大きな翼を羽ばたかせ、メグミが空へと舞いあがった。
 宙を柔らかく打ちながら上昇するオニドリルと、その足にがっちり掴まれた新品の防水シート。青天とはいかないが半曇りの空へ向かう鳥影を、お使い帰りのミソラは見守っている。隣にはニドリーナのリナと、荷物持ちを買って出てくれたガバイトのハヤテ。三人で運んできた爽やかなブルーが、のんびりと赤い屋根へ着陸した。
 コーキングガンを持つトウヤが、屋根の上から片手を掲げる。彼の横で早速シートの結束を開封しようとするハリにも目を合わせて頷くと、手をメガホンにしてミソラは叫んだ。
「直りそうですかー?」
「だめだ。分からん。やっぱり業者に頼まないと」
 そう心許ないことを言ってから、トウヤは雨漏りの応急処置に取り掛かった。
 ココウのいつもの朝だけど、世界がしっとり濡れているというだけで、こんなに違って見えるものか。相変わらず多い通行人を軒先に座って眺めながら、ぼんやりしたひとときを過ごす。普段ならリナを連れてスタジアムに行ったり、お師匠様と稽古をしたり、たまにタケヒロが遊びに来るから一緒に出掛ける時間なのだが。若干つまらなさそうな顔さえして人波に目をやるだけの主人の傍で、リナも退屈げに耳を掻いている。
 はあ、と身に似合わないため息が、勝手にこぼれ出た。
 昨日はあまり寝れなかった。慣れない部屋の布団の中での、タケヒロとの会話を思い出す。拒絶するような言い方を、してしまった。自分のことを考えてくれた友人に。言ったことを後悔することは、自分のするべきことを否定することだ。だから後悔はしないけれど。……もし、万が一、『誰かを殺す』ことをやめたら、一体何が起こるのだろう。
 身の内にある、この行く手の見えない殺意から目を背けて、日々を謳歌できるのだろうか。
「……分かんないよ、リナ」
 膝に顔を埋めてゆくミソラを、小兎はちらと見上げた。
「殺したあとに、何が待ってるのかなんてさ」
「――あら、可愛い実がついてるじゃないか」
 言いながら戸口から出てきたハギに、聞かれなかったろうか、とミソラは内心冷や汗をかいた。トウヤやタケヒロには言えるのに、おばさんには殺す話ができないのは、タケヒロが言ったようなことに、自分でも薄々勘付いているからなのだろう。
『お前が、誰かを殺した、ってだけで、俺、今まで通りにはできないよ。あいつも、おばちゃんも、多分そうだろ』
 ミソラの隣に、ハギが腰を下ろす。視線の先にはプランター。ヤヒというその植物は、ミソラがココウに来た頃に植えられたものだ。つい先日まで白い花が咲いていたが、それは全部散ってしまって、跡に緑色の玉がぷつぷつと引っ付いている。
「あと半月もすれば、この実が真っ赤になるんだよ」
「食べられますか?」
「人間はあまり食べないかねぇ。そんなに大きくならないよ。ヴェルは、たまに匂いを嗅いでるけど」
 雨漏り、直りそうって? 問いかけにミソラは首を傾げるだけ。くしゃりと笑って、ハギは立ち上がった。
「今日は早く帰っておいでね。晩はご馳走だから」
「ご馳走!」
「トウヤにも言っておくんだよ」
 大きく頷いて、ハギの背中を見送って、――タケヒロにも食べさせてあげたい、という一瞬過ぎった思考は、頭を振って追い払った。
 しかし、昨晩の大雨の中どこに行ったんだろう。寝れる場所なんてなかっただろうに。探してみるか、と立ち上がったところで、人混みの中に覚えのある面を見つけてしまった。昨日試合をした、サンドのトレーナーだ。あと数人、ミソラも交戦したことがあるスタジアムの若者たち。何やらバケツや雑巾を手にして、がやがやとこちらにやってくる。
 金髪が見ていることに気付くと、ニカッと挨拶をしてくれた。会釈を返す間に、今度は屋根の上の人物を見つけた。誰からともなくそれを指して、顔を合わせて、息を合わせる。せーのっ。
「トーウヤくーん! あっそびーましょーっ」
 張りのある若者の声が、朝の大通りに響き渡る。……ゲラゲラ笑う彼らを見とめて、トウヤはすっかり呆れた顔をした。コーキングガンでミソラやハヤテを示して、それから北方――スタジアムの方角へそれを振って、いってろ、と口を動かした。通りにいた幾多の人が迷惑げな視線を投げつけていたから、声はちっとも寄越さなかった。





 季節はじめの大雨の次の日は、スタジアムの清掃日、と決まっているらしい。
「えっ、『ミソラ』、ってトウヤがつけた名前だったの!」
 けれど、集まったのはトウヤと同じかそれより下くらいの五、六人のみだ。しかも雑巾を水に濡らしたばかりで、こうやってせっせとお喋りに勤しんでいる。手を叩いて爆笑する輩の真ん中でミソラはまたむくれていたが、陽気な人たちばかりだからか、これはこれでなんだか楽しい。心に刺さりっぱなしの小骨が、すっと溶かされるようだった。
「なんで笑うんですか!」
「んっ、だって、ゴメン、でも……ぶふっ、全然ガラじゃねえ、ひぃ」
「いや、俺は良い名前だと思うよ? だろ、ミソラちゃん」
 頷いて、拾われてから日が沈むまで延々悩み続けていたことを話すと、また笑い上戸が腹を抱えた。
「でも、ミソラちゃん、って呼ぶのはやめてください」
「どうして?」
「男らしくないので。私のこと女の子だと思って、ミソラって名前をくださったんですよ」
 それは止むを得んなあ、と一人が笑って、全員が首肯。異議申し立てする前に、座談会場と化したトレーナー控室へのしのしハヤテが入ってきた。続いてそれぞれの手持ちであるポケモン達、皆さまざまなサイズの水桶を抱えている。最後にミソラのリナ。コップを口に咥えている。中身はほとんど零れている。
「ミソラちゃんが来てから、もう半年も経つんだなあ」
 感慨深げに、一人が呟いた。
 掃除用に溜められていた雨水を持ってきてくれたポケモン達を迎え、いよいよ掃除が始まるのかと思いきや、誰ひとりベンチから立ち上がろうとしない若者たちだ。本当に清掃の日なのだろうか。けれど、フィールドを映すはずのモニターはさっきからずっと真っ黒で、誰も戦わない日なんだな、というのを、そんなところで実感する。
 戦わない日。平和な一日。殺しのことは、今は考えなくていい。その幸せを、ミソラはこっそり噛みしめた。
「半年前……って、何かあったっけ?」
「あれは覚えてる。ミソラちゃんのニドリーナとの試合で、バクーダが暴走したやつ」
「ありましたね、そんなことも」
「トウヤがキレてた……」
「あはは、そうだ。ありゃ面白かったな。でも夏前だったろ?」
 半年前なあ、と真面目にどうでもいいことを考え始める一人の横で、手元に戻ってきたグライガーの両爪を弄びながら、一人が言った。
「そういやトウヤって、また家でなんかあったの?」
 問われた意味が分からず、ミソラは首を傾げる。
「何か、とは?」
「ほら、ここで寝てるっしょ、最近。あいつ、前は家が居心地悪いからって、いつもスタジアムで」「よせって。昔のことじゃん」
 サンドのトレーナーが釘を刺して、それもそうだな、と男が口を閉ざした。せっかく黙ってくれたのだが、それならミソラにも覚えがある。聞いたのはハシリイだったろうか。カナミ達くらいの親密さでさえ人の家だと熟睡できないトウヤが、自宅であるはずのハギの家でも気を遣って、眠れなくなっていたという話。夜はずっと起きてて、朝起きたフリをして家を手伝って、昼はスタジアムで仮眠を取って……。
 知っていたのに気付かなかった疑問に辿り着いて、碧眼が数度瞬く。
 えっと。……それが、なんで、今?
 あ! とまったく別の男が、大袈裟に手を叩いた。
「ガバイト逆襲事件!」
 ミソラ以外の全員が感嘆を上げて、ビク、とハヤテが鼻っ面を上げる。逆襲。たまに小心者にさえ見えるこのガバイトには、いまいち添わない単語だが。
「うわあ、もう半年かよ」
「あれはさすがに笑えなかったな」
 口々に感想を述べる男たちの中で、ミソラは顔を回す。先程の疑問も気になるが、もう話が流れてしまった。
「ハヤテ、逆襲したんですか?」
「あれ? ミソラちゃん来る前だっけ。あのなあ、試合中にな」
 被せるように悲鳴じみた音を立てて、ドアが開いた。
 デッキブラシを担いで入ろうとした小竜の主は、ミソラ以外の全てのトレーナーが彼を見てにやついたものだから、狼狽気味に足を引いた。奇妙に浮ついた空気が流れる。にやにや、にやにや。トウヤは怪訝と眉を寄せる。誰も何も言わない。
「余計なこと話してただろ、今」
 やはり誰も答えない。にやつくばかりだ。代わりにハヤテがわたわたと近づいて、昨晩叱られた太い尻尾を振り回しながら、聞かなくてイイヨと言いたげに主人の手前で体を揺らした。後からやってきたハリが、その頭を叩いた。


 天井に張った蜘蛛の巣や塵を落として、モニターやベンチを拭いて、掃いて。トレーナー控室が大方終わると、それぞれのポケモンに水桶を抱えさせて、散り散りになっていった。子連れの背に浴びせられる冷やかしは、「ミソラちゃんには逆襲されないように気をつけろよ」。長い廊下に笑い声が響いた。
「ミソラが逆襲?」
「えっと、ハヤテに逆襲、されたんですか?」
「ああ、その話をしてたのか。僕が悪かったんだ。カッとなって、もう覚えてないんだが……何か言って、次の瞬間にはこいつが飛び掛かってきて」
 牙が掠っただけだと言うが、男たちの反応を見るに浅い傷ではなかったのだろう。信頼している相方が襲いかかってくる光景は、想像だけでも凄まじいものがある。突如として、敵方からこちらへ振り仰ぐ影。獰猛な眼。開く口、迫る得物。そして視界を塗り潰す赤――そういえばバクーダとの試合では、リナも自分に攻撃しようとした。当時を振り返れば、着実に成長した自分たちを感じられる。空のコップを咥えてついてくる相棒を、ミソラは嬉しく見下ろした。
 大きな水桶を抱えるハリとハヤテを引き連れて、観覧席まで上がった。人っ子一人いない客席、静かなバトルフィールドには、やはり違和感が尽きない。最初にここに来たのは、グレンとトウヤの試合を観戦した時だ。へルガーがトウヤを襲おうとして、ハヤテがそれを庇って負けて。その後しばらく、ハヤテに文句を垂れていた。自分を助けたハヤテを叱るトウヤに、あの日のミソラは憤った。けれど今なら分かる。彼が強い口調でハヤテを諌められるのは、ハヤテのことを、諌められるくらい気に入っている証だ。
 進化してからすぐは本当に酷かった、とベンチに座ってさぼり始める師匠の隣に、ミソラも腰を下ろした。重たげな雲が西の方角に垂れこめている。湿った匂いが鼻腔を擽る。もうじきに降り出すだろう。
「ドラゴンタイプのポケモンって、なかなか言う事聞かないんですよね」
「それを言い訳には出来ないがな」
 デッキブラシの柄にだるそうに顎を乗せながら、トウヤはぼやいた。
「ミソラには生意気に教えてるけど、僕も半人前だ」
「どうやって手懐けたんですか?」
 注目されたハヤテが鼻を鳴らした。それを見、呆れ気味に笑んで、それまでと同じ長閑さで、低空飛行の調子が言った。
「殺せばいい」
 声色は、どこか諦めたように。
 そして、その時、突然に。
 視界に亀裂が走った。――そして忘却の瀬にあった、あの感情が、平穏な時を引き裂いて、むくりと顔をもたげたのだ。
 ミソラは無言で目を瞠る。
(殺さ、なきゃ)
 仇を。誰かを。知らない人を。
 膝が戦慄く。ああ。何を、しているのだろう。こんなことしてる場合じゃない。平和な一日なんて、嘘だ。まやかしだ。僕が呑気にしている間にも、あいつは世界のどこかで呼吸をして空気を汚して、あの人は泣いて体を枯らしていく。それを止めるために、僕がいる。なのにへらへら笑っている。
 ぎゅうと拳を握る。それを見たリナが浅く鳴く。
「と、言ったんだ。僕の言うことを聞きたくなければいつでも僕を殺したらいい、ってな。そしたら見違えたように気を遣い始めたよ」
 トウヤは他人事のように説明した。竜の顔に似合わない甘えるような仕草で、ガバイトが頬を擦り付けた。平和な光景。呑気な人達。
 そうなんですか、と口先だけで言いながら、足元から引き摺り込むように這いあがる悪寒に、ミソラは震えた。
 殺せばいい、って? 本当に?
 殺されても、いいんですか。手持ちのハヤテだからいいんですか。じゃあ、もし私が逆上して、あなたを殺そうとしたら、それでもいいって言うんですか。そんなのって、ないや。無責任すぎるや。じゃあ残されたおばさんやハリ達は、殺してしまったハヤテや私は、その後、いったいどうするんです。
 でも、私の殺したい人も、そんな風に言ってくれるなら、楽なのかもな。……黒く艶やかな、生々しい感触が、目の前の穏やかさを埋め尽くす。
 ああ、殺さないと。そのために、はやく強くならないと。
 様子の変わった子供に気付いてトウヤが何か言う前に、ミソラは顔を逸らした。昔の僕を見て見ぬふりして過ごすなんて、やっぱり無理だ。なんでもない会話の中で、こんなに動転してしまうなら。
「掃除、しましょう!」
 立ち上がり、背を向けて、雑巾を手に歩きはじめる。纏わりつく不快を断ち切るように。そうだ、さっさと断ち切ってしまえ。掃除も早く終わらせて、家でゆっくり体を休めて勉強もして、さっさと十連勝して、さっさと仇を見つけてしまえ。そして、さっさと殺してしまえ。……距離を取ろうとした時、ばっしゃん、と大きな音がして、靴の間を背後から何かが滑り抜けた。
 太い尻尾が倒した桶から、均等な速度で、透明な雨水が広がっていく。
「あ」「バッカが……」
 ぎゃお、と寝言のようなか細い鳴き声。昨晩と同じ失態にまた怒られると思ったのか、一歩、二歩、と後ずさっていく従者を見、条件反射のようにトウヤは悪態をつく、けれど。
 子供が濡れた靴を上げ、ふわりと乱れる波紋の向こう、灰色の雲の手前に映る、彼は何を見たのだろうか。
 ハヤテに何か言いかけたトウヤは、言い淀んで、口を噤んだ。そしてそれを怒らずに、デッキブラシで流し始めた。
「手のかかる子ほどかわいいと、よく言ったものだ」
 思いがけない主人の言葉に、ハヤテがきょとんと目を丸める。その声の節々に優しさが混じっていて、また気を遣われていると、ミソラはすぐに察してしまえた。鈍感なとこばかり目につくが、こういう時は目聡い人だ。遠巻きな思いやりに触れて、緩めてしまった表情から、毒気が少しずつ抜けていく。長い睫毛を伏せて、ミソラは問うた。
「ハリとどっちがかわいいですか?」
「え? あー……」
「お師匠様、ハヤテにはばかとかあほとかよく言いますけど、ハリにはあんまり言わないですよね」
 メグミにも言わないし。けど私には言うんですよ、最近。気付いてますか。……馴れる程口汚くなる特性なのかは分からないが、ミソラにはそれが、ちょっと嬉しい。そして、こうやって、少しずつ歩み寄ってきた彼との日常を、一息に壊してしまうのは、あまりにも怖い。
 怖い。触れてしまった静かな自覚が、罪悪感になって、胸に芽生える。怖いよ、タケヒロ。僕だって。でも、だからどっちが大事かなんて、そんなに簡単に、決められないよ。
 指摘されたトウヤは、仏頂面のハリを見やって肩を竦めて、
「ハリはバカでもアホでもないからな。かわいいのは、かわいいが。……いや、かわいいのかな。ちょっと違うな」
 相棒ですか、と問うと、それも違うと即答された。じっとりとした案山子草の双眸から、トウヤは照れくさそうに目を背けた。
「ミソラにとって、リナは相棒か」
「はい」
「なるほど。……僕の相棒は、どちらかを選ぶならハヤテだろうな。ハリは、家族、みたいなものだ」
 水を下の段に押し流しながら、やや小さい声で答えを出した。
 家族、それにまつわる彼の温かい感傷を思えば、その言葉に込めた意味も、ハリの存在の大きさも、ミソラには推して知れる気がした。ハリとハヤテが顔を合わせている。こんな話題、多分彼とポケモン達の間では、交わされたこともないのだろう。
「お師匠様の手持ちのエースはハリですよね」
「だろうな」
「だから、相棒はハリなのかと思ってました」
 そう、何の気なしに言ったから、トウヤが振り向きもせず、次にくれた言葉に、ミソラは呆気にとられてしまった。
「人のものを相棒とは呼べないだろ」
 けれど、呆気にとられたのは、ミソラだけではなかった。
「『人のもの』?」
 そう問い返した時、トウヤは何故か、え、と困惑気味に顔を見せ。
 そして、ミソラと、その斜め後ろに控えている、緑色の手持ちへと目を合わせて、
「ああ、そうか……僕の手持ちじゃないんだよな」
 吐き捨てるような、うってかわって空虚な声で、そう言った。
 それから普通に背をむけて、普通に掃除を再開してどんどん下の段へ降りていく男を、ちっとも咀嚼できないまま、ミソラは見つめることしかできなかった。
 え。唇からやっと零れた一言を、背後へ向ける。相変わらず無表情のハリが、『主』を視線で追う。ハヤテの大きな目が忙しく瞬いて、男と同胞とを、交互に映す。
 ハリが、『僕の手持ちじゃない』?
「……そうなの?」
 なんとなく、彼に聞こえないよう小声で問うと、ハリは即座に首を振った。横に振って、否定を示した。
「え?」
「――あ、おーい! 久しぶり!」
 

 振り返ると、そこにいたのは、例のバクーダのトレーナーだった。
 おお、と手を上げて、トウヤは――無言に見つめてくる一人目の従者の、視線を、無視して、横を過ぎた。身の内に駆け巡る動揺が悟られないように、青年以外とは目を合わせなかった。
 なあ、今。
 僕は、いま、なにを、言った?
「久しぶりだな。ココウを離れてたのか」
 かける声が上滑りする。後ろから突き刺さっている視線は、ハリからだけではなかった。ハヤテも、ミソラも。不明瞭に霞む思考が、波のように、寄せたり返したりする。それに流されるままに喉が勝手に音を作る。
 ざらざらと砂嵐を伴い、時折ぶつりと音の途切れる臨死の世界。胸の内側で、何か汚泥を堰き止めていた壁が、皮一枚まで削れている。そんな映像が見えた。例えば、誰かが爪先で引っ掛けるならば、簡単に決壊してしまう。虚しく氾濫する澱みの奔流は、縫っても、縫っても、また別のところで皮を破る。とめどなく溢れ出て、そうして僕は、どんどんからっぽになっていく。目の前に他人がいる。愛想を浮かべようとする。その頬がぴくりとも動かなかったとき、不調が外殻に留まらなくなったことを、ようやく、トウヤは理解した。
 変だ。僕は、おかしい。
 足元にじゃれ付いてくる、見慣れないヤンチャムを、不躾に撫でる。かわいいだろ、と向こうが笑う。ミソラが隣に座り込んだ。ちらりとこちらを窺った。悟られないように、慌てて顔を上げた。
「バクーダは元気か?」
「ああ」青年は頭を掻いた。「あいつな。実は手放したんだよ」
 手放した? ミソラが驚いた声を上げ、向こうを見た。タイミングよく興味を引く話題を提供してくれた相手に内心感謝しつつ、色の違う左手を嗅ごうとするヤンチャムを、トウヤは抱き上げる。
「手放したって、逃がしたってことですか?」
「や、預けたんだ。あの、ホラ……『リゾチウム』使ってただろ、俺」
 けれど、その言葉に――必要以上に反応した腕が、無意識に弾かれ、突き飛ばすように、小さな獣を抱き落とした。
 みゃあ。潰したような声がした。背から落下したヤンチャムは、泡を食ってトレーナーの足元へ転がり込んだ。わりーコイツ噛んだ? と顔を渋めるトレーナーに、首を振る。すまん。思うより先に出る三音。赤い光が、ちかちかと脳裏を照らして視界を遮る。甘噛みされて、微かに痛みの残る指先。あのヨーギラスのぬらついた舌が、また刹那目の前を埋め尽くして、消えた。
「……本当だったのか? 『ドーピングしてる』って言われてたの」
 そう、鬼気迫る表情で青年を問い詰めていたのは、例の女レンジャーだ。
「そうなのよ。あの女の言う通り……誰だか知らないけど」
「その子は?」
「こいつには飲ませてない。なんか怖くなってさ、依存性がどうとか言われて」
 イゾンセイ? 話についていけないミソラが首を傾げて、相手が頭を掻いた。
「ミソラちゃんとの件で、あいつが暴れただろ。あの前、しばらく飲ませてなかったんだよ。金がなくてさ。まあ、それまでにも飲ませたのって、三回くらいなもんなんだけど」
「その、りぞ、というのを飲ませないと、暴れるんですか?」
「普段は言う事を聞くんだけど、試合中に興奮しだすと、手がつけられなくなるっつーか」
「それは、ハヤテやリナと同じなのでは」
 訝ってこちらを見るミソラに、何を問われたのか、一拍考えなければならなかった。
「……トレーナーが舐められてて言う事を聞かないのと、ポケモンが我を忘れるのとでは、全く別の話だ」
「そう、我を忘れる、そんな感じ。好戦的になった、って言うか」
 そういうの多いらしいぜ、怖いよな、とヤンチャムを見下ろし浮かない表情の男を前に――あの『クスリ』に固執するレンジャーと、気の狂ったチリーンの姿を一瞬浮かべて。トウヤは傍の子供を垣間見た。
「……預けたって、誰に?」
 こんな汚い話を、この子に聞かせて、いいんだったろうか。
 こもる声に、自信の無さが見え隠れする。若干ばつの悪そうな顔で頬を掻いて、男は一言答えた。
「リューエルだよ」
 ぱっ、とミソラが面を上げ、驚きを共有したくてこちらを見るのに、気付かなかったふりをした。どくりと胸が鳴る。無音の警笛が響く。トウヤは目を細める。もう少しだ。あの娘に提供する、最低限だけ引き出せばいい。
「リューエル?」
「あの人らってポケモン詳しいんでしょ? リゾチウムの売人にバクーダのこと相談したら、リューエルって、そういうの治療してる専門家もいるんだってな。俺じゃ手に負えないから任せたよ」
「その……売人っていうのは、どこに行ったら会えるんだ」
「何、使いたいの?」
 男が苦笑した。やめとけよ、と、真剣みを乗せて呟いた。飲ませるだけで強くなるなら、興味あるな、と偽る自分に、またミソラが目を瞠った。
「ヒガメって知ってる? キブツの南の方。あの辺ならすぐ捕まるよ、流行ってるから」
「薬が?」
「偽物も多いんだけどな」
「リューエルの人間にも、そこでバクーダを渡したのか」
「そーそー。でも本当にやめとけよ? 中毒でおかしくなってるポケモン、ヒガメには山ほどいるんだ」
 ……去っていく背中を見届けて、幾許か緊張が解れる。気付かぬうちに、空の暗さが増している。重苦しい雨の気配が、またココウへ忍び寄っている。
「リゾチウム、というものを使うと、簡単に強くなれるのですか?」
 探るような口調で、ミソラが問うた。黙って首を振って、置きっぱなしのデッキブラシを取りに戻る。ミソラが追いかけてくる。
「なれないのですか」
「さあな」
「お師匠様も使うのですか?」
「興味があるだけだ」
「……ヒガメ、というところに、行くのですか?」
 ブラシを持ち上げると、ぴりと痛みが走る。柄に付着した血液。傷の目立たない色の左親指に、ぷつりと浮き出る潮の玉。ヤンチャムに切られていたらしい。薬は使っていないと言った。軽く吸うと、口内に鈍い鉄の香が滲む。
 リューエル、という単語に触れるだけで、濃霧に迷い込む心地がした。
 行くと言うな、行かないとも言うな。……慎重に、選ぼうとする言葉が、歪んでいる。差し延ばす手が宙を滑る。足元を躊躇う視線は、ミソラにも、手持ちにも、気付かれぬだろうか。じわりと背筋に汗が滲んだ。
「あそこにいると、体がきついんだ。何度か行ったことはあるんだが、あまり長居できなくて」
「きつい? 何故?」
「だいぶ前に話したろう、体質で」
「もしかして、『灰』の?」
 控えめな色の追及に――余計な事を言ったことに気付いて、それを背にしたまま、トウヤは顔を渋める。
 自分より、この子供の方が、今はよっぽど鋭い。ああ、とだけ返して、顔も見ずに歩き出した。『死の閃光』とココウで呼ばれる、一夜にして周囲の森が消し飛んだ怪事件。ミソラと共に見に行ったその爆心地には、巨大なバンギラスの死骸が、下半身だけ鎮座していた。
「ココウの近くで爆発があって、その『灰』のたくさん飛んでるところに近づくと、体調が悪くなるって言われてましたよね」
 『灰』と呼ばれる、その爆発の残留物。生物に仇なすその物質に、自分が極微量にさえ敏感に反応するから、爆心の方角へ出ていくときは少なからず苦労してきた。
「ヒガメは、爆心の近く……なのですか?」
 それを子供に教えたのは自分だったのだから、ミソラが疑問を抱くのは、当然だ。……距離を取るのを諦めて、重い額を擦ってから、トウヤは振り返った。上手く誤魔化せるほど、もう、頭が回っていない。
「……方向は真逆だな」
「なら、『灰』、というのは、あの爆心から飛んでいるだけではないのですね?」
 確認してくるミソラの鋭利に刺さる目の先で、首を横に振る。けれど子供は引かなかった。
「そういえば……前、バクーダとお師匠様が戦ったとき、凄く体調を崩されて……あの時は相手の方が『毒を盛った』って噂されてて、けど……その後、『薬』を飲んでいましたよね。机の上に出てるのを見たんです。爆心の近くで飲んでた、眠くなると仰ってた白い錠剤です、あれ、ずっと気になっていたのですが」
 ――まさかそこを繋げられるとは思わなくて、トウヤは一人息を呑む。
「……ヒガメ、っていう、リゾチウムの流行ってる町で、体調が悪くなるんですよね。バクーダは、そのリゾチウムを飲んでた。そのバクーダと戦って――バクーダの出す『煙幕』を吸って、体調が悪くなって、だから薬を飲んだんですよね。『灰』を吸った時と同じ薬を」
 考察を展開しきって、青い、明るい、直視しがたい程澄んだ目を、ミソラは男に向けた。
「『灰』と、あの爆心と、リゾチウムは、関係があるのですか?」
 その時。
 ぐぎゅう、と妙な鳴き声と共に、とんと背中を押された。振り返る先には、妙にしょげた表情のハヤテ。甘えるように、しきりに鼻を擦りつけてくる。自分の鼻先にもそれが『落ちて』きて、トウヤはミソラとほぼ同時に、あ、と顔を上げた。
 優しい音を立てて、霧のような雨が、ココウスタジアムに降り注ぎ始める。
 嫌だ嫌だ、と身を寄せてくるハヤテをすぐにボールに戻して、ついでにハリもボールに戻した。ブラシをミソラに持たせ、二匹が持っていた大きな水桶を重ねて、脇に抱えて退散する。
「こんな所に住んでるから雨が嫌いになったんだ、二人とも」
「あの」
「中に戻ろう。今日は終わりだ」
「お師匠様」
「推測の域は、出ないよ」
 すぐさま勢いを増していく雨脚が、髪を重くし、服を重くする。足取りの遅いミソラの背を、ほら急げ、と押し出した。色を変えゆくセメントの上をぴょこぴょこと駆ける小兎。屋内まで子供を押し込み、どこか不安げにこちらを見上げるミソラと顔を合わせれば、体が一気に冷えて、頭が一気に冴えた。
「悪い。僕もよく分からないんだ。関係者じゃないから」
「……前、タケヒロが、あの爆発は、リューエルがやったんだって」
 濡れた前髪を分けながら、遠慮がちに、最後にミソラは尋ねる。
「だから、リゾチウムに興味があるんですか」
 いいや、違うよ。興味があるのはクスリじゃない。
 答えずに、トウヤは軽く笑った。ぽんと一度、細い肩を叩いて、桶を抱え直して、ミソラを置いて歩きはじめる。
「お前は、そんなことは気にせずに、やりたいことをやればいいんだ」
 重い足音が、廊下に響き、もうひとつの足音は少し間をあけてついてきた。そのふたつと、リナの欠伸だけ反響する暗い廊下から、外の世界の雨音は。
 少しずつ、少しずつ遠ざかっていく。





 乳白色の液体が詰まった、褐色の小瓶。
 ……余計なことを。思わず呟きながら、家の前に置き去りにされた袋の中身をそうやって見やって、また袋の中に戻す。吐き出したくなる溜め息はこらえて、『波乗り』でも喰らったかのようにしとど濡れたシャツを一息に脱いで、その場で水を絞った。それから玄関の戸を開けた。
 そして、中のソファに腰かけて当然のように腕を組んでいる、半袖半パンぼさぼさ黒髪の小汚い少年と目を合わせた。
「よ、おかえり。すげー雨だな。じゃ、修行するか!」
「……しつこい男は嫌われるぞ、坊主……」
 うんざりと家主――グレンはそう言って、押しかけ少年――タケヒロを睨む。疲労気味の視線では、全く抵抗力にならないが。昨日の晩から百遍は繰り返した問答にタケヒロはむっと唇を引き結んで、無視してさっさと着替えを済ませる男をふんぞり返って待った。上下着て、物置と化しているベッドへ例の袋を放り投げて、グレンはどすどすと戻ってきた。そしてソファから大分離れたテーブルの方に腰かけて、頬杖を付いて声を荒げた。
「邪魔だ、帰れッ! 話にならん!」
「怒鳴っても帰らねえけど。そういうタイプじゃないだろ、無理すんなよ」
「じゃあどうやったら帰ってくれるのか頼むから教えてくれ」
「俺を強くしてくれたら帰ってやるって」
「弟子は取らんと何度言ったら分かるんだ、言葉通じてるか?」
「ごたごた言わねえで強くしてくれたらいいんだよ。な? 強くしてくれるまでてこでも動かねえから!」
 昨晩の大雨の中飛び込んできてから相変わらずの調子に、結局溜め息をつかされた。放っておいて仕事に出て、帰ってきてなおザマだ。まだ濡れている短髪をがしがしと掻きながら、正攻法の効かないこのクソガキを追い返す方法へ、グレンも考えを巡らし始める。担ぎ上げてもいいが何度でも戻ってくる、相手は生存能力に長けた捨て鼠だ。いっそトウヤでも呼ぶか。顔を見るだけで尻尾を巻くだろ。
「案外冷てえな、お前」
 蔑んだ目でそんなことを言われたところで、どうすることができるでもない。正直、子供という理解にはずれた生き物は、苦手だ。途方に暮れて、ふとベッドの方を見る。
 あの袋の中身をやれば、もしや喜んで帰ってくれるのではなかろうか。
「なー早くしてくれよ、時間ないんだって……」
 勝手に参った様子で頭を抱えている純真な捨て子少年へ、また目をやって――グレンは再度、淀んだ息を、大きく大きく吐き出した。
 煙草だ、煙草。机の上に投げ捨ててあった白箱を手に取る。
「一朝一夕で強くなれるなら、あんなものは生まれんのだ」
「あ?」
「坊主、ミソラの『殺し』を止めさせるために、強くなりたいと言ったな。手持ちのポケモンを戦わせないという信念はどうした?」
 茶化すように問うと、一瞬言葉を詰まらせてから、真っ黒な双眸はついにこちらから視線を逸らした。
「……友達が、苦しんでる。助けたい」
「本当にそれだけか」
「悪いかよ」
 ふっと笑って、グレンは少年を視界から外した。窓の外。ざあざあと降り続ける大粒の雨は、刻々と灰色の闇に沈んでゆく。音を忍ばせて夜が近づいてくる。
 強くなりたいと願う理由は、果たして何だったろうか。
 分からない。意地のようなものだったかもしれない。生きて戦うポケモンが好きで、それを実験材料として扱う両親に辟易して、実家を飛び出してきた。ココウに本拠地を置きながら、ポケモンリーグに出ると豪語して、地方を行ったり来たりした。バッジを集めて、実際に出場して、予選も抜けたが、決勝リーグの一戦目で大敗を喫した。……純粋にポケモンバトルを楽しんでいたな、と思う。今だってそうだ。だが、いつの間に、純粋さだけでは許されない、自由に駆け回ることを禁じる枷から、抜け出す力を失ったのだろう。強くなること、高みを目指すこと以外のすべてのものから目を背け、耳を塞げば、楽なのに。
 他人の人生になど、気軽に関わるべきじゃない。歳なのだろうか、分かってはいる、つもりだが。
「怖い」
 ぽつりと漏れる本音の声へ目をやると、ソファの上で胡坐をかく少年の視線は、完全に床へ吸い取られている。
「ミソラが遠くにいっちまう」
 立ちのぼる紫煙の向こう、見たこともない、消え入りそうな子供の横顔。
 ……あのレンジャー騒動の時も、そうだったな。薄く口の端を上げながら、グレンは捨て子を俯瞰する。自由そうな顔をした、籠中の鳥。灰色に汚れた孤高のピエロ。置いて行かれるのは嫌だ。傍にいてほしい。けれど、鳥籠の開いた扉から、自分も飛び立てるということ、自分が鳥だってことからも、ずっと、目を逸らし続けている。ここが一番いいのだと、自己にも他者にも言い聞かせ続けている。
 お前はミソラの『転機』になれるだろうか。
 そしてミソラは、お前の『転機』に、なれるのだろうか。
「もうココウを出ようとしたところで、お前を殴る奴は誰もいないぞ」
 言うと、ぴくりと肩を動かして、少年は顔を上げた。それから猛烈にこちらを睨んだ。
「んな事は言ってねえ」
「そうかい」
「あの時の俺じゃねえよ。子供扱いすんな。……何が悪いんだよ。友達と一緒に居たくて。一緒に楽しくやりたくて、悪いかよ」
 そう言ってまた不貞腐れる子供に、グレンは苦笑する。
「お前を友人に持てて、ミソラは幸せだな」
 そう、何も出来ない、誰かと違って。
 一瞬だけ、曇天の切れ間に星を見たような顔をして、少年は目を逸らした。
 空白を埋め尽くす雨音。気味の悪い程分厚い雲が、ココウの上空を蠢いている。その鼠色がこの町を呑み込んでいく不穏な空想は、吐き出す灰の呼気に乗せ、燻りと共に、乱雑に揉み消した。







 
 
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