そう、大変だったわね、とレンジャーの女は微笑んで、そうするとミソラの気持ちも幾分和らいだ気がした。普段の彼女は平然とした顔で男ども(勿論ミソラを除いて)を罵っているから、彼女に対してミソラは『怖い人』というイメージを抱いていたりするのだが、それでもこうして話を聞いてもらっているとなんだかほっとしてしまう。自分のだめな所を吐き出しても、否定せず、中にすうっと吸い込んでくれるような心の深さを感じるのだ。そういうのは、トウヤやタケヒロにはなくて、おばさんなんかが持っているのとよく似ている。
 家に帰れ、と言われても結局そのまま帰る気にはなれず、ミソラが目指したのはそんな彼女の家であった。浮かない顔の子供が腰かけている椅子の後方には、なぜかタケヒロもいる。彼が顔を赤く火照らせ、その家付近で右往左往としていた意味はまったく知れなかったが、それほど親しい訳でもない女と二人っきりになるよりは、ミソラには都合が良かった。
 昼間の出来事を、ミソラはレンジャーに言って聞かせた。目の前のトレーナーボックスで膝をつき、うずくまりながら指示を叫んでいた男の姿。勝手に飛び出した自分のパートナーが、煙に覆われたフィールドへと去っていってしまったこと。そのどちらの事へも、駆け寄っただけで、何もすることができなかった自分。次々と話していると、己の無力さを改めて思い知った気になった。特にリナのことだ。言うことを聞かせられた試しだってほとんどないのだけれど、危険なフィールドへ身を投げるのを止められなかったとくれば、かなり事は深刻である。
「そのニドリーナ初心者向けの性格とはとても思えないし、そんなに気を落とすこともないと思うけど」
「そうでしょうか……突然暴れ出して、全然言う事を聞かせられなくて。私のポケモンなのに、少し、怖いと思ったくらいで……」
 椅子から床に届かない足をふらふらと揺らすと、ミソラは手元に視線を落とした。
「……トレーナー失格です」
 いつになく暗い表情をしている友人を見、今は自分の横ですやすや寝息を立てているニドリーナのリナを一瞥して、かける言葉も探り当てられずタケヒロはぽりぽりと頭を掻いた。
 昼過ぎであるが女の家はいつも通りの薄暗さで、高いところにある窓だけが最低限の光を屋内に招く。曇ったガラスの向こうにはすかんと晴れた青空があって、そこをたゆたう綿雲のようにチリーンはふらふらと泳ぎ回っている。それを見上げて、レンジャーはまた少し笑みを浮かべた。戸棚からお菓子の包みを取り出すと、ぺいっ、とそれをミソラの手元に差し向ける。
「もっと長い目で見ていかなきゃ。そんな顔してると、ポケモンに気持ちが移るわよ」
「……気持ちが?」
「そ。こんな道具使わなくたって、」レンジャーは自分の右腕の、『キャプチャ・スタイラー』を前に示すと、「通じる時は嫌でも通じちゃうんだから。ポケモンを落ち着かせたければ、まずは自分がどーんと構えておくこと!」
 すとんと向かいの椅子に腰かけた女へ、ミソラは瞬きを繰り返す。タケヒロはちょっと唇を尖らせながら、自分のポケットに入ったボールへちらりと目を向けた。
 くわぁと欠伸をして、リナがとろんと瞼を上げる。……その様子に気づくこともなく、狐につままれでもしたような顔でレンジャーの事を見つめたまま、ミソラはぺりぺりとお菓子の包装を解き始めた。
 そうだ、レンジャーの言う通りだ。不安がっていた。いつの間にか、自分がリナを怖がっていた。だからいけないんだ。この子を捕まえた日も、同じことを考えていた。あの日、自分は君を怖がらないから、君も怖がらないで、と、そんな風に約束を交わしたはずだったのに……。
「……で、こんな時にこそ頼りになるはずのお師匠様が、風邪でぶっ倒れた、と」
「あ、はい」
 そうだ、その問題もあった。一瞬明るくなったミソラの前にまた憂鬱のもやがかかり始める。風邪はいい。それより何となく不可解なのだ。試合前のトウヤの様子も、また試合後のグレンの言動も。
「スタジアムに入ってから急に悪くなったみたいで……どうして無理をしてまでバトルをするんでしょう。今しか戦えないトレーナーでもないですし」
「バカなんだよ」
 吐き捨てたタケヒロの言葉を、否定することがミソラにはできない。
 対してレンジャーは、付いていた頬杖を外してちょっと目を細めた。だが、彼女が引っかかったのは、ミソラの懸案とは少し照準の違った部分である。
「……急に悪くなったって?」
 包みの中身のおまんじゅうをもしゃもしゃと食んでいたミソラは、ひとつ頷くと、慌ててそれを飲み下した。
「最初は普通だったんです。でも、何試合かしているうちに辛そうにし出して。最後の試合の前も私止めたんですけど」
「辛そうに」
「はい、頭が痛いっておっしゃってました」
「……ふーん……」
 何か考え込んでいるようでついと子供から目を逸らし、レンジャーはもう一度頬杖を付いた。そんな女の頭の中をはかりかねて、ミソラはまたぱちぱちと瞬きをする。この人だって、大事なことはあまり教えてくれないから、やっぱりよく分からない。師匠といいその友人の男といい、この辺の年上の連中は、ミソラにはいまいち掴めない人ばっかりだ。
 ミソラに迷惑かけやがって、と皆に聞こえるようにひとりごちた分かりやすい同年代の友人の方へと、ミソラは体の向きを変えた。
「お金が欲しかったのかなぁ」
「金? なんで?」
「だって、スタジアムって勝てば勝つほどお金が貰えるんでしょ」
「それは知らねえけど……」
「欲しい物でもあるのかな、何か高い物とか」
 んなもんねーだろ、あいつがポケモンのエサ以外に何か買ってるの見たことねーよ、と少年がぶっきらぼうに言うと、よく知ってるじゃない、とレンジャーの茶々が入る。うっせーなっと恥ずかしげに腕を組むタケヒロを見て、ミソラは少し笑ってしまった。その笑い声に誘われるように、ひょこっと起き上がったリナが辺りの匂いを嗅ぎ始める。よかった、いつも通りのリナだ。ミソラはほっとして頬を緩めた。
「あー、そういえば」
 気だるげに呟く声に振り向くと、ぼうっとこちらを眺めていた女レンジャーと目があった。
「金欠だって言ってたっけ……」
「え?」
「お兄さん。ミソラちゃんがココウに来てすぐくらいだから、もう結構前だけど」
「そうなんですか?」
 ミソラは目を丸める。彼女の言う『お兄さん』とはトウヤのことだ。遊びこそしないがポケモンの食べる物に関してはかなり羽振りが良いし、ミソラにだって本や鞄やボールなんかをほいほい買い与えてくれたから、てっきりお金には困っていないものかと思っていた。
「じゃあ、やっぱりお金が欲しくて無理をなさったんですか」
「かもね」
「でも、なぜ?」
 その問いの答えを、レンジャーは若干言い渋った。
「……家に入れる分がどうとか、言ってたかな。あの時は」
「家に……?」
「あそこ、他人の家でしょ。ああいう歳だって言うのもあるけど、子供の時からもずっとお金を入れてたみたい」
 へぇ、とタケヒロが他人事な相槌を打った時には、そうだったのかという単純な感想のみでミソラはそれを流しそうになった。けれど、なんだろう――彼女の言葉の意味を改めて、きちんと理解しようとした瞬間に、すっ、と胸の奥に入り込んでいった響きがある。なんだろう。視界に霞みがかかったようで、何か押しつぶされそうな、重たい不快感が渦を巻いて、ミソラはゆっくりと視線を下ろした。
 ……『他人の家』。
「……私」
 チリーンの涼やかな鳴き声の下で、ミソラの発したその声は、随分淀んだ音に聞こえた。
「私、おばさんにお金払ったことないです……」
 くん、とリナが顔を上げた。
 チリーンの声も止んでしまうと、そこに訪れたのは、あまりにも不味い沈黙であった。レンジャーは背もたれに寄りかかって、目の前の白人の子の、伏せた睫毛に隠された空色の瞳を黙って眺めた。そわそわと首を動かすのはタケヒロで、隣のニドリーナと顔を合わせた後、かなり弱った様子でミソラを見上げた。年下の友人の顔は、まるで別人のように暗く暗く沈んでいく。
「だ、だってお前、まだ子供だし……」
「でもお師匠様は、子供の頃からお金を払ってらっしゃったんですよね」
「まぁ勿論、子供のうちはご両親が、だけど」優しく零すようにレンジャーが言うと、私にはそれもおりません、とミソラは強めに食い下がった。
 急にかかってきた息苦しい圧迫感は、みるみるうちに存在を増してミソラを変に駆り立てていく。そういう風に導いていくと、今日起こった良くないことの片側の分の原因が、子供の前にも姿を現した。それに当たってしまうと、僅かに震えがきた。知らなければいけないことだったのに、知らなかった。そして、勝手にも、知りたくなかったと思ってしまえた。
「私が来てからすぐに、お金に困ってるって言ってたって、レンジャーさんおっしゃいましたよね」
「……ええ」
「私のぶんの、お金を、おばさんに払おうとしていたから……ですよね」
 ――厄介者が増えたから、二人分納めなければいけない。そう零していた男の言葉をレンジャーは知っていたが、ミソラの確かめるような問いかけに彼女はかぶりを振らなかった。
「……もし、そうだとしたら……」
 ミソラは不安げに眉を歪めたまま、膝の上で拳を握る。
「今日、お師匠様が、無理に試合をしようとしたのは……私のせい、なのでしょうか」
 一杯になった胸からそのまま溢れようとした言葉は、驚くほどに喉のあたりで滞って、そんな風に途切れてでしか出ていこうとはしなかった。
 即座に、そんな訳ねぇだろ、とタケヒロは低く言った。けれど、それ以上は何も続かなかった。その思い当たりを否定してほしいのか、仕方のない事と励ましてほしいのか、ミソラ自身にも分からない。ただ、景色が色味を無くした。バクーダとの試合のさなかに師匠の背中が呑み込まれた噴煙、あのような黒い煙に巻かれて、動けなくなった。ずっしりと体が重い。その重みを感じていると、ミソラの耳にはもう、甘くて温かなレンジャーの言葉さえ、これっぽっちも入ってこなかった。
 そんな主の姿を、リナはじっと見ていた。きゅ、と鳴けど、頑なに扉を閉ざしてしまったように、主はこちらを向かなかった。


 レンジャーの家を出て、タケヒロと別れてから、夕闇に沈みかけたココウの商店街をミソラは一人とぼとぼと歩いた。
 酒場の戸をくぐると、暗かった。いつだって店を開けるのも閉じるのも女店主の気分次第ではあるが、こういう時間に誰もいないというのも珍しい。そういえば、今朝出がけに、今日は夕飯を用意できない、と言っていた気がする。なんだかそれさえも遠い昔の出来事のように思われて、ミソラはため息をつく気にもなれず、夕日の差し込む窓辺のベンチでこちらに首をもたげているヴェルへ目を向けることもなく、ふらふらと廊下へ向かっていった。
 夕飯はトウヤが準備する手筈になっていたはずだ。どうであれ、腹は減っていても、何も食べる気は起きなかった。ぼんやりとした闇に包まれた廊下から見上げる、段の向こうの階上からは、薄く切り取られた夕陽がミソラの頬を照らしていた。
 階段を上がり、開けっ放しの戸から、そっと彼の――自分の部屋を覗きこんで、最初に目に入ったのは、丸くなった青い竜の背中であった。
 ふっとミソラは微笑んだ。狭い部屋だから、図体が大きめで、かつ不用意に尻尾を振り回したりするやんちゃもののガバイトのハヤテは、普段ならボールから出されたりしない。それが机を上手く避けるように尻尾を捻じ曲げてまでそこですうすうと寝ている姿は、なんだか幸せそうとも思えた。ミソラが普段使っているベッドにはノクタスのハリが腰かけていて、ハヤテの向こうの方をじっと見ていた。立ち入ると、小竜の体で隠れたところに、トウヤは横たわって眠っていた。
 ゆっくり腰かけても、ベッドはきしっと沈んで、ハリの体が僅かに浮いた。窓から注ぐ蜂蜜色の日差しの中に、ゆらゆらと埃が泳ぎ来ては消えていった。……トウヤとハヤテの頭上で、押入れは黒い大きな口を開きっぱなしで黙っていた。敷布団はしまわれたままで、押入れから床へ直接引き摺り下ろしただけのぐちゃっと丸まった掛布団の上に、倒れ込んだような形でトウヤは深く寝付いている。
「……ベッド、使ってもよかったのに」
 呟いたミソラの言葉に、ハリは特別反応を示さなかった。
 考えるだけの時間が過ぎて、夕刻の室内も徐々に暗がりを増やしていく。静寂は彼らの上にしんしんと降り積もって、寝返り一つ打たないトウヤのかわりに、ハヤテが時折立てる寝言がそれらをゆっくりと巻き上げると、その度にミソラは時間の経過を感じることができた。気が付けば、部屋はほとんど闇に呑まれていた。そっとハリが立ち上がって、ぶら下がった紐を掴んで、ぱちんと電気をつけて、そっと元の位置に戻った。
 考えても、考えても、思考は延々と、遠海のような深みをぐるぐる巡っていった。部屋と一緒に闇に浸かっていたミソラの心は、電気がついたところで、どうにかなる訳もなかった。
(……迷惑は、かけないようにしようと、思っていたはずなのに)
 自分が居候の身であることは、しっかりわきまえているつもりであったから。
 思い返せば、駄々をこねて出先について行ったり、騒動に巻き込まれたりして、正直何度も迷惑はかけた。その度に怒られたり、呆れられたりして。でも、なぜだろう、それも当然だと思っていた。食の細い彼の分までご飯を食べればおばさんはとても喜んだし、遊び回って服をどろどろにして帰れば困った顔をして、でも笑ってくれた。本を見せてほしいと、ポケモンを教えてほしいと請えば、トウヤもきちんと接してくれたし、自分がポケモンに詳しくなればなるほど、少し嬉しそうな顔もした。それに甘えていたのだろうか。拾ってもらったあの日から、世話をしてもらうのが当然、ここにこうしているのが当然と、どうして思い込んでいたのだろう。
 自分を生かした人が、自分のために戦って、無理をして、満足に布団を敷くだけの余力も残せないまま帰宅して、そこにこうして崩れ伏して。依然血の気のない顔をして、かすかに開いた口から細い呼気を漏らして、床の上に眠っている。――不意に攻めてきたのは、得体の知れない感情だった。痛みを伴う感情が、腹の底からせりあがってくる。
(……いるだけで、迷惑をかけているんだ)
 何をするでもなくても、ただ、いるだけで。ここに暮らしているだけで。
 思うと、ちりちりと胸が焼けて、辛かった。気付かぬうちに堪えていたものが、目から零れ落ちそうになった。……その時、ふと、隣の影が動いた。
 ハリはベッドの上からぴょんっと飛び降りると、主人に添い寝している小竜の体を足で押し始めた。むずむずと身じろぎ始めたそれをげしっげしっと追いやると、不機嫌な声を立てながら、ハヤテは体を揺すって、ぶんっと尻尾を振った。それがバコンと机に当たって、机の上に置いてあったものがごろごろ倒れ、ぶわっと床に散乱する。わっ、何してるの、とミソラが立ち上がるのを仏頂面で見て、ハリはハヤテをもう少し隅の方へと押しのけた。そして振り向くと、騒動の中でも身じろぎひとつしなかった主人の体の下へ手を差し込んで、ひょいっと抱え上げた。
 ミソラは目を見張った。いくらポケモンとはいえ、ミソラよりちょっと高いくらいの身長の生き物が成人男性を抱え上げているというのは、かなり壮絶な眺めだ――それでも尚ぽかんと口を開けて眠ったままのトウヤへは見向きもせず、ハリはミソラへ目をやると、顎で襖の方を指し示す。曰く、『ホラ、さっさと敷布団を』……あっ! とミソラも声を上げて理解して、慌ててそれのしまってある押入れの方へ駆け寄った。
 ……一瞬、だ。よいしょっと敷布団を引き出しながら、自分の気をあまりにも手っ取り早く軽くしてしまったノクタスへ、ミソラは若干子供らしさを取り戻した笑みを向けることができたのだった。






  
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