自分があの町に築いたものは、果たして何だったのだろう。
 砂の楼閣。そんな風に言ってしまえば、この三年と少しの期間は、随分と脆く無味乾燥に思われる。今の自分を誰が認めてくれるだろうか。身内を他人を欺いて、勝手に作り上げた『強固な己』の幻影を、勝手に蹴り壊して、嘆いて、それで。夢を見ていた。本隊員となってから、けれど何ひとつとして為せなかった。猶予を与えられてなお、そんな僅かな時間で、世界をなんて、変えられないと悲観している。……ため息が出る。ちっぽけだ、あたしは。反吐がでるほど弱い。一人では何もできない。情けない女。
 だからといって、『サダモリ アズサ』という面倒な人間は、包み込んで欲しい、助けて欲しいなどとは、口が裂けても言うことができない。その性分は、内の脆さを暴かれても、結局曲げられそうにもなかった。
 そういう自分が甘くて幼稚なのは重々承知しているが。子供の頃。大人たちに助けを乞うて、誰も助けてくれなかった。惨めだった。引き裂かれた心は、もう二度と元には戻らないんじゃないかと怖くなるほど、痛くて痛くて仕方なかった。あんな思いは、もう誰にもさせてはいけない。強さの虚像にしがみつき、屈しない女を演じることなど、その為ならば容易いことだ。そうすれば、助けてやれる。自分らしく存在できる。あの人たちの期待してる、そんな自分を演じるのは、いつの間にか、もう『演技』ではなくなっていたのだ。
 なのだけれど。
「……帰りたくない」
 すとんとベンチに座った途端、膝を抱え背中を丸めてぼやいたアズサに、隣の同僚はこぼれ落ちんばかりに目を丸めた。
「は……?」
 ――ココウより数百キロ北西に位置するポケモンレンジャー本部組織、通称レンジャーユニオン。幾分冷涼なこの土地のエアコンの効いた快適な室内で、夕飯前の軽いトレーニングを済ませ、二人はユキの長いシャワータイムに待たされている。同期の『ホシナ ハルオミ』とは訓練生時代からの付き合いで、友人と呼べる人間の中では、今のところ唯一の男性だ。缶コーヒーを口にしかけた角度で、愕然と固まったままこちらを見下ろしている。せっかくの美形が台無しだった。火を噴くコイキングでも発見したかのようなアホっぽい表情。
「……いやー、さすがだわ。トップ修了生にして、貫録のナンバーワン問題児。常人とは言うことが違う」
「ホシナに言われたくない」
「いやいやいや、ご謙遜なさらず、アズにゃん様。ワタクシめなど足元にも及びませんって」
「にゃん言うな」
「あ、かわいー。もっと言って? ほら、にゃんにゃん」
 音を立てて振り下ろされた踵が彼の爪先を捩じった。ギニャッ! と奇声を交えて飛び上がる。その無様を笑ってやると、同期随一の秀麗な眉がむいと歪んで、頬が子供っぽくぷうと膨れた。何だよ笑えんじゃん。少し拗ね気味に彼が言う。
「ずーっと駐在希望出してんのに俺、また一年ここに軟禁されんだけど? そゆこと言いますかねぇ、普通」
「本部に適性あるんでしょ、ホシナ」
「あんたに駐在サンの適性があるとは思えないんですけど」
「それはあたしも思えないけど……」
「おいおい。特性『自信過剰』はどうしたよ?」
 そうにやついて、隠し持っていたものを乱暴にこちらへ放り投げる。アズサはぱっと表情を華やげた。ナナとオレンの高果汁ミックスジュースだ。『ナナナオーレ』という頭の悪いネーミングも、粘つく程の甘みも好きで、昔はこればかり飲んでいた。
「ため息似合わねー。ココウに『お友達』もできたんっしょ? 初志貫徹、でいこうぜ、アズ」
 拳を突き出し、あどけない笑顔を浮かべる。どストレートな励まし方。半分照れて、半分呆れて肩を竦めた。
 無機質な壁の中で書類と睨みあうだけのユニオン勤務に、興味がないと言い切ってしまえば嘘になる。ユキとホシナが勤めているのだ。真面目だらけのレンジャー訓練学校で、共に問題児で括られていた悪友たち。愉快な同僚と顔を合わせる毎日は、そこだけ取るなら、甘美で魅力的だった。お調子者で愛らしいユキもそうだが、常に成績トップを競って切磋琢磨してきたホシナは、竹を割ったような気持ちの良い性格をしている。実際に、ホシナと交わし合うくだらない会話は、その一球一球を投げるごと、受け取るごとに、凝り固まった肩が柔くほぐれる感触があった。
 「ありがと」微笑むと、「笑った顔も似合わねえの」素早く切り返す暴言だ。無遠慮でさっぱりした彼らの情は、いつだって簡単に背中を押す。恋人同士のはずのユキとホシナが、二人の間をとびきりの居場所としてアズサに空けてくれるのが、彼女の何よりの後ろ盾だった。
 そういえばココウは雨季に入る頃か。戸締りは万全のはずだが、あの家も相当にボロ家だから、雨漏りしていたら最悪だ。一時でもあの家無し少年に守りをさせればよかった。……お友達。目を細める。お友達、か。同期のことから気持ちを外して、一人ずつ顔を描いてみる。ボロ家を集会所にする厄介者たち。ピエロくん。ミソラちゃん。そして。
「……んで、なんで帰りたくない訳?」
 原因を思い浮かべた瞬間に突然話を戻されて、危うくジュースを噴き零すところだった。
「ママのおっぱいが恋しくなっちゃった?」
「バッカじゃないの?」
「じゃーなんでよ。あ、そういえばアレとはどうなの?」
「アレ?」
「えーと……何カワなんとか……何カワだっけ」
「……『ワカミヤ』?」
「わ! それだ、ワカミヤ、ワカミヤ」
 思い出せて、ホシナは嬉しげに手を叩くが。
 アズサは目を逸らした。その体中に――いつの間に油を撒かれていたのか、と思った。友人と穏やかにしていたはずなのに。ホシナが起こした小さな火花が、足元にひょっと引火した。全身を逆撫でながら猛烈な勢いで駆けあがった。躍る火の海。乙女は方策なし。ただ顔面を焼かれるだけ。たまらず冷たさだけを欲して、ジュースを内に流し込む。
 けれど舌の上、とろけるような甘さを口火に。大輪の花のひらくが如く、眼前へ鮮やかに匂い立つのは。
 ……夜の町。疲労と街灯に滲んだ視界。どこからか流れくるほっとする香り、バトルの熱気の余韻を冷ます、淡く優しい涼の風。妙にあつかった背中のむこう。
 まあ、道中気を付けて。
 赤の方が似合うよ。
 ――勝手に脳内再生される声に、耳から吹き込まれる炎が脳神経の冷静な部分を焼き殺していく。唇をきつく引いてアズサは顔をそむけ続けた。ちょっと待って。ホントやめて。ホシナ、こっち見るな。お願いだから永遠によそ向いてて。
「どーなの?」
「……別に、何もない」
「はあ」
「あの人とは何もない」
「それってマズくねー?」
「仕事はしてるけど何もないから」
「あ、させてるらしいね、ミッション。なんか聞いたわぁ」
 けだるげな返事は右から左。替わりに流れ込むのは幻聴ばかり。壊れたコンポのように何度も何度も再生して、虚勢の崩落直後で穴ぼこだらけのこの胸の、あらゆる隙間に沁み込んでいく。耳を塞げば反響する、身体の奥をもどかしく擽る低い声。十八年目の人生で直面した全く未知の現象に、アズサは本気で戸惑っていた。あたしおかしくなったのだろうか。別れ際にかわした言葉。のろいか、まほうか。頭の中をぐるぐる渦巻いて、むくむくむくと、膨らんでいく。
『それって口説いてる?』
 あまりにも、あまりにも間抜けな問いかけ。一拍置いて、彼が、なにか、悪戯めいた、顔をする。視線があわさる。口が開く。
『そうかもな』
 そうかもな。
 口説いてる? ……そうかもな。
 ふと、隣の男がこちらを向いた。
「……え、あ、何? ちょい待ち、なんで顔赤いの?」
 ――ベンチから飛び跳ねる勢いで頬に手をやるアズサを見、ホシナはいよいよ驚いた。
「赤くない!」
「や、赤いッスけど、ダルマッカくらい赤いッス」
「ナナナオーレが美味しすぎて感動してるだけだから」
「……あ、帰りたくない原因って、そのワカミヤ」「おっまたせー! ユキちゃん登場!」
 最悪のタイミングで現れた小さな生き物が、二人の間に滑り込んでくる。ローズ系のシャンプーの匂いがする髪の毛を後ろへ流しながら、きらきらの眼差しで迫り寄る親友。三度の飯より恋バナがおいしいお年頃。なになに、ワカミヤくんの話? ユキも混ぜて!
「してない、あの人の話はしてない」
「してたろが。あのなぁユキ、アズがココウに帰りたくないっつってな?」
「えっ、じゃあじゃあっ、ずっとユニオンに居ようよー! やったあ嬉しい!」
「ごめん帰るには帰るんだけど」
「そんでな、何でって聞いたら教えてくれないの。でもそのワカミヤくんの話になるとな、こいつ急にうわの空だし、ワカミヤくんとは何もないって聞いてないのに言い張るし、そしたらもうさあ、顔真っ赤だしさあ、ホラ」
 子細指摘してくれるな、ばかばかばか。……顔を覆ってへなり項垂れる羞恥心の塊を、しげしげとユキは覗き込んだ。ユキ、そいつと会ったんでしょ? 何あったか知ってんの? 深くて軽い数拍の沈黙。そして。
 小首を傾げて、ユキはけろりと吐いた。
「告られたとか?」
 砲撃。命中。効果は抜群。
 ――かっ、と湯気が見える程熱を昇らせて完全停止した当事者を見て、部外者同士は目を点にして、驚愕の面を見合わせた。
 正直。
 あれから。
 あの人の顔を。
 夢の中でまで、見てしまった。
「うっ……そぉ……?」
 斜め上を狙った弾が友を木端微塵に粉砕して、狙撃主はみるみる青ざめた。
「えっ……ワカミヤくんってあのワカミヤくんだよね? えっ、あ……あっ、付き合ってたって」
「あれはホントに嘘、ごめん」
「やっば、ユキけしかけちゃったかも……」
「は?」
 けしかけたって何? 問う前に、男の声があらぬ方向から斬り掛かってきた。
「そいつイケメンなの?」なんで?
「じゃない」メンクイが答える。
「へえ、ウケる」ハ、とイケメンが冷笑を浮かべた。「身の程知らずが。ココウってどのへん? 俺そいつ消してくるわ」
「あーもう待って、あのね告られてはない、全然大丈夫だから」
「告られてない? 誑かしてるってこと? かわいいかわいい俺らのアズにゃんを?」
「誑かし……ちが、その」
「え、アズ、どうするの?」
 怒りのボルテージがあがり始めたホシナの肩を掴んで、ユキがハの字眉で問うた。案ずる声色と裏腹に、その一言は真っ向からアズサを殴る。ずどんと。突きつけられる現実に、目が回るような思いがした。
 どうするって。こっちが聞きたい。どうしたらいいんですか、これ。
 ココウは、もう。他人だらけの町じゃない。よって、あの人とも顔を合わせなければならない。晩のことを無視はできるだろう、けど無視してくれるのだろうか。それよりなにより、顔を合わせた、その瞬間だ。絶対に避けられないその瞬間。必ず訪れる再会の時。その時、一体全体、どういう顔をしてくるの? こっちはどういう顔をすればいい? 何事もなかったかのように? 無理でしょ。あれ冗談でしょって、さらっと? ああ、無理、無理。それともカワイク照れたらいいの? いやいやいや。ムリムリ、無理です、勘弁してよ。
「どうしよう……」
 困惑を垂れ流したアズサの心許ない手のひらを、ユキの手のひらががっちり掴んだ。
「好きなの?」
 その手を振り解いた。もう一度顔を覆った。もうやめて。やめてくださいお願いします。
「えっマジで!?」
「やだぁ……」
 ホシナが鬼のように顔を顰めるのも、ユキが半泣きで嫌がるのも、何故だ。――シャワールームから出てきた数人が、怪訝な表情で去っていく。夕餉の鐘が鳴り始める。刻々と過ぎていく時間。
 明日の朝が来れば、ココウの駐在レンジャーとして、アズサはあそこへ戻らなければならない。
「いいかアズ、あんた、今までほとんど野郎との交流がなくて、それで今生まれて初めて言い寄られたから、舞い上がってるだけだ、恋に恋してるだけだ、勘違いするなよ」
「あのね、ごめんね、あの人オススメはできないんだけど、アズの選んだ人なら……ああでももしかしてアズが傷つく恋になるのかな……でもアズがホシナ以外ではじめて仲良くなった男の人でしょ? その気持ちは尊重したいかなって」
「話飛躍しすぎだから、二人とも」
 ジュースを一気に飲み干して、食堂行こう、と歩きはじめる。とぼとぼついてくる二人の冴えない顔を見ると、どうしてこの人たちが凹むのだろう、と逆に冷静になり始めた。舞い上がってるだけ。恋に恋してる、だけ。勘違い。そうか。はじめて仲良くなった男の人。そうか。
 淡い青春色のパッケージを、空き缶入れに放り込む。
 ……恋。恋だって。何それ。笑える。
「あーでも、ワカミヤ? って奴、アレっしょ。リューエルの……何だっけ、女の、最近……」
「ミヅキだっけ? お姉ちゃん。さいねんしょーふくたいちょー? よく分かんないけど凄いのかな」
「人事表に顔写真出てたな。あれ、どうなん? リューエルって顔で出世できんの?」
「きれいな人だよね。……あー、そっか。愛に生きるか、仕事に生きるか、って感じなのかあ」
 愛か。仕事か。……忘れていたことにふと気づいて、笑ってしまう。そうすると嘘のように、羽が生えたみたいに心が軽くなって、話してよかったと胸の中で感謝を告げた。
 『ビジネスライク』。彼との関係をずっとそう言い聞かせてきたのは、自分だったじゃないか。胸を張って、彼にそうだと言えばいい。
 その時あの人がどんな顔をして、自分がそれを見て何を思うのか。それはまた、その時の話だ。





 ずらりと並ぶ光り輝く鮮魚を前に、ミソラはもう涎を垂らさんばかりだ。
 てらてらと艶やかに誘惑する刺身。とろけそうな脂の肉厚の赤。あんぐりと顎を開く『おかしら』と目を合わせれば、それはもう、ボクをおいしく食べてくださいと言いたげにさえ見えてくる。……口元のゆるみきったミソラとリナ、先程から足元をうろついて忙しないビーダルのヴェルを見かねて、先におあがり、とハギのおばさんは苦笑した。即座に席に着き、いただきます、と手早い合掌。箸を使うのももどかしい勢いで舌の上に放り込んで――落ちかけるほっぺたを押さえて悶絶しているミソラを、あのオニドリルのメグミでさえ、羨ましげにねめつけている。待てもよしも無い食いしん坊二匹に先に配給し、その次にトウヤがメグミに刺身をくれてやるまで、『鋭い目』に貫かれていることにミソラはまったく気付かなかった。
「おいしい……っ!」
 ガツ、ガツ、と荒っぽく刺身をつつくメグミの横、魚にはあまり関心がなさそうなハリへ、少しだけの配給。その給餌皿にはいつもより高いポケモンフードを追加で流し入れて、待ちきれんとばかりに首を上下するハヤテの皿には、いつもより高い生肉が塊で入った。
 皆でご馳走だ。トウヤとハギが席について、コップにビールが注がれるあたりで、リナもヴェルも自分の分を食らいつくしてしまった。一枚一枚味わおうとするミソラへリナが躍りかかる攻防が何度か続く、賑やかな食卓。ワタツミ、という海辺の街から、こうやって年に一度、魚が送られてくる日があるそうだ。送り主が誰だか分からないからちょっと不気味でね、と首を傾げるハギに、ミソラは心当たりを訪ねた。
「昨日の晩の電話ですか?」
「ワタツミのテレポート便からなんだよ。毎年毎年、いつの間にか預けられてるらしくてね。一度トウヤにその人を探しに行ってもらったことがあるんだけど」
 手がかりが少なすぎて、と言うトウヤの皿には、まだ刺身が手つかずで乗っている。メグミの視線が次はそこに突き刺さっていた。
 電話が鳴り始めたのは、ミソラの皿が大方空になった頃だった。ハギが受話器を取る間に、ミソラはふと目を合わせる。死んだ魚と。その目玉を覗きこむ。黒目に靄をかける虚ろな白濁。目が合っているようで合っていない、どこを見ているのか分からない。何も映っていない。目って透明で、本当に丸いんだなと、それを見ながらなんとなく思った。……食べれるんですかね、これ。食い意地の張った問いかけは多分聞こえたと思うのだが、トウヤは答えなかった。答えず、素早い動きで、刺身の皿を机の下に隠した。
 皿がひっくり返される。流れ落ちてくるご馳走に、狂喜乱舞するヴェルとリナ。ハギがまだ後ろを向いていることをしれっと確認したトウヤは、何事もなかったかのように、空のお皿を机に戻した。
「食べないんですか?」
 食が細いどころか、一枚も食べていないではないか。苦笑するミソラに、人差し指を唇の前に立てるだけ。黙っておけの合図。……机の下で、二匹が死闘を繰り広げている。ミソラはそれを見て笑ってしまったが、顔を上げ、ビールに口を付けるトウヤを見て、ふと気づいた。刺身だけじゃない、ビール以外の、何一つとして箸をつけていないではないか。
 家で寝てない、というスタジアムで聞いた話が、目の前に突然過ぎった。
「あの」
 考えるより先に喉が音を作ってしまった。今度こそトウヤがミソラと目を合わせて、次の言葉を待ちはじめた。何を言おう。お刺身あげちゃってよかったんですか、そんな風に適当に誤魔化してもよかったのに、誤魔化せなかった。口から何も出ていかなかった。やたらと喉元の浮いた彼の首が、ごくりと動いて、ビールを通す。なんだ。少し眠たげな声が問う。とんと背中を突き飛ばされる。聞いてみよう。勇気を出そう。ミソラもごくりと、唾を呑んだ。
「今日、聞いたんですけど」
 夜、うちで眠っていないって、本当ですか。
 その言葉が、ついに出ていかなかったのは、何だろう、――視線を合わせた、暗い茶褐色の瞳の奥に。あの目玉の白い濁りが、見えたからだ。
 何も映っていない。
 ぞっとして。一気に竦んだ。同時に明るい声が呼びかけた。
「トウヤ。電話」
「僕ですか?」
 振り向きざまのトウヤの目には、けれどもう、影はなかった。虚ろな濁りは欠片さえなかった。いつもの深い双眸が、言いかけていたミソラの双眸を一瞥した。
「後でもいいか」
「フジシロさんだよ」
「ああ」
 声も、やはり普通だった。ミソラの返事を待たず、トウヤは立ち上がる。気のせいだったのだろうか。死んだ魚の目。さっきまで何でもなかったおかしらの白い瞳が、急に恐ろしく思えてきた。ミソラはなんとなく、それを机の端へ遠ざけた。
 妙なものを見たおぞましさが、まだ腹に小さく息づいている。……気を紛らわしたくて、フジシロさん、というのが誰だったのか、ミソラは思い出そうとした。けれど彼がカウンター席に腰かけ、受話器を取り、右手で落ち着かなさげに頭を掻きながら、
「……もしもし?」
 その一言目の、気分の転覆をひっくり返すほど浮ついた調子を耳にして。唐突に閃いた。そして確信した。間違いない。
 ちょっとだけ楽しさが戻ってきて、席に戻ったハギにミソラは囁く。
「カナミさん、ですよね。電話の相手」
「ああ、カナミちゃんって言うのかい? てっきりカナちゃんなのかと思ってたよ」
 なんだか嬉しげなハギに頷いて、ミソラも少し頬を緩めた。
 夏の日、噴水、縁側、上り坂。泡のように浮かんでは消えるハシリイでの出来事は、色々とあったが、結果的には良い思い出として昇華されている。黄色い笑顔の似合う家族。それに囲まれて幸せだった。だってあの頃は、『殺さなきゃいけない』ことなんて、ミソラはちっとも知らなかったのだ。
「エトの家出のことだろう」男は肩を揺らして笑う。僕は共犯だが、こっちには来てないぞ、と。半分しか会話を聞けないもどかしさを覚えつつも、その内容にミソラは少し驚いた。エトさん、家出したんだ。小洒落た長髪の眼鏡男子。囲碁を教えてもらったことを思い出すと、連鎖的に蘇ってくる。碁盤の上で何度も敗北して、しつこく食らいついては笑っていたトウヤ。あの街で、あの家で、あの人たちの前で楽しげだった師匠の様子。
 近頃だって、出会った頃に比べればずっと笑っているように思うのだが。何故だろう、ハシリイの記憶の中の彼は、今となっては遠くて眩しかった。
「……え? 年明け?」
 言いながら首を伸ばし、カレンダーを見ようとする。話題はエトじゃなかったのだろうか、何の話をしているのだろう。ハリとメグミが凝視している。ハヤテはお肉にがっつている。
「うーん、雪があるかもしれないな……いや、行けなくはないよ。来いって言うなら、テレポートでもなんでも使える。何かあるのか?」
 毎年夏にハシリイに行くのだと言っていたが、今年は冬にも行くのだろうか。……カナミちゃんって、とハギがミソラにそっと問う。
「トウヤの彼女なのかい?」
 浮ついているのはハギの声もだ。ミソラは噴き出してしまった。
「違うんですよ、これが」
「ありゃ、そうなの。残念。毎年毎年行くもんだし、話してるとああだろう。トウヤは違うって言うんだけど、てっきりそうなのかと」
「仲良しですよね」
「あの子女っ気ないでしょう。うちに来てからずっとだから、おばちゃんも心配してるんだよ。そうならいいのにと思ってたんだけどねえ」
 椅子の上で行儀悪く足を組んで、何だよ、言えよ、と楽しげにやりあっている師匠へガッカリの溜め息をつくおばさんを見て、ミソラは真実を――実は付き合ってた事はあるんですけど、という話をしようか迷った。タケヒロ達にも喋っちゃったし、お喋りだな、僕って。でも言いたいな。言っちゃえ。
 おばさん。トウヤの背中から目を逸らし、ハギを手招きして、顔を引き寄せる。耳に手を当てて、極限まで音量を絞る。これならバレまい。
「実は、お師匠様とカナミさんって――」
「――ええっ!?」
 ハギが驚く前に、トウヤが叫んだ。
 ミソラもハギも、思わず固まってそちらを見た。跳ねるようにトウヤは立ち上がった、黒い電話に前のめりにかじりついた。え、あ、あ。何度か息を漏らして、それから暫く黙る。遠目に分かるほど受話器を握りしめていた。横顔が見える。口はあきっぱなし。目は
ひらきっぱなし。やはり魚の目ではなかった。らんらんと澄んで光って、息をして、けれど行き場もなさそうに、右往左往と揺れていた。
「んな急に、いや……そ、そう……だから、あの、アキトさん……ああ、そうだよな」
 ぶらんぶらんと、受話器を繋ぐくるくるコードが揺れている。
 どうしたのだろう。アキトさんって、誰だっけ。秘密話ができなくなって、ミソラはぽかんとハギを見た。ハギも何度も瞬きをして、それから男の背へ視線を戻す。ハリが見ている。メグミも見ている。肉で頬を膨らませながら、ハヤテも目を丸めて主人を見ていた。
 何か言う電話口の向こうの声は、当然だけれど聞こえない。雨の音だけが耳につく。受話器を支える筋張った手が震えているように、ミソラには見えた。
「そ、そう、そっか……違うよ、ごめん、ちょっと驚、い、あ? あ、待てお前まさか」
 落ち着きかけた声がまた口早に問うて、向こうが何か言ったのだろう――また目を見開いた。息を呑んだ。ぱくぱくと口を動かした。そして、何も、言えず、ぺたんと、腰を下ろした。
「――……ッ!」
 そして受話器を耳にしたまま、勢いよくカウンターに突っ伏した。ごつんと額の当たる音がした。
 ミソラもハギも、見たことのない動揺ぶりに肝を抜かれて、ただ茫然とするしかなかった。
 その辺からは、リナとヴェルが喋る声、ハヤテが何か言う声の方が大きいくらいで、席巻するのは雨音だった。いつの間にか強まった雨は、大きな窓と扉に叩きつけるように爆ぜ続けた。トウヤはいよいよ言語能力を失って、壊れてしまった玩具みたいに、うん、うん、と返事をするだけ。しばらくすると、のろりと力なく起き上がった。小さな溜め息の後、ふと、柔らかく笑う。
「……年明けだな。行くよ。当たり前だろ。むしろ僕は、行ってもいいのか?」
 声は、気恥ずかしくなるほど、あたたかかった。
 そのあたたかさを後ろで聞いて、何故かミソラの内側は、――凍りついた化け物の手に、ゆっくりと撫でられたようだった。
 ずるりと眼前が暗くなる。
 あれ。違和感に眉根を寄せる。一息ごとに、冷たくなる。腹に住んでいたもやもやとしたものが、静かに大きくなっていく。表皮を這って蠢きはじめる。あれ。……なんだろう。気付けても、どこかへするすると吸い込まれていくような心を、自分自身で引き止めることなど、できなかった。
 行くことになったみたいですね。何だか居た堪れなくて、ミソラはあえて遠慮のない大きさで言った。ミソラのことをてんで意に介していない背中へ言った。そうだね。追随するハギの声は、まだ驚いてぼんやりとして、囁きのまま。ふわりと開いた淡い心地悪さは、むくむくと体積を増して喉を詰める。何があったか、教えてくれるのだろうか。……連れていってくれるのだろうか。その先で、自分の手の届かないところまで、彼は飛んでいってしまうのではないだろうか。だって、ハシリイは、あの家は、お師匠様の。
 漠然とした、立ちどころのない不安の霞。その正体も、何もかもちっとも分からないままテーブルに目を戻すと、最後の一口に温存しておいたはずの刺身が無くなっている。行儀悪く卓上で身繕いをしているリナを、素早く捕まえようとした。するりと腕を抜けた。なんだかやけくそな気持ちになって、席を立ちそれを追いかけた。
 トウヤはしばらく、低い声で話をしていた。外が煩くて聞きづらいのか、ミソラが聞こうとしなくなったのか知れないが、会話は殆んど聞こえなかった。トウヤの分だけ残して、ハギが食器を洗い始める。給餌皿を重ねたハリはそれを台所に持っていって、トウヤの横を素通りする。旨そうに口周りを舐めとるハヤテの後ろにリナが逃げ込んで、ミソラは青竜の背に飛びついて、一人と二匹はまろびあって、けらけらと笑った。その横でメグミは目を細めながら、じっと男の方を見ていた。
 笑いおわって少しすっきりした空白に、メグミの視線を追ってミソラもトウヤの横顔を見た。カナミやハヅキを相手取るときの、幸福のベールをゆるく纏った、むず痒い嫉妬を覚えるような。けれど、前も見たはずのその表情に、かすかに違和感を覚えたのは、何故なのだろう。
 その答えは、気になっても、できれば知りたくなかったのに。箱を開けるまでもなかった。おのずから開いて、ミソラの前に、あまりにも呆気なく、差し出されてしまった。
「まあ、色々と、大変だろうと思うけど」
 途切れがちな声の合間に、短く鼻を啜る音が、聞こえる。
 ……最初は耳を疑った。気のせいだと思った、その確証が欲しかったから、だから目を凝らしてしまった。おばさんは洗い物をしていて気付かない。見られていることを多分トウヤは知らなかった。電話の向こうと、二人きりの世界だった。透明で、薄くて、硬質な壁が、確かにそこを隔てていた。
 優しい目。唇を歪ませて微笑む。受話器を持たない方の手が、雑に前髪を、掻き上げる。
「お前なら、大丈夫だよ。お婆さんも、お母さんも、アキトさんだって、いるじゃないか」
 その時、赤らんだ、彼の目元が、光を拒むように歪んで、湛えた涙が、音もなく零れる瞬間を。ミソラは瞼に、焼き付けてしまった。
 ぽたりと一滴がカウンターをうつ。
 降りはじめの雨のように、ぱたぱたと、立て続けに雫が落ちる。水滴が不規則に広がっていく。
「なあ、カナ。やっと、……っ、幸せに、なれるのか?」
 息を詰まらせやっとの問いは、冗談めかした笑い声と、隠し切れない泣き声を交えていて。ついにハギも気付いた。はっとして顔を上げ手を止めた。蛇口から水は流れ続けた。じょろじょろと排水溝に吸い込まれていく音も、ざあざあと振りしきる雨の音も、ミソラの、誰かの、呼吸の音も、喉の音、ざわつく血の管、胸の音も、そのあと彼が、嗚咽を漏らして泣きはじめたとき。なにひとつ、目隠しにならなかった。
 泣いている。
 立ち尽くすミソラの顔を、リナは小首を傾げて見上げるだけだった。ハヤテが鳴いた。ミソラの横を走り抜けて、彼の周りでおろおろとして、目元を押さえる主人の見えない顔色を窺おうとしたり、甘え声を上げたり、頬を舐めたりしようとした。ハリは黄色い目を丸くして突っ立ったままで、メグミは少し首をすぼめて、黙ってそれらを眺めていた。ヴェルがゆっくりと歩いていって、彼の足先に尾を絡める。慰めるように何度も撫でる。何度も何度も。そうされても、剥き出しにされた感情を、肩を震わせて咽び泣く声を、ぼたぼたと嘘みたいに零れ続ける涙を、堪えることも、できなさそうだった。
 なぜだろう。
 どろりと指の間を滑る温もりと、鉛のような冷酷な重さに、ミソラは支配されていく。
 腹が熱くて、胸が冷たくて、息苦しくて、霞だったものが、凝固して子供を閉じ込めた。それを壊したくて、叫びだしたくて、指先ひとつも動けなかった。心の管に雑多が詰まって、鼓動するのを、やめてしまった。
 泣いている。私のお師匠様が、泣いている。
 あの、夢の中の、女の人が、泣いているのと。その姿が重なった。
 どのくらいそうしていただろう。ミソラが長いと思っただけで、それほど長くもなかったかもしれない。また立て直してから電話する、と告げて、格好つかない声で笑って、それから最後に、遅くなりましたが、と彼は付け加えた。
「……本当に、おめでとう。身体に気を付けて」
 受話器を置いて。きっとぶつけられる質問から逃げるように、目の前のハヤテの首にがしりと抱き着いて、長い長い溜め息を、震えながら、吐いてから、そのまま顔を埋めてしまった。
 ああ。僕は、お師匠様が、カナミさんに、とられてしまった気がしたのだと。ミソラはそこで、自分の心の、暗さの答えに辿り着いた。
 家が、再び水音だけに満たされる。ハギもそれを聞いたのか、慌てて洗い物の残りをして、水道を止めた。目も動かさないハリは、本物の案山子になってしまったのだろうか。メグミが台所までちょんちょん歩いて、普段はハギとも殆んど触れ合おうとしないのに、もう一度蛇口を捻るよう嘴で指示して、咥えた台拭きをじゃぶじゃぶ濡らして、トウヤのところへ寄っていった。しょんぼりと唸るだけのハヤテへじっと引っ付くトウヤの頭へ、そのずぶ濡れの台拭きを、雑に載せた。
 曇った笑い声がする。ありがとうと、小さい呻きが聞こえる。台拭きでひとしきり顔を拭って、はあ、とわざとらしく肩を落として振り返ったトウヤの目は、どうしようもなく真っ赤だった。それを映すミソラに湧いた感情は、悲しいとか、切ないとかそういう方向性ではなくて、それはもう、ただただ、恥ずかしいほど、みっともなかった。
 彼がへらりと笑う。変な感じに上擦った声。
「ああ、もう、すいません、食事中に」
「何があったんだい、一体」
 ミソラが聞きづらいと思っていたことを、ハギがすぐに問うた。参りましたよと言いながらトウヤはずかずか戻ってきて、残っている小鉢の料理を少し見て、ついてきたヴェルの鼻先へ下した。食べなかったらいつも怒られるのに。はふはふとヴェルが口を寄せる。
「フジシロの長女なんですけどね」
「カナミちゃんだろ」
「ええ。あの、結婚するんですって」
 結婚。――目を見開く。想像もつかなかったけれど、漠然と抱いていた印象を真っ向から吹き飛ばしていく二文字は、なぜだかミソラの鬱憤を、痛快に外へ叫ばせた。
「結婚ですか!」
 あんぐり口を開けて身を乗り出して、夜に似つかわしくない甲高い大声。ああ、何故だろう、すっとした。そんなミソラを見て彼が最高に情けなく笑うので、もっともっと、すっとした。ありゃあ、と手を打つハギの顔にも、ぱあと光が差す。困惑に包まれていた家が明るく晴れていく。よく分かっていないようなハヤテの首筋を、また抱き寄せて、トウヤは乱暴に撫でた。
「行った時はちっともそんな話してなかったんです。薄情な」
「あ、アキトさんって、あの人ですよね? 水陣祭の前の日に、エトさんが一緒だった時に会った」
「そう、あのでかい人だ。それで、その」トウヤはミソラを見、ちょっとだけ言い淀んでから、テーブルの下に隠された自分の腹を、おっかなびっくり、何故か撫でた。「腹に、子供が」
 あ、赤ちゃん――!? ミソラが上げた最大級の金切声が、ビクリとハヤテとメグミを震わせる。驚くよなあ、と共感を求めるトウヤにぶんぶんと同意して、二人で笑った。彼と二人で笑っていると、リナとハヤテと三人で笑った瞬間より、ずっと気持ちがよかった。ねえ、まさか、あの時にも、既に宿っていたんですかね。おかしいですよね、お師匠様。順番が違う、と毒づく声は、けれど随分上機嫌だ。
「それで年明けに結婚式をやるから、来いと」
「結婚式ってあんた、服どうするんだい」
「あ、うわあ……スーツか、面倒だな」
 あったかもしれない、似合わないだろうね、と言いながら楽しげに下がっていくハギを目で追って、酷いな、と苦笑。食い残した晩飯を見下ろして、また溜め息をついた。しあわせの溜め息。ミソラも元の椅子に座った。困ったような顔のトウヤは、けれどゆるりと、口元が緩い。
「どんな気持ちですか、今」
「どういう意味だ」
「悔しいのかなって……」
 できれば、悔しいと言ってほしい。未練がましい気持ちに襲われて泣いたのだと、そう言ってほしい。わくわくとして問うたけど、ささくれが洗い流れたばかりだからか、今は引っ掛からないようだった。
「あ、お前、おばさんにあのこと言わなかっただろうな」
「言ってないです、危なかったですけど」
 赤い目が、ミソラを捉えて、優しげに細くなる。
「悔しくはないよ。嬉しくて仕方ない」
「本当ですか?」
「……まあ、正直、ちょっと後悔はしてるけどな」
 ちょっとだけな。念を押して、にやりと笑んで、コップ半分ほど残っていたビールを、トウヤは一気に飲み干す。それからまた少しだけ、顔を背けて、目頭を拭った。







 
 
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