あの魚の目を、また見てしまった。
 布団だけ敷いて、押入れにもたれかかって足を投げて、包帯をしていない腕をだらりと垂らして、外を見ていた。口の端は下がって、目は安い硝子玉のようで、まるで閉じる機能など存在しないみたいにぽかんと開いて、意志もなく窓へ向いていた。何も映っていない。暗い色の瞳孔は、ただの虚ろな穴だった。……風呂上りのミソラが黙って部屋へ踏み入れると、ようやく足音を聞いたのか、ふとトウヤが顔を向ける。おお。硝子に血が通う。能面の上に表情が戻る。そして、何故だか苦笑して、再びふいと窓へ目をやった。
「雨、止みそうだ。随分小雨になった」
「そうですか」
「降ったり止んだり忙しないな、今年は」
 静かにベッドへ尻を沈めると、背中の髪がさらさらと鳴る。明日は降らないですかね、雨が降ったら試合できないですよね。そうだな。ぽつり、ぽつり。軒先から不規則に滴る雫のように、会話はぎこちない。肌寒さに薄手の布団を引き寄せながら、トウヤが寝息を立てる瞬間を聞こうと、ミソラは胸に誓っていた。あの話が何かの勘違いだと証明するまで、今日は眠らない。そうして、安心を得たい。あんな目は自分の錯覚なのだと、一刻も早く確信したい。
 雨の音はもう聞こえなかった。話も途切れて、しばらく屋外の何かへ視線をやっていたトウヤは、すぐには寝そうにもなかった。それどころか、おもむろに立ち上がって、窓の方へと歩いていった。闇に身を乗り出す。雨の残り香に鼻を鳴らす。彼の双眸に、中央通りの街灯が煌めく。
「ミソラ」
 心が読まれたようにどきりとして、身を縮めて目を丸めたミソラに対して、振り向いたトウヤは、笑っていた。冷やかな夜風が、その短い黒髪を揺らした。
「遊びにいくか」
 子供みたいな、印象的で、混じりけのない笑顔だった。


 霧のような雨がココウを包む。
 夜中に出歩くのは、初めてじゃなかろうか。寝間着に薄手の上着を羽織ってもまだ寒い。ハギの寝室には明かりがついていたから、ばれないようにこっそりと靴を調達してきて、二人は二階から抜け出した。窓枠に足を掛け、軒先を掴んで外側から壁を蹴りあがって、力任せに屋根の上へ。そうやってのぼるから屋根が傷んで雨漏りするんじゃないですか、と見えない相手に声を掛けると、頭の上から、もっともだ、と笑い声が返ってきた。
 手を掴んで引っ張り上げられて、隣家の排水管を伝って降りる。トウヤは一旦勝手口の方向へ行って、ビール瓶の並んだケースを抱えて戻ってきた。それだけを携えて、夜の町へ繰り出す。傘もいらないくらいに雨は小康を保っていて、夜の所以か雨の所以か、通りには人っ子一人いなかった。点々と光る街灯が、絹糸のような細い雨筋を、うっとりと浮かび上がらせる。音もない大通りには、二人の靴と、肩掛け鞄の鈴だけが、煙のように空虚にたなびく。
 閑寂な闇の中だから、いつになく、ふたりぼっちに思えた。
「いつも私が寝た後、こうやって抜け出してたんですか?」
 それを聞くのに、わずかな勇気しか要らなかった。答えてくれると思えた。たまにな。男は苦笑する。低くて、小さくて、不明瞭な彼の発音も、静けさの中なら十分だった。
「だから寝不足になるんですね」
「寝不足?」
「スタジアムで、いつも寝てらっしゃるでしょう。最近」
「ああ。仰る通りです。心配してたなら、悪かった。夜遊びも程々にしないとな」
 重そうにケースを持ち直し、ひょうきんに流す男の姿に、くすりと笑えた。嘘だろうと分かるのに、少しはほっとすることができた。
 どこに向かっているのか、トウヤは言わなかったし、ミソラも聞かなかった。聞かなくてもよかった。行き先はどこでも構わなかった。夜は滲んでいて、そこには他に誰もいなくて、たまに一人で抜け出す場所に、トウヤがミソラを連れ出した。それだけが、ミソラの全てだった。
 エトの家出をけしかけたのは自分なのだと、頼んでもいないのに、トウヤは白状を始めた。何かを思い出したように、そっと静かに微笑む。諦めたようにも見えていた。
「やりたいことがあって、それをするには、すぐにでもハシリイを出なきゃいけなかった。ずっと迷ってたんだ、あいつ。電話でも何度か相談されて、僕はそのたびに、何も考えずに背中を押した。どうして迷っているのかなんて、勝手に想像していただけで、結局聞きもしなかった。きっと、カナの腹の事があったから、迷っていたんだろうな」
 街灯に淡く照らされる横顔が、ゆっくりと空を見上げた。まだ小雨を降らす雲の切れ間に、斜めに欠けた月が出ていた。
「多分、エトは戻らないだろう。これからフジシロの家は大変だ」
「何故ですか」
「エトは、あれでいて案外家事を手伝うから、カナは結構助かってたよ。お爺さん達はいるけど、基本的には、これからは一人だ。家事も、入院してるお母さんの世話も。つわりがきつくても、はあちゃんの面倒は見なきゃいけない。赤ん坊が生まれれば……」
 喜ばなきゃいけないんだけどな。零す声は水を含んだように重く、『ちょっとだけ』している後悔の姿に、ミソラはようやく辿り着いた。こちらを捉えない彼の視線は、低い弓張り月にばかり向かっていた。その自責の声を聞けるのは、ミソラ一人だけだった。
「エトは、本当は、そういうことを、放っておけるような柄じゃない。けど、放っておくように僕が仕向けていたんだ。知らない間に。……カナが負担に苦しむなら、僕の責任、なんだろうな」
 こつこつと石畳を踏む音は、やがて湿った砂利に変わった。真ん中あたりで大通りを逸れて、町の東へと進んでいく。
「お師匠様のせいじゃないですよ。……これからはアキトさんもいらっしゃるんですから」
 ミソラの言葉に、トウヤは薄く破顔した。
 雨はほとんど収まっていた。月は、陰ったり、また出たりして、細くうねる道を気まぐれに照らす。ぽつぽつと明かりのついた窓の横を通ったが、静かなものだった。誰の笑い声もしない道は、人の気配も、獣の息遣いもない。雨垂れが時折水溜りを揺らして、その波紋をミソラの足が踏みつけて壊す、雑音といえば、その水音くらいだった。
 トウヤはしばらく黙っていたが、話し足りないような、そんなおさまりの悪さを感じている気がした。ミソラも黙って、漆黒を切り貼りする空の、窮屈に押し込められた星の群れを眺めていた。ガチャ、ガチャ、と、瓶の擦れ合う音がする。上弦の月がまた雲の裏に隠れて、民家の明かりが遠ざかって、夜が一層に闇を深める。その濃密な藍色に溶かし込むように、トウヤは重く口を開いた。
「今から話すことを、夢でも見たんだろうと思って、一緒に墓まで持っていってくれないか」
 ミソラは驚いて、横に並ぶ彼を見た。黙々と歩を進めながら、輪郭の曖昧な足元に落ちる彼の目は、生きていて、そして酷く深刻そうに、苛烈な悔恨を繰り返していた。
「今年、カナに、もう一度付き合おうって言ったら付き合ってくれるのか、って聞かれたんだ」
 その声に乗っているはずの感情は、存在している筈なのに、ミソラにはちっとも読み取れなかった。
 それって。僅かに瞠目して零す声に、トウヤは緩慢に首を振る。少しすれば、口元に安らかな笑みは戻った。けれど寂しさばかりは皮膚を裂いて、所々に血を滲ませていた。
「さあな。何を考えてたんだろう。それでいて、アキトさんのことは、凄く気に入っているって言うんだよ。僕に、どうして欲しかったのか、どういう答えを求めていたのか、まったく分かってやれなかった」
「……なんて答えたんですか?」
「付き合うなんて、言える訳ないだろ」
 乾いた笑い声が、狭い道に響く。
「嫉妬なんだ。ごめんなミソラ、こんなみっともない話を聞かせて」
「いえ……」
「アキトさんはとてもいい人で、僕も好きだ。ハシリイに世話になりはじめてから、カナが色んな男と付き合うのを見たけど、遊び人ばかり引っ掛けるあいつにしては、良い選択だと思う。僕はカナを、幸せにできないが、アキトさんなら……けど、なのに、何故か、カナは……会うたびに、どんどん不幸になるようで」
 がちゃ、がちゃ、がちゃ、とビール瓶の乱れる音が、大きくなる。段々と露わにされる男の感情にミソラは引き寄せられていきながら、さっきのビールが残っているんだな、とどこかで冷静に俯瞰していた。お日様のようなあの人が、本当に? 不幸にしているのは、誰なのか。それを願っているのが、あなたの心で、それを通して見ているから、そういう風に見えている、それだけの話ではないのだろうか。
 叱られたハヤテが唸るのに、彼が言うのはどこか似ていた。ミソラと同じことに、もう気付いているのかもしれなかった。
「……あの子は幸せにならないとだめなんだ」
 苦しげで、自分を責めて、けれど相手のことも、少し、恨んで。
 その時、世界が、ほうと明るさを帯びた。あやふやな境界が背中から、光の線で縁取られていく。二人は揃って空を見上げた。また雲間から現れた月が、彼の頭上で、煌々と輝き続けていた。
 なれますよ。微笑んで、温かい気持ちで、心の底から、ミソラは言った。なれるかな。ええ、きっと。そうかな。幸せになれるのかって、電話で聞いてたじゃないですか。トウヤはぎょっとしてミソラを見て、照れくさそうにはにかんだ。
「聞いてたのか」
「聞こうとしなくても、聞こえたんです」
「はは。……もう、幸せなんだとさ。そうだな。ココウで気を揉んでたって、もう、僕にできることは、何もない」
 目を逸らして、再び顔を上げた。湿気を孕んだ朧な月が、青白い光彩で、彼の感傷を迎え入れた。
「あの家に、僕はもういらないんだろうな」
 さくさくと歩が早まる。ミソラは否定しなかった。トウヤも次を言わなかった。二人だけの秘密になって、月光が描き出す無数の深淵の中に、言葉は吸い込まれていった。静謐な時間は、殊の外、心地がよかった。
 雪道を掻き分けて向かう、華やかな結婚式で。他の男と手を組んで、幸せに微笑む、彼女の可憐な花嫁姿を。焼き切れるほど焼き付けて、そしてもう二度と、トウヤはあの家に行かないのだろう。
「どうして最初、付き合おうって言ったんですか?」
「それ聞くか、今」
「今だからこそ聞きます」
「手厳しいな。……笑うなよ。可愛かったんだよ。笑った顔も、泣いてる顔も、なにもかも。真面目で、一生懸命で、気遣いが出来て、明るくて、くるくるとよく働いて……僕なんかを、あんなに手放しに気に入って。馬鹿だなあと思って、本当に、可愛かったんだ」


 ココウの中央西寄り、アズサの家より随分狭小の一戸建て。今にも崩れそうな見目に違わず、扉の内は常識を疑うほどとっ散らかっていた。もぐもぐと咀嚼しながら出迎えたグレンの大ぶりな口の脇には、コロッケの欠片が付いていた。奥には何故か、一日ぶりに顔を見たタケヒロの姿。尻に火でもついたかくらいの、笑っちゃうほど驚愕の顔。
「あれ、どうしてタケヒロが?」
「賑やかでいいじゃないか」
 こんな時間にどうした、と言った瞬間にビールケースに奪われたグレンの視線が、ニヤリといかにも楽しげに、またトウヤを捉えた。ガチャンとそれを持ち上げて、夜分に相応しくない大きめの声で、トウヤは歯を見せて笑った。
「飲むぞ!」


 *


 ――そしてビール瓶一本で無残にぶっ潰れたトウヤが机の上に倒れているのを、タケヒロが『ドン引き』の様相で眺めているのである。彼がお酒を飲むところを見るのも初めてらしくて、遠巻きに嫌悪感を投げつけていたのは最初だけで、今はもう困惑と心配の顔色ばかりだ。半分くらい事情を把握したグレンが飲めや騒げやで煽りまくって、じきに一回くらいヤっとけばよかったを連呼し始めた師匠をミソラも不快に思わないでもなかったが、おそらく今日限りだろうから我慢した。
 机にだらしなく伸びている手が、まだビールグラスを求めて蠢いていたのが、三分前くらいにはたりと止まってしまった。もう寝ちまったのか、つまらん、とそれを頬杖ついて眺めるグレンは、四本目の栓をご機嫌に飛ばしたところだ。案の定耳まで真っ赤に染めているトウヤの、横に潰れた無防備な寝顔を、ミソラも見ていた。聞こうと固く決意していた寝息はあっさり聞けて、それも穏やかなものだった。
「酒って怖えんだな……」
「怖くはない。こいつが弱すぎるだけだ。まあ、いつもなら三本くらいは普通に飲むんだがな。疲れが出てるんだろ」
 疲れが出ている、それが何故なのか。……上気した頬、赤く腫れぼったくなった瞼が、夕飯時の出来事を想起させる。陰鬱な気配が、またミソラを包み始める。開きっぱなしの口。それが嗚咽を漏らす瞬間は、残響となって居座っていた。
「まじで好きだったんだろうな、その人のこと」タケヒロがぼそりと言う。
「だろうなあ。こんなに入れ込んでる人間がいたなんて、俺も全く知らなんだわ」グレンが呆れて言う。
 こいつは悔しがってるかもしれんが、ちゃんと好きな女がいたようで、兄貴分としてはなんだか嬉しい。複雑だな。そんな言葉を背景にしながら、ミソラは投げ出された左の手に視線を移した。醜く変色したトウヤの左手は、右と違って、酔っても色が変わらない。自分の薄い色味の手のひらを、ちらりと見て、それを隣に並べてみた。白と黒。肌色と、そうじゃない色。ハシリイで、突然握られたときの手の温度を、ふと思い出した。硬くて、ぎこちなくて、優しかった、大きな手のひら。
 あの時、右側を歩いていたトウヤがわざわざ左側に移動して、右手でこちらの手を取ったのを、ミソラはしっかり覚えている。最初に会った頃、左手で差し出そうとしたパンを、わざわざ右手に持ち替えてこちらにくれたことも。この左手は、触るとどうなのだろう。どんな感触なのだろう。触れてみたい。……動かない彼の赤黒い皮膚に、ミソラの清純な白が添えられていく、その混じりあう色彩に、いつの間にお喋りを停止して、グレンもタケヒロも目を瞠っていた。
 その、彼の隠しごとの象徴のようなそれに触れるのは、どんなに劇的な瞬間なのだろうと思っていた。けれどそれは、拍子抜けしてしまうくらい、色が違うだけの、普通の手だった。
 温かい。霧雨の寒さに凍えたミソラの指先より、トウヤの手は、うんと温かかった。お酒を飲んでいるからだろうか。斑に色の浮き出る痣は、さらさらとして、ただの皮膚だ。太い血管や、走る筋や、硬く浮き出た骨の節へ、撫でるように指の腹を這わせる。細くて長い、きれいな指。短く切られた艶やかな爪。けれど指の先だけ少し荒れていて、ささくれか傷跡のような引っ掛かりを、いくつか見つけた。甲に重ねた手のひらに、甘く体温が移るまで、トウヤの手は動かなかった。
 ……腕。そっと目をやる。見た目よりついてるんだぞ、とタケヒロに言い張っていた二の腕は、今七分丈に隠れて見えないけれど。肩から、肘へ向けて、軽く握って、確かめてみる。驚いた。少し笑えるくらい、自分のそれとは違う。硬さも、太さも。凄い。寝ていて弛緩しているはずなのに。自分も大人になったら、こんな風になるんだろうか。その時、鼻にかかる声を微かにあげて、トウヤが身を捩った。ふわりとビールの匂いがした。顔を見ると、ぴったりと瞼はくっついたままで、嫌がったような眉間の皺は、けれどすぐ、ゆるりと元に戻っていった。その顔を、じっと見る。首筋から顎の左へ、不気味に這い上がる痣。薄い耳朶。机の間に潰れている肉付きの悪い頬。あいたままの唇、その奥に見える赤い舌、なめらかな額、鼻の頭。ごく控えめな睫毛。それに触れたくて、指を伸ばしてみたけれど、さすがに起きるだろうか。諦めて、対象を変えて、そこに指先を埋めてみた。
 硬くて、押し返すような僅かな弾力があって、自分のものとはやはり違った。短いのに、意外と量があるなと感じた。ふわふわとして、雨のせいだろう、手に馴染むように少し湿って、やはり温かくて、酒でない、トウヤの匂いがして、まるい後頭部の形を撫でると、愛おしくて、息が詰まった。どうしようもなく幸せな気がした。
 グレンも、そしてタケヒロも。完全に呆気を取られて、見ていることしかできなかった。
 夕飯時も飲んでいたといえ、ビール一本でどれほど酩酊したのか、トウヤはちっとも起きなかった。ミソラのなすがままに、じっと頭を撫でられていた。それを撫でていると、ミソラが思い出すのは、つい昨日、ハギに拭われていたそれではなくて、夏の日だった。出会った瞬間にも、別れの瞬間にも、その間にも何度も何度も、わしわしと撫でられて、そのたびに嫌そうに首を縮めて、けれどそろりと頭を下げて。ミソラが知らなかった、この髪の毛の感触を、カナミは随分前から知っていたに違いなかった。それこそミソラがトウヤと出会う、ずっとずっと、ずっと前からだ。
 その差は、今これから一本一本の生え方を、ミソラがいくら確かめても、永遠に越えられないのだろう。あの人とトウヤの間には、やはり途方もなく、特別な絆があって、その美しく透き通る膜は、ミソラには到底踏み込めない境界を描いていた。その内側の、彼の柔らかな部分を、ミソラが知ることも許されぬ部分を、あの人は抱きしめることさえできたのだ。圧倒的な距離。ふたりきりの世界。それはミソラが知りたくて知れない、曝け出された、トウヤの内側。
 だから。彼の頭の形を、手に記憶させるように、しつこいくらいに確認しながら、ミソラは思う。だから、あの人の『特別な位置』が、トウヤ以外の男に落ち着いて、トウヤは彼女とのその場所を、もう追いやられてしまったから。
「私も、嬉しいです。カナミさんが結婚してくれて」
 だから、そう、ミソラはそれをとても素直に、腹の底から歓喜する。
 これで、よかった。だってあの人は、ミソラの身内でさえない。ミソラの身内じゃない人が、トウヤの心を手に入れてしまうなんて、なんだか癪で、たまらないのだ。どうしても嫌だ。自分がこんなに入れ込んでいるんだから、トウヤだって、もっと自分に入れ込めばいい。自分のものにならなくたって、せめて手の届く範囲にあってほしい。そう思うのは、何か、悪いですか。ねえ、お師匠様。全部を知っておきたい。知れない領域なんて、あっちゃいけない。あの話は、ふたりだけの秘密だから、お墓までは持って行くんですけど、一緒に辛がってはあげられなかった。それでも別に、いいですよね。……目を細め、ミソラは少し、唇を噛む。それなのに、あの人や、ハギにされて、あんなに恥ずかしがっていたことを、こんなにミソラがしてやったって、彼は明日、それを覚えてさえいないのだ。
「……あの、ミソラ?」
 やっと、何とか口を開いたタケヒロが問うと、ミソラはようやく手を引いた。それからグレンへと顔を向けた。
「お師匠様は、よくこうやって夜中に、グレンさんちに遊びに来るんですか?」
「……あ?」
 凍り付いてしまったようにその異様さを見ていたグレンは、あまりにも突然に話を振られて、珍しく狼狽が隠せなかった。あ、ああ。喉から零れ出る声が、少し掠れている。グラスに目をやった。答える前にそれを干し、言葉を探して唇を舐めながら、次を注いだ。
「まあ、前はな」
「最近は来てないんですか?」
「お前を拾ってからは来てないだろう」
「そうですか。やっぱり、嘘だったんだ」
 けろりとそう言って、平然と背もたれに身を預ける金髪碧眼に、残り二人は訝った視線を交わし合う。
「グレンさん。お師匠様が家で寝れなくなってた時のこと、知ってますか」
「……ハギさんと少し揉めたんだよ。よくある親子喧嘩だ。お前が知ってどうこうするようなことじゃない」
「詳しく教えてくれませんか」
「んなことは、こいつに直接聞いてやれ」
「……では、今、また寝れなくなっているとしたら、一体どうしてなんでしょうかね」
 もう何杯目かのビールを音を立てて流し込みながら、グレンはきょとんと目を丸めた。
「そうなのか?」
 タケヒロも目を瞬かせている。誰も知らない。そうか。この場所で、知っているのは、ミソラだけ。……三つの視線が注がれて、やっぱり、トウヤは起きなかった。他人事のような寝息を立てて完全に静まっている。その眠りの深さが、あの話が真実らしいということを、露骨に語っているようでもあった。
 難しそうに顔を顰めて、グレンは顎を撫でる。
「そうか。……全く気付かんかった。すまん」
「心当たり、ないですか」
 太い首が傾げられる。小さく息をついて、穴が空いて空気が抜けていく風船みたいに、ミソラは声を零していた。
「私のことが、嫌なんですかね」
 それが、今のミソラにとっては、一番もっともらしい答えだった。
 は? タケヒロが、一音でミソラを否定する。目の前のグレンは口も利けなかった。ただ数度目を瞬かせて、続きを待っているだけだった。
 そっと窺う。下ろされた瞼は、僅かな隙間もなく、頑なにも見えて、もう二度と開きませんよと言われても、そうかもしれないと思えるようだった。この人は、すぐに要らぬ気を遣う。だからすぐに分かる。馬鹿とか阿呆とかは舌先だけで、ミソラの行動を否定するようなことを、彼はもう随分と口にしていない。
「お師匠様は、優しいから」
 その一言目に、視界の奥の友人が、ぴりっと眉を歪めた。
「私のことを、応援してくれるんです。私が『誰か』を殺したいって、そんな漠然としたことを、お師匠様は否定しなくて、協力してくれて」
「それってさあ」
「でも本当は、何を考えているのか」
 タケヒロがきつく遮ろうとするのを、ミソラは許さなかった。
「分からないんです。どうして応援してくれるのか。何を思って稽古をつけてくれているのか。分からないから、怖いんです。私が殺しを達成したら、もしかしたら、……タケヒロみたいに、お師匠様も、白い目で見るんですかね。私のことを」
 声が冷やかなのに自覚はあった。心許ない蝋燭のようにタケヒロの瞳の奥が揺れる。ミソラが息を吹きかけて揺らしたがったのは、けれどタケヒロなんかじゃなかった。どろどろと内側から湧き出てくる薄暗さを、いくら吐き出そうとしても、一番届いて欲しい人には、さっぱり伝えられないままだった。こんなにも、近くにいるのに。容易に触れられる距離にいるのに。そうじゃないと、言ってくれと、そう懇願するだけでいいのに。
「……例えば、カナミさんみたいな普通の人と仲良くしようと思ったら、私みたいな人殺しは、気味が悪くて、邪魔なんでしょう。だから、もしかしたら……それが不安で、私がいるから、寝れなくなって」
「お前さあ、そんなに心配なら、殺すとか言わなきゃいいだけの話だろうが」
 低さと鋭利さを増していくタケヒロの言葉に、ミソラは睨むように視線を向けた。部屋の端の破れかけたソファの上で、腕を組んで口を引き結んで、けれどタケヒロの真っ黒な双眸は、どこかで泣き出しそうにも見える。やめろ。間のグレンが、静かに言う。なんでだよ。タケヒロが凄む。ビールの気泡に紛れていた子供の間の不穏さは、酒気が遠ざかると同時に、形をなして浮き上がっていた。
「つうか、殺しを応援してくれるから優しいって……そういうの優しいって言わねえだろ」
 ぐいと、ミソラの体の良い眉根に皺が寄って、口を開くのが合図だった。
「まあ、待て待て」
 片手を広げて仲裁するグレンの大きな体には、子供たちの険悪さなど、煩わしい羽虫くらいのものなのだろう。ビールグラスを揺らす男の目は、多少は酔っているのだろうか、今は液体へ据わっている。
「俺を挟んで言い合いをするな、酒が不味くなるろうが。おっさんにも分かるように話をしてみろ」
 そう言って、齢二十五だったかの若干赤らんだ大男は、空気を読まずにガハハと笑う。……私はグレンさんに話してたつもりなんですけど、一応、とミソラが告げるとまた笑って、昨日から散々無視しやがって、とタケヒロが口を尖らせた。
 そもそも誰が標的で、どうしてそいつを殺さなければいけないのか。まだ残っていた大通りの惣菜屋のコロッケをつつきながら、グレンは端的にミソラに問う。興味はあるのだろうが、茶化しているのかいないのか、いまいち釈然としなかった。
「ここんとこ忙しくてな。お前が殺す殺す言っているのは噂で聞いたが、詳しくは知らんのだ」
 ミソラは少しだけ言い淀む。師匠の友人といえ、そこまでの親しさを抱いていない相手に対して、気安く語れる内容ではない。
「……昔のことを、ちょっとだけ思い出して。思い出した記憶の中の、女の人が、とても辛そうで、可哀想で、それは彼女の大事な人を……そいつが、殺したから」
「そいつ?」
「……どこの誰だかは、まだ分からないんですけど」
「そいつを探して、ミソラが代わりに復讐するのか」
「私、記憶の中で、彼女にそう誓ったんです」
「その女っつうのは、誰だ? 母親か?」
 提示されたのは初めて考慮する可能性だったが、多分違うだろう、とミソラはすぐに結論付けた。女の人のことは、思い出せるのは雰囲気だけだ。顔まで明瞭でなかったが、親ほど歳を取っていないだろうことは、なんとなく分かる。
 自ら語る以上にあまり深堀されたこともなく、軽い困惑を覚えながら、ミソラはおずおずと彼を見上げた。
「私、おそらく、その人のことが好きだったんだと思います」
 それを最初に気付かせたのが自分なのだと、向こうの友は覚えているのだろうか。
 随分大人しくなったミソラの語調を受けて、グレンは何かを含んで口の端を上げた。それをまたビールで喉奥へ送り込んでから、のしりと身を乗り出して、ミソラの碧眼を、まっすぐ捉えた。
「その人のことは、トウヤより好きか?」
 低く重たく芯のある声が、とんと、ミソラの胸を突いた。
「……え?」
 思いがけない問いかけだった。子供らしい目の丸みを取り戻して、ミソラは傍らの半死体へ顔を向けた。まだ口が開いてる。起きたら頬に跡が残ってるんだろうな。髪の毛、少し伸び気味なのでは。おばさんに切ってもらえばいいのに。浮かんでくるのは、『あの女の人』へ焦がれるのとは質の違う、温かくふやけるような感情のはずだ。
 ……この人と、あの人を天秤にかけることに、何の意味があるのだろう?
 不気味に回転を続けていた子供の唇がはたと止まったのを見て、グレンは満足げに笑んだ。またついと顎を撫でて、問いかけを続ける。
「ターゲットを探すなら、まずはその女の正体を暴かなければ話にならんな。ターゲットの顔をお前が見たことがあるかどうかは、現状分からん訳だ。会っても気付けない可能性もある。女のことは、どういう状況で思い出した? 所属や場所の手掛かりになるものは。記憶が戻るには、何かトリガーがあったんだろう」
「お、おいお前、ミソラの殺しに賛成なのかよ」
 背後から焦り噛みつくタケヒロに、悠々とグレンは振り返った。
「まだ何とも言えん。ただ、これだけ漠然としていれば、過剰に不安にもなる。『おそらく好き』だなんて憶測を排除しない限りは、何も前進しないまま、永遠に苦しんでいるだけだ」
 ずいと手を伸ばす。物の溢れた棚から取るのは、白い箱。つつと煙草を引き出して、火を点けた。その煙をくゆらせながら、男はさっぱりと言ってのけた。
「その女への愛情と、トウヤや坊主との日常と。どちらが大事かは、それを見極めてから、ミソラが決めるべきことだ」
 どういう状況で思い出したか。もう一度問われて、大きな困惑に背中を押されたまま、ミソラは蘇らせるままに光景を紡ぐ。
「……最初に思い出したのは、ハシリイで、カナミさんの顔を見た時で、黒い髪の女の人が、泣いていて、えっと……決定的になったのは……アズサさんの家で、階段を、のぼっ、た、ときで……」
 薄暗い階段をのぼりきって、前にタケヒロの背と、その向こうにアズサの背があった。扉が開く。大きな窓から光が零れる。そこからするりと、チリーンが飛び出して、それが肩にぶつかったのだ。
「バランスを崩して、私は」
 そうだ。何かを――ふわふわとした大きなものを、抱えていて、自分の身だけを守るために、それを手から放して、
「アチャモドールを、落としたんです、階段から。……それを、見て……」
 清涼な青の瞳孔が、ここでない場所に、吸われていく。その景色が、胸にまだある。決して鮮やかではない。色褪せているのではなくて、ただただ、そこには色彩がない。
 ぽん、ぽん、と力なく、モノクロのひよこが落下していく。
「灰色の階段」
 瞬間、ミソラの手が戦慄いたのを、グレンは見た。
「それで、女の人が……顔を覆って、許さない、許さないって、ゆるさないって、いって、それで、私、その人の、わらった、顔が見たくて、そいつが恨めしくてそいつを、殺しますと言ってそれで」
「すまん、ミソラ」
 目の前がガタッと立ち上がったとき、その振動で、ミソラは引き戻されてきた。ハッと怯えるように肩を竦めて男を見上げた。その人は電気傘の逆光の中で、眉尻を下げて笑顔を見せて、トウヤより大きくて厚い手で、ぽんとミソラの肩を叩いた。
「もういい。俺が悪かった」
「……なぜですか」
「いいんだ。確かジュースがあったな。取ってくる。気が利かなかったな」
 あの一文無しにはコロッケを恵んでやったんだ、と軽くおどけて言いながら、彼が狭い部屋の向こうへ立ち去る。流し台らしきごみ溜めの下の更に積みあがったごみを除けて、戸棚の中を漁り始めた。意気地なし。口を曲げたタケヒロがぼそりとその背に放つのと、ミソラが落胆ぎみの声で言うのは、ほとんど同時だった。いいですよ、夜中ですから。時間は多分、そろそろ日付変更線が近い。家に帰らなくていいのだろうか。
 ごそごそと雑音が聞こえる中で、ミソラとタケヒロが、ぎこちなく目を合わせる。男を標的にした微妙に居た堪れない空気感が、開きかけていた二人の距離を埋め合わせつつあった。
「……アチャモドールさ、昨日部屋行ったとき、なかったよな」
 タケヒロが遠慮がちに問う。ミソラは頷いた。膝の上に乗せている、土色の鞄――あのアチャモの飾り羽が、一枚だけ潜んでいる――を、そっと撫でた。
「あれ、あの後、お師匠様が焼いたって」
「……焼いた?」
 声を上げたのはグレンだった。その手に埃まみれで色素の薄い、知らない缶ジュースが握られていた。
「ドールをか? どうして」
「それは、えっと」「あん時のミソラの様子が怖かったからだろ。お前は見てないから分からねえだろうけど……とにかく、凄かったんだ」
 ジュース俺にもよこせよ、と話をぶつ切られてしまったが、その疑問は、ミソラの胸に浅く引っ掛かってとどまっていた。焼いたと聞かされた時は、その告白があまりにも素っ気なくて、自分も多分おかしくて、何とも思わなかったけれど。確かに、わざわざ、何故だろう。……『ナナナオーレ』、とわずかに読み取れるパッケージを渡されて、タケヒロが先にタブを開けた。うっわ、すっげ、泥みてえに甘い。こんなん飲む奴いるのかよ。気が知れねえわ……
 対して、どすんと席に戻ったグレンの表情は、どこか浮かなさが増したように見える。
「早く飲めよ、ミソラ。やっべえよコレ」
「うっ……あー……僕は飲めなくないけど……お師匠様が飲んだら吐くやつだ」
「こんなん好きな女とは絶対結婚したくねえってレベルだな」
「グレンさん、甘いのいけますか? ちょっと飲んでみませんか」
 自分のを持ってこなかったグレンにミソラが缶を差し出したとき、こちらを見たグレンの顔は、ミソラが今まで見たどのグレンよりも、険しい顔をしている。
「トウヤが寝なくなったのはいつからだ」
 厳しい声だった。さっき、本気さが伝わらなかった彼の言葉は、今完全に冷たい熱を帯びていた。話が随分巻き戻ったので、喉に絡みつく粘つきを無理矢理嚥下できるまで、ミソラはそれに答えられなかった。
「えーと、いつからだっけ……? スタジアムで寝だしたのは最近なんですけど、早起きになったのは結構前ですよ」
「結構前?」
「あ、そうだ、ヴェルが体調を崩した頃からずっとです。夏バテだって仰ってたから、暑くなりはじめた時期だと思います」
 早起きになったのは良いことだと思うのだけど、という嫌味を言おうと、またちらりとトウヤの顔を見たが、グレンの声は、そんなことは言わせないほど、堅く真剣なものだった。
「ハシリイに行った後か?」
 太い声。どんと突かれる。先程より、ずっと奥まで瞳を探られるような気がして、ミソラは少し身を引いた。背後でタケヒロが、ナナの桃色にざらついた舌を出しながらも、怪訝として男を見ていた。
「……いえ。ヴェルが体調を崩したからハシリイに行くことになったので、ハシリイに行く直前ですね」
 そう答えた時のグレンの表情から、すうと血の気が引くように見えたのは、ミソラの考えすぎなのだろうか。
 何故そんなことを問うたのか、ミソラにはついに分からなかった。差し出したままで止まっていた缶ジュースを、グレンが律儀に受け取って、それに口を付けた。眉間に深い皺が刻まれる。それがジュースが甘すぎるからなのか、ミソラの答えが不味すぎたからなのか、トウヤの考えさえ分からないミソラに、もっと他人の考えなんて、理解できるはずもない。あのドロリとした液体が彼の喉を通り過ぎたはずで、けれど縦皺は走ったままで、すぐにビールに持ち替えたグレンに、ミソラは小さく問うた。おいしかったですか、ではなく。
「どうかしましたか?」
 声色が、思いの外に心配げになってしまった。だからなのか、一拍の空白の後、グレンの表情には、いつもの日向が戻っていた。
「……いや。随分長いなと思っただけだ」
 ハリを出せ、と突然の指示が下りる。あれから身動きひとつしないトウヤの右腰には、いつも通りボールが三つひっついていた。その一つ目を取って、言う通りにハリを解放する。降り立った案山子草に「あのへんに投げとけ」と彼が顎で示したのは、殆んど物置状態の、ベッドらしき小山だった。
 月の瞳が、ぎょろりと家主を一瞥して、頷きもせず主人を担ぎ上げた。足を引き摺りながら運ばれるトウヤは、何か寝ぼけて呻きこそしたが、結局目覚めることはなかった。
「ヴェルというと、あの老いぼれビーダルか。ガキの頃から面倒を見てるからな。よほどショックだったんだろう」
「もう歳だから、って」
「そうだな。……ポケモンの寿命なんかについては、あいつは結構詳しい。夜中に万一のことがあるかと思うと、寝付けん時もあるだろう」
 宥めるような優しい口調に相反して、頭を掻く手は、随分と苛立っている。威圧的な棘が体中に生えていた。返された例のジュースを口にする気にもなれず、幾分悪酔いしているようなグレンから視線を外して、タケヒロを見た。ヴェルのことを思ったのか、友人は、少し悲しげに目を伏せる。
「ミソラ、さっき、トウヤのことが分からん、と言っていたが」
「……はい」
「俺も分からん。ちっともだ。十何年の付き合いだぞ、はは。……何も言わんのだ。こいつは。肝心なことは、何も。好きな女を振ったことくらい、教えてくれてもよかったろうに」
 あの痣。吐き捨てるように、彼が言う。振り向いた視線の先では、ここより薄暗いベッドの上に、何も知らないトウヤが仰向けに寝かせられていて。それを見下ろすハリの背には、誰かを刺すための棘は無くて、妙な哀愁に満ちていた。
「生まれつきじゃないことは、知ってるんだ。だが、だったらどうしてああなったのか、そんなことさえ、俺は聞いたことがない」
 調子こそ軽口のようだった。けれど投げ出されたあの腕を捉えて、グレンのよく見れば長い睫毛が自嘲気味に、かすかに悔しげに震えるのは、彼の全身の屈強さには、まるで似合っていなかった。
「それって、友達って言えるのかよ」
 その表情を見なかったタケヒロが、ぶらぶらと缶を振りながら呟く。男は微笑む。寂しさ。悲しさ。痛ましさ。やはり、どうしようもなく、似合わないと思った。
「友達だと思ってるのは、俺だけかもしれんなあ」
 ため息交じりの笑顔を見るのは、他人といえど、辛かった。


 ソファで寝てしまった二人を寄せあわせ、一枚しかないシーツへ無理矢理収めてから、グレンは暗闇を振り返った。転がしたままのビール瓶と二つのグラスが、月明かりに浮かんでいる。その横に白く静止する、煙草とライター。また一本を指に挟む。火を点け、ついと目をやる。屋内に浮かぶ、二つの月は、沈む気配もなさそうだった。
 眠り続けるトウヤの傍ら、長身のノクタスはずっと、同じ姿勢で主人を見下ろし続けている。
「昼まで寝てるだろうな、その様子だと」
 冗談めかして、男は言った。椅子を引き乱暴に座った。案山子草は、振り返りもしなかった。ただ首を横に振るだけだった。
 時を沈黙が押し流す。空白の半宵。こちらを見ない一対の、従うものと、従える人。苛立ちが目を細める。これ以上近づかない方がいいと、理性が囁いていた。死んだように眠る弟分の顔を間近に見れば、荒れ果てた己の屈辱が、それを思い切りぶん殴って、胸倉を掴んで、どんなに汚い言葉で罵るのだろうか。それはとてつもなく、怖いことだ。
「じゃあ、起きたら――」
 立ちのぼる紫煙が、月光を浴びて、虚しく消えていく。この鬱憤を、人の手持ち以外のどこへ投げつけていいものやら、グレンにはもう、分からなかった。
「『私の主はとんだロマンチストだ』と、その阿呆に言ってやれ」
 唾を吐きかけるような言葉。ハリは身動き一つも返さなかった。
 こんなことがあってたまるか。苦し紛れの拒絶反応は口の中でまごついている。精神を鎮圧してくれる煙草は、いつもの効果を発揮しなかった。怒りと空虚を煽るばかり。知ってたのか、お前。どうするんだ。今すぐにでも抱え上げて、遠くへ逃げればいいじゃないか。次々と上滑りする言葉は寒々しく、返す者のない空間で霧散する。増幅していく感情は、末恐ろしかった。こんなにも人間に入れ込んでいたなんてな。あの言葉は、今や急激に弧を描いて、己の胸に突き刺さろうとしていた。
 暴力を放たなければやはり気が済まぬと、強く握って戦慄く右拳を、己の腿へ打ち付ける。絞り出すような声で、呻いた。
「……一体、ミソラは何者なんだ?」
 トウヤの濁った肌の色へ、ひたひたと這い上がるあの白は。無視をするには、鮮烈すぎた。
 枯れた緑の被り傘が、音もなく揺らぎ、影を生む。夜は深かった。背後の子供たちもすっかり夢の世界に沈み、今やこの町で思考するのは、自分とハリの二人だけにさえ感じられた。眠気のない視線が歪んでいく。ソファから四肢を投げ出すタケヒロ、小さく丸まっているミソラ。ハリに横たえられた姿勢のまま、大人しく熟睡しているトウヤ。どうすればいい。俯き、片手で額を抱えれば、のぼる煙が目に沁みた。
「分かった。待ってろ。俺が何とかしてやる。だから心配するな」
 少しずつ語気の強まる言葉に、トウヤへ視線を向けるままのハリが反応した。大きく、何度も、首を振った。横に振って撥ね付けた。どうして。炎の矢の如く非難が飛ぶ。それには、感情は返らない。
「こいつが、それを望むからか?」
 他の誰しもを受け付けないかのように、従者は主人を見つめるままだった。
 ……大きな溜め息を、煙と共に吐き出して、男はどっと背もたれに寄りかかった。我の強いところは、トウヤのポケモンの大きな魅力だ。その一体目の手持ちにつけては、今更聞きわけの良いお人形のふりなんか、できる性分じゃなかったはずだ。彼女に敢えてそれをさせる元凶を除くことは、きっと自分では叶わないのだろう。トウヤとハリとは距離が近すぎて、自分とは、酷く遠すぎる。
 何もできない。十二年掛けて紡ぎあげた『友人』なんて繋がりは、堪らないほど、無力だった。
「どうして、俺を頼れないんだ」
 あてのない言葉が机に落ちる。トウヤが散々零したビールの跡が、まだ染みになって残っている。
「俺は、何のために……」
 ――消えいりかけた本音が、口から洩れたのだと気付いたのは。はっと顔を上げた瞬間に、やっとこちらを見た月色の瞳と、視線がばっちりと合致したからだった。
 グレンは笑った。闇夜に美しく輝く目が、その誤魔化しを見抜いていた。何本目かの煙草殻を灰皿の上に揉みつけて、思い出したように、その燃えかすでハリを指す。
「ハリ。お前、俺のこと嫌いだろう」
 鈍重な一拍のあと、こくりと上下に、頭が動く。弟分の手持ちの非礼さに、呆れて男は頬杖を付いた。だろうなあ。興味を失くしたように主へ戻っていく黄色の視線を、追いかけて、グレンは続ける。
「俺も、今の俺は嫌いだよ」
 まるで自分ではないようで。……ニコチンのもたらす陶酔感は、遅れて現れてきたようだ。寝返りを打つトウヤの呑気な顔を目に入れても、殴りたいなんて強い気持ちは、もう米一粒さえ湧かなかった。





 陽炎が揺らめいている。
 青い空。無限に続く白い砂。皮膚を焼くのは、火炎の熱線。暑い。じわり額を垂れる汗は、けれど暑さだろうか、怖さだろうか。腕の中でくたりと動かないパートナー。つい数分前まではぴんと空を泳いでいたチコリータの快活な葉は、今は黒く爛れて、少年の腕に貼り付いている。きつく閉じられた瞼の下、浅く開いた喉の奥から、微かに呼気が聞こえていた。それを確かめる事だけが、彼にできる全てだった。……顔を上げる。赤く、天空へかんと燃えさかる、炎の海。その真ん中で絶命した、生きていたもの、炭の塊。彼と幼獣とを食らおうとしたもの。眼前に壁のように立ち塞がった、大きな獣が、こちらを振り返った。
 黒と黄色の毛皮。紅の瞳は、冷やかに鋭い。首からまだ火を噴いている。膝が戦慄く。その獣が、その手中でまだ猛烈に煙を吐くものを、どさりと、少年の足元へ放り落とした。
 貰ったばかりのバックパック。黄色かったはずだった。その中身の様々さえ、いまは一様に灰となって、少年の目の前を、真っ黒に染め上げた。
 いくつかの影が、こちらを目指してやってくる。砂漠の眩い照り返しと、噴き上がる熱気の中で。十人程度の小部隊だった。ポニータやゼブライカに乗って悠々と歩むのを追い抜いて、一人が駆け寄ってくる。美しく光る黒髪の、二十代半ばと見える女。
「ばーか。やりすぎ、アサギ」
 小首を傾げ、業火の隣で笑う彼女。
 その顔が、何故か、あの男の顔を、あまりにも鮮やかに喚起して――へたり込んだままのエトは、ひとつ、息を呑んだ。







 
 
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