4 窓から見上げる夜空には、橙色の月がぽかんと浮かんでいた。 部屋に戻ると、広げた着物が転がしてあるままだった。館内用の寝巻が準備されていたが、二人でああだこうだと言いながら正しい着方も分からなくて、結局自前を着ることにしたのだ。たたんで元の位置に直して、一息。静かだ。自分以外に動くものがない、なんの音もしない空間にいると、まるで時間の流れに取り残されているようで、少し心細くなる。そのまま布団に転がってもよかったが、とりあえず座卓の前に座ってみた。ポットと急須。お茶がある。帰ってくるまでに、いれてみようか。 飲み物を買ってくると言って、部屋にも戻らずにトウヤは行ってしまった。備え付けられているのを確認していたのに、二人ともすっかり忘れていた。 茶葉を入れて、お湯を注いで、湯呑を二つ。冷まさないと飲めそうもない。もうもうと煙立つ鏡面は深緑。お茶の真ん中に浮かぶ自分は酷く気怠げな顔をしている。のぼせたかもしれない。頬が熱くて、脳まで火照っているようで、眠気以上に、ふわふわと弛んだ気分である。酔っ払ったら、もしかしてこんな感じなのだろうか。まるで夢の中にいるようだ。 夢の中。 どこからともなく立ちのぼり、うねりながら消えてゆく、湯気を見ながら、ミソラは思う。 さっき、今の時間は、夢なんじゃないかと、思っていたけれど。 一体何が、夢なのだろうと。 どちらが夢なのだろう。今が現実だとすれば、殺さなきゃと言っている、僕の心は、夢なのかもしれないし、あっちが現実なのだとすれば、トウヤと二人で遠くまできて、笑いあって、おいしいご飯に満たされて、風呂に入って、話をしていた、この時間は、やっぱり、きっと、夢なのだろう。 現実ならいいけれど、これは夢なのだ。 お茶もなかなか冷めないが、トウヤもなかなか戻ってこない。倦怠感が誘う眠気にうつらうつらとしながら、先に寝てしまおうかとも思ったが。どこまで飲み物を買いに行ったのだろう。酔っていたから、ちょっと心配だ。 そう思った矢先、心配が的中していることに気付いて、ミソラは半分覚醒した。 ……あのひと。 財布、持っていってないじゃないか。 溜め息をつきそうになる。財布も無いのに戻ってこないということは、どこだかで酔い潰れているのではないだろうか。ボールは携帯していたからハリ達がなんとかするだろうが、それにしたって遅い。財布を届けに行った方がいいかもしれない。受付の女将に聞けば、行き先も目星がつくだろう。 部屋の端に寄せてあった大きなリュックサックを開けようとして、その横のボディバッグに気付いた。ハシリイでも持っていた奴だ。街を散策するときはボディバッグだけ持ち歩いていたから、財布はおそらくこっちだろう。ジッパーを開けると、すぐに財布を見つけたが、その脇に折りたたまれた紙が挟まっているのに、何となく興味を惹かれてしまった。 引き出して、広げてみる。 ずらずらと文字が羅列している。なにかの雑誌のコピーに見えた。びっしり連なる文章はさして読む気もそそられなくて、だから左下の小さな写真に、ミソラはすぐに視線を移した。 顔写真。 目が留まる。 誰にだろう。似ているような。 いや。それより。 『懐かしい』。……気が、した。 ミソラはその時知らなかったが、それはリューエルの社内報だった。顔写真が欲しいと言うトウヤの為に、アズサがユキへ掛け合って、ユニオン経由で入手したものだ。ある若手団員を取り上げた特集記事で、『実務部初の女性副隊長』『最年少記録を更新』、そんな華やかな見出しと共に、一人の女性が紹介されている。 若宮瑞月。 そう書いてある名前が、すぐに読めなかった。隣に仮名が振ってあった。 「わかみや、みづき」 勝手に唇が紡いでいた。 字面にはなかった、その音の持つ響きは、なんだろう―― 「……み、づき」 ――なんだろう、ミソラの、胸の、内側の、奥底にある、心の扉を、 「……ちゃん……みづ、き、ちゃん……ミヅキちゃん……?」 ――叩いて、ひらいた。 開く扉の向こうから、眩い光が迸った。 目が焼かれた。 真っ白になった。 声が、映像が、匂いが、痛みが、――その時、奔流になって押し寄せた。 世界が、瞬く間に、塗り変わった。 許さない。あの人が、そう言う。許さない。絶対に許さない。泣きながら、嗚咽を漏らしながら。 『あいつが』 『あいつが殺した』 『あいつが殺したのよ』 『あいつが、私の――』 顔を覆って泣いている。『僕』はその前に正座していた。唇を強く噛んでいた。悔しくて。大好きな人が泣いているから、とてつもなく悔しくて、唇を、強く噛んでいた。 何ができるか。大好きな、大好きなあなたのために、一体自分に何ができるか、『僕』は、――僕は、僕は考えていたのだ。ずっとずっと、あなたの笑顔を見ることが、僕の一番の楽しみで、あなたを笑顔にすることが、それだけが僕の、僕の一番の意味だった。 僕の、唯一で、すべてだったのだ。 震えながら、泣いていた。いつも笑顔を絶やさない人だった。見たこともない顔で叫んでいた。部屋に絶望がひしめいていた。いきができなくなりそうだった。ああこわれてしまったミヅキちゃんはこわれてしまっただいすきなえがおはこのよのどこにもいなくなった心はぐちゃぐちゃになってしまった。 ねえミヅキちゃん、ねえ、ねえってば。 どうして。 だれが。 だれがこわした。 だれが、だれが、だれが、だれが。 恨みはあぶく立っていた、怒りはどす黒い蒸気を上げた。胸が張り裂けてどろどろと血を流していた。終わったと思った。全部終わりだと思っていた。でも、まだだ。まだできることがあるはずだ。全く経験したことのない、うまれてはじめての、強い強い感情が、僕を、突き動かそうとしていた。 誰だ。許さない。絶対に許さない。 ――どうしても、笑顔を、取り戻したい。 『私の、父さんと、母さんを、あいつが』 頬を乱暴に拭いながら彼女が言った。 『一体誰が』 誰かが問うた。僕も身を乗り出した。唇をわななかせ、彼女はそのきれいな顔に、がりがりと己が爪を立てる。死にかけた獣の、死に際の呻き声を上げながら、最後の一滴を絞り出すように、彼女は答えた。 『おとうとが……』 隣の誰かが喉を詰める。 そして。 そこに、僕は、ついに、念願の、生きていく意味を、見出したのだ! 『私の、父さんと母さんを、私の弟が、殺した……!』 ――お願いです、どうか、泣かないで。私が ――私が、そいつを殺します! 長い黒髪を結い上げた、女の顔を、知らぬ間に握り潰していた。 濁流に飲み込まれたあと、どのくらい経ったのだろう、多分それは一瞬のことで、振り返ると、ここはヒガメで、見知らぬ旅館で、満月の夜で、部屋の扉は閉じたままで。二つ並んだ布団の向こう、座卓の上に、二つ並んだ湯呑の湯気が、まだゆらゆらと揺らめいている。 一体、どこからが夢で、どこからが現実なのだろう。 とく、とく、と、ほんの少しだけいつもより速く、心臓が脈打っている。頬が温い。身体が怠い。眠気と熱に冒されて、頭はまだぼうとしている。いま。なにをみた。いま、のは。なんだ。霧が。晴れていく。その先に、扉の向こうに、次第に景色が見えてくる。灰色の窓、色とりどりの壁、温度、床にぽたぽた落ちる染み、頬を拭う指、震える肩。手の届くところにあった、あの人の顔。とても遠くにいってしまった、大好きで仕方なかった、あの、 あの、ひとの、あれは、 あれは、 『ミヅキちゃん』、……ミヅキちゃん、だ。 ――手の中でくちゃくちゃになった紙を、慌てて畳に広げた。その皺を丁寧に押し伸ばした。ここにいる。あの人がいる。インタビューが主体の記事で、本当に小さな顔写真だ。折り込まれてしまった皺を爪の背で丹念にならしてから、もう一度、小さな彼女と向き合った。 なにを、自分が思い出したのか、やっと、やっと、理解した。 ああ。息が零れる。思い出せた。会いたかった。どうして忘れていたのだろう。嬉しくて切なくて頭がどうにかなりそうだった。背筋を伸ばして椅子に座って。きちんとした服を着て。勝気な笑顔を浮かべている。記憶の中より、少し大人びただろうか。愛おしかった。頬が弛んだ。あなたはいつでも美しい。 そうだった。思い出した。 この人に愛されるためだけに、僕は、今日まで、生きてきたのだ。 立ちあがって、叫びまわりたい気さえした。いますぐ駆け出していきたかった。会いに行こう。すぐに会いに行こう。そして次こそ、傍に置いてもらおう。薄っぺらいその紙も抱きしめたい衝動をやりこめながら、しばらく写真を見つめ続けて、ミソラはふと顔を上げた。 目の前に大きな窓があって、向こうに夜空が広がっていた。深い闇の中に濃い月は、いつの間に高い位置までのぼりつめていた。ついさっきまで、月の光の話をしていた。何か難しい話を聞いた。胸の奥に触れるようなあの低い声が残っていた。視線を下げれば、また目に入る。汚れたリュックとボディバッグ。そこから連想する、一歩先を歩いていく、ミソラがいつも追いかける、あの、背中。 その時、不意に、分かってしまった。 「あ」 小さく漏れた声は、誰に聞かれることもない。 振り返る、美しき蒼穹の瞳が、ふっと見開く、そこにはいないが、先程まで隣にいて、隣で服を着替えて、隣で風呂に浸かって、隣で月を見上げて、たくさん話をして、向かいで飯を食って笑って、生肉がどうだとばかなことを言い合って、この部屋で、二人で、高い旅館にはしゃいでいた、ずっと傍にあって、いまは部屋の隅に投げてある、茶色のコート、紺色のマフラー、出先でよくにらめっこしている財布、リュックの中に納まっている、あの使い捨てカメラ、着替え、ココウでも見慣れた彼の服。 それらを見回して、息をするのも、忘れて、優しい夢と、現の、狭間で。 子供は静かに目を醒ます。 そう、だから、つまり。 ――この人だ。 |