9・トウヤとミソラ







 この辺のポケモントレーナーにとって、ヒガメという場所は所謂『聖地』である。岩石砂漠の先、木々の点々とする荒野のかなた。聳え立つ巨大な岩壁には、創世の神が割りひらいたと伝えられる深い『亀裂』が存在する。ドラゴンタイプが群れをなして飛翔するヒガメ大峡谷は、猛者と希少種の巣窟だ。峻険な岩肌に育まれた荒々しい獣たちは即戦力としても人気が高く、捕獲育成の好適地として、多くのプロトレーナー達に愛されてきた。谷の入り口に存在するヒガメは、峡谷深部へ挑むトレーナーやそのサポートを生業とする人々によって、古くから栄えている町だ。
 時折響く唸るような低音は、風の声か、はたまた強者の咆哮か。威圧するかの如く幅を狭めゆく断崖の、果ては闇の深淵である。ヒガメ峡谷深部の踏破を、他地方で開催されるポケモンリーグへの足掛かりとして、ひとまず目標とする若者は多いそうだ。
 その深淵を見たことがあるのかと問うてみれば、一人達者に舌を回していたトウヤはぎくりと立ち止まって、それはまあ、と言葉を濁した。あまり良い思い出ではないようだった。


 さて、勇猛果敢な若人の集うそのヒガメに於いても――やはり金髪は目立つらしい。
 反省を生かしたつもりだったのだ。グレーのニット帽を被り、後ろ髪はコートに隠した。それでも露出する空色の瞳、肌の白さはさておき、真っ赤なマフラーは旅には若干華美すぎた、気もする。だが、そこまで派手ななりだろうか。……実際はミソラがはしゃぐから余計に悪目立ちしているのだけれども、「下を見て歩きなさい」とトウヤに頭を抑えられても、興奮は煽られるばかりだった。ココウでも昔、借りたコートを頭から被って、それでも注目を浴びていて、やっぱり頭を抑えられていた。思い出すと笑ってしまう。変わらないようでいて、トウヤとミソラとの関係はあれから、随分と遠くまで来ているのだ。それこそ今回の旅路みたいに。結果として、あの頃とミソラが変わったのは、頭を触られて嬉しい――、なんて、こっそり喜んでいる点だろうか。
 『ヒガメへようこそ』と書かれた大きな門を潜れば、たちまち活気の渦に呑みこまれる。ぎゅうぎゅうに押し並べられた建物、威勢よく声を上げる商人たちの光景は、ココウ中央通りにも似て、格別な目新しさはない。ミソラが心奪われているのは店でも建物でもなく、たくさんの通行人であった。
 いや、人、ではなく。
 通行『ポケモン』だ。
「でっかい……!」
 のっし、のっし、と歩いていくガルーラに目を奪われながら、思わず感想が漏れていた。
 エレキブル、フーディン、リザードン。図鑑のイラストでしか見たことがなかった大型のポケモンが次々と、当たり前のように姿を現す。トレーナーに従えられ後をついていく様ですら、まるで油断も隙もない。図体が大きい、進化済みである、それだけでなくて、真に実力があることが立ち振る舞いから伝わってくる。有り体に言えば、『強そう』だ。
 右手側からこちらに向かってくる、ガバイト……いや、ガバイトよりも一段と凶悪な面構えを見て、ミソラは半ば身を竦ませながらトウヤの上着を引っ張った。
「お師匠様、お師匠様」
「何だ」
「ガブリアスです、あれ!」
「指をさすんじゃない!」
 小声で叱責されて慌てて腕を下した時には、ぎらつく竜の目と、その前を行く気の強そうな女性トレーナーが、こちらを睨んでいた。射殺されそうな視線だった。ミソラは口を引き結んですぐさま目を逸らしたし、トウヤもさっと顔を背けて、マフラーを鼻先まで引き上げた。
 何事もなかった。通り過ぎた。ミソラと同じタイミングで、隣が深く肩を落とした。
 春先に見た薄手のコートに、紺のマフラー。ハンチング帽を目深に被っているトウヤの格好は、左手に包帯を巻いていても夏場ほど『異形』感がない。さすらいトレーナーの人波に見事に溶け込んでいる。あまり目立つことをしないように、と釘を刺されれば、謝らざるを得なかった。
「今回は『リゾチウム』の調査に来たんですもんね」
「大きい声で言うなよ」
「どこから調査します? やはりトレーナーの集まっている場所……あ、スタジアムとかがあるんですかね」
 結局上擦る声をひそめられない弟子に対し、師匠の表情は早くも諦め気味である。軽く周囲を見回し、呟いた。
「まずは……宿だな」
「宿を調査するのですか?」
「いや、宿を取るんだ」
 崖沿いに作られた、細長い町だ。しばらく通りを進んでも、まだまだ商店が続いている。トレーナー向けのグッズを集めた店が多く、ポケモンの生体を扱っているショップもかなり見かけた。こんなにグッズショップがあって、しかもこんなにポケモンが歩いているのに、ハシリイのマリルのようなリードを全く見かけない。これも文化の差なのだろうか。
 普段より人が多い気がする、でかい大会でもあるのかもしれない。何度かヒガメに来ているのだというトウヤが浮かない様子で言う。
「ちょっと宿が怖いな……」
「大会、って、どこでやるんですか?」
「ヒガメスタジアムだ」
「なるほど。情報収集には好都合ですね。人が集まるところには、情報も集まるでしょう」
 真剣に言うミソラを、やや呆れてトウヤが笑う。
「張り切ってるな、ミソラ」
 からかわれたのだが、それでも嬉しかった。大きく頷いて返した。
「助手ですからねっ!」
 そう、今回のミソラは『弟子』であり『助手』なのである。役に立たねばならないのだ。
 ココウを出る前、ついてくるな、と言われた。……いや、正確には、「危ないし道も遠いしテレポートも使えないから出来れば留守番してくれると助かるんだが」と、やんわり遠まわしに拒絶された。けれど、絶対に迷惑を掛けないから連れていってほしい、と頼めば、すぐに折れた。それもミソラが拍子抜けするくらい、実にあっさりと、折れてくれた。
 認められたのだと思った。きっと、本当に迷惑を掛けないと思ってもらえたのだ。だったら期待に応えなければならないし、期待以上の結果を出したい。山ほど苦労を被らせたし面倒を見てくれた、色々な事で救われた、その恩返しをする、今回は絶好の機会だった。
 カメラを現像するのを忘れないようにしないとな、ココウじゃ現像できないから、とトウヤがぼやいているのを話半分に聞きながら、ミソラは周囲を捜索する。遠征中、注意は常に絶やさないつもりだ。リゾチウムというのは、具体的には分からないが、つまるところ『怪しいクスリ』だ。そんなものを売っているんだから、きっと怪しいお店に違いないのだ。
 ほどなくして、いかにも怪しい外観の店がミソラの目に飛び込んできた。
 『初心者歓迎す』。そう垂れ幕が出ているが、若い店番が座っている以外、店先はがらんどうだ。奥の部屋は分厚い鉄戸で閉ざされており、中を窺うことも出来ない。クスリの初心者を歓迎しているのではないだろうか、声を掛ければ中に誘導されて、密室で取引を行うのではないだろうか。他に軒先に立っているのはゴチルゼルで、手を組んで通行人を品定めするような佇まいが、これまた怪しい……
 ……じっと観察していると、いつの間にか、その目と見つめ合っていた。
 自分とよく似た明るい青に、睨む色白ニット帽がはっきり映り込んでいる。怪しい目つきだ。こっちを見ている。なおのこと怪しい。紅を引いたようなゴチルゼルの口元が不意に微笑んだとき、ミソラはついに歩を進めようとして。
 歩が進まないことに気付いた。
「あれ」
 足が。地面に。引っ付いている。
「……あれ?」
 接着剤でも踏んだのだろうか、それにしたって両足とも、どうやって歩いていたのか分からないくらい動かない。見れば自分のその足元、から伸びる影が、影と思えぬほど黒々と石畳に焼き付いていて、そしてその影は長く伸びて……ゴチルゼルの影と、完全に繋がっているではないか。
 そうか、『影踏み』!
 寒気が走った。トウヤの姿が無くなっていた。しまった。はぐれたか。顔を戻すと。暇にしていた店番が、嬉々として立ち上がるところだった。
「目が合ったな!」
 彼が叫んだ。ミソラはびしっと硬直した。まあ確かに合ったけれども。
「影を踏まれりゃ運の尽き、目が合ったらポケモン勝負!」
 そう口上を述べながらずかずか歩み寄ってきた男が手を伸ばし肩を掴もうとしたところで――ぐいっと、後ろから腕を引っ張られて、バランスを崩した。当然のように足が浮いた。
 わわっと後ろに倒れかけ衝突したものを見上げて、ミソラは大層ほっとした。
 そして、絶対に迷惑を掛けない、という誓いが、早くも破れたことを悟った。
「僕が、受けます」
 声が完全に、厄介がっている。その向こうでノクタスのハリが、ゴチルゼルと話をしている。
 目が合ったらポケモン勝負。……混乱しながらも合点がいった。そういう意味か、下を向きながら歩けと言うのは。


「――ドラゴンクロー!」
 ダンッ、と床を蹴って青竜が跳躍する、その眼下を猛進するのはそれもまた青い強靭な『爪』だ。一メートルはあろうかという肥大した鋏、その後方から噴射する水圧を利用した『アクアジェット』を難なく躱し切り返し、気合と共に打ち込まれる竜翼の一撃。硬質な音が迎え討つ、あれは『クラブハンマー』か。一瞬拮抗した両者が両者を弾き距離を取り、興奮の息を抑えるガバイト――ハヤテ、向かいで冷静な双眸を光らせるのは、ランチャーポケモン、ブロスター。
 あのルカリオも使っていた『波動』を使いこなすポケモンだ。音もなく構えられた大鋏、ひらく暗黒の口に再度光が収縮する、『水の波動』か『竜の波動』か。チャージから発射までの瞬く間に見切ったトウヤが鋭く叫んだ。汗が飛ぶ。連戦を重ねる室内は、重い熱気に満ちている。
「突っ込めッ!」
 ハヤテは既に身を屈めていた。一蹴り、二蹴り、の助走で至るトップスピードが、迫りくる『闘』の波動の芯へ、蹴散らす勢いで飛び込んでいく。

 ――のを、ガラス張りの別室から眺めているミソラの隣で、野次馬たちが腕を組みながら論評を繰り広げている。
「おっ、今のは読んだな!」
「だがガバイトは更に早かった。指揮者としては至って平凡だが育成は上々」
「先のノクタスも良かったよな、三匹目も期待できるぞ」
 おそらく三匹目は出さないのではないだろうか。好き勝手言う二人に対して、ミソラは内心を黙っておいた。
 ヒガメに十以上も存在するという『闘技場』は、スタジアムの下位施設である。内部には常連のバトルオタクがたむろしていて、彼らは皆、戦う相手に飢えている。何も知らずに『影』を踏まれてのこのこ連れ込まれる新参の前で、彼らはまさに腹ペコの獣だ。
 入店直後から好き勝手に貪られているトウヤと彼のポケモン達は、これで四戦目を迎えた。ここでの一戦は、とにかく『重い』。先の相手を倒した時点でハリは相打ちになり、ハヤテも傷を負っている。指示者のトウヤさえ随分疲弊して見えるのが、戦いの激しさを物語っている。ココウスタジアムでは考えられない光景だ。負けるまで続けさせられるのだろうか。そういえば体調はどうなのだろう。
 けれど、「僕はめちゃくちゃ弱いから」と彼らに散々卑下していたのに三人抜きはこなせるあたり、やっぱり僕のお師匠様は強いんだ――と誇らしく思い始めたところで、横の男が嬉しそうにニヤつきながら立ち上がった。
「勝ちそうだな。次は俺がやろうっと」
「せっかくの遊び相手なんだから簡単に負かすなよー」
「そこまで手加減しなくても良さそうじゃね? まあ二軍くらいは出せるかな」
 目の前を横切る男と顔を合わさないようにしながら、ミソラは心の中で前言撤回した。随分ろくでもないことに巻き込んでしまったようだった。
 必中の『波動弾』を真っ向から突っ切って鋏の前面へ到達したハヤテが、鋏内部へ『竜の息吹』を吹き込んだ。右腕を痺れさせたブロスターが身を捩って逃げようとする、そこに追撃の『ダブルチョップ』。鋏を盾にしたブロスターはまだ落ちない。甲殻の成す守りの堅さなのだろうか、これがレベルの違いなのだろうか。
 どちらにしろ、ハヤテは頑張っている。相手が手加減していると知っているかは分からないが、勝とうとしている、必死にトウヤを勝たせようとしている。トウヤにも、対戦相手のブロスターにも、隣で観戦していた人たちにも、きっと伝わっているはずだ。
 トウヤの指示に威勢よく返事をし、一つ一つの挙動に全力で挑むハヤテの姿を映しながら、ミソラはちらりと視線を下した。
 片耳の小さなニドリーナは今、自分の隣に座り込んで、ガラスの向こうを見つめている。
 自分とリナが試合を受けていたら、本当に酷いことになっていただろうと思える。トウヤの十倍馬鹿にされて、笑われていただろう。ココウスタジアムでの連戦でそれなりに自信をつけて、正直いい気になっていた。だが、この人たちの試合と並べれば、あんなのはお遊びみたいなものだ。
 もし、自分の殺すべき『誰か』がヒガメの人間だったなら、確実に返り討ちにされる。もっと強くならなければ、とミソラが抱いている焦りは、ミソラだけのもの、なのだろうか。
「……リナ」
 片方しかない耳が、ぴくりと揺れた。けれどリナは振り向かなかった。『聞こえなかったフリ』をした。
 ここ数日、リナとは、なんだか少し距離がある。
 奔放なのは相変わらずだ。ツーやイズとはよく遊ぶし、家でも駆け回ってヴェルに激突したりするし、ご飯もいつも通りによく食べる。ミソラ一人に対してだけ、まるで嫌がらせするように、よそよそしく接してくる。
 原因に思い当たる節はある。
『リナはさ、今までさ、ずっと知らん顔だったじゃない。戦うの、好きでしょ。好きなように、戦ってたでしょ。ねえ、いいんだよ。それだけでいいんだよ。……なのにさあ……』
『なのに、なんで、今になって、いまさら、そんな風にするの?』
 ココウスタジアムでの、タケヒロとの試合前だ。
 リナに酷いことをした。主人の心情を汲み取って、戦うことを躊躇した彼女の気持ちを、踏みにじるようなことを言った。ミソラの為に立ち止まろうとしたのだろうに、お前は戦うだけでいいのだと、それを突き放したのだ。
 たまに顔色を窺うように、こちらを見上げていることがある。けれど気付いて目を合わそうとすると、すぐに逸らされる。厄介がられることにはトウヤで慣れっこだったけれど、嫌われたかもしれないと思うのは、これが初めてだった。しかも、唯一無二の相棒だと思っていた相手だ。気付いた時、心底ショックを受けて傷ついたし、ひどく後悔した。けれど、だったら一体どうすればいいのか、ミソラはちっとも知らなかった。
 原因が原因だったから、タケヒロにも相談できなかった。トウヤやアズサに相談することも考えたが、何故リナにああいうことを言ってしまったのか、理由を辿って考えると、どうしても話してみる気になれなかった。
 鋏が放つ青い波動の渦が、竜の腹を穿つ。叫び、よろめく。地面が揺れる。
 ……『俺が勝ったらお前は殺すのをやめる』、タケヒロの言葉に、切り裂かれて噴き出した血は。紛いなく、ミソラ自身の真実の姿だ。
 リナに言ったのは、ならば本心なのだろう。戦ってくれさえすればいい、『殺すための従順な手先』になってくれさえすればいい。それだけがお前の役割だ。僕の心に寄り添って、問いかけるなんて、厄介だ、余計なお世話だ。傷口から漏れていった自分の言葉が、本当の本当に本心ならば、ミソラはリナのことを相棒だなんて誤魔化して、その実は手下か、それ以下の『道具』くらいに見ていたことに他ならない。
 そんなこと、誰にも、ましてトウヤになんて、相談できる訳がなかった。
 最初に出会ったときに、ポケモンのことを何も知らなかったミソラは、トウヤに『どうしてポケモンを従えるのか』と問うた。トウヤは『便利だからだ』と答えた。彼は何故、あんなことを言ったのだろう。確かに砂漠や森を行くのに、背中に乗れたり空を飛べたり、野良を蹴散らしたりできる手持ちは、便利だ。だがこうやって、ポケモンを本当に『便利な道具』として扱ってしまえば、たちまちに道具は、不便になる。
 自分の本音がどこにあるのか、何を思っているのか。よく分からなくなってくる。
 リナに何と嘘をつけば、元に戻れるだろう。
 そうすることは正しいのだろうか。
 吐きそうになる溜め息をなんとか堪えて、顔を上げた。『竜の波動』を受けて一度は倒れたハヤテが呻きながら立ちあがって、振り向いた。やれるか、と問う声に、力強く頷き返す。あの大きな黄色の目が、まっすぐ男を捉えている。トウヤもそれをまっすぐに映して、頷いた。
「『逆鱗』だ!」
 聞き馴染みのない指示が飛ぶ。
 ――カッ、と、ハヤテの目の色が、変わった気がした。
 まるで彼のそれでないような壮絶な咆哮が、ガラスを隔てたこちら側まで震撼させた。リナがびくんと背筋を伸ばした。。
 身を戦慄かせ、真っ赤なオーラを纏ったハヤテが。後脚を蹴り、猛然たる勢いで敵方に飛び掛かった。ブロスターの爪は一度は竜翼を受け切ったが、堪えきれず、吹き飛ばされた。向かいトレーナーの横を抜け壁に激しく激突した。甲殻が砕けるのではないかというほどの衝撃だった。





「――宿を、探そう。宿を」
 リゾチウムの聞き込みに関しては、とんだ無駄足だったらしい。結局次の試合でコテンパンにされ、三匹目の投入を固辞し続けてようよう解放された頃には、日も傾きかかっていた。冬が本番に近づきつつあり、昼間も短くなっているのだ。町に入った頃には感じなかった冷気が途端に襲い掛かってきて、ミソラはマフラーを巻き直した。峡谷の中だからだろうか、やたらと寒さを厳しく感じる。
 健闘を讃えてポケモンは回復してもらったものの、会員登録へのしつこい勧誘に残り体力をごっそり奪われたトウヤは(最終的に勧誘を退けたのはハリの冷やかな眼差しだったが)、言いながらベンチから立ち上がる気力もなさそうである。待たせた詫びにと買ってもらった名物『ヒガメ峡谷巨大ワッフル』のこれでもかと絞り込まれたカスタードクリームを飲み込みながら、ミソラはポケモン達の様子を窺っていた。顔の周りをべたべたにしているリナが、珍しくハヤテに話しかけている。先程の試合の感想だろうか。手のひら大の洋菓子をぱくりと平らげたハヤテは『逆鱗』で豹変したのも一瞬だけで、いつもの陽気さに戻っていた。
「ヒガメのトレーナーって苦手なんだ、揃いも揃って暑苦しくて、その癖あからさまに手加減してきて」
「すいませんでした……」
「ん? ああ、お前のせいじゃないよ。僕がちゃんと教えなかったのも悪かった」
「目が合ったらポケモン勝負、ですか」
「僕も最初はんな馬鹿なと思ったが、よそでは普通の文化だったりするらしい。カントーなんかがそうなんだとさ。あっちはジムやリーグがあってバトルもレベルが高いから、ヒガメの人間はかぶれてる」
 見るからにぐったりしている割に、ぺらぺらとよく喋る。それなりに楽しんだのだろう。
 ワッフルの間からはみだした薄黄色のクリームが、ぼとっと地面に落ちる。リナがその塊を見ている。ミソラは足を避けてやる。なかなか舐めに来ない。
「そういえば、『逆鱗』、覚えたんですね」
 もちもちと動くハリの口元を面白そうに眺めながら、トウヤは首を振った。
「覚えてたんだ。生まれた時から覚えてた」
「生まれた時から?」
「でも昔、寝ぼけて技を出して暴れて……知ってるか、うちの蔵を赤ん坊のハヤテが破壊した話」
「聞いたことあります」
「それだけが理由じゃないんだけどな。僕も使いこなせる自信がなくて……ずっと封印していて。そろそろ解禁してみるかって、ハヤテと話をしてたんだ」
「……それは、どういうきっかけで?」
 手持ちへの見方、考え方に、変化する契機があるなら、知りたかった。やはりこちらの顔色を窺い、遠慮がちな様子でクリームににじり寄ってくるリナ。ちょっと前までなら、ここで飛び掛かってじゃれあったりもできたのに、今はしようと思えない。怖い、ではなく……何と言うか。
 そのリナの様子を、トウヤもそれとなく見下ろしながら、少し首を傾げた。
「きっかけらしいものは無いかもな。けど、ここ半年くらいで、ハヤテは凄くしっかりしてきた。本当に見違えたよ、お前」
 顔を上げ、最後の言葉はハヤテに向けられた。目を瞬かせる『トウヤ家の末っ子』の後ろで、ハリも大きく頷いた。
「お前を試合に出すこと自体がギャンブルだった状態が、今は嘘みたいだ。……よく成長してくれたな」
 伸ばされた右手に、条件反射のように、ずいと鼻先が差しだされる。
 感慨深げな声と掌に撫でられて、ハヤテは気持ちよさそうに、暫し瞼を下した。
 ……それからやや間があって、ぎょっと両目が見開いた。慌てて首を戻した。青い肌にも分かるくらいに顔がぱっと赤らんだ。ギャッギャッギャッ。いつにも増して騒々しく鳴きながら、どしんどしんと、地団駄を踏んだ。
「照れてる!」「うるさいな」
 地響きが鳴り、行き交う人がこちらを訝り、ぼかんと殴ってハリが止めれば、二人は声を揃えて笑う。カスタードの髭を生やしたリナが、ちょこちょこと青竜の足元へ歩いていく。言った本人さえなんだか恥ずかしげにマフラーに顎を埋めつつ、少しおどけて付け加えた。
「特にリナっていう後輩が出来てからの成長は、目覚ましいものがあった。それが一体何故かというと」
 ギャーッ、と特大の悲鳴。暴露話を制止しようと、若竜は主人の腹にぼすっと鼻先を突っ込む。ぼすっぼすっぼすっ。トウヤが笑う。しっかりしてるなんて評価には程遠い行動を、ミソラも笑おうとした。笑いたかった。
 けれど、リナの名前を出されると、どうも表情が固まってしまう。
 やめろとハヤテの頭を押し戻そうとするトウヤ、ぶんぶんスイングする尾を跳び避けたリナの向こう側で、ハリが、それらを通り越して、ぎょろりとミソラへ視線をやった。どきっとした。粗相がばれたような心地だった。こんな自分が、嫌で嫌で仕方なかった。
「……手持ち、増やしたらいいんじゃないですか?」
 焦り方向転換した話が、楽しげなトウヤを振り向かせる。
「え?」
「あの、その方がタイプ相性も広くカバーできますし、さっきみたいな連戦でも、手数が多い方が、有利だから、お師匠様が三匹しか連れていないのは、なぜだろうとずっと思って……」
 『手数』。選ばずに放った言葉は、やはり『道具』にニュアンスが似てはいないか。気付き始めた自分自身の心無さが、ふっと背筋を冷たくする。ミソラは若干表情を曇らせたが、トウヤは気付かなかった。きょとんとするハヤテの頬を両手で挟みながら、また小さく苦笑した。
「僕にはポケモンを連れる資格なんてないんだよ」
 彼が言うのは、ミソラに引導を渡す言葉だった。
 ……氷を押し込まれたような気がした。腸が絞まる。咄嗟に何も返せなかった。本当はそれは明白に、トウヤ自身を示した言葉だ。けれどまるで鏡の向こうで、自分自身が言ったかのようで、若しくは『お前が言わないから代わりに言ってやった』と今にも告げられそうな気がして、ここから逃げ出したくなった。言い当てられて、突きつけられた。その通りだった。僕に、トレーナーでいる資格などない。
 そう、そうやってポケモンを可愛がれるあなたに、そうする『資格』がないのだとすれば、僕になんか、もっとない。あるはずがない。
「……あ、素質が無いってことですか?」
 何とか納得できるように解釈をした。目の前で手持ちとじゃれついている光景と、僕にはポケモンを連れる資格などないというその言葉が、まったくもって噛みあわなかった。育成は良いと、あの人たちにも言われていましたよ。そう言いかけて、思い出した。
 どういう話の流れだったろう。彼が手持ちのハリのことを、『僕の手持ちじゃない』と言ったのは、『人のもの』だと言ったのは。
 いつの間にか、ハリはミソラから視線を外していた。トウヤを見ている訳でもなく、通りに行き交う人の流れを、じっと眺め続けていた。
「ハハ、素質は無いな。うん、それもある。だから長い間、ハリ以外に手持ちを増やす気もなかったんだ。……けど、急にこいつを育てないといけなくなって、その後メグミと出会って。増やしてみれば、賑やかで、案外楽しいものだ」
 なあメグミ、と、ボールに籠りっぱなしの三番目をぽんぽんと叩いて、トウヤは立ち上がった。ハリとハヤテもボールに戻し、歩き始める。ミソラもリナを戻して、急いでついていった。見上げる岩肌の向こうに早くも太陽は隠れてしまい、たおやかな闇のヴェールを纏う路地の空気はきりきりと、白い頬を突いてくる。
 ミソラが横に並んだのを確認してから、トウヤは静かに話を続けた。
「僕は運が良かった。ハリは本当に良い奴で、どれだけ自分に才能があっても、きっちりレベルを合わせてくれる。ハヤテのこともハリが殆んど躾けてくれた、ハリがいなければ、僕では扱いきれなかった。ハヤテもドラゴンタイプにしては気が弱いし主人思いで、メグミもメグミで、もっと我儘を言ってもいいのに、いつも抑えてくれている。皆初心者向けの性格だ」
 次に言わんとしていることを、そこで察してしまった。
 顔を上げられなかったのは、『目が合う』のを避けたからではない。相談できないと思っていたのに。ミソラが悩んでいることに、まさか勘付いていたのだろうか。
 恐ろしいことだった。ミソラが残忍な人間であることを、トウヤはもう知っているかもしれないのだ。
 男は更に声量を絞って、呟く。ハヤテを褒めたのと同じ、優しい声が言う。
「リナは、正直、難しい。僕が育てていたら毎日が流血沙汰だったろうな。お前はよく手懐けてるよ」
 欲しかった言葉をくれたのに、素直に喜べもしなかった。返事もできず、足元に視線を落としたまま、ミソラは歩き続けるだけだった。







 
 
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