6・忘れたい人







 軽薄で傲慢。自己にも他者にも関心がない。『ゼン』というのは、昔からそういう奴だった。
 埃っぽい机にぽつねんと置かれた通信機のスピーカーが、事務的に読みあげられる指令状の内容を垂れ流している。勤め先が変わる。正式な部隊配属。第七と言えば、確か旧ホウガの人間が複数属しているはずの部隊だ。
 灰皿に煙草を揉み付ける。立ちのぼる白い煙は、行き場を失くして、鉄筋晒しの天井を彷徨う。吸い尽くされ捩じられて、燻る煙草の細い亡骸。
 冷や汗が伝う。
 これでいいのか。
 スピーカーの向こうの男が、簡潔な異動命令を繰り返し音読する。人の行方を曲げる時にも、上層部からやってくるのは、そんな粗末な紙切れのみだ。その文言の中に、受け取り手の都合など、加味されているはずもない。
 白い箱を手に取る。二本目を摘まんで手繰り寄せる。
「……なぜ今、私が? 私に集団行動の才がまるでないことは、皆さん知っておられるでしょうに」
 顔も知らない相手を煽るように吐いてから、ゼンは自嘲的に唇を歪めた。そんなことは、問わなくとも、分かっている。
 相手は一度黙した。それから、電波の向こうのゼンの顔を、探るように低く言った。
『若宮瑞月(ワカミヤ ミヅキ)』
 ――どん、と心臓が鳴った。
 火を点けようとして気付いた。手が震えている。人の物のように激しく脈打つ鼓動を止める術などなかった。ああ。漏れそうになる息をなんとか堪える。
 これでいいのか。
 違う。俺は、軽薄で傲慢。自己にも他者にも関心がない。『俺』というのは、そういう奴だ。だから、これでもいい。好きにすればいい。言い聞かせながら煙草を吸った。自分の息で、目の前が朦朧と濁る。
『知っているな?』
 挑発的な響きはない。ただただ機械的であった。ああ、知っているとも。声は返さず、長く煙を吐く呼気だけ、通信機に聞かせた。
 避けては通れない。気付いてしまってからは、覚悟していた道だ。どのみちこうなる定めだった。それならば、とことん踏み荒らしてやろう。
 通信を切って立ち上がる。棚の上にひっそりと置かれていた腕章を手に取り、軽く埃を払った。『リューエル』と綴られたそれをひとまず荷の中に収めて、部屋を出ようとする。と、数歩後ずさりして、鏡を覗きこんだ。無精髭。これは良くない。
 引っ掛かりのある顎を撫でながら、ゼンは静かに、鏡の中の男に語りかける。
「面白いことになりそうだ」





 リボンやフリルなんかまるで似合わない。そんなことは考えなくとも予想がつく訳だが、それにしても酷かった。ミソラは今にもぶはっと噴き出しそうな口を必死に抑えながら、その光景をしかと焼き付けようとしていた。――勿論、本人がリボンやフリルなんかをあしらっているのではない。おめかししているのは彼の手中のモンスターボールの方だ。
「あらあら、かわいらしい」
「……これをグレンが……?」
「ええ。あんたたちが出ていった三日あとくらいだったと思うけど。グレンくん凄くニコニコしていたから」
 どんなに良いものをくれたのかと――無理もない。苦笑するハギの手元には、桐の小箱が置かれているのだ。しかもわざわざのし紙付きで。あの大雑把を絵に描いたような男がどこからか桐の箱を取り寄せて、真っ白なレースのフリフリをちまちまデコレーションしている様を思い浮かべると、もうそれだけで涙が出るほど可笑しい。
 骨ばった男の手の中に恥ずかしそうに収まっている、白を基調とした装飾で可憐にメイクアップしたモンスターボール。送られた当人は完全にうんざり顔をしているけれど。
「本ッ当にあいつだけは……」
「『嫁入り道具』って言っていたけど、どういう意味なんだい?」
 ハギの言葉に思わず鼻から息が漏れた。笑いをこらえて震えているミソラを、ニドリーナのリナは不思議そうに見上げている。いや、今なら笑ってもいいのか。今はトウヤにリボンが似合わないことではなくて、嫁入り道具のことを笑っているのだから。
 『嫁入り道具』の意味をトウヤは一瞬考えて、合点がいった顔をして、それから「いやいやいや」と続けた。
「馬鹿か、馬鹿かあいつ」
「それ、この子のボールです」
 トウヤの肩にちょこんと座っているリグレーを指さして、ハギに説明する。グレンの所にいる、本当はトウヤのポケモンで、遠い町までテレポートするためにトウヤがグレンから借りてきた、ただしボールを残して。ニックネームはテラ。
 自分のボールがまるでウエディングドレスのように華やかに飾られているのを見て、『嫁入り道具』とまで言われて、それがグレンからトウヤに送られた意味を、分かっているのかいないのか。多分分かっていない。テラは見慣れた紅白球の見慣れない姿を興味深そうに覗きこんでいるだけだ。
「真性の馬鹿だ」
「でもけっこうかわいいですよ。ありそうでなかったっていうか、おしゃれかも」
 似合うかどうかは別として。それがベルトに引っかかっている様を想像して、またしても笑いの発作。
「なかったことはない。都会に行くと結構普通に売られている。ボールシールと言うんだ」
 言いながらトウヤは開閉スイッチを押し込んで、テラを『嫁入り道具』に収納した。
「本当は透明なカプセルに貼り付けて、それをボールに被せて使うんだよ。ボールに直接貼ると『エフェクト』が劣化しやすいと言われていて」
「エフェクト?」
「見てろ」
 トウヤは広い所へボールを投げ落とした。
 レースやリボンが惜しみなく施されたボールが破裂音を立てて、白い光を開放する。その後――落下点を中心に三本、光の筋が立った。
 ミソラは目を見開く。飛び出したのは、大量の白い羽。そして眩い星。たゆたうカーテンのような光の波の中を羽と星とが舞い踊った。そこから沸き立ったくるくる回る渦の中へ光が集まって、テラを形作る。ぱーんと光が弾けてテラが登場すると同時に、ハートマークが炸裂した。桃色のハートマークが。
 テラがポージングとウインクを決める。ハートマークの中で。ミソラは腹を抱えて笑った。トウヤは即座にシールを剥がしはじめた。
「あーっ!」
「惜しいならくれてやる、リナのボールを出せ」
「そ、それはいいです」
「ほら」
 レースの下に隠されていた大量のハートのシールを、トウヤはぺしぺしとミソラの額に貼りつけていく。やめてくださいと笑うミソラと彼の様子を、ハギは少し驚いた顔で、その後は微笑ましく眺めた。のっそりと床に這っているビーダルのヴェルが、やかましい、と言うように重たげな瞼を上げる。その口はもう完全に食欲を取り戻していて、ヴェル用に買ってきたお土産をまだもぐもぐと食んでいた。
 全部のシールを剥がし終えると、いまだにポージングを思案していたテラをボールに戻した。案の定それを持て余して、結局、トレーナーベルトの――使っているのをミソラはまだ見たことがない、四番目と五番目と六番目、空きのボールホルダーへと目を向ける。
 あくまで自然な動作で四つ目にテラのボールを引っかけると、トウヤはその場で少し足踏みをした。悪くない、と言うのかと思ったけれどもそうではなかった。困った顔で笑って、照れ隠しのように、小さく言う。
「やっぱり変だな」

 グレンに文句を言いに行く前に、タケヒロとレンジャーへお土産を渡すことにした。先に歩いていくトウヤを追いかけて家を出て、なんとなく深く息を吸う。ココウの匂いだ、なんて思わないけれど。
 ハシリイにいたのは六日間のことだ。とても楽しくて、そして長い六日間だった。タケヒロもレンジャーさんも、変わりはないだろうか。たった六日と言ったって、ミソラには、本当に濃密で、本当に長かった六日間。
 ふと振り返る。ほら、六日で変わることだって、あるのだ。――行く前までたくさんの蕾をつけていた軒先のヤヒが、いくつも綻んで、花が咲いている。白くてかわいい花。おばさんが、町の誰かに見せたかった花。
 ミソラは微笑んで、トウヤを追いかけはじめた。


 大通りの途中でピエロをしていたタケヒロと出くわして(タケヒロはミソラの金髪頭を見つけた瞬間、泣き出しそうに顔をくしゃっとゆがめたけれど、最後まで芸を披露してしっかり投げ銭を稼いだ)、三人でレンジャーの家へ向かった。三人で、というよりも、二人と一人、という方が正しい。トウヤが近くを歩いているとタケヒロがめちゃくちゃに嫌がるからだ。そんなところも相変わらずで、安心する。
 レンジャーと再会したのは、彼女の家の前でのことだ。
 レンジャーがドアを開けて飛び出してきたのは、ミソラとタケヒロが丁度家の前にさしかかろうとしていた時だった。赤い隊員服の上に黒いマントを羽織ったいつもの格好だが、大きめのバッグを掛けた姿は初めて見る。幾分急いでいるようでもあった。二人、特にミソラと目を合わすと、はっと表情を変えた。
「帰ってきてたの」
 それから顔を上げて、そのかなり後ろで、今路地を曲がって現れたトウヤを見とめた。
「……お兄さん」
 ぽつんと呟く。威勢が弱まる。それは彼女がトウヤを呼ぶときの決まった呼び方だが、妙に色めいて聞こえたのは、紛れもなく彼女の様子がおかしいからだ。
 呼びかけに応えるようにトウヤは右手を上げた。それから、今にも外出せんとばかりの彼女の格好を見て、首を傾げる。
「ミッションか? 珍しく勤勉だな」
「……ええ。おかえりなさい」
「僕が行こうか。今帰ったばかりで支度は整ってる。場所は?」
「大丈夫。今回は私が行くから」
 トウヤは近づいてきて、タケヒロがなんとか逃げ出さずに済む位置で立ち止まった。
「どうして。いつも押し付けるじゃないか。遊びに行ってたんだ、別に疲れていないよ」
 言いながらトウヤは笑っていたが、対して女は押し黙ってしまった。そのまま俯く。何か変だ。ミソラとタケヒロが顔を見合わせ、女へ視線を送る。
 顔を冷まして、トウヤも彼女が何か言うのをしばらく待った。それから、二、三歩また近づいて、軽く顔を覗きこんだ。
「僕に話せないことか?」
 女は目を合わそうとしなかった。そっと瞼を下ろす。祈るような仕草だった。黒いフードに隠れかけた横顔を、蝶の瞬くように長い睫毛がまた持ち上がるのを、ミソラとタケヒロはどきどきとして眺めていた。
 くるりと踵を返すと、レンジャーは自宅のドアの取っ手を引いた。
「入って。中で話すわ」


「お兄さん、あなた本当に間が悪い」
 出し抜けにそんなことを言いながら、今回のミッションの内容だという数枚の資料を渡してくる。言われた意味は、これを読めば分かるのだろう。椅子に腰かけて、反論もせずにトウヤは文字を追い始めた。『リューエル・実務第七部隊のキブツ遠征に関する情報』――実務、というぼかした言い方をしているが、慈善団体とされているリューエルの表向きの活動をしているのは全て実務部隊だ。その活動幅はとてつもなく広い。野生ポケモンの長期に渡る生態学的調査から、ポケモンに関するご近所トラブルの解決まで。
 キブツというのは、ココウから最も近い町のひとつである。連中がキブツに遠征に来たのを遠巻きに偵察する程度であれば、いつも彼女が報酬と引き換えに彼に与えているミッションのうちだ。一枚資料を捲りながら、第七、という響きへトウヤはふと引っ掛かって、そしてすぐに答えを導く。
「ああ、第七部隊。アヤノさん達のいる」
 『アヤノ』――その名前に、出されたお菓子に手を伸ばしていたミソラとタケヒロが顔をしかめた。
 二人に嫌な記憶が蘇る。初夏の頃だったか、一匹のポケモンを巡って、そいつと絶望的な『鬼ごっこ』をしたのは。首根っこを掴まれてぐったりと項垂れる小猿の姿も、泣き叫ぶ女の子の声も、少年の震える拳も、今なお鮮明に思い出せる。ミソラとタケヒロが必死に逃がそうとしたエイパムには発信機が付いていた。逃げ場など、最初からどこにもなかった――嘲笑われている気分がした、あの焼け爛れるような夕暮れ。
 その空間で今、トウヤだけが彼らに友好的な表情を見せられる。レンジャーもあの日、アヤノ達の前に実際的な敗北を喫せざるを得なかった。
 やっぱり僕が行くよ、とトウヤは言う。
「次に会った時には試合をするって約束をしたんだ。凄く良いポケモンを連れていたから気になってた、ちょっと顔を見せてこよう」
 軽快な受諾に、女は返事をしない。トウヤは資料を流しながら読み進めた。悪さをはたらく野良ポケモンのリューエルによる捕獲任務、の偵察、という、彼が今まで代行してきたミッションの中では最もありがちな類いだ。レンジャーが言い渋った要因が見つからない。
 三枚目を捲った。キブツの地図だ。いくつかの赤いバツ印に、野良の起こした悪行の詳細が付随している。
「……秋の」
 レンジャーがようやく口を開いた。
「人事で……」
 トウヤが四枚目に手を掛ける。第七部隊の人事異動表。レンジャーユニオンはこんなものまで入手できるのか、とトウヤがまず覚えたのは感心と、ちょっとした呆れで――レンジャーはいたたまれないように彼の手元から顔を背けた。代わりにミソラとタケヒロが覗き込もうとする。
「人事で?」
「……副部隊長が変わるんだけど」
「それが」
 どうした、とその枠に目を滑らせて――
 トウヤは凍りついた。
 違和感が空気を支配する。ミソラの位置から資料の内容は見えなかった。けれどその瞬間、目つきが豹変するのは分かった。動かない。瞳孔がぴたりと静止して一点を貫いている。ここ数日明るかった彼の光が消えていた。対して、細長い喉元だけ、こくりと上下に動いた。
 ハシリイの町を散策した時の、急激に青ざめていった彼の様子を、ミソラは思い出していた。あの時と同じだ。心がここにない。まるで、目の前とは全く違う景色に、茫然と引きずり込まれていくような――資料を支えていた両手が突如戦慄きはじめ、紙を机に置いて、手は膝上へ隠される。一度開けかけた唇を、すぐ頑なに結んでしまった。何も言わない。この世の終わりのようなものを、不意に目にしてしまった顔。
 何が起こったのだろう。ミソラやタケヒロに分かるはずもない。緊張した顔で確認したのはレンジャーだった。
「……それ」
 言い詰まる。子供らの方を一瞥した。けれど、後には退けなかった。
「あなたのお姉さんでしょ?」
 ――『お姉さん』?
 思いもよらぬ言葉だった。ミソラは目を丸め、タケヒロを見る。ココウの情報通を自称する彼もきょとんとした顔をしていた。
 トウヤはすぐには答えなかった。自身の隠した手元へ目をやり、他人には得体の知れないものと、内密に戦っていた。じきに面を上げる。口元は笑うが歪んでいた。ああ、そうだよ、平然を繕って明るく放つその声が、むしろ聞くには痛ましい。
 居心地が悪い、ミソラは素直にそう思った。何かが、良からぬ方向へ動こうとしている。それもひやりとした恐ろしい場所へ。男の右手が、右腰のボールへと回る。表面を慎重に撫でる。問いかけるように、一つ目、二つ目。
「凄いな、もう副部隊長か。僕のたった二つ上だぞ……」
 意思とは裏腹に語尾が霞んだ。包帯の巻かれた左手が伸びる。資料を再度取り上げた。その指がまだ微かに震えているのを、ミソラは見てしまった。このまま放っておけば彼は泣き出してしまう。そんな予感に襲われる。どうしよう。何か言わなくちゃ。ミソラはレンジャーを見る。彼女も言葉を探しているようだった。
 その時、声を上げたのは、その中で一番彼と話したくない人物のはずだ。
「お前に姉ちゃんいたなんて、聞いたことないな」
 視線が集まる。タケヒロは普段トウヤに接するのと全く同じにそっけなくしていた。そのそっけなさが、ミソラを安心させる。凍りかかった空間に温度が吹き込まれていくように。
 トウヤはいくつも年下の少年をしっかりと目に止めて、少しだけ考えてから、柔らかく苦笑を浮かべた。
「美人なんだ、これが」
「は? 嘘つけ」
「嘘じゃない」
「そんじゃあお前の姉ちゃんじゃねぇな、本当は」
「実の姉だよ。子供の頃は、僕もよく似てるって言われて……」
「お前に似てて美人とかどういうことだよ、ありえねぇだろ」
 なぁ? と問われて、ミソラはとりあえず愛想笑いを浮かべる。タケヒロの辛辣さに、それもそうだな、とトウヤは頼りなく笑ったけれど、次の瞬間には、また、表情が陰った。
「……あれ?」
 完全に独り言の、浮いた声だった。けれど、先程の見ていられないような動揺とは質が違う。静かな困惑。ささやかな疑念を抱いたような。
 それだけ呟いて注目を引いて、結局腕を組んで黙考を開始した男に向かって、レンジャーは遠慮がちな音量で問うた。
「どうかした?」
「いや」
 トウヤは首を捻って、問うてきた女、それから心配そうに自分を見上げるミソラへと順に目を合わせた。
 日は天頂をゆうに超えて徐々に傾きつつあるが、まだ空は青い。採光窓から注ぐ日差しは、卓上にばらけた因縁の文字を、煌びやかに縁取っている。
「……まさか、な」







 
 
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