11

 リナは調子を崩していた。
 トレーナーボックスへ続く廊下で、ボールに戻そうとした時だ。開閉スイッチに指を掛けた腕を、ミソラはおろした。試合前には、リナは決まって高揚する。獰猛な目を、いつも爛々と輝かせる。なのに。薄暗い廊下。たったひとりの相棒は、今、耳を萎びさせ、鼻先を床へ向けて、じっと立ち竦んでいる。
 ミソラはただ見下ろして、リナ、と問う。
 そろと顔が、上がる。上目遣いの赤い目が、おそるおそると、主を見る。視線が揺れる。怯えている。バトルするのを、拒んでいる。リナ。名を呼んだ。リナ。もう一度、呼ぶ、己の声が、それと分からないほど無機質で、冷やかだった。氷でもない、金属でもない、尖った石のようだった。周囲の景色の冷たさを、すっかり吸い込んでしまっていた。
 確かに先の試合で、一度急所を取られた。だが支障があるほど傷つけられたとは思えない。現にこの小兎はついさっきまで、食い過ぎというほど昼飯を食らっていたではないか。
 ミソラは溜め息を吐いていた。こういう溜め息をトウヤに吐かれて、何度か嫌な思いをしたのに。
 リナは人の気持ちを敏感に感じる子だ。そう言われたことがある。だとして、なら今リナは何を感じて、竦んでしまっているのだろう。僕はどうしたらいいのだろう。あのとき他に、何を言われのだったろうか。記憶を辿っていくと、ある夏の日に辿り着く。ハシリイのお祭りの前の日の、人気のない公園。はあちゃんとマリルリ姿のメグミが、ぐるぐると追いかけっこをしている。きらきら弾ける日差しの下で、ミソラはひどくしょげている。しょげているミソラを励まそうと、トウヤは隣で、空回りしている。メグミの話をする。リナの話をする。それを諦めて、静かになる。
 身体に染み込んでいた言葉が、音になって甦る。
『昨日みたいな連中がまた来て、お前の本当の親だと言って、連れて帰ろうとしても、』
 思い出した。見知らぬ人に手を引かれて、知らない言葉で捲し立てられて、連れていかれそうになった。それでミソラはしょげていたのだ。
『もしお前がうちに……おばさんのところに、いたいなら』
『僕が、追い返すから。だから』
 だから、元気を出せと。
 彼が言う。不安げな顔でこちらを見る。
 追憶する、笑いながら泣き出した自分の姿を、ミソラは首を傾げて眺めている。
 あのとき、とても嬉しかった。泣くほど幸福な思いがした。ほっと心の芯が温くて、確かに救われるようだった。今、夜の海みたいな、枯れ果てた砂漠みたいな、しんと動かない自分の心に、ミソラは気付いた。何も思わなかった。蘇った声は、身体の管の内側を、通り抜けていくだけだった。ああ、僕の胸には、ぽっかり穴が空いている。からっぽだ。全部零れた。もうなにも入っていない。
 だから困惑しているリナを、厄介だなんて、思っている。
「馬鹿だよね。タケヒロさ。あんなこと言って」
 呟く。抑揚がない。声に力がない。込める力がどこにもない。
「僕たちに、勝てる訳ないよね。余裕でしょ、ねえ、リナ」
 違う。しゃがみこんで、抱き寄せたほうがいい。大丈夫だと嘘でも伝えたほうがいい。理解しているのに、それができない。だって大丈夫なんかじゃない。心はとっくに八つ裂きにされて、もうばらばらになっている。
 自分がそうなっていることに、リナがこうでなければ、気付かなくてよかったのだ。
「リナはさ、今までさ、ずっと知らん顔だったじゃない。戦うの、好きでしょ。好きなように、戦ってたでしょ。ねえ、いいんだよ。それだけでいいんだよ。……なのにさあ……」
 こんなことを言ってはいけない。分かっている。でも止まらなかった。胸の破れた部分から、涙の代わりに、震えながら声が漏れた。
「なのに、なんで、今になって、いまさら、そんな風にするの?」
 ひくりとリナの右耳が揺れる。
 僕はなんと身勝手で、わるい主人なのだろう。
 戦ってよ。倒そう、リナ。振り絞る声が、遠い歓声に、呑まれる。小さく頷いた相棒へ、ミソラはまっすぐにボールを向けた。


 試合開始直後、雨が降りはじめた。
 はじめは霧のような小雨だった。そして静かな試合だった。二羽のポッポの羽撃きと、ニドリーナが地面を蹴る音、それ以外にはほぼ無音だと言ってもいい。悪天候に退屈な試合運びが重なれば、フィールドを見守るのはいつしか身内だけになっていた。試合を中断させようとした審判も、トレーナー達が聞く耳を持たないと分かると、すぐに諦めて踵を返した。
 トウヤはグレンとアズサと、ハリと共に、階段前まで退避して、屋根の下から試合を見ていた。
 小雨だとしても、濡れれば冷える。冷えれば体力を奪われる。特に寒さを苦手とするのはポッポ達で、両翼が湿ればスピードは鈍るだろうが、リナにとっても雨は十分ストレスになり得る。現に、ぬかるんだ地面に何度も足を取られている。だが、リナの動きが妙に悪い原因は、どうもそれだけとは思えなかった。
 タケヒロが指示を出せないのは分かる。まともな戦闘経験は皆無、『吹き飛ばし』以外の技名を知っているのかどうかも怪しい。
 しかし、ミソラは――ミソラは何故、俯いて足元を睨んだまま、指示を出そうとしないのだろう。
「二対一なら勝機もあるかと思ったが、こりゃあ……」
 壁に寄り掛かって煙草を取り出したグレンが、呆れと戸惑いを綯交ぜにして呟く。
 彼の濁した言葉が何を含んでいるのか、トウヤには理解が及ばなかった。考えることができなかった。頭が動かない。さっきまで浮ついていたせいかもしれない。そうだと思いたい。動揺してなどいない。ミソラが何故黙り込んでいるのか、知りたいだけ。結論を出したいだけ。しかし硬直した思考は、錆を軋ませて回り出したかと思えば、意図しない方向へ、勝手にトウヤを連れていく。
 ――もし、『ミソラが負ければ』、一体何が起こるのだろう?
 軽く頭を振った。あり得ない想定だった。けれど一度過ぎった可能性は、しつこく脳裏にしがみついていた。
「一本くれ」
 そいつを排除する為に、隣の男へ手を差し出す。背後で観戦していたハリが、ふらりと歩き始める。
「ん? 珍しいな」
「美味いだろ、雨の日って」
「おお、いつの間に分かるようになったんだ?」
 笑いながら寄越される白い筒を、怪訝とした表情で、アズサは見つめている。
 紫煙が立ちのぼる。煙は外へ流されていく。無言で雨の中へ踏み出していくノクタスを横目に、一息目を深く吸い込む。忌まわしい匂いを身の内に入れれば、何故かすっとして、幾らか視界が晴れてくる。
 ポッポの一羽が気流を放つ。『吹き飛ば』されたリナが、着地し損ね、溜まり始めた雨水を撒き散らしながら地面を滑る。雨脚は段々と強くなる。タケヒロはトレーナーボックスの鉄柵にしがみつき口をはくはくとさせている。ミソラはまだ、俯いている。
 ……何故指示を出さないのか。例えば、ミソラが『戦意を失っている』とすれば。試合に『負けようとしている』とすれば、一体、それは何故?
 自ら雨の中へ戻っていく被り傘の頭を煙草で指し、あれは何だとグレンが問うた。
「ハリは雨が好きなのか」
「煙草が嫌いなんだ」
「酒場なんかいつも誰かが吸っとるだろうに」
「最近分かったんだが、嫌うのはこの銘柄だけなんだよ。お前が吸ってる奴だ。ココウじゃ他に見ない」
「銘柄の違いなんかもっと分からんだろうが、お前」
 煙草じゃなくて俺が嫌いなんじゃないか、と見慣れない自虐的な調子でグレンが苦笑する、その顔を、カッと閃光が照らした。
 稲妻が走る。均衡を保っていたフィールドが、鋭い光に引き裂かれる。
 同時に響いた雷鳴が掻き消したから、父さんが吸ってたのと同じなんだよ、とトウヤが呟いたのを、誰も聞き取れなかっただろう。
 弾丸の如き鳥影が飛び立つ。二つだ。『十万ボルト』を免れた二羽が交錯し翻り、同時に翼で空を打った。二羽分の『吹き飛ばし』が雨粒を巻き込んで襲い掛かる。踏ん張ろうとした後肢が滑る。小兎がぐるぐると宙を舞う。無抵抗に壁へ打ち付けられる。攻撃技でなくとも、少しずつ体力を奪っていく。
 自サイド側へ叩き込まれた手持ちを、ミソラは覗き込みこそしたが、あの甲高い声はやはり聞こえなかった。
「タケヒロくんのポケモン、思ってたより動きが良いわね」
 アズサの言葉に、グレンが頷く。
「何かしたのか」
 トウヤが小さく問うた。グレンは何を聞かれたのか即座に理解していた。首を横に振ってから、皮肉めいた笑みを浮かべて、すぐにフィールドへ顔を戻した。
「どうした? ミソラが殺すのをやめたら、トウヤは都合が悪いか」
 投げ返されるグレンの声は、雨のせいだろうか、どこか冷めている。
 今度はアズサが目を丸めてこちらを向く。向いてから、更に表情を強張らせる。自分が険しい顔をしていることに、もうトウヤも気付いていた。
 雑念が膨らんでいく。蛇のような形を成して、四肢に絡みついていく。タケヒロになどミソラは負けない。負けるはずがない。けれど仮にミソラが負ければ、何が起こる。何が変わる。誰かを殺さなければ、そうでなければ生きられないと言うあいつが、こんなことで止まれるか。いや、止まったとすれば。タケヒロに負けたから、あれは無しにしましたと、もしミソラが言うなら。何が起こる。一体何が変わる? ――ちりちりと線香花火が焦れるように、胸の奥に光が散って、先程の言葉が蘇る。なんならお前も来るか。だから、俺の遠征に――そうだとして。一体、何が、変わるのだろう。
 リナは。勝つだろう。グレンが何をしようが、ミソラが何をすまいが、タケヒロが何を足掻こうが。散々試合を見せられてきたトウヤなら分かる。ミソラが一言も口を出さなくったって、リナが絶不調だったとして、どんな大番狂わせの先にも、この組み合わせなら、リナが勝つ以外の結末はない。
 何も変わらない。考えるだけ無駄だ。
「グレン」
 甲高い悲鳴が霧雨のベールをつんざいた。アズサが肩を震わせてフィールドを見た。グレンは、誰の叫びも構わなかった。落ち着いてトウヤへと双眸を向けた。ふうと長く白煙を吐いて、眉を上げ、ゆったり口角を持ち上げた。
 ハリの背は雨の向こうに見えている。トウヤは空の一つ目と、二つ目と三つ目のボールを、まじないのように、そっと撫でる。
「テラを返してくれないか」
 力んだ喉から出たのは、存外に静かな声だった。
 友は顔色を変える。
 期待するだけ無駄なら、無駄に期待させるものをいっそ切り捨ててしまいたい。そう思う程、自分でも知らぬ間に、何かに追い詰められていた。



 十戦目ではおそらく、お師匠様はハリを使う。
 本気で掛かってきてほしいと頼めば、トウヤはそのようにしてくれるはずだ。根拠はある。ハヤテはリナに惚れている。裏庭での稽古でも、指示通りに攻撃できなくて叱られる場面が何度もあった。メグミは稽古中にミソラの相手をしてくれたこともなく、あの神経質そうなポケモンをぶつけてくるとも思えない。十戦目に対峙するノクタスを想定して、ミソラはリナに『冷凍ビーム』を温存させ続けている。炎タイプの『目覚めるパワー』も使えるが、天候もあるし、冷凍ビームに比べれば威力は劣ってしまう。
 氷技を使わなくとも、ポッポなら『十万ボルト』で迎え撃てる。あと三回は使える計算だ。武器もある、まして強者でもない、九戦目と言う山場にしては容易く仕留められるはずだった。
 リナが勝手に『十万ボルト』を放った時、ミソラは声を上げそうになった。
 『幸いにして』、攻撃は外れた。降り続ける雨により視界と足場が悪化することが、リナにも凶と出ていた。激しい閃光と雷音の後、二羽とも勢いよく飛んでいくのを見て、崩れ落ちそうなほど安堵した。そして安堵した自分に気がつくと、どくんと、激しく飛び跳ねた心臓が、ついに胃の中身を押し出してしまうかと思った。
 僕は負けたがっているのか。
 恐ろしかった。自分が何を考えているのか、もう訳が分からなくなった。二羽分の吹き飛ばしが迫る。ミソラは何も言えなかった。何を言えばいいのか分からないでもない。避けろでもいい、足元へ飛び込めでもいい、技を使う間隙を狙って再度電撃を放たせてもいい。けれど、膿のようなしこりのようなものがぶうと膨らんで喉を詰まらせ、声は出ていかなくて、吹き飛ばされ鈍く壁に打ち付けられべしゃんと地に落ちてますます泥まみれになる惨めな憐れなリナの事を、震えて鉄柵を握りしめながら、見下ろすことしかできなかった。
 片耳がぶるりと戦慄き一瞬剥いた白目に真っ赤な瞳孔がぐるんと戻ったとき、ああ僕は本当にひどいことをしていると、逃げ出したいような気持ちにも駆られて、足は動かなくて、急激に殺気を帯びるリナを制止する力など勿論持たなくて。だって戦ってよと言ったのはミソラなのだ。あれを倒せと言ったのはミソラだ。顔を上げる。数十メートル向かいのトレーナーボックス。親友はあんなに遠くに見えた。自分と鏡合わせに、鉄柵を握りしめて、ぐっしょり濡れた髪の毛はいつもの獣のような威勢はなくてまるで悲しげな色をして、日向の彼はどこにもいなくて、タケヒロはそれでも何か吹っ切れたような顔をして、空に吠えていた。ツー、イズ、がんばれ。戦っている。戦わせている、僕の為に。ポケモンを傷つけるなんて外道だとあんなに嫌悪していたのに。
 四足で地を踏みしめたリナが泥飛沫を上げながら跳びあがる。天高く回避しようとするポッポ達へがばりと口を開け放たれる『冷凍ビーム』、凍る雨粒を降り注がせながら天へ穿たれる冷気の柱は小鳥を二手へ分かたせた。逃げる片方を光線が追う。陽動だ。そういう作戦を指示したことがあった。光線に追い立てられた翼が射程圏内へ入った時、鋭く牙を剥く気なのだ。
 陽動だと今すぐ教えてやれば、ポッポはそれを避けられる。
 追われる一羽をもう一羽は救済できないしタケヒロも動かなかった。素早い身のこなしで『冷凍ビーム』を避け続けたポッポはついに地際に追い込まれた。地面と水平に翻った。リナはもうすぐ地面を蹴る。飛び掛かりながら腕を振る。ミソラは思わず身を乗り出し、叫ぼうとして口を開いた、その瞬間、
『いいのか?』
 ――胸の奥から、あの声がして。
 ぐわんと頭が揺れた。
 子供は目を見開いた。
『それでいいのか?』
『後悔しないか』
 モモの声に被さるように、別の声がする。黄昏の中でミソラに問うた、トウヤの静かな声がする。後悔。しないか。あの時ミソラはすぐに頷いたはずだ。一体何を。誰かを殺すことを? ……ここでタケヒロを負かすことを?
 この試合に勝ったら、負けたら、僕は、後悔するのだろうか?
 ぐらぐらと、天秤が揺れる。どんどん速まっていく鼓動が思考を押し流し景色を押し流し、閃いたリナの爪がポッポを捉えた瞬間を、ミソラはよく見れなかった。「イズ!」タケヒロはただ名前を呼ぶだけ。ポッポは墜ちなかった。短い奇声を上げ羽根を散らしながら尚、力強く羽ばたいて飛翔した。リナはもう指示を求めない。温存しようと話し合っていたはずの冷凍ビームをまたしても放った。間一髪躱したポッポが雨を切り裂き加速してリナに迫る、それを迎え撃とうと地を蹴ったリナを、体側から烈風が叩いた。もう一羽に見事に吹き飛ばされたリナが、宙を舞いながら、またがばと口を開ける。
 再三放たれた『冷凍ビーム』は見当違いな方向に走り、緑サイドのトレーナーボックスを、逆袈裟懸けに貫いた。
 目の前が真っ白に光る。
 喉に詰まっていたものが、引き裂かれた。長い悲鳴を上げていた。飛び退いていたことにも気付かなかった。足が浮き空が見え背中を打って肺から息が押し出され、一瞬塗り潰された視界が幕を剥いで蘇って、瞼をあげた先で、鉄柵は氷の剣山へ変わって、弱光にぎらぎらと輝いていた。その山の向こうで、空高くへ、雲の向こうへ、どこまでも突き抜けていく青白い光の矢を、浅く呼吸を繰り返しながら、ミソラは見つめていた。
 寒かった。
 避けたはずの氷の技で、胸のどこかが、凍てついていった。
『その女への愛情と、トウヤや坊主との日常と。どちらが大事かは』
 愛情というものと、日常という、形を持たないものを乗せて。
 ……天秤は本当に揺れているだろうか。
 細長い息をつく。やけに静かなことにやっと気づいた。仰向けに転がったまま見回すスタンドに、もう観客はいなかった。トウヤ達もどこにいるのか、見てくれているのかも分からない。ただ、この試合が終わったら、ミソラは十戦目を控えている。この試合が終わったら、トウヤはフィールドに来てくれる。
 さあさあと降り注ぐ雨の音だけ、やたらと耳につく。
 灰色に塗りこめた空から、とめどない雨粒は迷いなく、筋を引いて落ちてくる。
 ああ、これは、紛れも無く、今のミソラの、空の色だ。
 ……腕をつき、膝を押して、立ち上がる。向かいのボックスで、そこから転げ落ちんとするほど身を乗り出して、タケヒロがこちらを窺っていた。よろりと起き上がったミソラを見て、心配げな表情をほっと緩めた。ミソラはその優しい顔に、――どうしようもなく、嫌気がした。
 氷漬けにされた鉄柵は雨にみるみる溶け出して、けれどまだ固い冷たさは保っている。それに手をつく。かっと手のひらを焼く冷たさが、感覚を奪っていく。手は自由が利かなくなる。
 それでいい。選択肢など、端から存在していない。この手は何も選べない。
「リナ!」
 鋭く叫ぶ。走り出していたリナが水飛沫を上げ滑り止まった。フーと息を荒げながらこちらを見た。真っ赤に染まった相棒の瞳孔がきちんとミソラを映していた。
 きっと自分は怖い顔をしている、雨に紛れて泣きそうな顔をしている。
 けれどリナはもう迷わないはずだ。だって天秤は、今やぴくりとも動かない。
 グレンが言っていた。愛情と、日常と、どちらが大事かは、それを見極めてから、僕が決めるべきこと?
 そんなもの、比べられない。同じ秤に乗るはずもない。
「いけ、『十万ボルト』ッ!」
 腹の底から怒鳴った。
 こんな声が出るなんて、自分でも知らなかった。


 硬い表情を目にした時、彼が酷くやつれていた理由を、そこに透かして見た気がしたのだ。トウヤが持ち出した話題は、アズサにも突飛に思われた。けれど、ミソラが『殺さなきゃ』と繰り返したあの夕暮れは、アズサの与り知らぬところで、今日までひと繋ぎになっていた。ならこの話も、彼の表情もおそらくは、透明な糸で、遠くないどこかへ繋がっている。
 『テラ』はグレンが連れているリグレーの愛称だが、ボール登録上の『親』はトウヤだ。この夏、ハシリイという街までテレポートで移動する為トウヤがテラを借用して、すぐにグレンの手元に戻った。その際グレンはテラをそのまま譲りたがり、トウヤはそれを断った。
 話にだけ聞いていたテラの姿をアズサが見たのは、アズサの身内であるルカリオのクオンとバトルした、つい数週間前の一度きりだ。
「テラを返してくれないか」
 その言葉に、余裕綽々に笑んでいた大男の顔が、微かに引き攣る。テラを元主に押し付けようとしていたことだけを鑑みれば、その挙動は不可解だった。
「……何?」
「聞こえなかったか? テラを返して欲しい」
 トウヤの口が急いている。グレンは笑おうとしていた。その太い指に挟まっている白い筒から、長く伸びた灰がひとりでに落ちる。煙も勝手に立ちのぼっている。
「理由は」
「預かり代が要るなら払う」
「……ははあ、分かったぞ。こないだのルカリオ戦での動きに惚れたな?」
 現金な奴め、とグレンが茶化すように言う。トウヤは返事をしなかった。顔色も変えなかった。浅く眉間に皺を寄せて、黙って相手を見据えていた。
 何故だろう、どこか居た堪れない雰囲気に、アズサは外へ顔を向ける。だんだん強くなる雨の中に、案山子草の背が佇んでいる。聞こえているはずだ。こちらを向いて欲しかった。グレンの事は、アズサは良く知っている訳ではない。だがトウヤは明らかにおかしい。けれど、落ち着いて顧みるなら、アズサがココウを出ていく前から、トウヤの様子はおかしかったのだ。
 幾許の沈黙。白けかかった空気にグレンの方が先に屈して、目を外し、ひらひらと手を振ってみせた。
「悪いが諦めてくれ。テレポート要員ならそっちで育てろ。リグレーはもう俺の手持ちだ」
「僕がテラの『親』だ」
 短く冴えた相手の声を。大男は鼻で笑う。
「馬鹿言え。……いいか、あいつはな、しつこくついてきたのを捕まえてみたが飼いきれないと言って、お前が押し付けてきたんだ」
「押し付けただって? 珍しいから欲しいと君が言って」
「おいおい、都合よく話を捻じ曲げるな。第一、」
 何か言おうとしたトウヤを制して、継ぐ言葉を、グレンは少し溜める。余裕ぶっていた笑みが薄らげば、焦燥と苛立ちが見えてくる。
「……俺が何度手持ちを増やせと言っても、頑なに嫌がってたじゃないか。一体どういう風の吹き回しだ?」
 風向きが変わり、斜めに降り込んだ雨粒が足元に爆ぜる。
 同時に光り輝くフィールドも、動き始めた試合展開も、もう二人の目には映っていない。互いを映している。睨んでいる。遠巻きに牽制していたものが、少しずつ、事の真髄を晒し始める。
「そっちこそ、夏場にテラを借りた時は、そのまま引き取ってくれと邪険にしていただろう」
「だから拾ったものは最後まで面倒を見ろと」
「じゃあどうして今は拒むんだ? 訳があるなら教えてくれよ」
 幾分顕著なのはトウヤだった。口ぶり以上に視線が克明に、強くグレンを非難していた。対するグレンの口角はまだ上がっていた。あくまで波立てまいとしているようにも見えた。壁にもたれ掛かり、雨の向こうのフィールドにただやるだけ目をやって、一服の息を吐く間を置いた。
「こいつを育てるのに、もう時間も金も使っちまったんだ」
「金?」は、とトウヤも冷笑する。「一体何に金を使ったんだ」
 声が強くなる。グレンが顔を上げる。その目がちらりと、トウヤの後ろに突っ立っているアズサの方へ向けられた時――トウヤが『アズサの前で』この話題を持ち出した意味が、もしやあったのではないかと、不意にアズサは気付いてしまった。
 雨に凍えた空気以上に、ぞっと不安が襲いかかると、『何かしたのか』という、先の言葉の意味が見えてくる。顔を向けるフィールドで、一羽のポッポが、鋭く嘶きながら飛んでいる。
「お前は知らんだろうが、最近はポケモンを楽に育てるために使える道具も増えてる」
「何に金を使ったのか、具体的に言ってみろ!」
 視界の真ん中で、今、ポッポが強い光彩を放った。
 驚きと同時に、『開いた』意識の中に、映像と感覚が雪崩れ込んでくる。まだ暖かい春の日、トウヤはこの町で、この男に、褐色の小瓶を受け取っている。砂漠の真ん中で、涙でぐちゃぐちゃの子供の前で、その液体をニドランの口に流し込む。その次に、すやすやと眠る、小柄なニドリーナの姿が映る。
 アズサが知る由も無い光景ばかりだった。その光景を手に取るように知っていくことを、アズサは拒絶しなかった。ココウスタジアム。ヘルガーが吐くスモッグの中に、ガバイト諸共、飛び込んでいく。瞬く次に、別の試合。黒い噴煙が身体を呑み込む。熱と痛みに真っ赤に塗り潰れた瞼を、ひらくと、友人が珍しく見舞いに来ている。それが珍しく深刻な顔で、こちらに問う。『あの薬をどうした』と。
 今、はっきりと理解した。トウヤは気付いていたのだ。気付いて黙っていたことを、今、アズサに知らせているのだ。
「……どうした。やけに必死だな? らしくもない……」
 目を合わせないグレンが、ぎこちなく笑みながら、煙草を雨の中に放る。もう一本を引き出す。二度、三度、ライターの着火に手間取って、ようやく火が点く。小さな小さな炎が、トウヤの茶褐色の瞳の真ん中に、映り込んで揺れている。
「お前はいつもそうだ。何が気に食わんのか、物はもっとハッキリ言え」
「……ルカリオを相手にした時、テラは、僕のことを覚えていないようだった」
「はあ、そうか。それで? それだけか?」
 ひやり鋭利な言葉が、痣の男の喉元に触れる。トウヤは動揺したように、少し目を開いた。その目にグレンはようやく目を合わせた。随分と興醒めした眼差しが、彼を真っ直ぐ射抜いていた。
「あんなに懐かせていたのに、とでも言いたいのか? 勝手に懐かれた、の間違いだろう」
「じゃあ僕は、勝手だろうが懐いてくれた、一緒に旅もしたポケモンが、狂っていくのを、黙って見とけばいいのか」
「三年も放っておいて、今更親ヅラできると思ってるのか。笑わせるな」
 押し出すようにトウヤが吐く息が震えている。静かだが初めて見る剣幕だった。
 それを見下ろす、一回り大きいグレンの表情が、いつの間に冷静さも通り越して、侮蔑するようでもあった。惨かった。見てはいけないものを見た気がして、アズサは目を逸らしてしまった。


 強い輝きが目を焼く。
 撃ち漏らしたポッポだった。真っ白が鳥影を包み込み一段と激しい光彩を放つ。互い容赦なく降り注ぐはずの雨粒がその瞬間だけ避けたように思えた。ぐんと大きくなった敵方が、逞しい翼を煽り、速度を上げて光を振り切る。ピジョン。向かいでその主人があんぐりと口を開けているのが見えた。ミソラは動じなかった。『吹き飛ばし』を覚えているポッポ達に進化が近いだろうことは、随分前から知っていた。
 鋭く突っ込んでくるピジョンの体を避けきれずリナが体勢を崩す。だが突然上がった素早さに翻弄されただけで、目が慣れさえすれば、対応できる。『電光石火』だろうか、同じ動きで襲い掛かってきたピジョンの体を受け流し、
「噛みつく!」
 指示に合わせ牙を立てる。翼の付け根に食い込ませ、己より大きくなった相手の体を、力ずくで地に叩き付ける。水飛沫と泥が散る。「ツー、がんばれ、振り払えッ」という指示を実行しようとピジョンが足掻く、その足掻く身体を押さえつけたまま切り刻む「乱れ引っ掻き!」、無情な悲鳴と共に剥がされる淡黄色の羽は、最早宙を舞わない。激しい雨にべしゃと地面へ落ちるだけ。四回、五回、と引き裂いた背中から、リナが飛び退く、ピジョンはまだ身を起こしボロボロの翼を振るい飛び立とうとする。赤を交えた飛沫が散る。涙声のタケヒロの叫びが、フィールドへ何度も吸い込まれる。がんばれ。負けんな。がんばれ。がんばれ。
 がんばってほしい。負けないでほしい。
 本気の僕を倒してほしい。
 歯を食いしばる。軋むほど拳を握りしめる。腹の底で沸き返る激情が、本当のミソラの声が、喉を駆けあがって、子供は吠える。
 僕は進むしかない。一本道を行くしかない。殺しに行くしかない。
 でも、もし、誰かが、立ち塞がってくれるなら。
 それが押しても蹴ってもびくともしなくて、諦めて帰る以外に、道がなければ――
「――とどめだ、冷凍ビームッ!」
 負けない声で、リナが叫ぶ。
 飛びかけてよろめいたピジョンの胸を、冷徹な光が貫いた。


「君の言う通りだよ」
 ぽつりとトウヤが言った。
 長い空白の後だった。まるでそれまでが嘘みたいな、穏やかな声と表情だった。すっかり短くなった煙草を落とし揉み消して、くるりと背を向けて、建物内へと歩きはじめた。
「何をしてやる資格も無い。大事にしてやってくれ。……ハリ、行くぞ」
 とんとんと階段を降り始めた男を、スタンドから戻ってきたずぶ濡れのハリが、笠から雫を滴らせ追いかけていく。丸い足跡が点々を残るのを、呆気にとられて、アズサは見つめている。
「……おい、何を勘違いしてるのか、知らんが……リグレーはお前の事を、忘れちゃいないと思うぞ」
 僅かに音量を増したグレンの声は、先程の緊迫をまだ残していた。ハリに続いて振り返ったトウヤの顔はどこか惚けたようで、小さく肩を竦めたその仕草も、グレンをからかった風に見えなくもなかった。
「そうだといいが」
「きっとあの時は、バトルに夢中だったんだろ。今は連れていないが、気になるなら会わせてやろう。だからまた飲みに来い」
 無理矢理にニッと笑んで見せたグレンに、トウヤは言葉を返さなかった。ただうっすら寂しげに、口元を緩めただけだった。
 トウヤとハリの背が見えなくなる。静寂に満ちる雨音は、やがて奥から響いていた靴の音も飲み込んでしまう。振り返るフィールドでは、もう試合は終わっていた。フィールドの真ん中に佇むニドリーナに、近づいていく子供の影が、雨の向こうに見えるだけだった。
 アズサと同じように外を見ていたグレンが、急にガリガリと乱暴に頭を掻いたかと思えば、ハァッ、と特大の溜め息を吐く。がっくし肩を落とし、それから大ぶりのぱっちりとした目でこちらを映して、すまんかったなァと苦笑した。
「見苦しいとこを見られたな」
「居合わせてすみません……」
「いやいや俺たちが悪いんだから。畜生、なんなんだあいつ、急に、なあ?」
 大袈裟な手振りで同意を求められ愛想笑いを浮かべれば、彼もようやくほっとしたような顔をして、もう一度だけ悪態をついた。落ち着かなさげに髪をやんわり掻き乱しながら、人っ気のない薄暗い階段へ、再度目を向ける。
「情けない話だが、この歳になって、ろくに喧嘩をしたことがないんだ。やり方もよく分からん。だが、結構、なんっつうか……ショックなもんだなあ、これは」
 へら、と恥ずかしげに頬を弛めるグレンを見れば、ああ、喧嘩をしていたのか、この人たちは、という今更の結論が、アズサの中にもすとんと落ちていた。
 アズサだって、学生時代のユキとホシナと、数えきれないくらい喧嘩をした。今だって顔を合わせればしょっちゅうそれらしいことになる。喧嘩の後の孤独さや、あの言いようのない不安な気持ちを、目の前で人懐っこい笑顔を見せるこの人がたった今感じているのだ。そう思えば、彼に対して抱いていた不信感は、同情に紛れて薄めてしまえる。
 けれど、この場で彼を追及する気にならないのは、それだけではなかった。ユキもホシナも、アズサの大事な親友だった。そういう事なのだろうと思っていた。
「すぐに機嫌直しますよ。……子供っぽいから、あの人」
「おお、そうなんだ、そうなんだよ。分かってるじゃないかアズサちゃん」
 嬉しそうに頷いてから、泣くかな、と彼は唐突に呟いた。泣く? オウム返しに問えば、そうなんだよとにやついて、
「泣き虫なんだとさ、昔っから。何かにつけてすぐ泣くらしくて……ま、聞いた話なんだがな」
 そういう情報を流すことが、喧嘩相手への彼なりの嫌がらせなのだろう。この人も結構子供っぽいなと思い直して、アズサはくすくすと笑った。



 違う。
 テラはバトルに夢中になって我を忘れるような、そんな子じゃない。ポケモンの本性の全てが戦闘狂いだと思っているなら大間違いだ。戦わせたことがなくたって、数日付き合っていれば分かる。本性が見抜けないお前の目が腐っているのだと、数か月鍛えて心変わりしたのだろうと、そう言いたければ、言えばいい。だが、心はそんなに簡単に、変わるものか。少なくとも僕は、ずっと信じていたものに、騙されていたと気付いても、嫌いになんてなれなかった。
 どうして、グレンに、そう言い返さなかったのだろう。
 長い廊下に、ほとんど人はいなかった。途中、濡れそぼった小汚い子供が、膝を抱えて震えていた。両手が赤いボールを握りしめていた。トウヤはそれを一瞥して、黙ってその横を通り過ぎた。
 通り過ぎて、十歩も歩いた時だった。
「勝てよ」
 か細い声がした。
 足を止め、振り返る。タケヒロは蹲ったままだった。顔も上げなかった。泣いているのだとすぐに分かった。鼻を啜る音がする。嗚咽が漏れる。トウヤの後ろに控えていたハリが、一歩二歩と、少年へ近づこうとする。
「……手ェ抜くなよ!」
 振り絞るように放たれた声が、反響して、弾かれるように、その歩みが止まった。
 黙って、踵を返して、トウヤはまた歩きはじめた。ハリもそれについてきた。赤サイドのバトルフィールドへ直接繋がる鉄の扉が、確実に近づきつつあった。
 その先に何があるのか、トウヤの目には、まだ見えない。
『トウヤ』
 頭の中に、甘い声が響く。
『ハリが、どうしたらいいかって聞いてる。リナちゃんのこと、倒すのか、それとも』
「通訳しなくていいって言ってるだろ」
 テレパシーに声で返して、トウヤは一つ目のボールを手に取った。
 肩越しに振り返る。ハリはいつもと変わらぬ月の眼で、音もなくトウヤに問いかけている。
「……お前は何もしなくていいよ」
 紅白球が上下に割れる。
 そこから伸びた光が、ハリを無力な光にした。重さも体積も消え失せて、光は、容器へ細く吸い込まれていった。






 
 
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