3 「忘れようと思う」 呻くようにタケヒロが言うのを、聞いたのはポケモンだけだった。左隣でせわしく毛繕いする二羽のポッポと、右隣に座っているあいつのノクタス。我関せずなのは自分の手持ちの方で、被り笠の下の黄色い目玉だけがギョロリと声の主を見た。そして、小さく首を傾げた。 以前このハリがナンチャラ分身という技を練習しているのを見た、ハギ家の裏庭。今はミソラとニドリーナのリナ、トウヤとガバイトのハヤテが向かい合って、タケヒロには興味のない話を続けている。排水の悪いぬかるんだ地面で、夕飯後にも『殺しの稽古』とは殊勝な事だ。分厚い雲に月を奪われた夜は暗く、つけっぱなしの二階の明かりだけがうっすらと光を与えている。 横槍を入れようととても思えないほど、友人の顔は真剣そのものだった。欠伸を噛み殺すのさえ躊躇われる気持ちで、タケヒロは独り言のようにハリへ尋ねた。 「あの家族写真の裏に別の写真が入ってるの、知ってるか?」 少年の不機嫌な視線は、会話相手へはくれないが。こちらを見ている案山子草の頭がこくりと頷いたので、タケヒロは続けた。 「家族とか兄弟とかさ。俺にはいねえから。俺は赤ん坊の頃に捨てられたから、畜生苦労させやがって、って恨む相手の顔も知らない。家族だと思ってた奴に捨てられるのは、また違うだろ。あいつが自分の親兄弟の事、何て思ってんのかなんて、同じ捨てられた身でも分からねえよ」 だからさ。会話、というより一方的に語り聞かせる捨て子の視線は、大切な友人が大切にしているあいつの横顔を、じっと捉えている。 「……悪い奴だと、思えねえんだ。嫌な奴だとは思うんだけどさ。さっき見たの、俺が忘れさえすれば、そう思ってられるんだから」 だから、忘れる。ぶす、と唇を尖らせて胡坐を組み直した少年を、膝を抱えながらハリは見つめ続けていた。……かと思えば、おもむろに手を伸ばして、よしよしとぼさぼさ頭を撫でた。 「いっで、やめ、棘が刺さる!」 「リナの、弱点ですか?」 片や目を丸めたミソラが、一息ついたリナを撫でながら問うた。何も言わないトウヤを見上げ、相方を見下ろして、一考。夜風が吹いて、さらさらと髪を揺らす。雨が寒気を連れてくる、タケヒロの言っていた通り、半袖で居るにはかなり肌寒くなってきた。 「……リナは『毒タイプ』を失っているので、相性で言えば弱点はないはずです。毒タイプの技がうまく使えないのは、弱点と言えば弱点かもしれませんが……」 「他には?」 「……うーん」 眉をひそめるミソラの下で、片方しかない耳をリナがパタパタと動かした。自覚があるか、と問われると、ちょんと頷く。ぽかんとしてそれを見てから、ミソラはまた顔を上げた。 「耳?」 「そうだ。生き物にどうして耳が二つずつ付いているか、分かるか」 「音をたくさん聞くため……」 「そう、それと、音を立体的に感じるために、耳が二つ必要になる。右側から話しかけられた時、それが見なくても『右側からだ』と分かるのは、お前の頭の両側に耳がついているからだ。片目では距離感が分かりづらいのと似てる」 「リナの左耳は、聞こえていないのですか?」 不安げに曇る碧眼の前に座り込んで、トウヤはリナの左耳に触れた。ぴんと張った右耳に対して、枯れて縮んだ葉のような左耳。聞こえてるよな、と言われて、またちょんちょんと首を振る。素直なものだ。タケヒロは自分の膝に肘をつきながらそれを見ていた。あのニドリーナ、あいつの事、もっと嫌ってた気がするんだけど。 「ニドリーナみたいな大きい耳は、音を集めるのに役立っている。僕らやハリやハヤテに聞こえるよりもたくさんの音を拾ってるはずだ、こっちの耳はな。加えて、耳が動かせるようになっているから、どこから音が聞こえてきているか、より詳しく分かるようになってる」 「つまり、リナは左右の聞こえ方が違うから、音がどこから聞こえているのか判断しづらくて、それがバトルの最中には弱点になる、ということですか?」 ミソラが結論を導いて、トウヤが首肯した。 「僕がリナを倒そうと思うなら、必ず左から狙わせるだろう」 「じゃあ、どうすれば……」 「左側に気を付ける、ということを意識しておくだけでいい。先天性……ええと、『生まれつき』のようだし、リナ自身も気付いていたなら、もう十分に適応できていると思うよ。あとはなるべく左を取られないように、お前が指示するだけだ」 弟子の表情が明るくなったところで、また雨が来そうだから今日は終わり、と男は立ち上がった。寄ってくるガバイトの鼻先をぺんぺんと叩きつつ、従者のもう一方が勝手に家に戻っていくのを見て、手に取ったボールを二つとも空のままベルトに戻した。 「タケヒロ、今日はうちで寝るんだろ?」 「寝ない」 「晩飯まで食っといて何だ。今夜中に降るだろうから、泊まっていきなさい。主人が惨めな濡れ鼠じゃ、ツーとイズまで惨めになる」 「うっせー黙れ、この化け物が」 「お師匠様、あの」 戸を開けて家に戻ろうとする二人、正しくはお師匠様のみを、泥まみれのリナの足裏を洗い流しながらミソラが呼びとめた。 「お師匠様は、リナのバトルを見て気付いたんですか? 耳が弱点になってるって」 俺のことは無視かよ、そんなにポケモンが面白いかよ。こっそり唇を噛んでいるタケヒロを一瞥し、トウヤは苦笑した。 「いや、違う。試合中のリナに隙があるのか心配してるなら、杞憂だ」 「スタジアムの人達は気付いているでしょうか」 「ココウにそんなことを気にしながら戦ってる奴はいないよ。お前が殺そうとしてる奴が物を知ってるトレーナーなら、一目で気付くだろうがな」 ミソラの口元がきゅっと引き締まり、こくりと喉が鳴った。お前も綺麗にしてもらえ、と一緒に入って来ようとした泥んこドラゴンを制して、トウヤはさっさと家に戻っていった。人んちに入るので一応手持ちはボールへしまって、タケヒロはその背を追う。急な階段の向こうに、ハリの姿が一瞬見えた。 「せっかくだから、ゆっくり風呂にも浸かったらいい。ミソラの服じゃ小さいかな。僕が子供の頃のが、とってあるかどうか」 「お前、面白がってるだろ」 「タケヒロに毛嫌いされてることなら、それはもう」 「ちげーよ、ミソラのこと」 階の中腹で、男が振り返る。心底面白がってる顔で。 「いいぞ、趣味を共有できる相手が近くにいるのは」 「そういうことじゃねえよ……」 リナを抱きかかえたミソラが、とんとんと二人を追いかけてくる。その後ろからのしのしとハヤテも。のらりくらりと躱される話を諦めて、タケヒロは肩を落とした。それを鼻で笑う男。ほら、ホンットに嫌な奴。 「お師匠様は、じゃあどうしてリナのこと気付いたのですか?」 「どうしてだと思う」 「本で読んだとか?」 「これだ、これ」 背中越しに挙げられる彼の変色した左手が、宙を握ったり開いたりした。 先に入ったとばかり思ったが、部屋の中にハリの姿はなかった。それを不思議に感じたのはタケヒロだけのようだ。トウヤは窓を開けて、雨漏りの残りが溜まった鍋を外でひっくり返した。 「僕も経験があるから分かるんだ。左右のバランスがおかしいと、どうしても妙な所が出る」 「ああ、腕……」 「リナと同じだよ。左が弱い。握るのも、持ち上げるのも、投げるのも」 触れづらい話題なのは、すっかり仲良しに見えるといえ同じらしい。やっとミソラがタケヒロを見た。気まずい、何て返そう、色々聞いてもいいのかな、そんな顔。タケヒロは顎でそれをそそのかした。聞いて欲しいんじゃねえの、聞いてやれよ。 「腕の太さが違ったんだ、昔。それが嫌で矯正したから、今はそこまで気にならないけど」 「どうやって矯正したんですか?」 「いや、普通に、筋トレを」 笑いながら振り返った彼の視線の先で、ハヤテが最後にのしのしのしと入ってきて、奔放な尻尾で水が入ったままのバケツをひっくり返した。 「あっ! 馬鹿、動くなよ」 「筋トレ……」 「ガリガリなお師匠様には筋トレとか似合わないですぅ、ってミソラ言ってるぞ」 「言うなよ、結構気にしてるんだから」「言ってないよ!」 見た目よりついてるんだぞ、触るか? と二の腕を叩くトウヤを完全に無視して、夕飯前に持ってきていた山のような雑巾で床を拭きはじめるタケヒロ。おろおろするハヤテの首に抱き着いて、ミソラはけらけら笑った。解放されたリナが水たまりの上を颯爽と踏み抜けていく。だめでしょ、リナ。主人の言葉を全然聞いてない風なのは、左側から話しかけたからなのか、単純に無視しているのか。絶対後者だけれど。 「じゃお前と喧嘩する時は、左から殴れば勝てるな」 「そうだ、実際にいつも左から殴られてた」 「お師匠様、喧嘩とかするんですか?」 こらこら、とトウヤは気ままな小兎を気のない声でたしなめながら、足癖悪く雑巾を引っ張って、濡れた足跡を拭いた。仕方なくミソラがリナを追い、リナはますます駆け回る。タケヒロとしては普段はもう寝るような時間なのだが、明かりのある『家』に住んでる連中は、こんなに遅くまで騒がしくしているものなのだろうか。 「タケヒロくらいの時だけどな。喧嘩と言うか、ハリが強くて、ちょっとスタジアムで稼いでいたから、あそこの年上連中に目をつけられて」 「グレンさんとか?」 「いいか、あの男はな、ボールを取り上げられてボコボコにされる僕を見て、遠くから手を叩いて喜ぶだけの糞野郎だ」 左側を狙われてるぞ、って教えてくれたの、グレンだったな、と、来るべき第二波に備えてバケツや鍋をセットし直しながらトウヤが呟く。暴れるリナをやっとこさ捕まえて、ミソラはベッドのタケヒロの隣へぼすんと腰を下ろした。 「お師匠様、ココウに来られた頃から、グレンさんと仲良しなんですよね」 「なんでそんな事知ってるんだ」 「前グレンさんから聞きましたよ」 あはは、と照れくさそうに笑って、懐古するように二人から顔を逸らした。 「随分と世話を焼かれたよ、あいつには」 開けっ放しの戸から、のそ、と緑色の影が顔を出した。散乱する足元に気を付けてひょこひょこやってきたハリは、タケヒロの前で立ち止まると、手に持っていたものを広げ、黙って少年の身体へ合わせた。 ポッポとピジョンとピジョットが連なる、珍妙な柄の丸首シャツ。少し大きいが、着れないこともなさそうだ。ハリは納得したように頷く。……タケヒロは大きく溜め息をついた。気が利く、と褒められているハリの手前、仕方ないから、受け取ってやった。 「良かったね、タケヒロ」 「結構似合うじゃないか」 二人してこちらを見て、またけらけらと笑う。むすっとするタケヒロの頭を、よしよしと、今度は棘が当たらないようにハリが撫でた。 ハリ、分かるよ、言いたいこと。お前の主人、嫌な奴だとは思うけどな。悪い奴だとは思いたくないんだよ、やっぱり。 視界の端に映る青色の写真立てを、『考えたって仕方ないこと』スペースの中へ、タケヒロは放り込んだ。 * 「本当にすいません、おばさん」 目を瞑って一日を終えようとしたところで、トウヤとポケモンたちが申し訳なさそうに顔を出した。 いつ以来になるのだろうか、風の吹きこまない寝床。ふかふかとした温かい布団。友人とのお泊り、ってことで、頭は興奮しているのに体はすぐにとろんとしてくる。タケヒロの布団の隣はミソラ、そしてその隣はハギのおばちゃんだ。ここは一階のハギの寝室で、ミソラもここで寝るのは初めてらしい。 いいのいいの、私も嬉しいからねぇ、と、明かりを消そうとしていたハギが返す。苦笑いの男の傍から、ぬるりと捩じり込むように大きなビーダルが入ってきて、タケヒロの隣へのっそりと腰を下ろした。肉布団のような体を伏せて、瞼を下す。こいつもこの部屋で寝るらしい。 「どうせなら、トウヤも一緒に寝るかい?」 「あ、いや……あの……僕はその、ほら、上の雨漏りを、見ておかないと」 一歩戸口から遠ざかる彼の、自分たちへくれる返答のような軽快さがマイナスへ振り切れたのが面白くて、ミソラもタケヒロも声を上げて笑った。ハギも一緒に笑っていたが、後ろのハヤテが抱えている大きなタライをふと見て、 「雨漏りを見とくって、今晩寝ないつもりかい、あんた」 「二人が交代してくれますから」 ギャッ、とハヤテが景気よく返事をし、ハリが大きく頷く。ならいいけど、と叔母の表情が和らぐと、男もいささか安心したようだった。 「頼むから良い子にしててくれよ」 「言われなくても良い子だっつーの、なぁ?」 「ねーっ」 小首を傾げて返してくるミソラは、全く眠そうではないが。……半ば呆れ気味に息をついて、おやすみなさい、とトウヤは身を引いた。戸が閉められると、また威勢を増しつつある雨音が、さあさあと部屋を席巻した。 明かりが消され、闇が支配する部屋で、音はますます耳についた。 意外と、落ち着かないもんだな、布団。ぼんやりしながら、タケヒロは天井を見ていた。雨、段々激しくなってる。ふと思い出す。潰れた俺の秘密基地。寝床が温かいのは、今日だけだ。ピエロ道具も宝箱も、今頃ぐちゃぐちゃになっているだろう。明日、天気がマシなら、あれを直すか、新しい住処を探さなくちゃな。雨季はいくらか続くし、それを乗り切ったとしても、屋根のない場所で冬の厳しさは越えられない。 非日常の高揚感は、耳慣れてしまった賑やかさが立ち消えすると、急に不安へ取って代わった。 ビーダルのヴェルは寝息も静かなものだったが、ミソラはもぞもぞと体を動かしてばかりいた。どうせこいつも寝られないのだろう。それも気になって、脳の芯は痺れるようにぼうとするのに、変に眠気が去ってしまった。 目を開けて、窓を流れ落ちる、仄かに光る雨粒を、見つめている時だった。 リリリリ、と遠くから、電話のベルが鳴った。ごそごそと隣の隣が起き上がって、こんな時間に、とハギが独り言をいう。子供たちに配慮したのか、明かりをつけずに、出ていった。……ぎぃ、と苦しげな悲鳴を上げて、戸が閉まる。途端に、ミソラが体をこちらへ向けた。 「起きてる?」 「うん」 囁く声は、嬉しげだ。とても遠くからハギの声が聞こえ始めるが、話の内容までは聞き取れなかった。 「ねえタケヒロ」 「ん?」 「楽しいね」 「そうだな」 「えへへ。タケヒロと一緒に寝るなんて、嬉しい。雨、大好き」 幸せそうに、そう言う。 胸を埋め尽くそうとしていた不安は、その時に急に『悲しさ』へと、姿を変えたのだ。 ツンと鼻に来る、感情の波に、少年は気付かないふりをする。世界を包む闇に、憂鬱を呼ぶ雨に、冷やかな風に、身に馴染まない陽気な夜に、幸福な友人に。当てられたのだと思った。住んでる世界が、違うんだな。雨降って寝床の心配してる俺と、雨が大好きだと笑う、こいつと。 あったかいのが、今日だけなんてな。それなら知りたくなかったのにな。 「なあ、ミソラ」 「うん?」 眠さを一切纏わない、ひそめていても明るい返事。見えない双眸は、きっときらきらと輝いているに違いない。 なあ、あったかいのが、今だけなら。知りたくなんてないんだよ。だから、頼むよ。 「殺すとか、言うの、やめろよ」 友人は、返事をしなかった。 風が出てきたのだろう。強い雨脚はばちばちと窓を弾く。借物の温かさが、すうと身体から、引いてゆく感覚。 随分と、間が空いたように思う。 無理だよ。濃藍の闇に溶けるような、いつもより少し甘い声で、ミソラは言った。 「そんなこと、言わないで。タケヒロ。お願い」 「お前がそういうことするの、俺、嫌だよ」 「どうしてそんなこと言うの?」 「嫌なもんは嫌なんだよ、ミソラ」 「僕、タケヒロには、なにも迷惑かけないよ?」 「人を殺すのって、お前が思ってるより、ずっと大きい事なんだぞ。……お前が、誰かを殺した、ってだけで、俺、今まで通りにはできないよ。あいつも、おばちゃんも、多分そうだろ」 ミソラが、少し息を詰めるのを感じられたのは、暗さが神経を尖らせているからだろう。 ハギの声は、まだ遠くに聞こえる。笑っている。柔らかいヴェルの寝息も。隣が身を捩り、こちらを見るのをやめた気配も。 「殺さなくていいなら、僕だって、殺したくないよ」 ――少し落ち着いた声色に、今度はタケヒロが、暗がりの中にミソラを探した。 急く心が、無言に問う。動揺したか、ミソラ? 正体不明の信念のために、あったかい日常を犠牲にしていいのかって、今、思ってくれたのか? 「お前さ、昼間、『あの人を殺すためだけに生かされてる』って言っただろ。そんなの誰が決めたんだよ。ミソラは誰かに生かされてる訳じゃない」 「僕、そんな事を言った?」 ミソラはくすくすと笑った。ついさっきまでの子供っぽい笑い方が、まるで嘘のようだった。 「へえ、そうなんだ。『生かされてる』んだ。僕、たまに変なこと言うんだよ。全然覚えていないのに、僕には兄弟がいるーとか、その兄弟は男の子だー、とか。きっとね、忘れる前の昔の『僕』が、言わせてるんだ」 口を挟む暇もなく、友人は滔々と続ける。 「殺さなくちゃ、気が済まないって、昔の『僕』が叫ぶんだよ。昔の『僕』のそのけじめが、きちんとついてからじゃないと、僕、ただの『ミソラ』として、人生の全部を生きられないよ。だって、僕の身体は、本当は昔の『僕』のもので」 「忘れる前のお前なんて、もう、どこにもいねえじゃねえか」 「いるよ。いるんだよ、タケヒロ。だから僕、髪を切れなかったでしょ? 昔の『僕』が、忘れてくれるなって泣いたでしょ?」 語気が強い。隣の誰かが、体を起こす。どんな顔をしているかなんて、全く見えないけれど、 「ハシリイから帰ってきた後、昔のことなんかどうでもよくなった、って、僕、言ったよね? だから思い出したんだよ、思い出しちゃったんだよ、誰かを殺さなきゃいけなかったことを。忘れたことさえ、忘れようとしたことを、許してもらえなかったんだ。だから僕は」 微か震える声も、激しい雨音と、彼方に轟く雷鳴が、掻き消そうとするけれど。 「殺さなきゃいけない理由はあるけど、殺さなくていい理由がないから……」 「……理由なんて、そんなん……」 何言ってんだ、馬鹿。お前はたったひとりのお前だろ。 まっすぐな言葉が、上手く出ていかない。そんなんじゃ到底足りないのだと、タケヒロはもう知っている。理解の範疇を越えてゆく友人。ダメなもんはダメ、じゃ納得しえない友人。分かんねえよミソラ、分かんねえけど、苦しいんだろ。ああ、苦しいな。お前がちゃんと苦しいなら、なあ、良かったよ。苦しいのは、俺だって分かるよ。理解できるよ、共感できるよ。しかもそれって、俺にもまだ、勝算があるってことなんだろ。 ゴロゴロと、また低い雷の音が響く。その時、自分の脳にも電流が走ったようにハッとして、タケヒロはがばっと起き上がった。 「なら、殺さなくていい理由がいるのか?」 「――タケヒロ!」 友の手を振り切って、真夜中の、雷雨の、月のない町へ、タケヒロは飛び出した。 人っ子一人いない、生きてる何かの気配もしない。カッ、と稲妻が迸って、刹那世界を描き出す。濡れ鼠の町。気味悪い灰の空。銃声のような鮮烈な雷鳴。怯えてミソラは追ってこないだろう。ポッポ達のボールはポケットに入れていたが、あの趣味の悪いシャツを着ていることを思い出すと、ちょっとだけ辟易した。 温もっていた身体は、急速に冷えていった。 冷えかけていた心は、急速に熱を戻しつつあった。 ざあざあ雨の打つ石畳を、夢中で蹴り飛ばす。目指す場所は遠くない。 理由。理由がいる。考えろ。時間がない。どんどん離れてしまうから、届かなくなってしまうから、だから、だからその前に。昔の『僕』とやらに怯えて、けれど日常を失うことに心を揺らしてくれたミソラの、殺さなくてもいい理由。 皮肉だった。殺しを語られた時の嫌な言葉ばかり、タケヒロには蘇っていた。 戦える力って、大事だよ。 力がなきゃ、何も出来ない。 そうだな、ミソラ。俺は力がないから、ロッキーを救えなかったな。俺は戦う力がないから、好きな女も、守れなかったな。 降りしきる雨の夜を、鋭い光の矢のように、非力の少年は駆け抜けていく。 黒髪の子供が走り去り、金髪の子供が、雨に打たれながら茫然とそれを見送るのを、男は眺めていた。 案山子草と、青い小竜の、てらてらと光る双眸が、その背を貫いている。小さく息をつき、からりと窓を閉めてから、右手に持っている物へ、今一度目を落とした。 黒く汚れた、皺だらけの写真。机の上に雑に放られた青いフレームと、もう一枚を、視界の端に捨て置いて。 自分も気付かないくらい、かすかに唇を緩めて、添える左の指先で、愛おしげに写真に触れる。 赤銅色の親指が、撫でる少女の頬を。 真新しい血が、べたりと、汚した。 |