激しく興奮している時、体は燃え上がるように錯覚するのだ。
 初めて知るのかもしれない。長い坂道を駆けあがりながら、眼鏡を曇らせる自身の熱気を、そんな感想と共に少年は迎え入れる。例えば体育大会でリレーのアンカーとしてゴールテープを切った時も、囲碁部の主将として地区大会を制した時も、あの焼けるような日差しの下、硝子の破片のような鋭い照り返しの上で、水陣祭の主役として、大観衆を前にした時も。こんなに熱くはならなかった。喜びや、高揚感を腹一杯に喰い尽くしても、氷の岩でも抱えているみたいに、冷めた部分が傍観していた。
 ぶち壊す勢いで戸を開ける、煩わしくスニーカーを脱ぎ散らかし、半ば転がり込むように居間へ。誰もいない。時計を見る。午後二時半。姉と妹は病院のはずで、祖父母はナントカという懇親会へ出ているはずだ。
 息を荒げたまま棚へすがりつき、受話器を持ち上げた。暗記した番号の通り、夢中でダイヤルを回す。呑気な呼び出し音が鳴る。時計を見る。玄関の方へ目をやる。誰もいない。大丈夫。間に合う。数回のコールの後、ガチャ、と向こうが受話器を上げた。
『まいどっ! 『さかどころトモエ』です』
 男の子とも女の子ともつかない、子供の元気な声がした。予想だにしない相手に、あれ、と一瞬目を見開いて――ああ、いやそうだ、確かミソラと言ったっけ――、すぐに切羽詰まっていることを思い出した。
「トウヤいる?」
『え?』
「トウヤ」
『あ、おししょ、じゃない、トウヤ……さん、ですか。帰ってたかなぁ? えーと……どちらさまですか?』
「代わって、早く」
 噛みつかんばかりの言い方に向こうは面食らっているようだったが、下手に顔見知りな以上、名乗って世間話に時間を取られるのも惜しかった。ちょっと待っててくださいね、と引き気味の言葉を残して、保留コールが流れ始める。やっと息を整え、服の胸元をバタバタと仰いで熱を逃がした。どっと噴き出る汗が額を流れる。あーくそ、汗だくなんて、カッコわりぃ。
 耳を澄ます。誰も来てない。まだ平気だ。呼吸が落ち着くと、まるで人の物のような脈動を首筋に感じるようで、気味が悪い。こんなに息を上げたのはいつ以来だろうか。
 その時、平坦な向こうのメロディが切り変わった。
『もしもし?』
 耳馴染んだ応答が、視界を明るく、広くした。
 いた。待望した声。痛快な感情が体の芯を駆け巡り、また熱が生まれる。先の子供と似た困惑、むしろ若干迷惑そうな男の様子は、
「俺。エト!」
『ああ、お前か』
 こちらの声を聞いた途端に、嬉しげに塗り替わってくれた。
 トウヤ。一言交わしただけでこんなに喜んでるなんて、絶対教えたくないけれど。家に居てくれて本当によかった。このまたとない絶好の機会を、そうじゃなきゃ言えないところだった。的外れな感謝の念が次々湧き上がって、そんな珍しい気持ちを覚えられる自分が、本当に平時になく興奮していることを知る。
 ああ、うれしい。よかった。最後に、話ができてよかった。
 どうした、と問われて返そうとして、からからに喉が渇いていることにようやく気付く。ごくりと唾を飲み下す。また見えない玄関へ目を向けた。誰も来ない。が、姉の病院は、いつもなら二時過ぎには終わるはずだ。いつ戻ってきてもおかしくない。気配を感じられるように戸を開けておけばよかった。
「俺、」
 粘つく喉、燃える喉元から、誰かに言いたくて仕方なかった言葉を、渾身の力で絞り出す。
「家を、出るから、今夜! だから、前言ってたやつ、テレポート便ですぐ、送って!」
 言った。本当に口にした途端、身の中に迸る現実味が、更に全身の血を沸かせた。
 興奮は、今最高潮に達していく。
 ついに、今夜。
 今夜、俺は、この町を出ていく。






 花の形のいかりを上げて







 今夜? ――繰り返した後、笑い声が聞こえる。でも分かってる、馬鹿にしてる声じゃない。時間が限られてることを伝えようと口を開いたとき、ミソラあっちにいってろ、と人払いをしてくれた。ひそめた声は、彼なりの心配りだ。
『また急だな。準備は万端か?』
「トウヤがくれるのを受け取れば、完璧」
『バックパックと、地図と方位磁針と七徳と、固形燃料と……あとボールホルダーだけだぞ。あの子を連れていくんだろ。携帯飼料は?』
「あ……」
『ハハ、分かった、入れとこう。僕からの餞別だ』
 餞別。そうでなくても、余り物といえ充分譲ってもらうのに。歓迎する声色にほっとして、町からフルスピードで酷使してきた脚から力が抜けて、頬まで弛んだ。思い付きのような唐突さを否定されなかった。ちゃんと応援してくれる。それが何よりも、今はありがたい。
 椅子を引っ張って腰掛ける、背もたれに身を預けて、天井を仰ぐ。埃の被った電気傘。年末が来ると、いつもマスクして俺が掃除するんだっけ。今年はもう、できないな。
 誰がするんだろ、掃除。一瞬過ぎった気掛かりを、胸を膨らませる話題で追い払った。
「ヒビまでの荷馬車があるんだよ。今晩ならタダで積んでってくれるってさ。そっから船のあるワタツミまでなら、歩いていけるよな。スムーズに行けば半月ぐらいでタマムシ上陸」
『おお、それなら受験にも間に合うんじゃないか?』
「余裕!」
『良かったな。今年は諦めたかと思った』
 うん、と頷く。そして心の中で、より深く同意する。自分ひとりなら、とっくに諦めていたはずだ。
 彼にはまだ隠しているけれど、祖父からの学費の工面が期待できなくなったとき、本当に諦めるしかないと絶望していた。こっちを気にして調べてくれていたトウヤが、タマムシの大学に苦学生向けの学費優待制度を見つけ出してきてくれなければ、真っ暗な気持ちで一年を浪費していただろう。
 感謝してるよ。やっぱり言えないけれど。……それで、と向こうの声色が少し変わる。
『ちゃんと話、したのか。皆に』
 大学に行きたいってことを。家を出ていくってことを。
 遠慮気味に問う声にチクと胸が刺される。けれどそう問われることは、あらかじめ予想出来ていた。エトははっきりと答えた。
「もちろん」
 向こうが微かに笑う。
『何て言ってた?』
「やりたいことやれってさ。ジジイ、学費も出してくれるって言ったけど、あんまり甘えたくねぇし、なるべく迷惑かけないようにするわ」
 提示したのは、用意していたシナリオだ。作り物の明るい声だ。
 好きなようにしたらいい、って。応援するからって。
 また心の中で、問う。これで、いいか。納得するか。誰も見てないのに、余裕ぶって口角を上げて、面接官の審査を待った。いくらか静まった心臓は、けれど相変わらず忙しげに、どくどくと耳元を賑やかす。
 電話の向こうは、数拍、口を閉ざした。それから、そうか、と返ってきた。まるで、あの夜、泣いてる姉ちゃんを前にしてた時の、法螺吹きみたいな優しい声で。
『そうか。……凄いよ、お前』
「だろ?」
『ああ、偉いな。勇敢だ。僕にはとても真似できない』
「俺、トウヤに勝った?」
 冗談めかして言う声を、誰かが開けっ放しにしていた窓から、柔らかい風が攫っていく。
 自分で放った言葉に、エトは少し、顔を歪めた。
 勝ってる訳がない。土俵にもまだ、上がっていない。都合の悪いことから目を逸らして、逃げようとするだけだ、今の俺は。
 ああ、――畜生、冷めてんじゃねえよ。ずっと熱してくれてれば、煩わしい感情も全部焼き切ってくれれば、目指すところにまっすぐ進めばいいだけで、ラクチンなのにな。言ってよ、トウヤ。まだまだだって。足元にも及びませんって。でも、多分、言わないんだろ。
『ああ。負けたよ。完敗だ』
 ほら、そう言って笑って、そこだけは、ちっとも本気にしないんだから。
 呆れるように、口の端を緩めた。
「ざまーみやがれ」
『弟みたいだと思ってたんだけどな、お前のこと』
「失敬な」
『そうだな。失礼いたしました。でもな、ごめん、エト。やっぱり、弟みたいだと思われてくれよ』
 タマムシに着いたら必ず連絡しなさい、と、それまでで一番強い口調で言う。暗に込められた『心配してる』がむず痒くて心地よくて、へへ、と照れ隠ししか出なかった。その時だ。玄関の戸の音。ただいまー、と陽気な声。咄嗟に音量を絞る。
「わりぃ、もう行くわ」
『うん。いいか。くれぐれも、無理をしないように』
「わーってる」
『何も出来ないけど、その……頑張れよ』
 電話の向こうがまた照れてるようなのが、面白かったし嬉しかった。じゃな、と受話器を置きかけたところで、言いそびれていた大事な言葉を思い付いて、頭を掻いて。言わなきゃな。一言だけ。旅立ち前の最後だから、まあいいや。
「ありがと、トウヤ」
 ――返事を待たずに、がちゃんと受話器を置いた。
 息をつく間もなく、居間の戸が開く。姉と妹と、青いマリルと、薄緑のマリルだ。騒々しさが帰ってきた。ポシェットを机に投げ、まあちゃんマリーちゃんおままごとしよう、とよそに駆けていく妹のハヅキを見送って、姉のカナミが顔を上げた。
「電話? 誰?」
「あー……あれ。トウヤ」
 とーやくん! とハヅキが顔だけ戻ってくる。
「はあちゃんもでんわする!」
「向こうから電話してきたの? 珍し。何て?」
「よく分かんねえけど、姉ちゃんいないって言ったら、急いでないからまたかけ直すって。タイミング悪いよな」
 適当に誤魔化して背を向け、自室に戻ろうとしたところで、小さくて丸くて青い影が、足元に立ちはだかる。
「トウヤかあ」
「おねーちゃん、でんわしてっ」
「あー、うーん……今度にしよっかな。急いでないって言ったんでしょ?」
 まだ、勇気、ないや。そんなことをぽつりと言う少し顔色の悪い姉の、手持ちのマリルが、険しい顔でエトの前に立ちはだかっている。右足を出すと右に寄り、左足を出すと左に寄り、といった具合で、通さんとでも言わんばかりだ。ああ、お前もしかして、聞こえてたか。電話。そういえば、耳、良いもんな。
 困るよな。そりゃ。今俺が、この家からいなくなったら。……つま先で大きな球を避けて、キーキー鳴き喚くマリーを無視して、ずんずん階段を上がっていく。
 嘘だよ、トウヤ。言えただなんて。応援してくれてるなんて、やりたいことやれだなんてさ。言えねえよ。笑っちゃうよな。凄くもないし、偉くもないよ。
 二階の自室の戸を開けて、中で大人しく待っていたチコリータが駆け寄ってくるのを、抱き上げて、顔を埋めた。
 違うんだよ。
 俺、自分勝手なだけなんだよ。





 くっきりと、脳裏に色濃く焼き付いた、茹だるような熱帯夜。

 今だからはっきり言えるのだけれど、トウヤのことは、正直好きではなかった。身軽に人付き合いできない性分だから、鬱陶しいとさえ思っていたくらいだ。夏の間だけやってくる、よく分かんねえけどどっか田舎の、いかにもうだつの上がらない感じの。男の仕事じゃないのに、また台所に立ってる。不思議で不思議でならなかったのは、エトのたったひとりの姉ちゃんが、どうにも彼を気に入っているらしいことだった。
 あれは確か、旅客者が演者の代役を務めるという『水陣祭』きっての珍事が起こった年じゃなかったろうか。風のない夜中で、それはもう暑くて、たまたま喉が渇いて一階へ降りた。客間に灯が点いていて、消し忘れたのかと覗いてみれば、あの客人が起きていた。何やら本を読んでいた。
 四年も前になるのだが、何故だろう、妙に鮮明に覚えている。
 窓が開いていて、りんりんと虫の声がして、月明かりが淡くて。寝ぼけていたのだろうが、夢か現かと言いたくなるほど、世界は朧で。澄んだ地酒の匂いがした。庭に、母さんが植えたナントカという白い花が咲いていた。背を向けて胡坐を掻いて、文机に開かれた本の項だけ、ひそりと浮かびあがっていた。赤黒く爛れた彼の左手が、音もなくそれを捲る、妙に緩慢な動きさえも。 
 その光景を目にした後は、脇に積み上げられた眩暈がするような本の山に、ただ呆気にとられていた。彼がこちらを振り返ったことに、だからちっとも気付かなかった。
「寝ないのか?」
 問われて、はっとして、顔を見た。酔っているのか、珍しくふわふわと笑っていた。
「……読むの、これ?」
「そうだよ」
「全部?」
「もちろん」
「すげぇ……」
 素直に感嘆をつけたのは、おそらく、猛烈に眠かったからなのだが。そうか? と首を傾げられたのが、なんだか小馬鹿にされたようで癪で――そうじゃなきゃ、永遠に、興味をくすぐられることはなかっただろう。
 いないもののように振舞っていた客人を、その日から、目に入れるようになっていた。
 水陣祭で演者の代打をこなして、大勢に称賛されておろおろして、弱いから晩の宴会でぶっ潰されて、それでも翌日も、本を読んでた。携帯獣学の本ばかりだった。僕の住んでる町はハシリイみたいな大きい本屋はないから、ここにいるうちに読んでおかないと、と言う彼は、なるほど常に寝不足で。欠伸しながら、時折船を漕ぎながら、それでも着実に積み山を削っていくトウヤの後ろに座って、あの夏、なんとなくそれを眺めていた。
「エトはポケモンが好きなのか?」
「別に」
「そうか」
「……トウヤは?」
「まあな」
「勉強するのも?」
 純粋な問いに、にやりとされる。晴れた日の縁側。ルリリだったマリーと、サボネアだったあいつの手持ちが、ぽかぽかと日向ぼっこに興じていた。
 馬鹿にして、笑われたのかと思った。でも違った。
「お爺さん達には、あんまり言うなよ。初等課程も出てないんだよ、僕」
「え?」
 思いもよらぬ告白に、顔を上げる。写真しか見る気も起きないような、難しげな本をすらすら読んでるのに? てか、初等課程も出れない奴なんて、実際にいるんだ。……知らぬ間に馬鹿にしようとする自分がそこにいて、けれどその視線は、隣に腰を下ろす人を幾分見上げてさえいた。チビだと思ってたのに、いつの間に。
「まじで?」
「ああ、途中までしか行ってない。ココウには学校がないから結構普通なんだ。ハシリイに住んでたら信じられないだろうけどな」
 恥ずかしそうに自身をフォローしてから、トウヤは続けた。
「だからかもしれないけど、勉強するのは苦じゃない。本を読んでる間は幸せだ。まるで手も届かない所に、自分が立ってるような……そういう勘違いを、していられるから」
 だからな、お前が羨ましいよ、エト。こちらに目を向けもせず放たれた言葉、夏の風に撫でられる、その時伸び気味だった彼の髪と、見てくれの悪い横顔を眺めながら、エトはふと、思ったのだ。
 あれ、俺、負けてる?
 田舎もんだって、見下してた奴に?
 トウヤは、こちらを見ない。エトが読む気も起きない本にばかり、視線を注ぎ続けている。
 その瞬間から、だ。
 ……その、髪。姉ちゃんに切ったげようかなんて茶化されていたが、ホンット似合ってない。その時心に自然に湧き上がってきた感情が、それだった。俺の方が断然、格好良く決められる。負けてねえ。そう思って、髪を伸ばした。
 すぐにトレーナーになるのは難しかったが、いつチャンスが来ても良いように、置いていく本は全部欠かさず読み漁った。負けてない。結果は芳しくないが筋トレもした、何となく料理も作れるようになった。ほら、全然負けてない。囲碁だけは、負けてるはずがないから、毎年完膚なきまでにぶちのめしてやった。な、負けてないだろ。ちっとも負けてないだろ、俺。
 なのに、お前の背中、いっつも手前に見えるんだよ。なんでだよ、畜生。
「エト、なーんか積極的になったよね」
 なんで? と笑う姉。それも分かってますよと言うようなニヤニヤ顔で。うっせ、黙ってろ。言われなくても分かってら。
 『まるで真似して背中を追ってる』、その事実は、気付いてしまえばあまりにもダサい。でも別によかった。イライラして悔しくて、何糞こんな奴に、と憤慨してた気持ちはいつの間にか綺麗に昇華して、いつか喰らいつき追い抜くアプローチへの明るい興奮が膨らんでいた。ハシリイの中には見つけられなかったライバル心は、思いの外に心地よかった。
 勉強をするのは、楽しい。分からなかったことが分かった、見えなかったものが見えた。二階の窓から見上げる幾千の星空より、もっともっと美しい空があることを知った。居心地が悪いと感じていた世界は、世界などではなくて、閉塞した箱の中だったのだと気付けた。
 そうして、まだ、自分が何も分かってないって可能性を、じきに考え始めてしまった。
 例えば、そう――『自分が居たいと思える場所も、世界のどこかにはあるんじゃないか』?

 エトは、もう、我慢の限界だったのだ。





 そして、その夜も、季節外れの熱帯夜だった。
 案の定、庭先でマリルが一匹、どしんと待ち構えていた。うちの青い方の水鼠だ。姉ちゃんのマリル、名はマリー。元来怒りっぽい性分なのだが、それが火が出るんじゃないかってほど猛烈に怒った目をしているから、エトは思わず笑ってしまった。
 ここは、そう、子供の頃から、親しんだ庭。ジジイや婆ちゃん、あるいは今は亡きエトの父さんが、いつも手入れをしていた庭。
「マリーともよく遊んだよなあ、ここで」
 途中で捨てていくつもりの旅行鞄を、どっこらせと下ろす。マリーはまだ睨んでいる。こんな夜半に、そんな大きな荷物を持って、どこに行くのか。もう気付いているはずだ。
「お前がルリリの頃からさ。お前のこと、結構好きだったよ。めんどくさくて、ポケモンの癖に暑苦しくて鬱陶しいんだけど、お前が姉ちゃんのこと、人間みたいに、すげえ大事にしてくれるから。……安心だよ。マリーがいる。姉ちゃんのことも、ウチのことも」
 まるで自分に言い聞かすように呟いて、ポケットにしまい込んでいた紅白球を、手に取り、放った。
「だから、頼むな」
 軽い破裂音と共に、月夜に閃光が弾ける。光に瞬間浮かび上がった家を、眼鏡の向こうに垣間見た。誰も起きなかったろうか。無駄に広い家。手に余る思い出を抱える家。
「俺、ここを、出ていくよ」
 それを前に、静かな宣誓。
 飛び出したチコリータが足を着き、頭を振って大きな葉を旋回させた。
 たちまちに湧き起こる木の葉が刃となって、一目散に走る。『葉っぱカッター』だ。タダでやられてはくれないらしい、ブクッと一瞬肥大したマリーの口から、噴射される『水鉄砲』が迎え撃った。
 暗闇の中、月明かりの下。まるでスローモーションのようだった。
 木の葉が水流を裂く。水流が木の葉を弾く。光る玉となって水が躍る。あの夏の日の噴水を、皆の歓声を、笑顔を、思い出した。ああ。けれど。一瞬だった。あっという間に木の葉は飲みこまれ、太い水流が急激に迫る。驚き動けぬ手持ちの身体を、咄嗟に、エトは抱きしめた。
 ――見た目以上の衝撃と共に吹き飛ばされ、ぐしゃりと、地面に転がった。
 強打した背を押さえ、息苦しく空気を吸うと、昔懐かしい、土と草の匂いが、切なく肺を埋め尽くす。
 腕を突き、起き上がり、濡れた前髪の合間から、相手を見据えた。マリーは何も言わなかった。言ったって分からないのだけど、ほとんど球面の、その上梅干みたいにくしゃくしゃに歪んだ顔からは、なんの言葉も出そうになかった。
 雑多に飛び回る感情の中で、押し出した声は、カッコ悪いが、存外に弱い。
「ごめんな。分かってるんだよ。姉ちゃんの身体が変で、すげえ体調が悪くて、構ってもらえなくて、お前の嫌いなアキトもよく家に来るしさ。不安なんだろ、お前。なんで今出ていくんだって、思うんだろ。俺だって不安だよ。俺だって……でも、」
 泣きそうなマリーが気を吸い込む。身体が膨れる。水鉄砲が来る。
 放たれる水流。思わず目を閉じた。けれど、――エトの前に立ちはだかった、小さなチコリータが、今度は地面に踏ん張って、技を耐え抜いた。主人を守り切った。
 大きな月が、しとどに濡れた夜の庭を、黙って、見ていた。
 揺れる視線と、視線が交わる。
 俺は、後悔、するのだろうか。
 マリーのことも、この家のことも。この町のこともさ。結構好きだ。断ち切って、余所へ行くには、未練が手を取ってくれる程度には、曲がりなりにも愛してたんだよ。立ち去る際の淵まできて、やっと気づける、なんて阿呆なんだろな。でも、足りないや。好きなんだけど、もう、十分だ。他の、景色を、見たいんだよ。知らないままで、終われないんだよ。
「俺の、人生だから。だから、出ていく」
 マリーは、何も言わなかった。
 そして、……あっはっは、と高い笑い声が聞こえた。
 玄関口から望める、縁側の方だ。気付かなかったことはない。マリーも気付いていたんだろう。そこに腰かける、笑顔で、ほろ酔いで、すごぶるご機嫌の人物。右手に持っているビールの入ったグラスを、ひょいと掲げる。月光にきらりと光らせる。
「ナイスファイト! マリーって意外と強いんだね」
 出し抜けるとは思ってなかったが、やっぱり出し抜けなかった。普段ならこの時間はとっくに寝ている姉のカナミが、弟の門出を、見届けに来ていた。
 重たそうな長い髪。つやつやと光る頬。デカい声、出すなよ。いっつも無駄にデカいよな、声。ジジイ達起きてきたら面倒だろ。……不機嫌に見えるように目を細めても、少し遠い姉の顔は、やはり笑って見える。
「飲んじゃだめなんだろ、酒」
「ちょっとくらいならいいでしょ。私強いし」
 へへ、と破顔する頬はほんのり赤くて、これがほんのり赤い時って言うのは、そう、相当飲んでいる時だ。……小さく小さく溜め息をついて、ジト目でエトを一瞬見やって、マリーは彼女の方へ向かった。立ち上がり、マリーッ、とそれを抱きしめながら、やっぱりデカい声で、カナミは言う。
「ねえ、エト」
「ん」
「私達、ふたりっきりの、きょうだいだったね」
 晴れていると思ったけれど、朧な月には、うっすら雲がかかっていた。
 しんとして感じた一瞬は、すぐに虫のさざめきで溢れた。涼しく感じた一瞬は、すぐに暑苦しい熱気に、取って代わった。
 ……口を噤んだエトを前に、カナミは、顔を上げる。ご機嫌にニコニコと笑っている。
「母さんが亡くなってさ。父さんったら、間髪入れずに別の女を引っ張ってきて、あっという間に子供こさえて。笑っちゃったよね、あれ。はあちゃんが生まれて、あんなに喜んでさあ。なのにそれと、病気がちな女残して、勝手に死んじゃった。あはは。赤ん坊の世話と、他人の女の看病を、年頃の娘と息子に押し付けて」
 知ってるか、姉ちゃん。
 そんな日々の中、いつもバカみたく笑ってるあんたの存在は、暗闇に輝く太陽のようだった。
 眩しい笑顔が、大好きだったよ。父さんも母さんも死んでたって、姉ちゃんがいるから平気だと、傍にあると安心してたよ。光の中に姉ちゃんが笑うから、俺はあんなに無理に明るくなくてもいいやと、どこかで思ってたよ。……拳を、握る。チコリータが不安そうに、エトを見上げる。その姉の中にも、自分と同じように湿った影があることに、エトはとうに気付いていた。けれど気付かないふりをすることは、自分にとって楽だった。家の平穏のためだけでなく、それを隠そうとする姉のためには、気付かないふりが一番だと、ずっと目を背けていた。
「エト、はあちゃんのこと、かわいい妹だと思ってるんでしょ?」
「……うん」
「私ねえ、思えないんだよ。ごめんね、良い姉ちゃんじゃなくて。こんな日に、こんな話して。でも思えないや。かわいいんだけど、とってもかわいいんだけど、なんか、かわいい『よその子』みたいで」
 わしわしと、ざっくばらんに掻き上げる手の動きが、不躾に、彼女の髪を乱した。
「そんな自分の事、本当に許せない」
「……」
「許せない。許せっこない。いつまで引き摺ってんだろ、私。あーあ。はあちゃんは何も悪くないのにね。でもね。でもね、エト。あのね」
 俯いて、ぐしゃぐしゃと頭を掻く、酔っ払った姉の声が、震える。
「トウヤが、許してくれた。そんなの、当たり前だって言ってくれた」
 カナミを擦ろうとしていたマリーが、ふいに、唇を歪めた。
 ……虫が鳴く、優しい風が吹く、静けさと空しさがたちこめる、燻ぶるような夏の終わり。姉ちゃん。ごめんな。思うだけじゃ伝わらないんだけど、言えなくて、ごめん。それ、俺の役目だったよな。俺が同じ気持ちだって、姉ちゃんに言ってやれれば、きっとずっと、楽だったな。その声を、罪悪感が押し込めて、唾を呑み込む。昼間の渇きがまだ、喉の奥に張り付いている。
「……電話したの?」
 それだけ問うた。してない、とカナミは首を振った。
「でも、だいたい分かるよ。トウヤが電話してくる時、ほとんどエトの話だから」
「んなことねえだろ」
「……あのね、エトがさ、家を出たがってるの、私知ってた。ごめん。家族のことが引っかかって出れないでいて、それでイライラしてるのも、ずっと知ってた。でも姉ちゃん、出てってもいいよって、言ってあげられなかった。一人になりたくないから、許してあげられなかった。勝手だね、ホント」
 でも。赤らんだままにやりと笑う姉は、瓶ビールの残りを、グラスへ全て注ぎ移した。
「でも、トウヤが、許したんだね。私の代わりに。だからエト、出ていけるんだね。……はあ、良かった。嬉しい。姉ちゃんのせいでエトが苦しむの、嫌だったから、肩の荷が下りたよ」
 そう言って微笑む彼女に、違うと教えていいのだろうか。エトは少し口籠った。
 知らねえよ、あいつ。姉ちゃんの身体のことは何も。もし知ってたとして、その上で俺に家を出てもいいって言ったとしたら、あいつのこと、姉ちゃん、何って思う訳。ホントに嬉しいの、それとも、裏切られたって嫌いになるの。
 自分のせいで嫌いになられちゃ堪らないから、言わずに、首を横に振った。誰にも許しは乞わなかったよ、ただ現実から顔を逸らして、自分勝手になっただけ。
「……俺、誰かが許してくれたとしても、自分で自分を許せねえから」
 同じ暗闇を歩いてきたはずのきょうだいを、一人残してゆくことを。
 それを聞くと、けらけらとカナミは笑った。自分が許せないんだね、と笑った。おんなじだね、やっぱりきょうだいだね、私達、あはは。本気で聞いてるのか、そうでもないのか、よく分からない。寝て起きたら忘れてるんじゃなかろうか。
 いつかの夜、泣きながら笑う姉を、下手にあいつが慰めるのを、ずっと隠れて聞いていた。姉があいつに惚れていたことを、自分が不自然だと思っていたのは、そう思いたかったからだ。自分が受け止められない姉の痛みに、他人のトウヤが触れられることを、どこかで認めたくなかったからだ。
 それを今、やっと、叶えられただろうか。ちゃんときょうだいに、なれただろうか。
「でも、たった一人でも誰かが許してくれれば、それ、めっちゃ心強いよ」
「……」
「エト。出ていくのは、ちょっとは辛い?」
「……」
「ねえ。それ、私のせいで?」
「……」
 そんな暗がりなんて、どこに隠してるのかってほど、明け透けで力強い姉。たった今出ていこうとしてる弟に向かって、そんなイタいところばかり付いてくる。押し黙るエトを、ウザイってくらいに、笑い飛ばして。マリーを置いて、立ち上がった。ビール瓶と、ビールグラスを手に持って。
「――ゆるすっ!」
 そのふたつを両手に掲げて、エトの大好きな、あの太陽のような笑顔が、溢れた。
「ねーちゃんなんか、きにすんな、エト! いちどっきりの、エトの人生だ!」
 だから声デカいって。夜空に花を咲かせる姉の表情を、今一度、エトは瞼に焼き付ける。
「いってこい! 帰ってくんな!」
「ひでー……」
「でも、エトが帰ってくるまで、良いねーちゃんらしい私で、ずーっとここで、待っててあげるっ」
 そんなの望んでねえよ。言っても聞かないんだろうけど。あっはっはと笑いながら、カナミはグラスを振りかぶった。慌ててチコリータを抱き上げ、身を逸らす。
「自由に、」
 ぶっ掛けられる飲みかけのビール。荷物を引っ掴んで駆け出した。
「生きろーっ!」
 これでもかってくらい、大声。ほら見ろ、ジジイの部屋の電気、ついたぞ。脱兎の如くエトの駆け下りる坂道は、真っ暗だ。でも、いいんだろ。許すってんだろ。それなら俺、まっすぐ前だけ、見ていけるから。
 長い長い暗闇を、また転がるように、少年は走り始める。







 

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