ひとたび発動した『インファイト』の猛攻は、一撃では収まらない。
 左肩、右胸、腹部、喉元と続けざまに、躍るような流れるような打撃の強襲は、一連の動作を経て最後の蹴りが決まるまで、本人の意思さえ無視して続く。自ら蹴り上げ、無抵抗に綺麗に思い通りに、ヒトが吹き飛ぶ。待ち構えていたノクタスにがしりと抱きとめられ、その腕の中で人形のようにぐったりとして、わずかな身動ぎもしない、その姿を、クオンは目の当たりにして放心する――出し抜けに盛り上がった大地から青竜が勢いよく飛び出したのは、まさに、その隙をついてであった。
 見た目より重い一打。『穴を掘る』などと言う、波動の読めるルカリオにすればあまりにも粗末な攻撃技を、こうもクリーンヒットさせられたのは初めてだ。熱く吼えるガバイトのタックルを受けて宙高くに打ち上げられたクオンが見るのは、追って壁伝いに跳び上がってきたノクタスの姿。主人はどうした。捨て置いたのか。その波動を読んだ間に、ノクタスは高く両腕を振り上げる。メグミがいるからまあ大丈夫だ。それだけ考えながら振り下ろされる腕に、どんな攻撃が来ても『見切』れるよう、クオンは準備を整えた――が。
 真っ白。彼の目の前は、突如として、比喩でも何でもなく真っ白になった。


「――キャプチャ・オン!」
 突き出されたアズサの細い左腕を、ミソラとタケヒロが両側から支持する。何か意味があるのか、逆に邪魔じゃないのか、と考えるのは今はやめだ。少しくすぐったいという実害も出ているが、それをカバーして有り余る集中力が、今は漲っている。
 先程の隠れ場所から所は変わって、別の廃屋の二階の屋根。眼下で何が起こっているのか、建物に遮られて三人からは窺えなかった(それが吉と出たことなんて、彼らは知る由もないけれど)が、とにかくルカリオが高く打ち上げられた今がチャンスだ。
「アズサ!」「アズサさんっ」
 子供たちの声援に頷きも返さず、キッと視線を険しくして、アズサはキャプチャ・ディスクを放出した。
 小さな彼女の『化身』が、めざすところへすっ飛んでゆく。ボタン一つで打ち出されるあの駒は、アズサの商売道具で、ポケモンレンジャーの唯一の武器で、ポケモンに『思いを伝える』最先端装置だ。キャプチャの腕は、狙いの正確さや駒を回す腕前だけには、必ずしも比例しない。撃ち手の思いの強さ、相手の心の機微を繊細に捉える想像力さえ、重大な要素となる。
 今、ノクタスが視界の底から現れて、ルカリオへ『綿胞子』を打ち放つ。モコモコと肥大する白い綿が強靭な敵をあれよと言う間に包み込む。綿塗れのルカリオを、ハリは更に蹴り飛ばす。もっと上。アズサは腕を振りディスクの軌道に修正をかける。宙を飛んでいたディスクは前傾気味に手前の屋根へと着陸し、弾かれて一直線にルカリオの方へ向かい始めた。
 クオン。撃ち手――ミソラ、タケヒロとの三人分の思いは、あなたに届くだろうか。細められた目には、もう今日は、涙は宿らない。
(クオン)
 ねえ、聞いて。空中に投げ出され、顔面にさえ綿の張り付いた不格好な『兄』を、アズサのディスクが取り巻いて、軌跡は光の輪を形成する。空中で高速に旋回しながら、何度も何度も周囲を巡る。幾重にも幾重にも重ねられた光の輪が、動けないクオンを締め上げる。
 あなたは、意外とネガティブだ。自分が強すぎるから、自分より力のない周りに対して呆れるくらいに心配性だ。それで、波動で悪い部分ばかり目につけて、また悲観して、過保護になって。生真面目で、優しくて、例えばちょっとの擦り傷にも、おろおろしてずっと寄り添ってくれるような。あなただけじゃない。そんな人が、私の回りには多いんだ。お父さんだって、本当はユキだって。
 不甲斐ない私の事を、きっと案じてくれたんだろう。ひとりぼっちで大丈夫か。うまくやっているのか。結果、連絡も寄越さなくて、やるべき仕事もしてなくて、それなら連れて帰った方が良いと、そう思われても仕方ない。
(クオン、でも私、上手くやっていける)
 全部分かってるような顔をして、なんにも分かってないって、まだあなたのことは思ってるけど。本当は、もう気付いているんでしょう? 私だって、今日まで、気付かないふりをしていたんだ。
 私、いつの間に、ひとりぼっちじゃなくなってた。だから、確証はないけれど、きっと大丈夫。
 また泣くかもしれない、立ち止まるかもしれないけど、きっと、大丈夫だから。


 ――光が収束する。
 締め上げるディスクの『軌跡』から解き放たれ、ついでに綿からも脱出したルカリオが、傍の屋根へとひらり降り立った。ゆっくりと顔を上げ、こちらを見る。
 一仕事終えたディスクが、屋根伝いに駆け戻ってくる。それをポーチへ収納して、アズサも彼へ顔を向けた。表情は、晴れやかだった。対するクオンの赤い目が、やっぱりどこか寂しげに見えるのには、少し胸も痛むけれど。
「終わった……のか?」
 恐る恐ると問うタケヒロに、アズサは微笑む。
「ええ」
「キャプチャ成功、ですか?」
「そうよ」
「じゃ、じゃあ、ミッションクリアか?」
 きらきらと目を輝かせて答えを待つ、黒と金髪の二人の仲間に。思わずまた破顔して、ゆっくりと頷いた。
「――っしゃああああああー!」
 拳を掲げて叫ぶタケヒロ、やったあと両手を振り上げ笑顔満面のミソラ。屋根の際から中央へ移って飛び跳ねながら喜びを爆発させる二人、自分のことのように嬉しがってくれる彼らが、今は愛おしくて仕方ない。それを背に、もう一度クオンへ目を向ける。じっとこちらを見つめていた彼が、ひとつ、大きく頷いた。認めてくれたのだろうか。思いは伝わったのだろうか。――少しでも近づきたくて、屋根の端へと一歩だけ、足を踏み出した矢先だった。
 ばきり、と何かが鳴る。子供たちがはしゃぎまわっていたせいもあるし、最初の『地震』の余波もあろう。錆びたトタンが崩落する。同時にそれを支えていた支柱が折れて、屋根全体が落ちかかって、悲鳴を上げながら隣の建物へ飛び移った子供たちを尻目に、アズサは足場を失った。あ、落ちる。
 ふわりと抱き上げられたのは、それからすぐだった。
 それが王子様だったら、どれだけ良かったろう。――抱きすくめられた感覚は、けれど昔に抱きしめられた時より、ずっと頼もしい。私だって大きくなってるはずなのに。見上げた顔は、クオンだとすぐに分かったけれど、幾分目つきは鋭くて、腕と足の先は血の色のように赤く染まって。狐色の毛並の尾は、斜陽に淡く、且つ燦然と輝く。そういえば、随分夕暮れが近づいてきた。そんなことをふと思えるくらい、姿形が変わっていることに、違和感はなかった。だって、心が繋がっている。これもクオンで間違いない。
 あーっ、進化した、ぎゃーっ、と子供たちが大声を上げるのも聞こえたけれど。慣れない姿に懐かしく抱きかかえられたまま、断わりもなくどこかへ駆け出し始めたクオンの胸に、アズサははにかんで顔を埋めるだけだった。





 結局トウヤが目を覚ましたのは、ほとんど日が暮れてからだ。
 ぱちくり、と月の瞳と目線が合わさる。顔が近いと思ったけれど、こちらが倒れている側だから退けなかった。しかし動かさなくても分かる節々の痛さ、『インファイト』の直撃は、予想以上に強烈だったようだ。……まじまじと顔を見つめていたノクタスのハリは、主人が気を取り戻したことをしげしげと確認すると、ようやっとのそりと身を離した。
 グレンが無茶苦茶をした戦場跡地、建物の影に寝かせられた体勢のまま見渡せば、ハヤテが丸まって寝ている。その横にオニドリル姿のメグミが、体に長い首を埋めて寝ている。その横に……バケッチャが三体、転がって寝ている。その一番大きいのにもたれかかって、寝ているのと同じくらいぼーっとこっちを見ているのは、年相応よりいくらか小さなポケモンレンジャー。ボリュームの多いポニーテールが砂っぽい地面に這っている。
 見えるのはそれだけだった。ミソラもタケヒロも、アズサもグレンもいない。連中に微妙な薄情さも覚えながら、ポケモン達と同列にいるユキの存在を再度確認して、メグミだけボールに収納した。
 このくらいの時期になると、日が沈めばかなり肌寒くなってくる。暗くなる前に帰ろう、とハリに言ってはみたものの、なんとか上体だけ起こせど、立ち上がれる気もしない。歩いて帰るのは厳しそうだ。言うだけ言って帰ろうとしないトウヤにハリはなんとなく察して、ハヤテを起こす作業に取り掛かり始めた。
「アズさぁ」
 ぽか、ぽか、とハヤテの脇腹がゆるく殴られる音を背景に、ユキがぼんやり顔で話しはじめる。ハリも疲れているだろうに、ハヤテが起きたらボールに戻してやろう、とぼんやり考えながら、トウヤもぼんやりと聞いていた。
「普通の人だって言ったの、ワカミヤくんのこと。ユキも普通に良い人そう、って最初は思ったんだけど、訂正する。君、バカやろーだ」
 普通の人、か。それがあの娘から、これまでの自分に下された評価。
 ぽかっ。ぽかっ。ハヤテは起きない。低いいびきを立てている。それを穏やかに眺めていると、先程までの出来事は、夢だったんじゃないかと錯覚する。……バカやろー、と年下に詰られても、そういう状況に慣れ過ぎて既に何も思えないことに、自分でもちょっと呆れる。億劫にトウヤは口を開いた。
「情に厚すぎるよ、あのルカリオ。だから大丈夫だと思った」
「インファイトに飛び込んで死なない確信って、それだけ?」
「そうだよ。ハリがタケヒロ達を庇ったときも、相当手加減していた。だから、波動で気持ちが読めるだろ、それを逆手に取ったんだ。僕が例えば、本当にあの子の恋人で、物凄く大切に思っていて絶対にココウで幸せにしたいと『思い込み』ながら飛び降りれば、まあ、あいつは殴れないだろ。例え事故で殴られたとしても、人を攻撃したことがないって言うなら、ショックはかなり大きいはずだ。そうなれば一瞬でも隙は作れる」
 つらつらと長く解説すると、相手は眉根を寄せた。
「『こいつを守るためなら命だって差し出せる』ってこと?」
「よく覚えてたな」
「命張るって、許されるのは口までだよ? 分かる?」
 散々に言われて、その通りですと笑うしかない自分には、やはり呆れもあるけれど。
 安眠を邪魔されたハヤテが、ぶんぶんと尾を振って妨害者を牽制する。普段のハリならそろそろニードルアームが入るところだが、やはり疲れがあるのだろう、じっと見つめているだけだ。ハヤテ起こし要員にメグミをもう一度出してもよかったが、あれもさっきまで寝ていたし、今回は少し無理をさせた。
「それで、あの子は?」
「アズサって呼ばないの?」
 言ってから、くわぁ、と欠伸をする。
「キャプチャは成功したよ。でも、なぜかクオンに連れてかれた。ま、手荒なことはしないと思うけどね」
「そうか」
 素っ気ない返事に、また眉間が狭まる。
「……なんてーか、ワカミヤ君って、本当は興味なさそう。恋愛することとか、将来のこととか。夢がどうとか言っといてさ」
 文句は、独り言じみていた。空を仰ぐ。見上げれば、おそらく一番目の星が、東の空に見えはじめていた。
 興味がない、のだろうか。恋愛することとか、将来のこととか。自問すれど、考えは宙を彷徨って、道筋を見つける気配もない。
 例えばまた夜が来て、朝が来る、取り立てた特別もない一日。その当然のような日々は、実は、まったく嘘めいている。最近は、そういう事をよく考えていた。この夕暮れをのんびりと見上げる日は、当然ではない。永遠には続かない。当たり前だったはずの瞬間、ありふれていた日常が、全く塗り替えられて、二度とやってこない、その地平。
 そこでは、愛だの、夢だのという華やいだ概念は、瞬く間にして色を失い、音も立てずに崩れるだろう。輝いていた全てのことは、途端に力を失くすだろう。砂と化したそれらの上で、人は一体、どんな顔をするのだろうか。
 そうなると、一見大事めいている物への価値が、もう見いだせなくなってしまう。だから片手でぞんざいに扱える。そうすることを、多分、興味がないと表すのだ。恋愛することも、将来のことも。
 ……センチメンタルに耽っていると、放置された一人は邪推を開始する。
「もしかして、ニンゲンに興味ない? そっち系の人?」
「違います」
 寝ぼけていたユキの顔つきは随分はっきりしていた。身を乗り出して、どこかうきうきとさえしている。声のボリュームも上がってきた。
「じゃあ、好きな人がいるんだ!」
「どうしてそうなるんだ」
「ねえ、いるんでしょ? それも遠いところに。辛い恋をしてるんだ、カワイソウ」
 勝手に妄想世界を繰り広げるユキに、返事もする気にもならず。ちらり窺えば、ハリはちょっとやる気を出して、本気でハヤテの後頭部を殴りに掛かっている。ぼか。ぼか。
「あ、図星だー」
 指さしながらにへらと笑う。
「ねえねえどんな人? 教えてよー」
 ぴょこんと起き上がると、ちょこまかとやってきて、まだ動けそうにないトウヤの隣にちょこんと座る。いたずらに顔を覗きこむ。
「詮索しちゃおっかな?」
 紡ぐ唇はぽってりとして、頬はつやつやとして、睫毛は妙に上向きで長い。そう無意識に観察しながら、トウヤはふと考える。黙っていれば、きっと小動物に似たような、庇護欲のわく愛らしい生き物。けれど触れれば折れそうなアズサのようなか弱さとは、いかんせん程遠い。そんなに顔を寄せられて、食指のひとつも動かないのは、つまりそういうことなのだろうか。
 打撃音のバックミュージックはいつの間にか止んでいた。ハリがいつもの無表情でこっちを見ている。
「初恋っていつだった?」
「さあな」
「好きになってやっぱ長い? 叶わない恋なの?」
 答えずにいると、またニヤニヤとして。それから溜め息をついて、膝を抱えて、顎を埋めた。
「切ないね。叶わない恋……ロマンチストなんだ、ワカミヤくんって」
 カワイソウ、とまた言う。ちっとも可哀想と思ってない声で。……トウヤはハリに低く命じた。早く起こせ。ハリは無表情に頷いて、ぴょいとハヤテへ馬乗りになって、後頭部を連打し始めた。
 ふ、と蘇る。遠い昔に、あの懐かしい部屋で。子供用のベッドが二つ、仲良く並んでいた頃。寝坊助な自分に、馬乗りになって、大笑いしながら小さな拳を振るってきた、色気ない子供だった彼女。
 あの時、嬉しくて、長らく起きられないふりをしていた。
 ……愚痴を吐くのはそれなりに相手を選ぶ、が。もう一度横の少女を見る。食指も動かないなら、うだつの上がらぬ話の聞かせ相手としては、なかなかに適任ではないだろうか。
「ロマンチストなんて言えるほど、美談だったら良かったんだが」
「おっ?」
「恋なのかどうかも、未だにはっきりしない」
 おおお? 見るからに期待の篭った表情で見上げられて、トウヤはちょっと身を引いた。
「君と僕とは、明日以降、おそらく関わりがないだろうな」
「そうかもね」
「そして僕も色々と、なぜか感傷的な気分だ。だから誰かに少しだけ話をしたい。だが身内には知られたくない」
「オッケー、アズには黙っててあげよう」
 案外賢い小娘だ。またハリが聞き耳を立てていたが、顔を向けると、聞いてませんがと言うようにまた目覚ましパンチを再開した。
 暮れなずみの中に、深い影が落ちる。争いの後の夕べには、寂寥の鳴き声を上げて風が吹き抜けるだけ。少し耳をそばだてた。誰もいない。誰も聞いてやしない。
「……そんな僕にも」
 一体、何を話しているのだろう。ただ、今は、『インファイトを喰らった痛みを堪えながら昨日今日知り合った小娘と恋愛談をしている』この非日常的な光景に、もう少し身を埋めてみたい。
「本気で好きな人ができまして」
「ん? 叶わない恋以外の相手? それって、叶わない恋をしてたってのは認めるってこと?」
 水を差すなよ、と笑う。詮索されると非日常でもさすがに居た堪れなくて、手元寂しさに指を組んでみたり。煙草が吸いたいが、それもない。
「久しぶりにな。本気で好きになったと思った。だいたい、十年ぶりくらいだ」
「それはそれは」
「で、告白したんだ」
「おおー」
「そして付き合うことになった」
「やるじゃん」
 でも、と続けようとすると、どうしても喉が詰まる。こんなに冗談めかして喋っても、当時の心境は、まるで呪いのように、胸の中を侵食していく。情景が、顔が浮かぶ。ハシリイの、あの縁側で、あの月明かりの下で。君が好きだと言った時の、彼女のあの驚いた顔が、それから見せてくれた、トウヤには少し眩しすぎた、あの笑顔が。
 そして、応えてくれたその好意を、足蹴にした後ろめたさが、たちまちそれらを無きものにする。自分のあまりの卑怯さ、醜さが、幸福な記憶を喰らい尽くしていく。その残骸は、黒く、黒く。思い返す時は、いつもそうだった。
「いざ付き合うことになると、ちらつくときがあるんだ。顔とか、仕草とか。何をしていても。それは、時間を追うごとに、どんどんエスカレートした」
「昔の女が?」
「そう。恐ろしいことにな」
「似てる人を選んじゃったか」
 無言に首を横に振る。
「けど今思えば、無意識に似てる所を見つけたから、好きになれたんだろうな。そうしてると、疑問に思うだろ。僕が本当に好きになったのは誰なのか。分からなくなって、本気で好きになったはずなのに、姿を重ねてるのが、相手にも申し訳なくて、自分でも気味が悪くて、情けなくって……」
 ふと言葉が止まる。そういえば。この話を人にするのは、これが初めてだ。
 結局微動だにせず凝視していたハリの身体がぐらりと傾く。体を起こし、鋭利な牙を存分に見せびらかしながら大きな欠伸をするハヤテから、ぴょいとハリは飛びのいた。
 ハリは、こんな主人を、どんな気持ちで眺めているんだろう。どんな気持ちで、ここまで付き合ってきてくれたんだろう。こいつはしっかりしてるから、僕のことを、相当にダメな主人だと思っているに違いない。……げすっ、と一度ハヤテの腹に蹴りを入れ、怒った鳴き声を浴びせられながらのそのそとこちらに戻ってくる。それらを見ながら、それで? とユキは問うた。
「それで、とは」
「その人とはどうなったの?」
「ああ、耐えられなくて、三日で別れた」
 ユキは膝を抱えたまま、二度三度瞬きする。その間にトウヤは、やってくるハリをボールに戻した。
「……今確信した。君は、バカやろーの上、ひっどい奴だ、ワカミヤくん」
「だろ。僕はそういう亡霊に憑かれてるんだ。きっと一生逃れられない」
 そう言った途端に、ユキは再三溜め息をついた。
 暮れはじめてからは早い。辺りはもうほとんど夜に踏み入っていた。ユキがよっとと立ち上がると、長い髪が残光に艶めいて、くるりとこちらを振り向いた表情には、また微かな光が差す。淡い輝きが少女を縁取って、黄昏に浮かび上がらせる。
「ワカミヤくん。一つアドバイスしたげる」
 座ったままのトウヤから、見上げるユキは、少し雰囲気が違った。静かに微笑む。今まで見なかった、大人びた女の顔。
「幸せになることを諦めちゃだめだよ」
 それだけの、たった一言。
 目を瞬かせる。声はしんとして、じっくり咀嚼する間もなく、すとんと胸に落ちて。ある日からそこにあった、凝り固まった氷のようなつっかえが、するりと解けて。時間は動き出す。淀みは息吹を取り戻す。
 意表をつかれて、ぽかんとするだけのトウヤの前で、長い髪がゆるやかに風になびく。ころり、けろり、とあの無邪気な子供の顔に戻って、ユキは両手を広げ、溌剌と踵を返すのだった。
「それを亡霊さんのせいにするなら、尚更。――なんちゃって!」





 半ば誘拐されたアズサを捜索する子供たちが彼女の家に行きついたのは、丁度トウヤが目を覚ました頃だった。
 そこにアズサはいなかった。代わりに件のルカリオが(アズサを誘拐する時、一瞬姿が変わったような気がしたが、今は元の姿で)いて、そして件の父親が立っていた。タケヒロが即座に身構える。ミソラもちょっと身構えたけれど、振り向いたその人の表情に、すぐにその気を消されてしまった。
 アズサの父親は、笑っていた。優しくて、朗らかでさっぱりとして、でもちょっぴりの寂しさも含ませて。それは、ミソラが知らないと思っていた父親像に、ぴったりと寄り添う顔だった。急に心がほだされる。タケヒロも臨戦態勢を緩めて、二人は目を合わせた。
「ああ。君たちか」
 声だって、実の子を殴っていた時の声とか、ミッションの話をしたときの声とは、まるで別人とは言わないけれど……全然雰囲気が違うじゃないか。内心しどろもどろになりながら、何を言っていいものかも分からず立ち尽くすだけの二人に笑いかけて、それから父親はまた振り向いた。
 仰ぐは、オンボロの木造二階建ての、小さな一軒家。まだ日の残る上半分だけ橙に染め分けられたその家は、アズサの家で、『はぐれもの』四人の集会所、とミソラが勝手に思っている場所。タケヒロが失いたくなくて戦った、大事な居場所。
「昔はね、ここに家族で住んでいたんだ」
 低くて穏やかな声は、ほら、こっちの心を波立てることなんて不可能だ。……と思った矢先の告白に、大いに波立てられえて、タケヒロがエエッと声を上げる。
「うっそぉ!?」
「昔、ココウの駐在レンジャーをやっていてね。アズサはその頃に生まれた子だよ。だからここは、アズサの生家だ」
 暫しの沈黙。……完全にあ然として押し黙っている二人に、知らなかったかい、と男は笑った。
「ここに住んでたのは、アズサが五、六歳くらいの時までだがね」
「つーことは……お、俺が生まれる前か」
「ユニオンへ異動が出て一家で移り、やがてアズサ一人出戻ることになるとは、思いもしなかったよ。色々と懐かしい。様変わりしてしまった場所もあるが、変わってない部分も多いな、ココウは。……いやあ、来てよかった。ミッションが終わってからは、アズサ自身にも、ちゃんと話を聞けたよ」
 ぽつりと言って、こちらを振り向く。顔は、やはり優しい。小汚い捨て子と、異邦人の子供を、とても暖かい表情で、ゆっくりと眺めた。
「アズサは、ココウで良い友人に恵まれたようだな」
 ……ぴんと二人は背筋を伸ばし、緩みそうになる口元をなんとか抑えながら、また互いに顔を見合った。それを見、男はまた声を上げて笑う。フゥ、とルカリオが小さく息を吐いて、腕を組む。その表情は読み取りづらいけれど。
「それが知れただけでも、安心したよ。私は大人しくユニオンに戻るとしよう。……アズサの普段の仕事ぶりも、あの青年から聞けたことだしな」
 大団円に終わりそうだったのに、付け足された言葉の不穏さに気付いてしまう。二人とも揃って思い出すのは、ミッション前、酒場に逃げ込んだ時の、父親と話していたトウヤの姿だ。そういえば、何を話していたのかと問えば、『君の普段の様子』と答えていたか。それも『悪いけど正直に話したよ、僕もユニオン幹部なんか敵に回したくない』『話されて困るような事してるなら、文句言われる筋合いはない』と。
 それは、さすがにまずい。普段の彼女の仕事しなさっぷりをよく知っているからこそ、子供たちは更に背筋を伸ばして固まった。ルカリオに誘拐されてから、アズサはこっぴどく説教されたに違いない。
 けれど、なぜだか父親の笑顔は……誇らしげな様子さえ、湛えはじめたではないか。
「『よく子供の世話をして面倒見がいいし、町の人間の悩みや愚痴もしばしば聞いてやっている。捨て子達にも受けがいい。町の問題の解決にも積極的で、先日はスタジアムで起きたトレーナー同士の闘争の仲介にも尽力し、持ち前のキャプチャ技術で暴れるポケモンを押さえて見事に事態を収めた、優秀な駐在レンジャーさんだ』――そこまで褒められると、親としては、いささか照れくさくてね」
 アズサをよろしく頼む、だなんて言いながら去っていった父親とルカリオが本当に遠くになって見えなくなるまで、ミソラとタケヒロは頑張って我慢した。それから二人で顔を見合わせて、もう一度彼らの行き先を見て、聞こえる距離じゃないことを確かめた。
「……お師匠様うまいこと言ってくれてたんだね」
「でも、嘘じゃないよな? 嘘は言ってないよな?」
「ちょっとは見直した?」
「……まぁ、ちょっとは……、な」





 冷たい風は喉から全身へ染み込んで、火照りを浄化させる。眠たげな従者に揺られながら眺めるココウの大通りは、もうすっかり夜に溶けていた。買い物袋を提げた婦人が足早に帰路をゆき、気の早い作業着の男たちは顔を赤らめて酒の梯子先を窺っている。晩酌と晩飯の匂い。ありふれた光景をそのまま飲み込めば、目配せしてくるハヤテに頷いて、足を進ませる。家に帰ろう。大通りの南側に位置する家までは、ここからなら近くだ。
 ばったりアズサに出くわしたのは、南に進路を切ろうとしたハヤテが鼻先を向けてからすぐだった。
 そんなにあからさまに気まずそうな顔をされると、そのままサヨナラと円滑には行かない。手にしていた大きめの鞄を背後に隠そうとする彼女に、ハヤテに座ったままトウヤは声をかけた。
「お嬢さん、どちらまで?」
「……ラスピラズリっていう民宿らしいんだけど、北の方の」
「乗っていけよ。帰り道だ」
 嘘ばっかり、と言う彼女の荷物を取って、背鰭の向こう側に仕方なく彼女が座ると、ハギ家と真逆の方向へハヤテを向かわせた。
 二人乗せても相変わらずのペースで平然と歩いてくれるから、ポケモンと言うのは凄い。飯時を迎えて、人気の少なくなった大通りを行きながら、トウヤは見飽きたくらいの町並みを眺めていた。明かりの消えた店先。団欒の温度がある、人の住処の窓明かり。受け取った鞄が思いの外に重くて、ふと思い当たる。民宿に泊まっているのは多分、ユキだろう。若しくは彼女の父親だろうか。
「服、着替えたんだな」
 乗せてから無言を貫いていたから、唐突な一言に、背中合わせで見えない相手がややびくりとするのが分かった。
 透ける程薄手のカーディガン、白っぽいキュロットスカート。私服は淡い色合いが多いんだなと思う。ミソラほどではないが肌も白めだから、夜闇に立っていると、ぼんやり浮かんで見えさえする。彼女の強さを虚勢だと感じていた、出会った頃からの心許なさは、隊員服を脱ぐと途端形になって現れる。
 肩越しに見るアズサは、見られていることに気付いているだろうか。服の胸元を摘み上げながら、ためらいがちに呟いた。
「変?」
「いいんじゃないか」
 顔を上げ、何気なくこちらを向いた彼女の目と、ぴたりと目が合う。慌てて逸らされる。トウヤは黙って苦笑した。果たして明日からいつもの調子に、この子は戻ってくれるんだろうか。
「……グレンさんに聞いたわ、あなたが無茶をしたって」
 のしのしと揺られながらの声は、やはり普段より数段も頼りなく細っこい。
「グレンは何だって?」
「今は気絶してるけど、起きて反省の色がなかったら怪我人とはいえぶん殴りそうだ、って怒りながら帰っていった」
「これ以上はごめんだな」
 笑っても、後ろからの返答は無し。恐らくぶつけられるだろう言葉を待っていたけれど、いくら待っても、夜めいた静けさが背中の間に流れるだけだった。トウヤは頭を掻く。そのために右手を上げるだけで、まだ鈍い痛みが伴ってくる。
「悪かったよ、危ないことをして」
 危ないことしないで、といういつもの小言は。言わないから自分から振ったのに、今日は返ってこないじゃないか。沈黙もまた少し、胸の内を刺して、痛みを生み出す。黙っていられなくてトウヤは続けた。
「考える気があれば、やりようは他にもあったはずなんだ。思いつきが通じるのか試したくて、僕が勝手にしたことだ」
「お兄さん」
 さあ、彼女が口を開く。どんな言葉で心を抉ってくるのだろう。例えばありがとうやごめんなさいを食らっても、自分は多分痛みを覚える。……そんな風に考えて背を向けていたから、アズサがどんな表情で次を発したのか、トウヤは見えなかった。
「……あなたも波動が使えるの?」
 トウヤは振り返った。再び目があったけれど、今度は逸らされなかった。
 あなたも波動が使えるの。
 ……波動。今度はもっと軽妙な、疑問符の引っ付いた沈黙が流れる。ハヤテの足音と、すれ違う二人組の下品な笑い声が、混じりあって、また遠のくだけの長い空白。トウヤが質問の意図が読めないでいると、アズサは若干焦りさえした。
「まず――クオンが人間に『インファイト』を当てることが、普通の状態じゃ考えられない。ハリへの攻撃に巻き込まれようとしたところで、クオンは先にあなたの考えと行動を読めるから、巻き込むような状態には絶対持っていかない。いくら誤魔化そうと念じてたって、波動はそう簡単には騙せないわ。それに、インファイトを受けた直後、ガバイトがクオンに『穴を掘る』を当てたらしいけど……そもそも足元にガバイトが潜んでいれば、クオンが気付けない訳がない。それから、クオンのインファイトをヒトが受けて、動いていられること。通常の状態で攻撃を受けたなら、まずありえない」
「そのありえないことが起こったとしたら、考えられる可能性は?」
「あの時クオンと同等か、それ以上に波動を扱える何者かが、波動の流れを歪めていた」
 それも、波動ポケモンのルカリオにそうだと気付かせないほど、ごく自然に。ひとしきり喋った後、アズサは本気で息をつめて、僅かな顔色の変化も逃すまいとするように、じっとトウヤを見据え始めた。
 ……ふんふん、とハヤテが鼻息を立てながらこちらを窺う。何となく愉快そうな顔で。茶化すような意図を察して、トウヤはその後頭部をぺしんと叩いた。
 敢えて少し間を置いた。真剣に緊張している彼女の顔は、なんだか物珍しくて、妙に滑稽だ。
「それで、君は、僕が波動使いみたいな大層な人間に見えるのか?」
 肩を竦めながらのその言葉に、アズサは少しの間睨むような双眸を向けた後、我慢できずに破顔した。
「ちっとも」
「そうだろ」トウヤはハヤテに目配せする。「凄いのは僕じゃない。いつでも、僕のポケモン達だ」
 大きな目を瞬かせる青い若竜。二人きりじゃなくてよかったと、トウヤは心底思った。こいつがいなければ、あまりにも気恥ずかしいこの空気に、こんなにも居座れなかっただろう。でも、と言葉を継ぐアズサの声は、それまでより幾分上擦っているし。
「でも、お兄さんがいてくれて、良かった。感謝してる。お兄さんがいなかったら、多分、お父さんやクオンに認めてもらえなかった。皆が傍にいなかったら、きっと諦めてた」
 そんな事を言われると、ほら見ろ、やっぱり痛い。
 よせよ、とだけ返して、次が何も思いつかない。疲れているんだ。頭が白んでぼうとする。彼女の嬉しげな声が、勝手に反芻される。きっと諦めてた、か。ユキに貰った似たフレーズが、脳裏を過ぎる。幸せになることを諦めちゃだめだよ。
 僕は、諦めているのだろうか。
 ああ。成程な。そういう事か。腑に落ちて、落ち着かなさは助長した。水を得た乾物のように何かがむくむく膨らんで、いっぱいになった胸が詰まる。ぼうとするのは、疲れているからだけじゃない。指を組んで。煙草が吸いたいな。やっぱり手元にないけれど。
「君がレンジャーでいられることになって、タケヒロやミソラも喜ぶだろうな」
「どうして?」
「……ああ、あいつらは、ココウにいるってだけで良かったのか」
 ラスピラズリという煤けた看板が、三階建ての古い家屋から突き出ている。窓の幾つかに明かりが灯っていた。あのどれかに、ユキか父親がいるのだろう。アズサはとんとハヤテを降りて、鼻先を撫でながら礼を言った。
「じゃあな。よろしく言っといてくれ」
「ええ。……あ、お兄さん」
 受け取った大きな鞄を両手にぶら提げ、民宿入口の常夜灯の下に立つ。
 暗闇の、薄らぼんやりとした明かりの中、不慣れに清楚な恰好はどこか初々しく、いじらしく映った。アズサはこちらを見て、何やら姿勢を正す。少し目を閉じる。すう、と息を吸う。
「私、ユニオンに行きます」
 凛としたまっすぐな声で、あまりにも唐突に、そしてふわりと微笑んで。
 ……感嘆符の一つも出ず、それどころかリアクションも取れず、僅かばかり目を見開いて固まったトウヤは、『絶句』という言葉を絵に描くならこうだろう、という感じだ。その反応を見て少しは耐えようとしたアズサも、すぐに堪えきれず噴き出した。無邪気に声を上げて笑う姿は、あまり見たことがなかったような。
「ごめんなさい。しばらくの間ね」
「……すぐ戻るのか?」
「すぐとはいかないかもしれないけど。駐在期間延長の手続きとか、レンジャー免許の更新とか、色々あるので」
 動揺した? と問われて、それがあまりにも筒抜けになっていたことが恥ずかしくて、長い溜め息。ハヤテの嬉しそうな鼻息がまた恨めしい。
「タケヒロには言って行けよ。僕越しに伝えたら発狂するぞ」
「明日会えたらそうするわ」
「まあ、道中気を付けて」
 言いながらハヤテの横腹を踵で蹴って、歩き出すよう促させる。微妙な別れ方をしてでも早くこの羞恥から抜け出した。それでも、ねえお兄さん、と呼び止められれば、ハヤテは勝手に立ち止まる。
「お兄さんは、私がレンジャーでいた方が良い訳?」
 笑いながら言う。さっきの話の続きだ。やや考えて、ハヤテと目を合わせて、それから投げ返した。少し距離が開いたから、先程よりは張った声で。
「赤の方が似合うよ」
「え?」
「制服。今の格好も、それはそれで、悪くないけどな。――まあ僕も、君がココウにいて、お茶を出してくれて愚痴だけ聞いてくれるなら、なんだっていいが」
 そういえばいつだかも同じことを言った。それに向こうも気付いたのか、また苦笑して、いつだかと同じ言葉が返ってくる。
「それって口説いてる?」
 その言葉に、あの時は何と答えたろう。思い出せないことはなかったが。
 後ろを通りかかる人が、おっ、という顔で事の顛末を覗き見る。分かっているのかいないのか、ハヤテが興味津々と主人を見上げる。いつもと違った一日の終わり、もうしばらくは互いを見ないだろう夜の、秋めく風の傍らで。先程、『ユニオンに行きます』でしてやられたことを意識して――トウヤは堪えられなかった。一矢報いたくなった。
「そうかもな」
 だから、それだけ告げて、踵でハヤテを強く小突いた。
 ハヤテは渋々歩きはじめた。へ、と遠くから、微かな反応が聞こえた。振り向くまいと思ったが、気になって一瞬振り向いて、明かりの下で茫然とこちらを眺める彼女と視線を合わせた。本当に茫然としていた。にやりとだけ返してやった。よし、一矢報いた。
 『絶句』という言葉を絵にしろと言われたら、欠片も無い絵心で、今のあいつの顔を描こう。そのためだけに焼きつけておこう。
 そんな風に、自分に言い訳をした。





「――あ、レンジャーさん!」
 じゃなくてアズサさん、と言い直しながら、夜の町をミソラは駆け寄っていく。アズサの家の前で待っていても彼女が戻ってこないので、仕方なくタケヒロと解散(彼は一番手近な秘密基地へと帰っていった)して、安全な道から帰ろうと出た大通りの道すがら。ラスピラズリという変な名前の宿屋さんの玄関で、なぜかアズサは突っ立っていた。突っ立って、大通りの南の方角へ顔を向けていた。そこには誰もいないのに。――そしてミソラが声を掛けると、飛び上がるほど肩を震わせてこちらを見た。
 こんなところで何をしているのだろう。不思議に思ったミソラはその様子を観察する。女の子っぽい私服姿、とてもかわいい。それ以上に強く感想を持ったのは、彼女の顔色についてだった。
 暗みの中で、一緒の明かりに入る距離まで近づいていって見上げてみて、ミソラはきょとんと首を傾げる。
「どうしたんですか? アズサさん、顔が真っ赤ですよ」
 ――ぼすん、と音を立てて、アズサの両手から大きな鞄が滑り落ちた。
 その細い指が、物凄い速さで自分の両頬に触れる。めちゃくちゃに火照った両頬に。ミソラが指摘してから、かあっと更に赤くなった気もする。ミソラは鞄を拾ってから、アズサの身を案じた。彼女はお酒を飲んだのだろうか。それとも熱が出たのだろうか。あんなに激しい戦いの後だから、無理もない。
「大丈夫ですか? 誰か待ってるんですか? どこか行く場所があるなら、私、荷物持ちします」
「だ、大丈夫……大丈夫だから……」
「でも、なにか変ですよ、アズサさん」
「変よね、私変だわ、そうよね、ありえない、多分聞き間違い」
 何がだ。突っ込む暇も与えない速さでミソラから鞄を引ったくり、あまりにもぎこちなく笑顔を浮かべる。元気はありそうだ。ますます首を傾げてしまう。
「本当に大丈夫ですか……?」
「うん、大丈夫、ごめんありがとう、じゃあねミソラちゃん」
 そう言ってぎこぎこと手を振りながら後ずさって、宿屋の中へ入っていく。そこが目的地だったのか。突っ立って、一体何だったのだろう。
 さようならを言って帰り道を歩きはじめたミソラに、待って、と後ろから声が掛かった。アズサがまた明かりの下に出てきた。
「秘密にしといてね、今の」
「え、でも……」アズサさんが体調を崩していることを?
「いいから、お願い、ホントにお願い」
「わ、分かりました……?」
 ミソラが頷くと、ありがとう、とまた早口に言って、奥に引っ込んでいく。本当に、一体、何だったのだ。……けれど、二人だけの秘密となると、『仲間』感があって、なんだか良いカンジ。
 上機嫌のまま、スキップさえ踏んで、ハギの家へと帰っていく。
 ひそやかな闇、淡い空。透きとおる夜風に、月明かり。軽やかな星の瞬きは、愉快であざやかなミソラの日常を、もっと賑やかに彩っている。
 眼下で誰が泣いていても、笑っていても。多分知らない顔をして、彼らは細い輝きを、等しく放ち続けていく。いつまでも、どこまでも。なんとなく、そんな気がした。







 
 
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