「夢の話をしよう」
 ――疑わしい十音を耳に入れて、ハリは面を上げた。
 ボールの上面から差し込む光に、主人の顔は見えない。前傾した肩と、煤けた天井だけが映っていて、他は見たくとも見えない閉ざされた窓だ。そこに欲する情報はほとんど入ってこない。いらぬ雑多ばかりが映り込んで、もどかしさを助長させるだけ。
 聞き耳を立てた。ボールの中では、音だけが外界を読む手掛かりとなる。夢、夢って? 人の子の困惑がちな声。ボール間の通話システムからも、同胞の声が聞こえてきた。嘲笑するでもない、メグミの小さな笑い声。
 月の瞳は細められる。眼前にじわりと滲む、色鮮やかな『故郷』。唐突に蘇っては、その形容しがたいまばゆさは、いつもハリの目を眩ませた。丸サボテンだった頃、あの懐かしい町で、主人に何とか抱えられて。けらけらと笑って、走り回って、いたずらをしては叱られて、それでもけらけら笑っていた。あの頃はまだ、そんな言葉も、容易く口にできていたはずだ。あなたも、そしてわたしも、まだ。
 案山子草は、吸い寄せられるように立ち上がる。眼前の虚像を打ち破っても、『今』の彼から放たれた耳心地良い二文字が、この狭きに響いている。僅かばかり照れくさそうに、まずは僕から、と身を乗り出した。何を話すのだろう、そんなに真摯な声で。自分にも多くを言わない今の彼が、他人の彼らに、己の何を語るのだろう。
 胸が寒くなる。愉快でも幸福でも、どこかモノトーンに近い日々を送っていたその背中が、『あの日』を起点に進み始めたことが――確実に前へ進んでいるのに、あの虹色の時間へ何故か近づいていくことが――、ハリには苦しくて、恐ろしくてならなかった。
 主人は言う。真っ直ぐで、どことなく、理解し得ない楽しげな声で。
「僕の夢は、研究者になる事だった」


「研究者……ですか?」
 本当に夢の話をするのか。
 きょとんとして問い返したミソラに、トウヤははっきりと頷いた。突然切り出された内容に、誰もがついてきていない。一様にぽかんとしている。そんな好ましくないリアクションの数々をざっと見渡して、ちょっと全身こわばらせた師匠の喉が、こくりと上下に動く。その仕草で理解した。この人、緊張している。
「僕の……父は」
 しかし、それでもと気合を入れるように机の上に手を置いて、トウヤは話しはじめた。
「研究者だった。ポケモンの研究をしてたんだ。子供の頃、僕はその背中を見て育った。……それが、なんというか、とても恰好よくて」
 普段どおりのたどたどしい言葉づかいの中に、けれどもいつにない『聞かせる気』が込められている。そんなことに気が付くと、申し訳ないことに話の中身はいまいち入ってきていないが、引き付けられてミソラは彼を見た。何を思ってこんな話をし出したのだろう。言っちゃ悪いが、なんだか『変』だ。
「具体的に何が、とは、言えないけど。何をしているのかも正直よく分かってなかったんだ。でも、なんとなく格好いい、って、あるだろ。白衣を着て、朝から晩までラボに籠って……」
 何か変。ミソラだけじゃなくて、多分皆そう思っている。グレンも相変わらず笑いを堪えるように口の端が上がっているし、タケヒロは相変わらずむすっとしているけど、目はぱちくりしている。一体ボールの中の彼のポケモン達は、どんな顔をして聞いているのだろうか。
 思い出話に入り始めると、少し饒舌になる。二人きりで昔話を聞かせてくれた昨晩の温かい気持ちが、ふと蘇った。今日だって、皆の前でそんな話をするトウヤは真面目に恥ずかしそうだけれど、楽しそうだし、幸せそうだ。
「……自分の手持ちを持ってないし、バトルも誰より下手糞だ。でもポケモンのことなら、何でも知っている。何を聞いても答えてくれる。そういう姿に憧れていた。頼んでもないのにポケモンの生きる仕組みについて語ってきて、それが面白くて、語ってるときの父さんは本当に生き生きしてて」
 だから、茶々が入れられない。喋っている当人がそれを入れさせないほど真剣で、思わず横槍をためらうくらいに、自分こそ『生き生き』しているからで――そんな姿を見ていると、全然話に集中できていなかったミソラもなんだか嬉しくなってきて、自然と頬が弛んでしまう。
 昨日と違うのは、聴衆が一人ではなくて、それらにちゃんと聞かせるように、彼が喋っているという点。会話しているつもりでも独り言のような喋り方をする人だから、大勢の前で語っている姿なんて馴染みがない。相槌もなく黙っている彼らの前で、それでも、まだ演説を続ける。やっと緊張のほぐれた顔で、多少は朗々とした声で。
「例えば山奥で珍しいポケモンの生態を調べるような、フィールドワークみたいのなのもいいけど、僕はそれよりはもっと……基礎的な研究に興味があった。あいつらはどういう仕掛けで進化するんだろう、技を出すエネルギーはどこからくるんだろう、あとは……」ミソラの顔を見て、僅かに苦笑して、「どうやってあの小さなボールに収まっているんだろう、そういうことを、きっとあの頃は知りたくて」
 でも、と繋ぐ逆接に、陰りはなかった。
 『あの頃』に終止符を打つ。一旦目を伏せ、すぐに上げて。顔色はさっぱりとしていた。
「それは、随分前に諦めた。……今の夢は」
 少し、声をひそめて。
「親孝行することだ」
 恥ずかしそうに苦笑する。痣のある方とそうでない方の指が、居た堪れなさげにそわりと組まれた。
 微笑ましいと、一瞬思えて、あ、けど、その夢は。気付いてしまうと、ちくりとした寂寥感がミソラの視界を暗くした。そりゃあ親御さん泣いて喜ぶでしょう、とユキが笑うと、そうかなと彼も笑うけれど、泣いて喜ぶべき彼の親は、もうこの世界にはいないのだ。
 グレンとタケヒロもちらりと顔を見合わせている。それを横目に見てから、アズサは不味そうに呟いた。
「説教するつもり? この親不孝娘が、って」
「そう聞こえるなら、それでもいい」
 開き直るような言葉は強い。それまでの優しくてふわふわとした口調からは一線を画した。視線が集まる。それをものともせず、トウヤは厳しく冴えた眼差しでアズサを見据えた。目を見ない彼女に、聞いてくれ、と無言で訴える。師匠のそんな姿が、本当にらしくなくて、ミソラは内心驚いていた。
「でも、夢を叶える手段があるなら、それが少しくらい卑怯でもいいじゃないか。今僕は、夢を叶えるために、どうしたらいいか分からないから、……後悔して欲しくないんだ」
 語気は強くて、そして切実だ。
 アズサが顔を上げる。ようやく視線が触れ合う。トウヤは微かに、確かに笑って、ひとつしっかりと頷いた。
 正直、変さ、異様さはまだ、十分に尾を引いていた。作り物の映画か何かを見ている風に、ミソラにはどこかで思えていた。長台詞の見せどころを終えて、演者は演者のまま一服の溜め息。背もたれに寄りかかると、隣へと顔を向ける。お前は夢あるか? とバトンを渡したのは、多分その中で一番渡しやすかった人物だ。照れくさいなと鼻の下を掻きながら、助け船を出すようにグレンも話しはじめる。
「ポケモンマスターになりたいとは言わんが、そう呼ばれるようなトレーナーと死ぬまでに一度は戦ってみたい。そのためにはココウなんかにとどまらず、もっといろんな地域のいろんな奴、いろんな種族のポケモンと戦って腕と名声を上げて……まあ、セキエイのリーグに再挑戦して優勝するのが、当面の目標だな」
 お前は、とグレンから指名されたのは、随分火照りのさめた様子のタケヒロ。エッ、とぴーんと背筋を伸ばして、うーんと考えてから、何を思いついたのかハッと目を丸めて――アズサを見て、みるみるうちに顔を赤らめた。
「えっ、おっ、おお俺は……そ、その……だからあの」
「はいはーい! ユキの夢は、かわいーいお嫁さんになって、真っ白なウエディングドレスを着てバージンロードを歩いて、子供は五人作ってー、アズとおしゃれなカフェで贅沢ランチを食べながら、ダンナ様の愚痴とママさんトークをするのが、今一番のおっきい夢です!」
 挙手発現したユキの奔放さに、遮られたタケヒロはほっと肩を落とした。いいですねそれ、とミソラが笑う。それから隣の女へと。
「アズサさんの夢は何ですか?」
 話を振られた相手へ――依然表情を曇らすアズサへ、また全員の視線が集まった。
「……私の夢……」
 呟いて、戸惑った視線が下方へ泳いでいく。タケヒロより長く口ごもるのを、誰も何も言わず待っている。顔も上げられないまま、首を横に振った。その動きにも力がない。
「夢なんてないわ」
「小さなことでもいいし、今はなくても、昔の夢でもいいよ」
 あらかじめその答えを予期していたように、トウヤは素早く切り返す。
「夢なんて大それた言葉じゃなくても、何かやりたいこととか」
「そんなものない」
「じゃあ――」「じゃあ、どうしてアズは、ポケモンレンジャーになったの」
 彼女を追いつめ始めた男の一手を、先にユキが言い放った。
 声はきつかった。傍で聞いているミソラが心臓をぎゅっと縮めるくらい、追及は真ん中を射ていた。その時のアズサはもう、まるで言い訳を塗りたくる、悪さをした子供のようで、それが恐る恐ると顔を上げて――はっとする。唇に動揺がよぎる。表情が、熱を取り戻す。
 やりたいことなどない、と言う親友に面と向かって、ユキは今にも泣きそうだった。
「アズは、訓練生の時、誰よりいっとう頑張ってたよ?」
 どうして、と責めた厳しさは、あっけなく崩れ落ちた。確証に満ちた声なのに、頼り所なく言葉尻が震えて、握る拳に視線が向かう。おろおろと、何か言いたげに覗きこんだアズサへ、またぐいっと顔を上げて。愚かしいほど、真っ直ぐな瞳。この人は、親友のことを、呆れるくらいに評価しているし、絶対的に信じている。
「ユキが保証する、誰よりも成績良かったのに、誰よりもいつも努力してた。それって、どうしてもレンジャーになりたかったからでしょ? どうしてもレンジャーになりたい理由があったからなんでしょ? それって、夢とは違う?」
「……理由、なんて」
「アズ」
 ユキの子供みたいな掌が、ぎゅっと力強く、アズサの両手を取った。
「言ってよ。……ユキ、いつも一生懸命一生懸命、そのためにがんばってる優しいアズが、本当に大好きなんだから」
 ユキは多分、『そのため』があることを知っているのだ。……他の連中に見守られながら、少し唇を噛んで、瞼をおろしたアズサの目から、何の予兆も、音もなく。ほろり、と涙が零れた。
 滑らかな頬を、細い顎を、雫が伝う。手を離して、そっと目元を拭う。視線を上げれば、にっこりと歯を見せて、ユキは笑う。つられて思わず、アズサも笑って。ユキの夏の強い日差しのような、時折うんざりするほどの屈託のなさは、冷たいアズサの掌をいつも温めて、凍てつきそうな心まで、いつも簡単に溶かしてしまう。ミソラが想像して一人恥じらうようなそんな関係性が、多分この女二人の間なら、本当に運用できている。
 二人で目配せをして、それから少し声を上げて笑う。随分柔らかくなった表情で、ゆるくアズサは頷いた。
「……うん。ありがとう」
 気が付けば、昼も遅い時間帯になっていた。通りに面した大きな窓から取り込まれる光が、彼女たちの足元を照らしはじめる。意を決したようにアズサは双眸を向けた。向けられた男は、居住まいを正して、きちんと受け止める姿勢を作る。
 唇が開く。迷いの消え始めた瞳の色は、まだいつもの強情さからは程遠い、けれど。
「好きだからよ」
 その声も、いつもの挑発的な口調なんかからは、本当に遠いけれど。口を挟まない人たちを、一人ずつ見渡して、笑って目を細めて、目尻からまた、一筋が落ちる。
「ポケモンが好きだから。子供じみた理由で悪かったわね、でも、好きだから以上に理由なんかないわ。……ポケモンが好きだから、スズちゃんみたいな」
 声が詰まって、目元がまだ歪むけれど、それでも止まらない。さっき友人に握られた手のひらを、今一度、一人で固く握った。
「スズちゃんみたいな悲しい思いをするポケモンを、悲しい思いをするトレーナーを少しでも減らしたくて、だから、レンジャーになったのよ。本当にそれだけ。大それた夢なんか、今も昔も、持ってないわ」
 お兄さん、これで満足? ――彼女は自身の告白を、そんなふざけた言葉で纏める。ちょっぴりココウでのいつもの『レンジャー』が見え隠れして、どちらもきっと、彼女の素性なんだろう。トウヤは満足だと頷いた。頷きながら、堪えきれず口を手で覆って、そのまま俯いて表情を隠した。
 何だ、その反応は。それを見てグレンは笑って、アズサは眉間に皺を寄せた。その『眉間の皺』もまた、どうしようもなくレンジャーさんらしいな、とミソラも少し笑って。何よ、と彼女は足を組む。
「何笑ってんの、聞いといて馬鹿にする訳?」
「いやいや、こいつが笑ってるのは――」「黙れグレン」
 最年長の冷やかしを一蹴、ようよう顔を見せたトウヤはやっぱり笑っているが。
「違うんだ、ごめん、悪かった。その、いや……そうか、そうだよな」
 相当言い淀んで意味のない言葉を積み重ねて、納得するように、一人で結論付ける。聞き手の理解を考慮しない独り言。その感じがまた、どうしようもなく師匠らしい。
「いいな、それ。凄く良い」
「……あ、ありがとう」
「よし、じゃあ、ミッションだ」
 また飛んだ話に、今の話はなんだったんだよ、とタケヒロが一言。でもそれを聞いてまた笑う面々の表情が砕けて明るくなったから、これはこれで、良しなのだ。変さが晴れて、いや、変さが淀んだ空気を晴らして、いつもどおりが戻ってきた。こんな話も切り出せるんだな、とちょっと面白くミソラは師匠を見上げて、普段のぼんやりとした曇りを欠いた彼の表情を、惚れ惚れとさえして見つめて。トウヤはこんな風に夢の話を締めくくった。
「そういう事なら、君の夢を終わらせないためのミッションに、僕は僕の意思で、勝手に手を出させてもらう。君が僕を信じてるかどうかなんて、ここからは関係ない話だ」





 ――ルカリオが両手を構える。『波動弾』が来る、身を強張らせたアズサとタケヒロの前で、迎え撃たんとハリは片手を引いた。その両脇を潜り抜けて、二つの影が、いまにも技を放とうとするルカリオへ飛び掛かっていく。
 ポッポ達だ。何が起こっているのか理解も出来なくて、タケヒロは声も出せなかった。ハリの前へ飛び、窓とルカリオを結んだ直線状に到達したツーとイズが、揃って翼を強く叩いた。瞬間、二羽分の繰り出す豪風が、強烈にルカリオを『吹き飛ばし』た。
 グレンのポケモン達でも歯が立たないあのルカリオが、自分のポッポの攻撃を食らって、為す術もなく屋外へすっ飛ばされていく。動揺と恐怖のあまり動けないタケヒロが、それを頭の中でなんとか理解した瞬間、ワンテンポ遅れて飛び上がった。アズサから離れ、一目散にポッポの元へ。それを殴ろうと拳を振るって、二羽共に飛んで避けられた。
「あっぶねえことしてんじゃねえよお前ら――い、ででいででっ」
 ツーイズから頭に『つつく』の反攻を食らって逃げ惑うタケヒロを、豪快に笑い飛ばす声がひとつ。
「そう言うならボールの中に戻しとけ」
 戸口からグレンが、次いで外で戦っていた面々がやってくる。うっせーよと大男に食い掛かる子供へ脇目も振らず、駆け寄ってきたユキがアズサの右手を取った。ぐっと顔を歪め、僅かに肩を震わせる。触れて持ち上げただけに対するその反応に、ユキは軽く唇を噛む。
「薬、効いてないね」
「うん」
「でも大丈夫。ユキ、アズが二回も失敗するとこ見たことないよ。次は絶対アズらしいキャプチャができるから」
 クオンがどこに行ったか見てくる、とすぐさまユキは踵を返した。……まだ行けるか、と問うとすぐに頷いたノクタスをボールに戻して、トウヤがアズサに目を向ける。ミソラも傍にしゃがみこんで問いかけた。
「手首、大丈夫ですか」
「……どうしよう、ごめん」
 大丈夫な訳がない。見るに堪えないほど赤く腫れあがった関節が、それを物語っている。それに巻き付いている真っ赤なキャプチャ・スタイラーに触れてから、アズサは額を擦った。
「皆に助けてもらってるのに、私がこんなんで……」
「行ける!」
 力強く叫ぶタケヒロは、食いかかって揺すってもびくともしない大男を、それでも揺すろうとしている最中だ。
「ぜってー行ける! 自分を信じろ」
「ああ、次で決めよう」
 トウヤさえ無責任な事を言い出すと、ミソラもなんだか本当に、行ける気がしてくる。
「きっと、やれます!」
 根拠のない威勢が飛び交って廃墟に響いて、女は呆れ交じりに頷いた。
 僕が隙を作るから、と、出し抜けにトウヤは言った。ハリのボールを右手に弄びながら、窓の向こうへ顔を向ける。
「ルカリオを拘束して宙に打ち上げたら、その隙にキャプチャできるか?」
「……そんなことが出来るなら」
「いいよ。ミソラとタケヒロは、レンジャーを支援してやってくれ」
「一体どうやって?」
 アズサとミソラ、そしてタケヒロのおでこを押して引き剥がすグレンに懐疑を向けられながら、トウヤは何やら自信ありげにニッと笑んだ。
「考えがある。きっとうまくいく」
「クオンいたよ!」
 戻ってきたユキに場所を尋ねて、軽い足取りで早々に戸口へ向かう。ぽかんとしているミソラとアズサの横を通り際、その顔をちらりと見やって、
「カッコよく決めてくれよ、はぐれレンジャー」
 それだけ言うと背を向けて、とんとんと階段を下りていってしまった。
 はぐれ? と首を傾げるユキの一方、そういやそんなこと言ってたな、とタケヒロが呟く。はぐれ。――そっか、はぐれもの。言ってたな。確かあれは女の家で、四人揃ってて、言い出したのはアズサさんで。思い出すとおかしくなって、ミソラもアズサに笑いかけた。
「はぐれものですもんね、私たち!」
 だから、少しくらいの踏み外しは、見なかったことにして構わない。――アズサも苦笑する。薄暗さに導かれる日光が、その頬をつややかに照らしている。


 どうせついてくるなと言うのだろうが、ついていく以外の選択肢はない。あのルカリオに一人で隙を作り出すという秘策が何なのか単純に興味があるし、「お前は僕の保護者か」と言われれば、気分的にはそれもそうだ。窓枠や今にも崩れそうな配管に足を掛けて簡単に廃屋の屋根へ上がったトウヤの背中を、グレンは追いかけていった。
 気が付けば、日は西へ傾きつつある。空に流れる黄味がかった薄雲を仰げば妙に眩しく、眼前に広がる塵のような町を仰げば、それもまた西日にちらちらと輝いて、奇妙に眩しく。ふと立ち止まって、トウヤは振り向いた。こちらを見るその眼光が、また異様な光を帯びている昨今だ。
「どこまでついてくるんだ。お前の波動で色々と勘付かれる」
「お前、何か変わったな」
 返事をせず、軽い調子で呼びかけると、笑うでもなくじわりと細められる目は。いつだかに見た獣の眼光と、似たように白々しく見えた。
「変わった?」
「ああ、いつも泥沼に浸かってるような奴だったのに、ここ最近妙にさっぱりしたと言うか」
 肯定や否定を待てど、トウヤはやはり、笑いもしなかった。訝った様子でしげしげとこちらを窺うだけ。……あの女子供といる時のお前はお愛想か? それともあっちが、本当は素なのか? そう問うための勇気は、どこかで挫けてしまったようだ。グレンは苦笑して顎を撫でる。そんな言葉をこいつに寄越すのに、勇気なんてもの、昔は必要とさえしていなかったが。
「旅行から帰ってきてからだろ。キブツで何かあったか?」
 日を背に受けて影の落ちる男の表情が、その言葉に、俄かに生気を宿らせた。
 トウヤはやっと少し笑った。元の方に向き直って、錆び付いたトタンの上を、平気で軋ませながらまた進み始めた。
「キブツか。……どちらかというとハシリイかな」
「屋根が落ちても知らんぞ」
「危ないな、それは。お前が気をつけろ。僕より重そうだ」
 少し行くと、遠く眼下にルカリオの頭が見えた。こちらには気付いていないと見せかけているが、フェイクに違いない、とグレンは身構える。隙があると見せかけて油断させ、奇襲の方法を思考から探ってきているはずだ。
 トウヤはそれを見つけると、徐に腰を下ろした。屋根代わりの古びた鉄板が、ぎしぎしと歪を立てる。無言で見上げられ、もう帰れと目線で訴えられると、敵愾心を剥き出してきていた過去の少年を思い出す。場違いと分かっていても笑ってしまった。
「どうやって隙を作るつもりだ、あんなバケモノから」
「こんなとこで喋ったら全部筒抜けだろう」
「この距離なら聞こえはせん。そうでなくたって、お前の腹から既に全部筒抜けてるだろうが」
 分かってないなと言わんばかりの、あざけるようなにやつきが浮かぶ。刹那だけそれをちらつかせて、トウヤはグレンから顔を背けた。ルカリオの小さな背中を見ながら、あの低く不明瞭な声で、静かに語り始める。
「変な話をするが」
 こちらに背を向ける敵方を見ながら、徐にボールの二つ目を取り、開閉スイッチを押しこむと――無造作に、それを屋根の傾斜に置いてしまった。
 赤と白。両面を交互に見せながら、球体の機械は、その中身の命を伴ったまま、音もなく転がっていく。ついに縁に辿りついて、それが視界から下方に消えた。開放音がしたが、殆んど響かなかった。
「僕は悪人だから、神様とか、そういう類いのものから見放されていると思うんだ」
 死角にそれを見下ろしながら、トウヤは呟いていた。
 ……作戦の話なのだろうか。そういうまどろっこしい話し方も、こいつならしないでもなかった。ただ突っ立って待ちたかった。催促しなくたって、ぽつりぽつりと、彼は続きを話すだろう。けれど――嫌な胸のざわつきが、グレンにそれを許さない。この感覚は何だ。ひんやりと首筋に触れる冷たい手の幻覚に、グレンはじわりと汗ばみ始める。
「『カミサマ』……?」
「そう、おかしいだろう、僕みたいな信仰心の欠片もない奴が、こういう事を口走るのは。僕の父親もそうだった。突然言い始めた時は、一体何を言ってるんだと思ったよ。だからよく覚えてる」
 座り込んだ丸い背中は、どうにも頼りなくて、まるで昔のようだった。けれど、むくりと起き上がる影は、足元に暗く長く落ちて、それは今のトウヤのもので。黄金の光に満ちた世界で、それを蝕む違和感は、痣と包帯、そして男の存在そのもの。すう、と息を吸う音さえ聞こえた。こちらを背にしたまま、決意を新たにした声は、あからさまな程芝居じみて、
「『人に優しい子に向かって、運命は、それほど残酷な仕打ちはしない。だからこの子は悪い子だ』――息子の不出来を、誰かのせいにしたかったんだろうな。でも、それは、多分あながち間違いでもなくて……だから、僕は、」
 それなのに、迷子のように言い淀んで、振り向く瞳は、それでも尚、見慣れないぎらつきを帯びている。それと対面したグレンは、彼のその――小ざっぱりとした前向きな変化が、実は『前向き』ではないことを、ようよう探り当てようとしていた。
「僕は、大切なものとか、手放したくないものは、最初から持たない方が良かったんだ」
「……お前、それ、作戦と関係あるのか?」
「ないよ。変な話をするって言っただろう」
 肩を竦めて茶化すグレンに、トウヤは弱った苦笑を返す。背筋からひたひたと浸食していた不気味さは、もはや悪寒さえ引き起こさんばかりだ。夕暮れ前の屋根の上。キャプチャの手助けの為に上物の敵手を見下ろす、この非日常さ。それにほだされた、弟分の薄気味悪さから。早く逃れなければと、グレンは心底感じていた。
「なぁ、グレン、僕はどうしたらいいんだ」
「知るか。お前の問題だろ。もしくはもっと分かるように喋れ」
「残念ながら僕にも、よく分からない」
 でも、気付くのが遅すぎたのは確かだな、と呟く言葉は、行く矢尻さえ見せなかったそれまでよりは、幾分はっきりとしている。何に気付くのが遅すぎたのか、鱗片しか捉えられなかった言葉の数々から推理するのは、混乱気味の脳では難しかった。がりがりと頭を掻くグレンから目を逸らして、トウヤはまたルカリオを睨む。今度は一つ目のボールを手に取って、開閉スイッチへ指を掛けた。
「今更気づいたって、もう手放したくないものが多すぎて、重くて」
「例えば」
「……そうだな。この景色、とか」
 不似合いに詩的な返答が来たのに、それがあまりにもそっけなくて、グレンは笑うに笑えない。そんな顔にも全く関心がない様子で、ボールの内外を唯一繋ぐ灰色の突起を押しながら、トウヤは町を一瞥した。乾きと枯色を基調とした、雑多の渦巻く不均衡の、汚く醜い、ココウの町を。
「逃げ出したかったはずなのに、いつの間にかこの町にも、随分愛着が湧いてしまった」


 敵手は飛躍する。打ち込まれるは篠突くミサイル針。無闇に放たれる直線軌道の弾丸は躱すもいなすも容易いが、しつこく飛んでくる些細な攻撃はむず痒い程でもダメージを蓄積させる。ルカリオ――クオンは俊足に駆け始める。民家の裏に身を入れた枯れ草の影を追い始める。
 見えずとも、波動を読めば分かるのだ。曲がり角の先でノクタスは足を緩めている。きたるこちらへ正面を向け後退しながら腕を交差、繰り出すは――砂埃を巻き上げ直角に跳躍したクオンは、『ニードルガード』で待ち構えていた彼女の頭上を越えながら空中で『剣の舞』を舞う。一撃に屠る準備は整った。着地、振り向き、まずは『ハロウィン』の有無からだ。引いた両腕に素早く波動を精製し、『波動弾』を発射する。『ニードルガード』の不発と共に逃走していた敵方を、青い光球が追尾する。動きの遅いノクタスだ、瞬く間に必中技が背中を捉える、咄嗟蹴り上げた廃材を盾に直撃は免れたが。隠さんとしている胸の内が、その瞬間露わになる。『あれは喰らってはいけない』と。十分に警戒している。ハロウィンの援護はない。
 なぜ、と。
 距離を取られた相手を『神速』で即座に追い詰めながら、ポケモンだけに分かる言語で、クオンは敵に問うた。
 なぜ、アズサに加担するのか。
 再び練る波動は『闘』。近距離に放った『波動弾』を、相手もまた素早く練った飛び道具で応戦する。『エナジーボール』と『波動弾』の激突は衝撃波をもって二人を引き剥がした。距離が開く、眼前の戦いへ傾倒するノクタスの脳裏に、先の問いへの答えが一瞬過ぎる。アズサではない、ある人間の顔。その男への執念深い『情』と『憐み』と、ある種の『苛立ち』と――そうか。身を引こうとするノクタスへ、クオンは今度こそ躍りかかった。
 彼の望む答えは、このフィールドにはない。キャプチャされてやるつもりもないし、そうでなければ、主は娘がこの町に留まる事を決して認めはしないだろう。求める答えを持つものを探してみたが、これ以上小物を苛めるだけの戦いに、価値を見いだせなかった。無駄だったのだ、ココウという廃れた町の生き物に、期待を掛けてみたこと自体が。
 出力を高める。これを片付けたら、後はアズサのキャプチャ・スタイラーを破壊する。それでミッションは終了だ。その時、あの娘の顔は、果たして絶望に染まるのだろうか。
 ……我ながら雑念がすぎる、と、クオンはノクタスへ面と向かった。繰り出される『ニードルガード』の構えへ『フェイント』とばかりにしがみつき、退きながら腹部を強く一蹴、吹き飛んだノクタスはぎりぎり体勢を保って後方へ飛ぶが。
 ひたり、とその背が壁に付いた。しめた。袋小路。逃げ場はない。
 万策尽きたか、逃げ回っていたノクタスが正面切ってこちらに向かってきた。繰り出すは『ニードルアーム』。才はあると見た、その技から噴き出す波動は並みのポケモンより鮮烈だが、疲労の色はあまりにも濃い。クオンは勝利を確信した。せめて未来の成長のためにも、敬意をもって圧倒せんと、全霊の『インファイト』で迎え撃つ。
 拳に脚に体中に、技を放つための衝動が駆け巡る。攻めに全てを捧げる今、感情は制御を失い、稲光と化して体躯を迸る。そこに拭いようもなく混じる、怒りと悲しみの色。クオンは薄く気付いた。この一打は、またひとつ、あの子の希望を絶つだろう。
 それでも技は止められない。守りを捨て去る大技に、半端な制止は通じない。微かな迷いは、敵を殴打する衝撃が、快感を伴って吹き飛ばすはずだ。
 例えその迷いが、抗いようもなく大きなものと、突如すり替わったとしても。
 流れ込む波動が不意に『消え失せた』、次の瞬間だった。
 ついに肉薄し、今しがた打ち合おうとした拳が、『ヒトのそれ』とすり替わったのは。
 ――クオンは目を見開いた。彼にすれば細くか弱なヒトの四肢が、薄い皮膚が、軟弱な骨身が、大技を放つ己の目の前に迫っていた。それにしては強靭なその思考が、波動となって、けたたましく脳裏に押し寄せた。『読む』と言うよりは、まさに『押し付けられる』ような。その量は、歴戦を潜り抜けたクオンの処理能力を遥かに超える。思考が――思考が、雪崩れ込んでくる。
 読むでも精査するでもなく、思いはそれ自ら渦をなして、クオンの牙城を崩落させる。
 動きを止めよ。思わず悲鳴じみて願った。ああ、どうか。その刹那。
 男は微かに笑った。


「――あ、」
 声を上げる事しか、グレンには叶わなかった。
 離れろと言うから遠方にいて、見ていろと言うから見ていたのに。行き止まりの道にわざわざ誘き寄せたハリがニードルガードを読まれて、フェイントで腹蹴りを食わされる、壁際に追い詰められる、ルカリオが『インファイト』の挙動を見せる、その途端。ハリがルカリオを呼び込んだ行き止まりの、その一角の民家の屋根から、突然トウヤが飛び降りたのだ。ルカリオとハリの間めがけて。何がしたいのかちっとも分からず、無意識に取った腰のボールは繰り出せなかった。出したところで間に合う訳がない。
「あのバカが……!」
 見ていてそれで、どうしろと言うのだ。悪態さえもう届かない。壁際で動かぬハリのかなり手前、トウヤがガード姿勢を取りながら着地したその瞬間その場所で、ルカリオは『インファイト』を発動した。


 最初に繰り出した右拳が、その左の胸を、狙いと寸分に違わず貫く。
 ポケモンを殴る手応えと、なんら変わりはなかった。だからその時、『ヒトを傷つけてはならない』主との誓いを冒した罪悪と、同時に獣めいた攻撃の快楽が、人獣の内に襲い掛かった。







 
 
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