『どうして泣いているの』
 そう問うた少年の顔は、もう思い出すことができない。
 景色を蘇らせようとすれば、厳しすぎた白日の光に、その顔は呑まれてしまっている。くすみがかったセピア色の、褪せた空色。褪せた町並み。涙の張り付いた頬を拭う。思い返すと恥ずかしい。きっとあの時の自分は、相当ひどい顔をしていたはずだ。涙と鼻水と、泥汚れに塗れて。
『おとうさんが』
 喘ぐように訴えた。あどけない自分の声、からからの喉の痛みさえ、鮮烈なほど覚えているのに。
『スズちゃんのこと、あきらめろっていった。あずさは、おとうさんのむすめだから』
 支離滅裂な言葉にも、微笑んでくれた口の形……零れた歯の白さしか、思い出すことができないのだ。
 彼は言う。頼もしく、恐れもなくひとつ頷く。
『大丈夫。僕たちが、なんとかする』

 ――だから、助けて、王子様。

 アズサは瞼を上げる。そっと身を起こし、まだ傍に眠っているチリーンの冷たい体を、確かめるように撫でた。
 延々と続く白く枯れた大地。ココウの外の岩石砂漠から、その地平から臨む朝日が、痺れる程眩しく網膜を貫いている。
 目を細め、重い体を摺って岩陰から這い出る。鮮やかな緑の平原の中、水気のない町が浮かんでいた。まだずきりと痛む右の手首へ触れながら、眼前の景観へ抱く慕情に、女は少し戸惑う。好きではない、けれど思い出深い、ここはそういう場所。
 この町で刻む一日が、また始まった。





 訝って目を細めたトウヤの反応は至極真っ当であるはずだし、おののいて思わず身を引いたミソラとタケヒロの反応も、また真っ当であるはずだ。
 舞台は翌朝、ハギ家の裏庭、そこにいるはずのトウヤへ会いにミソラが戸を押し開けた瞬間。出会い頭に互いを見て沈黙した両者の傍ら、突っ立っているノクタスだけが、いつもの微笑む仏頂面のまま軽く小首を傾ける。並んだ『二体』、全く同時のタイミングで。
「なんだその恰好……」
 壁際に座ってこちらを見上げる呆れ気味のトウヤの声を、いや何ですかその二体目のノクタス、と突っぱねたい衝動にミソラは駆られた。問われたタケヒロは「えっ」とおののいたまま声を上げ、それから自分の腹あたりを顧みて、自分が珍妙な姿をしていることをようよう思い出した。「あっ」小さく零れる声。慌てて足を開き胸を張る。そう、その珍装束におののきポーズは似合わない。
「武装だ、武装。いざとなったら、俺があの糞親父と戦ってアズサを助ける!」
 ふんぞり返った武装モード――拾い物のヒビ入ったヘルメット、古雑誌を寄せ集めて作った存在意義の微妙な鎧、左手には盾の鍋蓋、右手には武器の鉄パイプ――のタケヒロの両肩で、ポッポ達もどことなく呆れた様子。いつもの集合場所にこの格好で現れた彼を見て、ミソラもやっぱり似た呆れ顔を披露していた。
 少し涼しい朝だ、朝と言ってももう殆んど昼に近いけれど。開放的な空の高みを悠々と泳ぐ薄雲の白、その自由さを見ていると、裏庭でぼんやり過ごしている師匠のことを『引き籠っている』とさえ称したくなる。このところ、彼が外出してココウスタジアムに銭稼ぎに行くのと、こうやって裏庭でダラダラとポケモン遊びをしているのとでは、半分半分くらいだ。その比率は以前より後者に傾いている。半分の時間をこんな閉鎖空間で浪費することを考えると、なんというか、勿体ない。
 得意げな武装小童に、引き籠り師匠は正直な苦笑を返した。
「吹き飛ばししか使えないポッポ達の代わりに、か」
「使えないんじゃなくて使わせないんだ、自分の代わりにポケモンを傷つけるなんて外道なこと俺はしない!」
 そう言って更にふんぞり返る。ココウスタジアムで享楽ついでに小銭稼ぎする連中を毛嫌いし、ピエロ芸の投げ賃という平和的方法でポケモンと生計を立てるのはタケヒロの信念だ。闇雲に友人を傷つけることは彼の正義に反する。……けれど、やっぱりポッポたちがちょっと呆れ気味に見えるのには、あえて気付かないようにしているのだろうか。
 それについてトウヤは別段何も言わず、ちらりとミソラへ視線を移した。
「何か用事か」
「えっ? あー、えっと」
「いや何だよその二体目のノクタス」聞いてくれてありがとう、タケヒロ。
「ああ」
 トウヤはこちらから目を外して、目の前に立っている二体の案山子草を見上げた。
 ぱちくりと同時に瞬きをする、計四つの月の瞳。――それが六つに見え始めたから、眩暈がしたのかと錯覚した。
 うわ。ミソラはあんぐり口だけ開いて、目も開いて、声は出ていかなかった。隣でタケヒロも目玉がこぼれ落ちそうなくらいに瞠目した。二体の右側の空間が、文字通り歪んでいく。たっぷり水を含んだ緑の絵の具で、景色がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられる。ぐにゃぐにゃぐにゃ。段々緑が人型になる。ぐにゃぐにゃむくむく。どんどん描き出されていくは、そっくり三体目の案山子草。
「うわあああ……」
 もっともなリアクションを上げながらタケヒロは後ずさりし、その肩でポッポ達は相変わらず呆れている。ミソラは固唾を呑んでその離れ業に魅入った。何もないところから幻よろしく湧き上がってきた三体目のノクタスらしきものは、けれどきっちりノクタスとして完成しなかった。緑とその他がまぜこぜの色彩がもやもやと蠢く中に、黄色い瞳の部分だけが異様にクッキリとして、執拗にこちらを見つめている……それが煙のように棚引いて消えると、同時に左側のノクタスもフッと姿を消した。残った真ん中のノクタスがふるふると小さく首を振り、一部始終を座って眺めていた主人は真顔で腕を組んで、
「今は一体が限界か」
「な、なんだ、なんだ今の……」
 そう呟くのに被さって、家の奥まで後ずさったらしいタケヒロの声が少し遠く聞こえる。答えを言わずに、残ったノクタス(多分、本物のハリ)を見つめながら黙考を開始した師匠の横で、ミソラも少し考えた。それから声を上げた。
「影分身!」
「そう、正解」
「本で読んだんです、そういう技があるって。ノクタスも使えるんですか?」
「使えるノクタスもいるんだ。この分だと、訓練すればハリも使えるようになりそうだな。強制的に使い方を教え込む道具もあるらしいが、うちにはそんな便利な物はないから」
 またハリの左側がゆらめきだして、ノクタスが二体に増殖する。増えてしまえばどっちが『影』なのかなんて、もう見分けはつかなかった。
「ハリは天才なんだよ」
 ミソラ達には視線もくれず、独り言のようにトウヤは言う。
「キブツに行った時、影分身の使い手とちょっとやったんだ。それでついさっき、あれが使えるかって言ってみたら、少しもしないうちにこういう感じに」
「ハリ、すごい」
「ああ、僕みたいなのがトレーナーで可哀想なくらいだ。上手い人についていれば、絶対にもっと伸びるのに」
 目前で起きている事象の割に彼のテンションが低いのは、そういう自責からなんだろうか。またハリが小首を傾げる。同時に影は消えてしまった。
「それで?」
「え? ……あ、今日の稽古はお休みにしてくださいって言いに来たんでした。タケヒロと、アズサさんに会いに行こうって話になって」
 ケイコ? タケヒロの疑問形。扉の向こうから戻ってきて、怪訝とした様子でひょいと顔を出した。
「稽古なんかしてたのか」
「うん、最近始めた。だって弟子だもん」
「お、おう、そうだったな」
「お師匠様も一緒に行きませんか? アズサさんち」
 トウヤはハリをまじまじ見つめて、まだミソラ達の方を見なかった。
「僕はいいよ」
「……てめぇ、昨日のこと、心配じゃねぇのかよ。連れていかれちまうかもしれねぇんだぞ」
 武装少年が急に喧嘩腰になったので、話を切り上げることにする。じゃあ行ってきます、と友人の背を押してミソラは踵を返した。
「俺はぜってぇアズサを助けるからな!」
 最後にタケヒロが吠えた。トウヤは結局こっちを見なかった。
 昼でも暗い廊下をタケヒロを押しながらずんずん進み、酒場の冷蔵庫からソーダ水を取り出して一服。アズサの家までリナを連れて歩こうか迷ったが、リードをつけていると急にあの父親と戦闘になった時に邪魔だろうから、今日はボールの中にいてもらうことにする。……と説明すると、まだリナに言う事聞かせられないのかよ、とタケヒロは口を尖らせた。
「言うこと聞かせられないんじゃなくて、リードつけてないとどっか行っちゃうかもしれないじゃん」
「普通はリードつけなくてもどこも行かねぇんだよ、それが言うこと聞かせられてないってことだろ? 一体あいつと何の稽古してんだよ、全く」
「殺しの稽古」
 なんでもないようにミソラは言う。対してタケヒロは、ソーダ瓶を咥えようと口を開けたまま固まった。
「……なんて?」
「だから、殺しの稽古」
「何……それ?」
「殺したい人がいるので殺しの稽古をつけてください、って言ったら、お師匠様が」
「つけてやるって?」
「うん」
「何考えてんだ、あいつ……」
「でも相手が本当に人なのか、ポケモンなのかもよく分かんないし、まずは自分からって言われたから、まだリナとは訓練してないんだよ」
 急に馴染みのない単語を聞かされて頭を抱えかけたタケヒロが、更に渋面で眉をひそめる。
「自分から……?」
「うん」
「お前、喧嘩する訓練でもしてんの?」
「そこまでじゃないけど、トレーナーも少しは強くなきゃポケモンについていけないから、って」
「んで何してるんだよ」
「背が高くなるためにはどうしたらいいかとか、足が速くなるためにはどうしたらいいかとか」
 ……あ然とした後、ちょっとホッとした顔を見せる。そんなことか、と頭を掻いて、それからあっと顔を上げた。
「そういやお前、昨日野菜炒めもりもり食ってたな。ずっと野菜嫌いで食わなかったのに」
「お師匠様が野菜も食べなきゃ強くなれないって言うから、食べようと思って」
「……お前、うまいこと言いくるめられてるぞ? それ」
「そうかなぁ」
 そんなことを言いながらソーダ瓶を片付けて、酒場を出、表で花壇に水をやっていたおばさんに笑顔で行ってきますを告げる。さあ、戦いへ気持ちのスイッチを切り替えて、いざ彼女の元へ。意気揚々と、方や勇み緊張気味で数歩踏み出した二人は――
「待ちなさい」
 すぐに聞き慣れた声に呼び止められて、足を止め振り返った。
 昼が深まり、人の増え始めたココウの中央通り。その雑踏の端の方から、トウヤがこっちを見ていた。引き籠りから脱し、酒場の外まで出てきて、そして微妙に気まずそうな顔で。おばさんが目を瞬かせてそれを見上げていて、背後にはハリが立っていた。
「んだよ、一人でポケモンと遊んでろよ」
 タケヒロが威嚇とばかりに低く唸る。きょとんとするミソラと彼とをそれぞれ見て、トウヤはばつの悪そうに口を開いた。
「ポケモンレンジャーは、うちほど血縁を尊重しないんだ」
「『うち』?」
 言った意味が分からず問い返すと、男ははっとして、全く話の分かっていない様子の叔母の顔色を一瞥する。
「……いや、悪い、リューエルだ。リューエルは凄く親族色が強いと言うか、家族ぐるみな所があって、親がリューエルの団員だとその子供も勝手に一味だってことになる。でもレンジャーの組織は違う」
 後押しするように、ハリが大きく頷いた。やや下がっていたトウヤの視線が、またミソラをまっすぐ捉えた。
「あいつは親の力があってどうこう、って言ってたが、親がレンジャーだからって子供がレンジャーにならなきゃいけない決まりはないんだ。確かに正規隊員になってからは後ろ盾もあっただろう、けどそこまでには難しい試験や養成学校でのきつい訓練があって、それは親が幹部生だとしても楽にパスできるようなものじゃない。だから、あいつがポケモンレンジャーになったのには、それなりの理由があるはずなんだ」
 長い台詞を言うだけ言って、さっさと踵を返して家の中に戻ってしまった。軽く眉間に皺を寄せて茫然とするタケヒロに、ミソラが意訳を耳打ちする。
「自分もアズサさんのこと心配してる、って言ったんだよ、今」
「……お前、なんで分かんだ?」
「だって弟子だもん」





 昼前、人混みの激しいココウ中央通りから、裏道へと入っていく。半年近くもいれば金髪碧眼の異物感にはもう慣れられたのか、ココウでじろじろと見られることはもうあまりなくなった。が、今日のタケヒロの異様な格好はとかく人目を集めたから、通りを外れてミソラは少し安心した。気にしないどころか開き直っている様子のタケヒロはなんだか歩みが早くて、緊張気味なのか口数も少ない。
 砂っぽい路地を抜け、生活排水の黒い淀みに掛かる、錆びたトタンの橋を渡る。痩せたコラッタの群がるゴミ山を横目に歩いていく。普段通りの、彼女の家へ向かう日の風景。考えてみればこんな荒れ果てた町に、あんな風に涙を流す女の子が、何故一人で毅然と暮らせていたのだろう。自分たちの知っていた彼女と、ユキという友人を前にした時の、あの少し弱った感じの彼女と、どちらが本物の『アズサ』なのだろう。知り合いも多くいなくて、一体今までどのくらい、ここで無理をしてきたのだろう。
 考えれば考えるほど、ミソラには段々分からなくなってくる。だって、あの友達と話していた時、口にはしないけれど、あの人は嬉しそうだった。多分ミソラやタケヒロ、トウヤにはさせられない表情を、ユキは彼女にさせることができるのだ。その友達と一緒にいる事はユニオンに戻れば叶うし、今後もココウにいるなら、それは叶わない。また離れ離れになる。じゃあ、ココウに留まらせようとするタケヒロと、連れ戻そうとするあの父親。彼女を本当に守ろうとしているのは、一体どちらなのか。
「……タケヒロ」
 いたたまれなくなって、問いかける。タケヒロは歩みを止めず、ん、とだけ声を寄こした。
「アズサさん、本当にココウにいたいのかな」
 ココウにいることで、あの人は幸せなのかな。
 無視しているということはないのだろうけれど、タケヒロは返事をしない。ミソラはすごすごと彼の後ろをついていくだけだった。ポッポ達の方が首を回して、ミソラの言葉を聞いていた。繊細な深みに触れた沈黙の気まずさに、リナを出そうか迷って、土色の肩掛け鞄に手を振れる。いつだか師匠に貰った鈴が、しゃらんと鳴いて揺れた。
「お父さんに反発するために、ユニオンには行かない、って言っただけなんじゃないのかな……」
「知るかよ、んなこと」
 返ってきた声は刺々しい。もしかしたらタケヒロも、ミソラと同じような事を考えて、その上であの父親と戦おうとしているのだろうか。
 ざくざくと凄んだ歩みに、沸き立つ砂埃。不意にどこからか鼻を突く腐乱臭、こんなものがきっと、僕たちが彼女を押し留めたいココウという町の匂いなのだ。少なくともミソラには、今はそう思える。
「あいつの考えてる事が分かるのは、あいつだけだ」

 アズサの家の鍵は開いていた。
 いつから開いていたのだろう。返事のない扉の向こうへ、恐る恐ると子供たちは立ち入った。がらんとした、いつもの応接間。なんだか広く感じた。荒らされているけれど物色されたようではないから、泥棒が入った訳ではないだろう。昨日の騒動のまま、時が止まっていたというだけだ。
 高い窓からの淡い日差しが、曖昧に輪郭を縁取る室内。二階の方からも気配はないし、例の妙なチリーンの笑い声も、どこからも聞こえてこなかった。机の置いてあるグラスに飾られた雑草の花は、残暑にやや萎びて、色褪せた頭を垂れている。……アズサはどこだろう。もしかして、もう連れていかれた後なのだろうか。表情を曇らせるミソラに対して、おもむろにタケヒロはしゃがみこんだ。
「まだだ」
 昨日アズサが床に叩きつけた、赤いキャプチャ・スタイラー――それを拾いあげ、掌に固く握りしめる。
「まだ、ココウにいる」
 立ち上がるタケヒロと目を合わせ、ミソラも頷いた。あの人がココウにいるべきなのか、そうでないのか。どうしたいのか分からない、分からないなら、聞けばいい。直接会って問うてみよう。何はともあれ、ミソラが欲する答えはひとつ。そして、もし彼女が今日までミソラと同じ時を共有してくれていたならば、欲した答えは貰えるはずだ。この家とそこに集まる人、そんなミソラの日常は、まだ失われていない。
「僕、アズサさんには、ポケモンレンジャーでいて欲しい。……何も変わってほしくないよ」
 ――衝撃音と共に家が揺れたのは、その瞬間だった。
 突然すぎて声も上げられなかった。揺れは一瞬。ミシリと木製の壁が呻き、左右に振れる吊り下げ電灯からはらはら埃が落ちてくる。肩から飛び上がった二羽のポッポに先導される形で、スタイラーを手にしたままのタケヒロが走り出す。ミソラも慌てて後を追った。外界へ繋がる扉の前、二人は一瞬顔を見合わせ、それからすぐに、勢いよく開け放った。
 眩しい日差しが刹那目をくらませ、感覚が戻ると、外の世界には、もうもうと砂塵が舞っている。硝煙の異臭はなかった。異変の原因を探る二人がまず目にしたのは、ぼろ切れのように横たわっている鮮やかな平たい『尾』。――ああ、チリーンだ。傷だらけで転がっているチリーンを見、ミソラはくらりとするほどの衝撃に見舞われた。けれどやはり声は出なくて、代わりに悲鳴じみた叫びを上げたのは、すぐに顔を横に向けたタケヒロだった。
「ねーちゃん――ッ!」
 思わず『いつもの呼び方』が出るが、真っ白になった頭では、それに気づくことさえ叶わない。アズサ、いつもの赤い隊員服を身に纏った女レンジャーは、家の壁に寄りかかるような格好で、ぐったりと横たわっていた。
 音がしたのは、家が揺れたのは、彼女の体が外壁に叩きつけられたからだ。そう悟った瞬間に混乱が一面の恐怖に塗り替えられる。タケヒロが抱きかかえ肩を揺すると、力なく閉じられていた瞼がじわりと持ち上げられた。光を欠いた瞳孔が、タケヒロの――否、タケヒロの背後を映し、突如はっきりと覚醒する。
「逃げて!」
 たった数秒前まで失神していたとは思えない、芯のある一声。振り返る後方、家垣を飛び越えて、敵方が姿を現した。青い人獣、見紛うこともなくあの男のポケモン――ルカリオが短い咆哮と共に引いた両手に、青白く光を放つ高エネルギーの球体が宿る、タケヒロが目に出来たのは、そこまでだった。
 長い髪に隠された小さな背中が、タケヒロの、アズサの眼前に滑り込んだ。
 揺蕩う金糸が鮮烈に輝く。獣の赤い目が僅かに見開く。引ききったトリガーは戻らない。弾けるように力が迸った。
 放たれた光の玉。急速に接近する、体を呑むほどの実体なき重量。
 ミソラはそれに向き合い、細い両手を、庇うように広げた。
「ばっかミソラ――!」
 そこまでだった。強烈な閃光が友人を飲み、再びの衝撃音と共に、視界から色が掻き消えた。
 爆風が爆ぜる。砂礫が滅茶苦茶に体中を打った。思わず目を瞑った。気を抜けば吹き飛ばされそうな衝撃に身を固める事しかできなかった。けれど――不思議と、熱も、痛みも感じない。
 光が消えた時、タケヒロもアズサも、ポッポたちも無傷だった。そして、そこで元と同じに両手を広げているミソラもまた、攻撃を食らったはずなのに、傷一つついていない。
 平生、いや興奮気味に頬を紅潮させているのは、一人立っているミソラだけだった。タケヒロもアズサも青ざめてさえいた。目の前で何が起こったのか、全く理解が及ばない。理解できるのはミソラと、そして――垣の上に降り立った敵手の赤眼が、その碧眼を捉え、微かに動揺を映す。ミソラはなるべく勇んで、というくらいの幼稚な迫力で睨みをきかせ、右手で獣を指さし、命じた。
「ツー、イズ、『吹き飛ばし』!」
 果たして、ポッポ達はすぐさま他人の命を受け、主の元から飛び立った。小さな二羽の撃つ翼の衝撃が足元を掬い、ルカリオを吹き飛ばす。というよりは、吹き飛ばされる前に自ら撤退を選んで背を向けたようにも見えた。
 向かいの家屋の屋根に足を掛け、高く跳躍し撤退する人獣。それを見送るだけの刹那の沈黙は、気持ちを収拾させるのにはいささか不十分だ。
 ……はーっと一息に肩を落として、ミソラがこちらを振り向く。それから胸に片手を当てて、いつもの調子であっけらかんと、こう言った。
「モモちゃん、ありがとう!」
 そして空の双眸の向かう先は、完全に肝を抜かれて座り込んだままの、女と友人だ。駆け寄って、差し伸べる白く幼い手。茫然としてその手を取ったタケヒロを引き起こし、続けてアズサにも手を伸ばした。
「私、昨日お師匠様と調べました。ルカリオって、生き物の『波動』というのを読み取って敵の位置なんかを察知することができるんですよね? でも、いろんな人の波動が集まっているところでは、一人の波動だけを正確に読み取るのには集中力とパワーがいる。だから逃げるには人混みの方が良い。ひとまず大通りへ向かいましょう、急いで!」
「……ミソラちゃん、あなた」
 手を掴み、よいしょっと女を引っ張り起こしてから、そうだ、とミソラはにっこり笑う。
「今の、お師匠様には内緒にしてくださいね。『とっておき』があるなんて知られたら、怒られちゃうかもしれないから」







 
 
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