――全く。
 子供とも、大人ともつかない、不思議な声が聞こえた。
 ――しょうがないなぁ、おれの『兄弟』は。


 衝撃波に煽られて長い金髪がごうごうと揺れたが、ミソラの尻はぺたんと地面に着いたままで、膝も震えたままで、腕もコジョフーの一匹を、ひしと抱きしめたままであった。蒼穹の瞳は見開いて凍って、目前の光景を映していた。燦然と輝く灼熱の光が、焼き尽くす紅蓮の空気を捉えていた。
 ――何が起こっている?
 腕の中の一匹も、脇にへこたれている一匹も、ただ茫然としているのみで、何をしているということもない。ミソラだって、そこに座っているだけだ。リナの影なんかどこにも見えない。それなのに――それなのに、どういう事だろう、誰が何をしている?
 何故、バクーダの放つ炎の柱の中で、自分たちのいるところだけ『炎が避けて』いるんだ――?

 すっ、と光の中から景色が戻ってきても、即座に反応できる者は誰もいなかった。それ自体にミソラもコジョフーも呆気に取られていたし、『オーバーヒート』を吐き終わったバクーダも、元の位置に元のまま座り込んでいる三者を見て僅かに目を見開いた。炎技を浴びせたと思った相手が、ぽかんと座ったままならば、唖然とせずにはいられまい。
 そうだ、誰かが『バリアのようなもの』を貼ってくれた。それは察しがついた。見えない壁に突き当たったから、炎は自分たちを避けるようにして動いたのだろう。でも、一体誰が? そんな芸当、遠隔に出来るだろうか? ――そうして起こった密かなざわめきに、ミソラは思わず胸に手をやった。
(……今。『誰の声』が、『僕の中から』聞こえたんだ)
 刹那。襲い来たのは突風であった。ふっと掬われるように、ミソラはコジョフーもろとも宙に浮いた。吹き飛ばされたと言うよりは、本当に持ち上げられたみたいだ。しかしそんな謎の風に丁寧に扱われたのも一時、次の瞬間には、不躾な動作でフィールドの端へと投げ出されていた。
 風が煙を薙いだ。どっと地面に打ち付けられたミソラの視界に映ったのは、久方仰ぐ青い空、そしてそれを裂く一対の白翼。風圧で煙を散らしながら鋭い視線をバクーダに浴びせるその大きな鳥ポケモン、その白さには見覚えがなかった。
 誰の『スワンナ』だあれは、という声が、出し抜けに耳に入った。振り向くと、フィールドの壁伝いにいくらかの人間とポケモンが、その光景を仰いでいる。バクーダ討伐に動いていたのか、全員が全員逃げてしまったという訳ではなかったようだ。その彼らがまた、今度はスワンナとは別の方向を向いてあっと驚いた顔をしたので、ミソラも慌ててそちらを向いた。
 その時、煙に霞む先の上空に一つ弾丸のように躍り出た影は、ヒュッと下降すると、フィールドを円形に囲む無人の観覧席に一旦着地し、そこを蹴りつけて真っ直ぐこちらへ跳びかかってくる――つまるところその翼のない影は、ゆうに二十メートルは超えるであろうスタジアムの外壁を『跳び越えてきた』訳である。トレーナーの幾人からは目を疑うような感嘆の声が上がったが、そんな馬鹿みたいな跳躍ができるポケモンを、ミソラは一頭だけ知っていた。
「――ハヤテ!」
 子供の高い声はよく通った。雄叫びを上げた青い小竜へ、バクーダは振り返りざまに炎の一塊を放って寄越す。青と炎の赤とがぶつかり合おうとした手前、その赤を一閃し切り裂いて散らしたのはまたしても白い翼であった。スワンナだ。
 だからミソラは、こちらに飛び降りてくる竜の背中に乗っている人物が、その白鳥の事を「メグミ」と呼んだ時、一瞬、何か自分が幻覚でも見ているのではと思わざるを得なかったが――
 空中で二つの飛行体が交錯するタイミングで、ガバイトからスワンナの背へと飛び移った男、普段なら包帯で隠している左腕を半袖から晒した痣の男は、フィールド中央上空へと加速していくスワンナから下の様子を一瞥した。
「『水遊び』で消火できるか?」
 聞くまでも無し、とでも言うように一旦翼を折り、それを大きく打ち広げた瞬間に、スワンナの両翼から水色の波動が放たれた。
 バクーダに相対するように、地響きさえ立ててハヤテがフィールドへ着地した、その砂埃を諌めるように『水遊び』の光が陸上へと降り注ぐ。瞬くスワンナの影を円心に波状に広がっていく紋は、地に触れた瞬間に本物の『水』へと変化した。ダメージを与えるほどではない穏やかな波は円を広げながらフィールドから客席までもを舐めつくし、乾いたバトルステージは一時にして夕立を受けたような水浸しへと取って代わる――客席の各所で上がっていた火の手をものの数秒で掻き消した芸当にトレーナーたちが舌を巻いている間に、ぶるっと水を払ったハヤテは咆哮し足を踏ん張った。
「竜の息吹!」
 空から一声、口を開けた竜の牙の奥からオレンジの光線が放出され、バクーダの正面から鋭く突き刺さった。試合中のように観衆たちから野次が上がる。低い呻き声を響かせながらなんとか凌ごうとするバクーダを、息吹がじりじりと押しやっていく。その最中、茫然としてそれを眺めるミソラの視界を遮るように、スワンナが音もなく降り立った。 
 風圧が髪を撫でた。コジョフーに固く引っ付かれながら目を見開いたままのミソラへと、スワンナの背からすとんと地へ降りた男が険しい顔をして振り返った――そのタイミングで息を吐ききったハヤテの口から光の槍が途切れるのと、ここぞとばかりにバクーダが火口を浅く噴火させるのとは、ほぼ同時であった。
「気をつけろ、『弾ける炎』だ!」
 甲高い声が矢のように飛んできたのは少しばかり遠くからで、何となく聞き覚えのあるその声は、ともすればあのバクーダの主か。たじろぐのはフィールド端に並ぶトレーナー達、『見切』ろうと身から離れ姿勢を下げるコジョフーの後ろで、へたったままのミソラはただ赤色に映すのみ。一旦フィールド中央へ視線を戻していたトウヤは、そんな様子を見つけて咄嗟に地面を蹴った。
 撃ち落そうしたハヤテの『竜の怒り』は放たれた熱塊を砕くには至らず、重い火炎は小竜の頭上を越え、弧を描き、スワンナの立つ手前へと着弾した。
 カッ、とそれが火の粉と散って『弾ける』さまを、ミソラは宙に浮きながら見ていた。ミソラの手首を掴み、無理矢理に引き起こしたトウヤは、それをその勢いのままスワンナの足元の方へと投げ飛ばした。やはり唖然としてされるがままにされたミソラは、ひっくり返るように肩から着地、上下反転した世界の自分の元いたあたりの場所で一瞬炎が燃え上がるのを見た。翼を振るい、飛んできた炎を払い消すスワンナの傍に遅れて滑り込んだトウヤは、間髪入れずにフィールドへ叫ぶ。
「ハヤテ、方を付けるぞ」
 ギャッと鳴き竜は敵方へ飛び出す。一瞬にして目前に迫ったガバイトへとバクーダは火を噴いたが、『水遊び』の所業か火勢は弱く、強かに右を蹴り脇へ回った青の動きに体を追いつかすこともできない。それ以上の指示もいらず、ハヤテは飛びかかりながら体を捻ると、輝かせた鋭い『鰭』をバクーダの腹へと叩き込んだ。
 鈍い衝撃音がした。巨体が面白いように吹っ飛ぶと、場内にワッと歓声が起こった。壁へと背のこぶから激突し、ズドンという音と共にバクーダの体が横たわる。それがもうぴくりともしないのを見て、息を詰める間の後に、今度は拍手さえ湧いた。
 駆けつけてから、勝負がつくまで、あっという間の出来事であった。ぴょんっと寄ってきたコジョフーを無意識に抱き留めながら、ミソラも、少しずつ滲んできた羨望の念を胸に顔を上げた――スワンナが翼を畳むと、フィールドの方を見つめていたトウヤの焦げ茶の瞳にも日が射した。それがすっとこっちへ戻ってきた時、まず助けてくれたことへの感謝を、ミソラは述べようと口を開いた……が。
 無造作に伸ばされた赤黒い左手が急に右肩を掴んだから、ミソラは何も言えなくなった。
 逆光で暗くて、こちらを見下ろすトウヤの顔に、どんな色が浮かんでいるのかミソラにはすぐには知れなかった。ただ、その掴む手の力が痛い位に強かったのと、驚いたコジョフーがするりと逃げ出すと左の肩も掴まれたのとで、彼が何を訴えようとしているのか、ちょっとだけ察しがついた。けれども、動いたその唇が震えるのが、怒っているからなのか、言葉に迷っているのか、それとも何かを恐れているからなのかは、ミソラにはやっぱり知れなかった。
「……何しにここへ来た?」
 低めた声であった。凄もうとしているな、とこんな状況で敢えて俯瞰しようとする自分がミソラにはおかしかったし、それが己の強がりであることも容易に知れた。それはその言葉が、今まで浴びせられた幾つかのきつい言葉の中でも、特に重たく腹の底に溜まったからだ。
 ――それは僕のためだ。そして、あなたのせいだ。
 紡がれるトウヤの声は、いつになく凛と響く。
「子供が一人で来るような場所じゃないって、分からなかったか? 一から十まで教えないといけないような分からず屋だったか、お前は」
 ――分かっていた。そんなの分かっていたけれど。
「下手すれば死ぬんだ、そうなってからじゃ遅いんだよ」
 ――それだって、痛いくらい知ってたけれど。
 見たことのない顔をしている、とミソラが思うのも無理はなくて、トウヤがそういう類いの感情を表にするのは本当に久しぶりだったから、離れた場所で騒いでいたトレーナー達もだんだんと大人しくなっていった。スワンナの涼やかな目が、またハヤテの怯えるような視線が、そしてボールの中の一匹が、主をそれぞれに静観する。ノクタスのハリは、ボール上部の特殊ガラス越しのトウヤを前に、ゆらっと起き上がった。笑顔を象ったその顔に、僅かに『面白がっている』ような感情を映して――ぎり、と両肩を握る掌の威勢が強まって、ミソラもさすがに身を縮めた。
「……金が欲しかったか」
 その時、トウヤの目の奥に僅かに燃えている火を垣間見て、なぜその声が震えたのか、ミソラはようやく確信した。
 ……悔しいのだ。こんな小さな子の一人さえ、手の届くところに抑えられなかったことが。
「僕が、お前に」揺すられると、ふっと内に燃え上がるものがミソラにもあった。
「金のことで困らせたことがあったか? 不自由させてたか? 欲しがったものは、だいたい与えてきたはずだ。黙って、人の金を盗ってまで、試合にエントリーして、この程度の腕で稼ごうだなんて考えるほど、欲しいものがあったとして……、それを、自分で稼がなきゃいけないと思う程、僕は、そんなに頼りなかったか」
 自嘲気味に笑いもしなかった。くっともう一度、トウヤはミソラの肩を握った。
「悪かったな、でもな、お前だって、お前なんかが――、一人で生きていけると思ったら、大間違いだ!」
「――ずるい!」
 反射的にミソラは叫んだ。
 びくっと震えたのは視界の奥の小竜であったし、ふわっと毛を膨らませたのはスワンナだった。時を経て、煙が薄らいでいくごとに、あたりは明るみを増していった。目の前の男が出し抜けに頬を叩かれたように表情を変えた途端に、ミソラは少し勢いづいた。
「知ってます、そんなこと分かってます、一人じゃ生きていけないんです、だから」
 けれども、いざ溢れはじめると、想像以上にブレーキは利かず、伸びたままのバクーダはもう煙も吐かないのに、視界は鈍く曇り始める。反撃を食らって丸くなったトウヤの目を見ていると、いい気になった。でも滑稽と思っていられるのもそれまでだった。仕返しとばかりに肩を突いて、ぽかぽか拳を浴びせたかったけれど、昂った感情に支配された体は全く持って言うことを聞かない。なのに口だけは、命令せずともよく回った。
「だって、私は……私は、何も知らなくて、自分のことだってよく分からないのに、お師匠様はいろいろ知ってるからって、さっさと行って、それで、私の知らないところで勝手にして、勝手に苦しんで」
 自分が何を言っているのか、それだってもうよく分からない。言われたことに怒って、怒って反攻開始したはずなのに、気が付けば後から後から湧いてくるのは怒りなんてものではなくて。炎技のせいだけでなく異様に火照った頬を伝って、ぼたぼた顎から滴る水を、毒気を抜かれたような表情でトウヤは見下ろしていた。その顔を見ていると、どんな言葉をぶつけたかったのか、どんな言葉で攻めたかったのか、もう本当に分からなくなった。
「私だって、私だって、何かしたいんです。お世話になってるばっかりじゃ嫌なんです、負担になってるだけなんて……お師匠様や、おばさんの、ために、何かしなきゃいけないのに……」
 ここに来るまでに、あの夕、死んだように眠りこんでいたトウヤの顔を、何度も何度も思い起こした。
 悔しかったのだ。自分の手の内で子供を抱えきれなかったことを、トウヤも悔しがったかもしれない。けれど、ミソラだって悔しかった。何もできない自分が嫌になった。こんなにも人を傷つけたのに、子供だから甘えていればいいと、そんな風に言われてしまうことさえも。
「……ずるいです、お師匠様。一人ばっかり、ずるいです……っ」


 ――ああ、泣かせた、という幾多の冷やかな視線が、トウヤの背中を貫いていた。
 どこで大きなミスを犯したのか、トウヤには知れなかった。ただ、気分に任せてこれを怒ろうとした場所がフィールドのど真ん中だったことは、明らかに完全なる失策であった。どうしてそんなことが出来たのか、冷めてしまった今では、もう全く理解できない。何か大声でまず喚いて、色々とぐずぐず言って、ついにはさめざめと泣き出してしまったミソラの前で、膝をついたままトウヤは身動きが取れなくなった。
 のし、のし、と遠慮気味に近づいてくるのは、およそ竜らしからぬ怯えた目をしたハヤテの足音であろう。一部始終をすぐ傍で傍観していた『白鳥の』メグミは、ちらりと主人を一瞥すると、ピィッと高く音を奏でながらぴょんぴょんと二人から離れていく。何故このコジョフー達がミソラに加担しているのは分からないが、あれが泣きはじめてからの二匹の視線は、獲物を奪われた殺し屋のようだ……カタ、と右腰のボールが鳴って、トウヤは、ひとまず観念しよう、と心に決めた。
「わ、悪かった……」
「何を謝ってるんですか」
 まさかの切り返しを放ってくる普段より数段低い声に、取り巻きの連中から控えめな失笑が聞こえる。ミソラ自身も何を怒っているのかいまいち分からなくなっていたから、子供にとっては割と真面目な質問ではあったのだが、トウヤもそれを真面目に受け取ろうとするものだから余計にたちが悪かった。ぬっと脇に顔を覗かせてきた従者の大きな目を、トウヤはまずそうに一瞥した。短くも長い静寂の中に、ハヤテの鼻息が、すうーっと気ままに抜けていった。
「……あの、それは……夕飯」
「……え?」
 泥まみれの手で涙を拭うので、顔を上げたミソラの様相はかなりひどいことになっている。
「夕飯?」
「つ、作らなかっただろ、昨日……おばさんがいなかったから、僕が作るように言われてた、け、ど……」
 自信なさげに尻すぼみになっていくトウヤをまじまじと眺めながら、そんなことを謝ったのか――、と、ミソラの顔からは潮が引くように熱が抜けて、ついでに涙も枯れてしまった。
 バクーダの放った黒煙はもう、殆んど姿を消していた。バクーダのトレーナーは、他の数人と何か話しながら、暴走した相棒を遠巻きに囲んでいる。それを見ていると、ミソラもはっと我に返った。視界の利くようになったフィールドを、会場を見渡せど、求めていた姿が見当たらない。
「あれ、リナ……」
 呟きながら立ち上がったミソラを仰ごうとした時、急に復活してきた頭痛に、トウヤは思わず顔を顰めた。
「お師匠様、リナを見ていませんか」
「いや……」
「リナ、リナぁ?」
 あっ、と出し抜けに声を上げて、ミソラは急に駆けだした。その方向には建物内への通用口があり、今は開け放たれているそこからすっと姿をくらましたあの水色の短い尻尾は、まずニドリーナのもので間違いない。
「私、リナを連れ戻してきます!」
「え? おい……、ッ」
 ちょっと肩が震えるくらいの頭痛が、その子が行くのを黙って見届けるに彼を留まらせた。今までどうして忘れていたのかと思う程ずきずきと攻め立ててくるそれに、思わずトウヤは蹲る。心配そうに細く喉を鳴らすハヤテの声を背景に、一度は手放しそうになった意識がすんでのところで戻ってきたのは、全然別の人物が、大声で名前を呼んだからであった。
 渋々と顔を上げると、困り顔をした数人に見守られながら、あのバクーダのトレーナーがこちらに近づいてくる。
「あのさ、ボールの修理とかできる?」
「……修理?」
「バクーダをボールにいれようとしたら、入ってくれないんだよ。開閉スイッチは動くんだけど、何が壊れてんのか」
 トレーナーからボールを受け取ると、動かないバクーダに向けてボールをかざしながら、トウヤは開閉スイッチを押し込んだ。パカッ、と間抜けな音を立てて、紅白のボールが上下に割れる。だろ、という顔をして、トレーナーはこちらを見下ろした。中身のポケモンを解放している状態でその動作を行えば、通常ならば、赤い光がポケモンへ伸びてそれを収納しようとするはずだ。
 脳の割れるような頭痛と、こみ上げてきた吐き気さえ覚えながら、トウヤは開いたボールの内側の細工を覗き込んだ。
「……ああ、ボールマーカーが壊れてる」
「へ? なんだそれ」
「ボールがポケモンを識別するための装置だ。ポケモンの方にひっついてる凄く小さい機械が……」それ以上は億劫だ、と言わんばかりに、トウヤは言葉を濁した。「……とにかく、直す方が高くつくぞ。買い替えたほうが早い」
 一旦バクーダを逃がして、また新しいボールで捕まえろと言うのである。そうは言ってもなぁ、と返してくるトレーナーは浮かない様子だ。
「ボールだって安くないよ。そんな余裕なんか……」
「じゃあどうするんだ、あのまま放っとくのか?」
「いやー……うーん」
 煮え切らない様子で頬を掻くトレーナーを見ていると、先程自分の部屋で繰り広げた会話の一端が、俄かにトウヤの中に降り注いできた。……それがあれば、事態は一瞬で打開できるだろう。しかし、と血迷ったのは一瞬で、それ以上はもう、何か考えるのも苦痛であった。
 トウヤがポケットの中から取り出し、右手で握らせた『昨日の稼ぎ』の紙幣の数枚を、トレーナーは恍惚とした様子で見つめた。
「それで足りるか?」
「トウヤ、お前……!」
「倍返しだ」
 ぴしゃっと言い放ったトウヤに相手が静止した、その背をふっ飛ばすような轟音と共に、急激に世界が暗くなった。
 悲鳴が上がった。吹き込んできた再度の厚い煙はあっという間に視界を奪い、太い咆哮と、赤い炎の生み出す混沌は更に体調不良を加速させた。霧払い、と命じるのがやっとで、スワンナがその羽ばたきにより風を生んで煙を空へ追いやる頃には、バクーダの傍にいたトレーナーやポケモンたちがいくつもひっくり返っているような事態に陥っていた。
 そこにあったのは、急な静寂であった。嫌な予感が背中を伝って、はっとトウヤが回りを見渡した時には、そこにあの巨体の影はなく。誰かが声高に叫んだ。その誰かの指し示すところは、今しがた、ミソラの飛び込んでいった通用口だ。
「おい、あのバクーダ、建物の中に入っていったぞ!」





 ――どうして追ってくるんだ!
 なぜかの事態に困惑しながらミソラは真っ暗な、いや背後の炎に照らされて僅かに明るい通路を一目散に駆け抜けた。薄ら赤い通路の床の自分とコジョフー達の影を踏んづけようと足を延ばして、どうしても踏めずに次を蹴る、なんだか奇妙な逃走劇であった。後ろからどすんどすんと足音を響かせているそれが、ひとたび『火炎放射』でも噴けば、たちまちに黒焦げか、または茹であがって一巻の終わりだ。そんな恐怖に苛まれながら、円形のフィールドに沿ってゆるやかに湾曲する四方コンクリート張りのスタジアム通用路を、一人と二匹はひたすら疾走する。
「リナぁー!」
 呼べど、やはり返事は無し。しかし、いつもの『トレーナー控室』の前を通り過ぎた時、我が耳を疑うような音をミソラは聞いた。軽やかな鈴の音。それは間違えようもない、ミソラが今だって肩掛けにしている鞄にひっついていたはずの鈴のそれだ。決して、あのチリーンの声ではなくて。そういえばレンジャーさんはどこに行ったんだろ、という考えが頭を過ったのも束の間、あるべき場所とは別の方から聞こえてきた音の根源を、ミソラはばっちり発見した。
 リナだ。さっきすれ違いざまに引っ掛けていったのだろうか、片方しかない耳の先端に絡まった赤い紐、そして暗くともよく映える白い鈴がぶら下がっている。その水色の体がすうっと壁の中へ消えていったのでミソラは一瞬仰天したが、近づいて見れば、そこには開きっぱなしの扉がある。
 ミソラはその部屋に転がり込んだ。コジョフーの二匹は一斉に後方へと『スピードスター』をけしかけると、急かすミソラの足元へ跳んで戻る。力いっぱいドアを閉めると、その向こうを、重い足音が鼻息荒く通り過ぎていくのが感じられた。……閉じきっていた口からはぁっと脱力が漏れると同時に背後から聞こえた唸り声に、ミソラは忙しく振り返った。
 脂ぎったコンロの上に立っているリナが、棘を逆立て、牙を剥きだしながらこちらに敵意を剥いている。ここは給湯室か、と不意にミソラは理解した。先程チリーンが頭をぶつけた換気扇の、蓋が落ちかけてぶら下がっている……低く牽制するリナにコジョフー達は臨戦態勢を取ったが、ミソラはそれをとどめた。
 取り出した紅白球を映せども、血走った双眸は激しさを増すばかり。
 ミソラはボールをリナに向け、今度こそ構えた。
「リナ、戻――」
 ――その換気扇から『ディスク』が降ってきたのは、まさにこのタイミングであった。
 呆気に取られたミソラは、開閉ボタンを押せないままそれを見届けるしかなかった。子鼠ほどの大きさの円錐形の物体はコンロの上に飛び乗ると、驚き床へと飛び去ったリナをカッと追って、謎の敵襲にただただ戸惑う足元を、囲ってぎゅんぎゅんと回転する。捉えようと前足が上がるも、それまでだった。摩擦熱にも見える尾を引く青白い光は、駒の軌道に幾重にも幾重にも躍ったかと思えば、ひとつの輪を成し宙を舞って、出し抜けに狭まりリナを締め付けた。
 声を上げる機会も見失って、最後まで、ミソラは完全に傍観者であった。
 リナは苦しがる素振りも見せなかった。ぱっ、とその光が弾けると、そこにあったのはただの静寂。斜めに壁を跳ね返り何事もなかったかのように換気扇の中に戻っていった駒を横目に、リナは、とぼけた表情で瞬きを繰り返している。さっきとはまるで打って変わった、自分が何をしていたのか分からない、とでも言いたげな平和な顔だ。……空のボールを握ったまま閉口するしかなかったミソラがわぁっと仰け反ったのは、リナがどうこうではなくて、先の換気扇から次は人の拳ほどの物体が転げ落ちてきたからであった。
 ガツッ、とコンロに逆さに嵌ったチリーンは、長い尾を振り回しながらミソラを指さして笑い転げていた。リナが不可思議な顔で、コジョフー達はいつの間にか自分の後ろに隠れて怯えた様子でそれを眺めるのに対し、ミソラは一人換気扇の暗い穴へと目を向けた――そんなところから顔を覗かせたのは、やっぱり、例の女レンジャーであった。
 何してるんですかこんなところで、と先刻と同一の問答を繰り広げそうになった矢先に、あっ、とミソラは声を上げた。少し頬を煤に汚している彼女の、さっきと変わらずな黒いパーカーの右腕には、先程まではなかった真っ赤な機械が取り付けてある。
「極秘ミッション……!」
 思いのままをミソラが叫ぶと、にっとレンジャーは笑って見せた。






  
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