――巨体の両眼が、光を失った。ゆっくりと横に傾き、重力のままに身を倒す。轟音。茂みが木々が一斉にざわめき、いくつかの羽ばたきが、惑うように湧き起こっては遠ざかっていく。残ったのは、激しく打ちつける自分の心音と、荒い呼吸の音。目の前のハリは、肩を揺らしさえしない。沈黙した鉱物の敵手を、黙って見据え続けている。
 夕暮れ。甘い金色の世界。隙間から差す木漏れ日が、ちらちらと踊っては網膜を刺激する。腰を抜かしたまま動けないトウヤの耳は、次第に大きくなる急いたアサギの足音に、今度は茫然と傾いていた。
 柔らかく積もった枯葉が舞う。足音が草を折りながら踏み止まる。その背から誰かが飛び降り、誰かの手が肩を掴んだ。強引に振り向かせられる。今朝見たばかりなのになんだか懐かしい。鬼のように釣りあがった母の切れ長の目は、夕暮れの陽の中に、普段より潤んで見えた。
「母さん――」
 漏れる無為の呼びかけには、少しの抑止力もない。ひと目合った途端、振り上げられた右手が、しなやかに空を切って迫る。思わず目を瞑った。左頬を起点に首が吹き飛びそうな衝撃。響くのはけれど小気味良い、乾いた音のひとつだけ。続く焼けるような痛みがくると、反動的な涙が、じんわりと目尻に染みてくる。滲んだ母の顔は、強張りながら自分を見て、大きな大きな安堵の溜め息……その音は、冒険の夢から現実へ、少年を引き戻していくようだった。
 また別の足音が駆け寄ってくる。立ち上がったアサギの見守る中、無言で強く抱きすくめられた母の肩越しに、その人を見上げていた。
 長い長い影が、自分と母とに覆いかぶさる。見上げる姿は、決して頼もしい父親像ではなかった。一体何徹しているのだろう、髪はぼさぼさだし、逆光にしたって憔悴しきった目元はひどく窪んで見える。こちらは本当に数日ぶりな懐かしい父の顔は、くたびれきった表情でこちらを一瞥、けれど向こうで動かない怪物へ視線を移した途端に、あの子供みたいな輝きを矢庭に取り戻していた。
 舌なめずりして、わしわしと頭を掻く。数日振りに見た妻と息子の横を素通りし、吸い込まれるようにそちらの方へと歩きながら、ぼそりと呟いた。
「あーあー……始末書モンだな、こりゃ」

 ホウガの研究チームの心臓部である中央研究施設、そのポケモン保管庫の鍵が行方知れずとなったのは、その頃のホウガのリューエル団員の内では、何が何でも隠し通したい失態であった。
 盗難されては鍵を変え、数日置いてまた盗難のいたちごっこをもう三回は繰り返している。いかに鍵の保管場所を変えても簡単に掠め取られてしまうから、犯人は身内の人間というのが専ら通説になりつつあった。その盗難事件の初の実害、深夜に人知れず解放された檻から実験体のサナギラスが脱走したことは、今のところ隠し通している事態が上層部に発覚しかねない一大事だ。それが身を潜めているとされていた森にこっそり立ち入って案の定危険に身を置いた息子と、件の脱走サナギラスへの興味とで、天秤にかけるまでもなく後者を優先した父。息子より派手に叱責の平手を食わされるのは、結局はいつもの光景だった。
 親子帰っていく物寂しい畦道。光と闇の混じりあう、美しい黄昏の空に、いつの間にか星々が輝きはじめる。アサギの背中に仰向けに寝転がって、ゆさゆさと揺られながらそれを見上げているのは、なんとも言えず気持ちのいいものだった。二人の新婚旅行先でタマゴから孵化したのだというバクフーンのアサギは、愛情の振り分け方が下手っぴな母が一番大切にしているポケモンだ。その背中は大きくて炎タイプ特有に温かくて、身を任せられる安定感がある。寡黙だが嫌な顔せずプロレスの遊び相手になってくれるアサギ自身のことも、トウヤは結構好きだった。
 数日ぶりに再会した父と母は、いつになく言葉少なであった。トウヤに分からない話を、平らな水面に小石を放って揺らすように、ぽつりぽつりと続けていた。分からないからか、立入制限区域に出入りした高揚感の反動か、横になっているとどっと眠気が来る。アサギの歩幅の定期的な揺れに体を委ねたまま、子供用のトレーナーベルトにひとつだけ引っ付いているサボネアのハリのボールを撫でて、うとうとと瞼を下す。アサギの前方を歩いて帰る両親の声だけが、曖昧な靄へ沈んだ世界に嫌に浮いて聞こえていた。
「ニードルアーム?」
 驚き気味な父の声。
「ハリが使ったって言うのか? んな馬鹿な。半年前に生まれたばかりだぞ」
「サナギラスの打撃痕の少なさを見る限り、ある程度の技で弱点を突いたとしか考えにくい。『種爆弾』ではなさそうだったし」
 ポケモンの戦いに詳しいのは、トレーナーである母の方だ。サナギラスを捕獲したボールも今は母の手の中にある。やや暗い口調は、やはり自分が勝手に森に立ち入ったから、怒っているのだろうか。
「ハリは天才なんだよ」
 母親が言う。天才ねぇ、と父親が言う。微睡の中へ引きずり込まれていくトウヤの意識は、記憶は、そのあたりから、随分曖昧になってくる。
「どう見たって天才的なバトルセンスを持ってる。性格が温厚だからまだ救われてるけど、正直トウヤに持たせるには、ちょっと勿体ないくらいの個体だよ」
「取り上げるのか、ハリを」
「まさか、そんな可哀想なこと。しっかり懐かせてるのに……でも、惜しいなぁとは思うんだよね。もしハリを育ててるのがミヅキだったら、今頃凄いことになってたかもしれない」
 視界が白み始める。瞼越しに差し込んでいる陽光を、脳が認識し始める。薄らいでいく声は、けれど確かに、今日までの間、少年の耳に残っているのだ。
「才能なら、ミヅキはかなり見所あるよ。けど、トウヤは」


 ぽん、と頭を叩かれるのが、合図だった。
 ふと目を開けた先には、文字の羅列があった。緩慢とした意識に、単語が飛び込んでくる。影分身。……そうだ。何をしていたのか思い出して、手元から顔を上げた。
 白昼。裏庭。戸口の傍に腰かけている自分。ハリの顔があった。真ん前だ。視線だけずらせば、その斜め後ろに、……またハリの顔があった。そしてその横に、ハリの顔。その背後に、その横に――狭い裏庭一面を埋め尽くす、棒立ちでこちらを見下ろすノクタスの影。軽く三十体は超えるだろうか。その対の月の瞳が、図らずも恐怖感を植え付けそうな虚ろさで、すべてこちらを見つめている。どこを見ても目が合う状況。はたと顔を上げれば、頭上にも棒立ちの案山子草が、微動だにせず浮いているではないか。
 これはこれで、良い精神攻撃になりそうだが。ハリの幻影にずらりと取り囲まれながら、トウヤは案外落ち着いた苦笑を滲ませた。
「次は、影を動かす練習をしよう。一体でも思い通りに動かせるようになれば、十分実戦に投入できる」
 トウヤの目の前にいたノクタスの一体が、コクリと頷く。途端にその他のノクタスは全て幻よろしく掻き消えてしまった。
 どのくらい居眠りしていたのだろう。欠伸をしてから視線を戻す手元の本は、影分身を応用した戦術を紹介する戦闘指南書だ。古書店に買い取ってもらおうと思って縛っていた中の一冊だが、売る前に影分身のことを思いついてよかった。残りの部分を一通りさらって、また他の本と括り直す。使えそうだと思った本はとりあえず本棚や別のスペースに収めておく質だったが、最近は考え方を変えた。また読みたくなったら買いに行けばいい。
 括り終えて、分身のハリが足も動かさずに右から左に空中移動しているのを、本体のハリと一緒にぼんやり眺めていた時だった。
 表から呼び鈴の音。……聴覚がいいのは便利だ。見えなくても耳を働かせていれば、これから何が起こるのか、想像を膨らませて身構えることができる。おばさんの足音がやや急ぎ気味にこちらへ向かってくる。トウヤはハリに合図して、空を飛ぶ影を消滅させた。
 ギィと裏庭と家を隔てる扉が開く。今しがた存在に気付いたように、トウヤは顔を上げた。
「おばさん」
「ああ、トウヤ。やっぱりここにいたのかい」
 壁にもたれかかって座っているトウヤへ視線を下してから、叔母は酒場の方をそれとなく示した。
「誰だか知らないけど、あんたにお客さんだよ」





 中央商店街の賑やかさは、いつも通りの顔をして三人を迎え入れる。ミソラを先頭に早足で裏路地を駆け抜ける間、追っ手の追撃はなかった。ここまで来てしまえばほっと一息、と言いたいところだが、相手はユニオン幹部クラスの人間が使うポケモンだ。人混みに紛れる、なんて誤魔化しは通用しない可能性もある。――というトウヤの昨晩の見解を示して、ミソラは力のこもった声でアズサとタケヒロに訴えた。
「ひとまず私の家に帰りましょう。やっぱりお師匠様がいてくれた方が心強いです」
「でも、ご家族に迷惑がかからない?」
「大丈夫ですよ。仮にもポケモンレンジャーですよね? 娘は殴っても罪のない市民を易々と戦闘に巻き込んだりしないだろう、って、お師匠様言ってました」
 我先に歩いていくミソラの背中は、なんだか頼もしくさえある。けれど、先程のルカリオの攻撃を防いだ術については『とっておき』以上何も口を割らないから、恐ろしくも感じられた。
 人波を縫うように三人は通りを南下していった。敵襲を察知しようとそわそわ首を動かすタケヒロの肩の上で、二羽のポッポもくるくる頭を回す。二人の子供に挟まれるアズサは、ただ前を見据えていた。傷が深いのか体調が悪いのか、思いつめているのか、表情は限りなく固い。
 前にある二人の背中を見、不意にタケヒロは違和感を覚えた。なんだか二人が、普段より遠い。妙なのは背中だけではない。歩き慣れたいつもの道。それさえ違って見える。往来する人々が皆敵であるような刺々しい緊迫感が、いつもの顔をしていたココウを、別の顔へと塗り替えていく。失われなんてするはずもないのに、自分の町が、足元が消えていくみたいで、質の悪い浮遊感が焦燥を塗り込み始めていた。
 主の顔色が緊張のせいだけでなく変わったのを、ポッポ達が覗きこむ。戸惑いを振り切るように頭を掻こうとして、重いヘルメットに遮られて、舌打ち。苛立ちのままに口を開いた。
「でも、罪のない市民をっつったって、あいつ普通に攻撃してきたじゃん。今だって回り巻き添えにして急に襲ってくることもあるんじゃ……」
「ヒト相手に攻撃するのは、私だけよ」
 アズサは首を振る。なぜだかその顔は、その瞬間、打って変わって微笑んで見えた。
「壁に叩きつけられた時の一撃は確かに攻撃を受けたわ。でも、ピエロくんとミソラちゃんが出てきてからの技は、『波動弾』に見せかけた『癒しの波動』だった。ミソラちゃんに妨害されたから、結局効果はなかったけど……凄く器用なのよ、彼。ポケモン相手には容赦ないけど、相手が人間だと絶対に傷つけない。でも私とは小さいときよくじゃれあってたし、訓練生時代も、こうやって生身で指導を受けたりして」
 懐かしいな、と額に手をやる彼女は、普段より幼く――というより、二人には物珍しく見える。途中から懐古する声は艶やかで甘かった。それがまた、なぜかタケヒロの胸元を、掻き毟るように波立てていく。
「クオンっていうの。私、子供の頃からずっと、彼のこと大好きだった」
「……でも……」
 振り返ったミソラもまた、困惑した表情を浮かべている。彼女の赤い隊員服の、膨らんだポケット。その中には、今、その子供の頃からの友人にぼろきれのように傷つけられた、チリーンのモンスターボールが入っているはずなのだ。
「そのクオンが、なぜ、攻撃してくるのですか?」
「そうね」
 右手の手首へ左手が、庇うように添えられる。昨日捻った痛みはどうなったのだろう。じゃれあっていると言ったってあんな風に家が揺れる程壁に叩きつけるなど、相手が手負いなら、どう見たって傷つける気じゃないか。
 それでも彼女は微笑む。その表情が何を意味するのか、ミソラにもタケヒロにも分からなかった。
「私がココウであんまりサボってたから、クオンも怒ってるのかな」

 足早に通りを抜け、酒場に逃げ込んだ三人が目にしたトウヤの来客は、ミソラ達が練っていた作戦にとってはあまりにも想定外だった。
 カウンター席に腰かけていたトウヤが、何気なくこちらを向く。問題はその横だ。一つ空席を挟んだ隣に腰かけていた人物。遅れて振り返った。やってきた三人を見て、その目がじわりと細められる。――冷やかな衝撃は、ミソラとタケヒロを刹那の間硬直させた。黙りこちらに焦点を結んだ厳かな双眸を、アズサもまた、睨むように見据える。
「どうしてここに?」
 素早く射られた娘の一手は、極めて沈着な父親へと。あのルカリオはいない。けれど昨日彼女に危害を加えたのは、ポケモンではなくこの野郎だ。彼女を庇うように前に立ったタケヒロのことは、まるで眼中にないというように、父親は一瞥もくれなかった。きっちりと赤い隊員服に身を包んだ男は、立ち上がり、それもまた赤い隊員服姿の女へ歩きながら、抑揚の少ない口調で話す。
「ミッションを与えよう、アズサ」
 けれど声色はきっと、部下と言うよりも、我が子にかけられるそれなのだ。その口から飛び出した不可解な単語にアズサは返事をせず、怪訝と眉間に皺を寄せる。男はただ淡々と続けた。
「ルカリオをキャプチャすることのみがクリア条件だ。期限は日没。報酬はココウ駐在の任期終了後もココウに留まる権利。悪くないだろう。健闘を祈る」
 それだけ告げると、横を抜け、足早に立ち去って行ってしまった。
 場違いに陽気な呼び鈴がまた空間を満たして、尽き果てるように収束する。ミソラもタケヒロも、引き止めることも追いかけることもできず、その背を見送った後の視線はアズサへ注がれるだけだった。唇を固く結んで、彼女の眼差しは戸口の外を遣る瀬無く映し続ける。
 座ったままそれらを眺めていたトウヤが、手元の水を一口飲んで、小さく息をつく。それと女とを交互に見比べて、遠慮がちに発せられるハギの声はいつもより随分活気に失せていた。
「いらっしゃい。今日は見慣れない顔が多いね」
「……お邪魔します」
 俯き気味に踏み入るアズサを追い越して、タケヒロが我先に駆けこむ。他にやり場のない鬱憤の、向かう矛先は決まっている。『化け物』よばわりする男の普段通りの顔色に、熱気のままに少年は吐きかけた。
「なんであいつと一緒にいたんだ、裏切りじゃ――」
「何の話してたの、あの人と」
 横入りした声の声量ではない強さに、けれど口を紡がざるを得なくなる。
 振り向くと、彼女の男を見据える視線の厳しさは、父親に向けていたのと同等か、或いはそれ以上にも見えた。怒りだけじゃない、動揺や恐怖も内包した、複雑な色味の暗い瞳。良からぬ雰囲気を察したのか、ハギが黙って裏へと下がっていく。どうして彼女がそんなにも怖い顔をするのか、タケヒロにもミソラにも、分かるようで、分からない。
 ハギが出ていくのを見届ける猶予を取ってから、ゆっくりと問いへ返答するトウヤの表情は、なのに飄々として見えた。
「君の普段の様子とか……悪いけど正直に話したよ。僕もユニオンの幹部なんか敵に回したくない」
「お、お前ッ……!」
「話されて困るような事してるなら、文句言われる筋はないだろ」
 無頓着な言葉が簡単に引金となった。熱し切っていたタケヒロの顔が、急激に冷やかになった。大股で歩み出す。そんなにも自ら接近したことがここ最近であっただろうか、落ち着き払った顔をし続けるトウヤへずかずかと近づき、突如全力で振りかざした右拳を――背後から飛び付き食い止めて、ミソラは甲高く叫んだ。
「二人が喧嘩したって、意味ないでしょ!」
 胴を抱え込んで、引っ張り戻す。タケヒロは舌打ちしながら拳を下した。
 店の隅で眠っている大きなビーダルが、ゆったりと尻尾を動かす。顔を火照らせさえして唇を噛んでいるタケヒロ、それを少し困惑して見守るポッポ達、黙っているアズサ、他人事のような冷めた目でそれらを見ているトウヤ――すべてを見渡して、胸の内から湧き上がってきた虚しさに、ミソラは途方に暮れる。倒すべき敵が見えているのに、どうして内輪で僕たちは、険悪になんかなってるのだろう。
「お前、ねーちゃんにココウに居て欲しくないのかよ」
 タケヒロが唸る。違う、多分、そうじゃない。そうじゃないと言えばいいのに、トウヤは否定しなかったし、肯定もしなかった。その視線は、タケヒロを一瞥した後は、まっすぐアズサの方へと向けられた。
 やっぱりだ。それを見てミソラは確信する。協力的でないのではなくて、どうしていいのか分からないだけ。そうなら自分たちと同じだ。
「アズサさんは、ココウにいたいんですか?」
 ミソラの声に、残る全員の視線が、女の方へと向けられた。
「ポケモンレンジャーを辞めるって、昨日言っていたこと、本気なんですか? 私、アズサさんが本当にレンジャーを辞めたいのか、どうして辞めるって言ったのか、ココウにいたいのか、それともユニオンに行きたくないだけなのか、全然分からないんです」
「君がレンジャーを辞めたいなら、さっきのミッションにも乗る必要はない」
 トウヤが言葉を継ぐ。冷たいが、真剣だ。愛想無しだって、彼なりに心配しているのだ。その表現の仕方がとんでもなく不器用なのを、ここまでの色々な出来事を通して、ミソラは把握してきた。
「でも、もし本当はレンジャーを続けたくて、その上でユニオンに行きたくないのなら、あのルカリオをキャプチャするのに僕も手を貸せる。……どうなんだ、君の本心は」
「ねーちゃん、一緒にあいつを倒そうよ」
 な? ――言葉と共にタケヒロが差し出すのは、ここまでずっと握りしめていた、彼女のキャプチャ・スタイラー。
 アズサの視線が、それへと落ちる。瞳が揺れた。戸惑うように唇が歪んで、それから、小さく開いた。
「……私は……」


 あの弱かった女の子が、か。
 蘇る光景に、懐かしさで目がくらみそうになる。泣きじゃくる汚れた少女と、黒い手を差し伸べる少年と。もう何年前だろう? あの出来事は、確かに彼の契機だった。彼を前進させたのは確かにその事件で、ともすれば背を押したのは、その女の子だったのだ。
 口の端が上がる。だとすれば、彼女はまた、心躍る戦の相手を与えてくれたに違いない。今日も味わうことができるのだろうか。そう思い始めれば、もういてもたってもいられなくなる。足元が浮き立つようだ。爆炎に逆らって駆け抜けていく、あの破裂しそうな高揚感!
 咎める者はいない、どうせ誰も見ていやしない、失態を演じた借りもある。様々に巡らせる言い訳を杖に、腰を上げる。何より、己の思う通りに生きるなら、選ぶべき選択肢は一つだ。
 薄暗い家を出、大きく伸びをする。今日も空はすかんと青い。ほら見ろ、最高のバトル日和じゃないか。
 ――今にもスキップを踏まんばかりの喜びを体に纏わせながら、グレンは酒場へ向かい始めた。


「……私は、自分でも、自分がどうしたいのか分からない」
 それが求められた答えでないことは、自身でも気付いているのだろう。だけど、とアズサは継いだ。一呼吸置いて、決意したように、顔を上げる。
「だけどあの人には、どうしても屈したくない。だからミッションは受けるわ」
 ――宣言する語気は強い。普段の、連中を尻に敷く彼女の頼もしい気概が少し戻った気がして、それぞれはにやりと笑み、しっかりと頷いた。







 
 
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