「やだよあんた、こんなにびしょびしょになって。子供じゃないんだから」
 結局ハギ家にやってきたミソラとタケヒロが傘を畳むのに四苦八苦していると、大きなタオルを二、三枚持ったハギが、ぷりぷり怒りながらやってきた。
 まっすぐ向かったのは、いかにも暖かそうなビーダルのヴェルと戯れようとしていた、ずぶ濡れのままのトウヤのところだ。足元に水たまりを作るくらいぐずぐずになっている二十二歳児に、ハギは一枚タオルを渡して、もう一枚でその頭をがしがし拭き始めた。
「う、わ」
「スタジアムで遊ぶお金はあるのに、傘を買うお金はないのかい?」
「いや、その」
 わしわしわし。頭を拭かれながら言葉を詰まらせるトウヤは、鼻先も赤いし、耳まで赤い。
 おい、見ろ、アレ。ガキかよ、なあ? 指さしてニヤニヤ笑うタケヒロが、顔も見たくない名前も聞きたくないと常々言っていたはずの相手をこの頃は普通に見ているのが、ミソラにはまたちょっと面白い。言ったら絶対怒るから、黙っておくけど。
「あー……」
 ハギがこちらを見つける。トウヤと一緒に居たはずのミソラと、一緒にいなかったはずのタケヒロがそれぞれ傘を持っているのを見て、何となく察したようだった。
「寒かったろうに、どこから歩いてきたんだい」
「あの、自分で」
「すぐお風呂に入るんだよ、あったかい飲み物いれといてあげるから」
「頭」
「風邪を引くといけないからね」
「……はい」
 子供みたいに髪を拭かれて、少し頭を下げているトウヤは、こちらを垣間見て、本当の子供二人にニヤニヤ笑われているのを知って。もうこれ以上ないくらい、本当に恥ずかしそうな顔をした。


 おばさんに入れてもらったホットミルクは、甘くてあったかくて、体の芯からほっこりとする。
 服が濡れているから着替えるように言われて、ミソラはホットミルクを携えて、嫌がるタケヒロをなんとか二階まで引き摺って上がった。上がると、それはもう、凄かった。
 トンタントンタンと、かわるがわる、いろんな音がする。うわぁ。呟き、ミソラは出かける前より散らかっている床を見て、それから上を見た。飲み物をぶちまけたような大きな染みが、木目板の天井に広がっている。そこから水が滴っている。
 二人に次いでえっちらおっちら階段を上ってきた老ビーダルが、口に咥えていた給餌トレーを部屋の中まで持って入った。お腹が空いているのかと思えば、染みから滴った水で溢れ返っているコップをどかして、そこにトレーを移動させて、水の新しい受け皿にした。
「ヴェル、どうしたのこれ。水鉄砲やっちゃった? 怒られちゃうよ」
「雨漏りだろ、どう見ても」
 雨漏りは、ミソラ達の部屋だけで四か所あった。隣の物置部屋も見てみたが、どうやらそっちは被害がなさそうだ。奇跡的に漏ってなかったベッドに二人で腰かけて、リズミカルに音を鳴らす受け皿を眺めては、満杯になりかけると窓から流し捨てた。雨は止む気配がなくて、町のずっと向こうまで、空は灰色一色だった。
 ミルクを舐めさせると、リナはすぐにうとうとし始めた。たくさんバトルをして、今日も疲れたろう。
「雨なんて、僕がココウに住んでから、初めてだよ」
「そういう時期だからな。しばらく降ったりやんだりするけど、まあ十日くらいだよ。それが終わったらぐんと寒くなって、そんで、冬が来る」
「冬……」
「だから、雨が降るとさ、季節の変わり目って感じ、すんだよな。夏が終わったんだなって、虚しい」
 言いながら片肘をついて、アンニュイな表情で、タケヒロは外を見ていた。ミソラももう一度外を見た。一面の灰色。あの人が僕にくれた美しい青色の空は、どこかに見えなくなってしまった。
 ふゆ。ミソラが呟く。冬。タケヒロが反芻して、小さく、溜め息をついた。
「……雪は降る?」
「降る降る、これでもかってほど降る」
「ほんと? 楽しみだね」
「楽しみなもんか、捨て子の俺らは、下手すりゃ死――」
 振り返るミソラが、あんまり普通ににこにこしているものだから、タケヒロは面食らってしまった。
 寒くなって、雪が降って。
「雪だるまとか作って、雪合戦とかして」
 かまくらを作って、皆で雪に足跡をつけたり、飛び込んだり、笑い合ったり、あったかいごはんを食べたりして、
「そしたら、そのうち冬が終わって、春が来るんでしょ?」
 はる。舌触りを確かめるように繰り返す二音。こっくりこっくり舟をこいで、寝息を立てはじめたリナを抱きかかえて、ミソラはにしっと笑った。
「僕、覚えてるのって、春からだから、丁度一年。タケヒロと出会ったのも、お師匠様と出会ったのも、やっと一年だ。タケヒロ、最初の頃のこと、覚えてる? タケヒロが僕を助けてくれて、『最強の呪文』を教えてくれて、それと、すごい喧嘩したんだよね、僕ら。あれから一年だなんて、なんか、嬉しいよね」
 無邪気に肩を揺らす友人が、しあわせそうに、しあわせそうに微笑むから、ちょっと暗くなっていたタケヒロにもそれが移って、そうだな、と笑えてしまった。



 頭からつま先まで沁みわたる温度が、束の間体を安堵させる。温水を浴びながら、トウヤはぼんやりと目を開けた。
 雨よりも強い水の音だけが響く。浴室の曇った鏡。濡れそぼった冴えない男が、朧な気配で、こちらを見つめる。
 一人になって、身体ひとつで静かになると、感情まで外気に晒されるようだった。頭を拭われた。温い手だった。気持ちが良いと、思ってしまった。『あんたより先に親子になっちまった』、つい先刻喰らった言葉を反芻すれば、途端に空気が不味くなる。勿体ないほど与えられる愛情は、いまだ上手に飲み込めないままだ。それを本当に受け取るはずだったあなたの息子の、代役など、僕では務まらなかったから。
 考えるのが嫌になると、動くのを止めた思考は、ずぶずぶと一点へ沈んでいく。ねむ、たい。ぐっすり、寝たい。泥のように、眠りたい。心地よい温もりを手に入れた本能が、弱々しく鳴き声を上げる。夜に寝るのを諦めてから、どれほど経った。不調が顔に出やすい方だったら、どうだったろう。今頃頬はげっそりこけて、目の下に色濃い隈が浮かんで。その方が生きるのに楽だったろうか。子供の頃は、これも叔母にいらぬ心配をかけさせないのに役立っていたが、いつの間に「体の丈夫さだけが取り柄」なんて言われるようになっていた。保護監督者を騙して、健全そうなフリができること、それだけが、愚かな僕の悲しい取り柄。
 微かにのぼる湯気と、鏡の水垢以上に、倦怠感が視界を滲ませている。こんなあたたかい場所にいては、気を抜けば、膝をついてしまいそうだ。湯を止めて、けれど耐え切れず、少し目を閉じた。微かな雨音が、外から聞こえる。冷気はすぐに戻ってきた。
 冬が、来る。
 肌を伝って、足元へ落ちて、他と雑多になって排水溝へ向かう雫のように。流されるまま生きて、何度も冬を迎えて、意味もなく、歳を取ってきた。無駄に飯を食って、無駄に背を伸ばして。限りある時間を、浪費してきた。
 冬が来る前に、雪が降る前に。ミソラは念願を果たすだろうな、と思う。十連勝をして、ご褒美をもらい、そのうちに、仇の『誰か』を殺すのだろう。あの子の望む通りに。それまで、僕はやはり、今までそうしてきたように、押し流されて、添い遂げるのだろうか。夢を叶える、ミソラの横に?
 リナが、殺すのだろうな。おそらく。あの鈍い牙で、喉元を掻っ捌くのだろう。あるいは――ぼんやり、そんなことを考えながら、残る温もりをふりほどいて、浴室の戸を、開いた。

 そこに蠢いていた、大量のポケモンが起き上がって、一斉に、血色の眼球を男に向けた。
 ヨーギラス。
 ぬるりと。開いた無数の口。
 赤い舌が、鈍い牙が。
 冴えた月光に、きらりと、

 声は、出なかった。すべて喉元で止まった。ぐわ、と眩暈がして、後ろ向きに崩れ落ちて、はっと呼吸が戻ってきた次の瞬間には、十二年前の幻覚は。すべて、跡形もなく消えていた。
 ……膝が笑っている。何もない、誰もいない、強いて言えば服と一緒に置きっぱなしにしていた手持ちのボールが居るだけの脱衣所を、見渡しても、見渡しても、立ち入る気にならなかった。後ずさる。いない。なにもいない。なにもいない、けれど。浅く呼吸を繰り返しながら、現実味を欲して、左腕を見る。赤黒く変色した皮。呪詛のような痣は、胸の一部を塗り潰して、左の頬まで這い上がっている。震える右手で、左の前腕を探った。皮膚の色と同化して見えない、すっかり塞がって、引き攣った傷跡。けれど、それ以上には何もなかった。
 ああ。やっと通った喉が、それだけの音を零す。雨音が、世界に戻ってくる。
 飲もう。今日は。しこたま飲んで潰れれば、少しは眠れる。そうでないと、さすがにまずい。
 長い溜め息をついて、振り返る。鏡にこびりついた曇りを手のひらで押しのけた。少しげんなりしただけの、平時の自分が、そこにいた。大丈夫。まだ、騙していられる。


「……しっかし、変わってねえな」
 何の気なしに呟いた言葉を、ミソラは聞き逃さなかった。
「変わってないって、この部屋が? タケヒロ上がったことがあるの?」
 ずい、と迫ってきたミソラに、う、とタケヒロは体をのけぞらせる。そうだった。この友人とはもうそこそこの付き合いになるが、自分と『あいつ』がどういう関係なのか、ほとんど明かしてこなかった。
「あるの?」
「まあ、だいぶ昔に」
「だいぶ昔って、いつ?」
 お師匠様とタケヒロは、結局どういう仲なの? 強い意志を持って覗きこんでくる双眸が、そう訴えかけてくる。めんどくせえ。素直にそういう表情を醸し出して、タケヒロはまた雨漏りで一杯になりかけたコップを窓の外へ流した。峠は越えたか、雨の勢いは弱まりつつある。
「あのさ、アズサさんと一緒に、ルカリオをキャプチャしたじゃん。皆で頑張れたよね、あの時」
「そうだな」
「僕、タケヒロとお師匠様は、仲直りできると思うんだよ」
 大好きなタケヒロと、大好きなお師匠様が仲直りしてくれたら、とても嬉しい。言いながら友人は大真面目に詰め寄ってくる。タケヒロは顔を逸らした。そうするつもりはない。できるとも思えない。あの騒動の時、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ見直すところがあったとしても、そもそも仲直りする必要性も無いのだ。だって別に喧嘩はしてないし、向こうもそういう気はないだろう。喧嘩してる気も、仲直りする気も。ただただ、嫌いなだけ。名前を聞くのも不愉快なだけ。
「それよりさあ」
「あー、話逸らした」
「よく稽古してるよな、ミソラ。真面目にさ。そんなに続くなんて思ってなかったわ、正直」
 思わぬ話題だったのだろう。きょとんと目を丸めて、それから、膝を抱えてにっこりと笑う。機嫌を直したようだ、よかった。振った話自体には特別興味もないから、タケヒロは部屋を見渡してみた。
「うん。スタジアムで十連勝できるように、今はリナと頑張ってる」
 変わっていないと思ったが、変わっている場所もある。大きな本棚。四年ほど前になるのだろうか、この部屋に上がって、あいつとグレンと談笑していたのは。ガキだったしさすがに詳細には覚えていないが、隙間という隙間に捻じ込むくらいにびちっと詰め込まれていた本たちは、活字とは縁もゆかりもないタケヒロを驚愕させたものだった。それが今は、二段目から既にすかすかだ。上から三段は、もはや空になっている。最近お師匠様、掃除に凝ってるんだよ、とミソラが以前言っていたのを、なんとなく思い出した。変なの。冬籠りする獣みたいに、あんなに溜め込んでたのに。
「戦える力って、大事だよ。力がなきゃ、何も出来ない」
 持ち出したビスケットを頬張りながら、なんでもないように、ミソラが言う。ん、と差し出された一枚を、気乗りしないながらも受け取った。中心に穴の開いた、麦の香ばしいビスケット。穴の向こうに、乱雑に並べられた写真立てが見える。
「ハシリイに旅行に行った時も、力があるから、お師匠様は町の人に受け入れられたって」
「へえ」
 よその町の事なんか、知らねえよ、俺。言いたい気持ちを殺して、適当に喋らせておくことにする。雨のせいだろうか、肌寒さのせいだろうか、ビスケットだけじゃなく、なんだか色々と気乗りがしない。手持無沙汰に写真立てコーナーに近づいてみた。ノクタス、ガバイト、オニドリル。サボネアとフカマルも。想像したこともない様々な景色が、その向こうに映されている。
「力があるから、お師匠様は、アズサさんを助けることができた。力がない僕たちは、何も出来なかった」
「俺も含まれてんのかよ」
 チカラ、チカラ、って、それも『殺しの稽古』の入れ知恵か? ――けど、『何も出来なかった』という中身に反論しようと思わないのは、その事実を、どこかでタケヒロも受け入れているからなのだろう。自分はあの時、一番にしゃしゃり出て、呆れるくらいに口だけだった。戦わせるつもりのなかったツーとイズの方が、まだ戦っていた。そんなの自分がよく知ってる。
 ハシリイという街で撮ったと言っていたミソラの写真は見えなかった。傍にぽつんと使い捨てカメラが置かれていて、砂埃を被っていたから、これがそうなのかもしれない。現像すれば、タケヒロの知らない町で無邪気に笑うミソラの写真が、次々鮮やかに焼き付けられるのだろう。友人が、だんだん遠ざかっていっている。話が噛みあわなくなることで、徐々にそのことを実感する。
「僕たちは力がないから、ロッキーを守れなかった」
 トン、タン、トン、雨漏りの音が、気不味げに途切れつつ、まだ響いていた。
 ……リューエルという、あの忌まわしい男どもに連れ去られた盗人の小猿。写真を探る手を止めかけて、頭を振って、蘇る夕暮れを腹の底へ戻した。あれは既に、タケヒロの中では、『考えたって仕方のないこと』のスペースへ放り込まれてしまっている。後悔、無念、恨み、そんなことで心を埋めて、俺は前へは進みたくない。
 ビスケットを、唇に挟んだ。何も言いませんよ、というポーズだ。少し神妙な顔をしていたミソラは、こちらへ目を合わせようともしないタケヒロが答える意志も無いことを察すると、諦めて、んふ、と微笑んだ。
「十連勝できたらね、ご褒美があるんだよ、僕。いいでしょ」
「へー」
「明日はリナを休ませて、明後日、挑戦するんだ。絶対十連勝できる」
「ご褒美って、何もらうんだ?」
「僕の『仇』を、一緒に探してくれるの。お師匠様が」
 ……他はポケモンばかりなのに、人間が写っている写真を見つけて、物珍しさに、それを取り上げた。
「どうやって?」
「うん、……少し、ココウの外に出るかも。でも、いろんな町をちょっとずつ探すから、そんなに長くは留守にしないよ。タケヒロ、寂しいかもしれないけど……」
「寂しくねえよ」
 古い木製の、青のフレーム。背景は家。玄関だろうか。男、女、その間に男の子。手を繋いで笑っている。いつだったか、あいつの家族写真があるとミソラが言っていた。……自分にはいない『両親』というやつを、少年はぼーっと観察してみる。なるほど、あいつ似てるや、父親に。ホントに似るもんだな。
「そう。僕は、寂しいや」
「じゃあ行かなきゃいいだろ」
「でも探さなくちゃいけないから」
「探して、どうすんだよ」
「見つかったら、殺すよ」
 平然と、友人が言う。写真立てを握ったまま、ビスケットを飲み込んで、タケヒロは顔を向けた。
「本当に殺せるのかよ」
「殺せるよ。そのために稽古してるんだもの」
「逆に殺されたりしないだろうな」
「そんなに間抜けに見える?」
「見えるから言ってんだろ――あっ」
 熱くなりかけて、棚を見ずに写真立てを戻そうとして、うっかり取り落としてしまった。留め具が弛んでいたのだろうか、裏蓋が外れて、ぺらりと写真が落ちた。げ、よりにもよって家族写真を。雨漏り箇所に落ちなかったのがラッキーだ、けど汚れてないだろうな。ミソラの位置からは見えないだろうが、タケヒロは慌ててそれを拾い上げる。
「どうしたの?」
「なんでも。お前、そもそも、殺したこととかねえだろ?」
 拾い上げた写真の裏っかわが、黒ずんで汚れているじゃないか。げげ。けれどそれを表に反してみて、また裏返して汚れを触って、それが随分前についた汚れであることに、タケヒロは気付く。表は全く汚れていないことと、汚れている裏側が、妙にしわくちゃであることにも。
 あれ。二枚だ。重なってる。どきりとした。あいつの家族写真の下にもう一枚、何か隠してある。
 僅かな背徳感を好奇心が押しのけて、下に隠されていた二枚目を、タケヒロはめくって見てしまった。
「別に、人を殺すために、稽古してる訳じゃないよ」
 悪意を持って握りしめたのだろう、と思えるくらいに、無秩序に皺の跡が走っている。
「誰でも彼でも殺したくて稽古してるんじゃなくて、その人だけを、殺すために稽古してるんだから」
 指が写り込んだのか、右上は靄がかかって欠けていて、全体的にピンボケしている。
「復讐、って言うと、ちょっと違うけど。僕の『仇』さえ、殺すことができれば」
 背景は家。玄関だろうか。男、女、その間に。手を繋いで、笑っている。全く同じ構図。父と母に手を取られている子供の姿のみが、一枚目との相違点だった。
 集中的に皺の跡が寄っていて、ピンボケも相まってよく見えない。目を凝らして、見つめると。
(……女の子、か?)
「いいんだよ、僕、それできちんと、満足できる。あの女の人も、きっと笑ってくれる」
 髪が長い、ように見える。服装もなんとなく、女の子らしいだろうか。――その服装に目を走らせ、その写真の下部を中心に、黒い汚れがべったりと無数に重なっているのを、タケヒロは見た。写真の裏についている汚れと同じ。
(これ……)
「そもそも、僕は、その人を殺すためだけに生かされてて……」
 その黒ずみの正体に、タケヒロは突然勘付いた。
(これ、血、じゃ)
 ――写真に人影が差した。ぞっと背筋に、寒気が走った。
 顔を上げる。いつの間に立っていたのか、その血塗れの写真の主と、目が合ってしまった。
「あ、」
 それ以上、言葉を継げようもなかった。
 こちらを見下ろす男の表情は、影が覆って、よく見えない。僅かに目を見開いたタケヒロは、何も言わないトウヤを前に、金縛りにあったみたいに、身体に力が入らなくなって、手が言う事を聞かなくなって、彼の写真を、危うく握り潰しそうになる。
 同じ家。同じ親。女の子。塗り付けられた無数の血痕。……少年の頭の中で、それらと『あの時』の彼の様子がひとつの線をなす前に、黙って、怒るでも焦るでもなく、トウヤは普通の動作で子供の手から写真と、青いフレームを取り上げて、綺麗な一枚目の写真を入れて、ぐちゃぐちゃの二枚目を、手早く裏に隠して、裏蓋をして、留め具を止めた。そして色とりどりの他の写真の中へ、その写真立てを、伏せて、戻した。
「外れやすいんだよ、これ」
「……ごめ、ん」
「いいよ、全然」
 酷いな、雨漏り。首に引っ掛けたタオルで頭を拭きながら、トウヤは苦笑し、そうですねとミソラも笑う。彼が何も言わないことが、何も言うなと、暗に言われているようで、急に恐ろしさがこみあげて、俯いて頷く事しか、タケヒロにはできなかった。







 
 
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