12

 扉の先は、酷い雨だった。
 一粒一粒が悪意を持ったような大粒の雨が叩きつけている。傘も持たずに歩き出せば、たちまちに服は色を変える。寒い。無限に連なる雨音。重く氾濫する匂い。脳が満たされ、侵されて、他の感覚が奪われていく。じきに躊躇いも掻き消えて、身の軸として打ち込まれた、硬直な意志だけが残される。泥濘になったフィールドをぐしゃりぐしゃりと踏みしめる、痛いほど突き刺さる雨、跳ね返る中、薄墨を流した、虚ろな世界で。神経は麻痺して、どこからが自分でどこからがそうでないのか、いよいよ朧に感じられる。
 その灰色の真ん中で、子供は座り込んで、小さな獣を抱きしめている。
 立ち止まる。束になった前髪から、ぼたぼたと雨水が流れ落ちる。
 声を掛けなくても、ミソラは顔を上げた。錆びついた人形のように、ぎこちなく、トウヤを見上げた。伏せた睫毛が、雫を纏って、また落ちる。鼻筋を伝った雨水が、唇の微かな隙間から、内側に流れ込んでいく。
 じわりと、瞼が押し上がる。
 美しく澄んだ青い空が、そこにきらめいている。
「……おししょうさま、」
 トウヤを視認し、たどたどしく呟いたミソラは、どこか恍惚とするようだった。
 リナの頭を一度撫で、よろりと立ち上がる。指先は真っ赤で、なのに恐ろしく青白い顔をして、切れば本当に血が出るのか、それさえ疑わしく見えてくる。ふわりと軽やかな金糸の髪は、今はただただ重力に倣い、底へ向かって、すとんと落ちて、若しくは身体に貼り付いている。顔に這う前髪が、視界を遮っている。それを気にする様子も無い。
 トウヤは少し距離を取り、黙ってボールを一つ、手に取った。それを手のひらで遊ばせてから、開閉スイッチを押した。
 光を蹴破って現れた足が、威勢よく大地を掴んだ時、ミソラの顔つきが一変した。
「ハリを」
 主を映す小兎の赤い目が。
 鼻を鳴らした青い竜へ、無表情に振り返る。
「出してください」
 責めるような、怯えるような、嘆願するような、声だった。
 トウヤは腕を下して、握る二つ目の空のボールから、決して手を離さなかった。
「いいんですか、まして雨ですよ。勝っちゃいますよ、私」
 リナが姿勢を下げ唸る。ハヤテがぬかるんだ地面を蹴る。
 声を震わせながら笑い混じりにミソラは言った。トウヤは何もしなかった。何も言わなかった。表情さえ変えなかった。
 風が唸っている。とめどない大雨がバリバリと音を立てて爆ぜる。まるで雨の中に、取り残されたかのように、彼ら以外を排斥する。
 微か、空色の湖面が、憎々しく歪んだ。溜まった水を目の淵へと押し出した。
「――冷凍ビーム!」
 高らかな声を皮切りに、二体が同時に動いた。
 至近距離の『冷凍ビーム』は真っ直ぐ虚空を突き抜けた。地中へ飛び込んだハヤテを見、ミソラはリナと目を合わせ首肯、口を地に向け放つ『冷凍ビーム』、形成した氷柱の上へトンと降り立ち、周囲を鋭く警戒する。『穴を掘る』への対処として二人が獲得した技。その稽古に付き合ったのはトウヤだった。
 トウヤは黙っていた。黙ったまま、右手の中の空の紅白球を、不規則に爪で弾いた。
 柱から十メートルも離れた位置で地面が盛り上がり飛び出す若竜、すぐに放たれた『竜の怒り』はリナではなく、その足場へ突き刺さった。崩れ落ちる氷から跳ねたリナは『冷凍ビーム』で牽制し、ハヤテはそれを容易く躱した。吠える。地を蹴る。弾丸のように飛び上がる。ミソラの指示は追いつかず、技を空撃ちした後の宙で為す術無いリナの体躯へ、『ドラゴンクロー』が叩き込まれた。
 聞いたこともない潰れた声がした。地面へ斜めに打ち込まれた小兎はゴロゴロと横転し起き上がったが体勢を崩した。足を滑らせた。距離を取るようにミソラが声を上げた。間髪入れずボールを爪弾くトウヤの無言の『指示』に、ハヤテは即座に反応した。疾風の如く飛び掛かる。壁際へ追い込んでいく。「右に――」逃げて、とミソラは叫ぼうとした。左の集音能力を欠いているリナは左が狙われやすいと、トウヤが言っていたことを、トウヤがそちらを狙ってくることを、ミソラは信じているはずだった。
 指示通り同時にリナの右手へ踏み入ったハヤテの射程範囲へ、リナが飛び込んできた。
 リナは機敏に懐へ入ろうとした。その懐を庇って、既に片腕が構えられていた。
 獰猛な顎の下へ、続けて脇腹へ、『ダブルチョップ』が決まる。卒倒しかけたリナの背中へ、二度目の『ドラゴンクロー』が、綺麗に突き刺さった。決定的だった。
 どしゃりと、足元へ転がってきた、ボロ雑巾になった相棒の姿を映した瞬間。
 子供は崩れ落ちていた。
 空を向いていた。
 泣き叫んでいた。
 ……激しい雨が叩きつける、ココウスタジアムの真ん中で。死に物狂いに咆哮する、苛烈な炎の慟哭は、人も己も、滅茶苦茶に引き裂く、刃を持たぬ凶器だった。断末魔か、そうでないなら、まるで産声を思わせた。ひどく長い一瞬だった。永遠のような刹那だった。浅く息をするリナへ、ハヤテが駆ける。その頬を静かに舐めて、トウヤへ顔を向ける。泣き出しそうな顔を向ける。トウヤは歩み寄って、ハヤテの頭を撫で、それをボールへ戻す。しゃがみこみ、横たわるリナの腹を労るように触れると、そのまま、泥濘に膝をつく。
 そうして泣きじゃくるミソラの頭を、自分の胸へ、強く抱え込んだ。
「ごめんな」
 掠れた声が、聞こえたのかは、知れなかった。ただ腕の中で、必死に自分へしがみついて、大声で泣くミソラの叫びが、身体中を震わせた。共鳴していた。叫んでいるのが、ミソラなのか、自分自身だったのか、だんだん分からなくなっていった。
 小さな頭だった。頼りない背中だった。冷たく凍えた、あまりにも弱い生き物だった。こんなものと、二人きりで、真っ暗な冬の砂漠の中へ、踏み出していくのだと思った。
 心許なさに、目を閉じる。そして胸の奥底に、誰にも届かない罪滅ぼしを、浮かべる。
 僕を倒せるように、お前を鍛えてやるから。
 だから。お前の、勝ちだよ。ミソラ。





 かんと冴え渡る太陽の下、砂埃が立っている。
 防塵ゴーグルに抑えられた黒髪が暴れる。細い脚が跨る肉体は完璧に鍛え上げられており、毛皮の下で躍動する筋肉は凡そ美術品の如く荘厳であろう。波打つように獣が躍動する。女はその背を、鞍も付けずに乗りこなしている。苦戦している様子はない。ゴーグルを掛けてもまだ分かる凛と整った顔つきには、不敵な笑みさえ浮かんでいる。
 美しい。彼女の戦っている様は、他の誰よりも美しい。
 アサギは寡黙な獣だ。無駄に咆哮も唸りもしない。バクフーンらしい荒々しさから繰り出される動きは、しかし息遣いも感じられぬほど精巧だ。一コンマ七メートルの巨体が繊細な挙動で肉薄し、背後を取る。振り下ろされた巨大な爪をひらりと躱す。多少の牽制など、鋭利な眼を微動だにさせない。陽炎が上がる。首元から噴き出した赤と黄色の輝きは女をも鮮烈に飲み込んでいく。女は熱さを感じていない。笑っている。実に楽しげに笑いながら、敵方へ向けて指を立てる。
 その開かれた唇に曰く。

「ファイヤぁーッ!」

 ――……黄色い声に隣が失笑する。フィールドスコープを覗き込んだまま、対してゼンは胸を高鳴らせていた。
 砂丘の谷間、白い岩肌の横で、ドラピオンが火達磨になって踊っている。蛇腹状の関節がうぞうぞと不整合に蠢くのを気味悪がっている隊員もいるが、アヤノが呆れて笑ったのはその点ではなかろう。彼女の掛け声があまりにも分不相応だからである。仮にもリューエル実務部小部隊副隊長の座についておいて、そんな可笑しな指示の出し方をする者は、さすがに二人といない。いてたまるか。
 ポケモンバトルが好きだ。それをさせている人々も好きだ。特に彼女の戦う姿が、ゼンは大好きだ。だからそれに水を差すような笑い方をする人のことを、少しは疎ましく思う。だが同時に、やはりあの掛け声は、いくらなんでも子供じみているとも思う。
「ミヅキは変わりましたね」
 それで一言漏らしたゼンを、アヤノが覗き込んだ。
「変わった?」
「雰囲気が明るくなったと言うか。昔は控えめで可愛らしかったのに」
「アッハッハ、昔っていつだい? 随分前だろう。まあ否定はしないが、俺は今のミヅキが好きさ」
 なあ、と問われたその隣のイチジョウが、腕を組んだまま鼻を鳴らす。
 部隊長のイチジョウは、顔に歴戦の傷跡を這わせ、泣く子も黙る強面に無愛想を上塗りしたような男だ。けれどその表情は、ミヅキの話になると少しだけ豊かになる。ゼンはそれをこっそり気に入っている。堅物のイチジョウと奔放のミヅキは、絶妙な凹凸で噛みあっていた。互いの欠点を補い合っている、と言うべきだろうか。
 部下や同僚に気に入られていて、上司に認められていて。皆それなりにミヅキが好きで、彼女はここで生き生きとしている。嫌々部隊に交えられたゼンだが、結果それを知ることが出来た。昔馴染みとしては数少ない収穫であった。
「もう少し女らしければな」
 イチジョウの低い呟きに、心の中だけで同意する。
「俺が十代半ばで再会した時には、残念ながら既にじゃじゃ馬と化してましたね」
「ああ……あの一件の後だろうね。彼女が賑やかになったのは。正直最初は痛々しかったよ、まるで埋め合わせをしてるみたいで」
「埋め合わせ、ですか」
 ゼンが目をくれる先で、バクフーンが更に火を噴く。アヤノの眼鏡はそれを煌々と反射して、光の裏に、双眸は隠されていた。 
「逆に、トウヤはびっくりするほど大人しくてなっていてね。前にココウで会ったんだが……」
「――こ、コラ! 『噴火』を使うんじゃない! 昨日の二の舞をするつもりかッ」
 突然血相を変えて叫んだイチジョウが、ゼブライカに飛び乗り駆けていく。アヤノは笑っている。ドラピオンは怒り狂っている。それを対峙して豪奢な笑い声を立てるミヅキに、楽しそうだなと、ゼンも小さく苦笑する。
 彼女の笑顔を見ていると、頭を過ぎることがある。
 『あの一件』。そう呼ばれた事故の話を、ミヅキは殆んどゼンに聞かせたことがない。
 第七部隊で働いている時、彼女は随分幸せそうに見える。幸せそうな女だと、皆思っているだろう。けれど彼女の不幸そうな顔など、誰か見たことがあるのだろうか。ミヅキはそれを人に見せない。硝子の中に閉じ込めて、氷漬けにして隠している。ならば、彼女の今の幸せが、それが心の底からそうなのか、それとも全くの『偽物』なのか、誰が断定できようか。
 きらきらとした、日向に咲いた花だった頃のミヅキを、ゼンは知っている。弟と手を繋いで笑っていた無邪気な顔を知っている。だから、彼女の無邪気そうなあの笑顔が、本当の無邪気ではないことに、ゼンは気付いている。
 ……埋め合わせをしたのであれば、何故なのだろうか。
 今のミヅキは『誰』なのだろうか。
 花は咲いている。咲いたまんまで、止まっている。
「トウヤと会わせてみたらどうですか」
 ゼンの呟きに、やや驚いた様子でアヤノは顔を向けた。
「ミヅキをか?」
「あいつ、まだポケモンを持ってないんでしょう。親の形見と、科学部からのレンタルばかりで」
「一方で、トウヤはとても良いポケモンを連れていたね。ちょっとだけ話もしたんだが、ブリーディングの勉強は相当しているようだったぞ」
 意図的に話題を逸らされた。柔らかい笑みの裏には、穏やかでない色彩が存在した。
「ブリーディングというと?」
「丁度僕みたいな愛好家だよ、ハハ。うちは旧世代の、ポケモンを兵器のように扱う人間がまだまだ多い。トウヤみたいな人材が、うちにも必要だと思うんだがね」
「なんならスカウトしますか」
「ええ? いや、まあ、そうだな」
 饒舌なアヤノが言葉を濁す。困らせた。いくらか言い淀んでから、まあ、と彼はひと継ぎして、
「ミヅキは……、許さないだろうね」
 そう言った。よっこらせと立ち上がり、尻を叩き、背後のポニータの鼻先を撫でた。
 逆光に黒く映る男の顔を見上げながら、ゼンは目を細めていた。
「十年以上前のことだ。時は解決しませんか」
「どうだかね。でも無理には会わせられない。どっちにしろ、二人とも、もういい歳の大人だ。我々が手を出す事じゃあないだろう?」
 眩い光が頬を叩き、二人揃って顔を向ける。
 白の砂地に、爽やかな青のコントラスト。中ランクの効力を示すカラーリングのボールが、砂漠に力無く落下する。開閉スイッチを点滅させ、ぴこぴこと機械音を立て揺れている。気付けばあの紫の怪物の姿はどこにもなかった。アサギの背から飛び降りたミヅキが、勝利を確信したブイサインをイチジョウに見せびらかしていた。
「もう確保か! さすがに手際が良い。中身は熟練のオッサンだと言われているんだ」
 ポニータの鞍に計測器の類いを手早く固定して、アヤノは歩き出した。座ったままのゼンに、ひらひらと手だけ振った。
「何を企んでいるのか知らないが、ゼンくん。彼女は君の手に負える相手ではないよ」
 ぶるると鼻息を立てるポニータの尻を押して、アヤノが立ち去っていく。
 呆れた。聞こえないように溜め息を零してから、ゼンはうんざりと頬杖をついた。
 どっちもまだガキだろが。そう小さく吐き捨てる。いい歳の大人? 大人が『ファイヤぁー』だなんて言うものか。
 ……自己にも他者にも関心がない。そうやって生きていくはずだった。だが、この二人の人生だけは、どうしても、踏み込んでやりたい。どうにかしてやりたい。そうでなければ気が済まないところまで、もう関わってきてしまったのだ。
 ああ、なんと厄介な。本当に厄介なことになった。
 ふと振り返ると、そこで膝を抱えて座っている、放浪の少年を目に入れた。
「ミヅキのことが気になってるみたいだな?」
 八つ当たり半ば、茶化し半ばだった。ぼんやり彼女を映していた目が、跳ねるようにゼンに向いた。
 『何か隠しているような素振りが気になる』、近場の町まで彼を保護することにした第七部隊の総意だった。この歳で、軽装で弱いポケモンだけ連れていて、フラフラ放浪しているなんて、どう見たって訳アリだ。だがゼンにしてみれば、そうだろうがどうでもいい。訳アリなら自分もそうだ。明日別れる人間ならば、何者だろうが構いはしない。旅の醍醐味の一つは、そういう人間との一期一会の遭遇でもある。
 憂い顔の少年の『明日別れる人間』に、自分がなれればと思っていた。明日別れる人間なら、気負わずになんだって話せる。不安なら話してスッキリすればいいという、年長者なり、流浪の先輩なりの、ささやかな気遣いにすぎなかったのだ。……エトと名乗った彼の困惑が、ゼンの顔を見て、少し解れる。それからまたミヅキへと視線を移して、ぼそぼそと呟いた。
「気になってるって言うか。知り合いに似てるな、って思ってたんですけど……よく見たら、俺の姉にも似てるんです」
 へえ、ホームシックってやつか、とゼンは笑って見せる。
 けれど、『明日別れる』はずの彼の言葉の、どこかに引っかかった。それが何故なのか、まだゼンには分からなかった。






 
 
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