10

「え? まずいって、ナナナオーレが? どこが?」
 ――さて、この激しく乱高下するテンションを、一体どうしたものだろうか。
 タケヒロから返された炭酸ジュースを何も考えず開け、何も考えず噴き出させながら、トウヤは一人で参っていた。指から腕から伝ってじょぼじょぼ滴る透明水にグレンはわははと笑っているが、女子供は会話に夢中で、仕掛けた当人は振りまくった爆弾を渡したことさえ忘れたようだ。トウヤの背中側に座っているタケヒロの顔は見えないが、その目は爛々と光り輝いていることだろう。あからさまなほど機嫌が良い。
「いや、俺はまあまあいけると思うね」
「嘘だあ。アズサさん、タケヒロこのジュースのこと泥みたいに甘いって」
「それがいいんじゃない。ねえタケヒロくん」
「マジ分かるわ、それがいいよなー」
「ええ、でも昨日言ってたじゃん、こんなの飲む人の気が知れないとか、こんなのをおいしいって思う女の人とは絶対」
「ば、っか! ベラベラ言うんじゃねえ何でもかんでも!」
 大袈裟に叫ぶ。おそらくその頬は真っ赤。茶化す女の顔は、それも見えないが、きっとこんな感じに――実際の視界に映っているガタイのいい男がにやついたので、トウヤは妄想を締め出した。先手を取って口を開いた。
「朝は仕事だったんだってな」
 その話題を持ち出されるとは思わなかったと言わんばかりに、グレンは大ぶりの目を瞬かせる。
「あ? ああ坊主に聞いたのか。最近ばたついとるもんでな」
「忙しいのか。ここにもあまり出てこないじゃないか」
「うーん、もしかしたら、また長期遠征が入るかもしれん」
 『トレーナー修行』という名目でふらりと消えることが彼にはたまにある。今回も多分それだろう。適当な相槌を打ちながら、トウヤはベタついた手を嫌そうに広げた。それだけのことでくつくつ笑えるこの男の人生は、中々に気楽でよさそうだ。昼飯の惣菜パンへばくりと食いついて、そのまま会話を続けようとする。
「はいひふあうあー」
「……何?」
 喉がのんびり上下する。ごくり。
「さ、み、し、く、な、る、か?」
 そう勿体ぶって言って、グレンはにやりとした。トウヤは仏頂面を崩さなかった。
「聞き返すんじゃなかった」
 さっさと出ていけ、と。頭の半分で話しながら、飲む前から少なくなった炭酸ジュースを傾ける。後方、愉快に笑う声が二つ。自分とミソラといた時より、タケヒロは随分と幸せそうだ。ミソラの世話を焼き続けてくれてきた捨て子少年の心労は、自分には計り知れないところだろう。真っ向から事に抗おうとしているタケヒロにとって、部外者の彼女は心のオアシスのようなものか。ミソラにとっても、そうであればいいのだが。……どことなく他人事にそんなことを考えながら、トウヤは三人の声にこっそり耳を傾ける。それでユニオン? ってとこで何してたの? 免許更新試験? なにすんの、それ? ――一瞬それらの方へ向かっていたグレンの視線が、またこちらに戻ってきた。
「なんならお前も来るか、トウヤ」
 何の話だったろうか。一瞬閉口して、先程の行儀悪さを呼び起こす。
「寂しいって言ったように聞こえたか?」
「ありゃあジョークだ」
「……どこに」
「だから遠征に」
 今度はトウヤが目を瞬かせる番だった。
「仕事、なんだろ?」
 それは自分たちのタブーではなかったのか。
 グレンが自信ありげに笑うのは、よく世話を焼きたがる『兄貴分』の顔だ。まじまじとそれを観察するトウヤは心底意外な気持ちだった。実はこの話題を敬遠しなくてもよかったのだろうか。だとすれば、トウヤの見立ては大きく外れていたことになる。
 弟分がそんなことを考えているとは露程も思っちゃいない顔で、どことなく嬉しそうに男は顎を撫でる。
「しれっと抜け出せばいい。何度も言うようだが、お前はもっと外の世界にも目を向けるべきだぞ。持て余される才能が可哀想だ」
「僕のどこに才能があるって?」
「ポケモン達にはあるだろうが。ずっとこんな町にいたら、宝の持ち腐れだ」
 そう言って最後の切れ端を放り込み、ジュースで流し込んでいる。
 呑気にこちらを見てくる男の様子は、少し不可解な印象を受けた。グレンと頻繁に二人旅に興じていたのは、トウヤが十代の頃までの話だ。旅慣れて一人でふらつけるようになってからは、稀に同行することはあれど、大方は別個に動いていた。特にミソラが来てからの半年は、そういう話もした記憶がない。放浪しなくなった理由を察しているものだとばかり思っていた。
 背後が賑やかなお喋りを楽しんでいるのに気遣いながら、トウヤは声を潜め、その理由を顎で示す。
「あいつを置いてはいけないよ」
 グレンは頷いた。彼にしては珍しく汲み取って、気持ちばかり音量を下げた。
「だが、子育てにも息抜きが必要じゃないか?」
 悪そうに口の端を上げる。その作った顔を見て、トウヤは不可解の正体に辿り着いた気がした。グレンの家で酔い潰れるのも以前は日常茶飯事だったが、それこそおよそ半年ぶりだ。それともタケヒロに何か入れ知恵されたか。
 ミソラを置いて、ココウを離れる。
 退路を示されたのだ。半分ほどの重さが残る缶を揺らしながらトウヤは視線を落とした。今の自分は一体、どんな顔をしているのだろう。
「一応、考えとく」
 男は目を丸め、それからぱっと表情を華やげる。その単純な分かりやすさは、少し羨ましくも感じられた。
「そうか! 一蹴されるかと思ったわ」
「考えるだけだ」
「楽しみだなこりゃ、がはは」
 配慮も無く大声で笑い始めた友人は、結局後ろ三人の注目を浴びる羽目になった。
 昼飯時のココウスタジアムは長閑なもので、気がつけばフィールドモニターは蛻の殻、トレーナー控室も身内以外はいなくなっていた。休憩場所としては閉め切られたここよりも、空の見える観客席の方が人気が高い。
 弁当を食い終えたミソラは、まだ屈託のない表情でタケヒロ達と談笑を続けている。午前中に既に八勝を積み、目指す十勝までは残り二戦だ。今の時間にリナに十分な休息を取らせるつもりなのだろう。そのリナは足元で熱心に身繕いに励んでいて、先程の試合で一度急所を取られたように見えていたが、動きに支障はない様子。それを遠巻きに眺めているハリは、いつになく機嫌が悪そうだ。……理由は分からないでもないけれど。
 天気が持つといいけどな。グレンがひとりごちた。
「そういえば、アズサちゃんな」
 男の声に、背中側の会話が一時停止する。
 単純に分かりやすく狼狽して表に出かける表情を、すんでのところで押し込める。トウヤはじわじわと目を合わせた。――おお、するのか、その話? ここでか? 今か?
「受付の前で偶然会ってな。俺が連れてきてやった」
「へえ」
 皆目興味もなさそうに振舞ってみた。背後の動揺が手に取るように分かる。トウヤまで幾許か緊張して、また炭酸を口に運んだ。
「……そ、それで、ユキったらそのズバットのキャプチャに、四十分もかかっちゃったもんだから――」
「それがなあ。俺が声を掛けた時、あの子、なんて言ったと思う」
 刺激がびりびりと喉を駆け抜ける。なんだろう、飲んだ気がしない、食欲が沸かない。元からないけれど。トウヤは答えなかった。アズサの声も止まった。その向かいでアズサにばかり耳を向けていた子供たちも、二人揃って黙っていた。
「『ワカミヤさんはここにいますか』って、言ったんだぞ、アズサちゃん」
 んな呼び方する奴、他にいるか? ――へらへら笑うグレンに対して、ああそうか『お兄さん』から苗字さん付けに進化したのか僕は、いや退化したのか? と、努めて表情を殺しながらトウヤは考えた。見えない背後から気の抜けるような声がした。それからミソラの声がした。アズサさん、どうしたんですか? なんだか顔赤くないですか? そういえばあの夜に会った時も真っ赤だったし、もしかして風邪、まだ治ってないんじゃ……あっ、言っちゃいけなかったんだっけ?
「……、……そ、そ、それで……何の話だっけ」
「ユキさんがズバットのキャプチャに四十分もかかって」
「ああそうそれ、で、ユキがえーっと、だから免許が更新できるか危ういってことになったんだけど」
「いやそれよりアズサなんか変じゃね? 大丈夫か?」
 空気を読まない子供たちは追撃の手を緩めない。ダイジョウブダイジョウブ、とまるで片言になりかけている主をよそに、清々しいほどの喜色満面で、チリーンがトウヤの左腕に巻き付いてくる。雑な包帯に覆いかぶさるように、するする這い上がって、顔を覗かせる。涎を垂らしてる。それを拭ってやりながら、トウヤは小さく息をついた。それを聞いたアズサのお喋りが再三ストップした。段々意識しなければ真顔を保てなくなるトウヤの前、空気を読むことを是としないはずのあの男が、珍しく空気を読んでいた。
「若いよなあ、かなり」
 声を窄めた。ぼそぼそと低めた。読んだ上で、それはもう悪いことを思いついた顔を、している。
「……十八か十九だったかな」
「ほっほう。やっぱり年下好きじゃないか」
「あ?」
「いやカナちゃんは上だったか。案外気が多いな、お前」
「何勘違いして」
「いいんだぞ? 俺に構ってくれなくても」
「遠慮するなよトモダチだろ?」最早笑いがこみあげてくる。
「本当はアズサちゃんと喋りたい癖に」
「残念ながらいつでも喋れる」
「俺も野郎とよりはかわいい女の子と喋りたかったんだがな、なーんかお前、あの子を避けてるような」
「避ける理由がないんです、が?」
 わっはっは。また豪快に男が笑う。大変遺憾であることに、背後の会話は今や完全に停止しており、やりとりの全てを聞きとられたにと見て違いない。大きな手が伸びてきて、ぽん、とトウヤの肩を叩いた。チリーンが慌てて逃げ出した。悪い笑顔が近づいてきて、耳元で囁く。
「ここは兄貴に任せとけ」
 アホか。やめろ。この期に及んで余計な事を――全ての制止が放たれる前に男は立ち上がり。
 そこからあっという間の出来事だった。
「お菓子を買ってやろう!」
 そう言って、子供たちの襟首を掴んだ。
 ぽかんとするタケヒロ、わーいおかし、と妙にニコニコしているミソラがずるずる引き摺られ、扉の外へ放り出される。主たちが出ていくので、ポッポとニドリーナがそれに追従していく。次にグレンの手招きで、渋々とノクタスが歩き出した。緩慢な動きで戸口を抜けていく瞬間、矢庭に、ギョロッと横滑りする眼光が、ぐさり。トウヤに鋭く突き刺さった。
「健闘を祈る!」
 最後に下手なウインクをばちこんと飛ばして、グレンが戸を、素早く閉めた。
 バタン。
 ……。
 ……。
 ……冷たいのか、生ぬるいのか、火傷するほど熱いのかよく分からない沈黙の中を、軋むような笑い声を立てながら、チリーンがゆるゆる浮遊していく。
 ぎこぎこと、振り返った。最悪のタイミングだった。まったく同じように振り向いた女と、信じられないくらい真っ赤になっている十八か十九のその彼女と、ばっちり、がっつり、目があった。
 ――比喩でもなんでもなく口から何か飛び出すんじゃないかというくらい、心臓が跳ね上がった。
 え、マジか。やばい。嘘だろ。ぎゅんと天まで上り詰めんかという心拍数が、己が恐ろしく舞い上がっているという現実をつきつけてくる。青ざめてるのか赤らんでるのか、自分ではもう知りようもない。あろうことかアズサは目を逸らさなかった。唇を変な形に曲げながら、トウヤの瞳を射抜き続けていた。背水の陣。無言のにらめっこ。目を逸らした方が負け。即座にトウヤが勝負を降りた。
 ばくばく。高鳴る鼓動が下手したら聞こえるんじゃないかと思うほど煩く、どうやって正常に呼吸するんだったかちょっと分からなくなりはじめて、いや、なんで、どうして君は、今に限って出て行かないんだ。さっきみたいにお菓子持つからとか言って、ついていけばいいじゃないか、好きだろお菓子、な。どうせあいつすぐそこでニヤニヤしながら聞き耳立ててるに違いないが。
 実際のところ、トウヤはあの、彼女と別れた晩に調子づいて口走ったことを、顔を見るまですっかり忘れていた訳である。
 忘れていたというか、他の諸々が重すぎて隅に追いやっていたというか、どういう流れでどこまで口走ったんだったろうか、ふつふつ沸騰する今の頭ではてんで思い出せなくて、ただただあの、暮れなずみの、ラスピラズリの外灯の下の――彼女のぽかんと口をあけた、あのスカッとするほど良い顔が。蘇ってくるだけなのである。どうしよう。あまりにも不味い沈黙。チリーンの微かな笑い声。
 とにかく、トウヤが焦り考えたのは、自分が会話をリードしなければいけない、という、惨めに痩せ細った年上根性だった。
「……えー、っと……」
 のに、結局そうやって口籠ってしまう対人能力のへっぽこ加減が、今最高に恨めしい。
「その……楽しかったか? ユニオンは」
「……ええ、まあまあ」
「そっか……」
「……」
「……」
 ――ああ頼む、何でもするから帰ってきて、どうせそこで爆笑してるんだろ早く帰ってこい馬鹿野郎頼むから!
 頭を掻き毟って叫んで逃げ出したい気持ちをすんでのところで耐えながら、一方で逃げ出す口実を全速力で考え始める自分とトウヤは必死に戦い続ける。さすがにここで席を立つのは男を下げるとかそういうレベルの話じゃない。何か。なかったっけ。話すこと。しばらく会ってなかったんだからなんかあるはずだ。何か、ええと、あっそうだ『ヒガメ』!
 光明が差してトウヤはぱっと顔を戻した。向かい合う長い睫毛が瞬いた。
「あの」「あの」
 声が重なる。
 ほら、だからこの、乱高下するテンションをどうにかしてくれと言ってるじゃないか。
 打たれて飛んで天井に当たって勢いよく落ちるボールのように。飛び出した威勢が一瞬で萎んだ。多分変な顔で黙り込んだのは、向かいだけではなかった。どうぞ。向こうが低く言う。いや、いいよ、なんでもないよ。そっちからどうぞ。こっちが言う。情けないほど声が上擦っている。蛇に睨まれた蛙、袋のミネズミ。そんなイメージが自分と重なる。追い詰められているのはどう見てもトウヤだった。
 どうぞどうぞ、の応酬にはならなかった。彼女はとっくの昔に覚悟を決めて、ココウに戻ってきていたのだ。ごくりと息を呑む、見るに堪えない緊張は、目の前で空中散歩を楽しんでいたチリーンを捕まえ抱いたあたりから知れた。強張った表情、怯えたような視線には、けれど固い意志も宿っていた。
「……この間のことなんだけど」
 そう、この生真面目娘につけ入ろうとした以上、逃げ道など端から存在しないのである。
 そもそも有耶無耶にする気などアズサにはなかったらしい、膿に触れまいとしていたのは自分だけだ。こっちから手を出した癖して。本当にみっともない。みっともないぞワカミヤトウヤ。思い直した。顔だけ向けるのをやめて、居住まいを正して、そして、
「……はい……」
 か細い声で返事をした。
「その……」
 向かい合わせになるように、アズサも座り直した。
 紅潮した頬、伏せがちな長い睫毛、小さな頭、柔らかそうな茶色の猫っ毛。実年齢より少し背伸びした容姿をとても魅力的だと思うし、ぎゅうとチリーンを抱きしめる様を見ていると、まだ子供なんだろうなという気もしてくる。その、と淡い吐息のように篭らせる彼女の言葉を待っていると、背徳的な気持ちさえ、胸に湧き上がってくる。自分が何をうっかり吐いたのか、トウヤはやっとこさ思い出した。口説いてる? そうかもな。ああ、これだけだ。たったこれだけ。
 僕のこれだけの言葉で、この子、こんなに真っ赤になって、こんなに初心にたじろいでいるのか。
 私。らしから心許ない声だった。けれどはっきり噛みしめるように、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
「……こういうこと言うの恥ずかしいんだけど……、私、子供の頃からずっと、レンジャーになるために勉強ばっかりしてきて、仕事を始めてからは仕事のことばっかり考えてて……、何って言うんだろう、こういう、浮わついた? っていうか……そういう話って、今までなかったし、その、考えたことも、なくて、だから」
 どんどん視線が下がっていく、どんどん声が小さくなる。いじらしい主人を、チリーンが大人しく見上げている。トウヤは黙っていた。年長らしい余裕を以って彼女の顔を見ようとしていた。その上でぎりぎり真顔を保とうとしていた。下唇はずっと噛み締めていたし、右手で左の甲を抓り続けていた。
 彼女の放つ一音ごとに、頭が、真っ白に、なっていく。
「……うれし、かったの。ありがとう」
 ありったけの勇気で振り絞るみたいにして、アズサはやっと言った。
 顔を上げた彼女の瞳が、潤んでいるのを、トウヤは見てしまった。う、ん。掠れた声で。それしか返せず。ぼうと目に映す、形の良い唇、細い指、ぴっちり閉じられた膝。
 どく。どく。物凄い血量が送り込まれているはずなのだが、脳は酸欠でも起こしただろうか。何も考えられなくなりながら、この一対一の状況がいよいよ飲み込めなくなりながら、ただ視界に映る情報だけ、一生懸命処理しようとして、思考回路がショートする。
 なんだ、この、異様にあどけない、ちいさな愛らしい生き物は。
 元来トウヤは、どうしようもなく自分に自信がない方で、顔も性格も断じて褒められたものではないし、女の子にモテたいとか、そういうことは正直考えないでもなかったが、だからといって自分に惚れられる要素があるとは米一粒ほども思えない。今まで出会ってきた人間の中でも自分という人は群を抜いて卑屈だし、そんな自分に一度だって彼女らしきものがいたことがあるのは、こう言ってはカナに申し訳ないが紛れも無い『奇跡』なはずだ。この子なんかは高嶺の花。モテるわけない、大丈夫、分かってるから大丈夫だから。だからトウヤは、いくら脳味噌が機能停止していたって、そのあとアズサが一拍置いて「だけど」と逆接を継いだとき、一瞬で確信することができたのだ。
 あ、フラれるやつだこれ。
「う、嬉しかったの、本当に嬉しかったんだけど……あの、今は私、その……仕事以外のことは全然考えられないっていうか……」
 しどろもどろとアズサが言い訳を始める。優しく振ろうとしてくれてる。そもそも別に告白してないんですが。聞きたくなさすぎて腰が浮きかけた。いいよ。イタいよ。逆に傷つくから。嬉しいんだけどって言われる度に惨めになるから。惨めに、惨めにか。ああそうか。これ、これ――やばいな。この瞬間、脳内で醜く争っていた本音と建て前に、ついに勝敗が決したのだった。逃げよう。逃げるしかない。逃げろ直ちに立ち上がれ。まずいぞこれ。どうしよう、どうしよう、どうしたら。
 真っ白な、頭で、苦し紛れに、あまりにも最低なことを、トウヤは閃いてしまった。
「お兄さんとは、ずっとビジネスライクな関係って言いながらやってきたでしょ。だから、こういうことははっきりさせた方がいいかなって思って……あの、本当に嬉しかったんだけど……、でも、今は」
「冗談だよ」
 この後何が起こるかなんて何も考えていなかった。口から滑り出すように、どうしようもないフレーズが飛び出した。
 アズサが顔をあげる。へ。腑抜けたような声が、漏れる。どくどく。ぐるぐる。血が巡る。へらと笑う。口が。勝手に。頭が回らない。ただこれだけは分かる。ああ僕ってやつは本当に、最低最悪のゴミクズだな。
「……じょうだん、って」
 子供のように、もたもたと、彼女が言うのに、被せるように、早口に、トウヤは言った。
 お前は真っ向勝負より逃げるのが得意だって、悪友が言っていたのを、なんとなく思い出していた。
「まさか本気にしたのか?」


 ――扉が吹き飛んだ。本当に吹き飛んだ。一瞬念力に輝いたのを見逃していれば間違いなくグレンの頭部はぺしゃんこになっただろう。野太い悲鳴を上げながら大男が尻餅をつく。部屋を出てすぐのところで聞き耳を立てていた(声が小さすぎて何も聞こえなかったのだが)二人もわっと声を上げた。廊下のあっちとこっちを歩いていた人たちの視線が、それらの音で、トレーナー控え室前に集まった。
 その多くの観衆の中、口を開いた控室から、物凄い勢いで人間がぶっ飛ばされた。
 向かいの壁に頭から激突した。
 廊下の先までえげつない音が響き渡った。蛙の潰れる声がした。割れるかというほどしたたかに後頭部を打ち付けて、トウヤはどしゃりと落下した。きんきら星が飛び交った。その目前に、追い討ちの一撃が、猛烈な勢いで飛び込んだ。
 豪速球の。叩いても割れない、ガラスによく似た球体が。満面の笑顔を曝け出しながら、男の顔面に、真っ向勝負でぶち当たった。
 ごっ。
 まっすぐ鼻の頭に突き刺さって、卒倒した腹に転げて、そのまま床に転がり落ちたチリーンが、竜巻に煽られたような激しい笑い声を立てている。りんりんりん。りんりんりんりん。それを見た事の発端の張本人が崩れ落ちて腹を抱えて床を叩きながら爆笑している。どん。どん。ミソラとタケヒロが部屋を覗き込む。見事な投球フォームからどしんと両脚を踏ん張ったアズサが、真っ赤な顔で、涙目で、聞いたこともない凄まじい声で、吠えた。
「――死ね!!!」
 そう言って転がった缶ジュース――多分トウヤが持っていた炭酸だと思うのだが――を蹴りつけた。中身を撒き散らしながらそれも吹き飛んだ。そしてすとんとベンチに座り込んだかと思えば、顔を覆って、呻いた。こんな奴に……! そんな声が聞こえた。え、何? なんで? 目を白黒させるタケヒロ、ひいひい笑っているグレンを順に眺めてから、ミソラはトウヤへ視線をやった。何が起こったのか全く分からないというような混乱した表情で、ふと鼻を拭ったのを皮切りに、ダラダラ鼻血が流れ始める。ハリはといえば、流血沙汰になっている主人に対して、目を合わせようともしなかった。





「どうしてついてくるんだ」
 そう険しい顔で振り返るトウヤの胸元が点々と赤く汚れているのを見て、グレンは何度でも噴き出してしまう。
「は? 観客席に行くんだから当然でしょ」
 触れれば切れる怒気を孕んだドスの効いた低音、発する女はグレンの隣を歩いている。他に比べて背も低いし体も細ければ歳も若いのに、今やこの施設で一番の『プレッシャー』の使い手と言って過言ではない威圧感を携えていた。長く健康的な脚を露出しヒールをつかつかと打ち鳴らす。ココウにしては化粧の派手なこの娘は、なるほど娘と言えど、トウヤにはかなり荷が重そうだ。完全に後手に回っているのに何故か引かない男とそんな女の第二ラウンドを、笑いを堪えて腹筋を鍛えながら、グレンは楽しく観戦していた。
「エスコートしてよ。私このあたりは初めてなんだから」
「相変わらず図々しい奴だな、レンジャー」
「あら、名前で呼ばないの? ああ呼べないか、このヘタレは」
 アズサがせせら笑う。ポケットに手を突っ込んでずかずか歩いていたトウヤがまた苛立って振り向いた。ちょっと胸を刺したはずのダメージは、なんとか包み隠せたようだ。
「事故でたまたま聞いただけで、君からは教えられてないんだがな」
「教えてもらわないと呼べない訳?」
「名を名乗る時はまずは自分からって習わなかったのか? とんだ 『教育』長官様だな、君の父親は」
「仮にも年下の女の子にそうやって横柄な態度を取るのってホンット育ちが悪いのね」
「おい親の悪口は無しだろ」
「お兄さんが先に突っかかってきたんでしょ!」
 試合に向かったミソラ、タケヒロと別れ、残り者になってからずっとこの調子なのである。完全に二人の世界という奴だ。お互いに「呼び方を変える最も自然なタイミングをテンパって逃した」のを後悔している風にグレンには見えるのだが、この様子だと暫く和解はなさそうである。チリーンは既にボールの中に納まっているが、ハリは三人の後を黙りこくってついてきていて、それもまた明らかにうんざりしていた。グレンを嫌っているはずなのに、そのグレンが苦笑いで顔を合わせても、二人をどうにかして欲しいと言うようにじっとり目を細めるだけだ。
 猫背が普段より尚更背を丸めている。歩きながらぶつぶつ言っているトウヤに、輩が引き気味に道を開けた。
「あの時はめそめそしてしおらしかったのにな」
「残念だったわね? 弱ってる所に付け込んで引っ掛けようとして、みっともないったら」
 腕を組んで、くいとアズサが顎を上げる。自信たっぷりの風格ある表情。ポケモンレンジャーっていうのはどうも顔が良い奴が多いように思うのだが、こういう高圧的な表情が作れるように選考されているのだろうか、それとも幹部級の遺伝子か。
「『それって口説いてる?』『そうかもな』――、はーむっかつくわ、あのどや顔」
 堪えきれずぶふっとグレンが噴き出した。そんな何でもないやりとりの延長線上で殴り合ってるのか、こいつら。
 思い出しただけで腹立つ、と怒りのあまり歩調を強める女レンジャーの前で、また振り向いたトウヤが、見下すような格好でからかいはじめた。
「一字一句覚えてるなんて、よほど嬉しかったのか?」
 ――ほんの一瞬アズサの顔が引き攣った。グレンは震えながら笑いを堪えた。ジャブが入った。いいぞトウヤ、その調子だ。
「そのツラのどこからそんな自信が沸くの?」
「そりゃ、あの顔見たらな、あの時の」
 何やら嬉しげに嘲るトウヤ。会話相手の後ろを歩いている従者がどんどん殺気立っていることに、一体いつ気付くのだろうか。
「ポカーンとして。かわいかったな、あの時は」
「っ、……!」
「あはは、照れてるのか?」
 おっと、形勢が変わった。アズサが目を背け俯いてそして拳を握った。出るか、渾身のストレート。投げるチリーンはもうないぞ。……ゆると手のひらが解かれる。小さな溜め息、おそらくトウヤの位置からは前髪に隠れて見えない瞳は、憂いさえ含んでいるではないか。
 角を曲がる、階段をのぼりはじめる。バトルガールは戦意を落としてしまったようだ。勝負を制したと思い込んでいるトウヤは、軽快な足取りで観客席へと上がっていく。
 馬鹿め。ちらりとハリの様子を窺い、グレンはにんまりと笑んだ。
「しかし、随分様子が違うなあ」
 久々に発されたグレンの言葉に、階段の中腹――丁度さっき、タケヒロと碌でもない話をしていた――で、トウヤは意気揚々と振り返る。曇り空を背負った逆光の中、男が溌剌と笑顔を見せる。
「そうだろ? こいつ、あの時はすっかり猫被ってたが普段はこういう小生意気な」
「いや、お前が」
 トウヤを指さしながらグレンは言った。
 ……ふっ、と冷笑が聞こえたのは、彼の従者からだった。アズサは顔を上げ、きょとんとして大男を見上げて、それから敵方へ目をやった。え? トウヤは一音呟いて、まっすぐ自分を示している指と、ぽかんと見つめ合って、怪訝と眉を寄せて。
 やっと言われた意味に気付くと、みるみるうちに、顔色を変えた。
「……」
「……」
「……」
「……あっは、照れてるの? 耳まで真っ赤なんですけど!」
 命を吹き返した笑い声が、小気味良く階段を突き抜けた。
 ああ、爽快な顔だそれ。堪えていた分をグレンはしっかり発散させた。いやいやいや。言いながら一歩後ずさろうとして、そこが段だと思い出して、トウヤは慌てて背を向けた。げらげらと大喜びする二人から逃げるように観客席へ。早足を追いかけていく。昼過ぎの客席が疎らなのは、重く垂れこめた空模様の影響だろうが。天候など知らぬが如く、いかにもノーテンキに空回る声が、全身全霊で否定する。ちが。僕は。その、ぜんっぜん、そう、いつも通り。いつも通りだよ。なあ、ハリ? そして勝手に地雷を踏んだ。呼ばれたハリは、待ってましたと言わんばかりに、ずかずかとグレンを追い越した。主によく似た歩き方。
「いっで!」
 棘が当たるようにずこんと背中を殴打されたトウヤが、そのまま前列へ進んでいくハリへなにするんだと情けなく叫ぶ。オトメゴコロを分かってないなあ。グレンの低い囁きに、年甲斐らしく表情を緩めて、アズサは笑った。

 最前列、四つ並んだベンチを見つけて、端にハリが腰を下ろす。グレンを挟んで二人も着席した瞬間に、ミソラとタケヒロの名前をコールする放送が流れ始めた。主役たちのお出ましはまだだ。閑話休題、お遊びはここまで。グレンはひとまず、あの純情との約束を果たさなければならない。
 右隣、餓鬼っぽく不貞腐れているトウヤへ、グレンは少しトーンを落として声を掛ける。
「ミソラの奴、午前中に八戦もしたんだってな」
 振り向く主人の横で、ハリもこちらへ目を向けた。ひたすら浮ついていた男の表情へ、彼らしい陰りが、少し戻った。
「目指すは十連勝、だっけか? ルカリオ戦の時はイマイチだったが、この短期間で腕を上げたじゃないか」
「いや」
 その躍進の獅子の指導者は、苦笑して小さく肩を竦めた。
「賢いよ、あいつ。連勝できるように、なるべく弱いトレーナーばかり選んでる。最初は野良のコジョフーを連れてきて頭数を増やしてたんだ。けど、複数所持してるトレーナーの方が平均して腕が立つと気付いてからは、ずっとリナ一人に絞ってる。九戦目にタケヒロが名乗り出た時も、内心ほくそ笑んでたはずだ」
「酷い評価だな。誰かさんが教えたからそうしてるんだろ?」
「褒めてるんだよ。……僕は教えてない。勝手に気付いたんだ」
 グレンの左隣で、おそらくミソラの十連戦のことも知らないはずの女が、少し身を乗り出して問うた。
「タケヒロくんは、どうして急にバトルする気になったの? ちょっと前までポケモンを傷つけるのは嫌だって言ってたのに」
 その時、疎らな野次が、スタジアム中央に向かって飛び始めた。
 赤サイド、黒髪短髪の少年が、まっすぐ視線を据えながらトレーナーボックスに歩み出てくる。少し遅れて、緑サイド。廊下の向こうから明るみに現れる、長い金髪。その思いがけない光景を目の当たりにして、トウヤは身を乗り出し、わずか息を呑んでいだ。
 あのミソラが、のろり、のろりと、足を引き摺るようにして、戦場へ向かっていくではないか。
 トウヤ、知ってるのか。グレンが問う。トウヤは首を振って、訝るようにグレンを見た。お前は知っているのかと。その顔を見て、タケヒロが『忠告』を守ったらしいことを、グレンは察知する。あいつ、本当に言わなかったのか。……視線を外す。審判のルール説明が響き渡るフィールドへ、ぎらりと光る眼を睨ませる少年へと、心を寄せた。
 さあ、お前が飛べるところを見せてみろ。
「ミソラと試合をして勝ったら、殺すのをやめるように言うんだと」
 ゆっくりと背凭れに身を預ける。少年たちの取り出したボールが、弱光にきらりと閃く。
 痣の男は、静かに目を見開いた。


 ――試合前。
「この試合で俺が勝ったら、お前は復讐をやめるんだ」
 両サイドへの別れ際に、突然友は言い放つ。
「俺も倒せねえようなやつに、人なんか殺せる訳ねえからな!」
 一方的だった。笑っても怒ってもいなかった。ただ強い声で、言いたいだけ突きつけて、タケヒロはミソラに背を向けた。歩いていく。遠ざかっていく。どんどんと。足元でリナの微かな声がする。ミソラは立っていた。突っ立っていた。立ち竦んでいた。
 取り残される。
 まってよ。ずるいよ。
 胸を抑える。ざわざわと血流が鳴っている。目の前が暗くなる。足元が覚束なくなる。どうして。そぞろ震える唇が、放つ塵のような音など、この反響する廊下であったって、もう彼には届かない。
 どうして、なんて、明白だった。
『なら、殺さなくていい理由がいるのか?』
 その理由に、自分がなると。タケヒロは言ってのけたのだ。







 
 
 <月蝕 TOPへ>
<ノベルTOPへ>