13

 日が短くなった。それを実感できるのは、太陽が沈んでいくのを見られるから。つまり――晴れているからだ。
 雲の切れ目から陽がとろりと溶けだして、街を金色に染めていく。視界は暖色だが、すっかり冬の様相だ。片手をポケットに突っ込んでも、紙袋をぶら提げているもう片手は、どうしたって冷える。肌寒いのは夕方なのもそうだし、雨上がりだからというのもあるだろう。ぐしゅぐしゅの地面に汚れたスニーカーに少なからず気落ちしながら、トウヤは隣へ目をやった。
 ミソラは、口数が少なかった。視線も下がりがちだった。細い指先をほのかに染めて、それをしきりに擦り合わせていた。服は着替えて、乾かした髪は、北風にふわふわとそよいでいた。
 しけた足音を並べながら、二人は無意識に歩調を合わせて、ココウ裏路地を歩いている。
 俯いた頭が弱い日差しにきんきら瞬いているのを眺めて、ふと閃く。マフラーと手袋。本格的な寒気が来る前に必要だ。赤か、白か。その珍しい肌や髪の色へ適当に色を重ねてみながら、そんなことを考え始めた世話焼き加減のおかしさに、思わず苦笑してしまう。これじゃあまるで保護者じゃないか。
 ミソラが怪訝と顔を上げる。その顔をまじまじと見つめてみる。泣いたり笑ったりと相変わらず忙しそうだが、出会った頃よりは少しだけ、背が伸びたのではないだろうか。これでも成長しているのだと、密かに感心するこの頃だ。北の人種なら、じきにうんと長身になって、そのうち見下ろされてしまうに違いない。
 楽しげにこちらを観察してくる男がその理由を言わないので、ミソラは小さく首を傾げた。
「何かありましたか?」
「いや」
 大人になったお前を想像していたなんて言えなかった。へらと苦笑いを浮かべてから、それより、と話を逸らした。
「悪かったよ。騙して勝つようなことをして。……でも、あのくらいは対応できないと、駄目だ」
 家の裏庭でミソラに身に付けさせたことを、逆手に取って、リナを倒した。そんなことをしなくてもハヤテは勝てただろうが、力量の差を身体に叩き込んでやることも、きっと大事だった。
 ミソラはおずおずと首を横に振って、また視線を落としてしまった。けれどすぐに顔を上げて、あの、と遠慮がちな声で言った。
「ハヤテに、喋らずに、指示を出しますよね」
「ああ」
「ボールを叩く音で、指示をしている?」
「ボールマーカーって知ってるか」
「ポケモンの耳に引っ付いていて、ボールが個体を識別するための……」
「ボール本体の集音装置は、ボールマーカーのスピーカーと繋がっている。ボールの中でも外の音を聞けるようにする為の機能らしいが、外にいても作動してるんだ。ボールに小声で話しかけてもこっそり指示は通せるけど、もっと些細な音で指示できた方が、かくれんぼ中に都合が良かった」
 だから子供の頃、ハリと夢中になって『信号』を開発した。ハヤテとメグミには、ハリが教え込んでくれた。メグミはあまり覚える気も乗る気もないが、ハヤテはしっかりと習得してくれた。種明かしをすれば、まだ沈み気味だったミソラの瞳に、若干きらめきが戻った気がした。
「それ、私にも教えてください」
「……難しいぞ」


 崩れ落ちたはずのタケヒロの『家』が、元に戻っていた。
「すごい……」
 ミソラの感嘆を聞き付けたのか、トタンに掛かった仕切り布の向こうから、ばさばさと二羽が飛び出してくる。ポッポのイズと、ピジョンのツー。差し出す腕にツーが留まれば、ずっしり頼もしい重みがかかる。そのピジョンが、「どうにかせい」と言いたげな目で、トウヤの双眸を貫いてくる。
 遅れて顔を出したタケヒロは、なるほど、ムスッと剥れていた。一方のミソラは、後ろでもじもじと尻込みしている。いつもなら黙れと言っても喋るだろうに。
「……何か用かよ」
 彼が低く言った。機嫌が悪いというよりは、『気まずい』というのが正しそうだ。
 厄介を無視したい気もするが、どうにかしてやろう、という年上根性の残骸も、しつこく身の内に居座っている。ピジョンが視線でけしかけてくる。仕方ない。
「こんなんじゃ雪が降ったら潰れるだろ」
「これから丈夫にするんだよ」
「手伝ってやろうか。大工の真似事もできるんだ。うちの雨漏りもあれから直したんだぞ」
「お前なんか信用できるか」「全然直せなかったじゃないですか!」
 二人分の疑う声が重なって、声を重ねた二人は視線も重ねて、強張った顔をほろと崩して。そして、けらけらと笑いはじめた。
 菓子を。持ち上げた紙袋に、捨て子少年は目を丸める。
「お詫びの品です。君にも、迷惑を掛けたので」
「……覚えがねえんだけど」
「いいから。レンジャーの家で一緒に食べよう」
「あ、分かった。お前、なんかアズサに殴られてたもんな。それで謝りに行くのに、ついてきて欲しいんだろ」
「鉄は熱いうちに打てって言うだろ。頼むよ」
 でもまだ修理が、と渋るタケヒロに、やっとミソラが歩み出た。
 穴倉の前に、座り込む。さっと手を伸ばす。すっと身を引いたタケヒロの顔へ、真剣な顔を、突き合わせる。
「行こう!」
 無駄に張り上げた声には、たっぷりの勇気が、込められている。
 ……差し出された小さな手を、きょとんとして、まじまじと、少年は見つめていた。
 長い沈黙が流れた。二羽がこもった鳴き声を上げた。それを聞き、もう少し手を見て、それから目の前にある顔を見た。じーっと互いを見合わせた。片やきっちり真剣なままで、片や、頬を赤らめた。唇を擦り合わせるような変な顔をして、そしてバッと目を逸らした。バッと両手を上げ、パサパサの髪の毛を、これでもか、これでもかと掻き毟り、
「……あーッ、もう!」
 と、大声で叫んだ。
 夕空に声が響き渡り、どこからかヤミカラスが飛び立った。
「しょうがねえなあ、お前らは!」
 少しだけ大きな褐色の手が、白い手を、ふんだくる勢いで掴み取る。
 ミソラはニヤニヤしているし、ニヤニヤしているミソラの前で、タケヒロは口を尖らせながらも嬉しさを隠せない顔をしているし。これで仲直り、また『友達』、か。なんだか居た堪れない心地がして、急激なむず痒さに見ていられなくなって、トウヤはふいと視線を上げた。
 建物に遮られて、それでも十分広い空に、その時あるものを見つけた。
「あ」
 立ち上がりかけていたタケヒロがバランスを崩した。トウヤの声に反応して顔を上げたミソラが、握ったばかりの手を、あまりにも強引に振り払っていた。
「――虹!」
 ……仰ぐ東の空高くに、うっすらと、鮮やかなアーチが架かっている。
 とはいえ、消えかかっている。七色まではとても見えない。四色、いや五色くらいだろうか。おお、とタケヒロが地味な驚き方をする間に、ミソラは飛び跳ねながらそれを捕まえにいった。羽ばたきが起こる。イズがぱたぱたと飛び上がり、明るい空を目指していく。トウヤの腕から重みが消えて、一回り大きなツーの翼が、悠然とそれについていく。
 トウヤもタケヒロも追わなかった。ホンモノ、はじめて見た! なんてはしゃいだ声が路地の向こうから聞こえてくるのを、二人して呆れて待っていた。
「雨は知っていて、傘は知らないけど、虹のニセモノは知ってるんだな」
 苦笑するトウヤが見下ろすタケヒロは、ハァーッと一丁前の溜め息をつく。ミソラが行く先を見つめていた。だがそのうちに、ぶっきらぼうに、吐き捨てた。
「……ありがと」
「え?」
「鉄は熱いうちに打てって、俺に言ったんだろ」
 ん! と突き出されるのは、固く握られた、右の拳。
 手を差し伸べられた時の彼みたいに、完全に呆けて、トウヤはそれを見つめてしまった。意味が分からず――いや意味は分かるが、分からないでもないが。スタジアムではお前のせいでと言われたし、変に脅してしまったし、そもそもほんのちょっと前まで、自分を倦厭していたのだ。顔も見たくない声も聞きたくないと、随分昔から、この子供は。
「なんだそれ」
 だから思った通りを述べた。カッと少年は口調を荒げた。
「グータッチだよ知らねえのかよ」
「……どうして」
「だからミソラとの試合で手加減しなかったろ俺との約束通りッ!」
 べらべら早口に上げ調子で捲し立てるタケヒロの顔が、ますますカーッと赤らんでいく。その顔を見ていると、妙に嬉しさがこみあげてきた。ミソラを負かしたことを、誰かに許してもらえたのだと思った。ふっと心が安らいでいた。
 別にお前に言われたからじゃないんだが、とトウヤは茶化しながらも、すぐに拳を突き返す。
 千切れた青空と、消えかけの虹をバックにする、右と右のグータッチ。思いの外勢いよくぶつかって、コンッと骨の音がして、痛ェよと照れくさそうにタケヒロが笑う。
 その顔を見て、思い出す。グレンの事も。謝らないとな。あっちにも、早めに謝りに行こう。


 戻ってきたミソラは、いつの間にかリナを連れていた。手当てこそ済んでいるが、ボールから出すのはまだ早い。けれどリナが元気そうにしているので、水を差さないことにする。
「あーあ、アズサにはかっこわりいとこ見せちゃったなあ」
 結局誰よりも早足にアズサ宅を目指しながら、タケヒロは頭の後ろで腕を組んでひとりごちていた。ミソラが彼の態度を笑う隣で、はたとトウヤは思いつく。
「お前、あいつのこと好きなのか?」
 何の気なしに問うた。ミソラがぶっと噴き出した。
 鋭いターンで振り向いて、一瞬、凍り付いてから、少年は即座に沸騰した。
「は、は、は、はああぁぁアァァー!?」
 叫んだ。さっきの十倍大声だった。意味もなく地団駄を踏んだ。吹っ飛ぶくらい首を振った。
「ちちちっちちげえしッ! ちげえよ! なんでだよ急に!!」
 タケヒロの頭に乗っているイズは笑ってぷるぷる震えているし、優雅に空を飛んでいたツーも、また胸元を震わせているように見える。進化したって、そういう仕草は相変わらずだ。
「バッカじゃねえの!?」
「何が違うの?」
「全然違うだろバッカ! ばーかばーかバカミソ!」
「いや、違うならいいけど、そうなら応援するよ」
「応援! 面白そう、僕も応援しよっと」
「されたかねえよ!」
 大体なー俺はなー、いやいや今更隠さなくたっていいじゃんか、程度の低い応酬の間に、角を曲がれば。こぢんまりした木造の家が見えてくる。アズサの家。暫く留守にされていた、『はぐれ』な四人の集会所。
 緊張していた。無論久しぶりだからではなかった。二人が喚いているのをよそに、トウヤは昼間の失態を、事細かに回想していた。タケヒロはカッコ悪いとこを見せたと思っているのかもしれないが、おそらくそれは、そうでもない。そう、自分の比ではない。『冗談だよ』、か。『まさか本気にしたのか』ですか。そうか数時間前の僕。じゃあ今、この小さな友人の恋路を応援すると宣言した、だから本当に、アレは冗談だったことにした。それでいいよな。いいんだよな。――土産を提げている手が汗ばんでいることにふと気づいて、こんなに寒いのに、服で手を拭った。ちげーよ隠すとかじゃなくて俺はホントにちげーんだよ、タケヒロが必死に熱弁を奮う。彼女の家が近づいてくる。
「俺はなああのなあ、もっとこう……そうだ、おっ、おっぱいの、デカい女が好きなんだよ!」
 少年が声高に主張した。所謂スレンダーな彼女の体型を思い出してトウヤは笑ってしまったが、だがその次の瞬間、別の――例えば、例えばというかカナミの、あの夏場の薄着の下の、見た覚えもない豊満な胸へ、思いを馳せて。
 すっと真顔に戻った。
「ウッソだあ」
「嘘じゃねーよ、お前みたいなオコチャマには分かんねえかもしれねえけどな! あんなペチャパイ、俺は興味ねーんだよ、へっへん」
「でもタケヒロ、前はふともも」「やめろ!」
「いや、分かるよタケヒロ」
 急に神妙な声色で切り込んできたトウヤのことを、二人ともそれなりにぎょっとして振り返った。
 トウヤはかなり勿体ぶった。それだけの機密事項だった。
 存分に噛み締めて、ぼそりと呟く。
「……重要だな、おっぱいは」
 うん、重要だ。
 気のせいなのだが、ボールからの視線が痛い。
 一拍だけ空白が生まれた。ハッと我に返った同志が、超特急でフォローを入れた。
「だ、だよなー重要だよなー!」
「真顔で言うのやめてください……」
「いや、いいか、いいかミソラ、お前も男なら、巨乳に夢を見ないとだめだ」
「そーだそーだ、ミソラもあと何年かしたら分かるようになるって、デカいおっぱいの良さ!」
「こう、女性らしさの象徴と言うか」
「分かるわあ、その点アズサってさあ、やっぱペチャパイだけに見るからに男勝りっつうか、あいでっ」
 スコーン。良い音がして、タケヒロが仰け反る。イズがばさっと飛びあがる。視界を斜めに横切ったのがキャプチャ・ディスクであることにトウヤはすぐに気付いたが、何故それがタケヒロの額を撃ったのか、そこまでは理解が及ばなかった。
 ふと振り返る、リナとミソラが口を押えて笑っている、その横を。
 ――さあ、豪速球の。叩いても割れない、ガラスによく似た球体が。満面の笑顔を曝け出しながら、男の顔面に、真っ向勝負でぶち当たった。
 ごっ。

 ……額を抑えている人、倒れて鼻を抑えている人を。背後で仁王立ちを決めた人物が、はんと気高く嘲笑う。聞こえとるわ、ヘンタイども。買い物袋を提げたアズサが、戻ってきたキャプチャ・ディスクをスタイラーに収めながら言った。
 それから、ふわっと表情を崩して、呆れ気味の笑顔を見せた。
「いらっしゃい。そろそろじゃないかと思ったわ」
 

 大変申し訳ありませんでした、と頭を下げたはいいものの、何も覚えていない、なかったことにしたから、と絶対零度であしらわれてしまえば、ヘタレには何を為す術もない。どこまでなかったことにしたのだろうか、どこまでリセットされたのだろうか。だがココウ唯一の洋菓子店の手土産は大層嬉しげに受け取ってくれたので、ひとまずは安心してよさそうだ。
 果物がたんとあしらわれた、光り輝くショートケーキ。小さく小さく掬い取り、大事に大事に舌に乗せ、感動に蕩けた目で互いを見合わせる子供たち。その前で、紅茶を入れてきたアズサに、トウヤは『リゾチウム』の話をした。今まで子供には聞こえないようにしてきた話題だが、構わず話してみれば、なんてことはない。タケヒロは全く理解出来ない様子だったし、ミソラは隠しておいてもそのうち探りを入れてくるだろう。ならばついでに聞かせばいい。
「お兄さん、ヒガメに行くの?」
 その町で件の薬物が流行していて、簡単に売人と接触できる。薬物依存の専門家がリューエルには居て、依存患者の委託治療もどうやらヒガメで行われている。調べてみない手はない。だがアズサの表情が曇っているのは、その町で何度も調子を崩した彼を知っているからだ。
 生クリームに顔面を埋め、そのまま動かなくなっている彼女のチリーンを一瞥してから、問いかけにトウヤは頷いた。
「薬を飲んでいくよ。君はリューエルの科学者は好かないだろうが、どんな方法で治療してるのか、それとなく探ってみようかと思ってる」
「無理しないでよ」
「いつも通り、レンジャーの話は出さないよ。君の名前も」
「……私はお兄さんを心配してるんだけど」
 こんなにうまいもん食ったことないかも、と可愛らしい感想を漏らしているタケヒロに同意していたミソラが、少し不安げにこちらを見る。対してトウヤは笑っていた。あんなことを考えてる男にそんなことを言うんじゃない、と口走りかけた余計な事は、ちゃんと内心に留めておいた。

 アズサが調達してきたのはポケモンでも食える焼き菓子だった。チリーンを連れて広間に向かったミソラとタケヒロが、てきぱきと包みを開けていく。遅れてケーキを味わい始めたアズサが顔を綻ばせる、それらを見ながら、ハリ達にも食わせてやろうと伸ばした右手を、トウヤは不意に止めた。
「ユニオンにいると、リューエルの情報もそれなりに入ってくるか」
 ゆるゆると幸せそうな口元を、女は慌てて引き締めている。締まりきってないけれど。
「それなりにはね。実行予定の作戦や人事表が流れてくるんですもの、スパイがいるのね、多分お互いに。でもまあ、私みたいな一般隊員に開示されてるのは、ほんの一握りってとこ」
「例えば、向こうの顔写真とかも入手できたりするのかな」
 フォークで突き刺した赤い実を口に運んでから、アズサは目を瞬かせた。
「……違ったらごめんなさいね。お姉さん?」
 さすがに鋭い。ちらりと背後を窺った。リナが待ちきれず個包装ごと口に入れようとするのを、ミソラが必死に制止している。ツーとタケヒロがお菓子を奪いあっている。
 聞かれても構わないと思っていた。けれどなんとなく、やはり声を潜めてしまった。
「ほら、もう十年以上会ってないと、いくらきょうだいでも、顔が分からないかもしれない」
「似てるんでしょ」
 今朝、ゴミ袋に投げ入れた、家族写真の、二枚目を。脳裏に浮かべて、やや自嘲気味な笑みを浮かべる。
「大昔の話だ」
「……会いに行くの?」
 怪訝とした目で、控えめな声で、アズサが問う。
「うん」
 トウヤは小さく頷く。
「話したいことがあるんだ」
 本心だった。言葉はするりと出ていった。アズサが唖然としていたのは、一瞬だけで、すぐに何かを汲み取ってくれた。何も聞かずに、頼んでみるわ、と言ってくれた。
 夏頃、この家で、人事予定表に載ったあの名前を見せられて、酷く動揺してしまった。随分前のようにも思うが、ついこの間の出来事だ。今、こんなにも軽やかに、触れられる。話が出来る。不思議だった。もしかすると、心と言う奴は、思いの外簡単に、変わってしまうのかもしれない。
 ハリもハヤテも焼き菓子を好んで食べたし、普段アズサの家で出ていきたがらないメグミでさえ、今日は何故だかボールを揺らした。ノクタスに寄り添ってコツンコツンと菓子をつつくオニドリルの長い嘴を、ツーもイズもタケヒロも、興味深そうに眺めていた。
 和やかな時間があっという間に、窓から差し込む夕陽を、金から橙へ塗り替えていく。
 そろそろ帰るか、とトウヤが声を掛けたところで、ミソラがちょんと指を立てた。
「写真、撮らないんですか?」
 ――ああ、すっかり忘れていた。そういう顔でポケットから取り出された、手のひらサイズの黒い小箱。
 棚の上で埃を被っていた、例の使い捨てカメラだった。
 なんでまた、とアズサやタケヒロに問われても、たまにはいいだろ、以外に、どう答えていいものか。トウヤにもよく分からなかった。ポケモンを撮ればいい。いつもならそうする。人間なんて本当に、滅多な事では撮ってこなかったのだ。けれど、さっさと現像したいのにまだちょっとだけフィルムが残っている、そのちょっとだけの残りに、この何でもない日々を、写してみたかった。理由はない。けれどきっと、良い一枚になる予感がしていた。
 もうピースサインを向け始めたミソラと、お菓子を頬につけているリナ、がっちり緊張しているタケヒロ、両肩にアンバランスなツーとイズ。前髪を気にしているアズサと、大人しく抱かれてくれているチリーンと、後列にきちんと並んでいる、ハリ、ハヤテ、メグミ。覗き込んだファインダーの中があまりにも色とりどりで賑やかで、部屋の端まで目一杯に身を引いて、それをなんとか収めながら。じんわりと心に灯った熱が、頬を、弛ませそうになる。
 温かい。僕の立っている場所は、今、こんなにも温かい。
「お師匠様、入らないんですか?」
 何でもないようにミソラが言う。
「うん、入れよ」「せっかくだしね」
 タケヒロとアズサが揃って言う。
「誰がシャッター切るんだよ」
 やっぱりトウヤは笑ってしまう。
 三者それぞれに沈黙した後、アズサが自分の腕を見て、いいこと思い付いた、と声を上げた。
 ……窓枠の上に放置したカメラがうんともすんとも言わないのを、全員並んで同じ方を見て、じっと黙って待っているのは、じわじわ腹筋に効いてくる。誰からともなく笑いはじめた中心で、若干顔を赤らめながら、ダメか、とアズサはチリーンを撫でた。笑顔でカメラ目線を続けているチリーンに、念力でスイッチを押させようとしていたのだが。
「やっぱり僕が撮ります」
「待ってくださいお師匠様、まだきっと何かあります、えーっとハリのミサイル針とか」
「アズサのキャプチャ・ディスクで押せねえの?」
「押せる訳ないでしょ。スズちゃん頼む、ガンバレ」
「いいよ。撮るって。写るの嫌いなんだよ」
 そう、写真など、もう何年撮られていないだろうか。笑いながら、思い出す。あの写真を撮った日を。家の前に立って、父さんと母さんの間に入って。二人にぎゅうと手を握られて。
 目の前で、おねえちゃんが笑っていて。
 アレコレと思い思いに言い出してぐちゃぐちゃになった列を抜け、だめですよとしつこく主張するミソラの横を通り、カメラが沈黙する部屋の向かいへ、数歩踏み出した時だった。
 ぽん。
 軽い破裂音と共に、カメラが一瞬光り輝いた。
 そして――吹き飛んだ。木端微塵に粉砕した。
「あ」「えっ?」「うわ」「ちょっ、スズちゃん!」
 無数の破片と共に、コロコロと、裸のフィルムが転がってくる。リンリンリンとチリーンが高笑いを始めれば、ミソラもタケヒロもポケモン達も、げらげら笑って、アズサだけが焦ってチリーンをぺんぺん叩いて、ごめんなさいと謝ってくる。フラッシュが焚かれたようにも見えたのだが、撮れたのだろうか、果たして。
「現像できる?」
「できるんじゃないか。気にするな」
「また買って撮ったらいいじゃないですか」
 その時はグレンにシャッター切らせような、とタケヒロがおどければ、また家が笑い声に包まれる。冷え込んできたと思ったのに、やっぱり温かかった。写真になんて撮らなくても、この光景は、長く心に焼き付くのだろう。西日の差しこむ部屋がやけに眩しく感じて、トウヤは目を細めていた。





「バネブー? バネブーを連れてたの、トウヤが?」
 念を押して確認すると、一拍の後、ミヅキはあの火の粉を散らすような声で笑い始めた。
 何がおかしいのか、誰にも分からなかった。回復機のチコリータを看ていたエトはもちろん、丁度その話をしていたアヤノとゼンも、狐につままれた顔で黙り込んでいる。ヒビのポケモン治療院、最先端の医療機器が並ぶ、電子音だけの白い空間。けたたましい笑い声は、完全に不釣り合いだった。
 半円柱のガラスに隔てられたヒナが、煩わしげに目を開ける。そっと騒音の先を窺う。ミヅキは一人で笑い続けた。腹を抱えながら、前のめりになりながら、目に涙さえ溜めながら、ひとしきり笑い続けていた。それから、おかしくておかしくて堪らないものを、大きな溜め息で吐き出して。
 彼女は綺麗な顔を上げた。
「おじちゃん。それ、バネブーじゃないよ」
 華やかな笑顔を浮かべたが、浮かんでいるだけだった。
 ココウで見たのだという、トウヤのノクタスの話を、アヤノはしていたのだ。ブリーディングが云々と言うが如何様のポケモンを連れているのかと、ゼンがアヤノに尋ねたから。相槌を打つ彼の背後で、エトはヒナに目を落とし、じっと耳をそばだてていた。そのノクタスが『ハリ』という名で呼ばれていることを、エトは知っている。そしてその後アヤノから面白おかしく示された、「種ポケモンとは思えぬ威力の『サイキネ』を使うバネブー」のことも、エトは知っている。きっとあいつだろう。オニドリルだったり、マリルリだったりする、彼の三番目の手持ちで、正体はメタモン――いや、エトがメタモンだと信じ切っている、あのポケモン。
 あれがバネブーでないことを知っているのは、この場でエトだけなのだと思っていた。だが、話の途中で部屋に入ってくるなり、ミヅキはそれを言い当てた。
 変だった。いや、無論二人はきょうだいなのだから、連絡くらい取り合っている可能性もある。お互いの手持ちを知っていたって、なんら不思議ではない。エトが変だと思ったのは、アヤノとゼンの反応だった。
 ……困ったように眼鏡を触りながら、アヤノがゼンと目を合わせる。こちらに背を向けているゼンがどんな顔をしているのか、エトには見えない。ただ、その背が纏う雰囲気は、限りなく、冷たいところに近づいている。
 二人とも、ミヅキとトウヤがきょうだいだから、なんて話は、エトより分かっているはずなのに。
「はーっ、おっかしーっ。そんなのに騙されるなんて、おじちゃんそれ、歳のせい?」
 ミヅキが目尻を拭いつつ問う。アヤノが愛想笑いで返す。
「いや、俺が見たのは間違いなくバネブーだったけどね。真珠を頭に乗せて、ピョンピョン跳んでる、アレだよ」
「そう、それ。ピョンピョン跳ぶでしょ、バネブーって。跳んでないと、心臓が止まって、死んじゃうんでしょ」
 あの子がバネブーなんか飼えるもんですか。くつくつと肩を揺らす彼女の笑顔が、『浮かんでいる』ように見えた理由に、その時エトは急に気付いた。『死』という一文字が、それを気付かせた。
 不気味なほど、滔々と、彼女の淡い唇が続ける。
「止めてみないはずないもん、そんな面白そうなもの。興味本位で心臓を止めて、殺しちゃうに決まってるじゃん」
 仮面、だった。
 笑顔の仮面が、浮かんでいるだけだった。
 その向こうの目は、据わっていて、まったく笑ってなどいなかった。
 エトは唾を呑む。うすら寒いものが背筋を走る。アヤノもゼンも、何も言わなかった。
 彼女だけが、今度は静かに、繰り返した。微笑んでいた。
「絶対に殺すよ、あの子」
 何度も蘇らせた光景が、またエトの胸の中に、泡のように膨らんでいく。
「殺しちゃうに決まってるよ」
 片手で、ぱちんと、ナイフの刃を跳ねさせる、あの日のトウヤの微笑みが。

 弾けて、消えた。
 
 



 じゃあね、とタケヒロに手を上げて振り向くと、トウヤの背中はもうかなり遠くに見えていた。
 日はすっかり暮れかかって、建物の隙間から差す残光が、まっすぐにこちらへ伸びている。見上げる青みがかった雲は、虹を見たときより、もっと散り散りになっている。紺と橙の清冽なグラデーションの中に、やや気の早い光るものが、ちらちらと瞬いている。明日は晴れるだろうか。澄んだ空を思うと、胸の中の重たい雲もいくらか薄らいでくれたようで、さっさと行ってしまう彼の背を見ると、呆れたような気持ちもして。自然と笑みが零れ出す。
 これからどうするのか、どうなるのかなんて、何も分からなかった。『誰か』が見つかったその時や、その後のことなど、想像することもできなかった。ただ、トウヤに、ハヤテに立ち塞がれて、叩きのめされたあの瞬間から、憑き物が次第に落ちつつあった。心が軽くなっていた。
 濡れて重たい色をした、夕陽の砂利道を、ミソラは彼を追って歩きはじめる。
 スタジアムから家に帰って、自室の戸を開けた時、彼の写真と小物の棚が空っぽになっているのを見た。ミソラが何かを言う前に、あの棚を譲るとトウヤが言った。お前が気に入ったものをたくさん詰めればいいと笑った。ここに詰まっていたものがどこに行ったのか、当然ミソラは問うた。売ったのだと彼は答えた。ここんとこ小銭稼ぎをサボっててあんまり余裕がないから、と。
 知っている。きっと、あれは嘘なのだ。
 名残惜しげにしていた夕日が、つうっと細くなって、溶け切れる。しっとりとした暗闇が、順に世界を包んでいく。同じところに帰るのに、ちょっとだけ待ってくれればいいのに、行ってしまう彼の背が、暮れなずみの藍に、曖昧になる。夜に紛れていく。薄らいでいく。ふと感じる。冷たい夜だ。吹き付ける北風が顔を撫でれば、つんと針に刺されたように、鼻の奥が痛くなる。
 たまらなくなって、ミソラは走りはじめる。
 ミソラがちゃんと家の手伝いができるようになるまでは、少なくともココウに居る。彼の言っていたことを、ミソラはちゃんと覚えている。キブツから戻って、彼が部屋を片付け始めた意味に、本当はずっと前から気付いている。
 写真を撮ろうと言い出した、あなたの真意なんて。本当は、私は知っている。
 どしゃんと背中にぶつかって、腹に腕を回して、思い切り抱きしめても。だめだった。びっくりしてほしかったのに、そうされるのを分かってたみたいに、トウヤは少しも驚かなかった。
「どうした」
 笑い混じりの優しい声が降ってくる。今更の恥ずかしさと、零れ出しそうな切なさで、苦しくって、ミソラは顔を上げられなかった。平然としているのが癪だった。逃げられぬよう、ぎゅうぎゅうと締めつけてみる。その手に、宥めるような彼の手が、重なる。撫でられる。あんなに泣いたのにまた泣きそうなのが悔しくて、ミソラは唇を噛みしめた。嗚咽を押し殺しながら呟いた。
「どこにもいかないでください」
 ああ、これじゃまるで、子供みたいだ。恥ずかしさで消えてしまいそうだ。
 トウヤは笑わなかった。触れたミソラの手の甲の、上辺を、そっと包みこむだけだった。
「……逃げも隠れもしないよ」
 そのヘンな言い方が、またミソラを笑わせる。
 温かかった。このままでいたかった。
 ずっとこのままでいれば、どんなに冷たい雨が降っても、どんなに寒い冬が来ても。きっと、自分は平気なのに。
 そう思わずには、いられなかった。






 
 
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