ミソラがちょっと妙に思い始めたのは翌朝、いつの間にか帰宅していたトウヤの叔母――ハギと二人で朝食を取って、その片づけを手伝っている最中だった。
「しっかし、珍しいねぇ、あの子が風邪なんて」
 体の丈夫さだけが取り柄みたいな子なのに、とハギは言った。
 カチャカチャと音を立てて必死に皿を洗いながらも、その女店主のぼやくような言葉に、ミソラは違和感を覚えざるを得なかった。なぜなら、知り合ってまだふた月も経っていないくらいのミソラでさえ、彼が調子を崩している姿は、一度だけでなく目にしていたから――でも、なんの時だっけ。手を拭い、取るに足らない会話を終えてとんとんと階段を上がりながら、大して多くもない記憶の中から目当ての光景を探り起こす。
 一つは、すぐに思い当たる。ココウに来てから一週間ほどした頃に、二人で町の外へ『死の閃光』とか呼ばれている爆発の根源を見に行った時だ。その爆発のおかげで、町の外には『灰』という何か良くない物質が飛び交っているらしくて、それは爆心へ向かいどんどんと濃度を増していく。人よりその毒性に弱いのだそうで、目的地に近づくにつれ、次第に立っていることさえできなくなっていた彼の姿は、今だってよく思い出せた。……でも、それだけじゃなかった。もう一つだ。それ以外にも、確か――
 それがふと蘇ったのは、自室に戻って鞄を担いで、あれから昏々と眠り続けているトウヤの横顔を見た瞬間であった。
 ――あぁ、スタジアムだ。それは、あの二人旅よりも少し前。グレンのヘルガーが吐いたスモッグの中に、トウヤを背に乗せたハヤテが、咆哮を上げながら飛び込んでいく――!
 何かをつま先が蹴り飛ばして、しゃり、と音が鳴った。昨日も色々考え込んでいて、ハヤテが机を尻尾で蹴飛ばして床に散らかったものは、そういえば散らかしっぱなしで寝てしまったのだ。
 コロコロと遠ざかろうとするそれを、ミソラはひょいと拾い上げた。朝の光を受けてちらと輝くそれは、白い錠剤を蓄えた小さなガラス瓶であった。開きかかっていた蓋をきゅっと閉めながら、それについてもついでのようにミソラは思い返す。確か、これも『死閃の中央』への旅の途中で目にした。そうだ、トウヤの薬だ。町の外で『灰』にあてられた時、飲めば楽にはなるけれど、副作用がとても強くて、しばらくは眠気で動けなくなってしまうと言っていたあの薬。――その時、ぱっと閃いた些細な疑問は、訳もなくミソラを困惑させた。
 ……なぜ、こんなものが、机の上に出ている?


 もやもやしたものを抱えながら酒場の戸をくぐり出たミソラは、何気なく左手を見下ろし、そこにしゃがみこんだ。
 店の前にはプランターが並んでいて、ハギが毎朝やかんで水をやっているのをミソラはよく知っている。今ミソラが覗きこんでいるのはヤヒという植物で、ミソラがこっちに来てからここに植えられたものだ。ハギがそれを植えている横で、その花について教えてもらいながらミソラもその様子を見ていた。
 それを目に入れる度に、あの時ハギが言っていたことをミソラは繰り返し思い出す。この道を通る人、それが誰か知らない人であったって、その人が花を見て幸せな気持ちになれるようにこれらを育てている、と教えてくれたハギの言葉を。
(……一番身近な人に苦労をかけている僕は、他人を幸せにはできないだろうな)
 じいっと覗き込んで、ミソラは目を丸めた。あの日は緑色の小さな粒だったものが、ちゃんと蕾の形になって綻んでいる。白い花びらもしっかり確認できた。
 肩にかけている鞄を体の前に持ってきて、ミソラはニドリーナのリナのボールを手に取った。開閉スイッチを押そうか迷って、やめて、掌にだけボールを乗せて、その蕾へと近づける。
「見て、リナ。これ、ヤヒの蕾! もうちょっと暑くなったら、これが開いてね、白い花が……」
 どんっと後頭部に衝撃を受けて、ミソラはそのプランターに突っ込みそうになった。
 前のめりにバランスを崩し、せっかく蕾まで行きついた株を潰さないようにと粘った結果、その奥のお店のガラス窓へとミソラは額からぶち当たった。ゴッと鈍い音がして、店内で丸くなっていたビーダルのヴェルが顔を上げ、何事かとこちらを見る。じぃんと痛む額を涙目で抑えていると、背中の方から高い笑い声が聞こえた。それも複数だ。キッと表情をきつめて、ミソラは振り返った。
「……あぁっ!」
 そして感嘆の声を上げた。目を合わせたミソラに対して、小さな顔ににやっと笑みを湛えたのは、二人の――いや、二匹のコジョフーであった。
 完全に意表を突かれてミソラは固まった。間違いない。この二匹は、リナをココウに連れて帰る時に、外の草原から町中まで延々と追いかけ回されたあのコジョフーたちだ。
「君たち、あの時の……!」
 立ち上がると、鞄の肩紐に括り付けた白い鈴が、リリン、と鳴った。それを皮切りにするように一匹がぱっと飛び上がると、ミソラの右手の内からモンスターボールを掠め取り、二匹して身を翻した。そうして楽しそうにせかせか交わりながら、朝の商店街を北へ北へと駆け抜けていくではないか。ちらっとこちらを振り返っていたずらに白い歯を零すその顔はまるで、暇なら遊べ、今度は追いかけてこい、とでも言うように。――冗談じゃない!
「ま、ま、待ってよ、ボールはだめだってばぁ!」
 突然甲高く叫んだ異邦人に行き交う人の目は一瞬集まったが、誰もコジョフーを捕らえるまでには至らなかった。慌ててミソラは駆けだした。見失わないぎりぎりの速度で逃げていくコジョフーの背を見ながら、俄かに降り注いできたあるひとつのアイデアに、ミソラはちょっとぞくっとした。けれどもそれが過ぎると、今度は胸が高鳴ってきた。走っているから、だけではない。突如舞い込んだ、暗雲を裂く光の矢の如くきらめいたその打開策は、あんまりにも大胆で、そして、ものすごく爽快だったのだ。
 あるじゃないか――迷惑をかけずに、あの家に暮らしていく方法が!





 秘密基地の前の空き地に白い花が咲いたので、摘んで出かけることにした。
 人に見られると恥ずかしいのでなるべく下に持って歩いて、すれ違う時はさっと尻の後ろに隠したりしていたのだが、ここでこんなに恥ずかしがっていていざという時にどうするのかと自分に問いつめて、タケヒロはやっとの思いで堂々とそれを手にすることができた。スラムを歩きながら、時折現れるガラス窓に自分の姿を映しては、シャツの襟や、前髪の様子をチェックする。その度に屋内の誰かさんと目が合って、気まずさと気恥ずかしさでもみくちゃになりながらタケヒロはスラムを歩いた。
 ちらりと手の中のモノに視線を落とす。大きな一輪の白い花。五枚の花弁が、ぐっと伸びをするようにそれぞれの方向へ主張している。甘い匂いとかは特にしないが、にょきにょきと生えてきたものがなかなか見事だったから、それがうまく花開いて、摘み取って見せに行く日というのを、タケヒロはうずうずとして待っていたのだ。
 きれいな花を手土産にとは、我ながらなかなかロマンチストである。そんなことを考えながら、小汚い捨て子はスラムの放られたトタンの上をカンカンと打ち鳴らしながら一人歩いた。思うに、あの子は――あの娘は、姉ちゃんは、会っている時間の半分くらいは眉間にしわを寄せてるけれど、心根はとっても優しい人なのだ。知り合って間もないけれど、知り合ってからはじっとじぃーっと見つめ続けてきたタケヒロだから、分かる。そういう優しい人は、大概花が好きなものである。だからこうして突然花を持った男が己の為に現れるなら、あの心臓に氷の棘が生えてるみたいなレンジャーだって、きっと心を開くに違いないのだ。
 だから――あのこぢんまりとした木造住宅の前で、女物の怒鳴り声を聞いたとき、予想もしていなかった展開にタケヒロは戸惑うしかなかった。
 入ろうか、入るまいか悩んだのは、その声が明らかによく知った彼女のもので、それ以外には声、それどころか物音さえひとつもしなかったからである。けれども確かなのは、何か異常な事態に彼女が陥っているという事で、ならば放っておく訳には勿論いかない。その行為をどう思われるか、というところまで、タケヒロの頭は回らなかった。
 ドアノブに手を掛けると、スムーズにくるりと回った。中に敵がいてはまずいので、バタンと開けるよりもまず、そろそろと隙間を開けて、こっそりと中を覗き込んだ。
 焦燥と、無意識の背徳感と、襲いかかるような鼓動とで、タケヒロの頭は真っ白だった。
 相変わらず暗い部屋だった。レンジャーと、床に転がって眠っているらしいチリーン以外には、誰もいなかった。彼女が厳しい剣幕で何かまくし立てている相手は、電話の向こうだった。
 はっとして、タケヒロは目を見張った――感情を露わに声を荒げているレンジャーの目から、光るものが零れ落ちた。
「だから嫌だって言ってるでしょ! あたし、そんなことするためにポケモンレンジャーになったんじゃ――」
 言葉を止め、気配に、さっとレンジャーは振り返った。そして、そこに、唖然としてこちらを見ているかの少年の双眸を見つけたのだ。
 一瞬だった。けれども時間が止まったように、長い間をタケヒロは感じた。紅潮し目を潤ませ息まで弾ませている彼女と顔を合わせると、見てはいけなかった、という思いが、やっと少年の額を貫いた。
「……あっ」
 タケヒロが声を漏らした時には、事は終わっていた。赤く熱していた彼女の瞳は、冷やかな闇に満たされていた。頬を滑る涙を、拭おうともしなかったが、口調は急激に単調になった。
「……もういい。二度とこういう仕事を送らないで」
 受話器を叩くように置いて、ひとつ浅く息を吐いて。その目の暗い刃を、今度は玄関口の少年へと向ける。
「……何してんの?」
 一言で、ぎゅっと心臓が縮み上がった。
 タケヒロはもう少しだけ戸を開いて、結局後ろに回したプレゼントを握る手を、前に出すこともできなくなった。
「お、俺……あの……」
 言えず、顔も見れず、おどおどと視線を下げたタケヒロへ、レンジャーは鋭く目を細める。
「……出ていって」
 低く、威圧感のある声色であった。全部、全部否定された気がした。踵を返し、逃げるように駆け出すことしか、タケヒロにはできなかった。





「――ミソラぁ!」
 振り返った友人がこれまた怖い顔をしている。なんて厄日だ、とタケヒロはちょっとげんなりした。
「おい、ミソラ、大変だ」
「タケヒロ……」
「レンジャーの姉ちゃんが」
「僕も今大変なんだ。ごめん」
 淡々とそう告げて、タケヒロをかわしミソラは先へ向かおうとする。ちょっと待てよ話聞けって、とタケヒロはそれを追いかけた。
 二人が遭遇したのは中央通りから少し外れて、町の北西に位置する細径である。ちなみにミソラとタケヒロがいつも遊んでいるのはもっと町の南寄りのあたりで、なんでこんなとこにミソラがいるんだ、という疑問はともかくとして……その友人が両脇に抱えているポケモンの方に、タケヒロはまず気を取られざるをなかった。
「なんだよそれ」
「コジョフーだけど」
「いや、それは見りゃ分かるけど……」
 人の子に捕らえられた二匹のコジョフーは、時折尻尾や足は振っても特に抵抗する様子はない。
 普段なよなよしている癖に、やると決めたら意地を張り通す頑固な奴で、特にこういうちょっと一人前みたいな顔をしている時は面倒くさい、と今までの付き合いでタケヒロは心得てきていた。どうせまた、良からぬことを考えている。こうなるともう、自分の話をこいつは聞くまい。ミソラがあてにできないとなると、もうレンジャーの事を相談できる相手は一人しかいないが……と頭を掻きながら仰いだ遠方の空は、灰色の大きな建物に一部が阻害されている。それを見て、タケヒロはぎょっとした。ミソラの企みが一気に知れてしまったのだ。
「お、おい……」
 たじろぐようなタケヒロの声に、ミソラは振り向かない。ただその、ココウの町で一番巨大な建造物へと、ずんずんと進んでいくだけだ。
「やめとけって、それは、さすがに」
「どうしてさ」
「だって、お前」
 ざっと音を立ててミソラは立ち止まって、タケヒロも慌てて歩調を緩める。
 二人の前についに全貌を表したのは、高い石壁が円形にそびえたつ、周りの景色から明らかな異彩を放つ存在――ココウスタジアム。入り口上部に彫り抜かれた無骨な施設名の文字を見て、タケヒロは長くため息をついた。対してミソラはそれを見上げると、よしっ、と気合を入れて、コジョフーを担いだまま一人入り口へ向かっていくではないか。
「まともに戦ったことあんのかよ……」
「あるよ、僕だって」
「金が欲しいのか? だったらさ俺のピエロ芸手伝ってくれれば、投げ賃山分けしてやるし、何もポケモンを傷つけなくたって――」
「自分で稼がなきゃ、だめなんだ!」
 振り返ってミソラは叫んだ。白い頬には赤みが差し、瞳は若干震えている。その言葉と、昨日の昼の話と照らし合わせれば、どういう理由で金が要るのか、タケヒロにも容易に察しが付いた。
「いいのかよ、『指導』してもらわなくて。あいつに黙って来てるんだろ。リナを捕まえにいくときだって、『お師匠様に指導してもらわなくちゃ』なんて、よわっちいこと言ってた癖に」
 その言葉に、子供は唇を噛みしめる。
 何も言わずに背中を向けると、再びミソラは歩き出した。タケヒロはまだ何か言っていたが、ほとんど耳には届かなかった。
 むっとした暑さの外から比べると屋内はひんやりとしていて、煙草の煙の匂いがした。トレーナーベルトにボールを引っ提げた柄の悪そうな若者や、ポケモン達の喧嘩へ野次を飛ばしに来たらしい中年の男たちなんかが、堂々と入り込んできた『異物』へ怪訝とした目を向ける。それらの視線をものともせず、ずかずかとミソラは踏み入った。正面の受付で頬杖を付いていた汚い髪の女が、面白い物を見つけたように、意地悪く口角を上げた。
 ぐっと身を乗り出し、ミソラは声を張り上げる。
「僕も、試合に参加させてください!」






  
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