朝が来た。

 朝が来た。仄かに光る蒼穹があった。分厚い底に薄墨を流した、引き千切ったような雲の切れ間。すんと青ざめて、物悲しくて明るくて、あの子の睫毛の下から覗く、それは美しい空の色だ。透き通った朝日が貫く。雨に洗われて滲んだ町を、闇の残り香を、斬り裂いていく。苛烈だった。まるで有無を言わせない、痛いほど強い、輝き。
 真っ白い眩しさに、焼き切れて、灰と化しそうな気怠さに。トウヤはじわりと瞼を下した。
 おそらく朝もまだ早い。甘やかな二度寝の誘いに、身を委ねてもいいはずだ。寝返りを打ち、目を閉じる。睡魔は駆け足で戻ってきて、慈悲深い表情で脳を包む。ふわりと。従順に体を沈めれば。随分埃っぽい、日が眩しい、でも、いいや。春の綿雲に埋もれたら、こんな心地なのだろう。するすると意識が抜けていく、ひとときの快楽。思考は溶けて、なんの力も無くなりかけて――「んが」、と低い寝言が聞こえなければ、そのまま暫く眠れていただろう。
 容赦なく直撃する日差しの真ん中で、トウヤははたと目を開ける。
 身を起こしたのは、相も変わらず汚い家だった。洗濯済みなのかも定かではない服の山、出しっぱなしの冬物布団。それに埋もれて眠りこけていた自分。妙な姿勢で寝ていたから、身体がきしきしと痛んでいる。ぼんやりと首を捻る。窓際の棚まで物に溢れて、その散乱の一番上に、三つ並んだモンスターボールが朝日に鈍く輝いている。傾いて今にも落ちそうな置時計。もう動けない秒針が、悲しげに盤に貼り付いている。
 ベッドの横に、雪崩れた服だかゴミなのだか釈然としない小山があって、友人はそこに寄り掛かっていた。低い鼾を不規則に立て、すぐには目覚めそうもない。
 ……はて。なぜ僕は、グレンの家で寝ていたのだろう。
 引き摺り出そうとした昨晩の記憶は霧でもかかったかのようだ。思い出せないということは多分泥酔していたのだろうが、何故この家で飲んでいたのか。大男の呑気な顔を見ながらトウヤは暫く考えていた。けれど考えれば考えるほど、とある感情が邪魔をして、じきにどうでもよくなった。そもそもここで飲むことにいつも理由などなくて、あったって本懐ではないじゃないか。無意識に頬が弛む。胸をふくふくと膨らませる、この単純な感情だけが、ここで寝ていた意味でいい。
 ――しあわせだ。腹の奥からこみあげる、そんな実感が、不思議なくらいに懐かしかった。よく覚えていないが、昨日の晩は、きっと楽しかったのだろう。頻繁に数人集まっていた頃みたいに、騒いで笑って、潰されて寝て、ついでに夢でも見たんだ、多分。だからこんなに、夢心地にふわふわして何も考えたくなくて幸せで、いっそこのまま死んでしまって構わないなんて、思っているんだ。……寝よう。やっぱり。もういいや。どうせこいつも、昼くらいまで起きないのだろう。……再び横倒しになる、けれど。かちり、と不意に嵌りこんだ歯車が、目を閉じることを、思考を放棄することを拒ませる。自分はともかく、グレンは? 一体どうしてこんなところで寝たのだろう。いつもベッドは使わずに、ソファを寝床にするじゃないか。
 ぐるぐると歯車は、彼らの日常は、また音もなく、回り始める。
 朝が来た。だから平凡な一日は、誰が頼むでもなく、おのずから幕を開けるのだ。
 動かした視線の先で。
 長くしなやかな金色が、陽を浴びて 、ちりちりと淡く煌いていた。
 ゆっくりと一度、瞬きをする。祝福じみた朝日の中。
 シーツに包まれた小さな体、投げ出された白い脚。柔に閉じられた瞼、頬、作り物のように綺麗な寝顔。その横、今にも転げ落ちそうな体勢で寝ている少年のことも目に入れて、静かに、身体の隅々に染み込ませるように、トウヤは記憶を辿っていく。ビールケース。霧雨。夜のココウ。スーツ、魚、電話のむこう。浮ついていた爪先が、ひたりと地面に触れる、冷やかに現実を呑み込んでいく。
 けれど、僕は、『生きている』。
 ……やっぱり、夢も見たんじゃないだろうか。うんざりとして寝癖を掻いた後頭部に、誰かに触られていたような感触を蘇らせる。それはおそらく、小さな子供の手で、――ならば、おねえちゃんの夢を見たんだろうな、僕は、また。
 あのきれいな手に撫でられた頭には、まだ少し、くすぐったさが残っている。
 ベッドから這い出ようとした時、指先がひやりとしたものに触れた。それもまた、動かしようもない現実のひとつだ。転がっていた褐色の小瓶を摘み上げ、日に透かし見た瞬間だった。
『トウヤ』
 溜め息にひっそり紛れ込んで、頭の中に声が響く。
 小さな鈴が鳴るように、微かで軽やかで。柔らかなタオルのように、さらりと撫でて、癒してくれる。くすぐったさに目を細める。小瓶の丸く光る輪郭が、揺れる。眩い朝が、彼らの世界を包んでいる。
『よく眠れた?』
 くすくす、ころころ、と。ささやかで愛らしい笑い声。
 胸の内側に直接入り込むような彼女の声が、昔は少し苦手だった。それを察していたのだろう、『話しかけてくること』自体は今まであまりなかったのだ。ところがこの頃は、こうして不意打ちのように声を投げてくる。よく分かってる、自分自身より彼女の方が、僕の心を知っているんじゃないだろうか。呆れ気味に笑んで、からっぽの小瓶を、――元のように戻して、トウヤはモンスターボールへ手を伸ばした。
 おはよう、メグミ。
 心の中に一言、彼女のためだけの挨拶を浮かべる。





「リューエルのこと、『ポケモンを使って怪しいことをしてる危ない集団』、って、思ってるかい?」
 その集団に属する男性が、始終にこやかな笑顔で言うのだ。どこか脅迫じみてさえ感じて、エトはうんともすんとも言えなかった。
 深い緑のキャンプテントが寄り集まっている。どこまでも続く白い砂地、砂漠の中の通用路だ。『リューエル実務部第七部隊』と名乗る連中の昼食の輪に、エトは交えられている。小部隊の構成員は二十代から四十代、ざっと十人ほどだ。制服のない彼らの装備はメーカーもてんでバラバラで、共通項と言えば左腕の腕章のみ。金色の糸で豪奢な装飾が施されたそれ以外に、威圧感はまるでない。趣味同志で集まってぶらり放浪を楽しんでいる、そんな朗らかささえ漂うようだった。
「いやいや、いいんだよ? 最近そういう噂が立ってるの、知ってるんだ。俺達の仕事は手際とツラの良さが肝、ってところがあるから、ちょっと困ってるんだけどね」
 中でも一等お喋りな『アヤノ』と名乗るこの男は、鉄缶で煮えるスープのおかわりを器へ注ぎながら、飽きもせずエトに話しかけてくる。穏やかな口調と柔らかな物腰、だが眼鏡の奥の微笑みは『あまりにも良い人』を醸し出していて、正直、少し、胡散臭い。見栄のような警戒心はなかなか解けそうもなかった。
「……噂は、聞いたことありますけど。『お尋ねポケモン』を捕まえて、謝礼金を貰ったあとは、訓練して野に返すと言いながら裏で実験材料にしてるとか」
「そうそう、そういう感じだ。科学部の一握りが悪さをしていたようでね、それも昔の話なんだが。捕獲調査だけを担当する俺達みたいな実務部にすれば、いい迷惑だよ。まあ、そういう噂を湾曲させて流してるのは、リューエルが活躍すると仕事が取られて都合の悪い……例えばポケモンレンジャーみたいな連中だろうと、踏んでるんだけどね。俺は」
 アッチチ、と器に口を付けては離す、虫も殺せなさそうな柔和な笑顔。湯気で眼鏡が曇っている。そうなんすか、と軽く頬を掻きながら、エトはそれ以上何を言っていいのかも分からなかった。
 リューエル、と言えば。あまり関心のないエトでも、色濃く頭に残っている事件がある。今年の『水陣祭』の舞台前日、薄暗い路地裏。襲いかかってきたチラーミィを蹴りつけ、狼狽する子供に、彼は刃物をちらつかせた。姉や妹と接するのと変わらなかった、平生の彼。まだ目の前に鮮烈に蘇るあの光景、あの声と音は、未だにエトを混乱させる。『どうして僕を、リューエルの人間だと思ったんだ』『だって、それは、お前、団員しか持ってないはずの』――そして。
「ちょっと、おじちゃん」
 隣の人が口を挟んで、どきりと胸が鳴った。
 薄い唇が、あむっと乾パンを食む。のに、そんな可愛げな仕草は似合わない、すらりとした長身の女だった。一行の中ではとびきりラフな恰好から、伸びる華奢な腕、しとやかな指先。自分の姉もそうだったが、旅先だからだろうか、化粧っ気の薄い人だ。けれどごく自然に整えられた綺麗な顔立ちは、――どことなくトウヤに似て――決して派手ではないけれど、目を留めさせる美しさがある。
 そしてその綺麗さは、あらゆる場面で、『綺麗』の器からころり簡単に転がり逃げる。
「こういう言い方するから、印象悪くなるんだってば。レンジャーさんらとも穏便に行かなきゃ、ねっ?」
 見目の良い歯を剥き出して笑い、小首を傾げ、重い艶のある黒髪をぱらりと揺らす。
 もくもく片頬を動かしながら、舞い踊る火の粉のような、煌びやかな笑い声を立てる彼女――それが一見する静けさよりずっと華やかに見えるのは、忙しなく色を変える表情のお陰で、奔放な言葉遣いのお陰で、またエトのような若い男の真横で、堂々と胡坐をかく逞しさにも所以するのだろう。
 なんとなく、なんとなくだが、雰囲気と実態が、異様にちぐはぐ。『黙っていれば美人』を地でゆく人、というのが、彼女に抱く印象だった。
 『ワカミヤ ミヅキ』。道中死にかけたエトを助けた、リューエル隊員の女の名だ。
「ほらまた。仕事中におじちゃんはやめろって言ってるだろ? ミヅキ」
「私だってふくたいちょーって呼んで敬って欲しいんですけど」
「分かりましたよ、仕方ないな。……まあでも、副隊長殿の言う通りだ。とにかく俺達は、どんなに変な噂が広まろうと正々堂々と仕事をするだけ。君も、家に帰ったら『リューエルの素敵な紳士淑女に大変良くしていただいた』としっかり宣伝してくれよ、エトくん?」
 にこやかに指を立てるアヤノ、そして同じくにこにことこちらを見るミヅキの間で、エトはいっぱいっぱいに首肯する。そう――命の恩人が美女だろうが知人の血縁っぽかろうが、実際はそれどころの事態ではない。エトは今、この人たちに『大変良くしていただい』ているのだ。
 誰にも明かさず、行き先も告げず。……正確には姉には見つかってしまったが、家出してきて早三日。馬車に揺られて一昼夜、ヒビを経由し、船のあるワタツミを目指していた途上だ。たてがみをひらめかせる獣の群れにあっという間に取り囲まれ、頼みのヒナ――チコリータは灼熱の海に飲み込まれ、苦し紛れに投げつけたバッグは、瞬く間に炭と化した。長年貯め続けてきたありったけの持ち金や、旅道具、身分証、その他諸々の大事なものを、全部まとめて無に帰した。そしていとも容易く落としそうになった自分の命を、間一髪で救われた。
 船に乗れない。胸を席巻するのはその受け入れがたい事実だけで、あとはまるで夢の出来事のようだった。死にかけたこと、そして自分のせいで火傷を負ったヒナのこと、それらよりも優先して先行きに絶望していること。そのうえ真横の女性に気を取られてしまっていることも、自身の冷血さを浮き彫りにする。けれどこの凄惨な現実へ意識が向いていかないことは、ある種の逃避行動なのだろうと、エトも薄々勘付いていた。
 甘かったのだ。何もかも。……突貫の勢いさえあれば、どうにかなると信じすぎていた。
 浅く溜め息を付く少年を、ひょいと女が覗きこむ。
「ねえねえエトくん、今いーくつ?」
 低く落ち着いた声質が、随分とおちゃらけて若ぶっている。それが彼女の素のギャップなのか、落ち込んでいるエトを励まそうとしているのかは、まだ判断がつかなかった。
「十八です」
「じゅうはち! 若っ。そっかあ、へぇー」
 大袈裟に驚くと、見定めるように上から下まで観察して、にやにや、にやにや。たじろぐエトを見てアヤノに苦笑が滲む。
「若いのが羨ましいって? 二十四歳のお嬢ちゃんが」
「違いますぅー、ねえおじちゃん、トウヤが今、こんくらいなんじゃないかなあ、もしかして」
 突然出てきた名前に、ぎょっと心臓が飛び跳ねた。
 堪らずスープに口を付ける。緊張というスパイスが味の全部を殺している。エトがびくびくしていることに、二人は気付かなかった。おいおい、弟の歳を忘れたのかい、とアヤノが笑う。んな訳ありますか、たったひとりの弟よ、とミヅキが笑う。話が振られないように祈りながらも、エトは高鳴る胸を抑えられなかった。
 やはり、『弟』。姉ちゃんがいるなんて聞いた記憶もないけれど。
 トウヤと親族なら、我が家との関係性を知っているかもしれない。数珠繋がりに出身が割れる可能性もある。自宅がハシリイだと知られれば、『大変良くしてくれる』彼らのことだ、ご丁寧に送り届けてくれるだろう。それは御免だ。だから彼と自分の関係は、今ここで白状する訳にはいかない。
 でも。……そう、このきれいな人が。
 こんなところであれの血縁者に会うなんて。奇跡か運命みたいじゃないか。ならば言ってみたい気もした。その人と知り合いなのだと。あんたの弟に勝手に張り合って、ムキになって、自分は大きく成長して、最終的には背中を押されて、家を飛び出してきたのだと。
 トウヤ。……トウヤ。どうしよう、俺。失敗したよ。全部焼いちまったんだよ。そうやって縋れる人はここにはいないし、ココウなんて田舎町、どこにあるのか見当もつかない。そして今、全部失ったような顔をしているエトの前に、かわりみたいに、ミヅキという人が現れたのだ。
 名前に反応したのは、エトだけではなかった。少し離れたところで、一人で飯を掻き込んでいた人物が顔を上げる。短い髪、くっきりとした精悍な顔つき。大柄の男だった。
「年齢じゃなくって。トウヤってうんとチビすけだったでしょ、だからこんくらいかも」
「あっはっは、そうか。ミヅキ、そりゃあおったまげるぞ、実物を見たら。我らが隊長よりちょっと高いくらいだ」
「えーっ? まっさかあ。ウソウソ、絶対嘘ですよ」
 その時だ。ミヅキ、と太い声が飛んでくる。一足先に食事を終えていた件の部隊長が、テントの内から顔を覗かせた。
「ヒビの獣医師と連絡が取れた。チコリータの容体を説明しろ」
「さすがイチジョウ隊長、あざまっす!」
 すぐに立ち上がり、躍る黒髪がテントの向こうへ吸い込まれていく。
 自分たちの為に病院を探していたのだということを、そこで初めて知った。心配いらないよ、と不器用にウインクするアヤノ、こちらに頷いてから再び中へ戻ったイチジョウへも、エトは小さく頭を下げる事しかできなかった。
 病院、という単語が頭へ沸いた途端、漠然とした不安は急に体積を増し始める。ヒナのことを放って行くことなんてできない、病院に連れていったって金も無い。結局のところ、やはりハシリイに帰るしか残された道はなさそうだ。今頃家はどうなってるだろうか、カンカンだろうな、じいちゃん。つうか、カッコつけて振り切ってきたマリーや姉ちゃんに、どんな顔して会えばいいんだよ。
「――『フジシロ エト』と言ったか」
 諦めかけたエトの隣、さっきまでミヅキがいた場所へ、どすん、と誰かが座り込んだ。
 先程の男だった。近くで見ると体格の良さが際立った。軟弱な己と対称的な屈強さは、姉を孕ませたあの男にも共通している。太陽を彷彿とさせる明け透けで力強い、ばっちりとした大きな目。どことなく不躾な雰囲気だが、姉の彼氏と違うのは、それが何故か嫌ではないという点だった。
「そうですけど」
「フジシロと言うと、ハシリイの姓か?」
 あまりにも唐突な彼の言葉に、思わず目を見開いてしまった。
 その顔を多分、今度はアヤノも見たのだろう。きょとんとしてこちらと男を見比べている。ばれたか、まずい、いや、待て、まだ大丈夫。確かにハシリイには多い姓だが、他の町でだって、そこまで珍しくもないはずだ。――そう狼狽している自分が、ちっとも諦めていないらしくて、なんだかもう笑えてしまう。
 否定に至る前に、目の前の男が破顔して、ぽんと細い肩を叩いた。
「そんなに怯えなくていい、取って食ったりせんから。ミヅキにも隊長にも内緒だ、なあ、アヤノさん」
「まあ、ゼンくんがそう言うなら」
「……ちがい、ます」
「違ったか、そうか。悪かったな」
 ゼン、って言うんだ。『シマズイ ゼン』。だが誰も苗字じゃあ呼ばんから、ゼンと呼んでくれたらいい。そうとだけ自己紹介して、ゼンと名乗る男はこちらの耳元へ顔を寄せる。
「実家から逃げたなら」
「だから違いますって」
「ははは。……もしそうなら、苗字は捨てた方がいい。案外足がつくものだ。俺もそうだから、分かる」
 そう小声に聞かせて、ニヤリと笑う。同じ穴の貉。エトだけに見せた悪戯っぽいその笑みに、なんだか少し、安心した。気付けばエトは頷いていた。





 どたどたと階段が鳴る。駆け出してきたミソラは素早くカウンターを走り抜けて、飛びつくように戸口へ向かった。
「お師匠様もお昼までには来てくださいね、絶対ですよ!」
 そう喚いて開け放つドアから、爽快な風が吹き込んだ。肌寒さにトウヤが身を震わすのもお構いなし、行ってきまあす! と高らかに叫んで、曇天の下へ飛び出していく。いつだかやった鈴の音がドアチャイムに紛れ込んで、りんりんと跳ねながら遠のいていく。……気を付けて、と手を振ったハギは、その勢いに呆れ気味だ。獣のように早食いして身支度を整え外出する、手際の良さには付け入る隙もない。
「朝早くから出ていくんだね」
「早く試合を始めれば、インターバルを長く取れますからね。リナをゆっくり休められる」
「またスタジアムに行ったのかい? よっぽどポケモンバトルが気に入ったんだねえ。一体誰に似たんだか」
 頬を撫でる叔母の軽い嫌味に、トウヤは苦笑いするしかなかった。
 片付けられないからあんたも早くお食べよ、と言いながら奥へ下がっていくハギを見送り、厄介者へ目を落とす。用意されていた朝食だ。湯気の消えたご飯、汁物、目玉焼き。いかにもうだつの上がらない表情で、汁物椀を引き寄せる。目を瞑って、眉を顰めて、まるで苦い粉薬でも流し込むように一口二口飲んで、置いた。それから後方へ目をやった。
 ノクタスのハリ、ガバイトのハヤテ、オニドリルのメグミ。三人とも朝餉を終えて、空の給餌皿を前にこちらの様子を窺っている。最近この主人思いの連中は、残飯処理に非協力的だ。かわりに普段トウヤの朝飯を食ってくれるのはニドリーナのリナなのだが、今日は既にミソラが連れて出てしまった。となるともう、ピンチヒッターは一人しかいない。
「ヴェル」
 叔母に気付かれぬよう、囁き声で、友を呼ぶ。……のっそりと顔を上げる、肉の布団のようなビーダル。おいでおいでと手招きすると、随分と嫌そうな顔をしてから、ハリ達の方を一瞥、そしてこちらへやってきた。
 洗濯機が回る音は、まだしてこない。おばさんは暫く戻ってこない、今のうちだ。せっかくよそってくれた米を目玉焼きの上にひっくり返して、それを皿ごと床に置いた。さあお食べ、ヴェル。
 ふんふんと鼻が近づいていく。半開きだった目が匂いに丸く開いて、食い物を前に輝いている。なのにどういう訳か一向に口を付けようとはせず、こちらをちらちらと窺うばかりだ。
「食ってくれよ。うまいぞ」
 皿を口先へ押し寄せて、促す。ヴェルは顔を上げた。鼻を鳴らすのをやめた。まるで何か言いたげに、いや、むしろ咎めるように、じっと男を見つめ始めた。
 ……睨みあいに押し負けて、トウヤは小さく息をつく。汁椀をまた手に取った。一気に飲み干して、不味そうに具を噛みながら、ヴェルの前で椀を傾げる。空っぽだろ、ほら。
 人間より長い長い鼻息を吐いてから、やっとのことで、食いしん坊が飯に喰らい付いた。

 ごうごうと洗濯物が回る音がする。きれいに空いた皿と茶碗を、ハギが疑いなく洗い始める。あんたねえ。まだ少し嫌味っぽい声に、給餌皿を片付けながらトウヤは少しびくりとした。ばれたか。口の周りについた米粒を、ヴェルが舌を回して舐めとっている。
「あんまりミソラちゃんに、危ないことをさせないでおくれよ」
「え?」
 振り向くと目が合った叔母の表情は、真剣に心配げだった。先の話の続きだ。話の中身の割に安堵して、トウヤは小さく肩を竦める。
「手持ちを鍛えることは、身を守ることにも繋がりますから」
「そうは言ってもね」
 ハギはトウヤから視線を逸らした。伏せられた瞳が、洗い物へ落ちる。
「……あの子も、ポケモンを連れてスタジアムにばかり通っていたから」
 その『あの子』が、死んだ息子を指しているのだと理解するまで、トウヤは少し時間を要した。
 気を付けて見ておきます、と吐いた自分の言葉は、まるで上辺を撫でていた。ハギは満足気に頷いたが、自分の声のあまりの寒々しさに、悪心がするようだった。寒い。腕を撫でる。いつも熱を持つのにこんな時に凍えるような、色の変わった左腕。するりと赤い光が差して、メグミが勝手にボールへ戻る。寄ってきたハヤテもボールへ戻した。一つ目のボールも取った。開閉スイッチを押そうとして、ふとハリの目を見て、……やめて、ボールは元の位置へ。カウンター奥の廊下に向かうと、重い足音がついてくる。
 ごちそうさまです、と呟いて、叔母の背後を通り過ぎた時だった。
「あんたもだよ、トウヤ」
 立ち止まり、顔を向ける。少し照れたような、温かい微笑みに直面する。
「ミソラちゃんが来てから、あまりフラフラ出ていかなくなったでしょう。旅は楽しいんだろうけど、おばちゃん、実はほっとしてるんだからね? トウヤが危なっかしいことをしなくなった、って」


 声が蘇る。
『私、自分が突拍子もないことを言ってるって、分かってるんです』
 タケヒロもやめろと言うし、グレンさんもよく思っていないようだし、普通はそうなんですよね。揺すり起こして、さっさと友人宅を退散して、自宅へ戻る道すがら。寝ぼけ眼を擦りながら、ミソラはそうトウヤに聞かせていた。
『気味が悪いって、思うんですよ。私のことを、みんな、きっと。……でも、お師匠様は、こんな私でも許してくれた。優しいですよね、お師匠様。お師匠様だって、多分『普通』に思ってるはずなのに。それでも私のやりたいようにやらせてくれる。応援してくれる』
 優しいですよね、お師匠様は。口を開こうとした男へ、押し付けるように、子供は繰り返した。
『私、目標達成したら、必ず恩返ししますから』
 にへっ、と、とろりと、蕩ける空色。朝日の中で、微かに紅潮した頬は、艶やかな光を湛える。


 ――よしてくれ。優しくなんかないんだ、ミソラ。
 さっきの汁物を胃液ともどもぶちまけて排水溝へ見送ってから、便所を出て。階段を上がる、自室の戸を開ける、ハリがそこに待っていた。物言わぬ視線を浴びながら、押入れを引く。膝をついて中を漁り、目的の物を引っ張り出した。
 みんな大好きポケモンフード、ペレット型、特大粒。ノーマルタイプ用。お徳な増量パッケージ。
 さあ、始まりました、楽しい朝ごはんの時間です。
 ……一握り、ざらざらと、机に広げる。ポケモンフードにも各社様々な取り揃えがあって、趣向を凝らした商品が数多く出回っている。種族によって様々に要求される栄養素や食の好みを、タイプやタマゴグループなんかでざっくり分けて、それぞれの専用食として開発されるのが一般的だ。生き物の理に適っているから、ポケモン達に食わせる分にはタマゴグループ別のブランドを選ぶのだが、タイプ別の商品の方がだいたいは安価で手に入る。中でも最も安いのが、オーソドックスなノーマルタイプの餌だ。味だけなら、あらゆる会社のあらゆる味を一通り試した身から言えば、フェアリータイプ用のポケモンフードが一番『食い物らしい味がする』。フルーティな味付けの焼き菓子として売られていても不思議ではない。けれどフェアリータイプ用は需要が少なく高価な上、うちにいないから、買うと怪しまれかねない。ノーマルなら、まあ自分の手持ちでないとは言え、ヴェルがいる。なんとでも言い訳出来る。
 机の上に転がっている、草の汁と腐ったオボンと獣の匂いがする塊を、少し眺めて。トウヤはふと思った。ポケモンは給餌皿を床に置かれて、地べたに座るか這い蹲って餌を食うのに、どうして人間は食卓に飯を並べるのだろうか。
 黙って、机から足元へ、てきぱきとペレットを並べ変えた自分の主を、案山子草はひたすら無表情に見守っている。
 這い蹲って、食べるべきか。胡坐をかいて視線を落として、トウヤはしばらく真剣に悩んだ。けれどそこまでは倣わなくともと思い直して、手に取って、茶色い固形物を躊躇いも無く口に入れた。
 がり、がり、もそ、もそ。……ノーマルタイプの混ぜこぜの味は、正直よく分からない。味覚は日に日に朧になっている。忽ち口内の水分が奪われれば、舌の上に砂っぽいざらつきばかりが残って、それが物凄く不味いことは分かる。けれど飲み込んでしまえば、それで終わりだ。いくら不味くてもポケモンの餌なら、ヒトの飯みたいに、食うこと自体に罪悪感は伴わない。吐かなきゃいけないとも、思わない。
 ろくに飯が喉を通らなくなったのは、十日ほど前だろうか。ポケモンフードを色々と味見したのはずっと昔で、それこそ十一か十二の頃だろう。ハリに一番うまいものを食わせてやらなければ、の一心で、スタジアムで得た小遣いであらゆるポケモンフードを購入し、一緒に試食を繰り返していた。なんでお前まで食うんだよ、変な奴だな、と、グレンは呆れかえっていたが。あの興味本位がまさか役に立つ日が来るなんて、さすがに思いもしなかったろう。
 ポケモンフードは、味は薄いが高カロリーだ。燃費が良いのは自分の長所で、朝少しでも腹に入れれば、夜まで十分に活動できる。……視線は痛いけれど。十粒ほど食って、食いきれず残りを袋へ戻すトウヤに、ハリはじわじわと目を細めていく。昨晩の弓張月のようだった。
「そんな冷たい顔するなよ、ハリ」
 腐っても主人だろう、お前の。ああ、いや、『家族』、と言ったのか、確か、僕は。お前のことを。昨日は睡眠不足も極限に上り詰めていて、全て思い出せている気もしない。一睡できた今は、いくらか思考もクリアだった。
 家族なら、冷たい顔もするだろう。嫌そうな素振りも見せるだろう、だって家族だから。自分と同評価を下される身内が、ヒトの食い物を拒絶して、安くて臭いポケモンの餌を食っていれば、当然嫌にもなるはずだ。
 家族ならな。そりゃあ、そうだろう。袋を押入れの浅い場所へしまいながら、ふと手を止めた。
 両親が生きていたら、今の僕を見て、どんな顔をするのだろうか。
 その想像がおかしくて、トウヤは一人で笑ってしまった。やっぱり嫌だろうか、情けないと言うだろうか。母さんは多分、言うだろうな。みっともないと怒るだろうし、泣くかもしれないし、叩かれるかもしれない。でも、父さんは、きっと笑ってくれるだろう。げらげら笑って、腹を抱えて笑って、さすがは俺の息子だと、涙が出るほど笑うだろう。そうやってひとしきり笑い飛ばしてから、僕に聞くんだ、絶対。それでどれが一番うまいんだ、って。父さんにも食わせてくれって。嬉々として言うに決まってる。それを聞けば、母さんはまた怒って、下手したら父さんも殴られるんだ。
 ああ、――絶対そうなる。おかしいな。立ち上がって、ぽんぽんと上機嫌に頭を撫でられたハリが、また無表情に彼を見上げる。トウヤは部屋の向かいの、ミソラが使うベッドの下に手を突っ込んで、畳まれたゴミ袋を取り出した。
 広げて、ばさりと空気を含ませて、座る。部屋の角の本棚、その横の物置棚。今日はここだ。思い出がある分手が掛かりそうで後回しにしていたが、今ならなんだか景気付いている、行ける。
 手始めに、無造作に並べられている写真立ての中から、青いフレームを選んで取った。
 色褪せた、うすっぺらい紙の中で、大好きな父と母に手を取られて、無邪気に笑う、九歳の子供だった自分。
 父さんは、母さんは。今の僕を見て、一体何を思うのだろう。
 一瞥して、すぐにゴミ袋に放り込んだトウヤに。ハリは静かに目を見開いた。
 ――ある日砂漠の真ん中で、とてもきれいな子供を拾った。拾った子供は、すくすくと育って、「誰とも知らない人を殺したい」と言い出した。父さん、僕はそれを手伝うと言ったよ。母さん、僕はそれに指導をつけたよ。『人殺し』に加担する、醜くて、身勝手極まりない、酷で残忍なあなたたちの息子を。見て、何を、思いますか。
 ひとつひとつ、確認もしなかった。色とりどりのフレームの中。ハリや、ハヤテや、たまにメグミも写り込んでいる、色々な場所に行った記憶、そこで見たもの、聞いたもの、笑ったこと、怒ったこと、感じ入ったこと。すべて掴んで、囚われる前に、袋の中へ。放り込んでいった。消し去っていった。なかったことにしていった。
 優しくないよ、優しくないんだ。ミソラ。胸の中で、うわ言のように繰り返したって、黙っていれば意味はない。そう勘違いさせる行動をとり続ける限り、懺悔は力を持つはずもない。ミソラ。気付いてくれよ。見限ってくれよ、頼むよ。早く。お前が慕ってる『師匠』と言う奴は、本当に屑で、下劣な悪魔か、鬼のような化け物なんだ。
 撮りすぎだ、写真。数冊のアルバムごと全て突っ込んだ。その下の棚、旅先で買ったり貰ったりした置物や人形なんかも全部、流れ作業で廃棄していく。十年近くかけてぐちゃぐちゃに詰め込んだ思い出たちは、ものの数十秒で空っぽになった。
 黙って、呼吸をするのも忘れるように、膨らむゴミ袋に見入っているハリは。微かに震えている、ようだった。
 アルバムとか写真立てとか、ミソラが要ったと言うだろうか。中身だけ捨てて、譲ってやるべきかもしれない。そういえばあいつも、ハシリイで楽しそうにカメラを構えていたじゃないか。カメラ。ふと思い出す。棚の一番上に、砂埃を被った使い捨てカメラが置いてある。それも手に取って、少し眺めてから、机の上に移動させた。早めに現像しておかないと。
 ゴミ袋はまだ余裕がある。あとは何を捨てるべきだろう。座り込んだまま、本棚を見上げた。以前に比べれば、ほとんど空に近づけた本棚。ミソラがこれからトレーナーとしてやっていく時、必要になりそうな本だけを選んで残してやったつもりだ。
 『あの日』を機に、少しずつ進めた身辺整理は、いよいよ終盤に差し掛かっていた。
 ためになるものを残しながら、この部屋から、できるだけ痕跡を消すために。前任の『部屋の主』が、僕にそうしてくれたみたいに。
 仮に。このまま順調に、僕の痕跡が全て消えたら――僕がこの部屋から消えてしまえば。いや、そうでなくても、これから事がどう転んでも、おばさんは悲しい思いをするだろう。ヨシくんのときの、それに近い苦しみを味わうだろう。その元凶のすべては僕で、だからこそ、僕は行動しないといけない。誰かに与える悲しみや、迷惑は、最小限に留められるよう、一刻も早く、ここから動き出さなければいけない。
 誰も待たない。精算を迫られている。おまけみたいなこの人生の、白か、黒かを。
 昨日の電話を思い出した。大丈夫だよ私幸せになれるよって。今更じゃん、仕方ないじゃん、って。ねえ、だから、トウヤも幸せになってよ、絶対だよ、約束だよ、なんて。
 あの、馬鹿が。脳裏にあの声が過ぎった途端、急激な脱力感に襲われて、ベッドに倒れて、顔を覆った。
 カナ。……散々無責任なことを言いやがって。
 ああ、いつからだ? いつから勘違いしていたんだろう。幸せになど、なれるものか。なってやるものか。例えば全てから解放されて、こんな世界から晴れやかに飛び立てたって、天国の両親のところになんて、端から行けるはずもなかったんだ。
 おねえちゃん。呻き声が、指の隙間から漏れる。あなたは、何を言うだろう。何か言ってくれるだろうか。僕を怒ってくれるだろうか。僕を、笑ってくれるだろうか。
 その、どちらにしたって。――変わらないのだ。結末は。どうやったって足掻いたって、最後に僕は、ぐるぐると、頭から落ちていくだけなのだ。
 十歳の僕が待っている、あの月の夜と、地獄の底へ。
 落ちていく、だけなのだから。







 
 
 <月蝕 TOPへ>
<ノベルTOPへ>