フードを降ろし、髪を払うように少し顔を振った彼女を見て、ミソラは表情一つ変えなかった。
「レンジャーさん、何してるんですかこんなところで」
「それはこっちの台詞。なんでこんなところにミソラちゃんが一人でいるのよ」
 トレーナー控室前の廊下からミソラを誘拐してきた女レンジャーは、渋い顔つきで子供の方を見下ろした。彼女のあの家で見るのはいつもポケモンレンジャーの隊員服だったから、こうして私服で会うのは初めてだな、と、質問には答えずミソラはまじまじそれを眺める。およそその方が潜入しやすいと考えたのだろうが、カーゴパンツに黒のパーカーというボーイッシュな出で立ちで、整った中性的な顔立ちも、スレンダーな体型と相まって本当の美少年に見えなくもない……という褒め言葉は、なんだか怒りを買いそうな気がしたので胸にしまっておくことにした。
 一旦部屋から顔を出して誰にも見られなかったことを確認すると、レンジャーは給湯室の扉を閉めた。途端、コンロの上にうつ伏せになっていたチリーンが、にぱっと笑顔を見せて浮遊する。そして、頭上の換気扇にぶつかった。
「でも助かったわ。ここのトーナメントのシステムとかいまいち分からなくて」
「分からないまま潜入したんですか」
「まどろっこしい事って嫌い」
 ぴしっと言い切る彼女に、なるほど、確かにこの人はポケモンレンジャーとしてはかなり常軌を逸している、とミソラは少し苦笑した。
「トーナメントにはなっていませんよ。……ということは、何かミッションなんですか?」
「まぁね」
「一体、どんな?」
 ちょっと目を輝かせたミソラに、ニッと意地悪く笑ってレンジャーは返した。
「極秘ミッション、かな」
「極秘ミッション! かっこいいっ」
 その時、ギッと扉が鳴って、突然ドアノブが回転した。レンジャーが身構えるのもつかの間、飛び込んできた二つの影は、まっすぐミソラへと駆け寄ってその足元をぐるぐると回り始める。そういえばあの男に連れ出された際、コジョフー達は控室に残したままにしていたのだ。怪訝な表情で説明を求めるレンジャーに、友達なんです、とミソラはそれらを紹介した。
「友達……?」
「はい。……あの、レンジャーさん」
 空色に輝く双眸が、寄ってきたチリーンを抱き留めるレンジャーを見上げる。
「私も、極秘ミッションなんです」
 そう言って、内緒にしていた宝物を紹介するような顔をするミソラへ、レンジャーは、そう、と一言だけ優しく返した。
 遠く聞こえてくるアナウンスに、不意に二人は耳を澄ませる。試合の終了と、次の試合のエントリーを募る声が、閉め切った給湯室にもかすかに届いてきた。あの男がミソラとの試合を運営に申し出ているとすれば、ミソラもそろそろトレーナーボックスに向かわなければならない。
「ミソラちゃん、あの男と試合するんだ」
「はい。がんばります!」
「あの人って、昨日お兄さんが試合して、倒れたっていう?」
 頷くと、レンジャーは一瞬曇った表情を見せたが、すぐに晴らすとすっと腰を屈めてミソラと視線を合わせてきた。
「次は、何を出すの?」
「え? えっと……リナを出そうかと。次勝ったら、お金が稼げるんです。リナは強いので……」
「そっか。気をつけてね」
 そうしてぽんぽんと頭を撫でられた意味が分からなくて、ミソラはしばらくきょとんとした。
 行こう、と言うようにコジョフーたちはぴょんぴょんと跳ねて、踊る要領で給湯室の扉を廊下へ抜けていく。じゃあ行ってきます、とミソラは頭を下げて、一旦二匹を追おうとした。けれど、思い出したように突然振り返った。
「レンジャーさんは戦わないんですか? 入場料払ったなら、試合しないと損ですよ?」
「まぁ、そうよね」
「三回勝ったら元が取れるんです。戦う相手は、さっきの選手の控室に行ったら誰かが声かけてくれますし……」
 得意げに説明するミソラに、レンジャーは困ったように微笑んだ。
「うーん……選手って男ばっかでしょ。苦手なのよね、男の人って」
 それは意外だな、とミソラが思っている間に、レンジャーは素早く切り返した。
「というか、ミソラちゃんってお小遣い貰ってたんだ」
「え?」
「だって、そうじゃなきゃそもそも入場料払えないでしょ? 違うの?」
 ――突然ミソラの頬に赤みが差したが、そんなことは微塵も解せず、二匹の『友達』はそれをぐいぐいと押しやっていく。見送ってくるレンジャーに、後ろ歩きに引き摺られながらミソラはあたふたと弁明した。
「い、いえ……あの、それは……お願いです黙っておいてください、ちゃんと増やして返すんですっ……」





 濡れた髪をタオルで拭いながら部屋に戻ると、右手に紙幣の束を携えた大男が、何やら這いつくばってベッドの下を覗きこんでいる。
「……何やってるんだ」
「あ? あぁ、帰ってきたか。いやな、変だと思ってな」
 タオルを首に掛け、めいいっぱいの嫌そうな顔を未だに伏せているグレンへ向けてから、トウヤは出しっぱなしにしていた布団を畳んで押入れへと突っ込んだ。部屋の隅で膝を抱えているハリがじーっと見つめてくるので、どうかしたか、と低く問う。ハリは何も言わなかった。
「……あぁ、ハリが布団出してくれたのか。そういえば僕は出さなかったもんな、ありがとう……」
 違う、とハリがかぶりを振るので、襖を閉めようとする手をトウヤは止めた。
「じゃあハヤテか? まさか」
「アホか、気の利くペットがもう一匹いただろう」
 その声に、トウヤは机の上に投げてあるトレーナーベルトの三つ目のボールへ視線を落とし、それを見てグレンは盛大に笑い声を上げた。
「それはともかくとして、やっぱり変だぞ」
「何が」
「今この部屋で拾った分だが、これ、昨日の稼ぎだろ?」
 グレンが掲げたのは、右手に掴まれていた数枚の紙幣である。昨日、スタジアムを出る際に運営に賞金を握らされ、財布に戻す体力的な余裕はなかったのでポケットに突っ込んだところまでは記憶にあるが、それを帰宅してからどうこうした覚えはない。が、外にそれだけ金が散らばっていたとなれば、おそらくはそういう事なのだろう……多分、とトウヤが曖昧に返すと、帰りに使ったのか? とグレンは尋ねた。
「使ってない」
「だろ。だったらおかしい」
 そう言われて渡された紙幣を、トウヤはその場に座って数えはじめた。
「昨日何戦したんだ?」
「どうだったかな……五、六戦だと思うが」
「五戦にしては少し多いぞ。六戦だったとすれば、少なすぎる」
 確かに――記憶を手繰り寄せようとしても、やっぱりそれ以上は何も出てきそうにはなかった。なんとなくハリに目をやっても、答えは何も返ってこない。
「……グレン、お前そう言って今くすねたんじゃないだろうな」
「おぉ、ガキの頃から面倒見てやってきた奴にそんな疑いを掛けられるとは、なんと嘆かわしい」
 そんな風に芝居じみて言う男へ、トウヤは何も言わなかった。がしがしともう一度髪を拭くと、タオルを従者へと放って、そのついでとばかりに今しがたタオルを放った自分の左の掌を一瞥した。シャワーを浴びてすぐ上がってきたから、普段巻いている包帯は外したままだ。赤黒く変色した左の腕は、凡そ気のせいではないという程度に、一層赤みを差して感じられる。普段より随分と動かない指を、グレンからは見えない場所で、何度か握ったり開いたりした。
 ベッドの下を捜索し飽きたらしい男は、やれやれと起き上がって、いやに真面目な顔をしている弟分の方へと目をやった。
「なんだ、怖い顔して」
「……お前、何しに来たんだ」
 タオルを膝の上にかけたハリが、すっ、と表を上げた。
 グレンは一瞬押し黙った。しかし、すぐに破顔すると、おどけるように肩を竦めた。
「おいおい、俺は見舞いにも来ちゃあいかんのか?」
「そんな訳ないだろ。三年前の冬、僕が寝込んでふた月も顔を出さなかった時だって、お前は見舞いになんか来なかった」
 すっぱりと斬られると、間もなく、観念した、と言うようにグレンは苦笑した。
 また呼び鈴の鳴る音がして、階下から賑やかしが聞こえてくる。開いた窓の向こうの町の喧騒も、やけに大きく耳についた。グレンは明るい空の方をしばらく眺めていたが、やがてトウヤへと顔を戻し、少し前のめりになった。
「今、体調は?」
「なんだよ。……まだ完全には」
「昨日はどうしたんだ、一体」
「どうした、って」
「普通じゃなかっただろ」
 話を誘導しておいて自分の方が答えに詰まり、トウヤは一拍置いた後、ふと左に目をやって――机の上に置いてあった白い錠剤の入った小瓶を、手に取り、自分の後方へと戻した。
「それが知りたくて来たのか? お前には関係ない」
「……なら、話を変えよう。単刀直入に聞くが」
 グレンの表情にも俄かに真剣さが灯って、低く声を潜める。
「トウヤ、あの『薬』をどうした?」
「……は?」
 意味を汲み取れないトウヤに対して、グレンに珍しく苛立ちの色が滲んだ。
「前渡しただろ。俺がその……人違いでお前を殺しかけた時に」
「あぁ」
 レンジャーの家の前でグレンのアブソルとヨノワールに強襲されたのは、二か月ほど前の話だっただろうか。
 その時に貰った褐色の小瓶の事自体は、思い出すのは容易であった。中に液体が入っていて、『飲ませればポケモンが元気になる』だとか、何か凄く曖昧な効用を説明された記憶はある。あったが、それを何に使ったかまでは、すぐに思い起こすことができなかった。考えようとすればするほど、先からの頭痛が邪魔をして、回想するに至らない。
「あれは……、確か……」
 ――とある草原での一幕がトウヤの中に呼び起こされかけた、丁度その瞬間であった。
 低い、地鳴りのような騒音が、二人の鼓膜を震わせた。グレンが顔を上げた時には、トウヤは立ち上がって、窓の向こうを覗こうとしていた。轟きに遅れて、窓のガラスがぴりっと、ほんの僅かに振動する。大した音ではなかった。但し、それが近くで鳴った音ならば、だ。
「……スタジアムか?」
「かもな。だとしたら随分派手にやってるじゃないか」
 目の前の展望には、変わった景色は見られなかった。しかし、窓から身を乗り出したところで、この窓からではココウスタジアムの位置する方角は窺えない。
 首を傾げるトウヤの後ろで、座り込んだまま、そういえば、とグレンは顎を撫でた。
「スタジアムでミソラを見たな」
「え?」
「ここに来る前だ。一人で入っていったぞ……いや一人じゃなかったか、何かポケモンを抱えていた」
 ニドリーナか、という独り言に、そうじゃないとグレンは首を振った。
「遠目にはコジョフーに見えたな」
「コジョフー? ……あぁ、」そういえばニドランを掴まえた日に、ハヤテに乗ってココウを目指しながらコジョフーと一戦交えたような話をしていたな、とトウヤは思い返した。突然進化したリナの放った華麗な技の数々を、とても興奮しながら話していたあの、空色の無垢な双眸……。「コジョフー連れて一人で観戦? 何考えてるんだ、あいつ」
「いやいや、それが」
 グレンがひらひらと手を振りながら次の言葉を口にすると、トウヤはますます顔をしかめた。
「どうも観戦じゃないみたいだぞ。俺が見た時、受付にエントリーしようとしてたみたいだったからな、あの子は」


 二度目の地響きが渡ってきたその時、ハギの酒場の二階の窓からひらりと躍り出てきたひとつの影に、タケヒロは目を瞠った。
 トウヤだった。昨日試合中にぶっ倒れて、今朝ミソラがスタジアム目指して出発したこともおそらく知らないであろうあの男は、桟の上にとんっと立つと、そのまま屋根の縁を掴んで軽々屋根へと跳んで上がった。やり慣れたその動きにタケヒロは若干驚きながらも、彼の視線の真っ直ぐ向かう方へと目を向ける。
 窓から人が飛び出してきたことに気付いた通行人は少ない。そんなものよりも目を奪われる光景が、その方向にあったからだ。
 透き通る一面の蒼穹を臆面もなく塗りつぶしていく、深い灰色の一塊。邪悪な生き物のようにかさを増しながら立ちのぼっていく黒煙を、人々は指さし、たじろぎ、または面白がって眺めている。あの根元は、間違いなくスタジアムだ。……嫌な予感がした。あそこにミソラがいることは、タケヒロもよく知っている。
 不安定なざわめきに包まれた喧騒から、タケヒロは酒場を見上げた。片膝をついてそちらへ顔を向けるトウヤは、いたく厳しい目をしている。
 トウヤが飛び出した窓から慌てて空を見るグレンの脇から、ひょっこりとノクタスが顔を出した。途端、その体は赤い光に包まれて、屋根の上のボールの中へと収納された。続けざまに掴むボールは、三つのうちの前から二つ目だ。グレンは叫んだ。
「おい、待てトウヤ!」
 カッと閃光が走って、スタジアムの方を向いていた幾多の視線が一斉に酒場の屋根へと注がれた。矢のように突き立てられるそれらを跳ね返すように堂々現れるのは、一頭の群青の小竜。トウヤはそれに飛び乗った。
「様子を見てくる」
「馬鹿か! 病人は大人しくしてろ」
 『病人』とグレンが真顔で言ったのも、それにトウヤが小さく舌打ちするのも、お互いの場所では全く知ることはなかっただろうが。
「グレン、僕は、」
 パッとガバイトが屋根を蹴り出すと、また商店街にどよめきが立った。自分の頭上をあっけなく飛び越え、俄かの悲鳴と共に人波の割れた路に着地するハヤテとトウヤとを、タケヒロは唖然としながら傍観している。
「僕があそこで戦って死にかけてる所を、あいつも見てる。それでも一人で行ったって言うなら」低く、呻くようにトウヤは吐いた。「多分、僕のせいだ」
 とんっと踵で脇腹を蹴る、一つ吠えると、ハヤテは大通りを迷わず北へ駆け出した。タケヒロはぽかんとしてその背中を目で追い、そして、顔を戻して例の窓を見た。大男は、体格に見合った大きさでため息をつきながら片手で頭を抱えている。
「保護者気取りが成長してやがる!」
 独り言さえ大きかった。そこら一帯の路上の人々に聞こえる声量でそう漏らすと、窓の前から姿を消す。そこまで見届けて、タケヒロはようやく我を取り戻した。――レンジャーの件、そしてミソラの件を不本意ながら相談しに来たはずが、当の本人がミソラのいるスタジアムへと向かってしまった。ならば、自分も向かわざるを得ないではないか!





 呼べど、呼べど、水色の友人は姿を現さなかった。
 くらっと襲いくる眩暈に膝から崩れ込んだミソラを、庇うようにコジョフー達が寄り添った。大丈夫、と咳き込みながらミソラは答える。けれど、ハンドタオルで口元を覆っても、なかなか呼吸がままならない。フィールドを色濃く覆う煙は、しかも視界さえ奪ってしまった。
 男が繰り出したその時から、バクーダの様子はおかしかった。鼻息荒く必要以上に興奮するその小山のようなポケモンへ、しかしリナは臆さず飛びかかっていった。男の指示を完全に無視し、バクーダが真っ赤な『噴煙』を発したのは、リナがその火口へ飛び付こうとした瞬間であった。
 リナは何か技を放ったのだろうが、ミソラには知れなかった。エネルギーが衝突して爆発が起こり、噴き上がる黒煙が会場を席巻し夜中のようになるまでは、竜巻に呑まれるが如く、本当にあっという間の事だった。客席から悲鳴が巻き起こり、場が騒然としたことは、ミソラには関係ない。前も後ろも分からぬ中で、試合が続行されているのかどうかなど知る由もなく、ミソラはひたすらリナの身を案じて、トレーナーボックスの後方に設置されたフィールドへと降りる階段を探り当てた。二度目の爆発が起きたのはその時だった。その衝撃で、腰に頭にまとわりついていた二匹のコジョフー共々、ミソラはフィールドへと転がり落ちたのだ。
 気を失っていたのは、おそらくは一瞬の事。頬に張り手をかまされてミソラは気が付いて、心配そうにこちらを見ているコジョフーの顔の向こうには、ただただ、煙、煙、煙。悲鳴は殆んど消えていた。観客は粗方避難してしまったのだろう。
 捻挫でもしたのか右の足首が酷く痛んだが、そう遠くない場所から怒鳴るようなバクーダの咆哮と、リナの高い吠え声を聞けば、居ても立ってもいられない。相棒の名を呼びながら、蠢く煙を掻き分け、ミソラはフィールドを駆けた。
 殆んど風がないのが災いと化した。最初はきつく感じていた硫化水素の刺激臭も、嗅覚がやられてしまったのか、気が付けば感じなくなっていた。立ち上がると、やはり頭がくらくらする。けれども、たった一匹の手持ちを案ずる気持ちは、自分の身を案ずる気持ちを軽く上回った。瞼の裏にちらりと、師匠の姿が浮かぶ。ポケモンを第一に考える自分の行動を、きっとトウヤは褒めてくれる。よくやったと、言ってくれるに違いない……緩みかかった気を引き締めると、朦朧とする視界の傍らに、青い光が瞬いた。
「リナ」
 『冷凍ビーム』だ、間違いない! リナ、ともう一度その名を囁き、右足を引き摺りながらミソラはそちらへ向かった。一歩いく度、リン、リン、とその所在を示すように、鞄に付けた鈴が鳴いた。リナをつかまえたら、どうしよう。ミソラは考える。フィールドの端まで退こう。壁伝いに歩いていけば、建物への入り口か、トレーナーボックスへ上がる階段が見つかるはずだ。そこから逃れて……煙が揺れているのか、視界がぶれているのか、最早分からぬ。ただ、単調だったその景色がぶわっと動いて、中央から水色が現れたとき、ミソラは一瞬高揚した。
「リナ! こっち……」
 高揚は一瞬であった。片耳のニドリーナ――かなり傷を負っている、火傷も喰らっているか――は、赤い目でキッと主を睨むと、一声鳴き、そして、牙を剥いてミソラに飛びかかってきた。
 避けはしなかった。けれども当たりもしなかった。さっと前へ出たコジョフーの一匹が蹴りを出して、短くも鋭い牙と交わったのだ。ぱっと爆ぜ、ミソラの頬を掠ったものは、赤く濁った体液の飛沫。心臓の止まる思いであった。そう、あの時、トウヤが倒れた時だって、様子がおかしかったのは、あのバクーダではなかった。
 どっとコジョフーが地に落ちて、水色は主の傍らを抜け、どこかへ走り去っていく。ミソラは閃き、鞄に手を突っ込んだ。ボールだ。どうして忘れていた。ボールをかざし、開閉スイッチを押しさえすれば、リナは自分の元へ戻ってくるのに――!
 闇の中でも、なんとかボールは掴みとったのに、それがこの後しばらくリナを収めるに至らなかったのは、その時、むっと煙を押しのけて、巨体が目の前に姿を現した為である。
 こんなにも熱気に満ちているのに、ミソラは凍りついた。肩にしがみついている一匹も、そこに倒れている一匹も、そうであった。
 目の前にまみえた噴火ポケモンは、遠巻きに見るより、遥かに遥かに大きく感じた。咄嗟にリナにやられたコジョフーを抱えるも、それまでだった。脚が動かない。震えが来た。背筋を汗が伝う。リナ、リナ。助けてよリナ。呼ぶ声は力にならない。一見眠そうな、されど狂気に満ち満ちた瞳は、確かにミソラと二匹を映した――二つ火口が煌めき、バクーダは大きく口を開けた。その喉の奥からせり上がる、熱い輝きをミソラは見た。
 金縛りが解けるように、弾かれるようにミソラは踵を返し、痛みを忘れて駆け出した。けれども少し行ったところで、右足首が悲鳴を上げ、足がもつれ、前のめりになり、抱いている為手も出せず、二匹もろともミソラはザザッと地面に伏した。目の前が暗くなった。だども後方が明るい。振り向いた。赤いエネルギーは、今にもバクーダから放たれんとしていた。
 ――お師匠様、
 声にならない声で、そこにいるはずのない人をミソラは呼ぶ。スタジアムにて、試合に向かいながら、下手すれば死ぬかもしれないな、と飄々と告げてきた彼の様子を、こんな時に思い返した。死ぬかもしれない。現実味のない恐怖を、ミソラは感じることなんかできない。いつか、街の外の草原のどこかで、テッカニンに襲われた時の方がよっぽど怖かった。だって、だって、こんなところで。
 ……誰か。誰か――
 迫る、赤く、真っ白な熱の柱に、金色の髪が吹き飛ばされた。






  
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