんと家の手伝いをして、ハギの息子になってやれば、必ず傷は癒せるはずだ。
 
 ひとつずつ、潰していく。
 遠い町を思いながら、ひとつずつ、削り落としていく。
 あとは。あとは、誰がいただろう。
 あの人がいなくなって不利益を被りそうな人が、他にいただろうか。


 考えても、考えても、トウヤを殺してはいけない理由が見つからなかった。


 ボディバッグの中に、果物ナイフが入っているのを知っていた。
 油断させるために、電気を消した。寝ていると思わせた方がいい。リナはトウヤに慣れさせすぎてしまったから、多分手を掛けられないだろう。この時のために育ててきたが、残念ながら頼りにならない。だから自分がやるしかない。
 ぱちんと弾けて、刃が飛び出す。窓から差し込む月光に、切先は鈍く輝いている。
 このナイフを、あの首筋に、深く突き刺すだけでいいのだ。
 閉まったままの扉の横に、しゃがみこんで待機した。チャンスは一度。その扉が開いて、あの人が、二歩三歩、暗闇の部屋に、入り込んだら。飛びついて。仕留めきれなかったら反撃されて殺されかねない、胸よりは、首を。真ん中を、死力を尽くして、突き刺せば。不意をつければ、体格で劣る自分でも、間違いなく、殺せるだろう。
 短い柄を、両手で握りしめていた。
 光る切先は震え続けていた。
 部屋の隅で、座り込んで、空色の双眸を光らせたまま。
 標的が帰ってくるのを、ミソラはじっと待っていた。


 夜が明けても、トウヤは部屋に戻らなかった。





 酒に酔っていた。すぐに風呂に入ったから、余計に回っていた。慣れない長風呂でのぼせて、昼間の闘技場でのことも、薬の副作用もあって、正常な思考状態ではなかった。ミソラ相手に、誰にもしたことがない、妙な話をしてしまった。
 どれが原因かなんて分からない。ただ、色々なことが重なって、どうしようもなく、気持ちが大きくなっていた。
 ミソラを先に部屋へ戻らせて、すれ違ったリューエル隊員を追った。ボールを持ってきていてよかった。三つ目を選んで、音が鳴らないように解放する。メグミは姿を変えると言うより、体毛で自在に光の屈折を変化させる、すなわち『他人の目に映る己の姿を操作することができる』ポケモンだ。何かに擬態するだけでなく、『姿を消す』ことさえ、この能力は可能にする。メグミは自身の周囲、ある程度までなら屈折を操ることが出来る、その背に乗れば、トウヤはさながら透明人間の気分を味わえた。メグミの透過能力に紛れて危険地帯に踏み入った経験は、正直、一度や二度ではない。
「それでイチジョウが、第七に入隊希望の子供の件、第一の方から本部へ上げてくれるようにと」
「傍迷惑な話だな。それは第一部隊の職務か?」
 館内用の寝巻を着ている、腕章もしていない、知った顔でもない。二人組がリューエル隊員だと分かったのは、『イチジョウ』という名前、そして『第七部隊』という、それだけの単語からだった。メグミを後ろにぴったり控えさせながら、足音を殺して、トウヤは彼らの背中を追う。別に、気になる話をしていた訳ではない。部屋に入ってしまったら、すぐに引き返すつもりだった。
 だが、
「いや……イチジョウか。ここは恩を着せておこう。あの忠誠心は後々使える」
「どうですかね。忠犬も牙がボロボロなら、ただの穀潰しだ。第七はホウガの研究職くだりが多いですから、扱いづらい変人ばかりかと」
「しかも、副隊長が女ときた」
 ――まるで誘導されるように、話が転がっていくものだから。
 彼らが乱暴に扉を開け放ち、部屋に入った。
 扉が閉まろうとしたところへ、トウヤは体を滑り込ませた。
『やめとこう、トウヤ』
 なんとかついてきたメグミが、テレパシーで制止してくる。
『ハリも、言ってる。やめろって』
 音を立てて扉が閉まった。
 二人組が、部屋に上がった。後の一人が振り返った。手を伸ばした。戸の横に貼り付いたままのトウヤと、半分目を合わせながら――彼には壁しか見えていないのだが――、和室と戸口との間の障子を、ぴしゃんと閉じた。
 障子越しの部屋に、明かりが灯る。
 ……思わず息をつきそうになって、かわりに肩を落とした。トウヤとメグミがいる部屋の玄関と、二人がいる和室の間は、完全に障子で隔てられている。向こうの様子も分からないが、向こう側からこちらの様子も、これなら確認できないはずだ。こっそり外扉を開けてこっそり部屋を出れば、侵入がばれることもない。
 らしからぬ自分の大胆さに、今更に肝が冷える。とんだ酔っ払いだ。『ばか』、とメグミが伝えてきた。隣に寄り添う体温を感じながら、トウヤは声を出さずに笑った。
 リューエル隊員たちの影が、ほぼ同時に座り込む。おそらく座卓のある辺り。
「第七部隊の女副隊長ですか。あのワカミヤさんの御令嬢とか」
 年配に見えた方の声が、唾を吐きかける調子で返す。
「所詮女だ。母親と同じで見るものはない。率いるイチジョウも難儀なことだ」
「糞が付くほど真面目ですからね、彼。本部はお荷物を第七に押し込んでイチジョウに背負わせる算段でしょう」
「ハハハ。どれ、末端部隊とやらを見物してやるのも面白そうだ」
「おや、興味がおありで?」
 第一部隊の高慢ちきどもか、尊大なせせら笑いが目の前に浮かんでくるようだ。厄介ごとになる前に部屋を出た方がいいだろうか、寝静まるまで潜んでいようか。思考を遮るように、はやくでよう、とメグミが急かしてくる。薄ら光ったドアノブが、念力に捻られる。じわりじわりと、勝手に扉が開いていく。体温が離れる。メグミは廊下へ出たようだ。
「第七、現在はヒビのようですね。次の出動は……、キブツか」
「では、そこで仕事ぶりを見て……飲みにでも連れて行ってやるか。そのワカミヤという女も一緒に」
 心臓が飛び跳ねる。
 トウヤは足が動かない。
『トウヤ、はやく』
「おっ、いいですね!」
「上層部のお気に入りのようだ、あの忌まわしい女の血筋でもある。どんな生意気な小娘か知らんが、早めにへし折ってやるのが彼女のためだろう」
 仰け反るように影が揺れる。下品な笑い声が響く。
「社内報見ました? よく似てますよ。黙らせておけば華のある美女だ」
「ふん、なら……使いようはあるか。酌をするくらいの常識はあるんだろうな?」
『トウヤ!』
 メグミの声は胸をすり抜けていくだけだった。
 知らぬ間に拳を握っていた。
 握った拳が戦慄いていた。
「知っているか、お前」
 年配の声が嘲る。
 息を噛み殺す。喉が吐き出そうと力んでいる。思考が塗り潰されていく。
「その女、昇進のために、統括に股を開いたらしい」
 吐き気のするような声だった。
 ぷつんと、何かが、切れかけた。びくりと動いた肘が壁を打ったが汚い笑い声に掻き消された。右腰で大きく震えたボールがなけなしの理性を繋ぎ止めた。口を抑える。今度こそ、自分の衝動にぞっとする。ふざけるなと、馬鹿にするなと、叫び出しかけた、自分は、一体、何様なのだろう。何も知らないのに。彼女のことなど本当に何も知らないのに、けれどお前たちよりは知っているはずで、子供だった彼女の笑みが目に浮かび、写真で見た彼女の顔が目に浮かび、当然に知らぬ間に大人になったあの体躯が、昔自分のすぐ傍にあった姉の体が、闇の中で、白い肌を湿らせて、誰かの上で、揺れる姿が、
 ぶわっ、と、背筋に汗が噴き出した。
 ――違う、違う、ふざけるな!
「隊長、それは、流石に酷い。本当なんです?」
「直接聞いてみればいい」
「無理ですよ、イチジョウもいるし」
「そうだな、あいつは堅物がすぎるな。どこかで撒いて、女だろ、飲ませて潰してしまえば」
「こっちは華の第一部隊ですからね。逆らいも出来んでしょう、万一抵抗でもしようものなら……ん? どうした?」
『――逃げて!』
 高い声が頭に響く。
『クロバットがいる!』
 障子の向こうで、閃光が弾けた。
 風を裂く音が聞こえた。どんと体が揺れた、光が目を眩ませた、瞬間。
 右手から左上へ、おびただしい量の液体が、障子の上に猛烈に爆ぜた。
 どす黒く見えたが、違った。
 赤だ。
 白地に映える、鮮やかな、血飛沫、

 それが自分の首から噴き上がったのだと、トウヤは一瞬気付かなかった。

 ――ぐんと体が引っ張られた。『サイコキネシス』に引き摺り出され背後から強く抱えられた。足が浮いた。一斉に景色が流れた。視界左下から血の玉が狂い咲きながら廊下に散った。疾走する無色の翼が念を発し、突き当たりの窓鍵を破壊し、翼を畳み狭い窓を突き抜けた。冷徹な外気が頬を打った。空を見た。夜に覆い尽くされていた。そこに輝く、一際大きな満月の中に、闇の四翼が、躍り出た。
「来るぞ!」
 何もかも、理解するには、遅すぎた。そう叫ぶのが一杯だった。
 メグミが振り向けたのか、その姿が見えないばかりに、トウヤには分からなかった。クロバットが放った『エアスラッシュ』が、実体のない斬撃が、次々と、流星のように降り注いで、突き刺さって、痛みはなくて、おそらく庇われて、耳元で現実の音として悲鳴が上がって、制空を失った。まっすぐ落下していった。
 鈍い衝撃。地に投げ出され、すぐに立ち上がれたが酷い眩暈がした。ボールホルダーの三つ目を取り、振り返って。
 トウヤは息を呑んだ。
 赤と白。一頭の翼竜。暗闇の中でも鮮烈だった。横たわっているのは、トウヤが『最も見慣れない』、メグミ自身の、本当の姿だ。
「見ろ、ラティアスだ!」
 声は上空から。先の窓からリューエル隊員が、こちらを指さし瞠目していた。
「――ッ、」
 聞き返す暇などなかった。
「サイコキネシス!」
 指示に、再度メグミの『色』が掻き消える。天空で絶叫したクロバットが超能力に身を捩じられ、主人たちのいる窓へとぶちこまれた。トウヤは見えない従者をモンスターボールへ収納し、旅館からの死角へ逃げ込んだ。
 暗闇の細径。誰もいない。幸運だった。二つ目のボールから現れた背に、すぐさま飛び乗った。
「町の外まで行ってくれ」
 頷き、駆け出す。
 夜の街を、疾風になって、ハヤテは全力で走り続ける。
 つい数時間前、あれこれと言いながら二人歩いたヒガメ大通り。昼夜反転した景色が高速で逆再生されていくと、あの呑気な時間さえ無に帰していくように思われた。やはり特別な大会でもあるのだろうか、深夜と思えないほど通りは明るく、人と獣に溢れていた。若竜は我武者羅に駆け抜けていった。至る所で悲鳴があがった。水が油を避けるように人波はきっぱりと裂けていった。幾つもの視線に晒された。だが追っ手は見えなかった。無数の街灯やネオンに紛れて、空高くから、月だけが彼らを追っていた。どこまでもどこまでも執念深く、彼らの背中を追い続けていた。
 キブツの時も、そうだった。盗み聞きをして挙句追われた、ハヤテの背中に飛び乗って、町を逃げ惑い続けていた。あの時。何を聞いたんだったか。ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられた思考の渦に手を突っ込んで引っ張り出すのは、ああ、あの声だ、あの残酷な男の声だ。
『あいつもまさか、実の子供に殺されるとは夢にも思っていなかったろうな』
 アヤノが口にした、『悲惨な死に方をした』ある研究員の末路。
 ――大好きだった父さんは、おねえちゃんに、殺された。
 冬の夜の風は苛烈に吹き荒んで喉を押し潰さんとする。しがみつく、励ますようにハヤテが鳴く。強く目を閉じると、瞼の裏に克明に浮かぶ。最後に見た顔。ずっと覚えている。片時も忘れたことはない。月明かりの下、冷たいコンクリートの内側で、錆び付いた鉄柵の向こうで、笑いながら泣いていた、泣きながら、笑っていた。くるりと背を向けた。軽快な足音は、みるみるうちに遠ざかった。十歳の僕があの日、あの白い手を握ったから。だからもう二度と会えなくなった。いくら呼んでも。もう届かない。呼んでも、呼んでも、呼んでも、呼んでも。
 おねえちゃん。それでも、それでも、僕は。
 ココウを発つ前、アズサから社内報のコピーを受け取ったとき、その必要もなかったと感じた。十二年越しに見た姉の顔は、十二年前に最後に見てから、毎日毎日欠かさずに、思い描いていた通りだった。思い描いたその通りの、美しい人になっていた。インタビューの内容は、大人しかった昔の印象とはけれど一線を画していて、人は変わってしまうのだと思って、僕の知っているおねえちゃんではないかもしれないと、もしかしたら父さんを殺してしまうような人になったのかもしれないと、狂ってしまったのではないかと、僕のせいでと、一瞬、ほんの一瞬、頭の中に過ぎっていた疑念は。今まさに、トウヤの体から、風に剥がされて落ちていくのだ。
 そんな訳がない。いっとう正義感が強くて、曲がったことが許せない人だった。あんな連中より、アヤノさんより、僕はずっと近くで見てきた。たかが昇進の為に男に跨るような人じゃない。父さんを殺したりできる訳がない。
 そうだ。僕は何を疑っていたんだ。
 ワカミヤミヅキは、絶対に、親を殺せるような人じゃない!
 ヒガメ入口の門を抜けると、殆んど人目が消え失せた。小路に入りハヤテが止まると、急に力が入らなくなった。ずるりと滑り落ちた石畳の冷たさは皮膚の奥底まで刺すようだ。息が苦しい。心臓が大袈裟なスピードで鼓動するのが耳につく。動けないトウヤにハヤテはか細い鳴き声をあげて、しきりに首を舐めようとした。鼻先を制し、ひどく動揺する従者に健全なところを示そうと、起き上がるために左腕をつくと。
 気付かぬ間に混濁しかかっていた意識が、ふと一点に集まる。
 左の袖。……こんな、色の、服だったろうか。
 地面についた手を上げると、くっきりと、石畳に手形が残った。人でない色をした掌から溶け出たような粘ついた黒が、幾重に糸を引いていた。生臭い鉄の匂いが鼻の奥まで充満していた。顔を上げた。喉を鳴らしながら擦り寄ってくるハヤテもまた、汚れていた。首から胸元にかけて、黒ずんだ液体がべったりと塗りつけられていた。月光に、ぬらぬらと、輝いている、これは。
 血だ。ハヤテが血塗れになっている。
 目の前の光景が何を表しているのか、何を見ているのか、分からなかった。それが何なのか考えて、はたと思い当たって、小刻みに震える手を、恐る恐る、添えてみれば、生温かい粘性の流体が、――切り裂かれた左首から。まだとくとくと溢れ出ていた。
 左の袖を染め上げたのも、ハヤテの半身を塗り替えたのも。
 障子に爆ぜた血飛沫を、その一瞬前に耳元で鳴った風音を、頭の中に蘇らせれば。
 嘘だろ、と、乾いた笑いが出そうになる。
 痛みがないのが恐ろしかった。酒でもなんでもなく、あまりにも強力すぎる、薬の鎮痛作用の賜物だ。
 一つ目と三つ目のボールが猛烈に暴れている。解放されたメグミはまた竜の姿だった。人目がないか慌てて確かめたのはトウヤだけで、咎める間もなく傷口に触れて、両手から淡い光を放出した。『癒しの波動』か。温かい息吹が流れ込むのを感じながら、彼女の背中を覗き込む。白を更に漂白したような清らかな首の背に、数本の切り傷が走っている。
「平気か」
『血はすぐ止まる。大丈夫。大丈夫よ』
「僕じゃない、お前だ」
『……ふふ』
「痛いだろうに、先に自分を」
『めぐみも、怒るよ、トウヤ』
 僕はそこまで痛まないから、と伝えようと顔を上げて、ちくりと胸を刺された。本来の形をしているメグミは、メグミが別の形を『見せている』時より、ずっと表情が豊かに見える。大きな瞳が歪んでいると、年端もいかない子供のようだ。
『人間って、不便ね。皮が薄くてやわらかくて、すぐに血がでる』
「従者でいるのが嫌になったか?」
『めぐみはまじめにお話してるの』
「僕も真面目に言ってるんだ」
『……。死んじゃうかと思った』
 呆れ気味に吐き出された思考に、反射でまさかと言いそうになった。だが、自分を見下ろす三匹の、それぞれの表情を見ていると、じわりと実感がこみあげて、トウヤは声を失った。
 今、危うく死ぬところだった。……いや、メグミがいなければ死んでいたのだ。
「……ばかなことをしたよ」
『反省した? 謝る?』
「うん、ごめんな」
『ちゃんと、ハリに謝って』
 メグミが身を離すと、ハリはいつもの仏頂面で、のそりとトウヤの前に立った。主人に何も言わせる前に、大きく腕を振り上げた。
 ぶん――、と、空を切る音が聞こえるほどの勢いで、巨大な手刀が降り注いだ。
 がつん。狙って棘を当てられた。星が散るような衝撃だった。悲鳴も上げられないトウヤの前に、それから膝をついて、大きく手を広げて。
 ぎゅう、と、全身で、主人の体を抱きしめた。
 ハリがサボネアで、トウヤが子供だった頃、よく戯れに抱きついていた。けれど片や進化して、片や無駄に大人になってから、そういうこともしなくなった。感情の読みづらい長年の連れの、疲れて呆れて怒って悲しんで安堵した、とてつもない溜め息が聞こえた。考えていたよりずっと事が重かったのだと、そこでようやく理解出来た。「悪かった」呟く声は掠れていて、聞いて何を思ったか、締める力が強まった。腕の棘が背に食い込み、ぎりぎりと骨が軋む。ハリなりの叱責だ。自業自得で死にかけた仲間まで危険に晒した、お前は駄目な主人だと。それでも身を案じてくれる、ハヤテも、メグミも。
 腕を回して、その背中を慰めると。
 自分がサボテンであることを忘れているのかと言うくらい、容赦なく体を締めつけてくる。
 痛かった。やっと痛みを感じられた。
 ……ああ、生きている。
 死にかけた。でも、逃げ切ったのだ。
 時刻は夜の天辺を丁度回ったかという所だろうか。ハリに解放されてからは、鋭い風がそのまま滲み込み、末端から徐々に感覚が奪われるような寒気がする。これからどうするべきだろう。あんまりな失血の影響もあろうが、脳に綿が詰め込まれているように、考えがうまく纏らない。
「顔は、見られなかった」
 ハリもメグミも頷いた。暗闇だったし遠かった。街中を走ったのは少し怖いが、ガバイトを連れている若い男と言うだけで、ヒガメからココウにすぐに辿りつけるとも思えない。そもそもだ。何も盗っていない、危害も加えていない、『酔っ払って、部屋を間違えて、あそこに座り込んでいた』だけだ。彼らに自分を追うメリットがあるだろうか。仮に捜索し始めたとしても、ココウのあの家を突き止めるまでには、かなり時間がかかるだろう。大丈夫だ。宿も、一応偽名を使っておいたし……、
 ……ぞっとして、男は目を見開いた。
 ミソラが。
 ミソラが、宿に残っている。
 主を取り囲み、冴えた夜空をバックにして、三匹が覗き込んでいた。彼らが同じことを考えていると、顔を見ればすぐに分かった。
「……ハヤテ、頼めるな」
 寄ってきたハヤテは甘え声を上げて、今度こそトウヤの首筋を舐めた。口元が血で汚れるのも気にせず、熱くざらついた舌を二度三度這わせると、顔を離した。向かい合う表情は引き締まっていた。大きく頷く。精悍な目つきだ。いつの間に、こうも頼もしくなったのだろうか。
 トレーナーベルトを外し、一つ目のボールをポケットに捻じ込む。残りの二つをホルダーに携えたままのベルトを、ハヤテの胴に巻き付け、固定金具を通そうとするが、止まらない震えと、滑る血液が邪魔をして、なかなかうまくいかない。焦りと自分への苛立ちを、傍にしゃがむ案山子草の目が無意識に宥めてくれる。ハリの覗き込む反対側から、メグミが不安げに顔を見せる。
『めぐみも?』
「今はまだ騒ぎになってるだろう。落ち着くまではボールに身を隠していなさい。部屋まで迎えに行かないといけない、お前のサポートが必要だ。……夜が明けたら、もう少し外で合流しよう。ハヤテ、いいか」
『……いやだ』
 黄色の瞳を曇らせて、メグミは首を振った。
『めぐみはトウヤと一緒にいる』
「こんな状態の僕にひっついてるより、ハヤテといた方が、お前も安全だから」
『だって、トウヤが……』
「……大丈夫。大丈夫だよ」
 金具が通った、しっかり固定できていることも確認した。彼女がくれたのと全く同じ言葉を返して、それでも不安がるメグミの前に、ハリがずいと顔を出した。ポケモンだけに通じる言葉でメグミがいくつか鳴き声を零して、人間には聞こえない声でハリが返したようだった。二匹が揃ってこちらを向いた。無理矢理口角を上げようとした。寒さのせいか、口の端が微かに痺れている。
「それ以上見くびるようなことを言ったら、ハリに殴られるぞ?」
『でも……』
「……お前、」
 滑らかな毛並みの頬に触れると、大きな瞳が、はっとした。
「『ラティアス』って名前なのか?」
 彼らが叫んだ名を聞いて。
 きれいだと思った。無垢で美しいこの竜に、ぴったりのきれいな響きだと。
 姿を自在に操れて、テレパシーが使えて、おまけに『人の気持ちを感じる』力を持った、おそらく少し特殊なポケモン。なにもかも破壊する強力な熱線を吐けるのに、争いごとは極端に苦手だ。この不思議な従者について、知り得た情報はあまりにも少ないが。一つだけ確かに分かるのは、彼女はすっかり自分の友人で、信頼を置くに値する、大事な手持ちだということだ。
 丁寧に頭に浮かべた『気持ち』を、メグミは受け取ってくれたようだった。少しだけ悩んでから、ゆっくりと深く頷いた。
 ハリがすっくと立ち上がり、ハヤテが月へと、短く吼える。長い長い夜だった。
 

 去っていったハヤテを見えなくなるまで見送り、ハリが振り返る。立ち上がろうとするトウヤを制して、建物の向こうへと、小走りに駆けていく。退路の安全を確認するまで待っていろ、という事なのだろう。全く、どいつもこいつも主人に似ず、立派なポケモンが揃ったものだ。
 何事もなければいいが。ハリの遠ざかる背中を見ていると、急に孤独が押し寄せた。孤独が感情を膨らませ、襲い来る静寂が出口を塞ぎ、ぐるぐると情景は巡り続ける。男は顔を顰める。走馬灯とでも言うのだろうか、握っていた手のひら、冷たく錆びた鉄柵の感触。紙の上で再会した顔。闇で蠢く汗ばんだ肌。『見ろ、ラティアスだ!』、歪んだ目、傷つき果てた見知らぬ竜、血染めのハヤテ、血飛沫の華、躍り出た四翼の毒蝙蝠、月影、水の音、きんいろ、青い光、白い手のひら、『きれいですか?』、うっとりとした、あの微笑み、『赤銅色の月は、きれいなんですかね』――――
 ――ああ、
『きれい?』
 ――目を伏せれば、
『さあ……私は見たことがないから』
 ――思い出せる。可笑しいくらいに、よく覚えてる。
 並んでベッドに腰掛けて、声を潜めて、毎晩途方もない話をした。母のこと、父のこと。学校で愉快だったこと、辛かったこと。二匹のペットのこと。身近にいて、よく遊んでくれた大人たちのこと。悪さをしたこと。水溜りに足を突っ込んだこと。道端に見つけた名前も知らない花のこと。それから、将来のこと。
『でも、きれいに決まってる。だって、太陽の光から、この星が月を守っているみたいじゃない? それって素敵でしょう?』
 あのときは、頷いた。本当にそのとおりだと思っていた。
 だけど、あれだけは、間違っていたのだ。
 纏わりつく虚像を振り切るように、ハヤテ達が迎えに行ったものに思いを馳せる。ミソラは何をしているだろうか。リナと眠ってしまったろうか。長らく待たされて、不安がっていることだろう。自分が拾った子供だ。何故だか自分に懐いてくれて、いや、結局は自分が懐かせて、こんなところまで連れてきた。見知らぬところに置いていかれる辛さは、トウヤだって、痛いくらいに分かっていた。あの子を置いて逃げることなど、出来るはずもなかった。
 きっと大丈夫、なんとかなる。自分にしつこく言い聞かせ、昂る気持ちを落ち着けても。
 ……心臓はまだ、慌ただしい拍動を、続けている。
 自身が走った訳でもない、襲撃されてからそれなりに時間も経ったのに。背筋がざわつく。嫌な直感だ。乱れた呼吸や息苦しさは、なかなか静まる兆候もなく……それどころか。
 掌を、見る。
 人の色をした右手と、暗闇に沈む左手が、激しく痙攣しているのは、これは、寒さのせいだろうか。
 見上げる夜空は。
 燦然と、奇妙な輝きを放つ。
 大きな月が、『二つ』、並んで浮かんでいる。
 ――これは、まさか。
 引き攣った唇から、最早笑いも出なかった。何故気付かなかったのだろう。トレーナー失格にもほどがある。障子の向こうから飛んできた、首を切り裂かれた、あの技は。てっきりエアスラッシュか、エアカッターかと思っていたが。相手は毒の名手だった。もし毒の技だったとしたら、この状況は、さあ、どうだ。
 路地の向こうを覗き込むハリの背中が、やけに小さく見える。景色が二重にぶれている。軽快な足取りで遠ざかっていく少女が、またフラッシュバックする。届かないかもしれない。呼ばなければ。呼ばなければ。壁に肩を押しつけながら、なんとか立ち上がった。一歩、二歩。世界が歪む。闇が明確に手招いている。
「は、り」
 舌が痺れついていて、それだけの音しか出せなかった。
 振り返ったハリの、月の瞳が、大きく見開かれた。試合中にもないくらい痛烈に地面を蹴り飛ばした。震え掻き毟る胸が苦しい。急に胃液がせりあがった。吐瀉物が音を立てて流れ落ちた。たたらを踏んで膝が崩れた。頭を打ち付けなかったのは、ぎりぎり滑り込んだハリが、その身を抱きとめたからだった。
 本当に、僕には勿体無いくらい、良いポケモン達なんだ。
 まるで状況にそぐわないことを思って、そのまま、トウヤは意識を手放した。




 
 ああ、

 モモは、これよりもまだ、もがき苦しんで死んだのだろうか?





 
 
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