「やめておけ」
 風を背に受けながら、グレンは言った。
 何を「やめておけ」なのか、最初は理解できなかった。『作戦のことをトウヤに話して、ぎゃふんと言わせてやる』みたいなことを、タケヒロは言ったのだ。それを、やめておけ。……やっと事を解して、けれど納得できずに問い返した。
「あいつに言うのを?」
「そうだ。やめておけ。悪いことは言わん。どうしても言いたいなら、全部終わってから話せ」
 事前に話して一泡吹かせてやりたいなら試合前に俺が話すから、午後にはスタジアムに行くから、それからにしろ。一泡吹くとは思えんが――捲し立てるようにグレンは言う。高圧的な語気には、丸め込もうとする意図がありありと感じられた。タケヒロの知っているグレンというのは、そんな汚いことをする男ではなかったはずだ。
「なんで?」
「だから……」
 自分が口走ったこと、それを追及されることに、僅か焦りさえ見え隠れする。座り込んだまま、半ば唖然としてタケヒロは見上げていた。知らない誰かと対峙しているのではないか。今の様子は、それくらい身に馴染んでいない。
 視線も合わせなくなった。目を泳がせながら、彼は言った。
「……あいつ、真っ向勝負より、逃げるが勝ちの野良試合が得意だろ。それが、逃げんと言うのは……」
 頭を掻く。ナナナオーレを飲んだ時より、ずっと苦汁を飲まされたような。
「……下手すれば、妨害されるぞ。お前」
 やはり、グレンが何を言っているのか、タケヒロはちっとも分からなかった。
 妨害。何を? 俺が、ミソラを止めようとすることを? 誰に? ……あいつに。ならば何故? それらの思考が繋がった瞬間、まあとにかく、と男が踵を返す。タケヒロは慌てて立ち上がった。
「俺は忠告したからな」
「いや待てって、なんでだよ、ミソラが『誰か』を殺すのをやめたら、あいつは都合が悪いってことか?」
「だっておかしいだろ、ありゃあまるで」
 掴んだ腕が払われる。突如、閃光の後に現れた黄色いポケモンが、主人との間に割って入った。念力に浮かび上がった男の身体が、薄緑の光の粒に包まれる。
 名を呼んだ。こちらを振り向いた。けれど長く言い渋った。その姿が渦に呑まれ、フーディンもろとも掻き消える直前に、捨て置くように彼は吐いた。
 まるで、ミソラに殺させようとしているみたいだ――


 ――今のミソラのこと、どう思ってんだよ。振り向いたトウヤは、けれど振り向いただけで、何も言わなかった。
 お前ら、もっと話をしろよ。さっきの言葉は、実際かなり本気の言葉だったのだ。タケヒロが二人と知り合った時には二人は既に友人で、そのずっとずっと前から二人が友人をやっていたことも、タケヒロは知っている。まだ捨て子グループの一員だった頃、生き残るために絶対的な統制を強いられていた。少年たちの上下関係は非常に厳しく、人との繋がりに付ける名前に『友情』なんてのは存在しなかった。だから、馬鹿みたいに笑い合って、くだらないことで延々と小突き合う二人の気の置けない距離感を、彼風に言うなら『眩しい』気持ちで、タケヒロは眺めていたものだ。友達っていいなあって、お前らを見て思ったんだぞ、俺。なのに、おい、いいのかよ、全然信用されてねえんだぞ。友達に。本当にそれでいいのかよ。
「ミソラが人を殺すって言ってること、どう思ってるんだよ」
 子供に『殺させようとしてる』なんて最悪な汚名を着させられてるぞ、それもお前の友達に。お前が何も言わないから。それでいいのかよ、違うって言えよ。
 何から糾弾すればいいのだろう。タケヒロが怒っているのは、トウヤにもそうだし、グレンにも、そしてミソラにもそうだ。けれど今朝から薄々気づいてしまったのは、それぞれに芯から怒りきれない、同情まがいの気持ちもあるということだった。俺の方が何倍かあいつを信用してるじゃねえかと、グレンがいなくなった後、タケヒロは一人で憤慨したのだ。誰かを『殺させようとしている』? ミソラに? あいつが? 馬鹿言え。んな胸糞悪い事があるか、どうせ何も考えてないに決まってるんだ。今からそれを証明してやる。
「お前はミソラで遊んでるつもりかもしれねえけど」
 遊んでる、を強調しながら、タケヒロは責め立てる。そう願う心が叫んでいた。そうなんだろ、遊んでんだろ、趣味の話ができるからって、暇潰しなんだろ、どうせ。
「ミソラ、本気なんだぞ。誰かも知らない奴を本気で殺す気なんだぞ」
 本気であいつが殺すなんて、露ほども信じてねえんだろ。
「本当に殺しちまったら、犯罪者になるんだぞ、あいつ!」
 トウヤの背後から歓声が沸き起こる。何かのアナウンスが聞こえる。急ぎ足に通り過ぎる人々に目もくれず、トウヤは静かに、金属のように鈍く光る眼差しで、タケヒロを見据えていた。
 沈黙を守っていた口が、ゆっくりと開く。
「人を殺すのが悪いことだと言ったら、ミソラは止まるか」
 声遣いよりも単語の物騒さに、行く人がはたと不審を向けた。
 何も変わらない、落ち着き払った、普段のトウヤだった。違いは右往左往と逃げがちな視線が一点に据えられていることくらいだった。無感動な口調で逆に煽られていることなんて、タケヒロにも分かる。どうってことはない。冷静になれ。こんなのはそう、ミソラとの試合の前哨戦だ。
「分かってんだろ。ミソラ、お前に陶酔してる。雛鳥が最初に見たのについていってるようなもんだって、前言ったじゃねえか。お前が右って言えば、あいつにとっては、全部右なんだよ。……悔しいけど、俺じゃ駄目だった。でも、お前なら」
 歓声が一際大きくなる。友の名を叫んで笑う野次が、光の向こうから聞こえている。
「……つうか、お前が最初から駄目だっつってれば……」
 低く呻いたタケヒロの独り言を、トウヤは聞きつけたようだった。
 固まっていた表情が、少し動く。薄ら闇の影の中だった、よく見えなかった。だからそれは、笑ったようにも、見えていた。
「僕のせいか。……そうか。そうだな」
 とんとんと段を降りてくるなり、右手が伸びて、突然タケヒロの腕を掴んだ。
 強引だった。不意の動きに為す術もなかった。持って行かれる。もつれるような足がやっと階段を駆け上がる。抗議の声をあげようとも、ふりほどけるとも思えないほど、力強い手だった。それがタケヒロを光の中へ導いた。
 かんと視界が開ける。
 ――フィールドの中央へ向けて、盛大な歓声が轟いていた。
 茶褐色の丸い瞳に、ひび入るように、稲妻が閃く。雷鳴。弾け飛んだのは黒い鳥。追撃するように飛び上がる獣。聞き慣れた甲高い声が、聞き慣れない威勢で響く。赤サイドのトレーナーボックスに立つミソラ。美しい金髪を振り乱し、身を乗り出して叫んでいる。次々と指示が飛ぶ。躍るようにリナが斬る。タケヒロの立つ前後左右から、それを鼓舞するいくつもの咆哮が湧き上がる。波となってリナの背を押す。トレーナーサイドの友人は、いたく真剣で、そして笑顔だった。曇天の下でも光り輝いていた。
 ほんの一瞬、血の沸くような高揚感が、少年の頭を塗り潰した。
「このまま何もなかったふりをして、あいつは暮らしていけるのかな」
 観戦席入口の壁に背を付けながら、顔だけ試合へ向けて、トウヤはぼそりと言う。
「ミソラが『誰か知らない人を殺す』と言い出した時、タケヒロ。お前、何を思った?」
「……。……怖、かった」
「ああ。僕もだ」
 両肩の重みがふと消える。ポッポ達が羽ばたいて、目の前の手すりへと降り立った。興奮気味に、食い入るようにフィールドを見ている。ノクタスがゆっくりと歩み出て、その横へ立った。弁当箱を抱え直して、三匹は試合を眺めはじめた。
「外野の僕たちから見ても恐ろしいものを、あいつ、ずっとこれから抱え込んで、生きていくのか」
 飛び掛かったリナを間一髪で躱し、翻ったヤミカラスが、その腹へ片翼を叩き込んだ。
 小兎の口から噴き出した飛沫が見えるようだった。鋭く落下した場所から猛然と砂埃が立ってリナの姿を隠した。今度はヤミカラスを応援するための歓声が沸き起こる。その中で一際高い悲鳴が空を裂く。リナ、立って! ――流れかけた砂埃がぐらり揺れ躍り、中から弾丸の跳躍が飛ぶ。小さな体から凄まじい電流が迸った。
 電撃が、破裂する。つんのめって飛行が止まった。ビクと痙攣し、首が仰け反り、喘ぐようにがくがくと嘴がひらく。突き出された赤い舌が見えた。耳を塞ぎたくなるような奇声が、その奥から発せられた。
 こんなこと。……一瞬興奮に身を委ねた自分が愚かしい。タケヒロは奥歯を噛みしめる。こんなことして、何が楽しい。
「だからって、殺していい理由にはならねえよ。どんな理由があったって人を殺しちゃいけねえんだ」
「どうして」
 すぐさま戻された言葉に、はっとして、タケヒロは男を見上げた。
「どうして、人を殺しちゃいけないんだ?」
 トウヤの目は、フィールドだけを映していた。
 冷ややかで、恐ろしく抑揚のない、機械的に発せられた声は、タケヒロへ向けられたのかどうかも分からなかった。気が付けばあの思いつめたような目の色は、目だけでなくて顔全体に広まっていた。明るい場所で見るなら、表情が強張っているのは『不安がっている』からなのだと、すぐに分かった。それが分かってしまうのが、嫌だったし、悲しかった。それがまるで、自分より幼い、年端もいかない子供のようだと、錯覚しそうだったからだ。
 狼狽えてしまう。相手が堅牢であるほうが、ずっと殴りやすいのに。
「……どうして、って……人を殺したら駄目なのに、理由なんかいるかよ。駄目なもんは駄目だろが。人殺しはもう普通には生きられないだろ。俺、あいつと、普通に友達でいてえんだよ」
「普通に?」
 ツーが毛を逆立てて身震いしている、それを宥めるように、イズが寄り添っている。それらの視界の先で、堕ちなかったヤミカラスが、焦げた煙を吐きながら、死力を振り絞ってリナに突進を仕掛けた。
「僕は、」
 黒翼がごうと風を切る。
「殺したことがあるぞ」
 ヤミカラスの『翼で打つ』が発動する前に、リナがその翼を捕らえ地面へ押さえつけ、獰猛に吠えながら、細い首筋へ牙を立てた。
 少年は息を呑む。
 食い千切るように、頭を振る。左右へ玩弄し、投げ捨てる。ぼろぼろの翼がどしゃりと落ちた。審判が赤い旗を上げる。一際大きな野次が巻き起こる。光へ吸い込まれていくヤミカラスを見送りながら、咥内に残った黒い羽を、リナは不味そうに吐き出していた。
 トレーナーボックスの先端で、飛び上がって手を振って、ミソラは喜んでいた。
「……砂漠の真ん中で、あの子を拾った時」
 狂ったような、拍手と騒音の中。彼の静かな声は、不思議な程にまっすぐと、タケヒロの耳に吸い込まれていく。
「僕を勝手に追いかけてきて、勝手に襲われていた時も。お前と勝手に外に出てリナを連れ帰ろうとしていた時も。僕だけじゃない、グレンも、レンジャーも、トレーナーなら誰だって皆、いや、生きているなら、生きているなら誰もが、生きるために、何かを殺している。お前だって」
「俺は」
 次が出なかった。例えば、昨日のコロッケの挽肉や、彼女の元に手折っていった花のような、ああいう殺生の話を、彼はしているのだと思った。
「……ミソラは、自分が自分として『生きるために』、それを殺すと言ったんだ」
 フィールドに向けていた目を、どことなく気怠げに、トウヤは外した。
「雛鳥は、親に死ねと言われれば、黙って死んでくれるのか?」
 リナをボールへ吸い込んでから、ミソラはきょろきょろと観客席を見まわしていた。人波に紛れて、トウヤはまた建物内に戻っていく。ポッポ達がぱたぱたと肩に飛んでくる。次いで戻ってきたハリにとんと頭を叩かれて、タケヒロはその目を見た。冴えた月の、瞳。いつも通りの濃い黄色。
 耐えられなかった。振り向いた。
「お前、おかしいぞ」
 一人階段を下りていくトウヤを追いかけながら、タケヒロは叫ぶ。また他人の視線が刺さったが、もう構わなかった。何言ってんだ、変なことばっか。頭イッちまったのか、昨日の酒の、アレか? 相当酔っ払ってたもんなあ。隣に並び、冗談めかして問うてみる。涎に光る黒い羽が、それを吐き捨てるリナが、何度もフラッシュバックする。頭はパンクしかけていた。ああもう、嫌だ、こんな話。なんだよこれ。全部冗談だって言ってくれ、なあ。……トウヤは必死に何かを堪えるタケヒロを見下ろして、困ったように微笑んだ。それだけだった。
「つ、つうかさあ」
 あっけらかんと言いながら、頭の後ろで腕を組む。人の流れが、いくらもスタジアムの出口へ向かっていく。トウヤはそちらではなく、ミソラが向かうであろうトレーナー控室の方へ足を向けた。扉の外にある『日常』を羨望するタケヒロの胸に、友のことが浮かび上がって、小さな悪態を押し出した。畜生が。
 少年は歯を食い縛り、男の背中を追いかけていく。
「つうか、こ、殺すも何も……人とポケモンって、全然違うじゃねえか」
 控室側へ通路を折れると、急に人が少なくなる。声も足音もよく響いた。その中、空回るようなタケヒロの言葉に、トウヤが軽く笑ったのも、耳についた。
「何が違う」
 え、と顔を上げる。タケヒロの気持ちを汲んだのかもしれない、元の、いつもの弱そうな、覇気のない表情をしている。通路の随分向こうで二人を見つけたミソラが、大袈裟に手を振り始めた。それに片手をあげ、もう一度タケヒロを見て、男は優しい苦笑を浮かべた。
「人とポケモンは、何が違うんだ?」





 あの日。
『殺します』
 レンジャーの家から連れ帰った子供は、押し潰すようにアチャモドールを抱きながら、最後にそう言った。
『思い出したんです。自分が、何のために、生かされていたか』
 泣き腫らした目は、それでもよく晴れた春の日の、美しい空の色だった。
『今の私は、前の私とは違う。でも、前の私だって、死んでしまった訳じゃない。私の中で、息を殺して、ずっと生きているんです』
 言葉にならない嗚咽ばかり漏らしていた唇が、滔々と紡ぎはじめる。涙の跡の干乾びた頬が、夕陽に光る。部屋は橙色に甘く溶けて、それぞれの輪郭を失っている。
 遣る瀬無い斜陽に埋もれゆく、刹那。
『前の私のために、そいつを、殺さないと、私、『ミソラ』として、生きられないんです』
 ベッドに腰掛けて、まっすぐにこちらを見るミソラを、向かいに座って、トウヤは見上げている。
『お師匠様に与えられた、『ミソラ』としての命で、生きていたいんです』
 走馬灯のような。
 十二年分の、色鮮やかな夢の砂漠に、少年は蹲っている。
 後悔しないか。男は問うた。子供はすぐに頷いて、そして――
『あなたが名付けてくれた、私として、生きたいと思うのは、いけないことですか』
 うっそりと微笑んで、そう言った。
 最後の雫が、目の淵を、つうと流れていった。
 トウヤは俯いて、瞼を閉じた。きつく閉じて、ぎゅうと閉ざして、震える唇を噛みしめて、何度も何度も、誰かに祈った。信じちゃいない神に祈った。夢であれ、夢なら醒めて、そうでないなら全部巻き戻して、頼むから、お願いだから。瞼の裏の少年が振り向く。怖々と目を開ける。陽の色。少女のように揃えられた爪先。上げた視線の真ん中で、滑らかな蜜の光を浴びながら、金髪と、濡れた睫毛をきらめかせて、ミソラはまだ、微笑んでいた。心許なげに、消え入りそうに、微笑んでいた。
 トウヤは、力無く、眉尻を下げて。笑い返して、頷いた。
『分かった』

 ああ、僕はまた、大切なものを壊してしまった。





 タケヒロも試しに一戦してみるといいよ、と得意げなミソラの表情は、これぞ世に言う『どや顔』だ。塩むすびを頬張りつつ、順調に八勝を重ねた友人は偉そうにバトルを指南してくる。トウヤに無理矢理譲られたお揃いの弁当をつつきながら、タケヒロは手持ちの様子を窺った。イズの方はともかく、ツーはかなり乗り気なようだ。激戦の後にも関わらずもりもりと餌を食べるリナに、なんだかんだと話しかけている。
「相手だけど、僕が見繕ってあげようか? なるべく弱い方がいいよね、タケヒロ初めてだし。大丈夫だよ、皆意外と良い人なんだ」
 口いっぱいの米と唐揚げを、慌てて飲み込んだ。開けっ放しの戸の向こうは無音だ。飲み物を買ってくると言って控室を出たトウヤは、まだ戻りそうにない。
「俺、最初の試合はミソラとやってみてえんだけど」
 半分に割られた茹で卵を口に運びかけていたミソラの目が、こぼれ落ちんばかりに見開かれた。
「ホント?」
「ホント」
「じゃあ次、やろう! 絶対だよ、約束だよ、ご飯食べて休憩したら! やったあ、僕負けないから」
「おう」
 はしゃぐ主人と、あまりはしゃいでいない主人の友人と、目の前にいるその従者を交互に見回して。リナはちょんと首を傾げた。
 廊下から響いてきた声に、二人は揃って顔を上げる。豪壮で大雑把な笑い方だ。そういえば午後には来ると言っていた、おそらくトウヤと合流したのだろう。朝、タケヒロの前ではあんなことを吐露した癖して、よくへらへらと口が利けたものだ。少年はむすっと眉根を寄せていたから、だから不機嫌なその顔を、――久方の相手に見られることになってしまった。
 グレンが連れ立ってきた女性を見、少年は真っ赤なオクタンさんウインナーを、箸ごと取り落とした。
「ハーイ、久しぶり」
 華奢な片手が上がる。彼女がはにかむ。
 ぽとっ。箸が転がる。ころんころん。
「え? え、あ、あ」
「わあ、アズサさんっ!」
 弁当箱を置いて立ち上がったミソラの隣で、ガタッと素早く直立したタケヒロの膝から弁当箱が吹き飛んだ。
「えっ、うっわ何して」
「――ねえちゃああああああああんッ!」
 叫んだ。何故か拳を振り上げた。そして駆け出して、手を広げ、けれど抱きつけはしない衝動を、隣の男へ叩き込んだ。腹を抱えて爆笑するグレンをグーで殴り始めたタケヒロを見て、彼女はけらけらと笑っている。彼女が抱いているチリーンもひらひら尾を振って笑っている。ああ、ああ。帰ってきた。日常が帰ってきた、韋駄天走りで帰ってきた。寄ってきたミソラへ照れ笑いを浮かべる可憐な彼女の横顔を、涙が出るんじゃないかと言うような感動で、タケヒロは見つめた。
 いる。アズサがいる。彼女は無害な花なのだ。そうだ、俺には、アズサが、いる!
「もう、アズサさん、急にいなくなっちゃうから! 仕事でユニオンに行かれたってお師匠様には聞きましたけど」
「ええ。ごめんなさいね」
「なかなか帰ってこないから、皆心配してたんですよ……タケヒロも寂しがってたし、ね?」
「ううううっせえ!」
 耳障りなほどげらげらとグレンが笑っている。アズサはそのふわふわ栗毛の髪を揺らし、目を柔らかく細めて、タケヒロへ向かって微笑んだ。
「元気そうで何より。ミソラちゃんも……、タケヒロくんも」
 少年はさっきのミソラよりずっと目をかっぴらいた。
 タケヒロくん。
 タケヒロくん。
 ……たけひろくん。
 ぎりぎりぎり。グレンの腹をこれでもかと絞めつけながら、アズサを凝視する純情少年。その純情が弄ばれる。あら、気に入らない? そう言って小首を傾げてみせる彼女へ吹き飛ぶほどぶんぶん頭を振って、そして腹の底から絞り出すような呻き声を上げながら、額をグレンに擦りつけ始めた。ねじねじ。ぐりぐりぐり。そうやってにやつく顔を隠している少年の真っ赤になった耳を指して、なんだこれ、とグレンが問う。鬱陶しいほど笑いながら。
「タケヒロ、ずっとアズサさんに『ピエロくん』って呼ばれてたんですよ」
「ああそうか、坊主はアズサちゃんのことが好きだから、名前を呼ばれて喜んでる訳か。なるほどなあ可愛い奴め」
「解説すんじゃねえよ! っつうか好きっていうか好きっていうかさ」
 ああいや、好きだな、好きだな俺。普通に人として超好きだわ、てめえらよりずっと好きだわ。めっちゃ好きだわ、癒されるわ。もごもごと低く唱えたタケヒロの声は誰にも聞き取れなかったろうが。
 背後でポッポたちはぷるぷる震えて笑っているし、タケヒロがぶちまけた弁当の中身はリナが綺麗に掃除しているし。三人の時より四人は一層騒々しく、トレーナー控室に殆んど人がいないのは幸いだった。スタジアム前でたまたま出くわしたのだというアズサをベンチに座らせて、グレンは顔を回した。
「トウヤは? 来てないのか」
「今飲み物を買いに……」
 その時タイミングよく、五人目の声が聞こえた。
「あ」
 ゴンッ。缶が転がる。ころんころん。
 ……入口に突っ立っているトウヤは、呆けたようにこちらを見ていて、缶ジュースを二つ取り落としたことにもまるで気付いていないようだった。
「あーあ、炭酸じゃないですか」「ナナナオーレ……」
 ミソラとアズサが、転がっていく缶を見てそれぞれ言った。


 ――なーにが、ナナナオーレ、だ。
 現実逃避も甚だしい。知り合いが喜んでくれてほっと温まっていたアズサの心は、遅れて顔を見せた男と対面して、急激に凍りついていた。どくどくと鼓動が高鳴り始める。なのに頭に血が回らなくなる。腕の中で大人しくしていたチリーンのスズちゃんが、にこにこ主人を見つめてから、急にするりと抜け出した。主人の動揺を嘲笑うように、するする宙を舞い始めた。
 揺蕩うスズちゃんの尾の向こうに、見える。ぽかんと口を開けていた彼が、ふわと表情を明るくして、かと思ったら目を逸らして、狼狽気味に足を引くのが。あー、帰ってきてたのか、おかえり、と言うのが聞こえても。アズサはその顔に釘打ったように目を止めて、閉口しているだけだった。どうして。ユニオンで散々予習していた対処すべき感情と、まったく別の感情が、きりきり心臓を冷やしていく。痛い。苦しい。何故だろう。なんでだろう。まさか、この短い期間で、美化していた、なんてことは、ないはずだ。
 返事をしないアズサへ不審な視線が集まるが、トウヤだけはそれを別の意に捉えたようだった。ジュースを拾ってタケヒロとミソラにそれぞれ渡して、脚へ絡み付こうとするチリーンを除けながら、人数が増えたな、買い足してこよう、とすぐさま歩を切り返した。声が上擦っている。急ぎ足に部屋から消える。アズサは思わず、手伝ってくる、と下手な言い訳をして、その背中を追いかけた。
 驚いたように振り向く、トウヤの目元が、ひどく落ち窪んで見えていた。
 足が止まった。ぞっとした。
「どうした」
「……ジュース、持つ」
「いらないよ。どういう風の吹き回しだ?」
 言いながらも、拒絶せずに歩きはじめる。恐る恐る観察する、声も、口調も、普通だった。狭い廊下を隣に並んで、アズサはそっと表情を窺った。ぱちりと目が合う。慌てて逸らされて、いやその、とうろたえながら、ゆるゆると口元を緩める。普通なのだ。ちょっと照れてる、普通の、彼だ。なのに。
「だから、あのー……」
「お兄さん」
 問うた。口籠るのをやめて、ハイ、と観念したように、トウヤはアズサを見下ろした。
 その、目の周り、頬、首筋。浮き上がった喉仏。
 例えばこういうことを、女性にならともかく、男性に向かって言うべきだろうか。迷ったけれど、言わずにはいられなかった。ぞくぞくと体を寒くする、不吉な違和感を、腹にしまったままにしておくことなどできなかった。
 遠慮気味に、アズサは口を開く。
「……痩せた?」
 探りを入れる雰囲気に、男は目を瞬かせ。
 ……数拍、間抜けな間を置いてから、からからと笑い始めた。
 受付でナナナオーレをもう一本と、炭酸ジュースを二本追加して、元来た通路を戻っていく。その間も、何がツボだったのだろう、変に嬉しそうにして、トウヤはずっと笑っていた。
「まさかそれを言うためについてきたのか?」
「……笑いごとじゃないわ」
「アハハ、いや悪い、やっぱり女の子って、そういうとこ、気付くんだなあと思って」
 女だからとか、そういう問題ではない、誰にも指摘されないのか。呆れ気味に問うと、そんなに変わってないから指摘されないんだと思うが、と男は肩を竦める。その薄い肩も、腕も、首も目も――随分やつれているように、見えるのだが。発話が元気そうなのが不自然なほどに。確かに前から細身ではあったけれど、だからといって、それにしても。
「そうか、そんなにか。……心配掛けるから、誰にも言わないでくれないか。正直、最近ちょっと食欲がなくて」
「ちょっとって……ちゃんと食べてる?」
「ああ。大したことはない。多分夏バテだと思う」
「こんなに涼しいのに」
「今日帰ってきたんだろ。昨日まで真夏だったんだぞ?」
 トウヤはおどけて言った。そんなに易々と躱さなくても、こちらは深刻に受け止めてるのに。呑み込めず、アズサは眉を曇らせる。考えすぎ、なのだろうか。やっぱり美化していたのだろうか。言葉の真贋をつけられないまま、鵜呑みにするしかないのだろうか。大したことはないよ。繰り返し、トウヤは言う。そう言う彼が一層嬉しげに見えるのが、何故だろう、どうしても腑に落ちなかった。
「……本当に、平気?」
 缶ジュースの冷たさが手に沁みる。トウヤは一人満足気に頷いて、言い聞かせるように、呟いた。
「ああ。平気だよ。でも、ありがとう」
 ……子供と友人のところへ戻っていく背中を眺めながら。礼を言われたことさえも、なんだか釈然とせず、不気味な靄は暫くの間、胸に残り続けていた。







 
 
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