かんと冴え渡る太陽の下、砂埃が立っている。
 防塵ゴーグルに抑えられた黒髪が暴れる。細い脚が跨る肉体は完璧に鍛え上げられており、毛皮の下で躍動する筋肉は凡そ美術品の如く荘厳であろう。波打つように獣が躍動する。男はその背を、鞍も付けずに乗りこなしている。苦戦している様子はない。ゴーグルを掛けてもまだ分かる、――見慣れた顔つきは。
 余裕が無い。真剣そのものだ。茶々を入れるのも躊躇われる。
 彼が戦っている様を、どこかわくわくとさえしながら、ミソラは楽しく見守っている。
 照り返し厳しい白砂の上。暗躍するのは、黒い影。戦場にそぐわぬ憂いた目つきだ。岩陰から鋭く飛び出し、ひらり舞い、花束を差し向けるようなキザな動き。繰り出されるのは、キラリ輝く飛び道具。
 ミソラはじっと目を細めた。あれは何、だろうか。
 小銭くらいの大きさで、円形の薄い、ぴかぴかぴかと光を弾き、チャリンチャリンといかにも硬質な音を立て……あれ、もしかして、本当に『小銭』?
「美しい……!」
 騎乗中のトウヤが叫んだ。ミソラは呆れた。お前の兄貴は変態だなと隣の男も呟いた。
 砂に刺さった小銭を逞しい四肢が踏みしめる。炎の赤獅子、ウインディだ。精悍な顔つきを崩さぬまま唸り声を立てる獣、たてがみを柔らかく握りながら、跨るトウヤは自信満々。もう五分もイタチゴッコを繰り返しているが、それでも自信満々だ。
 何故なら――、彼には『秘策』がある。
 奇妙な道具を、トウヤは徐に取り出した。五十センチほどのロープ、その先端に小さな網の袋が括られている。現地調達のお手製品だ。網の中には、紅白球が一つだけ。予備のモンスターボールである。
 くるりとカールした尻尾が、遠い岩場からひょっこり覗く。風に優美に揺れる髭、完全に人を見下した、余裕の目つきや身のこなし。正直に言うが、『普通の』ニャースの方が、ミソラにとっては、よっぽど可愛い。
 二十メートルは離れているだろうか。小賢しい逃亡黒猫にも見えるように、トウヤは件のボール付きロープを、右手側でゆっくりと回し始めた。
 首を傾げられたのは、ほんの一時の間である。
 回転するボールの軌道に――きらきら白い、光の粒子が零れはじめた。
 ロープに繋がれて円を描くボールから、光る何かが放たれている。ポケモンを解放するときの強い光に酷似しているが、遠心力で、隙間から漏れ出ているのだろうか。小銭が、そして黒ニャースの額の小判が輝くのより、その輝きはなお眩しい。
 ひゅんひゅんと空を切る音が続く。どんどん回転が速くなる。ボールから溢れ続ける煌めきは、白日に輪を成していく。
「なんだありゃあ」
 隣の男の感嘆の声だ。あんなボールの使い方、ミソラも全く知らなかった。
 黒ニャースが、そろりと顔を覗かせた。半分しか開いていなかったはずの目玉が、驚愕してひん剥いていた。そして光に吸い寄せられるように、一歩二歩、酔っ払いの足取りで、こちらに向かって、歩きはじめた。
 うまくいった。二人の観衆は拳を握る。『回すと光る』というモンスターボールに備えられた謎の裏技、そしてニャースの『光り物を愛する』習性を利用した、即席の誘き寄せ作戦である。
 岩陰に溶けていたニャースの影が、完全に分離する瞬間。
 トウヤの足が体側を蹴り、砂埃を爆発させてウインディが飛び出した。
 『神速』。その凄まじさはミソラを、そして脇にちょこんと座っていたリナを跳びあがらせるに十分だった。電光石火の強化版、という説明を受けていたが、文句なしに別の技だ。驚異的な後脚の一撃が弾き飛ばした巨体の獅子は、次瞬には遥か前方のニャースを捉えかけていた。すんでのところで回避した髭を掠め、行き過ぎた衝撃を屈強な前脚が全て吸い込んでクイックターン、そして後脚が再度の噴出。力強い跳躍が炸裂させる砂埃にあの光が白くなびいた。猛烈なスピード、そして急激な旋回をものともせず、男はその背にしがみついている。
 肉薄する小さな背にウインディが口を開いた。獰猛な牙から炎技特有の熱と赤光が燦然と溢れる。繰り出されるは『炎の牙』――思わず身を竦め、顔を覆ったニャースの横を、しかしウインディは走り抜けゆくのみだった。その背からひょっと離れた影が、大袈裟な身振りで、襲い掛かった。
「観念しろッ!」
 叫ぶ。二十二歳冬、決死のダイブ。
 ボールは使わなかった。例の工作ボールは後方に虚しく転がっていた。跳びかかったトウヤが胴を抱え頭を押さえつけてすぐ、ふんぎゃあー、と怒りをあげたニャースが、――がぶり。その腕に激しく噛みついた。







 雨の行方








 ……だらだらと血を流すトウヤの右腕を見るミソラは、完全に顔が引き攣っている。
 快晴の青空、白い岩石砂漠の真ん中。二色だけの世界の狭間に、赤が点々と染みを作る。こちらは肝を冷やしているというのに、当の本人は「よくあることです」なんて飄々言ってのけている。「そんなことより」、晴れやかな顔を向けるのは、自身への無頓着さの表れだ。そういうところを直してほしい。その間も慣れた手つきで圧迫していく包帯は、弛むことがないけれど。
「いやあ感動しました。こんなところで『リージョンフォーム』にお目に掛かれるなんて」
「珍しいだろ。アローラっちゅう地方の特産ニャースなんだが、これが目ン玉が飛び出るほど高くてよ」
「このあたりの愛好家なら喉から手が出るほど欲しいことでしょう、僕も富豪だったらこの機を逃さなかったのに」
「生意気な性分でなァ。傷をつけず、ボールに入れず運搬するのが、もう難しいのなんのって」
 ご機嫌に腕を組む運搬屋の背後には、おんぼろの幌付き荷車がある。荷台には黒いニャースが四匹、頑丈なリードを嵌められて、檻に閉じ込められている。可哀想だとも思えないのは、揃いも揃ってふんぞり返って、こちらを見下ろしているからか。
「凄いな、本では見たことありましたが、実物も本当に可愛いというか……ふふ、素晴らしい、エレガントだ。噛んでもらえて光栄ですよ」
「お、おう、こいつぁとんだ変わりモンだな……」
「これでいてボールマーカー無しの個体なんて、相当高値で取引されるんでしょうね。幾らでショップに卸すんです?」
「いんや、得意先がいてな。ヒガメのニャース屋敷、兄ちゃん知らないか」
「ああ! 色違いのニャースを二匹も抱え込んでるって言う」
「大、大、大富豪だぞ。なんせこいつらは王族血統折り紙つきだ。そんじょそこらの猫とは一味もふた味も違うぜ」
 二人で盛り上がっているのが気に食わなくて、ミソラは顔を逸らした。先程のウインディが、ざらついた舌で優雅に毛並を舐めている。汚れた身なりの運搬屋やみすぼらしい荷車、ポケモンを売り捌くなんて悪党じみた商売に似つかわしくない、素人目にも立派なポケモンだ。美しい、エレガント、という形容をするなら、どう考えたってこっちなのだが。
「それじゃあ約束通りだ。狭い車だが、好きに使ってくれ」
「助かります。何せ子供ですから、徒歩だと時間も体力も……」
 ちらりとトウヤがこちらを見た。ダシに使われたミソラはちょっとだけ剥れてみせる。
「何を言うか、助かったのはこっちだよ。逃げた売り物がパーにならずに済んだんだ。……しかし、あれだな、兄ちゃんは」
 呼び寄せられたウインディが脇を通っていく麗しい動きを、ミソラは目を丸めて観察した。鼻をつく匂いがしっかり獣めいているのが不思議なくらい、どこを切り取っても絵になる美しさだ。やっぱりこの粗野な男には似合わない……その大きな顎に手早く轡(くつわ)を噛ませながら、男がトウヤへ顔を向ける。
「ライドが上手いじゃねえか。随分乗り慣れてるな、こういうポケモンに。初見で『神速』に耐えた人間なんて、俺ぁ初めて見たよ」
 ハヤテの得意げな顔が、すぐに浮かんだ。けれどトウヤはそうとは答えなかった。リュックを荷台に投げ込んだ後、振り向いた顔は、どことなくばつが悪そうだ。
「それは恐縮ですが、どうですかね。僕よりは、その子の乗せ方が上手くて……でも、そうだな。バクフーンに育てられたんです、僕」
 育てられただってェ? 冗談交じりのトウヤの言葉に、面白半分の声が戻る。荷台に一足にのぼって、とてもじゃないがのぼれないミソラに手を差し向けながら、トウヤは背中側へと返した。
「語弊があるな。ゆりかご代わりだったんですよ、バクフーンの背中が。乗り方が身体に染みついてしまった。そうか、英才教育、と言えば、なかなか聞こえがいい」
 ウインディの背に座り、ゴーグルを下した運搬屋が、アッハッハと大声で笑った。唾が飛んで光るのが見えた。





 ハヤテ、メグミに乗って三日。ここから荷車で一日半。
 ミソラにとれば、とてつもなく長い旅路である。走っているのは常にハヤテだったとはいえ、振動を逃がすだけでも重労働だ。荷車を見つけたトウヤがわざわざポケモンをボールにしまって、いかにも足がなさそうな顔をして近づいていった時には、さすがに図々しいのではとも思ったが。あと一日半。ぐったりと寝そべりながら考えてみれば、旅慣れないミソラのために手段を選ばなかった可能性も、絶対に無いとは言い切れなかった。
 ニャースに噛まれた右腕の傷は、深くはなかった。すぐに取れると言う右前腕の包帯を擦る左腕は、肘の上から指先まで、きっちりと包帯が巻かれている。
 加害者のニャースはミソラの脇で、まだトウヤを睨んでいる。檻の中だとしても、あの血を思うと、多少は恐怖心も湧いた。
「痛みますか」
「大したことはない」
「あの、バクフーンって」
「ああ」
 やや疲労の色が見えるトウヤの表情が、少しだけ綻んだ。先の話が本当だったのも、どういう存在だったのかも、その顔を見れば察せられた。
「母親の手持ちだったんだ。色々と忙しい人だったから、代わりによく世話を焼いてくれた。……オスだから、父親代わりみたいなものかな」
 優しい声が言う。実家を懐古する彼の言葉は、いつだってあたたかいセピア色だ。
 だが、ミソラが気になっていたのは、実はそこではない。
 ……ばくふーん。舌先で転がす音に対して、微かな違和感がある。呟き、難しい顔で黙り込むミソラを、怪訝としてトウヤは見下ろした。
「お前にやった図鑑に載ってなかったか?」
 載っていた、知っている。図鑑に描かれたイラストで、姿かたちの概要も分かる、けれど。
「……なんだか」
 字面にはなかった、その音の持つ響きは、なぜだろう、胸の柔らかい場所をくすぐって――そして、ほくほくと温かくする。
 甘いミルクを飲んだような、熱いお風呂に浸かったような。あのじんわりとした、深く沁みこむ幸福さが、胸に波紋を打ったのだ。イメージは茜色。砂漠の広大な夕焼けみたいに、心を豊かにする響き。不思議だったが、嫌ではない。寝転がったまま両手を胸に当てて、ミソラはトウヤに微笑んだ。
「聞いたことがある、気がするんです。昔から知ってる名前だったような……」
 そう、僕は、『バクフーン』を知っている。
 思い出すこと自体が苦痛だったこともあったし、無視をしようとしたこともあった。けれど『思い出した目標を達成する』と決めた今、記憶の鱗片は、すべてが大事な手掛かりだった。本屋の、きっちりと整列された本棚を見て、懐かしいと感じた。家の店先の、ガラスの窓に触れると、この冷たさを知っていると思えた。考えてみれば、記憶の『ヒント』のようなものは、日常のいたるところに転がっていた。拾ったピースを組み合わせれば、いつの日にか、パズルは完成するはずだ。殺しのことを考えれば憂鬱だけれど、一方で毎日は宝探しのような、そんな軽やかな気分にもなれた。
 今ミソラが拾い上げた、この『バクフーン』という音だけの欠片も、最後の扉を開くための、大切な鍵かもしれないのだ。
 ゆるく微笑むミソラを見て、トウヤはかすかに、驚いたような顔をした。
 一瞬笑って、すぐに前を向いた。進行方向反対側で、正しくは後ろなのだけれど、開かれたままの幌の外を、遠ざかっていく何もない場所を。その目はじっと見つめていた。
「そのバクフーンに、お前も世話になったのか」
 低い声は、穏やかだった。
 流れる景色を眺めるトウヤも、懐かしんでいるようだった。
 世話になったか。その問いに答えるために、見えない記憶を辿ってみても。当たり前だが、辿り着かない。『バクフーン』という五つの音が叩く扉の、小窓の向こうは、白く霞んで何も見えない。けれどそこには、『宝探し』に相応しい、何かきらきらとしたもの、それこそ、空っぽのボールが放てた光に似たきらめきが、存在しているに違いない。
「はい。……きっと」
 きっと、そうに違いないのだ。
 ミソラがそう答えると、そうかと零して、満足げに、トウヤも微笑んだ。
 車輪の回る単調な音が、沈黙の合間を埋めていた。長く長く、彼は目を閉じていた。
 

 少しすると、仮眠を取ると言って、トウヤは横になってしまった。
 直前に飲んだ白い錠剤は、『灰』と呼ばれる『死の閃光』の残留物質、それに過剰反応する体を抑えるための常備薬だ。爆心とは真反対の今回の目的地、ヒガメという町でも、その薬が必要になる。副作用として起こる強い眠気は、どうやら不眠気味のトウヤをも負かすらしい。
「お師匠様が寝てても、この運転手さん、ちゃんとヒガメに連れていってくれるでしょうか。騙されても、私じゃ気付けないかも……」
「あのウインディ、見たろ」
「立派ですよね」
「ああ。素直で堂々として、とても良いポケモンだ。よく躾けられてるし、主人のことも信頼してる。良いブリーディングをする人っていうのはな、間違いなく良い人なんだよ。だから心配ない」
 断言するのがおかしくて、ミソラは笑ってしまった。ミソラからして『良いポケモン』を連れているトウヤは、じゃあ良い人で間違いない。そう言い返そうかとも思ったが、思いついた時には、もう目を閉じてしまった後だった。
 途中一度休憩をして、運送屋にお昼を分けてもらった。粘土のような携帯食料とささやかなビスケットだけで三日生き延びてきたミソラには、土汚れた手がくれた塩味だけのバゲットも、天に昇るほどおいしかった。
 止まっている間も、また動き出してからも、トウヤは一度も起きなかった。身動ぎ一つしなかった。死んだように眠っていると男に笑われていたけれど、本当にその通りだった。
 長い旅路だ。けれど、中でも特に長い半日だ。狭い荷台に体を縮め、左右からニャース達に睨まれ、喧嘩になりそうなリナも出せず、トウヤに残され、ひとりぼっち。軽快に歩んでいくウインディのたてがみを見たり、足をぶらつかせ鼻歌を歌ってみたりしても、なかなか時間は過ぎていかない。
 流れていく景色。真っ白に輝く砂漠、冷たく澄んだ青い空。
 ふと思う。
 あの雨雲は、どこに行ったのだろうかと。
 大雨のココウスタジアムで、最後の試合をした。雨を飲みながら泣き崩れたミソラを、トウヤが強く抱きしめた。寒かった。温かかった。苦しかった。嬉しかった。あの夕方、彼とタケヒロと三人で、空に架かる虹を見た。
 あの日以来、ココウに雨は降っていない。例年十日ほど続くと言われていた雨季は、たったの三日で過ぎ去ってしまった。水涸れになるんだろうかと、ハギが頬を撫でていた。雪がそこまで降らないなら過ごしやすくていいでしょうと、トウヤは笑っていたが。
 楽しみにしていたのにな。と、誰にも聞かれない声で、口の中で、ミソラは呟く。
 タケヒロと、話してたのに。本当に楽しみにしていたのに。雪だるまとか作って、雪合戦とかして。かまくらを作って、皆で雪に足跡をつけたり、飛び込んだり、笑い合ったり、あったかいごはんを食べたりして。
 そしたら、もっともっと、雪が降って、ずっとずっと降り続けて、うずたかく積もって、家が、雪に埋もれてしまえば。いや、町の外まで、埋もれてしまえば。世界中が、深い雪に埋もれてしまえば。
 トウヤは、外に出られない。少なくとも、冬の間は。そうやってココウに閉じ込めておけば、彼がココウから消えてしまうこともない。
 からからと、車輪の音が、二人の体を運んでいく。
 春夏の服を、彼が処分していた。気付いたけれど、どうしてそういうことをするのか、ミソラは聞けなかった。きっと上手な嘘をつかれるから、聞いたって仕方なかったから、だから聞くこともできなかった。
 そっと見下ろす。細い肩。ガタゴトと揺れる荷台で、浅く眉間に皺を入れて、少し苦しげに眠っている、彼の横顔を。
 ずっと。
 ずっと。
 ……ずっと、見ていられれば。ずっと、このまま二人でいられれば。どれだけいいだろう。このまま時が止まってしまえば、運送屋が僕らを騙して、荷車がどこにもつかなければ。永遠に車輪が回り続ければ。ずっとこうして死んだように、自分の隣にいるのだろうか。
 雪が。雪が、降れば。いいのに。早く雪が降ればいいのに。
 雪が降るなら、たくさん降るなら。
 それまでは、恥ずかしくても、この手を握っていてもいい。しがみついていてもいい。
 空を見上げる。ため息が出る。
 そこには彼が自分にくれた、この美しい名前と同じ、晴れ渡った空だけが。どこまでもどこまでも、続いている。

 雨雲は一体、どこへ行ってしまったのだろう。







 

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