8・愛情と日常







 きらきらとした、宝石のような日向の花に、どれほど目を細めただろう。
 ただただ、眩しかったのだ。自分が手に入れられなかった、得がたい愛情や失いがたい日常を、二人とも当たり前に持っていたから。
 ミヅキも、トウヤも、別に特別な子供ではない。ミヅキはちょっとポケモンがうまくて、トウヤはちょっと他よりチビで、そのくらいだ。いたって普通。教育熱心な女と仕事熱心な男の間に生まれて、大きくなって、ポケモンを手にして、学校でそれを競わせていた、一般家庭の普通のきょうだい。
 普通に生きて、普通に暮らして。父と母とを、大好きだと言う。毎日いろんなことがあって、笑えることがたくさん起こって、いつも楽しくて仕方ないと言う。そう言って、手を繋いで、けらけらと笑う。
 ゼンは、擦れた子供だった。瞬く星のような、野花のような二人の無垢さを、とても好ましいと思っていた。
 十歳を少し過ぎていたか、十一歳になっていたかもしれない。ホウガという田舎の工場町に滞在したのは、たった二日か三日間だ。歳の近いミヅキは大人しいけれど賢くて、色々と話をしたが、トウヤの方は、正直あまり印象にない。一つだけはっきり心に残っているのは、変な子だなあと、それだけだ。
 ゼンが最後にトウヤを見たのは、バラバラになったモンスターボールを手にして、わんわん泣いている姿だった。
 もどせなくなった、と言っていた。どうも自分で分解したらしい。叱る母親がいて、笑いの止まらない父親がいて。それで、ミヅキは弟を撫でながら、ゼンにこそっと囁くのだ。
「おばかさんで、かわいいでしょ?」
 ふわ、と花の綻ぶようにとても愛らしい顔で笑う、その姉の後ろで、くちゃくちゃの顔を拭う弟。
 ポケモンがどうやってボールに入るのか、調べたかったのだそうだ。ぐずぐずと言い訳する小さな主人の足元、右往左往するサボネアの困ったような様子がおかしくて、その後しばらくは、ふと思い出しては笑っていた。
 それっきりだ。二人の幸せそうな顔を、ゼンが眺めていられたのは。

 あの時ゼンが欲した日々は、からりと乾いた砂のように、指の隙間から零れ落ちて。
 『普通』のきょうだいはある日、この世から、忽然と消えてしまった。
 




 本部に足を運ぶこと自体、随分と久々だった。
 終業後の実務棟。凍えるような寒さだ。長い廊下は薄暗く、点々と非常灯が足元を照らす以外に、誰の気配もない。
 前に来たのはいつだったろうか。確か第五部か、四部のミッションに加えられて、派手にやらかして、百枚単位の始末書を提出した時か。あの時はさすがに、自分は首が飛んで、リューエルと無縁の人間になるのだとばかり思っていたが、どうだ。今なおこの面白みのない廊下を闊歩することを許されるのは、一体、どいつのご功労だろう?
 第七部、と札の掛かった部屋を見つけて、一旦息をついた。小窓の向こうは真っ暗だった。
 立てつけの悪い扉が音を立てて開くと、闇に沈む室内に、めら、と『炎』が沸きあがる。
 ――微か細めるゼンの瞳に、火が映り、そして輝く紅の眼光が映った。
 眩い炎は煌々と揺れ、描き出された影が揺れる。邂逅は静かだった、熱さはなかった。並ぶ机の向こうで起き上がったバクフーンは、首筋からゆるやかに赤い火炎を噴きながら、紅玉の目でゼンを見やった。
 巨体が敵意を見せなかったことに安堵して、男はへらりと片手を上げる。
「よう、アサギ。副隊長殿はご機嫌か?」
 アサギと呼ばれたバクフーンは答えない。静かな目は静かなままだ。代わりにカチリ、と音がして、デスクライトの人工的な光が赤い輝きに取って代わった。
 獣の前で机に突っ伏していた人影が、のろりと上体を起こす。顔に垂れる長い髪を耳に掛けて、眠たげでもない視線を来訪者へとやった。
「……機嫌? 『最悪』」
 言ったが、怒っている風でもない。疲れているが、別に眠そうでもない。だが笑うとささくれ立った神経をこれでもかと逆撫でるのだろうから、小さく肩を竦めるだけ、男は返した。
 実務部第七部隊副隊長、その肩書きを得てから、ミヅキはますます働き詰めの毎日だ。
 超過労働した研究員が発狂して事故を起こしてからは、深夜に及ぶ残業は禁止されているはずだ。それでも居残ろうとする偏屈者が多いから、この棟は夜になると照明関係が効かなくなる。簡易発電機の一部を担っているコイルの一つ目に見つめられながら、ゼンは不機嫌の隣へ腰掛けた。
「誰かさんがこんな適当な報告書寄越してこなけりゃ、もうちょっと良かったんだけどね?」
「そりゃあご苦労さん」
「レンジャーユニオン幹部のルカリオに話題の特殊進化が見られたってあるけど、経緯が意味不明すぎて」
 積み上げられた書類の山、手元には数枚の束。それを摘み上げ、ひらひらと邪険に扱いながら、話し相手に目を合わせもせずつらつら喋る。
「進化時に例の『石』があったのかも不明、トレーナーの所在地も不明、と。まあそこまでは良し。けど、進化のタイミングが、『ココウの駐在レンジャーにキャプチャされた直後』って何? なんで幹部級レンジャーのパートナーポケモンがド田舎の駐在レンジャーにキャプチャされるのでしょーか。そんでこの、ルカリオを下した数人のトレーナー、って、何者? 幹部様とトレーナーが野良試合? 下すって、そんな優秀なトレーナーがいる訳? ココウに? ……はあ」
 また垂れた額が、ごつ、と机に当たる。
「もうやだ、こんな報告書上げてくる人の顔が見てみたい……」
「大変だな。頭の弱い部下を持つと」
「イチジョウさんに何て報告すればいいんだろ」
 はあ、と再びの溜め息。突っ伏したまま顔を横に向け、ついと見上げてくる。
「……ココウ、かあ」
 そっと呟く。感慨深げに。焦げ茶色の深い瞳で、ゼンを射抜きながら。
 半年ぶりに会う男を視界の真ん中に置きながら、別所に情を募らせる彼女。むくむくと首をもたげる感情は、嫉妬なのだろうか、何なのだろうか。再三息をつく、薄い唇。淡く透き通る肌。近づいて見ることができるなら、彼女の静謐な美しさは、必ず網膜を焦がすだろう。
 ……肌に触れることを、許された時。どこか無念でならなかった。重ねた手が冷やかで、あの太陽が既に死んでいることを、認めざるを得なかったから。『花の骸』。硝子の内で凍てつくだけの、彼女は呼吸を忘れた花。あの時、日向に咲いて光に愛されて眩しくて、愛らしい少女は、もう、ここには。
 額を撫で、垂れかかる柔らかな黒髪を押し上げる。ミヅキは何も言わなかった、何もしなかった。ただ瞼だけ下ろして、瞳の色の移ろいを、裏へ隠した。
「ねえ」
 近づく顔を、声が制止する。見えぬ双眸を窺いながら、ゼンは黙って、デスクに転がっていたボールへ手を伸ばした。
「ねえ、ゼン」
 手探りに開閉スイッチを押しこむ。後ろに控えていたアサギが光に呑まれて消え、部屋を赤く浮かび上がらせていた炎も失せた。二人を取り囲む闇が深まる。気配でそれを知ったのか、ふ、とその表情が緩まる。人工灯のみが照らす白い頬へ、陶器を扱うように掌を添えた。
 手を、重ねられたとしても。ぬくもりを、腕の中に抱いたとしても。
 二人で居ればまるで、ただの『一人』と『一人』だった。ミヅキとゼンは、アヤノの言っていたような『幼馴染』でもなければ、まして『良い人』だってない。ただ、美しく扇情的な身体と、相反して無残に焼け爛れたその心を、なんとなく知っているだけだ。
 椅子を回して肩を押し、机に仰向けに身を預けさせても、彼女は目も開けない。すう、と長く、寝付くように息をはくだけ。唇へ覆い被さろうとした時、ねえゼン、ともう一度ミヅキは遮った。
「……トウヤは、元気にしてる?」
 一瞬だけ、ぴくりと眉根を寄せた後。さあなァ、と笑ってみせる。
 時が、身を刻むのを戸惑うのか。恍惚とするほど、冷たく静かな夜は更ける。
 影が重なり、距離が無くなる。二人の温度が、吐息が、蕩ける。手触りの良い髪を掻き撫でると、消え入りそうな音がする。
 こんなにも傍にいるのに、そこにいるのに、彼女はいつも、誘われるように孤独になる。
 心細さに目を開けた。感情の読めない、どこにあるのかも掴めない、平然と閉じられた瞼の裏。そんな行為にも、目の前の男にも興味の力を失って、ありもしない彼方を見続ける瞳。
 ああ、――あのな、お前な、そっくりなんだよ、本当に。
 そんなことを言うなら。
 また、二人で、けらけらと笑ってくれるのだろうか。





 爪が閃き、残像に空が割れた。奇声と共に砂鼠が吹っ飛んだ。
 戦っている時の相棒は、『鬼神』だ。地を駆け、宙を舞い、敵を裂き、首を噛み切る。無情な程の追撃の速さは、時折主人たる自分の理解をも易々と超える。共に戦場を踏み越えるたび、確信を深めていった。僕の相方は、強い。そして、その相方を鬼神たらしめているのは、トレーナーである自分、ただ一人。
 たまに、まだ、不思議に思う。この子は何故僕のいう事を聞いてくれるのだろうかと。けれどそんな戸惑いはいつも、このフィールドの灼熱が、瞬時に焼き切ってしまうのだ。さあ、見慣れた白い砂地、見慣れぬ白い空。薄暗いフィールド、薄ら寒い空気、客の疎らな観覧席。それらの全てが今、この世界の主人公――僕とリナの目には映らないから。臨むは、敵と、僕の相棒、それだけなのだから。

 向かいのトレーナーボックス、若い男だ。『丸くな』ってから『転がる』、彼が叫ぶ。サンドはクルリと球体になり着地の衝撃を受け流し、砂埃を巻き上げながら旋回、速度を上げて突っ込んでくる。
 正常な右耳と、溶け落ちたように萎縮した左耳。同時にピクと動いた。迎え撃つは片耳のニドリーナ――リナ、そしてトレーナーボックスに立つ、金髪碧眼の少年――ミソラ。落下防止柵に手をつき、身を乗り出す。
「避けれるよ、リナ」
 長い髪が黄金に反射する。甲高い子供の指示は、いくつかの太い野次の中でも極めて目立った。勢いよく、相手は転がってくるが。転がりながらの突進は、視界が利きにくいはずだ。ミソラもリナも冷静だった。直線的な動きのサンドをぎりぎりまで引きつけ、易々と飛んで躱して、
「噛みついて!」
 『転がる』体勢を破った敵方へ、飛び掛かり、短い腕へ鋭利な牙で『噛みつく』。悲鳴を上げるサンドへ送られた指示は『高速スピン』、身を翻し牙を引きはがし、束の間距離を取ったサンドに、休息など与えるものか。びしと指を突き出した。迫真の声は、相棒の鼓膜を確かに揺らす。
「いけっ、冷凍ビーム!」
「ッ、『穴を掘る』で回避だ」
 慌てて地中へ潜ったサンドが一瞬前まで居た場所を、冷たい熱線が光を散らして通過していく。まばらな歓声が上がった。
 刹那の膠着、息はつけぬが。刺客が姿を消した。深くまで潜れば、攻撃の直前までサンドの居場所は掴めない。いつ、どこから来るのか予測のつかない技だ。にやりと笑う敵方のトレーナーを一瞥して、ミソラもまた、口角を上げた。
 残念、お兄さん。『穴を掘る』は、お師匠様との特訓で、既に攻略済みなんです。
「リナ、真下に冷凍ビーム! 足場を作って!」
 言うが早いか、分かっていたかのように飛び上がったリナがかぱりと口を開け、地面へ向かって『冷凍ビーム』を放つ。――めきめきと青白い光が凝結し、数メートルの氷の柱が作り上げられる。その上に着地したリナは、鋭い眼差しで目下を睨んだ。サンドはまだ現れない。
 『穴を掘る』で土中に逃れられれば、地上から相手の様子は分からないが、逆に土中のポケモンにも地上の様子は窺えない。彼らが上への奇襲ポイントを定める頼りは、地下へ漏れ聞こえる僅かな音と、地表からの振動だ。それを与えさえしなければ、『穴を掘る』など、恐れるに足らず。
 冷気を嫌厭したか、随分離れた場所の地面が盛り上がり、サンドが飛び出した。即座に発動させる『マグニチュード』の揺れが氷の柱を打ち崩すが、もう遅い。
「決めるよ、冷凍ビーム!」
 高揚のままに、三度目の技名を叫ぶ。落下する氷の破片の中でリナが身を捩り、口を開く。『マグニチュード』発動から間もないためサンドは次の技をまだ打てない、上からの狙いは外れようもない。この勝負、もらった。――けれど、いつまで経っても、リナはビームを打たなかった。
 降り注ぐ『冷凍ビーム』の残骸と共にリナが着地する、トレーナーボックスを振り返り目を瞬かせる。手持ちが技を出さなかった原因に、ミソラははたと思い当たった。
 無理もない。だったら今日は、もう『おしまい』だ。
「『二度蹴り』!」
 種族名と少し似た技は、リナの持つ肉弾技の中では、一番の得手だ。再び『転がる』を繰り出すサンドと肉薄し、激突する力はより強い力が吹き飛ばす。『乱れ引っ掻き』、これが本日、最後の指示だ。足をばたつかせながら地に落ちたサンドが指の一本も動かせなくなるまで、踊るように、リナは攻撃を浴びせ続けた。





 ココウスタジアム、トレーナー控室。この辺のベンチはトウヤの寝床だったのは、もう数年前のことだ。
「あの外人のガキ、今ので八連勝だってさ」
「夏前はニドリーナが勝手に暴れるだけだったのによ、いつの間にトレーナーらしくなりやがった」
 こういう雑音を背に嘲笑いながら惰眠を貪るのも、とても懐かしい。見つめる従者の月色の瞳と虚ろな視線を交えながら、トウヤはうとうとと目を細めていた。四年か五年か前、ハリが進化するまでのことだ。呪縛霊などと呼ばれるくらい毎日出向いて仮眠をして、気が向けばバトルしたり、たまに談笑したりして。ココウスタジアムで大半を消化した彼の『青春』らしい日々は、色々悩んでいたつもりだったが、まあ呑気なものだった。
 呑気な身分ではなくなったのかと問われれば、それはまた微妙なのだけれど。あの頃と同じように気持ちよく昼寝が出来ないのは、身長だけのせいでもないのだろう。窮屈になったベンチの上で身を捩って、せめて瞼を下してみる。それで脳味噌が休まるなら、話は至って簡単なのだが。そうもいかないのが、この頃のトウヤだ。
「トウヤに指導受けてるんだってな」
「そりゃ太刀打ちできねえわ」
「もしかしたら、もう師匠より強いんじゃないか?」
 こういう、心底どうでもいい会話を、脳がいちいち聞き取ってしまう。
 十分眠いのに、芯が油断するなと痺れついて、緊張状態を維持している。うまく昼寝できない原因はそんな風に曖昧で、対策なんて打てそうもない。そもそも寝るだけなら、こんな固くて冷たい鉄のベンチに頬擦りしなくてもいいはずだ。医務室なら静かで人もいなくて、一応ベッドもあるのだし。……けれど、ここにいないといけない理由が、残念ながら『師匠』にはある。
 トレーナー控室にしかないフィールドモニター。ニドリーナの形が消えた。八戦目の終了。また積み上がる連勝記録。近頃は常に一緒に出入りしている金髪の『弟子』は、『殺しの稽古』と称したポケモン指導をとても生真面目に吸い上げて、めきめき腕を伸ばしている。
 仮眠らしからぬ仮眠の間、ハリはいつも顔の前に立ち塞がって待っていた。サボネアの頃から相変わらずだ。じっと固定されていた月色の視線が、ふいと向こうを見つめはじめる。あれ、寝てるか? と誰かが問うたので、トウヤはやっぱり寝たふりを決めた。
「あの子を見てると、こいつが来た時を思い出す、年下にボコられる屈辱……」
「そうだそうだ、グレンの時もそうだった」
「グレンなあ、最近ろくに顔見せねえじゃねえか」
「色々と忙しいんだとよ。トウヤも寝てばっかですっかりナマクラだし、いやナマケロか? ありゃ」
 顎で指された、気がする。数人の失笑が聞こえた。
「ココウスタジアムも世代交代、ってな」
「何なんだトウヤは、入場料払って寝に来てんのか」
「だーいぶ前もあった、寝てるだけの時。またハギさんと喧嘩でもしたんだろ」
 そして、小馬鹿にした笑い声。ハリが再びこちらへ目をやる。言わせておけ、と口先だけ動かした。
 僕やお前が手を下さなくとも、このくらいの連中は、あれが笑顔で黙らせるんだから。ナマクラのナマケロを踏み越え台頭する新世代の人類が、バタバタと駆け足で戻ってくる。走る必要などないのに。
「――お師匠様! 今の試合見てましたか!」
 破壊する勢いでドアを開け、黄色い音色が席巻する。一気に華やぐ空気は、声のトーンか、それとも若さか。近づいて、ひょこ、と覗きこんでくる、丸くて明るい空色の瞳。今しがた起きたフリをして、トウヤはのそりと右手を上げた。
「見てた、見てた」
「バァカ言え、お前の御師さんずっと寝てたぞー」
「もーっ、ちゃんと見ててくださいって言ったのに!」
「ああ、すまん、見てない、聞いてた。冷凍ビームが」
 途中までワッハッハと笑っていた連中が、試合の内容に触れはじめると、驚いたのかとんと口を噤んだ。
「打てなかったな。原因が分かるか」
「はい。無駄撃ちしすぎました」
 ミソラは真剣な眼差しで頷く。ポケモンの話をしている時、ミソラの目は、あまり周囲を映さなくなるのが常だった。
 技を使える回数には、限りがある。十連勝を目指すなら、威嚇射撃のような無駄玉は、主砲となる技では使うべきでなはない。あまり意識したことはなかったけれど、連戦を重ねるならこれからは考慮して戦わなくっちゃいけないです――そう説明してくれる弟子もどきに、よく勉強してると言えば、えへへと頬を緩ませた。
 この子供っぽい顔を、目に映すたびに、また脳髄がぴりぴりと痺れる。
 とろんと目尻を下げ、柔らかそうな表情を、ふにゃりと溶けさせる笑顔。褒めてやれば必ずそういう反応を示すミソラが、まるで恋にでも落ちたかのような盲目さで自分を慕ってくれていること、これをトウヤはいよいよ自覚せざるをえなかった。ポケモンとバトルとで前より話すことが増えて、一緒に過ごす時間も増えて、だからなのか、この頃はそれが輪をかけて酷い。本当は、少し突き放してやった方が、今後の為なのだろうが。
「次は、冷凍ビームは温存します。どうしても使わないといけない時だけ」
「今日はもうやらないのか。他の技でも、リナは戦えるだろ」
「戦えますけど、多分十連勝できないです。十戦目の相手は、氷タイプの技に弱いポケモンばかり連れていらっしゃるので、冷凍ビームは温存しておかないといけません」
 自信ありげに笑うミソラに、トウヤは一瞬きょとんとして、それから破顔して傍らの従者を見上げた。
「だとさ、ハリ」
「なんか、十連勝に拘ってるな?」
 横から問うてきたトレーナーに、よくぞ聞いてくれた、というような満面の笑顔で、はい! とミソラは頷いた。
「スタジアムで十連勝したら、私、お師匠様からご褒美が貰えるんです!」
 ……ご褒美? その言葉の内包する若干怪しい響きに、コンクリートの室内に困惑が染み渡る。にこにこと嬉しげなミソラとは対照的に、トウヤはわざとらしく咳払いして、居た堪れない様子で起き上がった。


「トモコと喧嘩でもしたか」
 去り際に投げられる言葉は、『ハギさんと喧嘩でもしたか』よりよっぽど効果があることに、相手は気付いているに違いない。トウヤは内心うんざりしながら振り返った。
「あんたも言いますか、それ」
 縮れたような汚い髪の、スタジアムの店主。叔母のことをトモコ、と下の名前で呼ぶのは、ココウではこの柄の悪い女番だけだ。頬杖を付きながらこちらを見ている、よほど暇なのだろう。選手登録用の台帳に書かれた『はぎ みそら』という名前を示され、お前より先に親子になっちまったな、と嫌味を吐かれたばかりだった。
「喧嘩なんか出来るように見えます? 僕ももう良い歳だ」
「穀潰しがよく言うぜ」
「穀潰しに貴重な小遣い稼ぎを提供してくださって、どうもありがとうございます」
 踵を返しながらそう言うトウヤの横で、ハリがぺこりと頭を下げる。何してるんだ、と笑って、立ち去ろうとする曲がり気味の背中を、やはり大した興味もなさそうに、女は眺め続けた。それからぽつりと言った。
「じゃあ、あれか?」
 渋々立ち止まり、視線だけ寄越す。それから、女の太い顎がクイと示した方向へ、目をやった。
 玄関口でも薄暗いこの場所に、日向のような明るさを、その子は無意識にもたらせる。
 座り込むと汚い床に垂れかかる、美しい金糸の髪。陰鬱で下賤なココウスタジアムには不釣り合いだと、人形のように整った顔を見るたびに思う。か細い腕も、脚も、薄い皮膚も、日に焼けない白い肌も。『死閃』の爆心で見たバンギラスの死骸へ『花を植えます』と言った子供の、触れがたいほど清らかな無垢さは、未だ褪せないように見えた。受け取った賞金をリナに見せながら、いち、に、と数えるしたたかさも、認めてはいる、つもりだが。
「ええ。嫌なんですよ。こんなむさ苦しい所に連れてくるの」
「そんな事ぁ聞いてない」
「じゃあ何を。僕の愛弟子が、どうかしましたか」
 飄々を繕って問い返すと、ハア、と短く呆れの息を、女は寄越した。
 視界の端で紙幣を土色の鞄にしまい込んだミソラが、すん、と息を吸って立ち上がる。妙な匂いと、音を察知して、ふらふらと誘われるように玄関の方へ歩き出した。リナがちょこちょことついていく。一人と一匹が覗く外の世界は、白く煙っていて、しかし、ここよりはうんと眩しい。
「……また家で眠れなくなってる。お前がここで昼寝ばかりするのは、そういう事だろうが」
「お師匠様! 大変です!」
 振り返り、目を見開いたミソラが叫ぶ。隙を見たリナが光の方へ駆け出して、あっ、とミソラも顔を向け、一瞬躊躇してから、外へ飛び出した。ばしゃばしゃと、この地では耳慣れない足音が、聞こえる。……ハリがのそのそと歩いていくので、トウヤも女店主へひらりと手を振って、今度こそ背を向けた。
「大したことじゃあない。僕の『わがまま』なんですから」


「――雨だーっ!」
 泥んこのリナと共に、両手を広げて躍り出しそうなミソラの首根っこを?まえて、買ったばかりの傘を持たせた。ここぞとばかりに沸いてきた行商に売りつけられたボッタクリ傘のもう一本を差して、ようやく一息だ。ぼぼぼぼ、と頭上を打つ音の粒たちへ耳を向けると、また季節が巡ってしまうな、と少し気持ちが滅入る。子供は相変わらずキャッキャと跳ね回っている。ただの棒のままの、真っ赤な傘をステッキにして。
 まさか傘の差し方を知らないとは思わなかったトウヤが、ばさ、とそれを開くと、ミソラは輝いている目を更に爛々ときらめかせた。
「濡れると寒いから」
「最先端マシーンですねっ」
「雨は知ってるのに、傘は知らないのか」
「あはは、すごい、面白い音。 リナ、見て! キレイ! 冷たい!」
 くるくる振り回し、見よう見まねで閉じたり開いたりして、水滴が飛ぶのが面白いらしくてけらけらと笑って、いえーい、と飛び跳ねるように走っていく。あまり見たことのないはしゃぎようが年相応の子供らしく見えて、『閉じたり開いたり』の波状攻撃で結構被害を被ったことは、とりあえず許してやることにした。
 草タイプの癖に水は好かないハリをボールに戻して、ホルダーの一つ目に引っ掛けて。それだけの動作の間に、ミソラ達は随分遠くまで行ってしまっていた。
 雨独特の深い匂いと、叩かれた埃がまだもうもうと煙立っている。大通りは、普段以上にてんやわんやだ。路地の至る所で、店頭の商品や洗濯物を慌ててしまい込む人。雨水を溜めようと種々様々の容器を持ち出してくる人。軒先で身を寄せ合って雨宿りする人、雨宿りできる場所を探して飛んだり駆けたりする野良ポケモン。不安げに灰色の空模様を見上げる汚れた身なりの子供たち。……よそ見をしていると、ぼすん、と腹に何かがぶつかって、謝りかけたけれど、それはミソラだった。
「どうした」
 赤い傘の端が肩に当たって、冷たい雫が滲みてくるのを、黙ってどかす。見上げてくるミソラの鼻先は、早速赤くなっていた。
「寒いです……」
「言わんこっちゃない、阿呆」
「思ったんですけど、あの、タケヒロ」
 ぐず、と鼻をすすりながら、上目遣いの『晴れ色』の瞳が、なんとなく潤んで見えるのは、雨のせいだろうか、そうなのだろうか。
「絶対、寒いですよね。タケヒロの秘密基地、あんまり屋根ないし……いっつも薄着だし……」
「あー……これからの季節は寒いだろうな、でも」
「タケヒロ、可哀想」
 ミソラが俯くし、それを見下ろした先で目を合わせたリナが『ご主人を泣かすな』というきつい眼光をしているしで、でも浮浪児のタケヒロには毎年のことだ、という言葉は呑みこまざるを得なかった。
「……」
「あ、そうだ。今晩だけ、うちに泊まってもらう、っていうのはどうですか?」
 ぱっと顔を上げたミソラの目は、また輝きを増しているし。
「いいですよね、楽しそう!」
「おばさんに迷惑が」
「一日くらいなら、おばさんも、絶対良いって言ってくれると思います」
「いや、でも」
「タケヒロを見捨てられないです!」
 閉口。相手が黙ったのを都合よく了承と捉えて、またミソラは喜色満面だ。
「そうと決まれば、早く迎えに行きましょう!」


「――行かねえ。絶ッ対、行かねえ」
 頑なに口を曲げ、目を合わそうともしないタケヒロの顔を覗きこんで、えーっ、とミソラは不満げな声を上げた。
 大粒の雨は、どんどん激しさを増しているようだった。潰れた廃屋の元屋根の下を利用した捨て子タケヒロの『第二秘密基地』は、ココウに五つある彼の秘密基地の中で、最も雨風を凌げる場所だ。宝箱や隠したおやつやピエロ道具がある、タケヒロの本拠地、あるいは『家』とも言える。やはりそこに潜んでいた友人へミソラは傘を差し向けるのだが、当の本人は、暗がりの奥へ逃げ込むポチエナのように、ミソラを半ば威嚇してやまない。
「早く帰れよ、うっせーな」
「どうして? 寒いし、薄着だし、屋根もないでしょ?」
「馬鹿にすんな、屋根あるだろ、ホラ!」
 ばんばん、と彼が叩く頭上は、地面から一メートル未満。地面から流れる雨水は、もうタケヒロの足元のあたりまで浸食している。カンテラの心許ない火が揺れるだけの基地内は、やはり寒そうだし、彼自身もボロボロでかび臭い毛布を纏ってカタカタ震えているではないか。
「うち、あったかいよ?」
「あのな、俺は去年も一昨年も、一人で冬を乗り切ってんだぞ。もっと寒いんだ冬は。こんくらいで寒がってたら、死んじまうっつーの」
「タケヒロ、死んじゃうの……?」
「死なねえっつってんだよ、バカミソ、とっとと帰れ、っ、えっくち!」
 可愛いくしゃみをして、体を抱いてぷるぷるして、しかも鼻水も出ている。それでも気丈に睨みを効かせてくるので、とうとうミソラは諦めて、大きく溜め息をついた。
「やっぱり、お師匠様がいるから、嫌なんだよね」
 ……後ろで待っているトウヤが、僕は今晩どこに追い出されるのだろうか、と考え始めたあたりで、ぎし、と何か軋む音。
「ちげーよ」ぎし。
「じゃあ、アズサさんの家に行くのは」ぎしぎし。
「アズサいねーじゃねーか!」ぎしぎしぎし。
 腹からの悲痛な叫び声に紛れて、おい、危ないぞ、というトウヤの小さい声は届かなかった。けれど届く間もなく、タケヒロの、背後の天井から、薄暗い基地へ急に光が差し込んだ。そして、どばーと雨水が流れ込んだ。
 崩れた。自称屋根が。カンテラの火がジュッと言って消えた。後ろを振り向き、物凄い形相で前へ振り返り、ウワアアと悲鳴を上げながら秘密基地から主が這い出た途端に、グシャグシャッ、と言って、また崩れた。全てが崩れた。屋根が潰れ、カンテラも宝箱もおやつもピエロ道具も潰れた。あっけなく。そして全部が、下敷きになった。
 ……ざあざあと降りしきる雨、ぼぼぼぼ、と傘を鳴らす雨に打たれながら、ぺたんこになったタケヒロの第二秘密基地、本拠地――あるいは家を、三人は突っ立って眺めていた。
「……」
「タケヒロ……」
「……」
「う、うちに……」
「行かねえ」
「でも……他に屋根のある秘密基地なんか……」
「行かねえ」
「死んじゃうよ……?」
「死なねえ、っくちゅ!」
 タケヒロは振り返った。鼻水が出ていた。鼻の頭は真っ赤だった。それが何故なのか、心当たりは二つあったが、どっちなのかは誰にも知れない。
「行かねえっつってんだろ! 居候なんてカッコ悪ぃ真似、俺はしねぇ! 俺は孤高のピエロだ、捨て子の中の捨て子なんだよ! ミソラがポケモンポケモンであんまり遊んでくれねえからって別に拗ねてねえし、アズサがユニオンから帰ってこないからって全然拗ねてねえし、一人じゃねえしツーとイズがいるし、秘密基地だって五個もあるし一個くらい全然平気だし、もう寂しくなんかねっ、ぶしっ、うっ、えくちゅん!」
「タケヒロ、あの僕」
 ミソラが何か言うのを制して、トウヤがずかずかと近寄って、急にタケヒロの胸倉を掴み上げた。
「何す――ッ!?」
 そして開いた胸倉の中へ、問答無用で、自分の傘の柄を突っ込んだ。
「――つめてぇッ!」
 首元から傘を生やして、柄の金属がひやっと胸を伝うのにもんどりうっているタケヒロを、ざあざあ雨に打たれながらトウヤは黙って見下ろした。そして踵を返して、降りしきる大雨の中を、大股でずんずん歩いていった。お師匠様、濡れたら寒いですよ、というミソラの制止も虚しく、そのまま見えなくなってしまった。
 残されたミソラはおろおろと友人の顔を覗きこむ。貰った傘を胸元から引っ張り出して、それを差しながら、タケヒロはもう一度『元秘密基地』を見た。
 何度見たって、ぺたんこだった。雨に打たれていた。もう、雨宿りする屋根はなかった。
「……」
「……行く?」
 ざあざあ。ざあざあ。雨音だけが返事をする。
 ミソラの足元をうろついていたリナが、ちゅん、とくしゃみをするまで、いつもの彼からは想像もつかないような途方に暮れた表情で、タケヒロはそれを見下ろしていた。







 
 
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