本と言うと、色々と思い出がある。読書家であるトウヤの部屋に居候を始めた日から、生活の傍には常に本があった。エイパムのロッキーと出会ったときも、読みかけの本を開いていた。土色の肩掛け鞄には長らく本ばかり詰まっていた。譲り受けたトレーナーの基礎教養本はメモ書きだらけで驚いた、ぼろぼろのポケモン図鑑を捲ると心が弾むようだった。チェリンボの悩みを本で得た知識で解決したりしたこともあった。ミソラが眠りにつくときは、手元にランプを付けて、トウヤはいつも難しい本を読んでいた。彼の本棚には、結構しっちゃかめっちゃかに、たくさんの本が詰まっていた。……それも夏頃までの話だが。
 本を売り始めたことも、私物を処分していったことも。きっと予兆なのだし、ともすれば気付いて欲しいのかもしれない。彼を一人でヒガメに向かわせるのが怖かった。アズサとの仕事の一環だと分かっていても、置いていかれるのは嫌だった。今こうして、ひとりきりで置いていかれてしまったのも、本当は怖くて仕方ない。
 何列も立ち並ぶ、天井まで至る巨大な本棚。それらの間の狭い通路を、ミソラは一人で歩いている。
 ココウでは絶対に拝めない立派な書房を気にしていると、トウヤは宿を探しに行ってしまった。店内は静かだった。色とりどりの情報の中を海藻のように揺蕩っていると、漫然とした心地になって、時間の感覚も朧になる。最新の図鑑で『バクフーン』の写真を見てみたかったのだが、書房は広く、目当てのコーナーにはなかなか遭遇できなかった。一口にポケモン関連の書籍と言ったって、バトル指南書から神話、進化学、ファンブックに至るまで、目が回るような冊数だ。
 それらしい文字を探して背表紙の上を撫でていた指が、ある一冊に引っ掛かって、ミソラは足を止めた。
『携帯獣が引き起こす記憶障害』
 相手は本なのに、まるで目が合ったような錯覚がした。
 記憶障害。縦に並ぶ、終わりの四文字が、他の文字から浮かび上がる。するすると、口から喉奥へ引き込まれていく。
 全く無意識に当たり前に、ミソラはその本を引き出していた。
 ずしりと重い本だった。白一色のハードカバーに、タイトルだけが艶めいている。二百項近い学術書。空白を隙なく埋め尽くすように、ずらずらと字が連なっている。記憶障害に関する基礎知識の説明と、それから実際の事例が掲載されているようだ。そして事例に関わるポケモンとして、いくつかの名前が挙げられている。
 目次に知らない名前を見つけた。その項を開いてみた。記憶喪失を引き起こすポケモンとして、知らない姿が紹介されていた。
(……オーベム……)
 トウヤに渡された図鑑には、載っていなかったポケモンだ。 
 オーベム。ブレインポケモン。モノクロだが写真もあった。生き物というより置物の方が近い姿が、どことなく恐れを呼び起こす。頭部はやたらと縦に肥大し、目元が不気味に光っている。顔面から、表情というものが剥落している。虚ろにこちらを見つめている。目が合ったような気がした。先程本自体と目が合ったような気がしたのは、実はこの写真に見られていたのではないだろうか。
 知ってはいけないことを知ろうとしている。微かな背徳感がある。けれど導かれるままに、その項を、ミソラは恐る恐る読み進めた。
 静謐が迫ってくる。その威圧感は、息苦しさを伴っている。

 脳を。
 相手の、脳を、操作する。
 記憶する、映像を、違うものに書き換える。

 そんなことが書かれていた。他人の脳に侵入し、その記憶を閲覧する。奪う。改竄する、抹消する――それは、つまり、意図的に。

 意図的に人の記憶を消すことが、出来るということだ。

 オーベムの項目の最後の行まで読み終えて、ミソラは一旦本を閉じた。
 息をつく。
 店の中なのに、寒かった。指先は凍えきっていた。
 鼓動は速まって、血液は末端まで届かない。全部脳味噌に送られて、幾重もの複雑な網目の中を、永遠に巡り続けている。
 その脳味噌が、繰り返す。
 ――僕のものだ。
 ――この思考は、僕のもの。
 ――誰かに操られている訳がない。
 なんだろう。
 乾いた唇を舐めて、瞼を下す。瞼の裏は静かだった。動揺していないと言えば嘘になる。けれど興奮していると言うには、程遠いと思う。やはり心が冷たいからか、この期に及んで、案外冷静でいられている。
 目を開けた。指を挟んでいた項を開いて、最初の行から読み始めた。
 随分と長い時間をかけて、ミソラは一文字ずつ紐解いていった。ここがココウとは遠く離れて、トウヤも傍に居ないなんてことは、すっかり頭から消え失せていた。
 他人の、脳を、操る……、なんて。
 ……いくらポケモンと言ったって、そんなこと出来るとは思えない。少しでも落ち着きを取り戻せば、そう疑わざるを得なかった。彼らの生態を紹介する図鑑には多くの『言いすぎ』な表現があり、その例に漏れないのではないだろうか。掲載された事例はいかにも真実そうに書かれていたが、オーベムが犯人だと断定するには、どれも決定打に欠いていた。
 言いすぎだ。あり得ない。本に書かれたお話を、お伽噺として、ミソラは棄却しようとする――けれど。
 けれどもし、本当ならば。本当にこのオーベムというポケモンに、記憶を消す力があるなら。
(僕の記憶は、意図的に消されたのかもしれない)
 と、言うことになってしまう。
 ミソラの記憶のはじまり。それは砂漠の真ん中だ。誰もいない、何もない、空と大地と点々と草花、広く閑散とした世界。それがミソラの目覚めの場所で、ミソラの世界のはじまりの場所だ。そもそも僕は、何故そんなところに突っ立っていたのか。
 考えたこともなかった気がする。湧き出てきたはずもないし、頭を殴られて捨てられたとか、渡り鳥に引っ付いて飛んでいたとか、無理矢理な仮定ならいくらでもできる。けれど周囲に真新しい轍や足跡があれば、鳥の羽が付着していれば、すぐにトウヤが気付いたはずだ。そうではなかった。金髪碧眼の異邦の子は、あまりにも不自然に、例えば単身でテレポートしてきたかのように、何もない場所に突っ立っていた。……そう、寝ていたのではなく、僕は砂漠に『突っ立っていた』。
 一体何のために。
 本当に、――僕の記憶は『消された』のだろうか?
 そんなまさか、と思いつつも、状況の不可解さを考慮するなら全くありえない話でもない。急に目前にたちこめはじめた暗雲に、ミソラは戸惑うばかりだった。野良のいたずらで記憶を失った不運な漂流者、そうではないのだろうか。『消された』のだろうか、誰かに、意図的に。ならば何故、消す必要があったのだろうか。
 本から少し距離を取り、考えてみる。相手の記憶を消したいとすれば、それはどんな時だろう。
 首を傾げるまでもなく、直近のことで、ミソラはひとつ閃くことが出来た。
 もし、トウヤが、本当に。ミソラがリナのことを『道具』だと思ってしまうことに、気付いているのなら。
 その気付きは、確かに消し去ってしまいたい。
 ……気味が悪い。脳が弄られているかもしれないことよりも尚、自分の卑屈な思いつきにこそ、ミソラは嫌気が差してくる。記憶を消す、改竄する、なんて便利な技なのだろう。知られて都合の悪いことなど、この世にはいくらでもある。けれど他人の脳を弄ってまで消し去りたいほどのことなんて、早々あるはずがない。そんなことを、自分が知っていたなんて……
 ……、いや。
 金の睫毛の下の蒼穹に、ふわりと波紋が広がった。
 そうか。
 知っている。

 『誰かは殺されるべき』だということを、まさに自分は知っている!

 跳ねあがった心臓が脈打つのは、獣が怒り狂って檻に体をぶつけるような激しさだった。ぞっと背筋が冷たくなる。思わず顔を上げ、周囲に誰もいないことを確かめた。誰かいたって脳を読まれる訳もないのに、恐ろしくてならなかった。
 つまり、記憶を取り戻した今のミソラは――『もう一度記憶を消される危険』の、真っ只中に立っているのだ。
 得体の知れないおぞましいものに、いつ狙われるかも知れない。喉元をせりあがる恐怖はいよいよ妄想を掻き立てた。例えばこんな筋書きはどうだろう。殺すべき人を僕は見つけて、あの日、その人を殺そうとした。けれど殺しきれなかった。相手はオーベムを連れていて、『殺すべきという記憶』ごと、すべてを消された。
 消されたのだ。やはり自分は、厄介な記憶を持っていた自分は、『奴』に意図的に記憶を消され。そしてテレポートで飛ばされて、砂漠の真ん中に放置された……。

 ……。
 ……、……。
 ……――で。

 一体……、何のために?
 同じ疑問に辿り着いて、溜め息をつきたくなった、ついてしまった。はあぁ。いつも通りの自分の声が、一層間抜けに本屋に溶けた。
 わざわざ記憶を消してまで刺客を生かす理由など、どこにある。殺しきれなかった時点で、自分は当然死んでいたはずだ。万が一、相手が心優しい人間なら、殺意を振るわれた相手でも報復を躊躇うかもしれない。けれどあの女の人の『大切な誰か』を殺したのが、そんな仁徳者であるものか。
 どっと疲れて座り込みたくなった、せめて本を戻したくなった。バクフーンの写真を見るという目標はまだ達成していない。宿を取ったトウヤが迎えに来れば、本屋を出なければならないのだ。
 まあ貴重な手掛かりには違いない上、ココウじゃ多分売ってない。戻しかけた本をミソラは仕方なく押しとどめる。お小遣いもあるし、荷物も余裕がある、買って帰ろう。もう一度本をパラパラ眺めてみて、また見覚えのないポケモンの写真に、ふと目が留まった。
 写真が遠くて粗かった。紹介されているのはユクシーというポケモンで、やはり名前にも覚えがなかった。普段は眠ったように目を瞑っているのだが、その目は、他の生き物と目を合わせただけで、なんと記憶を消せるのだそうだ。
 なんだか呆れて、声も無く、ミソラは笑ってしまう。
 世界にはとんでもない謂れを持つポケモンがいるものだ。これこそ『言いすぎ』に違いない。粗い写真の中のポケモンは、ココウで見かけても不思議でないような、ひ弱で愛らしい姿に見える。こんなに小さなポケモンが、そんな神様みたいな能力、持ってる訳がないじゃないか。

 本、というと、色々と思い出がある。暴走バクーダに追いかけられて捻挫をした時、絶対安静を強いられたミソラに、トウヤが本をプレゼントしてくれた。アチャモが主人公の小説で、本自体にも号泣させられたし、アズサとタケヒロを巻き込んだ本を巡るアクシデントもあって、あの時は楽しかった。
 アチャモに所縁があるなあ、と思う。そういえば、モモちゃんは最近、呼びかけに答えなくなった。ずっとここにいるっていうのに。





 人だかりに閉じ込められた少年が、くるくると踊っている。
 継ぎ接ぎだらけの勝負服。お気に入りの緑のブーツは、使い込まれて汚れが目立つ。伸びやかな高音、毬の跳ねるような軽やかなリズム。とんとんと鳴らす爪先の間を、ポッポが滑り抜けていく。ピジョンの起こした巧みな風がモンスターボールを宙に浮かす。どっと沸く歓声に応えるように、人差し指で回したもう一つの紅白球が、ポッポの嘴に奪われる。それぞれのボールを交錯させながら大小の二羽が楽しげに交わる。どこからともなく手拍子が始まる。人々は笑顔で空を見上げている。
 天使のようなボーイソプラノと、褒められたことがある。自分の声に自分でも自信を持ってきた。人を集めているのは、金を稼いでいるのは、だから自分なのだと思い込んでいた。
 けれど、この秋、タケヒロは気付かされたことがある。
 演舞を終えて投げ賃をせがんでいると、まだ誰かに見られている気がして、顔を上げ振り返って少し驚く。ココウ中央大通り、ピエロ芸を披露していた広間のきわに、見知った子供が立っていた。
 気安く挨拶をするような間柄じゃない。舌打ちが漏れることさえあるが、今日はそこまで苛立たなかった。タケヒロが昔世話になった捨て子グループの、今のリーダー。エイパムのロッキーを従えていた背の高い捨て子少年だ。
 タケヒロも彼も、よく似た境遇だった。赤ん坊の頃にココウに捨てられた。今はいなくなった当時のリーダーに拾われて、二人一緒に育てられた。よく遊んだし喧嘩もした、ほとんど兄弟だと思っていた。タケヒロがグループを抜けた時、一番憤慨してタケヒロを殴り続けたのも、また彼だった。
 記憶の中より更にやつれたのではないだろうか。もうじき雪が降るような時期に見るに堪えないほどの薄着で、目のふちも頬も、黒く汚れて窪んでいる。ロッキーをリューエルに奪われた時、あの泥棒猿は『骨と皮』だったけれども、今の彼はまさにそういう風だった。
 遠巻きにこちらを見ているだけで、黙り込んでいる。紙幣を咥えたツーがちょんちょんと近づいてきて、同じく紙幣を咥えたイズがはばたいて頭のてっぺんに留まる。今日の稼ぎは上々だ。これだけあれば、冬の備えはバッチリだろう。……相手が何も言わないので、痺れを切らして、タケヒロは立ち上がった。
「ロッキー、帰ってきたのかよ?」
 膝を叩くだけの時間をくれてやる。返事がないのは、そういうことだ。声を掛ければ逃げるかと思ったが、枯れ木のように突っ立っている。大袈裟な溜め息で煽ったって、黒い穴が開いているだけの死んだ表情は、相も変わらず死んだまま。
 亡霊、みたいだと思った。飢えて、寒くて、盗みなんかを働き続けて、人に恨まれ、世を恨み続ければ、こういう顔になっていくのだ。
 頭上のイズの嘴から、紙幣を全部掴み取った。ずんずん歩いていくと向こうはわずかに瞠目して、やっぱり逃げはしなかった。相当困窮しているらしい。
 右手の紙幣、今日の稼ぎのだいたい半分を、彼の方へと突き出してみせる。
「これでモンスターボールでも買えば?」
 最大限に尖らせた声など、久々に出した気がする。こいつらと『あいつ』に対して使う用の声だったのだが。
「そんで、ポケモン捕まえてさ。また盗みでもさせて生きていけばいいんじゃねえの?」
「どうしてお前の情けなんか受けなきゃいけないんだ」
 やっと放たれた声はそれもよく似て刺々しくて、怒気を孕んで、そして悲しいくらいに、覇気がなかった。すきま風みたいな掠れた声だった。屈辱に歪む唇は無残にひび割れて、血が滲んで震えている。
「一人だけ、抜け駆けしたお前になんか……!」
 惨めに吊りあがった彼の目は、別の道を歩んだ場合の、そうだったかもしれない自分の目だ。
 ――口を引き結んで、拳を握る。手の中で紙幣が、ぐしゃりと音を立てて潰れる。
 その握り締めた紙幣を、少年のよれたズボンのポケットへ、勢いよく突っ込んでやった。
 すぐにくるりと踵を返すと、呆れた顔でツーが見ている。頭上のイズが嬉しげに頭を小突いてくる。胸倉を掴んで服の中に入れてやれば、もっとせいせいしただろう。けど殴り返されたら面倒だ。こいつが喧嘩が強いこと、殴られたら痛いことを、タケヒロはちゃんと知っている。
「お前、守らなきゃいけねえんだろ。チビたちのこと。なりふり構ってられねえだろうが」
 そう、力がなければ、何も守れない。
 言ってやりたかった。俺は強くなるぞ、と。だからお前も強くなれと。背後の足音が走り去っていく。ああ。やってやった。引き結んだ口角が、ぐいと上がった。ばくばくと弾む心臓から熱が溢れるようだった。最高に気分が良い。優越感なんてものではなく、過去の自分を精算したような、高尚な達成感に満ちている。一枚皮を脱ぎ捨てたか、もっと言うなら生まれ変わった、そのくらいの清々しさだ。
 頭の上のイズと、そして肩に乗ってきたツーと、それぞれ拳と翼を打ち合わせた。さあ、稼ぎで祝杯といこう、意気揚々と前を向けば――、
 青天の霹靂。見てはいけないものを見つけて、少年は大いに飛びあがった。
「ターケちゃんっ」
 商店の屋根に腰かけていた女レンジャーが、片手を振りながらニヤニヤしている。
 ――イヤ、イヤ待て、なんだその呼び方。
 ガッと顔の温度が上がったのは、気のせいならいいが、そうではない。結構な人波が怪訝と見上げているのにも構わず、パクパク口を開閉する少年の手前めがけ、女は軽やかに飛び降りてきた。すとん。首に巻いているチリーンが、念力で衝撃を吸収した。
 真っ赤なレンジャー服、冬でもショートパンツは相変わらずだが、先日まで惜しげも無く披露されていた生足が漆黒のタイツに包まれている。制服を覆うマントが翻る。長く彩られた睫毛が、フードの下へ、誘い込むように瞬いている。ホントに純情をいたぶるのが上手い。
 タケヒロは仰け反りながらも、せめて格好をつけようと、落ち着きを装ってこう言った。
「よっ、アズサ。偶然だな。制服ってことは、パトロール?」
「見てたわよ、一部始終。優しいんだ、タケちゃんって」
「――……ッ、いっ、いやだから、だからなんだよその呼び方ッ!」
 結局いつもの調子に戻ってしまって、女はけらけら笑うし、ツーとイズもけらけら笑うし。「タケヒロくんってよそよそしいかと思って」なんて言われれば、んな子供っぽい呼び方嫌だって! と叫びたくもあり、ついに仲良し扱いしてくれるんだヤッホー、と踊り出したくもあり。どっちも言えずに茹であがっているタケヒロをひとしきり笑ってから、肩のピジョンへと、アズサはふわりと笑顔を咲かせた。
「ツーちゃん、進化しても頑張ってるじゃない、ピエロ補佐。翼が大きくなって具合が違うだろうに、偉い偉い」
「そっから見てたのかよ」
「一部始終って言ったでしょ。……一応聞いておくけど、体は大丈夫そう?」
 問われた意味が分からなくて、タケヒロは右側に視線を移した。ツーも首を傾げている。
「なんで?」
「副作用とか……一度飲んだだけで、さすがに禁断症状までは出ないでしょうけど」
「飲んだって?」
「だから、薬を」
「クスリ? なんの?」
「……ん、え? あれ……?」
 いつもズバズバと切り込んでくる女が困惑している様を見るのは、何が起こっているのか分からなくても楽しい。眉間に皺を寄せて黙考する主人に、チリーンのスズが涎を垂らしながら頬擦りする。
「……グレンさんのところで、何してたの? ミソラちゃんとの試合の前の日」
 アズサは遠慮がちに問うてきた。
 そこまで知ってんのか、と剥れかけたが、逆に考えるなら、そこまでしか知らないのか。件の大男を想起して、タケヒロは目を丸める。年長三人で観戦していた間に当然話題には上がっただろうが、具体的なことをグレンが話さなかったのなら、気を遣ってくれたのだろうか。自由人らしからぬ心配りだ。
 あの家であの男に、強くしてくれとひたすら懇願していた。自分を省みてみると、タケヒロはとんと恥ずかしくなる。
「グレンのポケモン達に戦い方を教えてもらってたんだよ。……俺じゃなくて、ツーとイズが」
 頬を掻きながら正直に話すと、アズサは意外そうに目を瞬かせた。
「ホラ、こいつら、本気で戦ったことなかったからさ。吹き飛ばししか使えなくても戦えるような戦法を、皆で考えてくれてたみたいだ。まあ俺はポケモン語分かんねえから、詳しくはサッパリ」
「……それだけ?」
「それだけだよ、ったく。グレン自身はなーんにも教えてくれなかったからな。俺は直接指導してもらいたかったのに」
 口を尖らせて愚痴れば、アズサはやはりきょとんとして、しばらくツーを見つめ続け。
 ……そして、ゆるゆると口元を緩め始めて、やがて気が抜けたように笑いはじめた。
「なんだよ」
「いいえ? ああそう、そうなんだ、あはは、そっか。……やっぱり好きだなあって思って、グレンさんのこと」
 お兄さん、どんな顔するんだろ。笑いながら言う彼女の言葉はちっとも理解できなかったが、なんだか嬉しそうだから、よしとした。

 商店街の惣菜屋でおやつのコロッケを買ってもらった。ミソラとよく遊ぶ裏路地のドラム缶に腰かけて、二人で並んで食べた。風もあり、日陰にいるとかなり寒く、ほくほくのコロッケの甘みと温かみが身に沁みた。このコロッケは、グレンが好んで買う奴だ。グレンって自分にだらしねえから、いつも同じもんばっか食ってる。昔もこうやって、グレンに何度か買ってもらって、三人で並んで食べていた。
「三人、ね」
 タケヒロがうっかり漏らした言葉をアズサが耳聡く拾った。内心慌てつつも、とりあえず無視を取り繕った。
「ツーもイズも油っこくて食わねえんだけど、俺は嫌いじゃないなー。こないだ家行った時も食っててさあ。まだ好きなのかよって。あいつだけはホント変わんねえわ」
「タケちゃんって、グレンさんと前から知り合いなんだっけ」
「うん、ま、なんっつうか」
 グレンと知り合ったきっかけを語るなら、避けて通れない場所がある。
 ちょっとだけ言い淀んだ。頑なに遠ざけてきた話題だった。だが、懐かしい甘さが口の中いっぱいに広がっていると、気持ちも自然と緩まってくる。少しくらいなら話してもいい。
 アズサといると、見栄を張りたい男の自分と、全部受け止めてほしくなる幼稚な自分が『いっせーのーせ』で顔を出す。一応男のミソラとは全く違う感覚だ。
「先に知り合ったのはあいつの方で、グレンは面白がって後から……」
「あいつって?」
「だ、だから……だからあいつだよ」ツーとイズが目をニヤつかせてこちらを見るのを、タケヒロは苦い思いで見返した。「……トウヤ、……だよ」
 ああクソ、久しぶりに、名前を呼んでしまった気がする。名を聞くだけで反吐が出て、姿を見るだけでイライラしていたのに。ミソラという間に置かれた繋がりが、もうなんか、全部めちゃくちゃにしやがった。
 らしからぬ言い淀み方をする少年を、女は小首を傾げて覗き込む。
「じゃあお兄さんとの方が、付き合い長いんだ。タケちゃんって」
「……まあな。つうか、と、トウヤ、……は、さぁ……」
 トウヤ、は。か。
 ……違和感が堪えられなくて、頭を抱えた。貰ってきたパンの耳をつついているツーとイズが、ぷるぷる笑って震えている。スズにコロッケを齧らせているアズサが、不思議そうに見下ろしてくる。もう。最悪だ。名前を呼んだからではなくて。
 考えてみれば、三年ほど前に強制停止させたトウヤとの間の時計の針は、この春ミソラが現れてから、急速に動き出していた。あいつのことはまだ嫌いだし、飄々として馬鹿にしてきて何考えてるかも分からないし話していると腹も立つが。空白の時間の埋め合わせは、いつの間にやら、うっかり終えてしまったのだ。大雨の日。あいつの部屋でミソラと三人で話をして、なんだかんだで楽しかった。ミソラとリナを下す圧倒的に強い背中も、チリーンをぶん投げられて倒れる姿も、皆で写真を撮ろうとしたことも、打ち合った右拳のじんとした痛みも。悪くない思い出として、タケヒロの胸に収まってしまった。
 コロッケが腹の底に落ち着いて、懐古心を温めている。鬱陶しいことこの上ない。
 あーもう、と叫んで膝を打った。不機嫌と覚悟がないまぜの妙に締まらない紅顔を、ぐいっと、少年は引き上げた。
「……今だけ……」
「ん?」
 そう、今なら。今なら、トウヤは、この町にいない。ついでにミソラもいない。聞かれて困るヤツは誰もいない。
「今だけ昔の呼び方に変えていい?」
 違和感の正体を超絶早口に前置きしてぽかんとするアズサに誰にも言うなと念を押して、コホン、と、わざとらしく咳払いしてから。……本当に耳の端の端まで真っ赤に顔を火照らせて、タケヒロは話を再開した。
「……だから、『トウヤ兄ちゃん』はさぁ……」
「ぶはっ!」
「笑うなっつったじゃんッ!」
 大声で叫んでも無駄だった。言ってない聞いてない、と腹を抱えて笑いながらアズサはぶんぶん足を揺らした。踵がドラム缶をガンガン鳴らした。
「もう一回言って!」
「言うよ別に、トウヤ兄ちゃんだよ、兄ちゃんなんだようっせー悪いか!」
「悪くないわ、あー、最ッ高」
 何が最高だと言うのか、こっちは最悪だ。歯を剥き出して唸る少年は、隣で身を仰け反らせて笑いまくっているピジョンをしばいても尚、火を噴けそうなくらい体が熱い。けれどやっぱり、……この方が自然だ。あいつは『トウヤ兄ちゃん』なのだ。
 まだ捨て子グループに居た時、そこで世話になった年上の連中は皆『兄ちゃん』で、あの頃のタケヒロには兄ちゃんがたくさん存在した。トウヤはグループの一員ではなかったが、タケヒロにとっては兄ちゃんに匹敵する人物だった。
「三年くらい前だけど、トウヤ兄ちゃんと、あとグレンにも、世の中のこととか生き方とか……、色々教えてもらってたことがあってさ」
 二人の年の離れた兄貴にからかわれ続けたあのひとときは、――とても短かったけれど、タケヒロの今までの人生で、最も幸福だったと言ってもいい。毎日腹が捩れるほど笑って、喉が枯れるほど話をして、たらふく飯を食わせてくれて、色々な人に会わせてくれた。トウヤが目を掛けようとしなければ、閉塞した裏路地の隅で、亡霊に成り果てていたに違いないのだ。
 あの日々の先に、タケヒロは確かに一人になった。けれど決してひとりぼっちにはならなかった。
「すっげぇ世話になったんだよ、俺、トウヤ兄ちゃんには」
「そうなの?」
「ツーとイズのボール買ってくれたのトウヤ兄ちゃんだし、まだピエロで稼げなかった頃に、俺に飯食わせてもらえるように、ハギのおばちゃんに頭下げてくれたり」
「へぇ。なんか、意外」 
 アズサが微笑む。そりゃそうだ。タケヒロだって、あいつがおばちゃんに頼んでくれていただなんてこれっぽっちも思わなかったし、随分長いこと知らなかった。
 考えるまでもなく、次々言葉が滑り出ていく。誰かに言いたかったのかもしれない。自分が仇を成しているあの男に、実は恩義があるのだと、打ち明けたくて、ずっと、ずっと。恨んで責任転嫁して、当たりもせずに無視を続ける、それを黙って許容してくれたトウヤに対して、後ろめたさなどないと信じ込んできた。そうだと思いたい自分がそうさせていた。けれど本当は、吐き出したくて仕方なかった。
「秘密基地、あるだろ」
「ええ」
「不思議だったんだよ。金とか貴重品置いてるのに、全然盗られねえの。グループで生きてた時は、盗み盗まれの毎日だったのに、あいつらのとこより盗みやすいはずなのに盗まれなくて……おっかしいなあと思ってたんだよ、そしたらさ。トウヤ兄ちゃんがさ、この辺の輩を叩いて回って、俺に手ェ出さないようにしてくれてたんだってさ」
 笑っちゃうよなぁ。スゲェんだよ、あいつ。
 言いながらからから笑うと、胸が震えて、心が零れそうになる。慌てて押しとどめて見上げる空は、吸い込まれてゆけそうなほど、すんとした青に澄み渡っている。
 思い返せば、なんて馬鹿な奴だろうか。捨て子グループを抜けた瞬間からタケヒロはトウヤと口を利くのをやめて、必死にこしらえた第一秘密基地に何度も様子を見に来た彼を酷い言葉で追い返していた。勝手に孤独になったタケヒロを手助けする道理なんて、これっぽっちもなかったのだ。
 曝け出す言葉を、時折相槌を打ちながら、アズサは聞いていてくれた。許してもらえているのだと思えた。もっともっと、話したかった。知ってほしくて仕方なかった。
「俺さ、」
「うん」
「……あのな、」
 息をついて、振り返る。主人を見守るツーとイズ。いつの間に笑うのをやめていた彼らに、タケヒロはまっすぐ手を伸ばした。
「ずっと一人で生きてきたって、思ってたんだよ。でも、違うんだなって気付いたんだ」
 相棒たちを抱き寄せると、いつでも日向の匂いがした。その匂いを嗅いでいると、いつも無意識にほっとしていた。悶える毛玉をぎゅうぎゅうと強く締め付ける。今まで二羽に出会ってから、何度こうしてきただろう。空気を含んだ彼らの羽毛は、捨て子の何よりの温もりだ。
「痛いのって嫌だろ? だからツーもイズも、戦わせるの嫌だった。ちっちゃい小鳥だったしさ、俺が守らなきゃ、食わせてやらなきゃって、ずっと守ってる気になって……守られてたのは、本当は俺の方なのにな」
 二羽は芸を覚えて、いつの間に強くなって、タケヒロを支えてくれていた。どんなに暑い日も雪の日も、タケヒロを食わせるためだけに懸命に働いてくれていた。なのに、自分に必死になりすぎて、ポケモン達の努力なんかちっとも知ろうとしなかった。
 ココウスタジアムで、二羽は夢中で翼を奮い、タケヒロはただ安全な場所からがんばれがんばれと叫び続けた。自分がどうしようもなく無力なことを、ずっと助けられていたことを、あの敗北で痛感した。
「こいつらだってめっちゃ頑張ってくれてるのに……本当の意味で、ちゃんと見れてなかったんだよ」
 ごめんなと顎を寄せる腕の中で、二羽はこそばゆそうに笑っている。
 ずっと一緒に居てくれた。一緒に居てくれる心強さに、気付いてさえもいなかった。それは、ツーとイズだけじゃない。トウヤだってハギだって、グレンだって、昔の兄ちゃんたちだって、もう会話もできなくなった『兄弟』だったあいつだって……、そして今は、ミソラだって、勿論、ここにいてくれるアズサだって。
 隣で、傍で、遠くから、影から。応援してくれる人がいる、支えてくれる人がいる。たったそれだけのことを、やっと、知ることができたのだ。
「一人で生きてきたと思ってた。けど、俺、全然一人なんかじゃなかったし、色んな人に助けられてばっかなんだ。それを皆に感謝もせずに、一人で生きていけてるって、勘違いもいいとこだよなァ。恥ずかしいよ」
 そう言って、道化の少年はにかっと笑う。
 言えた。笑えた。……ああなんか、めちゃくちゃすっきりした心地がして、食いつく残りのコロッケが、甘くてうまくてたまらなかった。好きな女一人どころか、手持ちポケモンさえ守れない。これがタケヒロの今の姿で、それを認められたから、だからここから、強くなれる。
 思いを寄せている相手にこんなカッコ悪い話、しないほうがよかっただろうか。今更後悔しても遅いけれど。隣のアズサは指先を絡め、視線を下げて微笑んでいた。ゆっくりと話を飲み込むようにして、一息。
「耳が痛いな」
 そして、ぽつりと呟いた。
 目を向ければ、揺れるフードの影の先で、睫毛が夕陽色にきらきらと濡れて、瞳も鮮やかに光を浴びて。近隣に仲間もいない中、ココウという田舎町に単身駐在する孤独なポケモンレンジャーは、強くてきれいな顔をしている。けれどやっぱり内側は十八歳の女の子で、タケヒロにはうんと大人に見えるけれど、それでもその表情は、たまに涙で歪むのだ。
「私も、一人で生きてると思ってた。誰にも頼りたくなかったし、そんなのかっこわるいと思ってた。人に頼るのって、情けなくて」
「俺もだ」
「情けないって、思われるのって、怖くって……」
 でも。片手で覆おうとした顔が、確かに笑んで、前を向く。
「でも、……クオンのキャプチャミッションの時、皆に助けてもらったでしょ。あのとき思ったの、まだ新米で何も出来ないし、嫌になりそうな日もあるけど、もう、助けてくれる人たちもいて……、だから、きっと大丈夫だって。結局、ひとりぼっちで生きられるほど、強くなんてないのよね」
 強くなんてない。傍目に見れば、タケヒロよりうんと『強い』はずのアズサでさえ、そう認めざるをえないのだ。
 はぐれもの。一匹狼。そんなふうに、自分のことを捉えている。けれどその実、個人は弱い。
 ルカリオを皆でキャプチャした時、タケヒロたちの助力をアズサは突っ撥ねようとした。タケヒロは本気で激昂して、みっともなく泣き喚いて怒っていた。最近のタケヒロは怒ってばかりだ。でもそういえば、ミソラに対して怒っていたのと、アズサに対して怒っていたのは、実は構図はよく似ている。
 最後の一切れを飲み下して、ミソラがさ、と話し始める。
「ルカリオと戦った時のこと。トウヤ兄ちゃんは強いからアズサの役に立てた、俺たちは弱いから力になれなかった、ってミソラが言ったんだよ」
「そんなことないわ」
「ううん。腹は立つけど、その通りだったんだよな」
 戦える力って、大事だよ。力がなきゃ、何も出来ない。あのときから呪詛のように耳奥に貼り付いているミソラの声は、もしかしたら、もっともっと自分に対して、訴えかけていたのではないか。
「……ミソラが今、なんか、殺すとか、言ってて……」
 ざわつく胸を、抑える。拳を握る。
「うん」
「なんで、俺に、相談せずにさ……俺に話してくれねえんだよ、俺たち、友達じゃなかったのかよ、って、イライラしてたんだけど……」
 スタジアムでの試合前、ミソラに話せないことなんか俺はないぜ、とあてつけのように、ミソラの前で言った。ミソラは「本当に?」と笑うだけで、まったく効いちゃいなかった。
 あんなのは、でも、考えてみれば当然なのだ。
「ミソラの奴、トウヤ兄ちゃんのことは頼りにしてるけど、俺のことは頼りにしてない。ただの友達なんだよ。俺さあ、俺にとってのトウヤ兄ちゃんやグレンがそうだったみたいに……、俺ってミソラの兄貴分なんだと、勝手に思ってた。ミソラにとっちゃ、ただの友達なのに」
 そうかな、とフォローしてくれたけれど、タケヒロは首を振った。
「まあ、分かるよ。俺は強くねえからさ。強くねえから、話したって、何も解決できないと思われてるんだ。……実際、解決できないかもしれないけど……」
 でも。じゃああいつは、トウヤ兄ちゃんはどうなのだと考えた時に浮かぶのは、一瞬でミソラを下してみせた、豪雨の向こうの背中ではない。
 ミソラの試合を二人で見ながら、トウヤと話をしていた時の、あの、――まるで年下の子供みたいな、行き場のない、不安げに強張った表情なのだ。
「でも……、トウヤ兄ちゃんだって、本当は強くねえんだよ」
 あいつが本当に強いなら、あんな顔は、俺になんか見せなかった。
「……うん」
 僅かに間を置いて、アズサは噛み締めるように頷いた。
「そうだと思う。……あの人も多分、一人で生きてると思ってるけど」
「だろ、ミソラのことも、どうせ一人で抱え込もうとしてて、なんか、上手く言えねえけど……、嫌な感じがするんだよ」
 何かが起ころうとしている、それも取り返しのつかないことが。この胸の不穏なざわめきを、正確に表現する力は無い。けれどこんなにもすぐ傍に、タケヒロに頷いてくれる人がいた。一人じゃ無理でも二人なら、この予感を払拭できる、そんな勇気が湧いてくる。なんとかしたい。あのバカミソを助けたい。この日常を守りたい。誰かも分かんねえ奴を殺したりなんか、絶対にさせてやるもんか。日の目を浴びて燦然と輝く眩いばかりの決意たちは、ひとつの答えに収束していく。
 強くなりたい。方法なんかなんでもいいから、どうにかして強くなって、あの馬鹿な二人を、救いたい。
「俺、どうしたらいいんだろう」
 タケヒロの声に、アズサは勢いをつけて、ドラム缶から飛び降りる。
 くるり翻る、黒マント。辺りはすっかり夕暮れに溶け落ちようとしていた。フードが遮る日差しが、鼻と頬の高い部分だけ、橙に描き出している。北風に柔らかく紅潮した頬。チリーンを撫で、歯を見せて、笑う。
「私も、一緒に考える!」
 ――ああ、この人の隣にいると、どうして元気が出るのだろう。
 タケヒロも破顔して、声を上げて笑った。ツーとイズも笑っていた。なんとでもなる気がしはじめていた。彼女がいなかった間悩んでいたのが嘘のように、遠くまで視界が開けていた。
 傍に居てくれてよかった。彼女もきっと、そう思ってくれているといい。そして……ミソラと、トウヤ兄ちゃんもだ。





 帳垂れかかる冬の空、目をさました一等星。ぽってりとまるい、金色の月。
「……あ、見てくださいお師匠様。あのお宿すごく素敵ですね、大きくて趣があって、きらきらして……こんなところに泊まったら、ごはんとってもおいしくて、ベッドもふかふかなんだろうなあ。あはは、きっと大金持ちばっかり泊まってるんですよ……、え? え、あの……えっと、お師匠様……え、ここですか? いやいや、さすがに……、へ? 嘘……? 冗談ですよね?」
 どれだけ疑問符を並べても、閉口を破るにはまるで足りない。
 藍色に染まったヒガメの街。そこで煌々と明かりを灯し、圧倒的な輝きを放っている威風堂々たる建造物――文字通り、本当に文字通りの、絵に描いたような『高級旅館』を前にして。
 ど田舎者の、庶民二人は。
「……えっ、……大丈夫ですか、これ……?」
「……」
 完全に、竦みあがっていた。 






 
 
 <月蝕 TOPへ>
<ノベルTOPへ>